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Pathwork in Japan
No.97 幸せを妨げる完璧主義「感情の操作」
Pathwork Guide Lecture No. 97
UNEDITED版
1962年2月2日
幸せを妨げる完璧主義「感情の操作」
PERFECTIONISM OBSTRACTS HAPPINESS; MANIPULATION OF EMOTIONS
親愛なる友よ、ご挨拶申し上げます。ひとりひとりに神の祝福がありますように。共に過ごすこの時間が、ワークが、祝福に包まれますように。
神を見つけようと、多くの方が真摯に努力を重ねています。しかし、神とは実際何なのかと尋ねられたとき、有意義な答えが出せる人は少ないのではないでしょうか。神に漠然とした期待を抱き、神を見つけようと努力を重ねているとき人は、知らぬ間に、幻想や、掴みどころのない靄のかかった想像に捉えられてしまいます。とはいえもちろん「神探し」というものがあるのも確かです。神を見つける作業は実は、確固としたプロセスで、靄がかかっていたり、非現実的であったり、幻想などではありません。「神探し」と言ったとき、その意味は人の数だけ存在します。神を見つけることとは、すなわち本物の自己を見つけることなのです。あなたが少しでも自分を発見できているならば、比較的、調和の中で日々を過ごしていることでしょう。宇宙の法則を理解し、受け取っていることでしょう。愛することができ、歓びに携わり、また歓びを経験していることでしょう。あなたは本当の意味で自己責任を負えているはずです。たとえ外からの評価を諦めることになったとしても、自分自身であることに勇気を持ち、自分自身に誠実であることでしょう。このプロセスを何と呼ぶかは別としても、こういったことすべては、あなたが神を発見できている証拠です。自己疎外から故郷に帰ってきたと、そう呼べるかもしれません。
あなたが本当の自分の状態にあるかどうかを確かめる方法はたくさんあります。そのひとつに歓びを経験し、人に分け与える能力があります。あなた自身が歓びに満ちていなければ人に分け与えることはできません。
こんなにも不完全な世界に生きながら、どうして歓びで満たされることなど可能なのでしょう。意識的であれ、無意識的であれ、歓びに満ちた人生という言葉を耳にしたとき人は、完璧な人生を思い描くものです。自分が不完全である、または周りの人や人生の状況、人間関係に何かが欠けていれば、人生を楽しめません。これは他の内的な葛藤や混乱と比べても大きなものです。頭では皆、完璧など存在しないことは分かっていて、だからこそ不完全な状況で自分の反応を抑圧しようとするのでしょう。しかし抑圧は、葛藤や混乱を減らすどころか、強めてしまいます。知恵を、理解しているかのように表面的に振舞うことと、感情として経験することには大きな違いがあります。ワークをこれまで歩んでこられて、皆さんもこのような不一致を多く経験してきたこととは思いますが、それでもまだ、自分の内面に潜んでいる完璧への要求に気がついていないのです。同じ内容をこれまでにも別の文脈でお話ししていますが、ここで改めて同じ題材を取り上げる必要があると感じています。今回は、人生の歓びを否定する自己疎外と完璧主義という角度でお話ししようと思います。思い切って言わせていただくと、どれだけの進歩を遂げているかに関わらず、ここにいる皆さんは残らず、完璧でなければならないと自らに課している要求がどれほど本当の自分からあなた方を遠ざけているか、そして人生の歓びを妨げているかに気づいていません。100パーセントの歓びのことなどではありません!そうではなく、人生をじゅうぶんに生き、経験や成長、そして何かを感じる歓びを、より大きく発展できる人生のことを言っているのです。
不思議に思えるかもしれませんが、あなたが自分の不完全さを受け入れれば受け入れるほど、より多くの歓びを人に与え、そしてまた人から受け取ることができるようになります。あなたの幸せは、どれだけ不完全さを受け入れられるかにかかっているわけですが、この受入れとは言葉や理論上のことではなく、感情を伴った経験によるものでなければならないのです。皆さんよくご存知のように、このふたつはまったくの別物です。あなた自身をありのままに受け止め、矛盾を暴き、一瞬でも受け入れるためには、計画的なワークを徹底するという、大いなる自己探求が求められます。
たとえば不完全な人間関係は、受け入れることではじめて歓びに達し、お互いに歓びを与えることができるようになるのです(これはもちろん、相手を失うことへの恐れや、不承認に対する恐れによる不健康な服従の関係に当てはまるものでは決してありません)自分自身の不完全さを受け入れてはじめて、あなたという独立した個人の中にある歓びを育み、経験し始めることができます。皆さんご存知だとは思いますが、完璧でありたいという内なる要求は、現実と互換性がないのです。
