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No.244 この世の中にいるが、この世のものにはならないー惰性における悪

Pathwork Guide Lecture No. 244
1996年版
1977年10月19日


この世の中にいるが、この世のものにはならない-惰性における悪
BE IN THE WORLD BUT NOT OF THE WORLD” -- THE EVIL OF INERTIA


ようこそ、愛する友人の皆さん。
自己保全の精神にある最奥の意義は何でしょうか?もし深いマインドが永遠の生命の存在を知っているならば、何故それは生にしがみつき、肉体を離れることを本能的に拒むのでしょう?このことは矛盾のように思えます。
内的人生におけるこの大変重要な側面について、皆さんがより深く理解し、自らの統一を探求する際に活用できるよう、お話ししましょう。肉体的な生命への憧憬は、神聖なるスピリットがボイド(虚空)に押し寄せ、物質と形を創造し、最終的にはその形に生気を与え、生命、意識、神性で輝かせることを表します。
この言葉は、まさに神聖なる計画を表しています。それはスピリットを前方へ外側へと押し進め、徐々にボイドを埋めていくことです。以前の他のレクチャーでもお伝えしてきたように、このプロセス、及び冒険の中で悪が生まれます。スピリットがボイドにゆっくりと浸透する時、神の特質は初めほんの少ししか顕現されません。その為、意識は断片化し、概念は分離し、視野は狭くなります。その結果、誤り、無知、恐怖が逆に更なる邪悪な態度を生み出します。光と闇の出会いは、最初は視界を歪めます。こうして、存在することは、存在しないことの脅威をはらむことになります。
意識のレベルでは、あなたは善の力と悪の力の間で引き裂かれた世界に存在しています。スピリットがボイドに浸透すればする程、より多くの真実と愛が、不真実と恐れと憎しみを変容します。生命が空洞を満たせば満たす程、不死が経験された事実となるのです。
人間の外見的なレベルでは、このプロセスは葛藤を生みます。人間は永遠の生命を切望します。人は永遠の生命が肉体には存在しないことを知っていながら、必死にそれを維持しようと躍起になるのです。魂における永遠の人生を感じ、内的に経験しているが故に、肉体的な人生の重要性を否定する宗教的な人々は、スピリットがボイドに、最終的には物質に浸透することを許し、あるがままに霊化していく神の計画の重要性を誤解し、無視しています。
しかし、永遠の生命の現実を感じないが為に、肉体的な死を考えただけで震えあがる人々も、同様に惑わされています。先日、死の恐れと永遠の命への憧れを克服することの大切さについてお話ししました。次の段階として、肉体的な生命を求める努力は、単にそのような恐れの表現に留まらないことを十分に理解することが大切です。それはより深いレベルでは、創造の大いなる動き、そして「救済計画」の成就の正当な表現なのです。
このことが理解され、時々でも感情的に経験される時、「この世の中にいるが、この世のものにはならないように。」というキリストの重要な命令が非常に明確になります。これは、肉体的な死への恐れを微塵も感じることなく、肉体の中で生きることへの喜びに満ちた意志へと導きます。人格は、無限と永遠のより内面的なレベルでは、死、存在しないこと、痛み、不正、不安、孤独の脅威から解放された、より偉大で充実した人生があることを完全に理解します。肉体的な死が迫っているにも関わらず、肉体における外在化した人生は、より大きな目的の為の喜びに満ちた冒険になります。肉体的な死そのものは、より幸福をもたらす根本的状態の完全なる存在への変容と見なされるようになります。
