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No.205 普遍的原理としての秩序

Pathwork Guide Lecture No.205
UNEDITED版
1972年11月17日


普遍的原理としての秩序
ORDER AS A UNIVERSAL PRINCIPLE


 ようこそ、親愛なる友人の皆さんに神聖なる祝福を。今夜のレクチャーのテーマは全く新しいものです。以前に、お話ししたことが全くないテーマです。
宇宙は想像もつかない程に、秩序正しく組織されています。全ての粒子は、適切な場所に収まります。微小な歯車と車輪が噛み合い、相互作用し、補い合い、人間のマインドによる想像では、その一部さえも想像し得ない巨大な構造を創り出します。根底にある原理が秩序でなければ、創造の調和と創造的な壮大さは決して存在できないのです。この正確さと数学的秩序は、人間の視野で捉え切れるものではありません。漠然とした感覚のみが時折、より大きな秩序に気づかせてくれるかもしれません。何故なら、全ての脈絡から切り離された状態にある皆さんの断片的視野からでは、確かにカオスと無秩序を見ることになるからです。

 勿論、人間の人生におけるカオスと無秩序は現実です。それが、歪みの結果です。しかし、私が今話しているのは、自然などの普遍的なプロセスのことです。皆さんは、自然界にあるカオス、あるいはカオスのように見えるものを感じ取っているかもしれません。自然現象の中には、見たところ破壊的なものもあります。しかし、まさにその出来事の中に、より大きな秩序が存在するのです。

 秩序ある状態は、神聖なる調和の副産物です。このレクチャーでは、内的秩序と内的無秩序、また同じく外的秩序と外的無秩序を構成するもの、それらの意味や双方の繋がりと関連についてお話しします。

 人間が完全に意識的である時、無意識の素材が最早なくなった時には、内なる秩序が存在します。このような人間はひとりとしていないので、全ての神聖なる顕現が相対的な程度に存在し得るのと同じく、秩序も、人間の人生に相対的な程度でしか存在できません。人は、愛、真実、叡智、平和、至福、現実を相対的にしか経験できず、その程度は様々です。ですから、ここに秩序はあるのです。自分自身と宇宙に対して完全に意識的な存在は、最早、人間としての実体や物質的顕現として生まれることはありません。その人の人生と存在全体は完全に秩序だっており、未解決な部分はありません。

 逆に、意識の欠落がある場所には何処でも、それ相当の無秩序が存在する筈です。もし、気づきの中にいなければ、真実にいることはできず、理解することもできず、物事はあなたから滑り落ちてしまうでしょう。あなたは混乱します。混乱と無秩序は、相互に作用し合います。暗闇の中で手探りし、手にできた半分の真実をパッチワークのように使い、自分自身のカオスの穴や隙間を埋めようとするのです。

 この方向に注目すれば、殆どの人は、内側のこの状態を認識できます。このマインドの無秩序は狂乱状態になり、不快感と無秩序を増大させるだけの偽の秩序を生み出そうとします。あたかも、家具の下の見えない隙間に全ての汚れを押し込むようなものです。しかし、隠れされたゴミの匂いが漏れてきます。誤った意見や、退化した行動パターンは、文字通り、排出されるべきゴミです。それらが心の中に溜まっている場合、全ての意見、認識、行動、決定は、半分の真実、または、完全な歪曲と誤りに基づきます。その結果は、混沌として満たされないものとなるでしょう。人が、自らの内にある全ての態度、信念、反応、感情を注意深く調べて、この蓄積された全ての混乱と心理的老廃物に秩序をもたらそうとしない限り、偽の構造全体が崩壊するまでパッチワークを続けることになるでしょう。ご存知のとおり、崩壊は様々な形で起こります。最も根本的な崩壊は、肉体的な死です。死は常に、白紙状態でのスタートを可能にしてくれます。