多くの場合、自分が掲げている完璧の基準に満たないものが何なのか、それすらも把握していません。これでは、不完全さを受け入れるための、じゅうぶんな成長はできません。あなたは自分の欠陥、つまりは不満や苛立ちを抑圧はするのですが、こういった感情の存在に完全に気づいているわけではありません。完璧は手に入らないと、なんとなく表面的な知識としてさらい、頭で理解してはいるのですが、自分が何を素通りしているのか、何に反抗しているのかに気づいていません。自分の不満に気づかないことでどれだけの破壊的なエネルギーが生み出されているか分かっていないのです。抑圧が害である理由をふたつ挙げてみましょう。もしもその気があるならば、ほとんどの苛立ちは不必要であり、苛立ちの原因であるパターンを変えることで取り去ることができるのだと理解できることでしょう。これがひとつ目の理由です。ふたつ目は、抑圧をすることで、たとえば不完全さのように、変えられないものを受け入れることができなくなってしまうからです。より多くの満足を獲るために変化することと、楽だからという理由で今の状態を受け入れることの違いが分かるためには、より意識的になっていく必要があります。完璧など存在しないと言いながら、深い部分では変えることができない何かによく、反抗しています。その逆に、内なるパターンを変えることで今よりも多くの満足を獲ることができるにもかかわらず、完璧主義のために成長が妨げられ、行き詰っているのです。
人生や運命、他者や自分自身への要求や不満、切望や文句と向き合うという贅沢を受け入れることは、ありのままの自分に近づくための大切なステップです。自分のどこにごまかしがあるのか探してみましょう。自分が完璧でないことに憤慨しているところがあるのではないでしょうか。不完全さをじゅうぶんに受け止めるためにはまず、不完全さに対する憤りに気づかなくてはなりません。憤りをじゅうぶんに意識することができてはじめて、不完全さを受け入れることができるのです。不完全さを受け入れることができてはじめて、歓びの人生を送れるのであり、人間関係を楽しめるようになるのです。しかし、あなた方の住む地球には存在しない完璧さを、無意識のうちに求めているかぎり、不完全さを受け入れることはできません。これではあなた自身の人生や人間関係を無駄にしてしまいます。今よりも断然良くすることができ、変える余地があることに注力することができなくなってしまい、成長できなくなってしまいます。
自分自身の不完全さを受け入れてはじめて、歓びを受け止めることができるようになるということ、そして、不完全さを受け入れてはじめて成長することができるようになるなど、逆説的だと思われるかもしれません。しかしよくよく考えてみれば、実際そうだなと納得してもらえるのではないでしょうか。簡単に聞こえるかもしれません。しかし、自分の反応や感情に多くの場合気づいていないことからも、そんなに容易とは言い難いのです。自分の反応や感情に気づいていないということは、たくさんの口実や隠された落とし穴が存在しているということであり、プロセス全体に細心の注意と真の意志が求められるということです。とはいえ、不完全さが真実である以上、一旦少しでも前進が達成できれば、その後はこの世で最も単純な作業だと思えることでしょう。
ここでふたたび申し上げますが、あなた方の世界の現実もしくは真実とは不完全さです。そしてあなた方の個人的な魂や感情の状態が映し出している現実や真実は、この不完全さに対する拒絶です。世界と魂、それぞれの現実に向き合わないかぎり、ここから先進んでいくためのしっかりとした土台を獲ることができません。
あなた方が励んでいるパスワークの道のりにおいてでさえ、微妙であるとはいえ完璧主義の態度が蔓延しています。「自分の問題をまだ解消しきれていないなんて。解消できなければ、幸せにはなれない。私は問題解決に向けて気短に、衝動的に、そしてせかせかとしなければならないし、現在に生きることなんてできない。未来を求め、未来に生きなければ。未来ではきっと私は完璧で、完璧な幸せや完璧な愛、そして完璧な人間関係を経験しているに違いないのだから」こういった態度は大抵、意識されることはなく、このような形で捉えられることはないとはいえ、感情を文字に置き換えるとしたら、似たようなものになるのではないでしょうか。人生で抱えている問題すべてを解消するなど不可能だと感づき、目が覚めるとき、あなたは落胆するでしょう。「一体、何の意味があるというのだろう。だったらなぜ、自分の真実に向かい合う必要などあるのだろう」という気持ちにさえなるかもしれません。こういった反応はまさに、成長のプロセスに対するあなたの完璧主義を表しています。あなたは無意識に、欠陥のない完璧さを期待しているのであり、一歩一歩、段階を追った成長を望んでいないのです。
まったく問題のない状態など、求められていません。問題のない状態など不可能なのです。人生をじゅうぶんに生き、意識の範囲を広げ、感情的にじゅうぶんな経験をするのに必要なものは完璧さではありません。必要なのは唯一、自分自身をよく見つめ、変化を必要としている部分はどこなのか見定め、選ぶことです。不完全さを受け入れることで、不完全さが少し和らぎます。というのも、変化に必要な柔軟性は、不完全さを受け入れることで獲られるからです。不完全さに対するあなたの急いた気持ちと羞恥心は、固い壁を作り出し、成長と変化を不可能にしてしまいます。
