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 無料公開ガイドレクチャー(日本語版)

 

Pathwork Guide Lecture No.11    1996年版    1957年9月3日 

 

自己認識〜大いなる計画〜霊的世界

SELF-KNOWLEDGE -- THE GREAT PLAN -- THE SPIRIT WORLD 

 

 

  神とイエス・キリストの名の下にご挨拶します。友人の皆さんへ愛と祝福を。ここに来られたのが今夜初めてという方もいらっしゃるので、これまで私の教えを聞いて来られた方々や、他の教師の助けで神との道を歩まれて来られた方々にとって新しくないこともお話しするでしょう。それでも今夜、皆さんそれぞれが、特定の困難を乗り越えるインスピレーションや助けを見出せることでしょう。表面的な知的知識ではなく、深い理解、悟りに至るまで、同じことを繰り返し耳にする必要があることは多いのです。

人間ひとりひとりの心の奥深くには、幸せへのロンギング(憧憬)があります。では、幸せとは何でしょうか?尋ねる人によって答えは違うでしょう。霊的に成熟していない人は、少し考えてから、もしこの喜びやあの喜びがあれば、あるいは不安が解消されれば幸せになるだろうと答えるでしょう。言い換えれば、その人々にとっての幸せとは、何か願いが叶うことを意味します。しかし、そのような願いが例え叶ったとしても、この方々は幸せにはなりません。根深い不安を感じたり、言い表せない酷い後ろめたさを感じたりするでしょう。それは何故でしょうか?霊的に未成熟な人が、どれ程この間違った考えを確信しても、幸せは外側の状況や他者に左右されないからです。霊的に成熟した人達はこのことを知っています。自らに自身の幸せや不幸に対する責任があることを、成熟した人達は知っています。最初は自らの内側に、しかし後には必然的に、外の世界での幸せな人生を創る力が自身にあると知ります。霊的に未成熟な人達は、自らが創り出した訳ではない外側の状況が自らの願望に沿い、その願望が叶った時に幸せがついてくるのだから、幸せはまず外側の段階で創られなければならないと考えます。霊的に成熟した人は、これは全く逆なのだと知っています。

 

  多くの人は、この真実を知りたがりません。宿命や運命の不平等さ、高次の力、 又は他者からもたらされた状況のせいにしたり、誰かを非難したりする方が容易いのです。被害者のように感じる方が簡単なのです。そうすれば、その人々は、時に自らの内深を探求したり、最大限の正直さを持って探求したりせずに済むのです。しかしながら、大いなる真実では、私達自身の手の内に幸せはあります。

  

  幸せを見つける力はあなたの内側にあります。皆さんは、「何をしなければいけないのでしょう?」と尋ねるでしょう。まずは、霊的に成熟した意識において、幸せがどんな意味を持つのかを見ていきましょう。幸せとは単純に、神です。神を探すことが、幸せを見つけられる、唯一の方法です。そしてそれは、たった今、ここで、見つけることができます。「どうやって?」と、あなたは聞くでしょう。友人達よ、人は大抵、神を遠く外側の到達不可能な宇宙の果てにいると想像します。これは真実からかけ離れています。全宇宙が、皆さんそれぞれの内側にあります。ですから、神は皆さんそれぞれの内側にいます。生きているもの全てに、神の一部が宿っています。あなたの内にある、この聖なる領域に達する唯一の方法は、自らを成長させる小さく狭い道を行くことです。目標は、完全であること。そのための基本は、自らを知ることです!

 

  自らを知るのは、確かに難しいことです。自らを知ることとは、あからさまな性格が持つ、多くの特性と向き合うことを意味します。つまり、長く連続的で、実は終わりのない探究です。「私は何者なのか?はっきりした行為や考えだけでなく、私の反応は本当の所、何を意味しているのか?私の行動は、自らの真の感情に沿ったものだろうか?それとも、その行動の裏には、自分で信じたいことや、他者に信じてもらいたいと思うこととは異なる動機があるのだろうか?自分自身に対して、今までの所、正直だっただろうか?私の過ちは何だろうか?」

  皆さんの中には自らの弱点を知る人達はいますが、殆どの人が、そのかなりの部分を無視しています。これは、この成長の道において、ある高さまで到達している人達にすら、大きな障害物として現れます。知らないものを乗り越えることは出来ません。どの欠点も、あなたを縛る鎖以外の何物でもありません。この不完全さひとつひとつに光をあてることで鎖を切り、より自由になり、幸せへと近づくのです。幸せは、それぞれ個人の為に存在しますが、不幸の原因、つまりは自らの欠点や、霊的法則を破ろうとする性質を取り除く以外に、その幸せを手に入れることはできません。例え、前生のカルマがあったとしても、自らを見つける為、すなわち神を見つける為に霊的なワークをすることで、それを解消することができます。

  

  そうしたことを経験しながら、病気、心配事、または死すら無い、完全な幸せを手にすることも可能でしょう。そうです、友人たちよ。死ですら、ということです!これは理論に過ぎませんが、もし人々が本当に完璧であり、もしこのような完全性に到達すれば、転生は不要となります。あなたがスピリットの世界へ戻るのは、衰え、高齢、病気、事故によることはなくなります。非物質化のようなものになるでしょう。例え、このことを考える為に十分な所まで至っていなかったとしても、皆さんお一人おひとり、自ら可能だと考える以上にずっと早く、この目標に到達することができます。そして当分の間は、自らの人生や問題を見直すことで、この道で自分がどれだけ進化しているかを見つけられます。どの位、自分は幸せなのか?人生で欠けているものは何なのか?人生に不幸や不満がある限り、あなたは自らの潜在能力を満たしていません。

  

  自らを真に満たす人達は、外側における結果が直ぐに気づけないものだとしても、過去の燃えかすが外側に現象化したものであったとしても、内側では深く平和な幸福感、安全、充足感があるでしょう。もしこの感覚が欠けているのならば、あなたは完全に正しい道にいないか、この道での当初の困難を乗り越えた後に経験する筈の解放には到達していないという事です。あなたが何処にいるのかは、あなたにしか分かりません。他の誰かがこの問いに答えることは出来ず、また、答える必要もありません。しかし、正しい道にいれば、人生に未だ外的な問題があったとしても、そのことで落胆することはなく、深い幸福感や充足感があります。あなたが現段階で取り組んでいるかもしれない内的葛藤が、外側に顕現した形については、内側程に早く解決するできる訳ではありません。

  

  皆さんが長い間破り続けている霊的法則の影響は再調整される必要があり、それには時間がかかります。外側の形を再び形作り、創り直さねばなりません。自ら、これをもたらさねばなりません。あなたが正しいチャネルに向くよう内側の電流を誘導すればする程、外側の形はひとつひとつ徐々に、しかし確実に変わっていくでしょう。このプロセスが完全に達成されるまでは、外的問題は自動的に解消しません。気の短さは妨げにしかなりません。正しい道を進んでいれば、日常の中で、神の世界の偉大なる現実に生き、それを感じていることでしょう。あなたやあなたの周りに働きかける神の霊的世界によって常に支えられ、助けられ、導かれます。神の霊的世界は、あなた方人間の周りにあるものに勝るとも劣らない程、しかしながら確固としたものとなっていくでしょう。それは最早、理論ではなくなり、単なる知的な知識でもなくなります。あなたはその世界で生き、あなた自身へのその影響を感じます。

  

  個人を助けるのと同様、人類全体を助ける為に、神の霊的世界は常に働いています。神の霊的世界には満たすべき任務があり、非常に明確な法則の下にあることは、大いなる計画の一部です。この法則は、神の秩序に属さない人間やスピリット達によって、絶えず侵されます。様々な法則の中、個人の自由意志は決して侵されてはならないという約定が含まれています。従って、神の霊的世界は常に、人々やスピリットが助けを求めるて手を差し伸べるのを待っていますが、霊的な助けを押し付けることは決してありません。

  言い方を変えれば、助けが与えられる前に、人はまず神の助けを願い、必要な前提条件を満たす必要があります。繰り返しになりますが、これが為されなければ、この法則によって、非常に特別な場合にしかスピリットは干渉できません。今はこの説明は複雑過ぎますが、例外はあり得ません。時に、助けに手を伸ばすことなく神の世界の助けによる干渉は起こり得ますが、その

ような助けは、おそらく前生で、あるいは今生であっても全く別の領域で獲得されていた場合に限られます。

  

  秩序の世界である、神の世界のスピリット達には明確な任務があります。多くのスピリット達の任務は、人間に関係しています。人は神の世界や神の霊との接触を求めることが望ましいのです。何故なら、それらスピリットのみが、あなたを助け、適切な道へと導いてくれるからです。人は、高次の存在の助けを借りずに、自らこの道を見つけたと思っている場合があります。この道は高次の存在の助けなしに、自分が自ら進んで見つけたのだと考える場合があります。そうではありません。それを知っていてもいなくても、スピリット達からの導きやインスピレーションはあったに違いないのです。

  

  しかし、神の世界に属さない他のスピリット達と接触しようとするのは大変危険です。害は多岐に及びます。霊的に有害なだけでなく、物理的にも有害です。人間は、全く相反する極端なふたつの結論に行き着きがちで、そのどちらもが等しく間違っています。ある人々は、どんなスピリットであれ、接点を探すことが役に立つと考えます。別の人々は、スピリットとのいかなる接点も間違っている、と反応します。残念ながら、人々の摂理は正しい分別をつける代わりに、全てを一般化しようとします。

  

  神の霊的世界との接触は通常、簡単に得られるものではありません。それは最高次の葛藤であることから、簡単であってはならないのです。確かに、そのような接触の恩恵を受け取るには、皆さんは多くを学ばねばなりません。第一に、自己成長と浄化の最も急な坂道を登らねばなりません。また、神のスピリットの世界とのコミュニケーションを支配する特別な法則も学ばねばなりません。これらの法則は、汚れている、あるいは単に盲目で何も分かっていないスピリットの法則とは非常に異なっています。スピリットが本当に神の世界に属しているのか、あるいは只そのように装っているだけなのか、スピリットを試す方法は沢山あります。

  

  この話題について、私が知っている全てを皆さんにお伝えするのは不可能でしょう。しかし、とても簡単な概要をお伝えしておこうと思います。これらのチャネルを神の世界との接触の為だけに使うとあなたが望めば常に、あなたが必要とする知識やガイダンスがもたらされるでしょう。

  

  試す方法のひとつは、神の世界のスピリット達は、自らの慢心を満たすことを目的にしないということです。彼らは自らへの賞賛を要求しません。彼らは慎ましい召使いで、常に神に敬意を払います。自らを超えるものが常にいることから、自分が最高位だと口にすることはありません。最高位は神です。自分より上に助言を求める存在はいない、自分は全てに対して権威があり、より上位のスピリットへの相談なしに決定できる、というような、すごい力の主張をするものはどれも、神のスピリットではないことの証拠に十分です。神のスピリットがあなたに話しかける時はいつでも、沢山のグラデーション、つまりは沢山の階級があることを教えてくれるでしょう。これらは全て、イエス・キリストのスピリットであり、またイエス・キリストの上には神が存在します。従って、完全なる権威を持っていると主張をするスピリットは、どのようなものも信用に値しません。更に、神の世界のスピリットは忍耐や愛によって認識されます。時に、更なる霊的成長を助ける為に喜ばしくないことを言わねばならない場合でも、決して喜ばしくない方法で辱めたり傷つけたりすることはない一方、お世辞も言いません。

  

  こうした方法、その他の様々なテストで、関わっているスピリットの正体を認識することはできるし、そのように試すべきです。スピリット自身の美しく敬虔な言葉ですら、証拠にはなりません。スピリットの多くは、あの世で続けている人生からある種の特質を持って来ているかもしれません。しかし何らかの理由で、神の世界の秩序には属していないからです。

