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No.60 幻想の奈落「自由と自己責任」

Pathwork Guide Lecture No. 60
1996年版
1960年3月4日


幻想の奈落「自由と自己責任」
THE ABYSS OF ILLUSION -- FREEDOM AND SELF-RESPONSIBILITY


こんにちは、最愛なる友人達よ。今宵は祝福されています。皆さん全員に祝福を。

皆さんは、ご存知でしょう。思考、感情、態度、信念が形を創り出します。それは、地球の物質と同様に実在します。信念が深くて強固であればある程、これらの形はより永続的で頑丈になります。それらは、あなたの魂の内に存在すると同時に、スピリットの世界にも存在します。もし、あなたが真実に満ちた態度、意見、信念、感情を心に抱くなら、その形は光の世界に存在し、あなたの魂の内に幸せ、調和、皆さんが幸運と呼ぶものを創り出し、運んで来ます。真実という魂の形は、永遠に存続する物質でつくられています。それは決して消えることはなく、破壊されることもありません。

非真実や、非現実的な信念や感情は、正反対の性格を持っています。これらは、暫くは存続しますが、その持続性は、人格におけるこれらの態度が優勢である期間に限られます。こうした信念、態度、思考、感情が強ければ強い程、その影響はより大きくなり、その形はより頑丈になります。

時折、私はあなたの歩む道を、皆さんにとって馴染みがある地上の風景を例に挙げて説明してきました。潅木や茂み、狭い岩棚や崖があります。時には、道が険しく、飽き飽きしたり、急勾配だったり、石ころだらけだったりすることもあります。また別の時には、次のハードルに取り組む準備ができるまで、安らぎと光の草原にいる自分を発見することもあります。この全ては、単なる象徴ではありません。これらの形は本当に存在します。これらは、あなたの内なる態度や信念、思考や感情の産物なのです。これらの多くは、障害物を創り出します。この障害物の間を通り、あなたは自らの道を手探りで進まねばなりません。

そうした態度、確信、誤った結論が無意識であればある程、その障害物はより強くなります。これは論理です。何故なら、意識的気づきという光のもとに晒されているものは何でも、もし間違っていても、修正されることに対して開いているからです。それは、検討される為にオープンにされていて、それによって、柔軟で、変化しやすいものとなります。日常生活において、意識的な確信を変えるような出来事に遭遇するかもしれません。しかし、もし結論や態度に気づいていなければ、それは明らかにされておらず、考え直したり変えたりすることはできません。硬直しているのです。そして、形が硬直していればいる程、その本質は強くなります。もしこれが非真実から創造された形に当てはまるならば、それがあなたの人生でとてつもない障害となることは、容易にお分かりになるでしょう。

全ての思考や感情が実際の形、物体、物であると理解できれば、無意識を明らかにし、その中にあるものを見ることが何故それ程までに重要なのかをより深く理解できるでしょう。これらの形態は、それが何を表すか、信念の強さ、それに結びついているものによって、内容、強度、形状は異なります。これは又、その人の性格と気質によるのです。

さて、ここで、全ての人間の中にある程度存在する、一般的な魂のある形についてお話ししたいと思います。私はこれを「幻想の奈落」と呼ぶことにします。あなた方ひとりひとりの中にも奈落があります。この奈落は全く非現実的なのですが、その幻想的な性質を見つける為の必要なステップを踏まない限り、それは全く現実のように見えます。

悪いものや害のあるものを欲しがっている訳ではなくても、あなたが身勝手さを手放せない時、もしくはこの世界の不完全さを受け入れられず、自分が正しいのに人生や人々が自分の思い通りにならないと思う時、あなたは奈落に落ちてしまったように感じます。これらの感情をそのような言葉で表現したことはなかったかもしれません。しかし、自らの感情を分析してみると、これが真実だと分かるでしょう。あなたの中には、自らの意志に反して起こることは、何でも危険だという強い恐れがあります。言うまでもなく、これは全ての状況、あなたの人格全体、人生の全ての領域に当てはまる訳ではありません。

この方向でワークし、特定の出来事に対する感情的反応を吟味することによって、あなたは自らの内にある幻想の奈落に気づくようになるでしょう。私の言葉を鵜呑みにしないようにしてください。その真実を経験してください!