ここで問題なのは、二者択一の態度です。二者択一の態度が邪魔になっているのです。自分の中にある不完全さを無視し、瞬時に達成できる完璧に向かって努力しなければならないと感じているか、はたまた進歩への努力をすべて諦めるかのどちらかになってしまいます。極端な態度がいつでもそうであるように、この例もまた、相互依存の関係にあります。両方とも手放すことでのみ、健康的で建設的、そして生産的な態度が生まれ、そして個人の存在の一部として統合されるのです。
間違った完璧主義の態度には、もう少し微妙なものである剥離というものが存在します。世界や宗教、外側のルールによって押し付けられた基準に従って完璧になろうとする傾向です。外的な権威に従う、とも呼ぶことができるでしょう。たとえ微妙であったとしても無意識のこの努力は、自己疎外から生じたものであり、またより深刻な自己疎外へと発展します。ここでの生産的なアプローチとは一体何でしょう。それは、あなたが感じていることは何か、求めていること、恐れていることは何かを見つけ、最奥の目的を探し当てることです。真実の自己の目的を探すのです。
完璧さではなく成長を選択し挑むとき、あなたは今に生き始めます。外側から押し付けられた価値観ではなく、あなた自身の価値観を見つけ始めます。自分自身である代わりに選択していた微妙な偽りや、偽りを重ねる姿勢、見栄えのための行動といった秘めた態度を手放します。自分自身の価値観の発見は自己の本質へとあなたを導き、自己疎外の感覚を和らげ、自分は自分自身をして自分なのだという感覚へと発展し、末端の層にではなく、本質へと錨を深く降ろします。
あなた方の理性は「私は偽りなどしないし、見栄えのための行動などしない」と即座に答えることでしょう。今お話ししているのは、表面的なことではありません。感情のように微妙な内面では皆、こういったことから完全に解放された人などいないのです。
ですから、不完全さを受け入れなさい。そうしてはじめて、成長することができるのですから。否定することで、成長ができなくなってしまいます。あなたの中の完璧主義の存在がまさに、成長を妨げ、強張りや内に秘めた過激主義を生み出すのです。
人は皆、自分の感情や自然に流れている感覚を曲げ、操作するよう、強く条件付けられています。自分が実際にこういったことをしているのだと徐々に気づいていくためには、じゅうぶんな時間と注意が必要です。操作も、完璧主義がそうさせるのです。意識の表面に現れた感情を不完全とみなし、無理に本物ではない感情を上乗せします。感情が自然かつ有機的に機能できず、外側からの押し付けによって妨げられるとき、一体どうして真の自己でいることなどできるでしょう。真の自己はどんなことがあろうとも自発的であろうと挑むのですが、感情が邪魔されながらも自発的であるなど、できるはずがありません。こういった妨げは、さまざまな微妙な形で起こりえます。強く行き過ぎた感情を自分自身に強いているときもそうです。こういったとき、自分は感情の操作などまったくしていないかのようについ思ってしまうかもしれません。ドラマチックにしすぎるとき、何かを大げさにしているとき、実際の感情よりも大きなものを無理に自分に感じさせようとしているとき。以前にも何度か、こういったことについてお話ししてきましたね。今回は、自己疎外という観点からこの現象を見てみましょう。一見害のないこういったことが、なぜそれほどまでに有害なのか理解しましょう。
本題に入る前に、感情を操作するもうひとつの方法を取り上げます。その方法とは、感情のじゅうぶんな力を禁じること、強度を奪ってしまうことです。どちらも、自然な感情の流れを改ざんします。人は人生の感情的な側面を信頼することはなく、感情は機能できません。またその成長が励まされることもありません。どちらの態度も間違った警戒心や非現実的な恐れ、強制的な意志などが動機となっています。大抵の場合、ひとりの人の中で両方の方法が取り入れられますが、どちらをより拠り所とするかは、各々の人格の構造や、その人が日々選択している表面的な解決の方法、抱えている問題など、たくさんの要素に左右されます。感情の操作はそれ自体が目的となってしまうものです。自然な形で感情が機能するにまかせていないことに気づき、観察できるようになるには、ワークでの大きな前進が必要です。
こういった強制的な感情の操作は、あなたの中で抑圧されている強いニーズが原因です。あなたは自分のニーズに気づいていないか、もしくはそのニーズがどれだけ強い物であるかに気づいておらず、そのために操作はより強くなってしまいます。自分のニーズにじゅうぶんに気づき、あらゆる角度から理解できたとき、ニーズがもたらす緊急性や強制観念は和らぐことでしょう。緊急性や強制観念は、本来の感情を曲げる原因であり、少なくともその一部を担っています。