そこで、新たな一体化が生まれます。人格は、永遠のより充実した、より深い人生を知っている為、肉体的な人生に非常に安心感を覚えます。しかし、肉体的な人生も又、決して避けては通れない深い意味を持つ仕事として経験されます。一方で永遠の生命を理解し、もう一方で肉体的に生きる課題を理解することで、その困難さも耐えられ、意味深いものとなります。このようにして「この世の中にいるが、この世のものにはならないように。」という言葉は、あなたにとって新たな意味を持つでしょう。物質的な顕現の世界は、あなたが重要な役割を演じることができる一時的なものであり、それは自らの意識とエネルギーを総動員して肯定する必要はあっても、決して自らの唯一かつ究極的な在り方だと思い込むべきではないと知るでしょう。
これらの言葉の意味を完全に捉えてください。例え、あなたが永遠の生命の現実を体験するには程遠いとしても、死の恐怖と永遠の生命への憧れを完全には経験していないとしても、例え、あなたがこの新しい段階の入口に未だ立っているだけだとしても「この世の中にいるが、この世のものにはならないように。」の深い意味を掴むことは非常に役立つでしょう。
より深い理解は、あなたが自らの果たすべき課題を満たすことについて、神との深いコミットメントと共に生きる時にのみ得られます。この課題は二重の要素であることは既にお分かりかと思います。ひとつは、個人の浄化と変容。もうひとつは、自らの才能、エネルギー、資質を、神の意志に従って、より大いなる大義である「救済計画」に捧げることです。このコミットメントが成立すると、やがて全てはうまくいきます。これには時間がかかるかもしれません。何故ならば、そのコミットメントがあるにも関わらず、まだ盲点や深い無自覚が未だ残っているかもしれないからです。しかし、いずれにせよ時間は幻想の障害でしかありません。
あなたのコミットメントが完全であればある程、そして、あなたがその意味するところに対して誠実であればある程、そして、日常的に実践すればする程、あなたの感動と生きる喜びは大きくなるでしょう。それに伴って、魂の内に平和と安全が育ちます。逆に、あなたの人生が利己的な目的の追求に捧げられれば捧げられる程、あなたの不安は大きくなり、人生全てが無意味であるという恐ろしい感覚が伴うでしょう。明らかに、これは避けられない悪循環に繋がります。人生が無意味ならば、少なくともあなたにできるのは、キリストから分離したささやかな充足に向かって利己的に突き進むことだけです。この分離が大きくなればなる程、人生全てが無意味に見えてきます。こうして悪循環は続きます。
それでも、皆さんの多くは未だ、神と自らの課題に対するコミットメントを中途半端にしています。言ってみれば、それは天国と地獄に片足ずつ突っ込んでいるような状態です。天国とは、あなたが良き力の大いなる集団の一部となって、神の為に誠実に自らの課題に献身している部分です。あなたは深く満足感を感じ、自らの人生には意味があり、全てが愛、意味、魅力、喜び、安心に彩られているが為に、それは天国なのです。しかし、あなたが自らを押し留め、自らが否定する神の意志を行う代わりに、ちょっとした自己追求で取引をしようとする部分では地獄に生きています。何故なら、人生は無意味で、退屈で、恐ろしく、行き詰まり、創造の全てから分離しているように見えるからです。天国に住むということは、自らが創造の不可欠な一部であると知ることです。
神の大いなる計画の為に人生を捧げることは、苦しみや痛みをもたらすという誤解が未だに蔓延しています。もしそうでなければ、自分の意志を神に委ねることは、より完全で、より抵抗が少なく、より信頼できるものになる筈です。
自らの意志を神の意志に委ね、自らの人生、才能、特質を大いなる計画に捧げることは、あなたの日常生活を豊かにするだけでなく、未だに信念と不信、信頼と恐れ、憎しみと愛、無知と叡智、分離と統一、死と永遠の生命の狭間で引き裂かれている分離を統一する鍵でもあります。
