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Pathwork in Japan
No.250 内なる恩寵への気付き--欠乏意識を明らかにする
Pathwork Guide Lecture No. 250
UNEDITED版
1978年4月19日
内なる恩寵への気付き--欠乏意識を明らかにする
INNER AWARENESS OF GRACE -- EXPOSING THE DEFICIT
親愛なる友である皆さん、こんばんは。皆さんに祝福がありますように。自身のコミュニティーが広がりを見せ、大きくなっていくことへの喜び、これは非常に大きなものでありましょう。皆さんの個人的な成長、奉仕へのコミットメントと献身から湧き上がる奇跡は、皆さんが身を置く地球を遥かに超えて広がることとなります。この点で我々は神を讃える思いです。
恩寵とは何かについてお話ししたいと思います。多くの人にとって理解しにくい概念です。かつては神がその御心で与えるか与えないかを判断するのが恩寵であり、特別な施し物として理解されていたため人々にも広く受け入れられていました。恩寵を受けるか受けないかは個人がどうすることもできないものとされていたのです。自己責任という概念がまだなかった昔、恩寵はこのように解釈され今より容易に受け入れることができるものでした。
現在の人類の状態において自己責任は以前と比べ遥かに発達しています。現実や経験はいいものも悪いものも、自身が作り出すものと理解されていますよね。このような現代において恩寵はどのようなものでしょうか。人間の生活や現実から完全に消えてしまったものでしょうか。いいえ、消えてはいません。自己創造や自己責任と同じように現実的なものです。相互に相容れないものでは決してありません。この重要な題材についてお話ししたいと思います。同じく重要な信仰という題材への理解にも繋がります。
神による恩寵は存在します。それは常に存在し、存在するすべてのものに浸透しています。究極的な現実の性質そのものに恩寵は存在し、そして究極的な現実は完全に恵み深く良性です。また現実が今どんなに邪悪で辛くまた悲劇的なものに映ろうとも、すべては最善であるというのが恩寵です。ネガティブな経験を完全に消化し乗り越えると最終的に人は円を一周し、あらゆる面において愛、真実、喜び、平和、最高の歓喜、永久の命、幸福という光へと入っていくことになります。いつでもこれこそが究極の現実であり、その現実に恩寵が存在するのです。
神の恩寵なくして生きていくことができないのが実際のところです。皆さんが吸う空気にさえも神の恩寵は染み渡っています。生きとし生けるものは最良なる波動や放射物から、最も粗野なものに至るまであらゆるレベルのすべてに恩寵は浸透しているのです。正に今いるこの世界、宇宙、すべての創造物、神聖なる法理の制定のされ方、これらがひとつ残らず神聖なる恩寵を現わしています。皆さんは今申し上げているような優しさ、愛、そして個々人に注がれている生きた神の思いやりで構成された宇宙の中で生き、動き、存在しているのです。神は世界にあるすべてのものの中に永遠の存在としてあり、これは言葉では言い表せないほどです。ひと時の見た目がどうであれ、恐れる事など何もない宇宙が皆さんの周りには存在しているのです。一時的な状態がどう皆さんの目に映ったとしても、そこには恐れるものなど何もない、そんな宇宙に皆さんは包まれています。
神の恩寵を自分に引き寄せることはここでは問題ではありません。というのも、恩寵はすでにそこに存在しており、皆さんの毛穴すべてを満たしているようなものだからです。問題はそれが見えず、視野が限定的だということであり、歪んだ解釈や不完全な物の見方や皆さん個人が抱えているブロックなのです。これらはまるで鉄の壁のようなもので、皆さんを閉ざし、恩寵を感じ経験することを阻害します。しかし実際にはこうした壁は単なる霧であり、視野を再調整し人格の弱点やブロックを解消すればたちどころに消えてしまいます。いつものことですが、このプロセスは日々の些細な事象や出来事からスタートします。そして判断基準は常に皆さんに委ねられているのです。これは私がよくお話しすることですが、真実に向き合っているかそうでないかは、自分が今どう感じているかで簡単に判断することができます。人生と調和が取れていると感じるのであれば、喜びと希望に満ちているのであれば、皆さんを包みそして満たしている神の恩寵の一部となっていると確信してよいのではないでしょうか。端的に言えば、こんなとき皆さんは真実にあることを確信していいということです。とはいえこれは、身の周りの世界における目下の経験や反応といった皆さんの現在の限定的な意識の状態においては少なくとも、こんなとき皆さんは真実にあると確信してよいということです。