認識されていないニーズによって引き起こされる緊急性は、実際の感情からあなたを引き離し、その距離をより大きくします。無意識を言葉にすると次のようになるかもしれません「感情がじゅうぶんに強ければ、私は満たされる」と。あるいは、もしあなたが恐怖を感じやすく、悲観的な人格の持ち主だったとしたら、ニーズを認めようとはしないでしょう。ニーズがもたらす緊急性は放っておき、感情をどうにか外へ押し出そうとします。外とはつまり意識の外ということです。どちらにせよ、感情を流れるにまかせ、観察し、感情から学び、自分の中で起こっている本当の状態を認識する豊かさを自分に許していないことになります。本来そこにある感情を強めたり弱めたりすることは、強制的な改ざんであり、感情の機能に障害を与えます。直感的で創造的、そして自発的なあなたの能力が発揮されるのを妨げます。感情を何か別のもので置き換えてしまうと、矛盾や不調和が生まれます。感情の豊かさは禁じられ、自分自身を貧しくしてしまいます。表面的に生きることになり、お話ししたような浅い生き方になってしまうのです。
ここでまず目的とするべきは、あなたが何を本当に感じているのか、そして求めているのかをじゅうぶんに意識するということです。言ってみれば、一息ついて、あなたの意識の表面に感情が満ちてくるに任せてみることです。必ずしも何かの行動に移す必要はありませんが、感情が本来の自然な強度で現れたとき(以前の感情に比べて強度が足りないと感じるかもしれませんが)故意に強めたり弱めたりすることなくそのままにしていると、自分自身でいるということはどういうことなのか、的確に感じ取ることができることでしょう。同時に、あなたの人生やあなた自身の問題に、今までとはまったく別の見解をもたらしてくれることでしょう。
今までに何度もあなたは、こんなふうに自問してきたのではないでしょうか。「どうしたら本当の自分とは何なのか分かるのだろう。偽りの層や、押し付けられた防衛的な層にあまりにも慣れてしまい、第二の天性となってしまっている。一体どちらが本物の自分で、どちらが自己防衛のメカニズムなのか分からなくなってしまった」感情の誇張や抑圧を観察することでようやく、真の自己の反応を知ることができます。大抵の場合、この反応は誇張と抑圧の間に位置しています。そして、あなたの無意識のニーズによって操作されていない本物の感情を知ることは、あなたの内的な環境を今までとはまったく違ったものにし、結果的に外的な環境をも変えていくのです。
今お話ししていることは、必ずしも個人セッションで行えることではありません。もちろん、セッションで話には上がるかもしれませんが、気づきは、ひとりの時間に静かに自分を観察することで獲られるのです。とはいえ、もちろん、個人であれグループであれ、すべてのプロセスはあなた自身の中で本当に起こっていることが何なのかをより深く意識するための助けとなります。
今までのような操作された感情ではなく、自分が本当に感じていることを探す作業は、くつろぎ、本当の感情が沸き上がるに任せることで起こります。「本当にそんなに強く感じていたのだろうか」「少し傷ついたかもしれないけれど、結局のところ本当にそれほど気になっているだろうか」と、今までの自分の反応を振り返ることができるようになります。恐れや、要求、固執し続けなければという深くにまで染み込んだ考え方が、感情を大げさにし、または小さくする原因となっているかどうか自問できるようになります。自分自身や他者に対する「ねばならない」という想いが純粋な感情を改ざんしている可能性はないでしょうか。あなたの感情の真実を確認できるのはあなただけです。あれやこれやと操作することなく、自分自身の感情を観察する環境を整えるとき、新たな力、新たな確信が内から湧き上がってくることでしょう。なぜなら、操作されていない本物の感情は、真の自己から生まれるものだからです。あなたが普段使っている偽りの解決策や、自己防衛のメカニズムによって押し付けられた偽りの感情。これらで埋め尽くされた迷路を通過してはじめて、本物の感情に行きつくことができます。ごく小さな痛みに照れて逃げてしまう、または痛みなどすべてとっくに乗り越えているはずだという完璧主義の考えから、痛みを伴う感情など絶対に経験したくないというのなら、一体どうして原因を知り、あなたという存在のより深い現実に辿り着くことができるのでしょうか。あなたが今、破壊的で激痛を伴う感情を感じていたとしても、大げさな感情も抑圧された感情も、すべては幻で真実ではなく、実のところ自分はまったくそんなふうには感じていないということを、一体どのようにして自分自身に言い聞かせることができるのでしょうか。この完全なる真実をどのようにして納得させることができるのでしょうか。
操作された感情が現実ではないと知ることは、計り知れない安堵をもたらします。しかし、一息つき、本物の感情が姿を現わすのに任せ、適切な質問を自分自身に問いかけ続ける気持ちがなければ、安堵には至れません。自分が感じているままを、勇気を持って感じなさい。合っているか間違っているかに関わらず、自分に強要している感情や、他者から期待されていると思い込んでいる感情も横に置いて、自分が感じているそのままを感じなさい。もし何かを大げさに捉えている自分がいるのなら、人が自分にどういった感情を持ち、また行動するべきだと思っているのかを感じなさい。なぜなら、大抵の場合、これが感情を大げさにする主な理由だからです。つまり、他者を強要する方法なのです。
