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Pathwork in Japan
No.190 恐れを含むすべての感情を経験することの重要性 「怠惰の動的状態」
Pathwork Guide Lecture No. 190
UNEDITED版
1971年3月26日
恐れを含むすべての感情を経験することの重要性
「怠惰の動的状態」
IMPORTANCE OF EXPERIENCING ALL FEELINGS, INCLUDING FEAR—
THE DYNAMIC STATE OF LAZINESS
ここにおられる私の大事な友人たちよ、ようこそいらっしゃいました。私は今、やがてこの部屋を包むであろう祝福と愛の存在を感じています。
折に触れて私は、大いなる冒険の途上であなた方の歩むこの道に新しい光が照るように、そして、レクチャーを聞くその時に、あなたが歩んでいる特定の段階に光を投げかけることができるように、概略または青写真であるレクチャーをお話ししています。もちろん、これは、自分を発展させ、自分に直面し、そして成長するための大変なワーク、つまりこの道に、真にコミットし、そして取り組んでいるあなた方に向けたものです。今日は、今までにお話ししたことのすべてを簡単に概略し、人の人生やあなたと宇宙との繋がりを統治している原理のアウトラインをお話しするつもりです。すでに一度聞いたことがあるものの繰り返しが多くなるでしょう。しかし、だからこそ、新しくより深いレベルで、人生の原理、あなた自身の成長、そして魂を統治するスピリチュアルな法則を知覚し、繋がり、統合し、理解するための助けになることでしょう。
あなたの中にある感情、信念、態度といった側面がまったく、もしくはじゅうぶんに意識されていなかったとしても、これらと向かい合うことが大切であり欠かせないということは皆さんご存知だと思います。このような気づきが磨かれていないかぎり、あなたという存在の奥底にある中心の部分、すべてが湧き出る核の部分を自由にすることは不可能です。このことは繰り返しお話ししていますし、あなたはすでに、何度もワークを積み重ねてきたことでしょう。さて、ここで、あなた自身の中にまだ隠されている部分について、よく見てみましょう。あなたはいくつ発見したでしょうか。簡単で表面的な説明とは対照的に、あなた自身の中で本当は何が進行しているのか、どのくらい気がついているでしょうか。私はここにいらっしゃる皆さん全員に同じように語りかけていますが、ひとりひとりが同じ場所、同じ段階にいると言っているわけではありません。しかしそれでも、あなた方すべてに当てはまる全体像を伝えることはできます。わりと最近歩みはじめたばかりの方も、ほかの人たちがすでにワーク済みのワークから恩恵を得ることができるため、もちろんここに参加していただいて大丈夫です。まるで、ほかの人たちの努力があなたの癒しの道を少し、広げてくれているかのようです。ですから、もしあなたが本当に望むならば、あなたはより早くより高く成し遂げることができるでしょう。
可能な限り一般論化すると、今のところあなた方の多くは、破壊的でネガティブで、残酷で、敵意に満ち、利己的な感情や態度の存在を自分の内に認めている、そんな場所に立っていると言えます。そしてある程度は自分の防衛のメカニズムを理解することもできています。たとえそれが部分的な気づきであっても、これが、どんなに大きな違いを作り出すことか!この気づきは、あなたの立ち位置全体を、より自分自身へと移行させます。もはやあなたは自分の防衛をかばう必要はなく、あなたの中のすべてが「正しく」、完璧であるというふりをする必要もないのです。間違いを犯しやすい弱い人間であること、分別にかけ、悪く、貧しく、無防備で不幸なことを潔く認めることのできる能力は、強く、真に正しく(ひとりよがりという意味ではありません)本当の意味で独立し、満足する能力を増強します。これまで明らかに認めがたかった感情を認めることは、人生における自己表現の実現となり、内なる統合への橋となります。憎しみを認めることは、あなたをより愛すべき人間にします。弱さを認めることは、あなたをより強くします。痛みを認めることは、さらなる至福の喜びを享受させてくれるでしょう。これらの明白なパラドクスを、私はたびたび指摘してきました。そしてあなた方の多くは、実際にこれらの真実を体験し始めています。あなたがどれだけの防衛を拭い去ることができたのか、つまりどれだけリアルになれているか。その程度がいかなるものであれ、あなたは重要な基盤を手に入れたのです。そしてこの基盤はこれより先の道を少し楽なものにしてくれることでしょう。というのも、どのような段階においても、すべての意味で、始まりというものは一番難しいものだからです。自己に対する幻想を取り去ることは、始めは打ち勝つことなどできないほどの困難に見えます。なぜなら人間は、隠された真実とは許されないものであり、すなわち自分は受け入れられず許されないと漠然と思っているからです。従って、そこには取り除かなければならない二重の幻想があるのです。今ここで取り上げている隠された思い込みそれ自体と、その上を覆うもののふたつです。そして、これは、パスワークにおいて最も困難を極める部分です。これが一挙に成し遂げられることはなく、段階や部分を経て続いていきます。