しかし動揺し、自分自身や他者そして人生全般に恐れを感じ不調和が生じるといった先ほどとは真逆のことが起こるとき、私が折に触れてお伝えしているこうした鍵を皆さん忘れてしまいます。この鍵を常に忘れないようにしていただきたいと思います。日々の瞑想でもこれを染み込ませるようにしてください。不幸せだと感じ、恐れを抱き、やる気が阻害され、暗闇にいると感じるときには少なくとも、自分が真実にいないことに気づいてください。これだけで大分違います。ブロックや誤った視野があなたを神の恩寵から切り離しているわけですが、そんなときでさえも自分が気づいていないだけのことで、皆さんは神の恩寵の中を泳いでいるのです。
原因より先に結果を持ち出そうとする皆さんの習慣的な態度が人生に対する大きな誤解や誤った解釈を生み出し、それが恩寵を経験することから皆さんを遠ざけています。自動的に起こるこの反対の考え方は現実におけるさまざまな問題や側面に波及します。ひとつの例は神の恩寵は与えられるものであるという仮説です。この他にも、信仰とは外から来るものであり、今はなくともあたかもいつの日か追加されるものだとする仮説もあります。恩寵も信仰も不足しているなどということはありません。他のものと同様に皆さんの内にすでに存在しているものです。このような形で自分自身を捉えることができさえすれば、すべてはより容易にしかるべき場所に納まります。このことを皆さん理論としては分かっていらっしゃいますが、習慣的な思考が故にうまくこの理論に従うことができないのです。自分を、外から満たしてもらわなければならない空の器のように捉えているかのようです。何かになろうとすること、それは今持ち合わせていない何かを得ようとすることを意味します。しかし現実には皆さんは望むすべてを兼ね備えています。会得しようと目指している意識の状態はすでに皆さんの中にあります。今お話ししている現実のレベルに皆さんはもともと生まれているわけですが、このレベルで機能しているのはあなたという存在全体のたった一部分だけだということです。この現実にどっぷりと存在しているこの一部を徐々に解き放ち、物質の次元へといざなうことがあなたの務めです。今お話ししている現実にあなたが設定している制限、まさにそれが故にローアセルフは存在します。拡大、成長そして発展といった言葉はたったひとつのことを意味しています。つまり、皆さんが本質的にすでにそうである完全性を前面に出すことを意味しているのです。依然として異質なものに自分を作り上げようとするのではなく、すでに自分の内にあるものを解き放つことがこのプロセスなのだと捉えることができれば、プロセスを大きく前進させる助けとなることでしょう。
こうして皆さんの内に本来備わっている恩寵への気付きを解き放つことができるのです。そして皆さんの内にすでに存在する信仰をも放つことができます。ここでいう信仰とは、神の愛と思いやりの御心で形作られた優しさに溢れる宇宙に今自分は生きているのだ、恐れる事など何もないという知です。このように思い描くことで、新たな気付き、新たな知、新たな信仰、新たな反応が生まれることでしょう。そして皆さんはこうした新しいことに驚かされ、感嘆と歓喜に満たされることでしょう。
では、皆さんの内にすでにあるこの信仰、知、気付きを解き放つことには一体どのような弊害があるのでしょうか。そもそも、皆さんは気付きと知をすでに獲得しているのだということを知りません。知識とは養われなければならないものであり、まず脳の外側で思考することに始まります。恐れることなど何もなく、自分は優しさに溢れる宇宙に生きており、生きた神によって満たされているという可能性を考えるだけでも自動的に、恐れ、疑念、不信感、ネガティブな信念を払拭することに繋がります。言い換えれば、人生をそしてその法理をじゅうぶんに信じることが容易になり、他に与えるというリスクを取ることができるようになるのです。決して動かすことのできない生命の法理に触れるひとつの重要な手段です。なぜなら真に何かを受け取るためには、自分の内から、その心から与えなければならないからです。あらゆる宗教の経典がこの法理について説いており、皆さんもすでに何度も耳にされていることでしょう。それほどに重要なものです。ですがこの法理は大抵程度の差こそあれ誤解され、また大きく歪められているため、人々はこれを横に置き、きちんと向き合っていないことが多いのです。人々は法理を、交渉という形で場合によっては見返りを与えてくれる横暴な権威が下す、神聖ぶった偽善的な勅令として経験します。人の内にある尊厳はこの概念や態度を拒否し、個人をまるで手に負えない子供のように教育しようと扱う宇宙に不信感を覚えます。ローアセルフはまさにこのような視点を持っているのですが、こうした歪みを信じているのはもちろん、真の存在としてのあなたではありません。