こういったことを観察してください。感情を操作するこの二通りの方法を、誰しもが両方とも使っています。何かをドラマチックにし過ぎる態度は、力の誤用へと発展し、感情の抑圧は状況から常に身を引く態度や、偽りの落ち着き、生きることや経験からの逃げと関係しています。どちらも浅はかさの元であり、本物の経験とはいえません。感情を大きくし、大げさにする傾向のある人は、実際に鋭く何かを経験しているのではないかと、何気なしに思うかもしれません。しかしここではっきりさせておきましょう。本物でないものはすべて、自己疎外へと発展し、また自己疎外から発生しているため、浅はかなのです。主情主義でたとえうまくいっていたとしても、魂にとってこれは本物の経験にはなりません。過度の感情の装うことはもしかしたら、自分のニーズによって自分自身の人生や他者を屈服させたいと無意識に望んでいるからではないでしょうか。つまりその真意は、操作なのです。
逆に、状況から身を引く態度は、実際の感情よりも控えめに表現することと関係しているのですが、これは自明ですね。
今お話ししていることに細心の注意を払うようにしてください。とても大きな結果をもたらします。自分が本当に心から感じていることは何なのか、自分に聞いてみてください。人はすべてを具体的に見て、自分の反応のすべてに留意しているわけではないので、見抜くのはそう簡単ではないかもしれません。しかし実際、あなたは反応をしているのです。自分の真の反応を見ずに飛ばすことは世界共通の現象ですが、これが人生や自己から気づきを奪い、自己疎外の原因となるのです。自己認識があってはじめて、人生や他者に対する気づきが生まれるのです。そして自己認識とは、あなた自身の真の反応に気づくプロセスに他なりません。もしかすると、表面的には内なる反応と外が一致しているように見えるかもしれません。しかしそれは単に、経験していることに対して半分眠ったような状態で無意識なのであり、鈍くなっているだけなのです。目を覚まし、鋭く意識できるようになるためには、時間と努力、集中と鍛錬が必要です。一夜漬けでできることではありません。
今回お話しさせていただいていることに着手し始めると、出来事の数日後には、自分の反応に気づけるようになっていることが分かるでしょう。即座に意識できず時間がかかってしまったと自分を叱るのが、突発的な反応ではないでしょうか。しかしこれは進歩なのです。この進歩なしには、自分の本当の反応に気づくことはなかったかもしれないのですから。完全に盲目に、気づかず、通り過ぎていたかもしれないのです。反応への意識が遅れているとはいえ、まったく意識されないことに比べれば大きな進歩です。一瞬にしてすべてを完全に意識することなどできないのであり、この不完全さを受け入れてはじめて成長のプロセスに歓びを感じることができるようになるのです。出来事と、自分の反応に気づく時間が短くなるよう、さらなる成長へと歩みを進めることができるのです。一歩一歩の成長を遂げていくことでのみ、出来事と気づきの一致が可能なのです。自分自身の反応のほとんどに、自分は気づいていないのだとじゅうぶんに理解できてはじめて、この盲目さは徐々に消えていきます。自分の中で実際に起こっていることに意識的になるほど、いまだに無意識に隠れている完璧主義に気づくことができるのです。この完璧主義があるかぎり、他者や自分、人間関係や人生をありのままに受け入れることは難しいでしょう。そうなると、誰ともうまくいかず、他者に対して悲観的になってしまいます。不完全な自分や状況、人間関係に歓びを感じることは難しく、せっかく得られるものも得られなくなってしまいます。
それでは皆さん、質問していただいて結構です。
質問:たとえば、自分の中の攻撃的な感情が好きではないとします。とても強い感情です。自分の中の常識は、こんなふうに感じてはいけないと諭します。問題の相手は、その人自身が何かを抱えているのだと頭では理解していますが、それでもやはりこの感情は持っていて気持ちの良いものではなく、そんな自分の感覚も認めています。このようなとき、どう対処したらいいのでしょうか。
回答:第一に、今のあなたの段階では違った感情を感じることは難しいと気づくことです。あなたは「こういう攻撃的な感情を持つべきではない。相手は未解決の問題を行動化しているのだから、私ももっと、分かっていなければならない」と心の中で思っているということです。つまりここでもまたひどく歪んだ形で完璧主義が姿を現わしているといえます。あなたが心の中で思ったことはすべて真実かもしれませんが「するべきではない」という完璧主義の姿勢にこそ、本当に留意しなければならないものが含まれています。ただし、次のように自分に語り掛けると話はまた違ってくるはずです。「私は暗闇のなかで模索している。だからこそ、こういった感情を抱かざるをえない。ひとりの人間として私は、よく暗闇のなかで模索している。私は答えを多くは持ち合わせていない。私は、他者を理解することができない」と。それでも、人はなぜか次のようにも考えるものです。「私は、皆のことを理解するべきだし、皆も私のことを理解するべきだ。私はまた、自分の人生や人間関係に関するすべての答えを持ち合わせているべきである」この態度が、事をとてもややこしくしてしまうのです。人間としての限界を受け入れることができてはじめて、攻撃性や敵意は姿を消します。なぜなら、否定されたと感じ、心を痛めた自分がどこか深くにいることに気づくからです。