


パスワーク・イン・ジャパン 公式サイト
Pathwork in Japan
No.53 自己愛
Pathwork Guide Lecture No. 53
1996年版
1959年6月19日
自己愛
SELF-LOVE
ようこそ、親愛なる友人のみなさん。神は、みなさんすべてを、そしてこのひとときを祝福しています。神は、私たちのワークを祝福しています。さて、少しの間、私は肉体的にみなさんのもとを離れます。私たちの世界に住む者はみな、自分の内面のブロックや抵抗に打ち勝つため、常に自発的に自分の強さを奮い立たせ懸命に努力しているみなさんに、感謝の意を表します。光の道を歩むという気高い勇気を持つみなさん、みなさんの努力が私たちの助けとなっていることを十分に自覚してください。そのことへのお礼を言いたいのです。みなさんの素晴らしい意志なしでは、私たちが自分たちの任務を遂行することはできないのですから。
三つのグループに別れている友人のみなさん、私は、みなさんに一つの提案をしたいと思います。みなさんが秋に活動を再開するとき、初めて合同で会います。少しの変化であっても、三つのグループのミーティングを発展させてくれるでしょう。そこでは、摩擦をなくす最善の方法を議論してください。個人的に、集団的に、その議論から学ぶために自分に何ができるでしょうか。たとえ、他者の意見が明らかにその人の欠点から出たものであったとしても、それぞれの参加者が摩擦に助力しているということについて取り組んでください。目的の統合に対する概念を確立するよう努めてください。このワークに参加することによって、みなさんそれぞれが持つ責任と素晴らしい義務に気づくよう努めてください。このグループワークが何をすることになっているのか、何を成し遂げるべきなのか、そして自分はそれに対して何をするべきなのか、一人一人が明確であるよう努めてください。すべての参加者が発言権を持っています。この合同ミーティングにおいて、異論は、他者の観点への寛容な考えとともに、友好的な空間の中で自由に知的に発されるべきです。これが、休暇後の新しいシーズンを開始する際の私の提案です。もちろん、これを単に提案として受け取るか否かは、みなさんの自由意志に委ねられています。合同論議の後、みなさんはミーティングが十分ではなかったと気づき、すべてが片付くまでもう一度ミーティングの場を持ちたいと思うでしょう。そのときには、三つのグループに分かれて再度ミーティングの場を持ってください。計画を成し遂げてください。それによって、みなさんは触発されることでしょう。神聖なる魂、つまり神聖なる世界のインスピレーションに気づくよう努めてください。特に不一致や摩擦がみなさんを引き離すとき、それと心を通わせてください。
今夜私は、自己愛というテーマについて話したいと思います。何度も言ってきたとおり、真実はすべて、真実でないものへと歪められる可能性があります。おそらく、これこそが悪の持つ最強の武器です。完全に真実でないものは危険ではありません。しかし、いくつかの状況下で真実になり得るものがその他の状況で誤用され、歪められ、柔軟性のないルールとして固定されてしまうと、それは悪の危機です。真実、概念や思考の意味は、否定という極端な状態へと歪められる可能性があります。
それは、自己愛には変わりないのです。成熟した魂の中に存在する健全な自己愛はあります。しかし、無意識の姿勢と傾向が歪んでいる場合、健全な自己愛も同じように歪んでしまいます。間違った形の自己愛はさまざまな形で存在します。その中でも最も未熟なものは利己主義で、自分を他者より優位に置き、他者にとって不公平な利益を欲しがります。さらに、明らかに病んだ性質のある種のうぬぼれが存在します。うぬぼれにもまた、さまざまなレベルがあります。ほとんどの場合、その存在は感情の中に隠されており、表面的な行為や兆候として見えることがないにもかかわらず、最も外側のレベルは他者が見て簡単に気づくようなものであり、一度自己探索を始めた人であれば容易に見抜くことができます。時には、反対の外側の偽りの行為によって隠されていることもあります。こうなると、自己探索をしている人はもちろん、他者がそれを発見することは難しくなります。それを発見するためには、みなさんがこの道で追い求めているような深いワークが必要になります。言うまでもなく、少なくとも本人が「自分の行為は自分の最も深い部分の自己の表現となる」と信じているかぎり、誠実さや内的な確信に完全には基づかず、類似した感情によって維持されない正しい行為は無駄ばかりか有害です。そのため、自己欺瞞は、最もひどい外的な行為よりもさらに有害なのです。