つまりこの先のワークでは、この側面により焦点を合わせていく必要があるということです。こういった自分自身に対するワークと合わせて、ネガティブな態度や破壊性がどこから生じているのか、その理由を深いレベルで理解する必要があります。悪の本当の根源はなんでしょうか。私はよくこの話題を取り上げますので、聞いたことがあるでしょう。自分の傷つきやすい部分の否定、無力感を感じるのは恥だと思うこと、自分には愛される価値がないと感じること、これらが悪を、破壊的な態度と感情を作り出すのです。言い換えれば悪とは苦しみに対する防衛なのです。もうこれ以上自己の本当の感情と繋がることができないと感じるため、混乱するほどの苦しみが生み出されていくのです。
従って、さらに先へと続く真の癒しと学びの道の方向は、幼い頃に耐え忍び、今まで守り続けてきた傷や苦しみと直接関係があるということは明らかです。強烈に濃縮されたこういった自己の側面との対峙は、数か月前にすでに始まっていました。あのとき、けっこうな数の方が過去の感情を強く経験しましたね。この道では、有機的な流れの一環としてこのようなことが起こるのは大変自然なことです。このような強い感情を経験した方々は、私が何年にも渡って繰り返しお話ししてきたことを、体感できる現実として確証してくれています。元々の経験を否定してしまうと、あなたはそれを繰り返し何度も再体験させられます。あなたは否定された経験を再び作り出し、痛みと傷が蓄積され、増えていくのです。再体験が必要な事柄はまだ他にもたくさんあり、ようやく今、あなたは再体験を安全に行うことができるのです!
子供のころの苦しみ、どれだけ不幸であったかは、まだ知識として頭で理解されて残っているにすぎません。子供のころ本当はどんなに不幸だったのかを知らず、あなたは自分の子供時代をその正反対であると信じてきたのです。最初にこの知識を得ることは、それを経験する準備として必要です。多くの場合、知識なしには防衛をじゅうぶんに取り去ることができず、安全な再体験ができません。感情的な経験への通路はブロックされてしまい、感情体験が中断されてしまう、もしくは防衛を壊すことで心理に損傷を与えてしまうかもしれません。これは避けられる事態であり、避けるべきです。友人たちよ、いまやあなたは、あなたという存在の奥底へと分け入る準備が完全に整いました。身を委ね、すべての積もり積もった感情、今まであなたから決して離れなかった感情に自らを開放してあげてください。これまでこういった感情は、もともとの自然なエネルギーの流れへと変容を遂げることができませんでした。なぜならあなたが、自分の感じている感情の扉に鍵をかけていたからです。
いつのことだったか、怠惰という問題について講義してほしいと言われました。そのとき私は、その答えには一晩分のレクチャーもしくは、最低でも、特定の文脈に合わせてお答えする必要があり、そうでなければ怠惰という問題は理解されないからだと言ったことがあります。怠惰という問題は、「じゅうぶんに経験されていない感情」と密接な繋がりあります。もし自分が道理をわきまえた、建設的な人間になれたならば、怠惰な態度など自分の思うように手放すことができるかのように思わないでください。怠惰な態度は単なる教訓的な問題ではありません。怠惰とは、無感情、停滞、麻痺の現れであり、魂のなかの淀んだエネルギーの結果なのです。淀んだ魂の中身は、じゅうぶんに経験され、表現されつくされていない感情の結果であり、従ってその重要性と意味、真の原因は完全には理解されていません。感情が経験され、理解され、表現されないとき、生命エネルギーの流れが溜め込まれ、止められてしまいます。過去の感情があるはずだと知る、または、推測し、今自分が置かれている状況にそういった感情を論理的に重ねていくだけではじゅうぶんではありません。しかしながら、このような推論的な知識は、より深い経験への許可を自らに与えるためにはなくてはならないものであり、存在してはいるものの防衛されている感情がじゅうぶんな感情体験として表に出てくるのを可能にします。しかし知識は、防塞にもなりえるのです。知識と感情を置き換えるとき、このふたつの機能の統合は、漠然と感じてはいるものの、意味するところがわからないときと同様に阻止されます。つまり、なぜ、どのようにこれらの感情が浮かび上がってきたのか、また、どうして今でも振り回されなければならないのか分からないということです。