 外的レベルでも、同じプロセスはあります。内的人生の象徴というだけではなく、その表現なのです。ある人が、クローゼットや引き出しの奥に古く使われなくなった素材を溜め込んで、それを一掃せずに、自らの外的な事象においてのみ表面的な秩序を確立しようとするだけならば、その人は多大な犠牲を払って、偽りの秩序という幻想の中で生きることになります。このことについては、後ほどもう少し詳しく説明しましょう。
皆さんはこのことに気づく必要があります。調和と秩序は、気づきと直接的な繋がりがあるのです。ある人の人生に無秩序がある場合、その人は常に何かを回避し、何かから逃げます。回避のやり方をとり続けます。こうして、その人は無秩序の暗闇を創り出します。ここで、皆さんにも、もうひとつの繋がりが見えてくることでしょう。回避と気づきの欠如には、明らかに密接な繋がりがあります。回避はどのレベルにおいても、秩序を確立することはできません。内的レベルでは、蓄積されたマインドや感情の題材と向き合わないことでそれが起こります。すなわち、古いものを捨て、正当なマインドや感情を適切なチャネルに当てはめて自覚することは、心理システム内での調和のとれた流動的な動作を確立することです。

 物質的レベルでは自らの外的な環境に関して、同じ手順で問題と取り組み、通り抜けることでこれが顕現します。持ち物や物事、または、金銭問題に当てはまるかもしれません。あるいは、時間の使い方かもしれません。問題が発生した時に、乱雑さの蓄積から人生を解放する為の早急な対処をせずに、ぐずぐずと先延ばしする古い習慣を乗り越えることを意味しているのかもしれません。

 内的人生であっても外的人生であっても、原理は同じです。どちらの場合も、自らの人生を運営すること、そしてより円滑に運営できる可能性をもたらす改革に、自らの時間、労力、配慮を捧げる決断を下す必要があります。これまでの回避によって蓄積されたものが多ければ多い程、秩序ある運営を確立するのに、より多くの努力を費やさねばならないでしょう。しかし、これが行われ、そのプロセスで、それが何であれ回避されず、即座に対処され、焦点を当てられ、注意を払われるという新しい習慣のパターンが形成されると、全く新しい内的平和が自動的に確立されます。どれだけ瞑想したり、祈ったり、偉大で霊的な、または芸術的な問題に自らのエネルギーをどんなに費やしたとしても、内と外にある無秩序があなたの人生を散らかしているならば、この平和は欠けているに違いありません。

 回避すること、つまり、「今そうである」ことから逃避することは、自らの内側と外側で何が起こっているのか知らないことを意味します。それを自分の意識からどれだけ隠そうとしても、あなたは混乱し、まとまりがなくなります。道(パス)は、常にあなたが逃れたいと思うものをもたらすことは良くご存知でしょう。パスワークで、内的人生に携わり、回避してきたものに直面すれば、あなたはより多くの秩序と光を生み出します。文字通り、以前は欠けていた内面の清潔さと秩序の感覚を自分の中に感じるでしょう。問題が何を意味するのか分からない時、問題の要点を避けている時、あなたは非常に心地悪い、暗い泥沼の中に住むことになります。

 秩序の3つ目の側面は現実です。無秩序の中にいる時、あなたは幻想の中に生きています。回避、気づきの欠如、そして、平和と心地の良さの中で生きる為に対処すべき問題に向かい合っていないことが、人生に何の影響も及ぼさないという幻想の中で生きているのです。回避は問題ではなく、回避することの影響はなく、回避はあなたの人生の実体に創造的な影響をもたらすことはないと自分自身を欺いています。これは、実に大きな幻想です。何をしてもしなくても、コミットしてもしなくても、影響がない訳はないのです。それは、条件を創り出します。何かをしないということは、何かをするのと同じく、条件や心理的な実質を生み出します。これは内的人生だけでなく、個人の外的な習慣や秩序、または秩序の欠如にも、あらゆる点で当てはまります。

 気づきの欠如、回避、幻想は、無秩序を創り出し、その副産物ともなります。そして、マインドと意志が、この問題にきっぱりと深く取り組み、秩序を保とうと決心しない限り、無秩序は更なる気づきの欠如、回避、幻想を生み出します。