したがって、みなさん自身の内面を、そして歪んだ自己愛の隠された傾向を探し始めてください。最初に適切な概念を見つけ、歪んだときにそれがどのように作用するかを見てください。ただし、罪悪感からくる自分の逸脱を正しい概念で包み隠そうとするのはやめてください。むしろ、誤った類の自己愛を引き起こす自分を探してください。そこには常に理由があります。友人のみなさん、歪みがどれほど間違っているか理解していたとしても、みなさんがその理由を見つけ出さないかぎり、その知識は何の役にも立たず、歪みを正すことはできないでしょう。きちんと手順を踏んでください。まず、自分の持つ間違った類の自己愛はどのような方法にあるのか見つけ出してください。隠されたすべての曖昧な感情を見つけ出さない限り、より深く進むことはできません。しかし、それらに気づいた後、より深い場所を探り、原因を掘り起こすことができます。たいていの場合、みなさんは、正しい感覚における自己愛の欠落がみなさんの歪んだ自己愛の原因であることに気づくでしょう。自分を本来あるべき形で愛さないとき、みなさんはまったく違った方向で自分を愛しすぎるはずです。言い換えれば、みなさんは無意識に、間違った治療を捜し求めているのです。自尊心(これは正当な類の自己愛です)の欠如により、不釣合いな自己愛で、自分という存在の他の領域を埋め合わせようとします。これら二つの傾向の避け難い関係性を忘れてはなりません。もしみなさんが適切に自分を愛せば、自分を愛しすぎる必要はなくなります。
悪循環の講義において、みなさんの罪について、権力に対する反感について、そして受け入れられないことや愛されないことへの恐れについて話しました。これらの姿勢はすべて、自己卑下や劣等感を引き起こします。みなさんは常に何らかの方法で自分の人生を欺くことを望んでいるため、常に自分を軽蔑しています。みなさんは、幼い子どもがやるように、楽に何かを手に入れたがります。究極的には、この願望こそが自己卑下や劣等感の真の根源なのです。自分の劣等感を説明することのできそうなあらゆるものは単なる症状であり、正当化に過ぎません。自信がなく劣等感を抱く結果、深くに隠され、人生から逃げ出したいと願う自分の一面が必ずあります。そして、投資やリスク、「自分をさらけ出すこと」なしで人生から見返りを得ることを望んでいます。言い換えれば、みなさんは何らかの方法で人生を欺きたいと望んでいるのです。この側面を見つけると、みなさんは初めて自分の劣等感、自尊心の欠如の根源に到達します。それまでは、自分の悪循環を壊すことはできません。しかし、自分の内面の成長と理解を通じて、自分はもう人生を欺くことを望まないと決心する限界点において、みなさんは根拠のある十分な自尊心を手にすることでしょう。そのときからみなさんは、自分を正しく健全な方法で愛するようになります。みなさんは、自己卑下の原因にしかならない間違った類の自己愛をもはや必要としなくなるでしょう。
自分の人生を欺くという意図を手放す行為は、内面のヴィジョンと理解を浄化します。みなさんは、自分にとっての利益になると同時に他者にとって不利益や害になるものは、どちらも自分にとって有益なものには決してなり得ないことを十分に認識するでしょう。それはしばらく現れるかもしれませんが、実際にはあり得ないことです。それを信じることは、制限された視野、つまり全体像のほんの一部だけしか見ていないという事実に起因する、この地球の人間の盲目さなのです。しかし、内面の自己認識がその実態を暴くことで、このような憶測が偽りであることをみなさんは確信するでしょう。みなさんはいまだに、他者の不利益は自分の利益になるという偽りで満ちています。少なくとも感情的には、この方法で反応している瞬間が毎日あります。しかし、究極的には、このような「取引」を手放すことによって、失ったものよりもさらに高い代償をみなさんが払わなければならないという不利益で仲間たちを苦しめずにすむということを、この道によってみなさんは十分に理解するようになるでしょう。