こういった感情を恥ずかしいと感じたり、恐ろしいと感じたりすることが、元々の感情よりも不快である攻撃性を、自らに押し付けることになるのです。一度、痛みという純粋な事実に気づくことができれば、対処はより簡単になります。そうしてそれほど時間が経たないうちに、痛みの感情は消え、あなたの真実の姿に近い純粋な感情が入る余地ができることでしょう。何にしてもまずは、人間としての自分の限界を受け入れなければなりません。あなたも、そして他者も、常に理解し、そして知っているべきだという期待を手放すのです。自分が暗中模索の状態なのだとすっかり認めてしまえば、何を理解しきれていないのか、特定することもできるかもしれません。理解が及ばないこの不明晰な部分が、今後そのまま残るかもしれないですし、または、抵抗を手放すだけで自動的に解決されるかもしれません。両方の可能性を受け入れるようにしてください。同時にいまだに存在している自分の攻撃性を受け入れ、元々痛みだったものが歪んで攻撃性になったのではないだろうかと自問してみてください。そして痛みを、受け入れてください。こうすれば「攻撃性など、すでに手放していなければならない」と諭す堅苦しい衝動よりも早く、答えに辿り着けるかもしれません。理解していただけましたか。
質問:これはある意味、完全性の欠乏を歓んで受け入れるという、さらなる成長への志しを失うことへと繋がりえるのではないでしょうか。
回答:まったくそのようなことはありません。今回のレクチャーで広範囲に渡りこのことについてお話ししたと思います。後でレクチャーを読み返していただければ理解できるのではないかと思いますが、もう一度、繰り返すことにしましょう。完璧さと成長を区別してください。あなたが成長を望むなら、そして成長とは一歩ずつしかできないのだと気づくことができるなら、完璧からは程遠いかもしれませんが、それでも停滞は起こりません。不完全さを受け入れることは停滞した状態にとどまることとは違います。今回の人生で完璧になることは絶対にないと知りながらも、精一杯の想いで、成長と変化の可能性がある部分を変えていこうと望むということです。このふたつは決定的に違います。すでにお話ししましたが、これが成長の唯一の方法です。完璧主義者はあまりにも重荷で、落胆や強張り、そして見せかけの態度へと発展し、成長が不可能になってしまいます。ある適度、お分かりだとは思います。「するべきである」「しなければならない」を多く含み、暴虐で大きく膨れ上った理想化された自己像が自分のなかのどこに存在しているのか探してください。まさにその場所が、成長を必要としているところなのです。この理想化された自己像の手が及ばない領域のみ、成長しているのです。完璧主義は見せかけや強張りを促進し、見せかけや強張りは成長や変化を押しやります。自分自身の不完全さのなかでくつろぎ、不完全さを隠すための見せかけをすることなく楽にいられたときはじめて、成長できるのです。このときはじめて、あなたの魂は成長のための条件を手に入れます。こうしてはじめて、成長のための土壌が整うのです。
質問:私も同じことに質問をしてもよろしいでしょうか。目的へ向かうことと、衝動の違いを、プライドと身勝手さ、そして恐れを背景に説明していただけますか。
回答:完璧主義があるかぎり、成長は妨げられます。成長の促進にならないプライド、身勝手さ、そして恐れがそこに存在していることになります。完璧になることを望み、完璧でなくてはならないプライド。完璧でない部分があることを知っているあなたは、完璧である振りをすることになります。ここで再び強調させていただきますが、あなたという存在の全体を言っているわけではありません。存在としてのあなたの中にはもちろん、くつろぎ、自由で、偽りなどないところもたくさんあります。それでも同時に、理知的でなければ感情的に、どうしても受け入れることが難しいと感じている部分もあるのではないでしょうか。あなたが不完全だと感じていることは、他の人にとってそうは映っていないかもしれません。その逆もしかりです。ある特定のことにあなたは、常に勝利していないと恥ずかしいと感じているかもしれません。こういったとき結果的に自分を偽ることになるのですが、他の人にとって同じだとはかぎりません。ここでいう偽りとは、愚かで表面的なもののことではなく、より緻密で奥に潜んだ心労のことを指しています。あなたが主観的に感じ取る拒絶や失敗は、あなたが恥だと思っている不完全さを作ります。そして恥辱あるところには、偽りが存在しているはずなのです。こういったことはすべて、強烈なプライドがそこにあることをほのめかしています。
身勝手さは、自分は今すでに完璧でなければならないと主張します。本人は自分が完璧でないことをよく分かっているので、少なくとも表面的には完璧であろうと必死になります。これも先程と同じように、偽りですね。プライドも身勝手さも、偽りに発展するのです。別の言い方をするならば、両方とも、真実から人を遠ざけます。今お話ししていることはすべてとても微妙なことなので、視界や意識から洩れ、隠れている感情を、みなさんが歩んでいるパスワークなしに理解することはほとんど不可能と言えるでしょう。自己探求というプロセスに打ち込んでいる場合を除いて、こういったことは単に言葉として入ってくるか、もしくは大した意味を持たないことでしょう。ほんのひと時、何かしらの意味を持つかもしれませんが、そう時間が経たないうちに忘れられてしまうのです。これは、パスワークの道を歩んでいる人でさえ経験することです。