こういったことも、新しいことではありませんね。以前に何度も、感情と知識は分離したふたつの機能ではなく、むしろ、同じ現象の両端だとお伝えしました。このようにして、知識は、感情の中の知識という部分を知らず否定するのと同じように、感情に対する防衛になりえるのです。ここにルールが持ち出せないという良い例ではないでしょうか。与えられたアプローチをどのようにして使うのか、あなたはいつでも自己をよく観察して決めなければならないということです。
私の大事な友人たちよ、あなた方の素晴らしい歩みにも関わらず、自分の中に溜め込んだ感情をじゅうぶんに経験することを拒むものがまだたくさん存在しているのです。あなたの注意と意識をこれらの防衛に向け、さらに克服していくためにも、このことを胸に留めておくのは大きな助けとなることでしょう。解放されていないために有毒化してしまった、深くに溜め込まれた経験に対する防衛の敷居を、体系的に低くすることができます。痛みに満ちた経験を感じ、知り、表現し、可能な限りじゅうぶんにその経験に生きなければ、過去の経験が解放されることはありません。
要約すると、人間本来の性質の中の邪悪で破壊的でネガティブな部分は、痛みに満ちた不快な感情を経験することへの防衛の結果です。この拒絶は、エネルギーを淀ませてしまいます。感情が淀むとき、エネルギーが淀みます。そしてエネルギーが淀むと、あなたは動くことができなくなります。ご存知のとおり、感情とは動きのあるエネルギーの波です。エネルギーが自由に流れていれば、感情は一連の流れやタイプからまた別の流れやタイプへと絶えず形を変えていきます。感情を経験しないということは、波の流れを止めてしまうことであり、従って生命エネルギーも止まってしまいます。自然なエネルギーの流れがあなたの魂の中で止まってしまうとき、あなたは「怠惰」という感情の中に自分がいると感じます。この状態において動きは、何らかの外部の意志によって強制されるときのみ可能であり、つまり痛みを伴うのです。これは、とても多くの人の中に存在する、何もしなくてよい望ましい人生への渇望を説明しています。こういった人々が人生の困難を感じ過ぎるのは、彼等が未熟だからだとするのはじゅうぶんではないのです。これでは単なる結果の説明であり、レッテルを貼っているに過ぎなません。自然な動きとは、内面のエネルギーの流れの自発的な表現です。内面のエネルギーの動きは辛く、痛みに満ちたものとして経験されることは決してなく、またうんざりするような不快さもありません。ですから、皆さん、自分が淀み停滞し、怠け、受け身で不活発だと気づいたとき、何もしたいと望まないと思うとき(そしてこれはただ在るというスピリチュアルな状態と混同されてしまうことが多いのですが)、あなたの中のどこかに心に作用する毒性を作り出している感情があるという良い目安となります。なぜならあなたは、感情を経験し認めることを嫌がったからです。
エネルギーの波の淀みと停滞は、感情だけでなく、概念にまで襲い掛かります。あなたはひとつの出来事の発生から何かを導き出し、その結果導かれた間違った思い込みにしがみつくのです。停滞した感情にはたいてい、人生に対する停滞した概念を含んでいます。こういった停滞は魂の奥の奥に存在し、完全に意識から隠されているのです。これは私が「イメージ」と呼んでいるもので、心の奥に保存されています。私はみなさんがこれらのイメージを探すお手伝いをし、みなさんはどのようにして自分が間違った概念や停滞し淀んだ感情を再体験させられているのかを知りました。勇気を奮い起こし、今を生きることを選択するまで、あなたは過去を繰り返し再現するという罠にはまってしまいます。あなたの意図がどんなに素晴らしいものであっても、感情を経験する代わりに別のやり方を用いてどんなに努力しても、あなたはこの繰り返しのサイクルから抜け出ることができません。幼いころの最も初期の感情を完全に再体験しない限り。未だに心に抱き、仕舞いこんでいるために意識することすらない、深い感情の後ろにある障壁を乗り越えなければなりません。こういった感情に無意識であるからこそ、いまだにあなたは今ある不幸や気分の悪さはどこからともなく現れ、自分は悪い星の下に生まれたと思い違いをしているのです。
人類の苦境は、妄想に過ぎない二元的分離であると、私たちは繰り返し何度もお話ししてきました。この妄想にはたくさんの面があり、そのうちのひとつは、人間の認識そのものの中に存在する幻想です。人類はひとつのことを感じ、別のことを信じ、そしてどちらもどれだけ自分たちを支配しているかに気づかないまま行動をします。あなたが実際に何を感じ、何を本当に信じているかに気づかないでいると、また別の分離が表出します。知識と感情を統合するとき、あなたは、さらなる統合と発展に向かって進みます。そしてこれは、素晴らしい目覚め、覚醒であり、すべてはひとつという統一性の感覚として現れてきます。