また別の類の間違った自己愛も存在します。その存在は、一般的に考えられているよりも広範囲に及びます。それは、病んだ類のうぬぼれであり、自分自身に酔っている状態です。これはさまざまな方法で現われてきます。私は、人間が自分の外的自己に酔っているという理解しやすいケースを議論しようとしているわけではありません。これは病んだ部分のとても酷い現われ方であり、比較的まれです。これと同じ流れにあるさらに捉えにくい部分、つまり、その酷い形よりも一般的なケースに目を向けたいと思います。すでに述べたとおり、人は、ある特定の欠点を愛しています。その欠点について嬉しく思い、何か立派なものであるかのように感じるのです。もちろん頭では、それがそうではないことを知っているにもかかわらず。しかし、もしその人が自分の反応を分析するならば、自分が自分の人生の手段や生活様式を愛していることに気づくでしょう。これは微妙で捉えがたく、純粋にポジティブな感謝の気持ちや生きていることの喜びと混同されがちです。二つの感情の境界線はとても薄いのです。感謝の気持ちと人生を楽しむことからほんの少し逸れただけで、病んだ「私は自分の人生を愛している」という反応がもたらされます。どの部分で逸れ、どの部分では逸れないかを定義するルールはありません。自分に対し完全な誠実さと正直さを持ち、自分に耳を傾け、自分の反応を観察し、それらを分析し、自分の感情を感じようと努めることだけが、自分はいったいどこで健全でポジティブな姿勢から逸脱してしまったのかについて、答えをもたらしてくれます。しかし、正反対の極端さ、つまり自分が心から人生を楽しむときの罪悪感に気をつけてください。この特定の慣習にある自己愛のほんのわずかな傾向をも発見するからです。それに沿って見つけ出すであろう間違った感情によって引き起こされる恐れと罪悪感の中で、正しい感情を抑圧することなく、これら二つを切り離してください。一度それを見つけ出したら、みなさんが力ずくで間違った反応を引き裂く必要は決してありません。そんなことをするとみなさんは決してうまくいかず、人生における当然の喜びを抑圧するだけになってしまいます。むしろ適正な方法で自己愛の欠落している部分を探すことで、自動的にみなさんの歪んだ自己愛は自動的に減っていくでしょう。
友人のみなさん、私はこれがつかみどころのない話題であることはわかっています。私たちが行っているワークをまだあまり経験したり訓練を積んでいなかったりする人たちは、私の言葉を誤解してしまいがちです。そのような人々の知性は、私の話の意義を理解するには決して十分ではありません。みなさんの感情だけが、私の話の意義を理解することができるのです。決してこの発見が原因で罪悪感を抱かないでください。それよりも、発見されたものを受け入れ、その下にあるものを探し続けてください。なぜみなさんはそのように反応したり感じたりするのでしょうか。どのような拒絶がこの「自分を愛する」「自分の人生を愛する」という自己愛をもたらしたのか、何とかして見つけ出してください。間違った形の自己愛、拒絶、想像上のこと、あるいは現実のことは必ず、ある役割を演じてきています。たいていの場合、拒絶は間違った自己愛の対極にあります。自分が拒絶されてきた部分を見つけることができると、自分にそこまで厳しくすることはなくなるでしょう。また、内的な姿勢を使ったわかりにくい方法で、無意識に人生から退き、人生をごまかし、人生を欺くことによって、自分がどのようにして拒絶に逆らおうとしているのかを見つけ出してください。これは治療です。治療によって、歪んだ反応のすぐ隣にある素晴らしく健全な感情が切り離されることはありません。このようにしてみなさんは、自分が持つ自身の喜び、感謝、楽しみなどを、いわばそれを愛するという要素なしに維持することができるようになるのです。
適切な類の自己愛とは、健全な魂の自然な特質です。自分の内にある病んだ部分を癒した程度により、自分を適切に愛することができるようになります。長い間、人類は、どんな方法であっても自分を愛することは罪深いという妄想の下で生きてきました。この信念は、病んだ類の自己愛と同じように間違っています。聖書においても、真実を教授するあらゆる類の霊的な教えにおいても、自分を愛すべきではないという言葉を見つけることはできません。自分を愛さないということは、自らが表す神聖なる顕現に敬意を表していないということを意味します。そして、自己を愛さないということは自己懲罰、自己虐待、自己否定をもたらします。自己を愛さないということは、自分が適切に機能することを妨げます。それは、他者を愛し、助ける能力も妨げてしまいます。したがって、自分を愛することは間違いだ、という誤認に気づいてください。そして、病んだものと健全なもの、つまり、自尊心と歪んだ自己愛とを区別してください。