恐れには、ふたつの在り方があります。ひとつは「もしも私が完璧でなかったら、私は不幸せになるか、もしくは認めてもらえない、または愛されないのではないか」と恐れることで存在する恐れです。あるいは「もしも相手が不完全だったら、その人は私の幸せを妨げるだろう」というものです。終わりのない恐れをあなたは、身勝手さや、偽りという名のプライドでどうにか押しのけようとします。もうひとつの恐れの在り方は、特に毒だといえるのですが、それは、暴かれることへの恐れです。期待しているほど自分は完璧ではなく、完璧なふりをしていることが見抜かれてしまうのではないかという恐れです。見抜かれないためにあなたは、貴重なエネルギーや魂の力を、表面を覆う外壁に投じます。この外壁はあなたの人生を不毛にし、本物の感情を経験する力を奪います。結果的に、自分を抑圧しごまかす必要が出てくるのです。
質問:ひとつ前のレクチャーで、副次的な反応と根本的な反応についてお話しされていたかと思います。副次的な反応とは、操作された感情からくるものであり、根本的な反応は逆に、真の自己からくるものという推測で間違いないでしょうか。
回答:はい、正解に近いのではないかと思います。ただし、今我々は遥かに深い部分にきているので、これまでの理解では完全な正解とはならないでしょう。副次的な反応とは、今夜ここでお話ししている原因がもたらす結果です。我々のワークは、原因を検証し始めるレベルに達しています。過去では、より結果に近いものを扱ってきたわけです。しかし、このふたつの間にある繋がりを見出しているという点で、あなたはとても正しいといえます。副次的な反応、または根本的な反応の欠如は、抑圧や自発性を欠いていることに起因し、そして抑圧や自発性の欠如は、操作に起因しているのです。
質問:とても言葉にしにくく、説明が難しいのですが、質問したいと思います。私は長い間、深刻な鬱の状態を経験してきました。求めてきたことすべてに失敗してきたのだと気づきました。そのことに気づき、加えて、完璧主義という私のなかにあるコンプレックスについて話を聞くことができ、とうとう自分の間違えを受け入れることができました。私にとって長い時間が必要だったわけですが、何にせよ、ようやく自分の失敗に向き合うことができました。はじめはとても不幸せに感じました。数日後、失敗や間違い、その他すべてを受け入れ、素晴らしく目の覚めるような思いと安堵を感じました。どのようにかは分からないのですが、この感覚はしばらくの間続きました。それでも時々、失ったものすべてにハートが泣いているのを感じます。こうなると、これは何かをごまかしている感覚なのか、本物の感覚なのか、わからなくなってしまいます。
回答:そうですね。あなたは大切な一歩を踏み出しました。ただし、継続しなかったのです。そこに留まってしまい、次にくるものを見なかったのです。私が今申し上げている意味を汲んでくださるといいなと思います。なぜならこれまでの経験からもお分かりだとは思いますが、自ら発見しないかぎり、私がここで教えて差し上げたところで、あまり大きな助けにはならないからです。それでも、お伝えはしておきますね。つまり、感情を大きく歪めて盛り上げる傾向によって、失敗が誇張されているのです。その部分を掘り下げていくことがあなたにとって大切です。自分の傾向を意識できるようになること、さらにはなぜそのような傾向があるのかに気づくことが大切です。というのも、求めてきたことすべてに完全に失敗したということ自体、大きく誇張されているからです。過去には、あなたが求め、手に入れているものもあるはずですよね。失敗していないものもいくつかあるわけです。欲しくても手に入らなかったことだけを見て、あなたが求め、そして今現在、あなたが手にしているものについては忘れてしまっているのです。
今のあなたの不安にはもうひとつの原因があります。健全なものも、不健全なものも含め、動機について掘り下げてみてください。あなたが失敗した何かを、なぜ欲しいと思ったのか、掘り下げてみてください。表面的には明らかかもしれませんが、実際にはそんなに単純ではないものです。健全さと不健全さが、不思議と織り交ざっていることが分かると思います。何かを求めるときの動機は、全体的に見ると間違ったものではなくても、部分的には、外側からの押し付けや幼稚な理由、言い訳に左右され、あなた自身の現実から生まれていないことが分かると思います。反対に健全な動機の方は、あなたの完璧主義のために機能できず、押しやられてしまったのだと、理解していただけるかと思います。あなたの創造性が表に出ることを、完璧主義によって禁じたのです。健全な動機と不健全な動機は共にこうして不満足さや「失敗」に貢献したのです。不健全さを部分的に含んだ動機によってあなたは目標を選んだのであり、不健全さで充満した動機によって目標に手を伸ばすことを自ら禁じたのです。逆説的に思えるかもしれませんが、話についてきていますか。今申し上げていることを、じゅうぶんに掘り下げ、分析することができれば、今あなたが抱いている感情とは裏腹に、あらたな洞察を獲ることができると思います。遅すぎることなど何もないということです。同じ目標を、健全な流れに置き換えることができれば、これもまたあなたに、満足を与えてくれるでしょう。まったく同じ種類の達成感ではないかもしれませんが、引けをとらないものです。今は理知的に理解することはできても、感情的には受け入れることができないと思います。私がお話ししていることを完全に理解しないかぎり、受け入れることは難しいからです。