 問題が何であれ、それに深く完全に取り組み集中する気づき。自らの生き方による影響に向き合う現実。これらが、秩序と調和を創造し、その副産物ともなるのです。秩序はより多くの気づきをもたらし、より集中力を高め、人生の展開と共により多くの秩序と、より多くの現実味をもたらします。

 それが重要でも大したことでもなく、「自然に消えるだろう」という幻想で、あなたは無秩序を繁殖し、それに苦しみます。自らの無秩序のおかげで、この特定の苦しみから逃避することが出来ているのかもしれません。回避はまだ進行中かもしれません。自らの苦しみに気づかずに済んでいるのかもしれません。緊張、不安、不快感、プレッシャー、良心の呵責、しつこい不満を、他の事柄のせいにしているかもしれません。しかし、多くの原因は、自分自身で作り出した無秩序であるという事実は変わりません。

 秩序を生み出すことへの放棄が「大きな重要な課題」に当てはまるのか、「重要ではない課題」に当てはまるのかは大した問題ではありません。「ほんの些細な」放棄、つまり無秩序は、魂に多くの不快感を引き起こして悪化させます。これは、魂の人生だけでなく、その人の外的な習慣や人生にも全て当てはまります。

 外的人生は常に何らかの形で内的人生と関係しています。友人の皆さん、この視点からご自身の外的人生や習慣に注意をはらい始めることが非常に重要です。これまでのところ、この側面については漠然としか扱っておらず、全体的には扱っていません。本人の内的な立ち位置を測る目安としては、まだ扱っていないのです。外的な無秩序が大量のエネルギーを迂回させることで、内的人生を誤魔化しているという事実に、私たちは注意を払ってきませんでした。秩序は霊的な原理であり、その顕現または欠如が、その人の内的な立ち位置についての何かを明らかにするということが、まだ理解されていないのです。従って、真に霊的に統合された人は、外的な習慣においても秩序ある人である筈です。自らの人間性について汚れがないだけでなく、日常生活の取り扱いについても同様に汚れがありません。タスクを先延ばしにして、溜め込むことはありません。一番抵抗のない惰性に従うのではなく、例え、その時点で多少の努力を要したとしても、発生した雑事をその都度処理し、その後に続く平和を大切にします。秩序を生み出すことは、常に努力の投資を意味します。霊的に成熟した人はこのことを知っており、それを受け入れます。努力を尽くさずして、同じ心の平安と快適さを得られるという幻想に生きていないのです。投資するものより、得られるものの方が大きいことに気づいています。霊的に成熟した人は、内的にも外的にも、あらゆる事柄において人生に秩序があります。それを楽しみ、それ以外のことは望まないでしょう。しかし、そのような人はその代償を払っています。従って、現実にいるのです。

 人が自らの外的人生の現れ、私的な事柄、自分自身、周囲、アパートや家、お金、果たさねばならないタスクについて無秩序だと、徐々に深刻になる事態が起こり始めます。その人は、自ら引き起こす無秩序に心を奪われます。多くの場合、これは進行するプロセスです。違うようにもなり得ることは、決して思いつきません。多くの場合、秩序を生み出すのに自分の手には入らないエネルギーが必要だという、更なる幻想に陥ることになります。真実からこれ以上遠いことはあり得ません。進行する無秩序はエネルギーを消費し、浪費し、消散させます。秩序は神聖なる顕現であり、自然なものなので、秩序が呼び起こされた瞬間(最初は、ある程度の努力と抵抗の克服と共に)、エネルギーは解放されます。これまで現実を避け、意識をぼんやりとさせておく為に使われていたエネルギーの多くが利用できるようになります。知っていてもいなくても、無秩序である時、その人は常に頭がいっぱいなのです。