この闘いで最も重要な特質の内のひとつは勇気です。勇気の役割は、過小評価されがちです。勇気には強さとエネルギーが必要ですから、実際、多くの人は、スピリチュアルな人は弱くておとなしいと思い込んでおり、勇気は強さとエネルギーが必要なので、彼らには勇気がないと暗に考えます。意気地のない人は、攻撃的で大胆な人たちの犠牲者だと思われがちです。このように、非合理的なレベルの感情的認識において、勇気はしばしば悪と関連づけられる一方、弱くて臆病な人は温和、優しさ、善良さと関連づけられます。これ程、真実からかけ離れたことはありません。臆病さが、能動的な悪の実行と同じだけ悪であるということをお伝えしようと思います。スピリチュアルな臆病さは、最良なるもの、神に対する裏切りを招くだけでなく、残酷で利己的で不誠実な悪意による、より明白で攻撃的行動と同じ位、能動的で強力な悪に繋がるのです。このことを十分に認識し、自らの弱さや臆病さは実はそれほど有害ではなく、能動的な善意とポジティブな主張によって自分自身、あるいは自らの利益を危険にさらすような闘争心よりも、むしろスピリチュアルだと考える幻想から自分自身を解放することは重要です。
あなたが弱く、悪行に立ち向かわず、悪と結託し、真実の為に戦うことを控えれば、何が起こりますか?あなたは悪を助長します。悪を行う人間が抱く幻想、即ち、それはそれ程悪いことでもなく、問題なく、賢いことであり、多くの人から支持を得ているという幻想を維持させるのです。これは、真実を主張し、良識の為に立ち上がり、悪を暴こうとすれば、孤立し、嘲笑され、拒絶されるという幻想を更に永続させます。言い換えれば、受け入れられる為には、誠実さや良識を売り渡す必要があるという妄想を助長するのです。
このようなことは全て、人間関係の中で常に起こっています。このような悪を奨励する行為は、簡単に自覚から締め出すことができます。しかし、このような否定的行動に耽る人の周りには、罪悪感と混乱の雲と、自己拒絶の感情的風土が渦巻いています。他者から受け入れられることを犠牲にすることを厭わないスピリチュアルな勇気を得るまで、あなたが本当にその代償を払わねばならないと思うまでは、いくら理論的な根拠に基づいて自己嫌悪から自尊心へと抜け出るように自らを説得してもうまくいかないでしょう。
例えば、目の前にいる誰かが他の人を誹謗中傷する時、あなたの沈黙は善意でも、優しさでも、平和でもありません。それとは遠いものです。ある意味それは、あらかさまに能動的に中傷することよりも、破壊的で陰湿な否定です。誹謗中傷者は、自らの悪をさらけ出すことで、叱責されたり、その結果に直面したりする機会があります。受動的な聞き手は、能動的な中傷者と同じように、中傷から否定的な満足感を得た上に、負の結果のリスクを負うことなく、自分はその悪行に加わってないと自負することで、自らを誇ります。受動的な聞き手は、両方を手に入れようと誤魔化すのです。
能動的な悪よりも、黙っている悪との共謀の方が不快なのが分かりますか?能動的な悪だけでは、イエスを磔にすることはできませんでした。自らの命に危険を感じていた裏切り者、共謀者、無言の傍観者の協力が必要であり、その結果、悪が勝つことができた…ように見えるのです。しかし勿論、悪が本当に勝つことはあり得ません。
先の大戦前後のドイツで行われたような、全体主義体制下での大量殺人も同様です。真実、良識、誠実さ、慈善、愛、共感、つまり神を象徴するもの全てよりも、自分自身の命が重要であると考える多くの人の無言の共謀に助けられていなければ、少数の加害者たちはそこまでは進めなかったでしょう。