  

  神のスピリットの世界と接触した時には、大いなる祝福があります。神のスピリット達は、私が話した幸せを皆さんそれぞれが見つけるのを助けようと心がけます。ですから、皆さんの誰ひとりとして、空虚な人生を送ったり、霊的成長によってのみ訪れる愛・愛着・尊敬が欠如したりすることはありません。これが、このような接触の唯一の目的です。他のものは全て二次的なものです。

  

  もし、他の目的を価値ある接触への理由と思ったら、接触したいと主張せずに、神に任せてみてください。もし神が、他の目的も達成されることが有用であると認めれば、それは副次的なものとして、あなたが想像するよりも効率的に接触は為されるでしょう。あなたは、欲しいものをそのままに手に入れます。もしあなたが幸せを望み、そしてその為の代償を払うことを望むのであれば、その幸せを必ず受け取ります。同様に、もし人が心から神の真実と神の意志の成就のみを心から望めば、それを受け取るでしょう。つまり、願いの中にこそ結果は含まれているのです。

  

  大抵、結果はすぐには訪れません。ことによると、神のスピリットは直ぐに自らを現象化できないかもしれません。それには、まず取り除くべき障害物が必ず沢山あるからです。この間に、そのようなコミュニケーションに値するのかどうか、皆さんは試されます。もし未浄化の、又は苦しんでいる魂が霊能者への道を見つけたのであれば、その目的は、そのような魂に制御を任せることにはなく、教示することにあるべきです。そのようなスピリットは強硬手段をもって助ける必要があります。それは、そのスピリットが盲目状態で想像するような方法ではなく、彼らを霊的な道に乗せる為の方法です。皆さんが神のスピリットとの接点を探す時には、簡単に諦めるべきではなく、謙虚に、困難であっても励むべきです。汚れのない綺麗なスピリット達が現象化することを妨げる、あなたの内にある何かを探してください。

  

  神のスピリットの世界との接触は常に、あなたが手に入れることができる内の最高次で最も美しい、そして最も役に立つものです。その為には、代償は支払われねばなりません。家を買うときの値段は、掘っ立て小屋を買うときよりも高くなります。皆さんは、そのことを当然として受け入れており、それ以外はあり得ないことも受け入れています。しかし、霊的成長や、霊的価値に関してとなると、この原則を受け入れることはそう簡単ではありません。しかし、霊的な勝ちに関しては、与えるものが何であれ返されるものは100倍です。一方、物質世界の物品においては、良くても全くの等価交換です。

  

  救済は一人ひとり個人の手の内にあります。あなた方ご自身だけが、自分を繋ぎ止めている鎖を立ち切ることが出来ますが、まず何より先に、あなたの心からの願いを大きく育てねばなりません。そうすれば、神のスピリットたちがあなたをさらに助けてくれるでしょう。

  それでは、皆さんの質問に時間を使っていきましょう。

  質問:分からないことがあります。あなたは、私たちが神の精神世界と接触するべきで、その他のスピリットは私たちにとって霊的に、時として物理的にも害があると仰りました。でも全ては神の世界です。私には理解出来ません。

​  

  回答:素晴らしい法則に則った神の偉大なる創造があり、そこには神が作った全てのスピリットが含まれ、誰もが神が与えた自由意志を持っています。こうしたスピリットの大多数は、自主的に神の法則や秩序を受け入れ、それ故に幸せなままでした。その他大多数のスピリットは、もちろん自主的にですが、この秩序を破り、その行動によって、彼らは自らにとっての不幸と不調和を作り出しました。幸せとは、神の法則の叡智の中でしか存在できないからです。一度ないしそれ以上、この法則は破られていながらも、この法則は彼ら自身の道に戻るための唯一の叡智であり、唯一の正しい道なのです。それに未だ気がついていないスピリットは全て、この秩序の外側に自主的に立っています。同じく自主的に、彼らはその法則を受け入れることもできます。そして、いつかは受け入れるでしょう。しかし、それが彼ら自身の決断と信念によって起きない限り、彼らは神の世界の外側に居続けことになります。

  

  神はどんな存在にも強制しません。つまり、個々の自由意志による選択がされなければならないのです。最終的には、それが神の法則の美しさ、完全性であり、神の子はひとりとして例外なく戻ります。戻るというのは、悟りや叡智へ戻ること、聖なる法則の中でのみ見つけることが出来る幸せや自由へ戻るということです。

  

  神の秩序を切望するもの、その外側にいるもの、それらスピリットとほぼ同じ数の人間がこのふたつの分類に当てはまります。前者は、救済の偉大なる計画を助け、動き、協力しているかもしれません。このグループの存在達は霊的努力を通して、自らの内に未だ法則からはみ出ている無意識の部分を見出します。反面、神の法則を受け入れず、自らの非常に不完全な法則に従うことを望み、自らの周りや内側に、混沌を作り出す者も多くいます。

  質問:どうしたら、個人的なガイドと接触が可能になるのかお尋ねしたいです。

 

​  回答:完全性への道に向かう為、自らの成長を助ける為、特定の問題を解決することが目的の場合には可能です。この望みは、いい加減な気持ちではなく、非常に強く、偽りのないものでなければなりません!こういった目的こそが、興味本位や好奇心といった感覚が一切混ざらない望みが、本当に唯一の理由であらねばなりません。この望みが神のスピリットによって認識されると、その望みを直ぐに諦めないかを見る為に、忍耐と我慢が必要となるかなりのテストを受けたとしても、その接触は確立されるでしょう。質問にあった、それぞれの個人的なガイドは、質問にあった個人的なガイドは、他に方法がなければ、他の人間を通して自らの存在を知らせます。神のスピリットは、皆さんの世界で答えを得られる質問には答えないからです。彼らの仕事は、答えを見つける為の僅かな努力をせずに済ませることではありません。彼らは人間のチャネルを通して見つけることが不可能な質問にのみ答えます。

  

  こうした条件が全て満たされれば、そのうち何らかの方法で接触は確立します。個人のガイドが答える、また喜んで答えてくれる質問は沢山あります。例えば、何か特定の状況で神の御意志が分からない時、無意識の癖や感情を発見したい時、あるいはパートナーとの不調和の中にいると気がつきながらも理由が分からない時などです。こうした状況では、相手がどれ程凶悪で間違っていたとしても、自らの内側に責任を取るべき何かがあることは分かっていることでしょう。真実への扉を開くのであれば、この質問やこれに似た質問の答えは得られます。どのような状況であっても、それが一番聞きたくないことを聞くべき状況であったとしても、真実を受け入れる準備ができている場合にのみ、そのような接触は起こります。

  

  あまり好意的ではない、又は心地の良くない真実を聞くことへの自然な抵抗を乗り越えれば、あなたの扉は開き、私達は通ることが出来ます。聞くのを恐れていた内容を聞いたとしても、接触を確立した後は非常に幸せになることを、ここで付け加えておきます。真実には常にそうした効果があるからという理由でなく、この方法であなたは、法則に則ったスピリットの世界が、理論ではなく現実であると初めて知るからです。このことは、あなたを本当にとても幸せにします。

  

  答えの受け取り方は、様々に異なります。瞑想の間、静止して真実と神の意志のみを求め質問すれば、新しい考えが突然入ってくるかもしれません。この考えは膨らみ、また、膨らめば膨らむほど、その正しさを理解するでしょう。どの角度から考慮しても、その正しさや真実には疑いの余地がありません。これはやり方のひとつで、インスピレーションの方法と呼ばれます。後に、自らの通常の思考やアイデアとはかなり異なった、新しい内なる声を直接受け取るかもしれません。もしくは、絵という形で、答えをもたらす何かを見るかもしれません。こうした答えはよく大抵、ヒントを得た別の人間を通して、少し後にからもたらされます。こうした種類の答えは、あなたがどう受け取り、どう反応するのかを見るテストの場合もあるということです。神の精神世界は、皆さんへの働きかけ方、必要な知識を見せる手段を沢山持っています。

  

  しかし、接触を確立するのは常にあなた次第です。その為に、開いていることが常に求められます。そうすれば受け取るでしょう。もしあなたが、特定の答えしか受け入れない姿勢でいたり、特定の方法で答えを受け取ると心を決めていたりせず、忍耐強く、それが訪れることを神に委ねていれば、次第に完全で素晴らしい接触が確立されることでしょう。もしかすると、想像していたものとはかなり異なる感じがするかもしれませんが、神が決めたことは何であれ、最終的にはあなたにとって最善のものとなるでしょう。ですから、そのような個人的な接触を求める時には、上記のことがあなたの動機であるべきで、また、そうあるべき方法なのです。

  質問:内なる神聖なるものと、話をする為にやってくるマスター、例えば、この霊媒を通して話すあなたや、私に話してくるマスター達は、どのような関係なのでしょうか?私自身の神聖なる自己とこの霊媒の神聖なる自己は、どのようにこのマスター達と関わっているのでしょう?

  

  回答:あなたが言ったような神聖なる閃き、あるいは神聖なる自己と、神のスピリットの世界の存在達との違いについて、まずは一般的にお答えしましょう。確かに多くの人々にとって、話しかけて来ているものが常に明確な訳ではありません。その名前が何であれ、潜在意識、超意識、聖なる輝き、あるいはハイアーセルフなのか、それとも別の存在なのか?この質問に答えるのは容易ではないし、違いをはっきり説明することはさらに困難です。できる限り明確にしたいと思います。

  

  まず、潜在意識から始めましょう。潜在意識の声は、答えるのがとても早く、はっきりしていて、大抵大きな声です。それが潜在意識なのか、それともその他ふたつの内のどれかを見分ける唯一の方法は、じっとして、神の世界と接触することの質問への回答の内でお勧めしたことをそのままやることです。もし、私の答えで言及した条件が全て満たされれば、神の真実と意志がやって来るでしょう。それが自らの聖なる自己を通してなのか、神の世界に属する存在を通してなのかは問題ではありません。どちらもが霊的法則によって受け入れられ、神の意志を満たしているからです。もし神の意志を満たす望みが、単なるお願い事や恐れ以上の何かであるならば、答えは与えられるでしょう。その真実に対する望みが、自己陶酔、お願い事、不安等より、偉大なものであるかどうかは、 当の本人のみが明確にできることです。客観的な自己分析と自己テストを通して、このことを確かめる必要があります。自惚れや、他者に賞賛されたい欲望は、霊的な道における最大のつまずきとなり、邪魔になります。

  

  このお試しに合格し、抵抗を乗り越えれば、自分から自分、もしくは守護霊、皆さんが「主」と呼ばれる方から答えが与えられます。答えは、非常に小さく穏やかな声で、押し付けがましくなくやってきます。その声は叫びません。静かで、その裏には強制が一切なく殆ど非個人的な声で、潜在意識からの声とは対照的です。

 

  潜在意識の声は、あなたが質問で言及されていた他のふたつの意識と間違われる為、この質問を先に片付けておく必要がありました。

それでは、あなたの質問にあった、ハイアーセルフと神のスピリットの存在の違いについて目を向けていきましょう。声が誰から来るのかということは、あまり違いがありません。先程述べたように、両方が同じものを求めているからですが、技術的には興味深い点と言えるでしょう。ハイアーセルフは確かに自己を現象化します。しかし、多数の不完全性の層や、高密度な層、地球での人生で必要とされる全ての歪みがある為、常に明瞭に現象化出来る訳ではありません。こうした層がなければ、地球での人生は不必要なものとなってしまいます。もしハイアーセルフが他の全てのものと同じように簡単に現象化できれば、あなた方は何度も繰り返し生きなくても良くなります。つまり、更なる受胎を経験しなくても良い程、十分に進化していることになります。しかしながら、過ちや不完全さがあれば、どんな場合もハイアーセルフは塞がれます。そしてそれこそが、神が助けの使いを送った理由です。助けの使い達は、あなた方自身のハイアーセルフがまだ助けられない、あなた方のブロックに取り組むのを助ける能力があるからです。