人々はよく、自分自身のことも考慮に入れなければならない場合、公平で適切な決断を下すのにひどく苦しみます。これらの考えに気づくことがなければ、彼らは自己に対するあらゆる配慮は利己的で罪深いという集合観念でいっぱいになります。この集合観念は、自分で決定を下すという能力を完全に妨げます。もちろん、その人の持つ個人的な恐れや劣等感もその一部となります。しかし、決定を下すことは、健全な人生に欠くことができません。心や魂の歪みは、自己決定できない原因となります。一方で適切な自己愛が欠落し、他方で大きくなりすぎた病んだ自己愛が存在することは、二つの間違った両極の間でぐらつきを引き起こします。先に述べた限界点を知覚することができないかぎり、人々は出口を見つけ出すことはできません。自分自身を考慮することが利己的であると教えられてきた人々は、完全に困惑しています。彼らは、自分にとって何か利益になることは無意識的に悪いことだと思い込んでいます。しかし、そうであるかもしれませんが、そうでないかもしれないのです。もう一度言いますが、決まったルールはないのです。
明らかに正しいものと間違ったもの、良いものと悪いもの、白と黒、これらの間で選択ができないとき、みなさんは決断を下すよう要求されていることを認識してください。決断は人を傷つけることがあります。ときに傷つくのはみなさんであるかもしれませんが、別のときには賢明な決断によって傷つくのはみなさんではなく、傷つけられる人が常にみなさんでなければならなくてもよいのだということを認識してください。これは、前に私が話したことと矛盾しているように思えるかもしれませんが、他者に不利益を引き起こすものが賢明であるはずがなく、みなさんの真の利益になるはずもありません。しかし、矛盾ではありません。この地球という領域においては、どちらも真実なのです。みなさんか相手かどちらかが傷つくであろう決断に立たされるとき、みなさんは逸脱した反応と過去からの連鎖反応の凝縮されたものの最終的な結果と直面します。過去は変えることのできないものであり、したがって、現在において問題と直面するのを避けることはできません。もしあらゆる決断をも下すことをやめるなら、他のどんな方法を取るよりも、みなさんが利益を得ることはないでしょう。健全な自尊心を持って自分を大事に考えずにいるために、みなさんが利己的に振舞っても被虐的にふるまっても、自分の仲間を否定するのと同じように自分自身をも否定しているのです。自己を否定するのと同じだけ仲間を否定しているのです。正直さと誠実さをもってこのすべてをよく見つめ考えるならば、ケースによって違いはありますが、みなさんは、それぞれに応じた正しい答えを見つけることでしょう。
もし自分自身に適切な敬意を払うならば、感情的に今みなさんがしているような、自分に余分な責務を要求することをやめることができるでしょう。イメージワークの中でよく出てきて、広く知られている「私はそれに値しない」という言葉を使い、みなさんは脇道にそれます。このいわゆる謙遜の代償として、みなさんは前に述べた限界点を捜し求めることをしていません。しかし、みなさんは無意識的、感情的、そして心理的に正反対の極端さへと向かい、自分を別の水準に置き、他者から分離させ、自分が与えるより多くを要求しています。みなさんは自分の自己卑下、そして自己愛の欠落に対抗し、病んだ代償を選択するのです。最初はみなさんの反抗が他者に対して向けられているように思えますが、実際そのようなことは決してありません。心の中で、みなさんの反抗は、自分の持つ自分自身に対する低い評価に向けられているのです。
繰り返しますが、私の言葉は、私の話すことが明確だと感じられるみなさんの知性よりも、みなさんの感情に向けて語られています。ワークをすることでその言葉を情動に到達させるべきです。別の方法でみなさんが理解することはできません。無意識が、情動が浮かび上がることを許すと、混乱した感情の一塊のようにみなさんの前に現れます。私の言葉を助けにして、みなさんはこれらの感情を利用することができるようになります。感情を理解しないと、感情は完全にみなさんの息を詰まらせ、必要以上にみなさんを意気消沈させてしまいます。そして、治療や限界点を知ることができなくなるでしょう。したがって、これらの言葉を注意深く読み返し、みなさんの内面に響き渡る声を感じてください。