現実においてこの法理が意味するところは何でしょうか。受け取るという魂の生来の能力や切望が制限されると、受け取ることが極めて不可能となるメカニズムがすべての人々に埋め込まれています。現実には与えることと受け取ることはひとつであり、ひとつの流れ、ひとつの動きそしてひとつの現象なので、いずれか一方なくして他方が存在することはできません。不信感や恐れが自分を抑え、魂が普遍的生命や動きに妨げなく入ることができなくなれば、メカニズム全体が停止し、神の恩寵やその現れは人格の意識の中に入れなくなってしまいます。いつでもそこにあり、味わい経験することができる富がそこにあるにも関わらず、手を伸ばすことができないようなものです。感覚は富を感じ取ることができず、目は富を見ることができず、脳は赤裸々な現実を観察することさえできないかのごとくです。人格全体の感覚が鈍化し、完全に歪んだ人生の見方に焦点が当たってしまいます。貧しく何もない宇宙に自分は生きているのだという幻想が大きくなり、自分の内部の世界もこの宇宙と等しく貧しく何もないため自分には与えるものなどまったくなく、外から受け入れるものも何もないという幻想が膨れ上がります。
ご承知のとおり、すべての態度、思考または感情の状態は連鎖反応や循環を生み出します。信念や態度、行動パターンが真実に基づくものなのか、はたまた誤りに基づくのかに従って、この連鎖反応や循環は良性または悪性になります。内外部の世界が空っぽで貧しいという幻想があると、自動的に悪循環が生じます。この信念によって自分の持って生まれた富や才能など、霊的および物質的、またはその両方にあなたが持ち合わせているすべてを死蔵することになります。つまり自分を包み貫いている富から自らを切り離してしまうのです。この内部のメカニズムによって受け入れることが不可能となり、ひいては自分の人生と自己は貧しいという見方をさらに強化し、固定化してしまうのです。
対照的に、貧しさや欠乏した状態に疑問を投げかけ、意識の上でこれらが幻想であるかもしれないと仮定し、与えるというリスクを取ることで富がさらに大きくなる可能性もあると考慮することで好循環が生まれます。神を信じ、愛で神に与え始めれば、自分の内にある神への信仰をより多く解き放ち、固定化された見方を自由にすることができるのです。これにより自分自身だけでなく、周りをもじゅうぶんに満たしている富があることに気づくだけでなく、メカニズムを施錠していたレバーを解除することもできます。あなたは豊かな世界へと手を伸ばし始め、この圧倒的な富に含まれるすべてと、創造主から皆さんへと向けられた強烈な愛を授かることを自分に許し始めることでしょう。創造主からの愛は、到底言葉では言い表せないほどにすばらしいものです。富は永久に、そして容赦なく、決して果てることのない流れへと置き換えられたのだと気づき、自分の内的および外的な豊かさをこれまでより多く解き放つ好循環にさらに深く入っていくことになります。より多くを受け入れれば、より多くを与えることができ、より多くを与えればより多くを受け取ることができるようになるのです。この瞬間に与えることと受け入れることが一体となるのです。
したがって最初のステップは、与えるというリスクを取ることであり、自分を控えめに、そして出し惜しみをさせている恐れは誤りであると熟考することです。ここでふたたび、これまで人生の基本原則であったものを今一度考え直すということです。誤りであるが故に、人生を誤った形で描いてしまう古く有害な人生の基本原則を徐々に捨てていくのです。正しい見方もそうですが、間違った見方も信じることで強化されます。これが厄介なのです。誤った見方の真偽を問うてみてはじめて、そのエネルギーは弱くなります。このプロセスは、害のある雑草を刈り、新たな美しい花を咲かせる種を植えることになぞらえることができます。神の真理や現実に納得するより前に、神に対する信仰、愛そして信頼をすることこそが新しく豊かで美しい霊的な庭園を作り上げるということなのではないでしょうか。ここで言う霊的とは、どこか遠くに存在する曖昧な、死後の世界でのみ実現されるようなものを指しているのではありません。自分の内外部の豊かさとして遅かれ早かれ皆さんが今いる物質世界で姿を現すことになる、実体的なものを指しています。