この奈落は深さや幅も多様です。その存在に気づき、その非現実性を徐々に発見することによってのみ、この形は少しずつ消えて行くでしょう。これは、いつかあなたがそれに身を委ねる時にのみ起こり得ます。言い換えれば、手放すことが難しいと思えるもの、個人的な脅威のように思えるものは、実際には全く脅威ではないということです。誰かがあなたを受け入れてくれなかったり、あなたの期待に反する行動をとったりしても、それ自体は脅威ではありません。同じく、自らの不十分さを受け入れなければならないとしても、それは惨事ではありません。しかし、その経験を完全に経験しなければ、この真実は分かりません。これまで、殆ど受け入れられなかった領域において、自分自身や他者の不十分さを受け入れ、命懸けでしがみついていた部分において自らの意志を手放して初めて、自分には何も悪いことは起こらないと本当に確信できるようになるでしょう。この奈落があなたの魂の中に存在する限り、もし屈服したり、手放したりすれば、深刻な危険にさらされるように思われるのです。あなたは奈落に落ちるように思えます。その奈落は、あなたが自らをその中に落とすことでのみ消えるのです。その時に初めて、あなたは自らが墜落したり消滅したりせず、美しく浮かんでいることを知るでしょう。そして、恐れや不安で自らを緊張させていたものが、この奈落と同じくらい幻想であったことを理解するでしょう。

繰り返しますが、奈落がそれ自体で消えることはありません。奈落はあなたがそこに飛び込んだ時にのみ、あなたの魂と人生から消え去ります。最初は大変な努力を必要とするかもしれませんが、何度も挑戦する度に、より容易になるでしょう。

誤解しないでください。私が申し上げているのは、何かを不必要に諦めろとか、単に手放せば幸せになるからという理由で手放すように言っているのではありません。あなたが持っている何か、所有物を手放すように言っているのでもありません。又、建設的に対処できる現実的な恐れについて話しているのでもありません。私が言っているのは、あなたの魂に潜む微かで小さな恐れ、自分自身でも全く理解できず、不十分な合理化しか見つけられない不満や不安についてです。身近な人があなたに同意しなかったり、特定の欠点を持っていたりすると、あなたはひどく緊張し、不安でいっぱいに感じるかもしれません。これらの感情を分析してみれば、あなたのユートピアの世界が非現実だと証明されたことで、危険にさらされたと感じていることに気づくでしょう。これは命が危険にさらされていると錯覚させる、幻の恐れです。さもなければ、それ程恐れることはないでしょう。これこそが、あなたが飛び込むべき奈落であり、そうすることで、自分は消滅するのではなく、浮かんでいるのだと気づくのです。

前回、私は、人間の人格におけるユート-ピアの機能について話しました。あなたの中の子供は、自分が欲しい方法で、自分が欲しい状態で、自分が欲しい時に、全てを欲していると説明しました。しかし、それだけではありません。この欲望には、責任を負うことなく完全な自由を求めることも含まれます。あなたは、自分がこれを欲望していることに気づいていないかもしれません。しかし、自らの反応をいくつか調べ、それが本当は何を意味するのか自問自答することでその根本にたどり着く時、あなたは自らの存在の子供っぽい部分が、まさにそれだけを欲していることに間違いなく気づくだろうと私は確信しています。あなたは、あらゆる面で人生を望み通りに導いてくれる良い権威を自らの上に置きたいと考えます。あなたは、あらゆる面で完全な自由を望み、独立した決断と選択をすることを望みます。もしこれらがうまく行けば、それはあなたの功績です。しかし、何か悪いことが起こっても責任は取りたくないのです。そして、あなたはそのような出来事と、自らの行動や態度との関連を見ることを拒否します。あなたはあまりにも巧みにこれらの関連を覆い隠すので、暫くすると、この関連を明るみに出すのに実に多大な労力を要することになります。あなたがネガティブな結果の責任をこの権威に取らせたいと願うことから、このようになるのです。