私は、人間の自我における懲罰の役割についても議論したいと思います。以前、長い時間をかけて、みなさんの自己懲罰のニーズについて議論しました。しかし、未成熟な大人と同様に、子どもの中には、他者を罰したい願望という、懲罰の別の形が存在します。もし他者がみなさんの望みを叶えない場合、たいていみなさんはその人を罰したいと感じます。これは、隠された、とてもわかりにくい方法で起こることがあります。それは行動として現れる必要はなく、どちらかといえばみなさんの内的な態度として現れます。
子どもとして、時にはもっと成長してからも、傷、失望、挫折、あるいは拒絶を経験すると、どんな人間でも死にたくなるということはよく知られています。これを徹底的に分析すると、傷はそう深くなくても、死にたいという願望は本物であるということに気づきます。子どもは、自分を侮辱した人間を罰したいという目的で死ぬことを望みます。子どもは、多少なりとも「あいつらは悪かったと思い、どんなに大事なものを失ってしまったかわかるだろう。あいつらは、自分のお葬式で泣くだろう」と感じたり考えたりします。すっかり大人になってからも、これらの幼稚な反応がよく起こっていることを、みなさんはよく知っているでしょう。しかし、自分が侮辱されたときにこのような幻想に浸ることはもうないにせよ、みなさんはまだ、違った形で現れるその同じ根源を自分の中に持ち続けてはいないでしょうか。それとは違う別のわかりにくい小さな反応で、全く同じように生き延びていないでしょうか。死の幻想に浸るかわりに、みなさんは、自分の仲間たちをたくさんの別の方法で罰しているのです。
みなさんが拒絶あるいは侮辱されたと感じる度に、自分の心の奥底にある反応を観察してください。そこは、懲罰という要素が現れる場所です。それを見つければ、また克服になります。慎重な距離を保ちながら、まだみなさんの魂に住みついている幼稚さに対し、罪悪感なくこれらの反応を観察してください。すべての人間はその内に、以前この人生を何とか通り抜けた子どもを連れています。その自分から慎重な距離を保ち、そして微笑みかけてください。自分という存在のこの部分と深くかかわりあうことのないように、しかし客観的に見つめてください。
自分の愛する人々を罰するための方法はたくさんあります。例えば、病気です。愛する者を罰するために、彼らにもっと優しく、同情を示し、思いやりをもつよう強制するために、どれだけ多くの人々が病気を創り出していることか!ほかの形もたくさん存在します。それらを見つけてください。もしみなさんがこの観点からも自分を認識することができれば、それは、みなさんの魂の中に光と新鮮な空気をもたらしてくれるでしょう。適切な精神をもってこのような隠された反応を認識すること、そしてそれを認める能力こそが、みなさんの精神的、感情的、そして霊的な健康に大きく貢献することでしょう。
今夜私が話したことに関して、何か質問がありますか?
質問:正しい類の自己愛に関して、自己憐憫や自己中心についてもう少し詳しく説明していただけませんか?
答え:どちらも自己愛の間違った形の結果であることは言うまでもありません。自己中心に関しては、この特定の言葉を用いてはいなかったものの、もうすでに答えていると思います。自己憐憫については、その自己表現の哀れさについて説明させてください。そのような情動を通じ、魂は何と言っているのでしょうか?魂はこう言います。「私は、自分が何も変えることができないとよくわかっています。だから、どれほど私が苦しんでいるのか、私の欠点がいかに小さいものなのか、どれほど私が自分で制御不能な状況の犠牲者になったか、それを、世界に、私の周囲に、愛する人々に、神に、見て欲しいのです。私は他者が変わることを望んでいます。もし私の苦しみを明らかにすれば、彼らは変わるでしょう」と。自分が引き起こしていないものなど何もないということを本当に理解している人が、自己憐憫にふけるわけがありません!もし自分が哀れだと感じているならば、みなさんは、自分だけが自分の人生の所有者であるという真実を受け入れていません。この真実は厄介なもので、たいてい目を逸らされています。しかし、それを受け入れることだけが、みなさんを自由にし、自立させてくれるのです。自己憐憫は自己責任の完全な拒絶です。それは、自分が変わる必要性の代わりに、他者に、人々に、神に、そして人生に変わることを強制したいという隠された願望を遠まわしに表現しているのです。
質問:健全な自己愛と不健全な自己愛との線引きはどこですればよいのでしょうか?何を不健全とみなすのでしょうか?