次に、創造物と調和しながら流れ、神聖な秩序と恩寵の中で生きていくことができる好循環の障害となるもうひとつのことについてお話しします。この障害はとても重要なものであるにも関わらず、それが一体何であるかはほとんど認識されていません。この障害はすべてのレベルに存在します。つまり、内部、感情、心理、霊性、個人の人格にも存在しますが同時に、外部にも、概括的で普遍的かつ集団的なものにも存在します。このことについて今触れようと思ったのは、皆さんの個人としての成長や道のりの助けとなるだけでなく、拡大する皆さんのコミュニティー全体を司る新しいモデル確立の一助となるからです。不足や欠乏の状態の上に何かを築いていこうとする人間の傾向が、今お話しするもうひとつの障害です。この障害はもちろん、宇宙は空っぽで貧しく、与えることがないという信念に本質的に結びついています。もう少しはっきりと意味するところを申し上げましょう。まずは人にとっての個人的な内なるレベルからお話しします。無意識あるいは半無意識に存在するネガティブな信念の上にポジティブな信念や人生のパターンを築こうとすると、不足や欠乏の状態の上に事を築くことになります。人から愛され受け入れられるはずなど決してないと人が密かに信じているとき、これもまた不足の状態の上に何かを築いていることになります。偽りであるか真実であるかに関係なく罪悪感が故に自分自身を神に与えることが阻害されているときも同じです。宇宙は自分に敵意を向けると思い込み、この敵意だと仮定するもの対して破壊的な防衛手段で抵抗し自分を守ろうとするときもそうです(この防衛を本人が意識している場合とそうでない場合がありますが、どちらにしても自分を合理化し正当化することには変わりありません)。
不足の状態の上に築く方法は一見、短期的には成功を見せます。しかしこれが問題なのです。というのも誤りが機能するかのように人の目には映り、結果的に一時的とはいえ誤りが説得力を持ってしまうからです。安定していない砂の上に家を建てる人は、ある程度は持ちこたえる素敵な家を建てることができるかもしれませんが、家が崩れ出すと、こうした不安定な土台を選びその上に家を築いたという事実に目を背け、そこにある関連性に気付くことができません。家が崩壊したことは別の原因のせいにされます。こうした正当化は人生に対する幻想を維持させるだけであり、不足の状態の上に何かを築き上げようとする傾向を助長するだけなのです。
皆さんがご自身の道で取り組みができるようにとお渡ししているツールは、皆さんの中にあるこうした不足の状態があたかも存在しないかのように否定したり、大して重要なことではないと見逃したりするためにお渡ししているのではなく、不足の状態を意識に上げることを目的に明確に設計されたものです。皆さんが歩んでいるこの道は、直接内なる秩序を創り出すよう設計されています。最初は痛みを伴うかもしれませんが、こうすることで内的な「経済」に見せかけの行為をさせる、または不健康にすることなく、真の資産の上に事を築き始めることができるようになるのです。自分自身の負債や不足の状態が暴かれることに伴う一時的な痛みは、暴くことで「貧困という現実」を受け入れなければならなくなるという誤った世界観からきています。不健全な管理方法は変えることができ、真の富を健全な考えを基に創り出すことができると信じられないために「貧困という現実」を受け入れなければならないと思ってしまうのです。皆さんは常に不足の状態で自分を機能させ、歪んだ形で与えようとしています。しかしこれは真に与えることとは無関係です。多くの場合、与えるという見せかけの行為にすぎません。本当の自分はこうであると内心考えている一方で(自分は不足していると信じている一方で)マスクセルフを世界に投影します。あるいは操作的な方法で自分が持っていないものを得るために与えようとします。このようなローアセルフの与えるという行為は、不足の状態の上に築くということのまた別の側面なのです。与えるということに関してこのような誤ったやり方はふたたび、表面上は一時的に機能するでしょうが、内的には不足は増長します。こうなると破綻状態は不可欠となりますが、大抵の場合は自らが創り出した貧困を覆い隠すことになります。見せかけでうまく進むために外的かつ一時的で不健康な方法を安易に掴むのです。これでずっとやっていけるという幻想のもとに。