  

  更に、あなた方自身のハイアーセルフの声は、とても遠く、穏やかで、あまり多くの言葉で明確に話しかけず、時には理解し難くもありますが、皆さんが「良心」と呼ぶものに、注意深く耳を傾けるよう導きながら、シンプルに働きかけます。このように、ハイアーセルフは、ローアセルフと闘うよう、あなたに影響を与えることも出来るのです。もし、ハイアーセルフに耳が傾けられれば、人生の道筋の中で、何らかの行動や反応を通して自らの存在を表すこともできますが、スピリットがするようなやり方であなたと会話することは出来ません。

  

  例えば、霊媒の場合、霊媒のハイアーセルフは質問に答えたり、1時間もの間レクチャーしたりすることに、自らを現象化することはできません。もし、これが可能であるとすれば、この霊媒は、未来に転生が必要なくなる程の高度な発達を遂げることでしょう。これがハイアーセルフとの単なる接触で成し遂げられたとするならば、人生のどのような状況下でも、ハイアーセルフを常に表面に置いておくことも同じだけ簡単である筈です。この霊媒自身の霊体が少しの間離れ、他のスピリットに場所を与える方が、それよりも簡単なのです。もし神の世界のスピリットがその存在自体を現象化させようとするならば、このことすら十分に難しいのです。この1時間の為に、障害となるブロックを十分に浄化しておかなくてはなりません。

  

  言い方を変えると、ハイアーセルフはある特定の範囲で行動し導きますが、一貫した話し方では話しません。ハイアーセルフは考えに閃きや刺激を与えますが、この霊媒を通して私が話すような方法では話しません。ハイアーセルフは聞かれることに適した方法では話さない、ということです。明確になりましたか?

  

  質問:はい。

  

  答え:あなたが私にお尋ねになった個人的な質問についてですが、友よ、あなたがそう望むなら、また別の晩に極少人数の友人と来て、もう少し個人的な話し方でお答えするのが良いでしょう。

質問:ありがとうございます。

  質問:他者と不調和になった場合、それは必然的に自分に過ちがある、と仰ったかと思うのですが。

  

  回答:そうは言っていません。実際の不調和の存在は、必ずしも誰かひとりから引き起こされた結果である必要はありません。しかし、もしあなたが不調和に影響されるのであれば、あなたの中に不完全な部分があります。

  

  質問:しかし、どうやったらそのことが分かるのですか?

  

  回答:例えば、この道をたどって、自分の魂の隅々や反応を知り、自分自身を知ることからも答えが見つからなければ、あなたの友であるスピリットに助けを求めることもできます。答えはすぐに見つかるとは限りません。不調和の原因が表面にあるとは限りません。もっと深いところに埋もれているかもしれない。その根源は、全体の連鎖反応の中で、ある欠点が別の欠点へと連鎖し、ついには他者の同じような欠点によって顕現が外側に表面化します。

  

  例えば、あなたの友であるスピリットに助けを求めることで、もしあなたがこの道をたどること、つまり、あなた自身の魂のひとつひとつの側面、あなたの反応を知ることで、答えを見つけることが出来なかったとしたら。答えはすぐに見つかるとは限りません。不調和の原因は必ずしも表面上にあるとは限りません。さらに深く埋められているかもしれません。その根源は、もしかすると連鎖反応の全体の中、別の過ちを引き起こすある過ちかもしれず、最終的に外側に現象化されるまで、他の人の過ちによっても引き起こされます。

  

  この道をあなたが続ければ、自分自身への正直さが後天的な習慣となり、それによってあなたは自らの過去と現在の内なる動機について、完全に理解するでしょう。あなたの感情、至らない所、そして間違った態度の全てを知った時、それらを以って外側に起きていること全てを、この連鎖反応を追跡することで見つけられます。

  

  不調和の直接の原因は、全体的にしろ部分的にしろ他者にあるかもしれません。しかし、あなたがこの道にいるのであれば、いつどのような喜ばしくないことが内側や外側で起ころうとも、原因あっての結果でしかないと理解することはとても重要です。従って、出来るだけ直ぐに時間を見つけて瞑想し、直接的に、もしくは間接的に、自分の内側の何がこれを引き起こしたのか自分に尋ねてみるべきです。このことと関係がありそうな不完全性は何なのか?もしあなたが本当にこの特定の真実を見つければ、もしそれから尻込みするものがあなたの内側に何もなければ、答えは見つかるでしょう。このことは、お約束できます。これは、神のスピリットがあなたを助け、接触するひとつの事例です。 真実への願いが、表面だけでなく心から偽りのないものであれば、 思考はゆっくりと導かれます。

  

  これはとても大切な点です。しばしば、人間はこの道にいたいと考えますが、存在の全体は同意していません。この願いに気乗りしていない本質にまずは気がつくことが大切で、つまり、できることは全てやったけれども、結果がまだ目に見えないと自らに信じ込ませる方向に仕向けないように、まずはその人全体の同意を勝ち得なければなりません。そのような場合には、自分の内側に、発見するべき最後の段階を登ることへの強い抵抗があるかを確かめ、ローアセルフを含めたあなたの内にある真実の全体を明らかにするべきです。

  

  質問:正直さでさえ、とても難しいです。

  

  回答:勿論、正直さは難しいです。

  

  質問:時々、自分は正直だと思いますが、更に深く深く見ていくと、何か別のものがそこにあることに気がつきます。

  

  回答:その道は急で、細く、そして長いのです。あなた自身の意志が、あなたが勝ち得るかどうかを決めます。しかし、正直であることの難しさは、何故こんなにも自分に正直であることが難しいのかを自らに問う正しい瞑想をすることで、まずは乗り越えられます。この質問を自らに尋ねれば、その答えを自らに与えることができます。もし「何故」があなたの中にあるならば、その問題に対して瞑想しやすくなります。かなり一般的に話しますが、答えは大抵、気が付きたくない点や、弱さを手放したくない点にあります。ある人は、間違った内側の反応や態度を崩したくありません。ある人は、代償を払いたくありません。ローアセルフは、変わることよりむしろ、耐える為に同じ古い穴に留まりたがります。このことを認識したら、次の段階は楽になります。 あなた方がこれまで学んできた霊的真実を用いることで、 自分のエゴや自惚れ、またはそれ以外の何であったとしても、それを脇に置いておくことを好んでいないという認識が、ローアセルフの怠惰に対処するのを可能にしてくれます。

  

  なぜローアセルフの抵抗というような困難があるのか分かってしまえば、あなたが思っているより大きな成果を獲得したことになります。上辺だけの間違いを行動のみで乗り越えるよりも、この内側の抵抗を見つけ出し、順序立てて扱う方が良いのです。根元は根強く残る為に、得られるものはないからです。悪は根元から切り離されていない限り、特定の状況下で何度も繰り返し現れます。このような場合における外的に正しい行動は、実は嘘になります。

 

  従って、内側の本質に支えられずに行動化するより、外側で繰り返し間違いを犯す方が良いのです。それが、認識され、瞑想で扱われるのであれば。このような場合、内側に答えを見つけられれば、素晴らしい勝利、安心感、開放感、平和や真実の感覚を経験することができ、そのようにして、あなたは神に一歩近づくでしょう。分かりましたか?

  

  質問:はい、分かりました。

  

  質問:子供の頃の記憶が残っているのですが、組織化された教会には神父がいて、私が神父に「これは良いですか?」「これは罪になりますか?」と聞くと、彼らはいつも「あなた自身が答えをよく知っている。」と答えていました。このような神父たちも又、インスピレーションを受けているのでしょうか?

  

  回答:勿論です。本当に望めば、人はたくさんの答えを自ら見つけることが出来ます。しかし、個人的成長、自己認識、自らの欠点に関する答えとは別に、知識を外から得ることも必要です。例えば、霊的法則や、ある欠点を乗り越える方法についての知識を得て、浄化を成し遂げる為の助けを見つけることです。このような知識が外側から与えられなければ、正しい答えを見つけ、次にどうすれば良いのかを知ることは殆ど不可能です。外側から知識を得れば得る程、その人は自らに、内側からのより多くの正しい答えを与えることが出来ます。

  

  質問:あなたは、瞑想が何かとても簡単なもののようにお話しになります。

  

  回答:いいえ、簡単ではありませんが、習得することは出来ます。意志のあるところに、道はあります。その困難が何であれ、私の役目は、その困難の克服を助けることです。

  

  質問:どうして偉大な者たち、科学者や芸術家、つまりは歴史上の優れた天才たちは、だれも霊媒を通して顕現しないのでしょう?彼らは、正しい器でありながら、霊媒ではない人々と直接接触することで顕現しているのでしょうか?

  

  回答:この質問に一般的に答えることは不可能です。似たような才能を持つ人々を刺激するという霊界の任務を持った人たちは沢山います。彼らが霊媒を通して顕現することが滅多にないことにはとても良い理由があり、又、そのようなことを言う霊媒、もしくは霊媒を通して言われることは真実ではありません。

  

  神の霊界はこのような接触を望んでいません。何故なら、それぞれの霊媒や特定のグループに属する人々が、自らを重要視し優越感に浸るような誘惑になるからです。そうあってはならないのです。更に、例えばゲーテが、霊能者を通して話したとしたら、 神の秩序のスピリット以上の意味は持ちません。しかし、ゲーテがここで話す必要があるとしたら、ゲーテは霊媒に「ゲーテは私を通して話します」と言う機会を与えます。他の人たちは感心し、もしかするとゲーテを持たない人たちのことを見下すでしょう。神の霊的世界はこれを避けたいのです。なので、このようなことが起きる時には常に、とてもとても慎重に扱われます。更に、偉大な天才たちの全員が全員、彼らの持つ才能ほど霊的な成長が進んでいる訳ではありません。霊的世界での彼らの運命は、他の人たちのそれと、何ら変わりないかもしれません。なので、一般的に説明することは出来ません。

  

  再度生まれ変わる天才もいます。浄化の領域の霊的世界に住む者もいます。そこで学校に行く者もいます。次の人生の為の準備をする者もいます。自らの持つ才能と繋がって、満たすべき霊的世界でのタスクを持っている者もいれば、他の何かを完璧にしなければならない者もいます。そして、既に完全性の高い領域に到達している者もいるかもしれません。

  

  今日はここで終わりにしましょう。皆さんお一人お一人に申し上げます。誰ひとりとして孤独に感じることはありません。心から、神は皆さんひとりひとりを愛しておられます。神の愛は皆さん全員と共にあります。平和の内に、この道を歩き続けてください。これは幸せをもたらすことでしょう。私の友人たち全員に、神の祝福がありますように。

 

 

 

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PGLNo11
PGLNo13

Pathwork Guide Lecture No.13   1996年版   1957年9月27日

 

ポジティブシンキング:正しいやり方と間違ったやり方

POSITIVE THINKING: THE RIGHT AND THE WRONG KIND 

 

 

  神の名において、皆さんにご挨拶申し上げ、祝福を贈ります。神、絶対的真理、スピリットの世界とコンタクトを始めると、夢見ている驚くべき「証拠」を直接受け取ることで、その体験が確固たるものになると信じている人が沢山います。しかし、皆さん、そのようなことは起こりません。皆さんは、その証拠によって不安を取り除くことができると思うからこそ、この種の証拠を望みます。疑いそのものは、全く無理もないことです。しかしながら、皆さんが望む証拠のようなもので疑いを消し去ることは決してできません。

  

  疑いは確信の反対です。皆さん、確信とは、皆さんがおそらく現在疑っているもの以外の何ものでもありません。それは、内なる体験です。内なる体験は外部の出来事によって発生することはありません。私達はここで、全く異なるふたつの意識レベルを扱います。内なる何かを成し遂げる為には、内面の障害や困難、つまり真の意味での確信への道にある全てのものを見つけ出し克服し、外側だけではなく内面の状態も整えることが不可欠です。