答え:親愛なる友人よ、これについては、この講義の中で話したと思います。他に、このことについての説明がまだ足りないと思っている人はいますか?もし他にも私の話が明確でないと感じている人がいるならば、喜んでもっと詳しく説明します。ただ、あなただけが完全に理解していないのであれば、あなたがどの部分かを聞き逃しています。おそらくあなたの心はどこかを彷徨っていたのでしょう。文章になったものを読めば、おそらくもっと理解が明確になると思います。もしそれでも理解が困難であるならば、喜んで個人的にあなたをサポートします。
話したとおり、あなたは、どこで線引きをすればよいのかというルールの確立ができていません。自分自身に尋ね、自分の感情を観察し、それらが何を伝えようとしているのか、その意味を分析することによってのみ、あなたはその境界線を見つけることができます。その境界線は個人の内にあります。それは、それぞれ個人の内的な真実であり、人間によって異なります。
質問:どのように自己嫌悪が、受け入れることや愛することから人間を遠ざけているか、おそらく明らかになさいましたよね?
答え:自己嫌悪という言葉は使っていません。自己卑下という言葉を使いました。ある方法においてみなさんは自分自身と人生に誠実でないため、自分自身を軽蔑している分、みなさんは劣等感を感じると、私ははっきり言いました。自己を適切に愛さない分、誤った自己愛でそれを過剰に償おうとするのです。
質問:ナルシシズムについてはどうですか?
答え:それは、自己愛の一つの形です。それはさまざまな方法で現れ、必ずしも、自分の外側の姿を愛するという明らかに肉体的な感覚で現われるわけではありません。ここでも私はこの特定の表現を用いずに説明しました。生命の力が外へ向かい、隣人と自分との架け橋を探す代わりに自分へ向かうとき、自己愛は歪みます。
質問:過度の自己愛と同性愛との間に、考え得る関係性はありますか?
答え:あるかもしれませんが、一般論化はできません。同性愛には、たくさんの異なる原因があります。同性愛の原因はこれだとかあれだとか言うことはとても短絡的です。霊的な観点から言うと、カルマの法則に関するかぎり、心理的要因と同じくその可能性は多様で、多方面に渡っています。霊的な要因が心理的要因と矛盾することは決してありません。それらは延長線上にあるものに過ぎないのです。現在の人生での心理的根源や原因は常に見つけ出すことが可能であるにもかかわらず、カルマの根源を簡単に見つけることはできないという違いはあります。ちなみに、これは単に同性愛のみならず、どんなことにでも当てはまります。同性愛に関して言えば、現在の人生における原因と結果は、多岐に渡る可能性を表しています。可能性の中の一つが過度の自己愛になり得ます。他の要因もまた浮かんできます。
同性愛のまた別の理由は、男性の中にある女性への過度の恐れ、あるいは女性の中にある男性への過度の恐れかもしれません。さらに別の理由もしくは可能性は、まったく逆のものかもしれません。言い換えるなら、もし一人の少年が母親をとても愛し、父親をひどく嫌い、恐れるならば、同性愛を引き起こすかもしれません。なぜなら、その少年は母親を見習い模倣したいと願うからです。彼は、母親と自分を同一視したいのです。異なる特性を持つ別の人格においても、まったく正反対のものによって同性愛へと導かれます。そして、それは母親への愛と母親との同一化よりも、むしろ、母親あるいは母親代わりの女性への恐れや嫌悪になります。したがって、ここでもやはり、一般論化はできません。一般論化してしまうことは常に危険です。もちろん、一つの要因だけがそれを決定するわけではないということを心に留めておくべきです。さまざまな理由が広く一般に存在します。見たところもっとも矛盾する要因が、同時に大きな役割を演じていることもあり得るのです。
同性愛へと導く、あるいは少なくともその一端を担っている過度な自己愛は、「ほかの人間の代わりとしての最愛の自己との同一化」という方法で作用します。なぜなら、ほかの方法の中にどれだけ病んだ心があろうとも、他者との架け橋を見つけたいという魂の抑えられない願望を完全に消し去ることは不可能だからです。このようにして、これら二つの傾向は共に作用し、同性のパートナーを選択するという表現となるのです。