この道をかなり進んでいる私の友人達の多くは、自らの内にこの部分が存在していることをすぐに確認するでしょう。結局のところ、この無意識の考えや態度は、ただそれだけに行き着きます。あなたは自己責任なしの自由を望んでいます。従って、あなたは自分の子供を甘やかす親のように過保護で、甘い神を欲するのです。勿論、そのような神は見つかりませんが、その神が見つからなければ、神はあなたの目には怪物になり、あなたは神から完全に背を向けます。

神に対する期待は、人間に対して投影されます。特定の人物、グループの人々、哲学、信条、教師等に対しても投影されます。誰か、何かは、問題ではありません。いずれにせよ、無意識の神へのイメージへの理解は、この非常に基本的な要素を含めない限り、完全ではありません。

自らの内に、自己責任を負わずに自由を欲する部分を見つけることはとても重要です。私達のワークの方法を用いれば、まさにそれを欲している多くの領域を見つけることは、それほど難しくないでしょう。この欲望は極端に現れる場合もありますが、多くの場合に隠されており、間接的な方法によってのみアプローチできます。今、それをどのようにすべきか、あなたにお見せする事はできません。何故なら、アプローチは人それぞれで異なるからです。しかし、あなたが望むなら、喜んで皆さんそれぞれにその道を示しましょう。ひとりとして例外はあり得ません。誰もが皆、少なくとも何らかの形で、まさにこの自己責任なしの最大限の自由への希望と欲望を持っているのです。あなたは人生のいくつかの領域、大抵は表面的で外的な行動においては、自己責任を引き受けたいと思うかもしれません。しかし、人生全体に対する最後の、そして最も深い、最も重要な態度において、あなたは依然として自己責任を拒否しながら完全な自由を欲しています。

良く考えてみれば、これは不可能なことだと間違いなく分かるでしょう。まさにユートピアなのです!自由でありながら、同時に責任を負わないでいることはあり得ません。責任を自分から他者に転嫁すればする程、あなたの自由は制限され、自らを奴隷制度の中に置くことになります。これ程シンプルなことなのです。

動物の世界でさえ、同じ法則が働くのが観察できるでしょう。ペットに自由はありませんが、自らの食料や住居に対する責任はありません。野生の動物はペットよりも自由ですが、自らに責任があります。これを人類に適用せねばなりません。自由があればある程、責任は重くなります。何処を見ても、そうではない状態があり得ないと分かるでしょう。自らの能力に応じた責任を望まないならば、自由を放棄しなければなりません。表面的には、これは職業の選択から政治的な選択に至るまで、殆ど全てのことに当てはまります。しかし、人類が自己責任なしに自由は存在し得ないという基本的な真実を見落としている領域は、人間の魂の外側ではなく内側にあり、人生そのものに対する人間の態度の内にあるのです。

あなたの中の子供はその繋がりを見ないし、見たくないのです。子供は片方だけを欲しがります。その子供が望むものは存在しません。それは幻想、あるいはユートピアです。幻想の代償は、とてつもなく高いのです。この場合、自由への自己責任という自然で正当な代償の支払いを避けようとすればする程、代償は重くなります。これも又、不変の法則です。人間の魂を理解すればする程、このことをより明確に観察できるでしょう。魂の病は全て、正当な代償の支払いを避けるということに根ざしています。どれも手に入れること、それも簡単に、そのような強い欲望と執着があります。