  

  最初に内面の障害を取り除くことなく、望みの証拠を受け取ったとします。その時、皆さんはきっと衝撃を受けるでしょう。「確かに不思議だ。素晴らしい。びっくりした。」と言うかもしれません。ところが、初めに受けた衝撃が消え去ると、内なる疑いが再び現れます。皆さんは自分自身に言い聞かせるでしょう。「おそらく霊媒は知っていたのだろう」あるいは「全て偶然だった。」と。外部で起こったことが内部で実体化されないと、最大級の外部からの影響はしばらくすると消えざるを得ないことに気づきます。何故なら。このふたつの意識レベルが互いに取って代わることは決してないからです。このふたつの意識レベルは、内面をしっかりと成長させることでしか統合できません。絶対的真理の体験とは生命体のようなものです。大事に育て、慈しみ、成長させることが必要です。奇跡のような外部の出来事によってもたらされることはあり得ないのです。

  

  身体は少しずつ徐々にですが確実に成長します。成長が緩やかに進行し、どのように新たな段階に達したかを認識するまで、成長中そのことに気づくことは殆どありません。全ての物理的な成長はゆっくりであり、そのプロセスは、霊的成長や感情的成長と異なるものではありません。近道が永続的な効果をもたらすことはなく、それは常に茶番です。緩やかな成長への努力を排除する近道や他の唐突な手段は、闇の力の法則によるものです。近道はとても効果的で迅速ですが、決して長続きしません。一方、ゆっくりとした成長や発達は神の法則に従うものなので、最終的には成功によって有終の美を飾るでしょう。

  

  どんなに驚くべきものであっても、たった一度の体験で、ここでお話しするような確信に到達することはできないと心に留めておくことは皆さん全員とって非常に重要です。むしろ、霊的ワークをすること、この完全への道を歩むこと、ありのままの自分を知ること、内面の葛藤を理解し、感情的反応に過ぎなかったとしても、どのように霊的法則を破ってしまったかを見つけ出すことによって、皆さんは確信を得るでしょう。一歩ずつ、皆さんが内面の鎖から自己を解放していくにつれて、疑いは少しずつ減っていきます。疑いは不意に消えてなくなることはありませんが、完全に消失するまで、徐々に弱くなり徐々に現れる回数が減っていくでしょう。皆さん、これが唯一の方法なのです。

  

  お話ししたように、これが神聖なるプロセス全てにおける法則です。実体のある永続的なものは、それぞれが最大限の努力をすることで少しずつゆっくりと成長します。プロセスが展開している時には、自分自身と自らの確信、絶対的存在における体験とそれに対する感覚が、どれほど成長したかに気付くことさえないかもしれません。

  

  この事実を知る必要があるのは、この道の初心者、あるいはこれから始めようとしている人たちだけではありません。既に内面的な成長を遂げつつある人たちでさえ、時折、頻度も影響も少ないとはいえ、元来の疑念に襲われることがあります。このような避けられない疑念が現れる時の為に、それと出会う時にどうしたら良いのか、皆さんに簡単なアドバイスをしておきます。

  

  皆さんの殆どは、人間の魂の内にふたつのパワーがあることをご存知です。ハイヤーセルフ、又は神聖なる輝きは、皆さんが向上しようとする努力の部分です。それは、全ての分離した部分の完全なる統合と、全人類の完成を望むあなたの一部です。ハイヤーセルフは、皆さんの意識が疑っている大いなる真理を知っており、その知識を皆さんの意識に届けたいと思っています。もうひとつはローアセルフです。ローアセルフは欠点や弱点だけでなく、無知や、神聖なる法則を意識的にもしくは無意識的に破る他のあらゆる態度からも成り立っています。ローアセルフは、霊的世界の確実性を恐れます。何故なら、知っていることは責任も意味するからです。実際に達成し難い、ローアセルフに打ち勝つ義務から解放されるが為に、ローアセルフの中にいる皆さんは、むしろ無知のままでいることを好みます。しかし、皆さんは不確かな霊的現実の真理に対し、切望も抱いています。何故なら、達成は難しくとも、真理は永遠の幸福と至福を意味するからです。ところが、恐れを抱く利己的なローアセルフは、失望しないで済むよう、真理を求める部分に疑いを生じさせるよう試みます。

  

  そのため、ハイヤーセルフとローアセルフは互いに戦います。内面の不調和が生じる度に、このふたつの本質が争っているのです。疑いが再燃するときは常にロウアーセルフが話しかけています。疑いが去った時には、ハイヤーセルフが話しかけています。神、神の素晴らしい創造物、神の霊的世界においてはあらゆることが可能であり、不幸は存在し得ない究極の真理だということが分かります。一方、ローアセルフが優勢になると、最終的には、疑い、落胆、絶望が真理かもしれないと思います。さて、ここで皆さんへの問いです。どちら側が正しいのでしょう?実際に、どちらが真理なのでしょうか?疑いを感じたら、静けさの中に退けば良いのです。この問いを明確かつ簡潔な思考で定式化し、シンプルに神に問いかけてください。どちらが真理なのですか?そして自らの心を開いて答えを待つのです。いつもすぐに答えを得ることができるなどと期待しないでください。その後の日々、ただその問いを念頭に置いて過ごしてください。そうすると最終的に何らかの形で答えを受け取るでしょう。

  

  実際、まだ気付いていないかもしれませんが、皆さんの中で答えは既に出ています。疑いのある時には落ち込み、真理を体験している時は幸せを感じるという単なる事実によって明らかです。真理は皆さんを常に幸せにする筈です。例え、それが不快な真理であったとしても。この道を歩んでいる友人の皆さんは皆、時には、自分の内にある好ましくない面や不快な側面に遭遇する体験もしてきました。しかし、内なる真実への欲求が何よりも大きくなれば、この不愉快な真実は常に強まり、幸福をもたらすでしょう。更に、感情を注意深く観察すると、例え、その時点では心地良く思えたとしても、真理でないものから本当の平和を得ることはあり得ないことが分かるでしょう。ハイヤーセルフは常に正しい答えを持っており、皆さんは心の奥でそれを感じるに違いないからです。ですから親愛なる皆さん、皆さんは決して真理に失望することはありません。迷いの中、未だ解決していない問題への答えが見つかるでしょう。しかし、真実を告げる内なる声に満足するべきではありません。更なる答えを求めて感情を定式化し、更に神に問うべきです。「どちらが真実なのでしょうか?私は、あなたの答えを受け取る準備ができています。」と。皆さんがその問いを心から締め出してしまわなければ、答えがもたらされることをお約束します。むしろ、リラックスし穏やかな方法でその問いをひたすら念頭に置き、自分のやるべきことをやりなさい。そうすれば真実が示され、内面で争うふたつの内どちらが正解なのか分かるでしょう。

  

  皆さんが内面の困難を克服し、真実の状態に留まることができるだけ成長すれば、望んでいた証拠は一度のみならず何度でもやって来ます。しかし、そのような証拠の目的は、ありのままの現実をみせたり、あなたを納得させたり、疑いを克服することではありません。むしろ、その証拠は、かつて夢見ていたものよりも素晴らしいでしょう。証拠は神への道の歩みの中で、内なる勝利から派生した自然の副産物としてもたらされます。あなたが証拠を必要としなくなった時、それを豊かに受けるとることになるでしょう。このような出来事は付加的な確認に過ぎず、必ず皆さんを幸せにします。それなしで真理を信じて受け入れることができないという条件ではありませんが。これも又、深い叡智であり神聖なる法則なのです。

  

  ここで、皆さんがよく論じ合うテーマについて話したいと思います。ポジティブシンキングについてです。実際、ポジティブシンキングは霊的な成長を望む人にとって不可欠なものです。残念ながら、ポジティブシンキングはよく誤解、誤用されます。神の法則に従い、清く正しい思考を持つことは、勿論、霊的な道の基本のひとつです。皆さんの思考は実在するので、形や実体を持っています。汚れた思考は、皆さんの人生と運命に最終的に影響するに違いない不調和な形を創ります。意識的思考だけでなく、感情的衝動や潜在意識的思考もまた影響を及ぼします。いずれの場合も、不快なもの全てを潜在意識の中に押し込むことが、霊的、感情的に未熟な人にとっての大きな誘惑になります。それは、どんな意識的に最悪な思考以上に、無限の害を及ぼします。

  

  あらゆるものは意識的であるとき対策を講じて満たすことができますが、潜在意識の中に閉じ込められると時限爆弾のようにくすぶってしまいます。そこで、意識的思考によるものと同じく破壊的に不調和な形が作られます。その為、ポジティブシンキングの熱心な学習者は、しばしば自分にとって最悪のことをするように勧められます。彼らはどんな否定的な思考も心に抱かないようと心配し過ぎるあまり、全ての否定的思考を潜在意識の中に押し込もうとします。その結果、考えたいことと実際に考え感じていることとの間にある矛盾は無視されてしまいます。

  

  行動と同じく思考も、皆さんの意識的な意志の方向性によってコントロールできることに注目すべきです。一方、感情を直接にコントロールするのは不可能です。皆さんは憎むことは罪深いということをよくご存じでしょう。しかし、憎しみがまだ内にある状態で、単にこの内面の偏りを変えることは不可能です。何故なら、自らを強いることになるからです。同じように、もし愛していなければ、愛したいと望んでも、無理に愛することはできません。変化は、いわゆる遠隔操作で間接的にしか起こり得ません。皆さんが上を目指して道を一歩ずつ進むごとに、感情は自動的に、自然に、徐々に変化していくでしょう。

  

  変化をもたらす方法のひとつは、潜在意識を意識に知らしめることです。ところが、ポジティブシンキングの仕組みは逆に働きます。ポジティブシンキングは、単に上辺だけで内に根差さないものを信じるよう、とても熱心に促します。このようにして、善意からかもしれませんが、皆さんは偽りを生きています。これは最も害のある状態です!現実に内在しているものに正面から向き合い、それを受け止めることが必要不可欠なのです。適切な方法であれば道理となるポジティブシンキングをあまりにも気にしすぎると、自らの前向きな意志によって、または自らの内にある不快な流れを認めることを嫌う部分によって、皆さんは危険に陥ることになるかもしれません。自らに内在しているものを、それが意識的な否定的思考以上に困難に働くように発酵される場所に閉じ込めて無視します。これは皆さん全員が、心に留めておくべき重要な点のひとつです。

  

  確かに、皆さんはポジティブシンキングを実践するべきです。思考を観察しなさい、超然として力を抜いて、罪悪感を持つことなく、静かに観察しなさい。そうすると、思考あるいは望んでいる思考や感情のあり方と感情はいつも同じ方向にあるとは限らないことに気付きます。現在の一時的なローアセルフの存在を受入れ、分析することを学ばなければなりません。それが存在し続ける期間は全て、皆さん次第です。ローアセルフは、皆さんが現在生きているレベルに基づく現実です。例えどんなレベルであっても現実から目をそらすことはできません。

  

  ポジティブシンキングの原則から頻繁に生じるその他の誤解、誤用、乱用には次のようなものがあります。誰もが幸せになりたい。それはローアセルフもハイヤーセルフも求める、非常に自然な願望です。しかし、幸福のために支払うべき対価を理解しているのはハイヤーセルフだけです。対価とは道を進む上で行なうべきあらゆる努力のことです。自己認識、欠点の克服、広く霊的法則を学び、それを具体的に個人的に適用することなどです。ところが、ローアセルフは外部からの手段を使い、自らを克服する対価を払うことなく幸福に至ることを望んでいます。ローアセルフを克服する基本は自己認識、自己に対する誠実さ、自己分析です。自尊心の高いローアセルフは、これを達成するのに必要な、大抵面倒である作業を行うことなく完璧になろうとします。このように、ハイヤーセルフとローアセルフはどちらも幸福を望みますが、それぞれ異なる手段を取ります。ハイヤーセルフは内面を成長させないと外面の成長に至らないことを知っています。それが幸福なのです。ローアセルフは、いかなる対価も払うつもりはありません。ケーキを持っていることと、食べることを同時に願っているのです。