質問:ハイアーセルフが女性性への存在への願望を持っているということも理由になり得るでしょうか?この切望に対する誤解した傾向のことを言っているのですが。
答え:男性の同性愛のことを言っているのですか? [はい。(質問者)]はい。それも理由になり得るでしょう。しかし、女性の同性愛についてあなたはどう説明しますか?[ひょっとして、その反対でしょうか?(質問者)]そうです。なぜなら、わかっているように、ハイアーセルフが男性でも女性でもあったり、男性性の傾向や特色、女性性の傾向や特色を含んでいたりするからです。もちろん、これは付加的な要素ではなく、むしろ逸脱の説明です。これら魂の力についての誤った解釈は感情の逸脱を引き起こします。どのような点でも同じようにそれが起こり得るということを、私たちはよく知っています。このような誤った解釈は、心理的なねじれによって引き起こされます。言い換えれば、もし男性が意思決定という行動や活発な人生の部分すべてを拒絶すれば、彼の本質の女性性の部分だけが、不釣合いに成長してしまいます。一方で、もし女性が、受動的で受容的な状態、つまり健全な方法のもとで彼女の本質である部分を恐れるならば、彼女は活動過多になってしまいます。このような活動過多は、ある一定の程度を超えると、同性愛の原因になり得るのです。私が言ったとおり、ほとんどの場合、一つだけでなくたくさんの要因が役割を演じているため、すべてをよく考慮しなければなりません。
もう一つの要因を区別する必要もあります。それは、同性愛傾向の程度で、たくさんの要素によって定められます。その程度が比較的小さければ、罪悪感や抑圧によって強められます。しかし、それに直面することで弱められます。その方法を用いて、さまざまな要因を理解するためのさらなる探求へ開きます。その程度がカルマ的に強ければ、変わりたいという内面の願望は欠落しています。すべてのケースは異なります。私が提示できるのは大まかな要点やたくさんの可能性だけです。同性愛の原因がこれだとかあれだとか言うことが、そしてたった一つ言い方ですべてのケースを網羅してしまうことがどれほど危険なことか!そのようなものは存在しません。
質問:バイセクシャル(両性を愛することのできる人)についてはどうでしょうか?
答え:その理由も多種多様です。同性愛と同じ根源もありますが、より強く健全で正反対な力によって弱められています。別の理由は、人格がとても束縛され、自由がなく、十分に自分自身に与えることができない場合です。したがって、新しいわくわくするような最初の段階が過ぎ去ったあと、感情が単調になるのです。これが連続して起こり、新しい異性のパートナーが自分の待望する解放と満足をもたらしてくれない場合、全く異なる何かを求め、同性のパートナーを捜すのです。ちょうど、強情さのほかの形が同じ形で捜されるように。ここでもまた、間違った治療を捜し求めているケースがあります。無知の中で人為的な意味を捜し求めても、結局は充足感に完全に行き詰まるでしょう。どれほど異なっていようとも、それは刺激ではなくなっていきます。その治療とは、手放すことへの内面の恐れ、自分に与えることへの恐れ、自分をさらけ出し別の自分を捜し求めることへの恐れを見つけ出すことです。これには常にリスクが伴うように感じられます。生きることへのリスク、愛することへのリスクです。このリスクを避けている分だけ、性的な単調さが広まります。そして、これはあらゆる類のいわゆる変態行為を引き起こします。あるいは、異なるタイプの人格が、宗教的もしくは霊的なマスクに覆われた美徳、すべての性的経験の否定へと変化します。
質問:同性愛は、より広範囲にわたる露出、理解、そして受容を得ているように思われます。それがオープンにされるのは良いことだと思われますか?これにより、ある人たちにとってそれが慣習になってしまうのではないでしょうか?