質問:真の自己と達成感について、そして神を近くに感じることについてお話しされていたと思います。もしよろしければ、こういった道のりを、自分に与えられた仕事を通して歩んでいる個人について何かアドバイスをいただけないでしょうか。たとえば、村の鍛冶屋がいます。この鍛冶屋がどれくらい深く自分自身を掘り下げる必要があるのか、疑問です。この鍛冶屋は良質な馬のひづめを作ります。彼の人生にももちろん、不幸せさはあります。寡黙な人物に見えます。兄弟であるローレンスが台所にいます。ここへ、外科医が帰宅します。そしてこの外科医は言うのです「ひと針失敗した」と。それでもこの外科医はひとりの人の命を救ったのです。よい手術をしたのです。人が、自分は神の仕事をしていると自負し、満足を感じているとき、我々が行っているような深く複雑な無意識への探求は必要なのでしょうか。
回答:人間というものは、深遠で、入り組んだ、複雑な存在です。分裂がなく、統合された状態に至るためには最終的に、特定のプロセスやメソッドが必要です。達成感を部分的に感じることはもちろん可能ですが、人には展開と成長を待ちわびている側面もあるもので、こういったことはただ良き仕事を行うだけではなかなか到達できるものではありません。とはいえ、この地球上には、深い掘り下げに必要な霊的な成熟さにまだ達していない人達もいます。人々は、仕事や日々の問題に遭遇し、より深くに存在している感情に無意識なまま、自分のできる精一杯を行うのです。またそういった人々とは逆に、霊的に、そして感情的にとても成熟している孤高の人達もいます。このような人々は、メソッドや組織の観点からすれば我々と違った道を歩んでいるように見えるかもしれませんが、彼等独自の道を歩んでおり、最終的には同じところに辿り着きます。ふたつの両極の例のどこかに当てはまる人々はしかし、自分自身の成長から最大限を引き出すために、深く、入り組んで、複雑なレベルで起こっている事に意識的になる必要があります。人生のなかで、ひとつやふたつの側面での成長に目を向けるのではなく、人格すべての面の成長に意識的になるということです。このためには、何かしらの整理されたメソッドや手助けが必要です。人はあまりに事に入り込みすぎていて、ひとりになってしまうと見抜くことができないからです。人格のなかで円滑に機能している部分に注目しすぎてしまうと、秩序を必要としているところ、より本質を発揮できるところを見落としてしまうかもしれません。
ワークに取り組む際の在り方として「神が私にそう要求している」という考え方は適切ではありません。こうなるとワークが強制的になってしまい、頭の中のどこかでワークは神へ、そして宇宙の法則や自己へ近づくための間違った方法として捉えられてしまいます。外からの押し付けや、義務を達成しなければと考えるべきではないのです。実際には、成長を続けたいと望んでいる自分がいることに気づくでしょうし、人生や自分自身への歩みを深め、より充実した幸せな人生を生き、結果的には他者により多くの幸せを与えるためにワークをしたいと望んでいると気づくはずです。自分の中にある何か、なければいいのにと思っている何かに向かい合うことへの抵抗をなくしたいと、どこかでは望んでいるものです。しかしこれは、必要性というよりは、望みなのです。仕事の面だけではなく、可能なかぎり多くの場面で、人生から最良かつ最も充実して意義ある経験を引き出したいという望みなのです。無意識を知ることは、魂やあなたという存在を知ることからかけ離れているわけではありません。その真逆です!結局のところ、人が精神分析と呼んでいるもの、あるいは作業自体が他にどのような名前で呼ばれていようとも、その作業なしに霊的な最高には至れないのです。あなたが自分自身の真実を見出そうと思うのであれば、霊的に生きることと、心理的なプロセスを経ることの間に隔たりはありません。作業はとてもシンプルではありますが、もちろん、簡単ではありません。善き行いは立派です。それでも、人の成長の過程では、善良さや親切さ、助けとなる行動や、仕事を上等に行うこと以上を求められるときがくるものです。
皆さんに祝福がありますように。あなた自身のワークを続けてください。一歩一歩、成長を続けてください。なぜならそこにこそ、人生のすばらしさがあるからです。義務を達成するのではなく、歓びに生きられるようになること。つまり、あなたの不完全な人生や人間関係から歓びに通じることができるようになることです。祝福のなかにあってください。平和と、神のうちにあってください。
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