感情がありのままに、完全に感じられないとき、内面の生命の流れは淀み、停滞します。そのようなとき人は、自分が不可解なまでに非活動的になることがわかるでしょう。行動のすべてが無駄な、無力なものになってしまうのです。人生とは、あなたの目的や望みをことごとく遮断してしまうものであるかのように見えるでしょう。自分の持つ才能、ニーズ、そして自分自身を知るためのドアが閉じられていることを悟ります。いわゆる「怠惰」はこの停滞状態のひとつの姿なのです。創造性の欠落もまたひとつであり、特定できない漠然とした絶望感もまたひとつです。後者の場合人は、今起こっている出来事や困難を、自分の内的な状態をごまかすために利用します。人が感情をかくまい、そしてこの先もかくまい続け、感じることを拒否するとき、人生とその中での自分の役割について虚しさと混乱がその人を包み込むことでしょう。なぜ感情をかくまうのか。なぜならあなたは、感情を感じることを避ける方が、感情を表出させるよりも痛みが少なくて済むと思い込んでいるからなのです。この例の他にも今までにお話ししてきたたくさんの現れ方があります。中でも、喜びを感じることができないこと、人生をじゅうぶんに経験できないことは、最も一般的で蔓延している現れです。しかしながら、あなたのほんとうの感情を経験し続けるよりほかに、じゅうぶんに人生を生きる方法はないのです。
感情と知識を合わせてひとつにすることがいかに必要であるか、より明確にしていく必要があります。以前から私がそう伝えているからという理由だけでなく、あなた自身へと向かっていく旅の進歩そのものによって明確にしていく必要があるのです。長い年月溜め込んできた感情の老廃物を解き放つとき、どんな感じがするのかをすでに味わってきていますね。自分の感情を感じないとき、あなたが溜め込んできた老廃物は、それ自体が毒を持っています。自分が考えていると知らずに何かを考えている場合も同様です。行動の動機を知ることなしに行動し、後になってその理由をどうにか考え出そうとします。
完全なる感情の経験は、その冒険を経験しようというあなたの意欲と準備ができているかどうか、その状況次第でいつでも手に入れることができるのです。こういった感情はたいてい、10年やそこらではなく、100年、1000年の間溜め込まれてきたものです。すべての転生にはそれぞれ、浄化しなければならない課せられたタスクがあり、経験し理解することによってそれらを行います。老廃物がなくなるとき、あなたは浄化されるのです。ひとつの人生が終わりを迎えると、人生の容赦のない法則によって、条件、状況、そして環境が引き寄せられ、以前に蓄積された老廃物が前面へと押し出される機会をまた次にあなたは手に入れるのです。しかし、前世の記憶は消えてしまうため、あなたが持ち合わせているのは今生での過去の経験のみです。記憶をぼんやりとさせておくことは、生と死のサイクルがもたらす副産物のひとつであり、経験を感じることを拒否するすべての人が囚われている罠なのです。あなたが気づきを拒否し続け、まさにこの人生で経験する経験を感じることを拒否し続けるとき、記憶をおぼろげにするプロセスを永遠に終わらないものにしてしまいます。このようにしてあなたは死と再生の循環という、意識の連続性に断裂を生むプロセスを繰り返すことになります。逆に言えば、この人生で溜めこまれたものを経験することによって、記憶と記憶の繋ぎ合わせをできるところから再構築することで、あなたはこの意識の断裂、つまり死と再生の循環を取り除くことができるのです。この人生においてすべての感情をじゅうぶんに経験することができたならば、過去生で残した事柄は自動的に処理されます。なぜなら今のトラウマは単に、過去の痛みが拒否され続けているからトラウマであるというだけのことなのですから。
もしもあなたがプロセスを信頼し、身を委ねるという冒険をすることができるのなら、本当に身を委ねることができるのなら、今お伝えしているようなことは可能なのです。しかしここに、またもや問題が現れます。もしも奥底の存在が感情を感じることに防衛するならば、心の底では知っていることを避けようとするならば、感情と内面の叡智、そしてあなたの現在の行動パターンとの繋がりを再構築することに防御の姿勢を取るならば、身を委ねることはできないのです。怠惰の状態だと思われがちで、またそうであるかのように説教されがちなこの麻痺状態は、従ってとても間接的な現象とみなされます。それはあたかも、他の多くの現象と同じように、あなたが人生を生きることを妨げ、人生を生きることから遠ざけているかのように見えます。しかし、じゅうぶんに人生を生きることからあなたを本当に遠ざけているのは、あまりに大きな痛みにと共にあなたのもとを訪れたために受け入れられなかった感情を感じて人生を生きることへの、恐怖と抵抗です。