世界は意地悪で貧しいものだというローアセルフの幻想の上に、この方法で永遠に何とかやっていけるというマスクの幻想が創り出されます。言い換えれば、神の創造によりもたらされた真の豊かさではなく、策謀による見せかけの強欲に基づいた幻想の豊かさのみを信じるのです。実際にはこれは、マスクセルフやローアセルフにあまりに多くのエネルギーを注ぐことに繋がり、多くの場合地下でくすぶり存在している内部の不足の状態や破綻など決して暴きたくはないと思うようになります。ヘルパーや仲間と共にすべての罪悪感とローアセルフのメカニズムを前面に出して向き合うことで、丸裸な状態でそこに立てるようになります。ベニヤで表面をごまかすこともなくなるでしょう。不足の状態を増長させる以外の何物でもない破壊的なやり方で、誤りの信念を通して自らがうっかり創り出したこの貧しさを、もう避けようとすることもなくなるでしょう。躍起になって蓋をしてきた破綻状態を認めることへの恐れや抵抗も、信仰によってようやく克服することができるようになるのです。この瞬間こそが新しく健康的な内なる富を築き始めることができるときなのです。そしてこの富は、皆さんを豊にするために形となって現れるこの瞬間を待ちわびているのです。
すべての個人的な危機や機能不全は、こうした破綻が表に現れたものに過ぎません。多くの場合このような危機的状況は、ヘルパーやグループで活動している時など、制御された状況下で意図的に引き起こされます。自分の不足の状態を見せるという恥を経験し、ようやく不足の状態の上に構築することを止め、この不足という状態が最終的な現実なのではないかという恐れや痛みを漕ぎ進み、経験します。しかしすぐに、不足の状態の上に築き、作り物の富を偽ったために自らが創り上げた貧困という思い込みの現実を半狂乱に隠すという努力のその後ろに、真の富があることを発見することでしょう。
皆さんの霊的および感情面での「財政状態」はしばしば物質的なレベルにも現れます。このゆえに多くの場合で人は負債をごまかし、穴は穴で塞げばよいという分不相応な生き方をするのです。次から次へと起こる不安の中にあっても、秩序を作り出そうとしない理由としては(1)秩序や豊かさなど自分にはあり得ないと信じている(2)与えることをしようとしない。働く、または仕事に自らを注ぐ、最善を尽くすといった対価を支払ってまで与えたいと思わないのでしょう。これではきちんとした生活を営むことはできませんし、他者に依存して負債が増すだけです。パスワークの個人セッションにおける内的なプロセスは、常にではありませんが、時として最終的には外的なレベルという物質的な形に現れることもあります。内的な欠乏が外的にも現れている人達のために、予算について相談できるようなセッションも皆さんは用意していますね。不足の状態や赤字で回し続けるのを止め、新しく健康的な秩序を創り出すのが目的なのではないでしょうか。こうした予算にまつわるセッションは外的な現れを扱っているわけですが、心理や霊的なレベルを扱うパスワークの個人セッションと行っていることはまったく同じです。
親愛なる友である皆さん、今お話ししていることを理解することは極めて重要です。財力、経済状態、集団的な統治機能はどれも同じようなパターンで動くと知っておいてください。不足や赤字といった状態の上ではなく資産の上に築かれる政治は健康的です。負債ではなく貯蓄の上に、空っぽなところではなく充足した状態の上に築かれているのであれば健全なのです。国家あるいは国際的な政治がどのように機能するかご存知の方であれは、私が今お話ししている原理が個人の内部に適用されるのと同じように外部および集団的レベルにも当てはまるということが容易にお分かりいただけるのではないかと思います。国家が、革命、戦争、崩壊、財政破綻などの深刻な危機に陥るときは常に、明確さや秩序、真実、不足や赤字を表に出すという作業を自発的に確立するという、故意にある程度コントロールされた状況下でこうした作業を選択し行うことなしに長く放置された結果なのです。故意に選択されるこうした作業は、真の豊かさがその後に続くためのものです。不本意ながらも起きてしまった危機は、自己の内にある貧しさや見せかけ、不足の状態から目を背けた人が崩れてしまうことにもなぞらえることができます。