答え:はい。それはまさに真実です。一方で、抑圧は悪いことであり、他者の病に対する道徳的で独善的な批判は間違っています。しかし、もう一つの極端さも常に手元にあり、正しいバランスを見つけることは難しいのです。現在の傾向は、その不利益も併せ持っています。それにより、たくさんの若者が、病だと調べられたり見なされたりすべき何らかの美徳を作り出しています。仮に、ある若者が、内的および外的な人生のさまざまな心理学的要因によってたまたま同性愛者になった人を尊敬し影響を受けているとします。その若者が、この人を通じて同性愛者になることのほうが良くて「かっこいい」とする世論が存在する環境に引き込まれたら、その若者が自分の病んだ精神を変えたり癒したりしたいと望むことはさらに難しくなるでしょう。
ところで、同性愛は、権威に対するたくさんある反抗の形態の一つでもあります。同性愛の傾向をまったく持たない人が影響を受けることはないということも真実です。しかし、肝心なのは、現在の状況において、比較的小さな傾向は病とはみなされないということです。この特有のテーマに関して、特定のグループの中では、ただ単に、徐々に成長する世論によって強められ正当化されます。
成熟するプロセスの間、少なくともわずかに同性愛の傾向のある人間は比較的少数です。その人格がほかの点で生じる場合、外的影響はその傾向を不必要に助長します。これは、その問題のネガティブな側面です。健全な中間の道が見つかるまで、たくさんの極端な状態を経験しなければなりません。これはすべての問題に当てはまります。若者たちへの教育においても、同じ問題があります。
質問:最近読んだ本に、霊や魂の存在は、完全であるために男性でも女性でもあらねばならないとありました。ということは、4~5回の転生では男性に、それからまた同じ回数を女性に転生し、その結果として人は、最初の転換点で同性愛者となる。それは起こり得るのでしょうか?
答え:あり得ますが、そうである必要はありません。さらに、私たちが転生は4回か5回だと言うこともできません。当てはまるケースもあれば、当てはまらないケースもあります。繰り返しますが、一般論化は過ちへとつながります。本来の霊的な実在は一つの存在であり、男性性と女性性の両方の特質から成るということはみなさん知っています。堕落して初めて、その分裂が起こったのです。必ずしも均等に分裂するわけではなく、その実在の一部は男性性の全てを、そしてまた別の部分は女性性の全てを持ちます。堕落は天地創造以前の混沌の結果で、個人の分裂もまた、混沌としたものでした。したがって、ある存在において魂はさらにもっと不揃いで、両半分に男性性と女性性の特性を併せ持っているのです。また別の例では、男性性と女性性の分割が、ちょうど同じではないにしてもより近い割合で起こることもあります。その分裂の均等と不均等により、転生は一つの性から別の性へと変わるのです。もし分裂した魂の実在の一部が圧倒的にどちらかの性に優勢な場合、もう片方の性がそれに相応し、転生のサイクルの中で性の変換が起こることがよくあります。その分裂の大きな不均等の結果として性の変換がよく起こるケースでは、同性愛は、初めて過去生とは違う性で生まれてくるという結果をもたらすこともあります。しかし、このことが心理的要因を変えることは全くありません。事実、すべての転生は存在し、それゆえにみなさんはより健全に、そして全体になります。もしある存在が間違った心理的要因を除去しなければ、その人は、同性愛を克服するのが困難な人生をもう一度歩むこととなるでしょう。したがって、どのようなカルマの法則の真実があろうとも、その根源を常に見つけなければなりません。他を締め出すことなどできないのです。
しばらくの間、肉体的にだけ、みなさんとお別れします。しかし、みなさんの魂の友人がみなさんと共にあらず、みなさんの近くにいないというわけではありません。それを覚えておいてください。この休息期間中、みなさんが、自分の魂の中にある新たな強さ、新たな意志の力、新たな理解、そして内的な成長と変化のための新たな願望を見つけることができますように。これよりも実りのある、永遠の満足感や充足感をもたらすものなど存在しません。神の祝福はみなさん一人一人と共にあり、みなさんを待っています。魂の扉を開き、神の祝福をみなさんの内面の存在にじっくりと浸透させてください。平和の内にあれ、親愛なる友人のみなさん。神の内にあれ!
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