  

  もし人生に困難があるのなら、それはローアセルフが原因であり、ある点において、大抵の場合は多くの点において、神の法則を侵しているからだと皆さんはご存知です。十分に成長した人は、神を敬う手段として法則の仕組みを受入れる覚悟が必要です。彼らは対価の支払いから逃げようとはしません。誤用あるいは誤解されたポジティブシンキングは思考のコントロールを学ぶだけで外側の完成をあまりにも性急に得ようとしがちです。それでは十分ではありません。この原則はローアセルフが望んでいるものにぴったり当てはまるので、ローアセルフはそれを利用します。真のポジティブシンキングへの第一歩は、前世もしくはこの現世に関わるものであろうとなかろうと、自分が過去に行ったものの結果を受入れることです。「私は法則に逆らったので必然的にこのような結果になっている。まずは、この人生でその結果を受入れなければならない。」

  

  私たちはしばしばポジティブシンキングをとても熱心に実践しようとする人たちを観察します。本人たちは気づいていませんが、とても熱心に努力する理由のひとつは、思考が明確に定式化されていないからです。ローアセルフが幸福を望んでいると、困難や苦境に直面する度に、神や運命と衝突しやすくなります。神はそもそも人間が苦しむことを望んでいない、責任は自らにあるのだという真理を理性では理解しているかもしれません。けれでも、皆さんが対価の支払いを渋っている限り、皆さんの感情はこの真理をまだ学べていません。対価の支払いとは困難を受入れ、その困難は永遠に続くわけではないと理解することです。なぜなら、神は愛であり、すべての神の子の幸福を望んでおられるからです。ただし、単なる思考のコントロールで結果から逃げず、意識的に因果の法則を受入れない限り、幸福を達成することはできせん。

  

  わずかな痛みも辛すぎて耐えられない程に自分を深く愛しすぎると幸福は訪れません。この痛みを受け入れることによってのみ、あなたはエゴから十分に切り離され、最早、痛みがあなたの成長に必要でなくなるのです。小さな痛みと試練にもだえ苦しみ、観念して絶望的になるべきだということではありません。人生におけるあらゆる困難は自ら招いたものなので、きっぱりと取り除くには、その困難を体験し、耐えて、受け入れ、そして最も重要なことは自己の中にその原因を見つけることだと心底理解することが重要なのです。原因は自己認識の道でしか見つけることができません。外部へ現れた根本的な原因は直ちに消えることはありませんが、ゆっくりとした本質的な成長過程を通して解決される必要があることを理解しつつ、その困難の原因となった自己の欠点を見つけその欠点を取り除きなさい。このプロセスが続く限り、神の法則を受入れて神を讃えなさい。僅かな努力を避ける程、自分を愛し過ぎないように。自らの心地よさを大切にし過ぎることなく、勇敢にそして謙虚に努力を重ねなさい。これがポジティブシンキングを実行する真に最善の方法です。

  

  このような態度によって、神の世界は、恐れるものの何もない、楽しみなことに溢れた幸せな世界であるという心底からの確信が皆さんの中に浸透していくでしょう。時間の感覚も徐々に変化し、知的観念だけではなく、霊的で唯一の現実的視点から見れば、自らの小さな痛みの期間がいかに短いかを教えてくれる深い直感となります。皆さんが思っている程、実際の困難は重大なものではないと、私あるいは他の人から何度も聞かされてきましたね。そして、どのように困難に出会うべきかを示してきました。

  

  「人生に勝ちたいと思っている人は負ける。人生を諦める準備のできている人は勝つ。」友人の皆さん、これはどういう意味でしょう?つまり、ちょっとした痛みを恐れるあまり、エゴや小さな繊細さや虚栄心にしがみつくのであれば、自分の人生を諦めてはいません。むしろ、人生にあまりにしがみつき過ぎるが故に、それを失うということを意味しています。霊的感覚において「負ける」とは、内からも外からも平和、調和あるいは幸福を見つけることができないことを意味します。しかし、自己の心地良さやエゴに関係するものはすべてそれほど重要ではない、自己のわずかな痛みや傷ついた虚栄心はそれほど重要ではないと、あまり真剣に考え過ぎない人、「私が愛情や真の感情を表したらどう思われるだろうか?私は傷つくかもしれないし、自分を危険にさらすかもしれない。」等と常に考えたりしない人、真にエゴそのものを放棄する人は、霊的な意味における人生を授けられるでしょう。そのような人は法則に従うことで内面の調和を見つけます。そして自己に執着することでは決して見つけられなかった、他者からの愛と尊敬に気付くでしょう。

  

  従って、霊的な道では、真の意味で人生を諦めることを学ことが最重要であり、それには痛みの需要が必要となります。ポジティブシンキングの誤用は、ここで話している霊的成長の大部分を省いてしまうのです。

  

  親愛なる皆さん、次回のレクチャーでは、わたしたちがどのように人間やその人格全体を見ているのか、そしてそれが浄化の過程、または完全への道、あるいは心理療法(何と呼ぶにしても)に影響しているかお話しするつもりです。このテーマについて霊的な視点を提供したいと思います。更に多くの皆さんに参加して頂けるよう、次回もまた英語でのレクチャーになることをお知らせします。その後、今後ドイツ語でのレクチャーを開催するか否かを検討します。いずれにせよ、ドイツ語でのレクチャーは、今後減っていくことでしょう。

  

  質問に移る前に、私の友人ウォルター、今後はあなたに質問をまとめてもらいたいと思っています。尋ねたい質問を事前に参加者全員と話し合うのが良いでしょう。質問を選分け、参加者の重要性と興味の順に質問できるように取り計らってください。時間中に全ての質問に答えられなければ、残りは次回のセッションに持ち越します。このようなやり方で質問を扱えば、レクチャーが途切れることもなくなるでしょう。現状では、質問したくても恥ずかしがって躊躇してしまう友人達もいます。他の誰かが質問しているかもしれないと思い、先に発言する勇気がないのです。その結果、不必要な中断が起こっています。この時間を活用できる筈です。今、皆さんのサークルはどんどん大きくなっており、このようなことがきちんと組織化されれば、更にうまくレクチャーが進むでしょう。予定された質問に移る前に、前回のレクチャーについて質問したいことはありますか?その後で、予定された質問を始めましょう。

  

  さあ、皆さん、質問をどうぞ。できる限りお答えします。

  

  質問:私たちの疑いに対する答えは、何故、期待外れな感じがするのでしょう?

  

  回答:それが何故かお話ししましょう。人間が神そして霊的世界からの答えを待つ時、人はどういう訳か、とてもドラマチックな、あるいは更にメロドラマチックな形、すなわちある種の奇跡のような形で起こるに違いないと考えます。しかし、神はそのような形をとりません。神はあなたを使って、あるいは他者を使って示します。とても自然なかたちで授けられた答えが降ってくるように見えるので、その時点では、本当に答えなのかはっきり分からないかもしれません。また、これにはひとつの非常に根拠のある理由、実際にはいくつかの理由があります。それは、かの世界の存在、あなた方とその世界の近さの事実の体験である、至福と神の愛が、あまりにも安易なものではならないということです。真理の中で生きるに値するか見極める為、繰り返し試され続ける必要があるのです。要するに、皆さんはその為にワークしなければなりません。つまり、内なる感情や霊的世界に見合った意識を常に心掛けておくことが必要なのです。それを軽く見てはいけません。観察と認識によって内なる感覚を鍛えねばなりません。このようにして、霊的世界から与えられたあらゆるものを使って、皆さんは更なる高みへとワークします。これがあるべき姿なのです。皆さんが正しくそれに応じれば、非常に素晴らしい結果が得られるでしょう。皆さんは外部の出来事や経験ではなく、自己の内部で成長した強さや叡智によって支えられます。岩の上に築かれ決して足元から引き倒すことのできない不変の強さと幸福を見つけることでしょう。

  

  このようにして、殆どまるで偶然のように「世俗的な」形で答えはもたらされます。超自然的ではなく自然に。こういう訳で、答えは期待外れのように見えるのです。もし確信が持てないなら、その不確かさを受け止め、疑問をはっきりと口にし、真実を求めてください。これが答えであるかどうか尋ねれば、疑いの余地なく、答えを受け取ることになるでしょう。悲しいことに、あらゆる些細な問題や不安のため常に神に祈り頼っている人々でさえ、確信が持てないことは稀にあります。皆さんは、感情の中で不確かなものを発酵させ、魂に乱れを生じさせます。大小を問わず、明確にされていない葛藤は全て、あなたを弱らせるのです。従って、不確かな時はいつも全てを神に頼ることが賢明でしょう。啓発を求め、真理を求めなさい。決断を下す時は神の意志を求めなさい。そうすると、皆さんが憧れている状態にずっと早く到達するでしょう。

  

  質問:欲望を失くすことは、どこまで完全なる道への必要なステップなのですか?特に東洋と西洋の教えの違いについて触れています。

  

  回答:西洋人だけではなく東洋人も頻繁に無欲を誤解しています。言うまでもなく、人の心にとどまるべき欲望もあります。またお馴染みの話です。どのようにが、その正確なニュアンスが重要なのです。答えはイエスでもノーでもありません。ある意味では、欲望はなくてはなりません。別の意味では、徐々に欲望を絶つ必要があります。神に届く為、神を体験する為、神に仕える為、神に仕えるように兄弟姉妹に仕える為に欲望は必要です。この願いは適切なことを忠実に認識する知性からのみ来るものであってはなりません。唯一この願いによって、むしろその実現によって、幸福がもたらされます。霊的成長によって、人が望むものは変化していくのです。しかしながら、エゴに関する限り、無欲を目標とすべきです。繰り返しますが、このような無執着は、自らを強制することによって得られるものではなく、霊的成長の自然な結果なのです。この状態には、直接的ではない方法でのみ到達することができます。ここでも、先に説明したように、痛みを健全な方法で受け入れられるかが重要です。痛みに対して頑なで、それを考えるだけで内側のあらゆるものがすくむのであれば、あなたは痛みを得たくないと強く願っていることになります。それは、無欲の状態ではありません。自らの痛み、虚栄心、心地良さが、他者のそれと比べてもさほど重要ではないと思えるよう訓練する必要があります。個人的に知っている訳でもない他の誰か以上に自分自身を重要視せず、より大事とも思わないと次第に感じるようになれば、皆さんは無執着に一歩近づき、そして幸福へと近づきます。

  

  個人的な成功や失敗が自らの内面を支配しない時、(一方は喜ばしく、他方は不快な状態で支配すするものですが、)あなたは真の安全が見つけられる無執着にいくらか達したと言えるでしょう。そうでなければ、皆さんが求めている安心は、常にあなたのコントロール外にあるものに左右されるからです。幸福、満足、安心を感じる為には、全てが皆さんの思い通りになる必要があります。しかし、そうでない場合、皆さんは途方に暮れ、自分でコントロールできない内なる力に捕らわれます。言い換えると、皆さんはその力に支配され、穏やかさあるいは物事がうまくいっている時には穏やかさだと思っていたものを失います。しかし、私が意味する方法で無執着になると、皆さんは支配されなくなります。調和と安全を得る為に、外部の条件を必要としなくなります。流れに乗って泳ぎ、決して流れに逆らいません。皆さんに手を出し困らせるものは何もありません。

  