政府が不正義、強欲、権力をかざし、国民を巧みに欺くと、霊性のみならず物質的な部分においても不足を生じさせることになります。こうしてできた不均衡に蓋をできるのは一定の期間だけです。最終的には新たな秩序が生まれるためにこうした不均衡は顕在化することになります。多くの場合このような危機を国が経験するとき、はじめは最善の意図によって動機付けがされていることでしょう。新たな法律、手続き、新たな集団的措置が導入され、政府が樹立されます。しかし内的な意味がふたたび失われると、形は違ってもまた同じような不足が生じます。闇の力により真実が歪められ、神による内なる真理から遠ざけられることになるのです。真理はふたたびぼやけたものとなり、新たな不足の状態が蓄積します。もちろんその時々で勝る政策やそうでないものもあるでしょう。しかし、どのような措置を講ずるか、どのような政府を樹立するかという外的なものに解決の糸口を見出すことはできないのです。
さまざまな情報源から各国の政府をよく観察してみると、どのようにして赤字が発生しているかすぐにお分かりいただけると思います。時として国の経済は、直接的な物質の不足が明らかなこともあります。政府は躍起になって事が順調に進んでいるかのように振る舞い、穴は別の穴で塞ぐという見せかけでもって一時的なものであるにもかかわらず暴露を避けようとします。真の豊かさを構築できることを信じようとしないのです。不均衡と不始末を認めるという危機をひどく恐れているのです。信仰の欠如がそこには存在し、貧しさや、何も当てにならないという不信感、そして空っぽな宇宙という誤った世界観のために内にあるものを暴くというこのステップが取れなくなってしまうのです。
このプロセスは神のもとで、神を通して、神とともにあって唯一可能となります。信仰心を持とうとリスクを取ることで信仰が形成され、信仰心を持つことは正当であると経験することができます。従って皆さん自身の中、あるいは周りに存在する神聖な世界とキリストと直接対話をしなくとも正義と平和は存在し得るのだ、バランスと調和のとれた豊かな世界は成立するのだと考えるのは愚かなことです。神の存在を無視すれば、その存在を感じることはできず、導きや助言、愛に溢れたインスピレーションを聞くこともできず、内部の一時的な破綻(個人と国家の外部に現れる破綻もそうですが)に向き合うために必要な勇気を感じることもできません。すべての参加者が最も純粋な動機にしっかりと満たされて、神の永久なる存在に助けとインスピレーションを求めることができて初めて、この修羅場も収束し再構築することができるのです。これが皆さんのいる世界にある望みです。神の存在なくして行われるすべては、たとえ最初は知的で効率的に思えても、長期的には失敗に終わります。神を通じて、神とともにあることでのみ、自分を完全にオープンにして見ることへの勇気と信頼が生まれ、ひたむきかつ栄光に満ちた再構築の始まりが可能となるのです。こうしてようやくすべての統治が今ある資産を基盤として機能し始めます。こうしてはじめて、与え、受け入れることがバンラスの取れた健康的な状態で機能し、すべてが真実、正義そして公平性に基づき、決して貯蓄を食いつぶすことのない状態になるのです。ある一国が他国の資源を否定することがなければ、神の創造物である世界は相互圧力や権力闘争によって腐敗することはなく、場所を問わずすべての国がすべての出来事に参加できるようになります。神はある資源を特定の地域にもたらし、他の資源を他の地域にもたらしたわけですが、なぜだと思いますか。創造主は最も深い理由と意味に従いそのように配置したのです。偶然そうなったわけでは決してありません。人々が分かち合い、他者を気に掛けることができるようにと手助けが目的なのです。同時にこうした人々も、分かち合い気に掛ける相手から、自分たちが必要としまた相手が持っているものを惜しみなく受け取ることができるようにと配置がされているのです。ここでも霊的な法理がいかに実用的なレベルで機能するのかがお分かりになるでしょう。多くの人々がはく奪を余儀なくされるにも関わらず、自国の資源を自分たちだけで貯蓄し、より多くの権力と富を得るために使うのではなく、お互いに共有することができれば与えそして受け取ることが可能なのです。
親愛なる友である皆さん、皆さんのコミュニティーに築く必要があるのはこうした原則です。そうすることで皆さんは真のお手本となれるでしょう。ここでこのプロセスについて少しお話しをし、自分自身で作業をするための指針を皆さんに提供したいと思います。すべての細かなところに至るまで、神のチャンネルとなるよう努力する必要があります。しかしそのためには外的な指針が必要です。このトピックに大方関連した質問を最近受けたのですが、まずはその質問を扱うことから始めましょう。自分の構造にある程度の不均衡が存在していることには皆さん気づき始めていると思います。バランスとは一方から他方へとおもりが常に変わるものです。個人ならびに生命の集合体の成長過程において、内外部の調和、健康そして正直に獲得した富、つまり神聖なる豊かさを確立するために、バランスを常に調整することが大切です。