怠惰とは、これから先も避け続けられると考えられている感情を浮かび上がらせる魂の動きから身を守るためのものです。人生を妨害することなく感情を避け続けられると思っているのです。怠惰という状態は、防衛であると同時にひとつの結果です。動きは、淀みの中に横たわるものを刺激します。このことをじゅうぶんに理解することによって、そこにある感じるべきものを感じる勇気を奮い起こし、自ら引き起こした防御的な淀みと停滞を克服するよう内面の意志を立て直すことができます。
すべての魂が無意識に切望し思い焦がれる、真に澄み切った穏やかな状態は、慎重な受動性、つまり動きを避け、動きを望ましくないものとする状態とは違うものです。真にスピリチュアルな状態とは穏やかでリラックスした状態であると同時に、とても活動的です。喜びの動きと行動です。怖がっている自己がもたらす受動性だけが、停滞に対して狂ったような反作用を起こすのです。まるで人格が外側から押し付けられた強制的な行動によって停滞と激しく戦うかのようです。それによりさらに停滞の真実、停滞の理由、つまり恐れを含むすべての感情を感じることから遠ざかっていくのです。この真実をじゅうぶんに感じ、理解し、停滞と戦う代わりに感情を感じることによって停滞の元々の原因を解消するとき、狂ったような麻痺の状態から抜け出すことができるのです。言い換えればあなたは怠惰の中に横たわる恐れ、すなわちすべてのタイプの淀みの中にある恐れを感じるようになるべきなのです。
この恐れは誰の中にも存在します。いかにも怠惰な人でなくても、否定された恐れが作り出すその他の症状に無自覚な人の中にさえ、存在するのです。この人間の持つ基本的な恐れの状態は、外に向かって表現することを許されるべきです。もちろん適切な状況下である必要はありますが、一時この恐れがあなたを支配するのを許さなければなりません。あなたがこの恐れを経験するとき、その中にあるふたつの基本的な要素を見つけ出すでしょう。ひとつは、子供のころの大変痛みに満ちた状態です。この状態は、自分にそれを感じさせることができなかったほどの痛みに満ちていて、だからあなたそこから自分を切り離したのです。もうひとつは、より重要で特筆すべき状態なのですが、恐れに対する恐れです。つまり、恐れを感じることへの恐れです。これこそが本当の害が存在する場所です。
数年前、私は「居座り」という現象についてのレクチャーをし、否定された感情がどのように他の要素と結びつき増殖するのかについてご説明しました。例えば、否定された恐れは恐れに対する恐れを作り出し、恐れに対する恐れを感じることへの恐れが生み出され、といったようなものです。その他の感情についても同じ真実が当てはまります。否定された怒りは、怒っていることへの怒りを作り出します。そしてこれが否定されたとき、その怒りを受け入れられないがゆえに、その人はさらに怒りを増します。フラストレーション自体は、じゅうぶんにその状態に入り込むことができさえすれば、耐えうるものです。しかし、フラストレーションなど持つ「べきではない」とあなたがフラストレーションを感じているとき、そしてあなたがそれを否定するがゆえにフラストレーションが溜まっているとき、痛みが拡張していきます。いくら望ましくない感情であったとしても、まっすぐに感じることの必要性を明確に指摘してきたのはこのためです。もしも、痛みを感じることを拒むことによって痛みをさらに酷くするならば、第二の痛みはより一層苦しさを増し、歪み、耐えられないほどのものとなってしまうに違いありません。もしもあなたが痛みの存在を認めて感じるならば、解決のプロセスは自動的に始まります。パスワークの道を歩む中で、あなた方のほとんどはこの真実を何度にもわたって経験しています。同じことが、恐れや怒り、フラストレーション、そして考えうるすべての感情に当てはまります。
従って、あなたが恐れに対する恐れを感じ、恐れ自体に身を沈めることができたとき、この恐れはそのほかの否定された感情にすぐ取って代わることでしょう。否定された感情(それはどんな感情でもあり得ますが)は、その感情の否定、つまり恐れよりも、耐えることが容易でしょう。そして、恐れそのものは、恐れに対する恐れよりも、耐えうるものです。このようなやり方で、あなたは否定された感情という、ため込まれた無駄なエネルギーの核へと進むことができるのです。自己の感情と戦い、それから自分を防御することは、新たな層を作り出すことであり、自己の核となる中心から遠ざけてしまいます。従って元々の経験より人工的で、痛みに満ちた経験をひとつ作り出すことになるのです。