  それ程まだ進んでいない人にとっては、このことは理解しがたいと分かっています。この状況について多くのことをお話しするつもりはありません。成長が正しく進めば自然に起こるので、あまり話す必要がないからです。真の趣旨を感じる以前にこれらの言葉を聞くと、無執着に恐怖さえ感じるかもしれません。なぜなら、親愛なる友よ、それは皆さんが誤解するからです。このような無執着とは最早、愛したり関心を持ったりしないこと、諦めて無関心になることだと考えるかもしれません。しかし、これは少しも真実ではありません!無関心とは、生き生きとしていないこと、活気に満ちていないことを意味します。道が高くなればなる程、みなさんは益々生き生きとします。関心を持つことも、愛することもするでしょう。しかしそれは、エゴの苦しみもなく、あらゆる善が、あなたの存在する次元での影がない状態です。

  

  欲望やそれが満たされることでは、本当には幸せになりません。一瞬の満足は与えてくれるかもしれませんが、それはあなたが無意識に恐れている決して失われることのないマインドの平和、穏やかさ、ゆるぎない幸福とは違います。何故なら、あなたは自分が十分に成長していないが為に維持できない感情を恐れているからです。親愛なる皆さん、だから恐れることはありません。この状態は実に楽しみなものなのです。突然起こるものではなく、あなた自身がそれに成長していきます。他の全てのものと同様に、道を進めば徐々に有機的に成長することでしょう。最初のうちは、変化が内側で起こっていることさえ気付きもしないでしょう。そして益々安心を得るようになります。最早うまくいかないことに影響されることもなくなります。初めは以前より少なく、最後には全くなくなります。怒り、不安、敵意に支配されることもありません。喜びの状態にいることがどんどん増えていきます。小さな喜びからあまり満足を得られないと考えてはいけません。それどころか、今は自らの乱れた魂や、満たされることのない欲望や願望によって、喜びの潜在性が妨げられていますが、新しい状態では、本当に楽しむのです。

  

  恐れや不安をもったエゴの支配下にいる限り、今を生きることはできません。皆さんは時々過去に生きています。これは悪いことです。同じく悪いことですが、皆さんはしばしば未来に生きていることもまた真実です。全く同じことが老人にも当てはまります。明日や1時間後を考えることが大切だと信じる時、この瞬間を生きていません。これはどういうことでしょうか?未来に関わる欲望があるということです。不安は不適切な欲望によってもたらされます。何かを恐れれば、そのことが起こらないよう望みます。皆さんの殆どがそうでしょう。どういう訳か、人生のほぼ全てを未来に生きているのです。その結果、人生はあっという間に過ぎてしまいます。皆さんはすぐ目の前にある最も美しいものを見て感謝する機会を逃しています。自らの欲望に忙しすぎて、目の前のものを見ていません。欲望のため皆さんの多くは「今」を失っています。この種の無執着が達成されなければ、今ある幸福を絶えず逃してしまいます。無欲や無執着をまだ少し怖いと思っている親愛なる皆さん、皆さん全員にお願いします。そのことを考えないように。この幸福の道を歩めば、それは副産物としてもたらされるでしょう。私が言うべきことはそれだけです。

  

  質問:ポジティブ・シンキングについてのお話では、私たちは自分が感じている憎しみや憤りを意識すべきだと仰いました。しかし、私たちが持つべき思考と、自分の中にある感情とをどのように関連づければ、対立しないのでしょうか?

  

  回答:瞑想しながら、内面に耳を傾けなさい。内なる感情、反応、傾向をただ観察しなさい。どんな動機であれ自らの真の感情を覆い隠そうとしてはいけません。神に言いましょう。「私は、自分の真の感情や思考全てについて、一時的な真実も含んだ真実を私は望みます。」というのは、それが不愉快なものだとしても、まずは自らの一時的な真実を発見しない限り、絶対的な真実に到達することはできないからです。従って、神に自らの真実を求め、それに向き合う準備をしなさい。とりわけ、これらの言葉を瞑想することで、その意志を持てるよう祈りなさい。自らの真実を見つけることなくゴールに達することはできないので、自らを知り、向き合い、克服することによってのみ、あらゆる鎖から自由になることができます。自らを臨床的に観察してください。そして自らの感情にただ注意を向けなさい。無執着を得る為にその感情を記しなさい。自分自身に言い聞かせましょう。「これが、私の考えたい、感じたいものだ。しかし、いろんな点において、真の感情や内なる思考は、まだ知的に理解しているものから外れている。この理解は、まだ私の感情に到達していない。」毎日、続けて自らを観察しなさい。より大きな乖離がある時もあれば、より小さな乖離がある時もあるでしょう。これは、多くのことに左右されます。

  

  このプロセスを暫くの間実践していると、一度にいくつかのことを学びます。まず、ありのままの自己を受入れることと、皆さんの多くに欠けている謙虚さが学べます。何故なら、皆さんは、現実には第一の谷にさえ到達していないのに、完璧になって山の頂上にいることを望んでいるからです。これもまた怠惰と一体となったプライドの一種です。目的地へ向かって確実に進むことなく、目的地にいることを望むのです。繰り返しますが、ローアセルフは対価を払うことを望みません。ですから、謙虚さを学びなさい。ありのままの自己を受入れることを学びなさい。見たいと思う側面だけでなく多くの側面から自己の真の内なる本質を学びなさい。

  

  このプロセス全体は非常に健全で、ポジティブシンキングの誤解された理論によって促される、どんなタイプの魅力的な希望的思考より多くの力を皆さんに与えるでしょう。これはポジティブシンキング以上のものです。何故なら、過去の行いで創られた一時的な現実に生きることを、皆さんが学ぶからです。暫くの間、このプロセスだけを行い、それほど不安を感じることなくローアセルフの中に住んでいることの不完全さを受入れることに客観的に、ほとんど冷酷に、慣れてくれば、次の段階に入るでしょう。次の段階では、皆さんの内なる傾向が壊してしまった神の法則を瞑想します。この道を歩む人は誰でも、この道を誠実に歩きたい人は誰でも、それぞれに特有な性格や問題に最も適任の、まさにうってつけの先生によって間違いなく導かれます。外部からの教えなしでこの道を歩むことはできないので、そのようにやらなければならないし、いつもそのようになります。こうして、皆さんの問題にはどのような特別な瞑想を使うのが最善かを学ぶでしょう。憎しみや恨みに対して、人はそれぞれ異なる原因や動機を持っているかもしれません。同じ問題であっても、各個人は異なるアプローチや瞑想法を必要としているかもしれません。このことは、後程お話しします。

 

  まず、第二段階を始める前に、ハイヤーセルフの視点からローアセルフの臨床的観察を実践し完全に習得する必要があります。ありのままに自分を受入れること、皆さんが現在いる高い場所から降りることを初めに学ばなくてはなりません。謙虚な気持ちで、罪悪感を持つことなく、自らを受入れなさい。「実際の私はこうだが、私のありたい状態はこうです。その差を埋める為、私は忍耐強く絶えずワークする意志の力を持つ必要がある。そうでなければ、求めている霊的な場所へ辿り着くことはできないだろう。」このことを学んだ後、それぞれに特有の第二段階が知らされることになります。その点は、安心していてください。

 

 

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Pathwork Guide Lecture No.20 1996年版 1958年1月1日

 

神:創造

GOD: THE CREATION 

 

 

  主の名において、ご挨拶します。皆さん全員が祝福され、この時間は祝福されています。最愛の友人たちよ、皆さんの殆どが、私がレクチャーをする時、私の権限で、自由に、勝手気ままにテーマを決めていると思っています。全くそうではないのです。レクチャーのテーマがどのように決められ、皆さんの小さなコミュニティに関して霊的世界で何が行われているのかを知ることは、皆さんにとって興味深いかと思います。

  最初に、徐々に大きくなりつつある地球上の皆さんのコミュニティの対の片割れとして、霊的世界において、このコミュニティに関する全てを統制する、相当大きなコミュニティが存在していることをご理解ください。この霊的世界における組織は、皆さんを助け、導き、全員に関わる多くの要因を、皆さんが理解できる以上に大きなスケールで決定しています。

  

  それには偶然等ひとつもないことを強調したいと思います。あなたがたの誰ひとりとして、偶然このコミュニティに引き寄せられて来た人はいません。一度ここに来ても、何が起こっているのか理解する為の霊的成熟度が欠けていたか、もしくは霊的に発達したくなく、継続的な霊的栄養を必要とする、この完全なる道を歩みたくないという、どちらかの理由で、留まらなかった人達も同じです。

 

  このコミュニティの初期段階に、後者のカテゴリーからの人達がより多くやって来たのも、偶然ではありません。これには、目的と理由があります。それを今から説明しましょう。このコミュニティを積極的に創り上げるのを手伝う、内なるサークルに属する人達が、自らの弱点の多くに十分に気づいたと証明するまで、この神の世界との会話をまだ十分には評価できない人たちの存在は、彼らにとってのテストになります。どのテストも試練も、直接的、間接的に、自らの不完全さの結果であり、その必然的な目的は学びを増やし、ひとりひとりの個人的弱点の気づきを強化するものでなければなりません。内なるサークルに属する皆さんは大きな責任を担っており、それ故に強くならねばなりません。表面上は取るに足らない、明らかに偶然に見えるものさえも含む、あらゆる種類の出来事を通してのみ、成し遂げることができるのです。目を開いて、本当に積極的に道を歩く全ての人は、自らの自己認識を更に増やすために、1日の間に自分に起こる全てのことを観察し、テストします。皆さんが霊的にも感情的にも、より強く成長し、より完璧になる程度に応じて、自分の個人的葛藤が少なくなるだけでなく、皆さんのグループに参加している大多数の人達の気質や霊的発達も変わるでしょう。ですから、お分かりになるでしょう。最初、皆さんの元にやってくる大多数の人達は、皆さんが望んでいる質の人達でないことは、単なる偶然ではないのです。これは既に変化し始めていて、時間が経つ程に、さらに変化していくであろうと、恐らく気づいておられるでしょう。

 

  同時に、上記のカテゴリーに当てはまり、このようなコミュニティの初期に、あなたに近づいてくる人たちもまた、でたらめに導かれて来たのではありません。彼らは前世から、もしくは今生に、その生を通して霊的により遠く、より早く進歩させうる為の、特別な助けや導きに値するある功績を持っているのかもしれません。しかし、その助けが受け入れられるかについては常に、法則と、彼らの自由意志に任されなければなりません。これらの功績にもかかわらず、彼らは多くの場合、助けを受け入れる為に必要な霊的成熟を欠いています。それでもチャンスは提示されねばなりません。もし彼らがそれを掴めば、彼らにとっても、神の世界にとっても大いなる勝利を意味します。もし拒絶するならば、それは霊的に言えば、強い腕と肩を持つ人々が、彼らを待っている偉大な成就にふさわしく成る為に必要な、テストと学習という良き目的を果たすことになります。

 

  単に経験する為に、あるいは好奇心から偶然に来たと思っている人は、それ以上のより大きなものがあると知る必要があります。霊的世界には、みなさんを管理する組織があり、誰が選ばれ、今回は少なくとも誰が迂回されるべきかを決めています。この使命を持ち、この仕事の為に訓練された特定の霊が、問題の個人に相応しい、すべての適切な環境を考慮するために、スカウトとして送られます。もしある人がみなさんに加わるべき、もしくは、少なくともチャンスを与えるべきだと思われれば、これらの霊のスカウトが、その人の守護霊に接触します。その守護霊は、その人をあなたのサークルの誰かに導き、その人物のグループへの加入は、その誰かによって提案されるでしょう。このことで、どれ程多くの労力や配慮が、最も小さな細部に至るまで関わっているかについての理解を得られるでしょう。

 