友よ、結局のところ、あなたが代償を払うことを避ける為に支払う代償はあまりに重く、途方もなく高いのです。あなたは未だそれに気づいていないかもしれませんが、この特別な道(パス)を歩むならいずれ気づくでしょう。その代償の一部は、この点における自らの幻想の型に人生を無理やりはめ込もうとして無駄にする、継続的な努力です。もし、あなたが内なる感情的な努力の全てを目にすることができれば、きっとゾッとするでしょう。何故なら、その力の全ては、全く違うことに使える筈だからです。幻想を手放し、完全な自己責任を引き受けることがあなたにとってあまりにも難しく、それに対する恐れが奈落の大部分になっています。あなたは、もし自分が本当に自己責任を引き受ければ、すぐに奈落に落ちるだろうと考えているようです。その為、あなたは常にそこから逃げようとしたり、それを阻もうとしたりして、力を消耗します。

あなたにとってユートピアの世界を諦めることは奈落のように見えることが、今や理解できるでしょう。ユートピアを諦めることは最大の危険に思え、それを阻もうとご自分の霊的筋肉の全力を尽くして抵抗します。あなたは、貴重な力を無駄に失いながら、奈落から離れるのです。自らのユートピアを諦めることは、ひどく悲惨に思われます。世界は暗く希望なく、幸福の為のチャンスもなくなります。何故なら、あなたの無意識なマインドにある幸福の概念とは、あらゆる方法での完全な完璧さを意味するからです。しかし、これは真実ではありません。ユートピアを諦めたからといって、世界が暗くなる訳ではありません。欲求を手放し、あなたにとって恐ろしく思えるものに踏み込むことに絶望する必要はありません。この恐れ、この奈落、その幻影的な性質である幻想を発見できる唯一の方法は、まず日常生活におけるその多様な顕現や反応を通して、自らの内にその奈落の存在を視覚化し、感じ、経験し、そしてその中に飛び込むことです。そうでなければ、それは無くなりません。

人生について、とても重要な一般的誤解があります。それは、自己責任を伴わない自由への不合理な欲望が招く主な結果です。それは、あなたのイメージする神、人生、運命の気まぐれによって、又は他者の残虐さ、無知、利己主義によって、あなたがひどい目に会う可能性があるという考えです。この恐れは、奈落と同じように幻想です。この恐れは、自己責任を否定するからこそ存在し得ます。他者に責任があることになるからです。もし、あなたが自由を持ち、自己責任を拒否するというユートピアに執着していなければ、あなたは自らが真に独立していることを容易に認識できるでしょう。あなたは自らの人生と運命の主人であり、他の何者でもないあなた自身が、自らの幸せと不幸せを創造します。多様な繋がりと連鎖反応を観察することで、他者への恐れ、そして自らが被害者となることへの恐れは自動的に取り除かれます。例え、他者がどれ程誤っていたとしても、あなたは自らの誤った態度と、あらゆる不都合な出来事とを結びつけることができます。他者の誤りは、あなたに影響を与えることはできません。これが明確になり、あなたは無力になる恐れを無くすでしょう。あなたが無力なのは、責任を他に転嫁しようとすることで自らを無力にするからです。従って、恐れこそが、ユートピアに固執する上で払わなければならない重い代償なのだとお分かりになるでしょう。

実際、一見そのように見えたとしても、あなたは決して他者の欠点や誤った行動で危害にあうことはあり得ません。表面だけで判断する人は、真実も現実も見つけることはできません。皆さんの多くは、ある物事によっては根源にまで踏み込み、深く判断することができます。しかし、他の物事では、表面的な判断をするよう条件付けられています。この特定の観点において,皆さんの多くは、ユートピアの世界が現実に存在するという希望を未だ抱いているが為に、表面的な判断を手放すことを拒否します。従って、あなたは他者を、他者の決めつけを、誤った行いを恐れねばなりません。あなたの存在のこの部分では、先程述べたまさにその理由から、自らを犠牲者だと考えたがるのです。この傾向そのものが、自己責任を受け入れることを拒否するひとつのサインです。