 内的、そして外的な無秩序を創り出すのは、無意識な否定的意図の手段です。(内的無秩序については明らかです。もうこのことを皆さんに強調する必要はないでしょう。しかし、これは皆さんにとって、外的無秩序を見る新たな方法になるかもしれません。)無秩序がどのような面で存在しようとも、それは、調和、真実、健康、全体性に対する抵抗という目的を果たします。無秩序は、緊張と強迫観念を生み出します。それは、内なる神を見つける為に使えたかもしれない貴重な創造的エネルギーを消費します。繰り返します。人は、あらゆるレベルで自らの無秩序が引き起こす不安に気づいていないかもしれません。しかし、不安であるに違いないのです。自分の心配事を放置したまま、満たされ活かされることを待っている人生は、本人の手から絶えずすり抜けることになります。

 タスクを時間通りに達成し、老廃物を溜め込まず、必要な課題にすぐに対処して、避けたり、先延ばししたり、内的にも外的にも問題はないと自分自身を欺いたりしなければ、人生をコントロールできることは容易に分かるでしょう。これは、健全で必要なコントロールです。これは、まさにエゴの機能です。不調和と歪みは不均衡を生み出し、コントロールすべき所にコントロールの欠如を創り出します。これは常に、分裂し、歪んだ逆の状態も生み出します。つまり、誤ったコントロールがコントロールの欠如を補償するのです。その逆も同様ということです。感情レベルでの過剰なコントロールがある場合、コントロールが機能的に発揮される場になれば、コントロールは手放しやすくなります。別の言い方をすれば、正しい場所で、正しい方法で、自らをしっかりと保っていれば、自分自身を明け渡し、正しい場所でコントロールを手放して感情や不随意のプロセスに応じることが容易になるということです。人が正しくエゴのコントロールができていれば、混乱と偽りの中で生きている時よりもはるかに、自分自身を明け渡すことができるのです。自己規律でエゴが強化されない限り、エゴは自分自身のカオスに溺れてしまう為、全てのコントロールを手放すことは事実上不可能になります。ですから、自己規律は霊的、または世俗的な充実感を得る為に必須の前提条件であることがお分かり頂けるでしょう。そうして初めて、不随意的なプロセスへの明け渡しが安全にできるのです。自己規律のある人は、自分の霊性、セクシャリティー、より深い感情やプロセスに自らを明け渡すことができます。その人は安全です。現実という確固たる基盤の上に立っています。エゴを全くなしで済ますという誤ったアプローチをとるのではなく、自らのエゴの機能を果たすのです。

 秩序とは、常に規律を意味します。未熟な人は、規律を自らが未だに戦っている親的な権威と結び付けるので、どのような規律をも拒否します。これも又、魂の中の時代遅れの老廃物です。親的な権威にあなたの人生の世話をしてもらいたい程度に応じて、あなたは反抗し、人生を安心と平和で満たす態度を身につけようとはしません。そして、あなたは自己規律を剥奪だと誤解します。何という間違いでしょう!実際のところ、自発的に自ら選んだ自己規律を拒絶すればする程、必然的に自分自身から奪っています。自己規律の産物である平和と心地良さ、そして、自己規律によって構築された堅固な土台にエゴが立つ場合にのみもたらされる、不随意の生命の流れによる深い喜びと至福を自分自身から奪っているのです。

 時間をどのように調整するか、お金、物、環境、身なり、人生のあらゆるレベルで秩序を築けるよう自己規律を学びながら、あなたの発達、成長、辛い問題の解決、真のニーズを満たしていくことを促進する新しい雰囲気を創りましょう。少なくとも、殆どの時間に訪れる課題(タスク)をすぐに対処できるように一日を調整します。毎日がスムーズに進むように、細かなことを整理してください。秩序を築き、古い無秩序を一掃する時間と労力を捧げ、それを持続させるのです。これをやり遂げる為のエネルギー、意識、ガイダンスを求めて、意図的に瞑想しましょう。それに対して大きな抵抗を感じた場合には、他の全ての課題でするように、自分の否定的意図を表現し、その意味に向かい合えるようヘルパーに手伝ってもらいます。外的人生を自らの内的態度と意図の反映として見ることを始めましょう。