具体的な指針は次の通りです。個人が集合体に対して与えるときなのか、はたまたその逆に集合体が個人に対して与える必要があるときなのかを精査します。欠乏で回すことなく、豊かさの上で機能するためには、財力を超えた裕福な生活を送ってはいけません。またこのプロセスは疑心暗鬼に行うものではありません。自身の世界が欠乏の上で機能しているという現状を正当化するための誤った信仰を持つことなく、真の信仰を持つことは可能です。また同時に、深い形で優先順位をつけることが必要となります。豊かさと資産の上で機能するという健全な基本が確立されるまでは物質的なレベルにおける赤字は避けられない、そうした場面もあるでしょう。目標を忘れさえしなければ達成することができます。そのためには自分が望むよりも低い予算を設定する必要があるかもしれません。コミュニティーとしての皆さんにとっては、真の意味で賄えるようになるまでは必要不可欠だと言い張りたいものを一時的に削る必要があるかもしれません。これまでに行ってきたワークの視点から見て、より大きな規模で見たときに満たされるタスクは何かを見極め、必要なものとそうでないものを精査する必要があるかもしれません。一部の方がすでに当初からされてきたように、一時的に、もっと多くの方が与えることに努力をしなくてはなりません。こうした努力なしに今あるこのコミュニティーは存在していなかったことでしょう。与えることではく奪されるような人は誰一人なく、むしろその逆です。与える人たちにも豊かさがもたらされるということをこの法理は明確に唱えています。より多くの皆さんがこの在り方を取り入れることで物質的レベルも含めたすべてのレベルで個々人および集合体がより健全となることでしょう。そしてそれが故に集合体が個々人により多くを与えることができるようになるのです。しかし、今お話ししている霊的かつ物質的な健康や豊かさがしっかりと根付いていたとしても、4段階目(心遣いや配慮の観点からは3段階目ともいえるでしょう)にコミットしたいと願う新しく着手する個人においては、大きな報いなしに与える期間を経なければならないことを忘れてはなりません。このステップを飛ばしてしまえばコミュニティーの霊的な面での健全性が損なわれ、結果として物質的な健全性までもが損なわれてしまいます。
皆さんはまだ暗闇の中で模索している状態ですから、少なからず付きまとう不安感はあるでしょう。しかしこのような新たな見方をすれば赤字ではなく資産で機能する経済を確立するという点で多くの変化が起き、不安からも完全に脱することになるでしょう。道における内的なプロセスと今お話ししている内容はまったく同じだと理解してください。とはいえ、コンセプトや視点が抜け落ちれば、すでに内的には存在している秩序が同じ速さで外的に現れることはないかもしれません。ですから問題というのは大抵の場合、トンネルの両側から解決を試みなければいけません。霊的かつ心理的なレベルにおいて内的なワークを深化させ、不足の状態の上に機能しているすべてを浄化するのです。また同時に個人の金銭面においても同様のプロセスを行わなくてはなりません(予算を扱うセッションはこの点において重要です)。最後に大切なことですが、集合体の物質的なことにも同様の原則が確立される必要があります。こうして真の調和が確立され、皆さんが歩む道全体とすべての努力が円滑かつ豊かに機能します。堅実な形で稼ぎ、正直に働いた結果の報酬を、罪悪感なしに楽しむことができます。こうして得た豊かさは多くに利をもたらし、始めは物質的に支えられる必要のある人々が自立するまでの間の奨学金とすることもまた、利の可能性のひとつなのではないでしょうか。
最終的にこのレクチャーは、今お話ししているような実際のアドバイスを遥かに超えたものであることは言うまでもありません。常に存在する神聖な恩寵を受け取りその一部となることを妨げるすべての障害に気付く必要があります。こうすることで信じたいと望むことを信仰するのではなく、現実的かつ自分の中に実際に存在する信仰の経験を解き放つことができるのです。多くの場合、信じたいと望むことを信仰する姿勢が信仰だとされますが、自分が非現実的になっているのではないか、そして失望するのではないかと恐れ、避けられているのが実際です。
親愛なる皆さん、キリストの抱擁は皆さん全員を包み、皆さんが行うすべて、考えるすべてにおいて共にいらっしゃいます。皆さんは神に祝福された存在です。
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