もしあなたが、完全な自己責任を受け入れるつもりで、その準備もできているならば、他者を通して危害が来ることはないことを真実のビジョンが証明するでしょう。この点に関しては、多くの疑問が湧いてくることは予測できます。しかし、友人達よ、人類の歴史において幾度となく繰り返されてきた大災害であっても、奇跡的に救われる人と救われない人とがあるのです。これは偶然の一致でも、一部の生物を気まぐれに優遇し、より不運な生物を罰する、あなたの途方もない神のイメージの行為でも説明できません。あなたが良い子にしていれば褒美を与え、困難な運命を免れさせてくれる一方で、別の人には試練や困難を通り抜けさせるような、もうひとつの神のイメージも歪んでおり、最初のものと同じくらい途方もありません。

神はあなたの中に在り、その神のごとくに神聖な部分は、驚くべき方法で物事を調整します。その為、あなたの誤った態度は、人生のある時にはより強く、また別の時にはより弱く、前面に出て来ます。他者の見かけ上の欠点や悪行は、あなた自身の誤った態度や内なる誤りに影響を与えます。あなた自身の内に、ひとつの音が他の音に共鳴するように、あなた自身の内にそれに反応する何かが無ければ、他者の悪行や行為によって、あなたが影響を受けることは有り得ないのです。

もう一度申し上げます。私の言葉を鵜呑みにしてはいけません。道を歩む者は皆、真に欲するならば、必ず真実を見つけ出すのです。あなたの人生での日々の出来事、イライラ、モヤモヤを、真摯に見つめ直してください。自らの内の何が、あなたを刺激した相手と似たような特徴(おそらく全く違う領域かもしれませんが)、あるいは全く正反対の特徴に呼応し、一致するのかを探しましょう。一致する音を自らの内に本当に見つければ、自動的に犠牲者意識を感じることを止めるでしょう。あなたの中の一部はただそれを楽しんでいますが、それは疑わしい喜びです。それはあなたを弱め、恐れさせるに違いありません。それはあなたを徹底的に鎖でつないでしまうでしょう。内なる誤った流れや態度と、外側の歓迎されない出来事との繋がりに気づくことで、あなたは自らの不十分さに向かい合います。しかし、この出会いはあなたを弱めるどころか、強く、自由にしてくれるでしょう。他者の明らかな誤りばかりに目を向けながら人生を歩む習慣に、あなたはあまりにも馴染んでおり、その為に犠牲者意識に苛まれます。右も左もあらゆる人に責任を負わせ、自らの内にある呼応する音を見つけることを決してしません。このことは逆に、どのようにあなたが影響され得るのかを説明しています。ある程度の正直さで自らを調べることを学んできた友人達でさえ、多くの場合、最も明らかな日常的な出来事ではそのようにはできません。この道を最後まで歩むように自らを条件づけるには、トレーニングが必要です。あなたが歓迎できない経験を通り抜け、どんなに微かであってもそこに自らの寄与を発見する時、あなたは世界を恐れることを止めるでしょう。

それを発見した後でも、人生に対する恐れや、他者の不十分さへの不安がいくらか解消されていなければ、あなたは表面を引っ掻いてさえいません。寄与している要因を発見したかもしれませんが、望ましい影響がないとしたら、あなたは未だ誤魔化しているのです。その発見は、あなたが本当には他者から影響を受け得ず、あなたが自らの人生の主人であるという内なる知識を増やす筈です。従って、恐れる必要はありません。言い換えれば、あなたの発見は真実と自己責任の重要性を見せてくれるものでなければなりません。更に付け加えるなら、自己責任は最早避けるべきものではなくなるでしょう。