自己のうちに存在する深く、痛みに満ち、有害で恐ろしい感情に対する恐れを感じると、固く決意するために、意識的自己の持つすべての能力、才能をひとつに集め、すべての側面を使って臨んでください。
「抜け出すためには、その中に入り、通り抜けるしかない」と私はよく、皆さんに言っています。私の友人たちよ、あなた方のうちごく少数の皆さんは、これらの言葉を完全に心に留めておくことができました。過去のじゅうぶんな進歩が、新たなエネルギーの流入を促進し、さらに深く自分自身の内へと潜り、そして自由の身となって浄化されてそこから出て、本当の意味で生きたいと望む者たちに今、道を開いてくれています。多くの方々が正しい方向へと道を切り開き、そして進んでいます。今までもそうだったように、たくさんの導きがもたらされるでしょう。今の動揺した状態で一人取り残されることはありません。この経験に実際に入り、そして通り抜けられるよう、あなたは助けられます。
さあ、次に大切なことは、今見つけたこの方向に焦点が当たるよう瞑想をすることです。焦点を合わせ瞑想することによって発生した偉大なる力を確信するに至ったあなたは、瞑想するときにある特定の方向に焦点を当て意識することを取り入れることで、正しくバランスの取れた方法で内面からの導きを呼び起こすことができることを学び、そしてその導きを自分の人生に活かすことができていることでしょう。正しい方法には二面性があります。第一に、あなたは自分の周りを回るのではなく、中に入っていくのだと決断する必要があります。人類は、ほとんど例外なく、中に入るより、休むことなく周囲をうろうろするところがあります。内面に入り、感情を感じ経験するという自発的なコミットメントは、この具体的な瞑想においては「突き動かす力」でなくてはなりません。自分が求め意図しているものはこれだという断言することは、きっと魂の中に新しい状態を作り出すでしょう。瞑想で具体的な導きを獲られるよう求めること自体が、瞬時に停滞にある程度の動きをもたらします。核心を避け、後回しにし、ぐずぐずさせる怠惰という状態は、その新しいエネルギーの流入を決めた時点で完全に消え失せることでしょう。自発的なコミットメントの姿勢は意識していない不随意のエネルギーの流入を作り出し、あなたのスピリチュアル自己の持つ道しるべとなるスピリチュアルな叡智を活性化させることでしょう。あなたの瞑想に、すべての溜め込まれた感情を経験し、無駄なものを取り除きたいというあなたの意図と希望を取り入れることは、とても効果的で、このプロセス全体の始まりとして最適でしょう。加えて、正しいバランスとタイミング、内面的および外面的な導きは、あなたが個人的に必要とするやり方でやってきます。こういった導き、すなわちガイダンスを逃し、見ず、聞かないのではなく、あなたはこのガイダンスにチューニングすることを学び、感じるようになるでしょう。今いるこの段階だけでなく、経験する必要があるすべての具体的な段階においていつでも、ガイダンスはあなたの求めに答えるのを待っています。これまでお話ししてきたことを、また違った文脈で表すとすれば、外面的で、随意的な自己も、この仕事で一役買わなければならないのです。そうすることで不随意的な自己が随意的な自己を引き継ぐことを可能にするのです。この意識されていない自己はふたつのまったく違った現れ方をします。ひとつ目は、ちょうど今お話しした高次の叡智とガイダンスという形です。ふたつ目は、表層に浮かび上がってきた自己であり、痛みにもがき苦しみ、取り去ることのできない過去からの痛みの経験を拒否する自己です。前者が後者を助け、導きます。
この瞑想のアプローチによって、大いなる大切な目的に向かってエネルギーが解放されます。自分には感情の深みに入っていくためのエネルギーも時間も足りないと、そう確信することもあると思います。それでも、同時にあなたは、より重要だと思えるような他の活動にたくさんのエネルギーを費やします。他のいかなる活動がどれだけ重要であったとしても、今お話ししている探求よりも重要なものなどありません。なぜならこれが、あなたの人生の理由だからです。またこれは、今すぐ自分のために生産的な人生を送るための鍵でもあるのです。
瞑想で大切なふたつ目の側面は「内面に入っていく」ことが、あなたを打ち負かしたり滅ぼしたりはしない、というあなたの信念を奮い起こすことです。これについて今からお話しすることは、あなたがこの信念を奮い起こすにあたっての助けとなるでしょう。この信念なしでは、ある意味では、内面に入っていく勇気を持つことはできません。またもしも、この道を歩むことが安全で確実であるとまだはっきりとわからないと感じているときには、痛みに満ちた感情を経験することが嫌だと思う気持ち自体が、自分の意図とは裏腹に、プロセスの安全性についての人工的な疑念を作り出すことへと繋がってしまいます。「内面に入っていく」ことは避けることができ、それでもなおあなたは統合や健康、そして満ち足りた人生を成し遂げることができるという人工的な幻想を生み出してしまうのです。感情からの逃避は常にこのような間違った疑念と間違った希望という二元性のパラドックスを作り出します。