  レクチャーのテーマの選択も、霊的世界において、相当の量の仕事を必要とします。というのも、適切な時の適切なテーマを決めることは簡単ではなく、私のみで行うことはできないのです。皆さんには、神の霊的世界が、どんな世界秩序や組織なのかについて、漠然としたアイディアさえ思いつかないでしょう。特定の使命や、関係するいくつかのチームワークに対して、専門的に訓練されたスピリットの効率の良さは、皆さんの理解を超えています。例えば、私がレクチャーのテーマを決めねばならない時や、ある個人にアドバイスを与える時、並びに、その他色々な決断をする時に相談する、私の上にいるより位の高いスピリットが何人かいます。他方では、これらのスピリット達も、私の意見、経験、アドバイスを考慮に入れてくれます。私には、皆さんのコミュニティを創ることに関して、私が派遣したり、一緒に他の使命を助けてくれるヘルパーが何人かいます。スピリットから入ってくる全ての報告を考慮した上で、毎回のテーマが決められ、不意に出てくる特定の質問に、私がどこまで答えるかの制限についても同じことが言えるのです。これらの決定は、関連する全ての法則が考慮された上で、沢山の数の構成要素や状況に基づいてなされます。それは、もしこう呼んでも良いなら、簿記仕事です。そこでは骨身を惜しまず、多くの細部にわたって考慮し、秤にかけねばなりません。

 

  皆さんはこのコミュ二ティに関して、私たちの世界でどれほど沢山の労力が関わっているか分かっていません。未来に関する限り、考慮することがどれ程多くあるでしょう。その人の進歩の程度や、進歩の為にそれを取り入れる時期によって、どの情報が、ある聴衆や読者には害がって、他の人達には役立つのか決定するのは大変難しいのです。言い換えれば、正しい時期にちょうど正しい量の霊的滋養を与えることで、グループに属するひとりひとり個人の更なる進歩の方法を見つけ、同時にグループ全体の未来の為に賢明に前進する計画は難しいものです。

 

  あなたがたの世界の皆さんは、あまりにも盲目的です。皆さんは、目の前にあるものだけを認識します。多くの場合、真実をあまりにも早く聴くことは、それを聞くのが遅過ぎるより、ずっと害が大きい可能性があることを理解していません。そうなのですよ、友人達よ。そうなのです。他方では、ある人達には、特定の真実を、霊的法則を、特定の時期に聞くことが必須に重要なことかもしれません。このような場合、与えられる情報は、まだ準備が出来ておらず成熟していない人たちには理解できない方法で、示されなければなりません。

  これは、みなさんのグループと対の片割れである、霊的世界にある組織についての認識をみなさんに与えるかもしれません。この組織は、皆さんが完全に無視している沢山の細部に深く関わっています。愛と配慮と知恵で、皆さんが未だ知らない、将来合流するであろう人々も含めて、関係する全員の最大の利益へと導く為に働いています。これらの情報全てを計算するには、絶え間無い努力と、先見の明を持ち、聖なる法則の完全な知識を持ち、並びに、神と神の大いなる救済計画に対する献身を持って働く、訓練された専門家が必要とされます。皆さんのコミュニティの適切な成長は、救済計画において必須の重要性があり、みなさんの殆どが感じているより深い意義があります。説明を通して、最初は偶然の連鎖に思えたことが、大いなる導きが働いていたに他ならないことに、前よりは少し良く理解するかもしれません。このように、ひとりひとりの内的状況が、最も小さな細部に至って考慮に入れられ、一般的なレクチャーのテーマだけでなく、特定の説明のされ方や、どのように特定のテーマが扱われるかも、全ての要因を合わせて決められている事実を理解できるかもしれません。みなさんは、私がここにやってきて自由にテーマを選んでいるのではないと理解するでしょう。人々が神の世界とのコンタクトに成功する時は常に、コンタクトされた霊がテーマに関して自由に選択することは決してありません。何故なら、あまりにも沢山のことが考慮に入れられねばならず、あまりにも沢山のことが、皆さんが何も知らない賭けになるからです。

  前回、私は堕天使について話すと言いました。皆さんが人間として可能な限りに理解できるよう、お話しするには、この順番で論じなければなりません。神、その創造、堕天使、救済計画。これらのテーマのひとつひとつについて、私は最も短く、凝縮した方法で触れることしかできません。というのは、この情報の全てをひとつのレクチャーにはめ込む事ができないからです。前回のレクチャーで、私はこれら全てのテーマの必須の要素であるイエス・キリストのスピリットについて話し始めました。最初に、私は、この情報を簡単に要約し、あとで補足の細部を付け足していくつもりです。私は、このレクチャーが現存する最大の問題に触れるものであり、それ故、霊的に進んだ人達でさえも理解できるよう紹介するのは非常に難しいということを強調しておきたいと思います。従って、皆さんは自分が聴いていることを、限られた知性だけで吸収しようとすべきではありません。これはあなたを何処へも連れて行かきません。その代わり、みなさんは、知的に理解するより、真実を感じることができるように、ハートで、魂で、自分の最も内側の感覚で聞こうとすべきなのです。このやり方だけが、みなさんに本当の理解をもたらすでしょう。ある意味、それは悟りの為の種子を含んだ物質かもしれません。

 

  友人達よ、まずは、神について私は何を言うことができるでしょうか?神はあまりにも偉大で、その偉大さは言葉にすることは決して出来ません。特に人間にとって、神が何であるかを知ることのみならず、感じ、知覚することも不可能です。創造主について、私はこれだけを言いたいと思います。神は個性(人格)であり、原理であると。人間の宗教や哲学は、常にこの疑問について議論してきました。ひとつの意見では、神は個性(人格)であると考えます。別の意見では、神は物質ではなく、全くの原理であり力であると考えます。既に申し上げたように、どちらの見方も真実です。神は、その男性的側面において創造主であり、それと同じように、個性(人格)です。

 

  男性的側面は創造的なもので、神と共にあるだけでなく、神から発しています。それは全存在と共に宇宙にある創造原理です。この能力において、神は、決断し、処分し、決定します。この能力において、創造主で個性(人格)としての神は、全ての法則やほかの存在を使って宇宙を創造しました。ただ、後者の創造は、聖なる女性原理との結合においてでした。神が自らの姿に似せて子供達を創造したと言う時、それが意味するのは、全ての聖なる側面が、これら創造された存在の内により少ない程度で再現したということです。従って、創造的能力は、あらゆる存在において、ある程度存在するのです。

 

  神が最大限に持っていて、キリストはそれよりも少ない程度ですが、他の全生物より多く持っています。この聖なる物質は、最も輝く物質の流動物質として説明するのが一番でしょう。それは生命の力です。神、並びに発達の最高の姿にある全ての生き物は、この流動物質に溶け込み、小さな人格は流れとなり、原理となり、もしくは聖なる奔流となります。これは、決断し考えることのできる存在としての個人の消滅を意味しません。この流れる状態においては、聖なる女性的側面が、優勢なのです。それは存在する状態であり、ゆっくりとした成長と有機的な構築の状態です。神がそうしたい時にはいつでも、流動体は再び集められ、神の男性的側面が、再び優勢になります。同じことが、発達の最高状態にある創造された存在についても言えます。彼らの女性的側面が優勢なら、彼らは存在の状態において神と混ざり合います。彼らの男性的側面が優勢なら、彼らは神の意志と、聖なる法則に従って、創造を助けます。このこと全ては、皆さんが十分に理解することは不可能であると了解しています。これは、これからやって来るより深い洞察の為の、単なる始まりかもしれません。最高次のスピリットでさえ、愛や叡智、神の完璧さ、神の創造の無限の多様さを十分に把握することはできません。私たちにできることは、ただ、畏敬と喜び、そして神を讃えることの中で立ち尽くすのみなのです!

 

  前回のレクチャーで申し上げたように、神は主の最初の創造としてイエス・キリストのスピリットを作り出し、この聖なる物質の大部分はキリストの中にあります。それ故に、いくつかの宗教では、父なる神、息子なる神について触れています。この言い方の中に真実があることを理解できるでしょうが、それらをひとつの同じ個性であると考えるのは間違いです。キリストのスピリットの後、他の多くの創造物が存在するに至りました。それはあまりに多く、人間が駆使する数字では数え切れない程です。かつてこのように尋ねられたことがあります。「神は何故、これらの存在をお作りになったのですか?全知の神は、そのような存在から不幸な結果が生まれるだろうと理解されていた筈です。」これは本当に重要な質問です。私は今から、この質問について短く触れていきたいと思います。

 

  神は愛であり、愛は分け与えられねばなりません。それが、愛の本質です。神は勿論、自らが創った自由意志の存在が、その自由意志でそう決めれば、不幸は永遠に、もしくは一時的に存在するに至る可能性があることを理解されていました。それにも関わらず、主の偉大さを指し示すものとして、神は、与えられた力で自由に選択できる存在を創造されました。彼らはその力を乱用しない叡智を持ち、その結果、神の法則の完全性の中で永遠の至福の状態で生きるか、そうしないと決めた場合、死の谷を経て、神の法則の完全性をより一層理解するようになるでしょう。このようにして、彼らは、かつてそうであった以上により神らしくなるでしょう。間違った決断をするかもしれない人々の一時的な不幸は、自ら招いた不幸を経験した後に迎える永遠の至福や幸福には比べようもありません。その差は、あまりにも明らかなので、スピリットがこの事実を理解するのに、高次に発達している必要もありません。

 

  このように、神は多くの存在や世界を、物質世界が存在する遥か昔に創造しました。調和の世界、幸福、無限の美、そして、すべての存在にとっての創造的聖なる側面を開く無限の可能性。ここでは、創造された存在の聖なる物質は自由に動き、異質で神らしくない物質で覆われてはいませんでした。私が何度も申し上げてきたように、皆さんの中にあるこの聖なる物質の覆いを外し、自分自身と神との合一を阻む神に反する層から、聖なる物質を解き放つことが皆さんの使命です。この聖なる物質は、人間のハイヤーセルフ、または神聖なる火花とも呼ばれています。それはまた、時には聖霊と呼ばれることもあります。聖霊は、ひとつの存在ではなく、また、良く解釈される感覚でいう、三つの構成要素からなる神の部分でもありません。それは単に神聖なる物質であり、他の物質からある程度自由なのか、未だ他の物質で覆われ自由ではないのかは別にして、全ての生き物がある程度持っているものです。ですから、三位一体という考えが、しばしば誤解されてきたことが分かります:しかし、それでもなお誤解の中に、多くの真実もあるのです。

  さて、みなさんはこれらの異質な層が、それぞれの本来の神聖なる物質を、どのように覆い隠すことになったのかを知りたいでしょう。これは、天使の転落というテーマです。というのもこれらの純粋で、神のような存在、もしくは聖霊は天使だからです。しかしながら、誰の中にも存在するこの神聖なる物質が神そのものである、もしくは、創造主である神と全く同じであると推測することは、大きな間違いであると私はまず申し上げたいのです。神は存在であり、皆さんが内側に持っているものは、聖なる物質で、聖なる特質をたくさん持っていますが、神その人が持っているのと同じ程度持っている訳ではありません。皆さんの中にある神聖なる火花は、神のようなものです。浄化された自由な物質のみが、神と合体すること、従って、神とひとつでいることができるのです。神のようではない物質はどれも、神と合体することはできません。それぞれの創造された存在の中にある、神のような物質と、創造主である神の物質を混同することは、間違いです。