もしこのワークが正しい方法で行われれば、そのことについて有罪だと感じなくなるでしょう。正しいアプローチにおいては、罪悪感の余地はありません。自らについてより知ろうとする断固とした努力を抑える、罪悪感のまさに本質が以下のように言っているようです。「どうしようもない。どうしようもないことに罪悪感を感じないといけない。」従って、罪悪感には自己憐憫の要素が避けがたく含まれます。自己憐憫なしに罪悪感は生まれません。自らの内側を探求する真実で建設的な方法は、多くの誤り、多くの誤った結論、多くの欠点、誤った態度を明らかにしなければなりません。しかし、罪悪感なしにそれと出会うのです。適切な態度では、あなたは自らの不十分さを受け入れ、それらに対して正面から向かい合うのです。ユートピアの世界ではそうはしません。

これは、あなたが自己責任を拒絶する理由の大きな部分です。独立した決断を下すということは、必ず間違いを犯すということです。ユートピアにしがみつく内なる子供は、決して間違ってはいけないと信じています。間違いを犯すということは、奈落に落ちることを意味します。ここでも再び、あなたは飛び込んで浮かぶ自分を見つけることで、自分の恐れの正当性を試すことができます。するとあなたは、間違いを犯したことが悲劇でも何でもないことが分かります。子供は間違いを犯せば死んでしまうに違いないと考え、それ故に、自らが責任を負う独立した決断は下すべきではないと考えます。この信念は、隠された微妙な方法で現れるかもしれないことに注意しておく必要があります。

決して不十分であってはならないという幻想は、明らかに自己責任の拒絶と自由でいることへの継続的な望みへとあなたを導きます。従って、ユートピアの世界も、恐ろしい幻想の奈落も、自らの不完全さを受け入れ、間違ってはならないという妄想的結論から自分自身を自由にするかどうかにかかっています。間違いを犯すことへの罪悪感と恐れは耐え難く強いので、あなたは人生を惨めにするあらゆる種類の幻想的な思考や魂の形をつくり出すのです。

知的には、あなたは私がここで話した全てをご存知かもしれません。罪悪感や恐れの欠片もなく、様々な欠点を容易に認められるかもしれません。ある部分においては、あなたは幻想の奈落とユートピアの世界から自らを解放しています。しかし確かに、あなたの知識と一致していない領域もあるのです。これらの領域に、私達は関心を抱かねばなりません。他者よりもずっと深刻な欠点を持っているのに、それでも恥や罪悪感を感じないことも十分にあり得ます。自らそれらを認められ、それについて他者と話すことさえできるでしょう。ここではあなたは自由です。他の部分では、それ程深刻ではなく、時には本当の欠点でさえない何かに、ある種の恥、不安、あるいは反応といった態度から激しい恥や罪悪感がもたらされるかもしれません。あなたはそれに向き合うことができず、目を背け、それを見ないようにもがきます。つまり、この点において、何らかの理由で、あなたはユートピアの世界に生き、幻想の奈落に対して葛藤しています。

私がここでお話ししたことの真実を発見すれば、あなたの人生は様々な形で変わる筈です。これらの言葉を知的に受け入れるだけでは足りません。自らの内にこれらを経験しなければなりません。これは、正しい方向に向かう熱心なワークと、この特定の真実を見つけることへのあなたの徹底的な決意によってのみ達成できます。一方で、大規模な解放を得る為に、その奈落を完全に無くす必要はありません。その存在や、自らに与える影響を見て観察し、正しい方向へ向けて何らかの試みを行なえば十分です。自らの間違った態度と、それまで勝手に起こっているように思えた外的な出来事との繋がりを見るだけで十分です。その結果も含めて、ユートピアを諦めることをどれ程恐れているかに気づいたら、あなたは本当の自由と真の独立に向けて素晴らしい一歩を踏み出したことになるでしょう。