最愛の皆さん、これは興味深い結論に繋がります。つまり、歪みの中の能動的な原理は、それがどれだけ有害で凶悪的なものであっても、それのみでは歪みの中の受動的受容的な原理と同じだけの大惨事をもたらすことはできないという点です。多くの霊的な教えが、全体規模において、最低な特質が憎悪ではなく、惰性であると言うのはこの為です。惰性とは、エネルギーレベルで言えば、神聖なるエネルギーの流れが凍結することです。惰性では、神の流入である放射状の物質が厚く、硬く、遮断され、死滅します。意識のレベルでは、惰性とは、まさにこれまで私がお話ししてきたことをそのまま意味します。これには第一の罪悪感と第二の罪悪感があります。第一の罪悪感とは、悪に協力し、悪を容認し、どんなに僅かでも間接的にでも、悪への許可を伝えることです。第二の罪悪感とは、自らの臆病さや利己保全的な態度が悪の行為に無言の許可を与えているのに、自分は悪に加担していないように装ったり、加担していないと主張したり、善人の振りをしたりすることです。だからこそ、イエス・キリストが地上での生涯において、独善的で善良に見える人よりも、悪人の方が神に近いことを常に強調したのは、この為です。
惰性は、良いことをする為の行動を差し控えます。怠惰、無動、受動性は、否定的な意味では、常に無関心、利己主義性、無関与を支え、自己や環境の停滞を助長し、成長や変化を妨げます。
だからこそ、このコミュニティに参加している友人達は非常に能動的な段階にいるのです。時々バランスをとる為に、もっと静寂と受容性を調節すべきだと感じるかもしれません。しかし、内在する叡智と目的が、振り子の動きを支配していることを忘れないでください。常につきまとう誘惑である惰性から抜け出す為には、一時的にでも受容性よりも能動性を高め、あなたの中にある気力と能動的な動きの全てを使う必要があります。魂の能動的な動きの中で、あなたは形成し、創造し、変化し、成長します。そして、あなたの魂は動きに慣れていき、動きを楽しく、活気があり、リラックスしたものとして捉えるようになります。
惰性は安らぎをもたらすと考えられている一方で、活動は疲れると信じられています。この幻想は、より深いマインドの歪みです。このようなイメージがあなたの中にある限り、もっと受容的で静止していたいという欲望に問いかける必要があります。それは、努力やリスクを避けて、非活動的で居続けるための言い訳ではないですか?あなたがその意志を確信した時にのみ、振り子は新たなバランスへと揺れ動きます。今、活動が過度に強調されているのは、あなたの魂に調和を定着させるために必要なバランスなのです。
停滞と惰性はまさに最大の悪なのです。これらは物質のものであり、完全に停滞し不活性であるボイドを貫こうとするスピリットである神の活気的なパワーに抵抗しています。偽りの受容性は、マスクされた惰性です。偽りの受容性が存在すればする程、本当の受容性は存在できなくなります。愛、喜び、充足感を受け取ることができず、充足感を妨害しようとする衝動に駆られるのは、神に与えていないことから生じます。神に与える時、あなたは能動的で、惰性を克服し、動き、行動し、リスクを冒し、時には自分や他者の悪と闘う必要もあります。そうして初めて、あなたは罪悪感から解放され、宇宙が与えようとしているものに対して真に受容的になれるのです。神の恩寵は、あなたの周りにも、あなたの内にもあります。いつもそこにあり、あなたはそれを浴びているのです。受容する力の障害が、それを不可能なものに見せています。
神に与えるとは、大いなる計画、神の意志に委ねることであり、その為に自らの人生を捧げることです。神に与えることは能動性を意味し、時には、能動的であることから遠ざけようとする惰性を押しやることでもあります。その能動性は、成長プロセスに対する明らかな抵抗との戦いとは別に、多くの領域に向けられるでしょう。新しい社会を創り出すという崇高なプロセスに携わる場合、日常生活の細部にまでそのような動きが必要になります。一見、平凡でありふれた問題に能動的に取り組まなければならないかもしれません。神聖なる法に則って存在し、生きるプロセスで必要となる変化に対する抵抗に、能動的に立ち向かう必要があるかもしれません。ですから友人達よ、自らの惰性の正確な性質を見定めましょう。更に重要なのは、その惰性に耽る為にそれをどのように正当化しているのか突き止めましょう。