 この新しい生活様式を実行する抵抗がそれ程大きくない場合には、これがどれ程の違いを生むかが分かるでしょう。肩の荷が下りることに気がつきます。あなたは平和と心地良さを味わい、それによって内的な問題を解決する更なる明晰さと内なる平和が得られ、より深い自己に身を委ねることができます。必要とされる場所でコントロールが得られれば、必要のない場所ではコントロールを手放すことができるからです。

 個人の外的人生に無秩序がある場合、それは常に内的態度を反映します。希望的観測や回避による、誤った明け渡しの内的感覚があることを反映しています。幻想的状態を反映するのです。しかし、人生に外的な秩序があったとしても、それは必ずしも、達成された秩序と内的調和の表現の反映だとは限りません。それは、正反対の兆候である可能性もあり、実際、そういう場合が多いのです。その場合の外的秩序は、内的秩序の表現ではなく、内的無秩序を補償し、代用し、解決しようとする誤った試みです。秩序が強迫的になった時、緊張して秩序に執着する時、確立されたルーティンが守られないことで恐れと不安を感じる時には、それは外的秩序の下にある内的無秩序の存在を示す良い目安になります。個人の人生において秩序が重荷になるとしたら、秩序が感情、拡張、リラクゼーション、自由を犠牲にして存在するとしたら、それは最奥の存在が意識的自己にメッセージを送っているということです。そのメッセージは「内側に秩序をつくろう」と言っています。しかし、外的自己が内的自己と十分に同調していないため、メッセージは不明瞭に伝わります。外的自己は、内的自己とコミュニケーションをとること、そのガイダンスを信頼してメッセージを読み解くことに依然として反抗的なのです。ご存知のように、内的秩序を生み出すことに対する抵抗は常に強いものです。ある人は、この抵抗を自分の外的人生に投影します。別のタイプの人はメッセージを読み違い、それを外的な側面にのみ適用します。そのような場合には、秩序は常に強制的で強迫的なものになります。強迫的な秩序は、無秩序と同じ程度に、本人の内的人生に多くの問題と困難を引き起こします。勿論、程度は様々です。洗浄強迫症等の類は、その強い顕現です。
盲目的で薄っぺらの評価をする間違いに陥らず、このことを理解することが重要です。常に注意深く観察し、個人の人生の雰囲気を感じなければなりません。雰囲気がリラックスして気楽で、秩序が生活に緊張ではなく安らぎをもたらしていれば、それは確かに、宇宙に見られる神聖なる秩序の表現です。

 あなたは今、より新しい光の中で自分自身を見つめ、新たな理解を得るツールをもうひとつ手に入れました。ヘルパーの皆さんは、ご自分とサポートしている方々の両方に、このツールを適用できるでしょう。どのような領域で現れているにせよ、外的人生に無秩序を見つける所で、その心地悪さに注目し始めてください。それが、どれだけ自分を動揺させ、悩ませているのか感じることを自分に許しましょう。解決しない深い葛藤のせいだと思っていた不安や緊張の多くが、自己規律によって消えていくことに驚かされるかもしれません。勿論、自己規律に対する抵抗、人生に無秩序を創り出すニーズは深刻な問題の表現です。しかし、外的にもそれに取り組み、実際に、新しい形で生活を再編成することは大きな助けになるでしょう。単なる外面的に従順な行為としてではなく、内的理解に基づいて選択してきた皆さんは、今や、それをするのに十分な所まで来ています。外面的な従属の行為であれば、あなたはそのことを恨み、自分の要求を満たしてくれる筈の親的な権威を喜ばせる期待からそれをするので意味はありません。もし「遵守」できなければ、偽の罪悪感を感じることになり、これら全ては、むしろ妨げになります。私がこのテーマについてお話しするのを長いこと待ったのはこの理由からです。