これは、根源的な人生の恐れからあなたを自由にします。これまで無駄にされてきた力を建設的な目的へと解き放ち、夢にも手にできるとは思わなかった創造性をあなたの内にもたらします。私が述べたことを一度理解し、付け焼き刃の知識ではなく自らの知識とすれば、あなたは恐れのない自由な存在として全く新しい態度で人生を経験するでしょう。いかなる言葉も、いかなる教えも、自らが生み出したもの以外には何も起こらないという、あなた自身の実感に勝るものは決してないと、深い確信をもって知るでしょう。それを恥じる必要はありません。あなたは自らにとっての建設的で生産的な薬としてそれを具現化し、結果として経験せねばならない不運な状況をも具現化します。これは、あなたを奴隷にするものではなく、解放する役に立つものです。あなたは、何も恐れることはないと気づくでしょう。あなたは他者の犠牲者ではありません。他者を完璧にさせようと戦う必要もありません。何故なら、他者の不完全さがあなたを害することはないと知っているからです。

この根源的な霊的真実が、時代を超えてこれ程曖昧にされてきたことを、実に不思議に思われる方々もいるかもしれません。しかし友よ、それにはちゃんとした理由があるのです。人類はその発達過程において、この知識を正しく用いるようになる前に、ある基本的な霊的理解に達する必要があります。もし誤解されれば、このような知識は実に有害になり得るからです。もし、ある人のローアセルフが優位なままであれば、このように言うかもしれません。「私は、殺し、略奪し、好きなだけ利己的になれる。私の誤った行為は誰も害することはない。」勿論、これは私が伝えたい真実ではありません。友人の皆さん、これは全くの矛盾に思えるかもしれませんね。一方では、他者の誤った行為は、あなたを害することは出来ないと言い、他方では、あなたが自らの最も低い本能に従って突き進めば、他者を害すると言っています。友よ、どちらも真実なのです。しかし、間違った意味でそれらを理解すれば、どちらも非真実になり得ます。これらの一見矛盾することが、それでもどのように真実を保つのかを説明するのは、私にとって非常に難しいのです。しかし、もし、より明確に理解する必要があるなら、今後の機会に改めて明確にしましょう。しかし、自らの道でこの特別なアプローチを取り入れ、私の言葉の真実を個人的に経験する人は誰であれ、どちらも真実であり、このふたつの発言は全く矛盾しないことが分かるでしょう。

後ひとつだけ付け加えたいことがあります。まずそれは、一見した矛盾とは関係ないように思われます。しかし、それを深く考える時、それが関係していることがはっきりと分かるでしょう。私が良く言っていますし、皆さんの多くが経験されていることですが、あなたの潜在意識は、他者の潜在意識に影響を与えます。これはあまりにも真実で明白です。あなたがすべきことは、目を開いて、人生の中で常にそれを確認することだけです。人間の人格は様々なレベル、あるいは、別な言い方をすれば、様々なサトル・ボディーから出来ていることをご存知ですね。あなたが放出するレベルは、相手の人の特定のレベルに影響を与えるでしょう。真実の存在、真の自己から現れたものは、相手の人の真の自己に影響を与えます。あなたのマスクセルフの層から出たものは、相手の人の似たような、あるいはそれに呼応するマスクセルフの層やディフェンス機構に影響を与えます。

皆さんの多くが間違いなく経験されてきたいくつかの例を挙げてみましょう。もし、あなたが恥ずかしがり屋で無口なら、相手の中で同じ結果が作り出されますが、それは全く異なる様子で表現されるかもしれません。もし、あなたが上辺だけで、プライドのレベルから行動すれば、他者は自動的に同じように応えるでしょう。もし、あなたが自然発生的に真心から発すれば、同じような瞬間的な応答を他者の内に見つけるでしょう。あなたがすべきことは、それを観察するだけです。勿論その為には、自分自身が人格のどの層から行動したのかを確かめる為に自らを観察しなければなりません。そうして初めて、相手の振る舞いや癖を、自らが出したものと比べることが出来るのです。あなたはすぐに、見せかけに騙されることを止めるでしょう。あなたの内気さは、表に現れているかもしれませんが、相手の内気さは派手さというマスクで覆われているかもしれません。それでも、あなたはそれらが同じ内なるレベルから来ていることを理解するでしょう。友人達よ、これはとても重要です。これは、他者から害されることはないという、一見矛盾したことと大いに関わっています。しかし、その前提から、最も低い本能に耽溺するとすればそれは有害でしょう。

さて友人達よ、もし質問があれば喜んでお答えします。

質問:罪悪感と恥について何度か触れられましたが、罪悪感なしに、何かを恥じることはできるのでしょうか?