随分前に、「幻想という深い淵」という講義の中で私は、自己実現と自己統合のこの癒しの道は、果てしなく続く底知れぬ淵へと自分自身を沈める必要のある局面を、たくさん含んでいるとお話しました。ここに沈みこむことは、当の存在に消滅の危機を感じさせます。個人の進化のある程度のところに至るまでは、この人はこの深い淵の前にうずくまり、思い切って飛び込む勇気もないまま、頑なに飛び込むことを拒みます。この状態の個人はとてもとても不幸ですが、窮屈な状態、偽りの安心感を信じ、この恐ろしい状態を、消滅してしまうよりはまだましだと信じています。飛び込むことをじゅうぶんに信頼できるようになって初めて、飛び込んでも、自分は実際には沈むのではなく、浮いていられるのだと知るのです。このような局面に出会うことはたくさんありますが、飛び込んでも安全だということを確実に発見するために必要なことなのです。
同じことが、痛みに満ちた、恐ろしい感情という一見したところの深い淵に自分を沈ませるということにも当てはめることができます。あなたが飛び込まない限り、あなたはそこで膝をかかえてうずくまり続け、自分自身を楽しんで生きていくことなどまったく不可能である不快な体勢を取り続けることになるでしょう。思い切って飛び込むために必要な信念は、問題と正面を切って直面し、一体自分に何が問われているのかを探すことによって活性化されます。要約になりますが、次に申し上げるような根本的な問題について熟考しなければなりません。「人間という存在の根本に、ネガティブ性と破壊、そして悪という底知れぬ落とし穴があるのだろうか。もしくは、こういったものは本来存在する必要のない歪みとしての表れなのではないだろうか」と。もしも宇宙が慈悲深く信頼に値し、素晴らしく安全であるならば、あるがままの姿になるのを恐れる必要はないのです。自分が信じると主張するものと実際に信じているものとの間の矛盾に目を向けなければならなくなるような、信念が試される局面はたくさんあります。もしもあなたが人類は究極的にはスピリチュアルな性質を持っていると信じているならば、何ものをも恐れる必要はありません。しかしもしも信じていないのならば、この潜在的な疑惑に気づき、その疑念が持つ本当の性質に直面する必要があります。開かれた意思のもとで疑惑を持つことは、少なくとも、人類や人類が辿っているスピリチュアルな運命に対してあなたが抱いている幻想から自分自身を守ってくれることでしょう。もしもあなたが、自分が本当に信じている人間の性質は究極的には悪く、破壊的で、恐ろしく、混沌としたものであるという確信に辿り着くのだとしたら、この思い込みの真の動機と理由をさらに調べていく必要があります。皆さんご存知のように、本当に信じているものと信じていると思い込んでいるものを比較し直面することは、常に正直に行われなくてはなりません。これは、すべての重要な問題において見過ごされてはいけないのです。このような特定の目的のために瞑想することも、助けとガイダンスを活性化してくれるでしょう。
瞑想の状態にあるときに、自分がとっている逃避の方法について気づきたい、そしてもうこれからはその方法で自分をだまし続けたくないと明言してください。深い淵の中に飛び込むことを避け続け、なぜそれができないのかを知ることは、その恐れを否定し恐れていないふりをするよりもいいのです。自己の持つ恐れを自由に認めることは、恐れを否定しているときに比べてずっと、自分自身に近づいています。恐れの効力と直面することによって、恐れの後ろにある本当の理由は「恥」と、それに付随する「プライド」であることに気づくでしょう。プライドと恥を否定することは恐れを作り出します。ある特定の感情を持つこと、もしくは弱く傷つきやすい状態であることは屈辱であるという考え、今の自分の状態にあるべきではないという考え、そして一人の小さな子供として苦しんでいた過去の感情は、あなたが受け入れられることも愛されることもない存在だったことが理由であるという考え。これらすべてはあなたが今いる状態を否定する傾向を作り出します。この否定の圧力が次に恐れを作り出し、今度はその恐れが恐れを正当化する理論をその人に作り出させるのです。もしも人が、自分の感情を感じるということは実に危険であると自分を説得しているのなら、これは深い誤解の産物に過ぎません。にもかかわらず、自分自身への説得そのものが崩壊と危機をもたらしてしまうでしょう。聖書の中でも「あなたがたの信仰どおり、あなたがたの身になるように」という言葉で述べられています。これは、魔法が成すわざではありません。もしも、感情を感じることへの恐れがとても強いと、それは恐怖に変わり、その恐怖は、人間を激しい危機の状態へと運んでいってしまいます。しかし、その下に横たわる真の感情は、単に「恥、プライド」であり、子供の頃の痛みは自分が不十分であるがために存在しており、そんな自分をさらけ出すことはあまりに恥であるという誤解によるものなのです。