 実際に、自らの無秩序によって、どれだけ心が乱されているかに注目してください。あなたの中の抵抗している部分は、あなたが無秩序の重荷から自分自身を解放すれば、内的なワークがずっと楽になると知っています。抵抗している部分は、まさにそれを避けたいだけのです。無秩序な人は、決して集中できません。勿論、自らの内的無秩序を補償する為だけに秩序を脅迫的に保つ人にも、同じことが当てはまります。無秩序は、集中と注視を低下させ、マインドは彷徨うことになります。何故なら、やり残した事柄、整理されていない人生とカオスで頭がいっぱいになるからです。マインドは、無秩序の方向、無秩序によって引き起こされた直接の撹乱の方向を見ることはないでしょう。他の事柄に彷徨うかもしれません。しかし、あなたがこの彷徨える思考と、その背後にある内容と雰囲気を本当に辿って行けば、自分が向き合って整理したくない沢山の人生の小さな事柄で、自分がどれほど動揺しているかを見ることになります。

 多くの場合、人々は、この領域全体が人生の重要な側面であることを否定します。秩序について語るのは、こだわり過ぎだとさえ感じるかもしれません。創造性、霊性、人生といった偉大で重要な問題とは何の関係もないと。しかし、大いなる問いが常に多くの「小さな」問いに基づいていることは事実です。あらゆる細部に至るまで創造が正しい場所に収まるように、小さな態度も正しい場所に収まります。そうすれば、創造的表現は妨げられることが少なくなり、はるかに自由になるでしょう。ですから、このテーマを過小評価しないようにしてください。

 皆さんは今、自らの否定と破壊的意図のより深いレベルに十分に深く関わっています。内的状態の偽の評価や尺度として、外的秩序を利用する危険はそれ程ありません。そして、新たにこの道(パス)に加わった方々は、軽薄な判断の危険を避けられるだけの十分な自己認識ができる残りの皆さんに囲まれています。このレクチャーをすることを非常に長く待った理由がここにもあります。

 皆さん全員への課題として、この観点からご自身の人生を見つめることを提案します。安らぎとリラクゼーションを与えてくれる秩序は、どのように創り出しましたか?どのような点で、そうすることに抵抗していますか?どのように自らの無秩序に苦しんでいますか?そこに苦しみがある事実に気づいていますか?もし気づいていなければ、内側を探して、間接的な心地の悪さを見てみましょう。日常生活の沢山の小さな行動や反応が、突然、新しい光の中で認められるでしょう。自らの無秩序にどれだけ苦しんでいるか、いつもそうだったこと、無秩序が誤った方向でどのように自分自身を見失わせ、それによって正しい方向で自分を手放すことを妨げているのかを強く意識するようになるでしょう。

 これに関連して、先に取り上げた側面のひとつに立ち戻りたいと思います。それは回避です。回避は、常に一律に存在します。自分の否定性、破壊性、不正直さ、そして例え、実際にはそうしなかったとしても、どのようなズルをしたいのかという小さな思いつきに気づくことを避けたいと思うのです。これは本当に簡単に見落としたり、誤魔化したりすることができます。これらの目に見えない秘密の考えや態度はあなたには無害に見え、自分に影響を与えるものではないと自分自身を欺きます。不都合な感情は避けたいからです。しかし、避けるために支払う代償は、文字通り馬鹿げたものです。何故なら、避けているものに踏み込むと、突然、真ん中に黄金点、真実と現実の素晴らしい点が現れるからです。恐ろしい領域の内奥深く、恐ろしい領域を通して、あなたは光、真実、統一、そして神の、黄金点を見つけます。