答え:はい、勿論です。これは常に用語的な問題です。建設的で力強い、健全な種類の恥というものがあります。悔悟と呼ぶこともできます。もし、自分の誤った傾向のひとつによって、心ならず他者を傷つけたことに気づき、心から残念に思い、それが変わることへの動機付けとなるなら、それは良いのです。もし、恥があなたを弱めるのではなく、むしろ強くするならば、そこには罪悪感はありません。そして、「可哀そうな私。仕方がなかった。何とかしてもらえる筈だったのに。皆んな、私には不公平だ。」というような自己憐憫から自由であれば、それは罪悪感とは無関係の健全な悔悟です。ですから、恥が罪悪感なしに存在することは確かに可能なのです。その逆も又可能です。つまり、激しい罪悪感を抱いているにも関わらず、必ずしも恥じている訳ではないという場合もあり得ます。

質問:あなたは、私たちの精神が何らかの形で電磁場であると、何度も話されています。あなたの観点からすると、それは現代物理学の電磁場と何らかの点で似たものなのでしょうか?もしくは、振動数が違うのでしょうか?

答え:振動数、つまり周波数は、物によって人によって大きく異なります。振動の周波数は、動物と植物の間でも、動物同士の間でも、人間同士の間でも、全てのものの比較において大きく異なります。あなたは、物質の対象でさえ、エネルギーに満ちていることをご存知ですね。エネルギーを持つ全てのものは、電磁場を持っている、あるいは電磁場なのです。これらのフィールドの性質も又、対象によって様々です。それは、構成されている物質にもよりますし、同じ物質の対象同志の間でも異なります。何故なら、他の多くの要因も影響するからです。しかし勿論、基本的原理は同じです。一見死んだように見える物体から、明らかに生きている有機体まで、全てにエネルギーフィールドが存在します。しかし、その放射、振動の周波数、色、音、匂い、その他全ての特徴は、この磁場に影響を与える数々の要因によって異なります。それらの顕現の多くは、私が説明することさえできません。何故なら、皆さんは未だそれらを発見しておらず、人間の言葉では名前が付けられていないからです。この地球上では、決して発見されないものもあるでしょう。しかし、原理的には、全てはエネルギーフィールドであり、従って、本質的には確かに同じです。

質問:この概念は、私たちの聴覚の範囲内と、その範囲を超える音調システムに適用できるでしょうか?

答え:はい、その通りです。皆さんの中にはその時代の始まりを見ている人もいるかもしれません。地球上でも、エネルギー放射と呼べるような、音、色、他の現れを通して、人の振動周波数を測定できる機械が得られる時代が来ると私は予見できています。

質問:匂いでも?

答え:それには、もう少し時間がかかるかもしれません。技術的に実現するのが、より難しいのです。しかし、そのような機械もやがてはできるかもしれません。そのような機械が有効であることは証明されます。

質問:それはセラピーにも使えますか?

答え:肉体的なセラピーにも、精神的なセラピーにも使えます。それは、肉体的なレベルを超える人間存在の証明についての重要性は言うまでもなく、あらゆる他の用途にも使うことが出来ます。次回は、質疑応答の時間があります。今晩のテーマに関連する質問を出して頂ければとても建設的でしょう。

友人達よ、皆さんそれぞれへの祝福と共に私は去ります。私の世界から持ち込むことを許された力と光が、あなた方ひとりひとりへと今流れ込んでいます。あなたが歩む道の何処にいようと、あなたの問題が何であろうと、この力と光があなたの助けとなりますように。私達と共に来る愛が感じられますように。祝福あれ、神の内にありなさい!


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