  神は、神の創造物達に自由意志を授けるべきではなかった、何故なら、そうすれば転落は決して起こらなかっただろうからと、人々は良く考えます。もしくは、神は少なくとも、転落が始まった時、介入すべきだったと。しかし、この見方はあまりにも近視眼的で、あまりにも盲目的です。いかなる創造物にとっても、幸福は神との合一を通してのみ存在し得ます。そして、神との合一状態でいる為には、あなたは同じ物質でいて、同じ側面と特質を賦与されていなければなりません。さもなければ、あなたは神のようではなく、従って神との合一状態でいることは不可能でしょう。自由意志と自由選択は、自由意志を神聖な法則に相反する方向へと向ける可能性を、必然的に伴います。自由に正しく選び、力の濫用を控えることの中に、神聖さや愛、知恵、そしていくつかの更なる聖なる特性があるのです。この認識を把握することは、みなさん全員にとって最も重要です。何故なら、それによって今まで理解していなかった多くの疑問に答えることができるようになるからです。

 

  神は、数限りない法則を創造してきました。これらの法則は、もし創造された存在が、神によって与えられた自分の力や自由を誤用した時に、神の元へと帰る可能性の為に前もって準備されました。これらの法則は、必ず閉じねばならない円を描くようになっています。何が起ころうとも、円はそのコースを辿り、究極的には、神や神聖なる法則から離れた全てのものは、やがて戻ってくるという方向で働くのです。神からの距離が遠くなればなる程、より不幸になります。何故なら、神の中にいて、神と共にいることのみに幸福があるからです。しかし、この不幸を通して、神へと戻る為のより強い動機が生じます。この考えもまた、深い瞑想にとてもよく向いています。この真実のいくつかを把握することによって、皆さんは今まで隠されてきた多くのことを理解できるようになるかもしれません。もしみなさんの目と内なる感覚が十分に浄化できれば、日常生活や、小さな出来事の中にさえ、この法則を理解するでしょう。

 

  このように、霊的世界は、とてもとても長いあいだ存在してきましたし、そこでは全ての創造物が、至福の中で、思いもよらない方法で生きていました。存在するに至って以来、聖なる法則の中で生きるか、それともそれに反して行動するかを自由に選ぶための可能性は、すべての生き物にとって存在していました。あるとき、あるスピリットが法則に反して行動するという誘惑に陥りました。皆さんはこの象徴的説明を、楽園におけるアダムとイブの物語の中に見つけることができます。実際、これはとても違った方法で起こりましたが、誘惑という考えはそこにありました。おそらく、自分が大きな力を持っていると想像する時、このいくらかを理解できるでしょう。あなたはこの力をある方法で使うことが、あなたにとって危険であると証明するかもしれないと知りながらも、この力が開発されない限り、もしそれを使ったら一体何が起こるのか、好奇心を感じるかもしれません。この誘惑は、どんどん強くなります。それが強くなればなる程、この誘惑に逆らう方法を考えることができなくなります。あなたはこの危険な力を継続的に使う意図は持たないでしょうが、ただどうなるかを見る為に、少しだけ試してみなければならないと感じます。あなたが持っているであろう、それを一度試してしまうと、それに流されることに抵抗できなくなるかもしれないという知識は、どんどん強くなる誘惑の影響で消え去ります。

 

  一旦、最初のスピリットが誘惑に負けると、それは、もはや変えることのできない何かを始動させます。このスピリットはかつて、ことの経緯を知っていましたが、誘惑に負けたあとは、それを覚えていたくはありませんでした。結果は、即座の変化ではなく、緩やかな変化でした。調和から不調和への変化は、丁度みなさんの個人的な不調和から調和へと起こる変化と同じくらい、緩やかに、ゆっくりと起こりました。後者は進化です。前者は後ろ向きの進化、あるいは退化と呼ぶことができますが、どちらも突然には起こり得ません。ここで、皆さんの理解を助ける、このプロセスのもうひとつの例をあげたいと思います。あなたが常習性のある薬物を摂取する誘惑に駆られたとします。その誘惑に負けない意図を持ち、誰もが知っているように、その薬物があらゆる点であなたの破滅を意味することを知っていながらも。それでも、只一度なら、試せるだろうと考えます、それがどんなものが単に見てみるだけだと。この一度の後、あなたは最早逃げることが出来ません。何故なら、あなたは捕らわれてしまっているからです。同じ原理は、聖なる法則に反する全てに対して有効です。

 

  最初に誘惑に負けたこの一つのスピリットは、聖なる法則とは反対方向へと流れる力を発生させました。その力は依然として同じ力であり、ただ異なった方法で使われているだけでした。この力で、そのスピリットは、徐々に他の多くのスピリットに影響を及ぼし、感化していくことができました。しかし、全てのスピリットが影響を受けた訳ではありません。誘惑に負けた人とそうでない人の間には、境界がありました。前者には、「天使の転落」が始まりました。このプロセスで、あらゆる聖なる側面が、その反対の性質へと変わりました。調和が不調和へと変わり、美は醜悪さへ、光は闇へ、知恵は盲目へ、愛は憎しみ、恐れ、利己主義へ、合一は分離へ。それから、この誘惑という引力がより進めば進む程、全体性が更に分断されていきました。このようにして、悪が存在するに至りました。

 

  かつて私は、霊的世界は心理的世界であると説明しましたが、それは、その世界が非物質的で形を持たないという意味ではありません。皆さんのおられる物質世界においてのみ、考えや感情は抽象的なのです。他の世界では、スピリット達は、独自の世界を創造し、そこでは、自分の心の状態に従って暮らしています。各々の心の状態は、風景や家、物体などで構成される領域を、反射行動として創造します。このようにして、同等の発達をしたスピリットのみが、ひとつの世界を分け合うことができます。そこでは、ある発達状態においては、一般的に生活を容易にしますが、同様の理由で、個人の発達速度を緩めます。あなたの態度や考え、感情や意見、ゴールがあなたの世界を創ることを心に留めておく時、最高次のスピリットの世界は、美しく明るく、堕ちたスピリットの世界は、暗く醜なるということを理解するでしょう。大いなる計画が始動して以来、調和と不調和の様々な程度において、かつての堕ちたスピリット達が到達した発達の程度に従って、多くの中間の世界が存在するに至りました。みなさんの物質世界はこれら中間世界のひとつです。

 

  皆さんの殆どが、最高の状態にあるスピリットは、神聖さの男性性側面と女性性側面を兼ね備えていることを知っています。その点で、内側に境界や不統一はありません。切り離された存在としての、男性と女性という地球上での存在は、今はもうご理解されているように、この分断の結果です。それ故に、各々の人間はその片割れを持っています。正しいパートナーを見つけようとする人間の衝動は、その人の分離した別の部分との再結合への深い切望に他なりません。どの存在も皆、真のダブル、片割れとの特定の転生を経ています。というのは、このような再結合が必然的に伴う幸福を通して、何かを成し遂げる責務を見出すからです。特定の転生では、この片割れなしに通り去る必要があります。そこには違う種類の達成を見出せます。しかし、この後者の、真の片割れと会うことのない転生は、独身主義の人生を送る必要があるということを意味しません。大いなる幸福を築くだけでなく、他の責務を果たし、カルマが支払われ、別のパートナーもいるかもしれません。従って、もしあなたが真の片割れ無しの転生を送り、その代わりに、あなたが達成する何かを共にする別のパートナーを持ったとしても、スピリットの世界にいるあなたの片割れが、あなたが現在のパートナーに与える愛のせいで、傷ついたり嫉妬したりすると考えてはいけません。そうではありません。絶対的な現実では、物事はそのようには働きません。どのような学びでも、愛を与えることを学ぶなら、あなたは神、自己実現、開放、そしてあなたの片割れにも一歩近づくことになります。セックスにおけるこの種の愛の衝動は、もう一度全体になる為に、あなたの片割れとひとつになる為の切望なのです。その成就は、あなたがこの力をどのような方向に向けるのか次第です。

 

  動物や植物、鉱物などの、低次の発達段階にいる存在は、未だにより大きな分断や分離の状態にいます。人間の状態、いわゆる半分に分断した状態は、その元々の状態が起こり得る、再結合前の最終形です。神からの分割や、いわゆる天使の堕落を通して存在するに至った不調和な世界は、地獄とも呼ばれます。これらの世界は、単にそこに住む生き物たちの心の世界を映し出しているだけです。これらの領域は、これらの存在の心の状態の直接的結果として存在するに至りました。しかし、地獄はたったひとつの領域ではありません:そこには、天国と呼ばれる神の世界に多くの領域があるのと同じように、沢山の領域があります。転落が起こった時、それに関係した全ての存在が、同等の不調和や悪の状態になったわけではありません。その程度は、とても独特で違っていました。このように違う領域が闇の世界の中に、常に個人の心の状態に呼応しながら、存在するに至りました。しかし、全体として、神の側面は多かれ少なかれ、その正反対へと変わったということができます。

 

  完全な浄化が達成できない限り、堕落の特質のいくらかは、人の中にある程度いぜんとして残り続けます。皆さんひとりひとりが自らの魂の探求をし、このプロセスを明確に感じて意識化することは、大変役に立つでしょう。あなたが自らの個人的欠点を考える時、その欠点の起源である神の側面を見つけるようにしなさい。というのは、只ひとつの欠点でさえ、ひとりでに存在に至ることはできないからです。それは、かつては神であった何かの歪みに過ぎないのです。あなたの欠点全ての中に、この神の側面を見つけることができます。その時、あなたの欠点を浄化し、同時に、自分自身についての絶望感を失くすことは、ずっと容易くなるでしょう。しかし、そうするには、まず自分の欠点が何かを見つけ出し、それらに勇気を持って向かい合う必要があります。

 

  これらの不幸な世界が徐々に存在に至り、より多くの存在に神からの分離が起こった時、これらの存在がかつて知っていた幸福な存在状態を再び獲得することを可能にする為に、神聖なる法則が与えられました。しかし、個人として、もしくはグループとして、常に堕ちたスピリット達の自由意思に従って、特定の決定や変化が行われなければなりません。これも又、神によって予見されており、正しい瞬間の為にとっておいたタイミングで与えられました。この全てが、神が、神に忠実であり続けた全てのスピリットと、転落の後、他の人たちを助けるのに十分な発達に達した、及び達しつつある存在達の助けを取り入れた、救済計画の部分なのです。私は、これについて、次回もっと多く話すつもりです。

 

  例え、基本的な絵を完成する為のいくつかの情報が皆さんにとっては未だ欠けていたとしても、私が今まで言った全てのことを注意深く考えなさい。この不完全な絵であってさえも、みなさんが深く考え、瞑想し、理解することを助けてくださいと、神に頼む労を厭わなければ、いくつかの疑問に答えられることに気づくでしょう。この理解を得た時、あなたは人生の本当の意味、あなたがここに存在する理由、そしてこの生におけるあなたの個人的使命が何かを理解する位置にいるでしょう。使命を持たない人はいません!平安な心を持つ人は、自分の使命を見つけていることでしょう。この平安が見つかっていない人は誰でも、未だ自分の場所が見つけられていません。あなたの最奥の自己が語りかけてくる幸福や不安を通して、あなたは自らの使命を見つけたかどうかのメッセージを得られるでしょう。あなたがすべきことは、自分自身に尋ねることだけです。もしあなたが、今も不安や、焦りや神経過敏、心の平安の欠如を見出すなら、神に助けを求めなさい。使命が何かを見つけられるよう、それにオープンでいられるよう、主の導きが理解できますようにと。それでも、あなた自身と人生の使命の完璧な成就の間を邪魔するものは、あなたの個人的な発達かもしれません。あなたは、自分の性格のある側面について見えておらず、それが成就を妨げているのかもしれません。ですから、あなたの探求では、答えをあまり遠くに求めてはいけません。神が共に喜ぶ方法であなたの人生を導く、必要とされる全ての答えは、あなたのまさにその内側にあります。

 

  次回は、イエス・キリストが主な役割を果たす、救済計画についてより多くの詳細へと入っていくつもりです。彼なしでは、堕ちた天使のひとりとして、帰って来ることはできませんでした。これを理解することは、みなさんの発達のある段階において、とても重要なことです。祝福さ

 

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