 避けている領域の全ては、その内に黄金点を抱えています。恐ろしい地点の全てには、その黄金の中心があるのです。そこに向かって行けば、全ての災いが消え去ります。そこから遠ざかれば、苦しみ、混乱、暗闇が増大します。あなたは自分が向かい合うことができない領域、黄金点が存在しない領域、つまり恐怖、戦慄、悪の領域があると考えるかもしれません。それは違います。恐怖、戦慄、悪を避けている限り、これらは幽霊としてあなたの中に住むのです。この幽霊たちは、災厄と混乱を引き起こします。しかし、180度方向転換をし、これを避けたり遠ざけたりするのではなく、例え初めは、どんなにそれを悪いと感じたとしても、その中に入りましょう。もし、あなたが辛抱して、勇気と正直さと最低限の信頼を呼び起こすならば、あなたは暗闇を突き抜け、あなたの存在の中心、恐ろしい領域の中心にある、私が「黄金点」と呼ぶ場所に到達するでしょう。

 それぞれの恐ろしい領域には、黄金点の種が存在します。その内側に、黄金点を持たない悪や恐怖は存在しません。生命の黄金点を持たない死はありません。輝く光の黄金点を含まない暗闇はありません。あなたの内側に、あなたの善良さの黄金点を持たない悪は存在しません。これは、確かに真実なのです!この真実を保ち続けることができれば、避けずに通り抜けること、暗闇のトンネルを抜けて黄金の領域に入ることはもっと楽になるでしょう。

 これが、今夜の私からのメッセージです。これでレクチャーは終わりますが、続いてこの集まりに特別な祝福が与えられます。それは、このような素晴らしいワーク、展開、愛が存在できる地上の場所を創造するための更なるステップです。この集まりへの特別な祝福と、多くの導きがあります。皆さん、このレクチャーの直後、私のチャネル(エヴァ)が今の状態から戻るまで静かに音楽を聴きながら、自分自身の何かをこの冒険的企て(ワーク)に捧げること、つまりポジティブな態度、ポジティブな意図、良き意志、良き思考、良い感情をこの冒険に与えることについて特に瞑想してください。これをすれば、これをすればする程、冒険は更に素晴らしいものに成長します。このように集中して自分自身でいられない都会の様々な場所では起こり得ないことが、これから益々起こります。私がお知らせしたように、ネガティブなエネルギーからポジティブなエネルギーへ、ネガティブな意識からポジティブな意識への変化が益々起こるのです。私たちは、これをある程度やり始めています。私が今年度に発表したこの新しい動き(ワーク)が、皆さんのセンターの設立と同時期であることは偶然ではありません。新しいセンターで、これは最も良く行われることでしょう。この変容を起こす力、ポジティブな感情、エネルギー、意識を維持し、それを心地良く感じる能力は、否定性を自覚し、自覚し続けることで成長します。

 ワークは、否定性を表すことと、ネガティブなものからポジティブなものへの変容というふたつの方法を交互に繰り返しながら継続的に続けられます。皆さんは、進歩の中で準備を整えつつ、より多くのテクニックやアプローチを学ぶことになります。皆さんには、手段、平和、プライバシー、その実行が可能となる環境が与えられます。ワークは、このふたつの方法で継続的に進められます。

 指標となる目安があります。ポジティブなことに耐えられず持続できない時には、これまで多くを認識してきたにせよ、まだ十分に受け入れ、さらけ出し、理解し、直面できていない自分自身の否定的な態度があることを正確に示しています。原則的には、それは既に知っていたことかもしれません。それは、あなたの認識が十分に深く、広くなかったということです。受容は未だ欠けています。あなたはまだその中に浸かっていて、半分しか見えていません。それを永続させる方法と強さを本当には知らないのです。ですから、良い感情、親密さ、愛、喜びに耐えるあなたの能力は、その正確な目安になります。センターでのワークは、この二重の課題の変容の局面で特に助けになるでしょう。今年起こることは全て、その方向に向かいます。これは楽しみにしておくべき素晴らしいことです。その意義をただ考えてみてください。愛、親密さ、喜び以上に心地良く見えている否定性に、もう逃げ込む必要がないのです。愛、親密さ、喜びが、最も心地良く生きやすい状態になります。これが自然な状態であり、これが、皆さんが達成するものです。

 親愛なる皆さん、皆さん全員に祝福がありますように。霊的な側面から注がれる愛を感じて、それを受け入れてください。祝福されなさい。平和でありなさい。

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