困惑、屈辱、恥、そしてプライドという障壁を乗り越えることは、多くの場合、恐れを解決することに繋がるでしょう。こういった問題と真正面から向き合い、取り組まなければなりません。そうすることによってのみ、よりスムーズに自己の奥深くに入っていくことができるようになるのです。自己の奥深くへと入っていく作業を無意味に困難なものにしないためにも、瞑想は必要条件です。このような取り組みと姿勢が、あなたが耐え抜かなければならなかった困難によって生み出された恐れや孤独、無力感と痛み、そして怒りという感情の深い淵へと入っていくのに必要な土台を作り上げていくのです。流されなかったすべての涙が、あなたを止めています。声に出されることのなかったすべての異議申し立てはあなたの中に居座り、不適切でない場であなたはそれを表現してしまっています。これらすべての感情は果てしない落とし穴のように見えますが、一度その中に飛び込めば、確かにそこには自分の深い内面、あなたの中に住む、あなたそのものである神聖なる核を見つけることができるでしょう。あなたが自分自身の痛みとネガティブな感情という現実を避けなかったからです。そしてそれは、光に満ち、温かく、生き生きとして安全です。これらすべては純然たる現実であり、今までは否定していた、感じることを避けてきた感情という現実を通り抜けて初めて、経験することができるのです。
すべての喜びと安全、そして平和と共にあるあなたのスピリチュアル自己は、悲しみと痛みの真後ろに存在します。直接的な意志をもってしても、また自分のすべての感情を経験する必要を無視した行動をもってしても、スピリチュアル自己を活性化することはできません。しかし、あなたのスピリチュアルな中心は容赦のない副産物として、つまりあなたの否定された感情を経験するという直接的な意志の行動の結果として必ずや示されるのです。
恐れは現実ではない、ということを最後にお話ししたいと思います。恐れとは真に幻想であり、あなたはそれを感じ、経験し、通り抜けなくてはなりません。弱さを感じるという関門をくぐり抜けると、そこにはあなたの強さが眠っています。痛みを感じるという関門をくぐり抜けると、そこには喜びと嬉しさが眠っています。孤独の関門をくぐり抜けると、そこには充足感、愛、そして人との交わりを持てるというあなたの能力が眠っています。憎悪という関門をくぐり抜けると、そこには愛する能力が眠っています。絶望の関門をくぐり抜けると、そこには真の正当な希望が眠っています。子供の頃の欠乏感を受け入れるという関門をくぐり抜けると、そこには今のあなたの充足感が眠っています。これらすべての感情と状態を経験するときに注意したいことは、これらの感情は今あなたが経験したり経験し損なったりした何かによって引き起こされていると思い違いをすることがあってはならないということです。今あるものが何であっても、それらはただ単に、あなたのシステムの中にまだあり続けている過去の結果に過ぎないのです。
今述べた関門をくぐり抜けることで、あなたは真の人生を見つけ出すことでしょう。これらの関門を通らずしてもスピリチュアル自己という現実を見つけ出すことは可能だとほのめかす多くの誘惑があなたを手招きしますが、希望的観測に過ぎません。あなたの中に溜め込まれ、スピリチュアルな部分や心理的な部分、そして多くの場合肉体をも含むあなたのシステム全体を汚染してきたものを避ける方法はありません。この汚染を除くには、できれば感じずに済ませたいと思ってきた感情を感じるしかありません。そうすることで、今までにない新しいエネルギーの流入が起こります。皆さんの多くは、程度の差こそあれ、私が今お話ししていることを実際に経験したことがあるでしょう。そこに、あなたの成長が見られます。それでも、皆さんはさらに先へと歩みを進めなければなりません。自分が抱いている嫌悪と悪意、残虐と貪欲、利己主義と他者への不公平な要求に対する自己懲罰を手放さなければなりません。そうすることで、あなたの中の恐れや恥、痛みという恐怖の中へと入っていくことができるからです。自分の内にあるこのような要素と戦うのを止めるとき、あなたは開かれ、真に生きることとなるのです。
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