どの領域であっても、自らを弱く、混乱して感じ、自らを拒絶している時、満たされないと感じている時、自らの内で分裂し、従属と反抗の間で揺れ動く時、あなたは自らが分裂していることが良く分かっています。あなたは未だ自律的ではないのです。真の自律性を確立する唯一の方法は、神の意志に完全に委ねることです。その為には、一時的に傷ついたり、拒絶されたり、不利な立場に立たされたりすることも厭わないことも含みます。リスクを冒し、利己的な目的を犠牲にする勇気も含まれています。それは又、非常に人間的な観点から見ても、それが本当に自分にとっての最善であるという信念も含みます。
このメッセージを終える前に、あなたの道(パス)における特定の段階についてお話しし、手助けしたいと思います。多くの場合、あなたは破壊的で否定的な態度や欠点にしっかり気づいた後も、それを変えるのが難しく感じることがあるかと思います。この特定の段階について、特別なアドバイスがあります。ふたつの必要なアプローチをとることをお勧めします。
ひとつ目は、あなたの意図と洞察力の全てを尽くして、この否定的な特性が自分自身や他者に及ぼす極めて辛い結果に集中することです。あなたは、その否定的な特性に気づいているかもしれませんが、その影響を認識しようとしないことがあまりにも多いのです。それを完全に認識した時、あなたは自分自身や他者に負わせる痛みを経験し、その結果、より強く変わりたいと思うようになります。
これがふたつ目のポイントに繋がります。神の助けと介入を祈ること、イエス・キリストに向き直り、彼の個人的な存在と助けを求めることによってのみ、不随意の流れや態度に影響を与え、調和がとれた神の法則によって変化させることができるのです。
あなたの人生における基本的態度が、神の意志と計画に献身し、全てを委ね、神を最優先にするものとせねばなりません。そうすれば、他の全てのことは、この態度の自然な結果となり、適切に満たされていくでしょう。もし天職が実現されていないと感じるならば、もし仕事を楽しめない、あるいは無意味に感じているなら、もし喜びや、安らぎや、物質的な安定を経験するのに十分な収入が得られていないとしたら、あなたは心の何処かで、全てのものの創造主に身を委ねることを差し控えているのです。もし人間関係に恵まれず孤独でいたり、性的に悩んでいたり、ふさぎ込んでいたり、満たされていないのであれば、あなたは心の何処かで、神の意志や、あなたが果たすべき課題に委ねることに抵抗しているのです。
恐らくあなたは、職業、伴侶、個人的な充足に重きを置き過ぎています。これらは、良き力の為に闘う大いなる軍隊の一部として、あなたが抱える自らの課題に献身することで、自然な副産物として得られるものであるのです。あなたの宇宙を満たす、全ての計画の内で最も重要なこの莫大な問題について瞑想してください。良き力と悪の力の間の大きな戦いは、ボイドの中に生命を徐々に浸透することに関わっています。
この広大で普遍的な問題を、他の全ての問題の鍵として認識する時、あなたは重要なものを優先させ、個人的な世界を適切な観点で見るようになるでしょう。このことは、あなたの人生に新たな素晴らしいバランスと調和をもたらし、以前のレクチャーでお話しした深い実存への憧憬を鎮められる、唯一の信仰、永遠に生き続ける神と、あなた個人の不死についての知識へと直接導いてくれるでしょう。
私の最愛なる友人達よ、皆さんを祝福します。この祝福によって、あなたの全存在、ハート、マインドを開いてください。あなたが常に生きている創造主を経験してください。それがもたらす、完全な安全と喜び、創造的可能性の無限の泉を経験してください。自らの人生に、あなた自身を満たす一点の方向性を与えてください。これは、神と共に、神を通してのみ実現できるのです。

【訳註】題名の一節は、ヨハネによる福音書17章16節、「彼らは世のものではありません。わたしが世のものでないように。」というイエスの言葉から派生した一般的なフレーズです。

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