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No.66 ハイヤーセルフへの恥

Pathwork Guide Lecture No. 66
1996年版
1960年5月27日


ハイヤーセルフへの恥
SHAME OF THE HIGHER SELF


ようこそ、親愛なる友人の皆さんに祝福を。この時間は祝福されています。皆さんと、皆さんの大事な方々一人ひとりに祝福を。

私はこれまで長いこと、自らのローアセルフ、その欠点や弱さ、誤認や逸脱に対してあらゆる人間が感じる罪悪感や恥についてお話ししてきました。今夜はハイヤーセルフ、すなわち人間の心の内にある最善で最も高貴な部分を恥じる、人間の人格のある側面についてお話ししたいと思います。あり得ないように聞こえるかもしれません。しかし、これは事実です。注意深く聴いて頂ければ、この言葉の真実を理解して頂けるでしょう。

奇妙なことに、人々は自らの性質の中の卑小で利己的で頑なな部分を恥じるのと同じように、自らの愛、謙虚さ、寛大さという自らが提供し得る最高の資質を恥じています。この内側での悲劇、無意味な葛藤の原因を考えてみましょう。それはひとつの主要な要因に起因しており、その程度、詳細、現れ方は個人によって異なります。

あなたはご存知でしょうが、全ての子供がそうであるように、子供が拒絶されたと感じる時、その感情が正しくても間違っていても、多くの場合、両親の片方からより強く拒絶されたと感じるものです。現実にそれが事実である必要はありません。何故なら、拒絶したように見える親の方が、もう一方の親より子供に対して真の愛情を多く持っていることもあるからです。しかし、子供の感じ方が内面の印象となり、それが蓄積して石化し、誤った結論であるイメージの形となり、その人のその後の感情生活のパターンを確立していきます。

子供は、可能な範囲を遥かに超えて愛されたい、特に自分を拒絶しているように見える親から愛されたいと思うものです。この独占できる優しさや愛情が得られない時、子供はそれを拒絶と感じ、魂に混乱が生じます。漠然と感じられた子供の感情の中では、特にこの親からの愛と受容が最も望ましい目的となります。その子供が望む程の愛と受容は得られないように思われるからこそ、尚更です。望まれる目的となる独占的な愛と受容は、それを差し控える親と混同されます。混乱した未熟な子供のマインドの中では、拒絶者が望ましいものとなり、本来望まれていた独占的な愛、承認、受容に取って代わります。この混乱の更なる結果として、拒絶者は愛情に欠けているように見えます。母親や父親が望ましいのは、彼らに求めるものが望ましいからでもあります。従って、愛情に欠けることは望ましい状態なのです。子供の精神はこう言います。「もし私が愛さないなら、私は望まれる存在となり、私の愛は求められるだろう。私が私の拒絶者を拒絶しないように、私も最早拒絶されなくなる。」想像であれ現実であれ、拒絶者は冷たく、よそよそしく、感情から自由であるように見えるが為に、それは望ましいものとなり、模倣すべきものとなります。

この内面のプロセスを考察すると、プロセスが論理的ではないとは言え、感情は明白な思考に翻訳されており、子供のマインドの中では十分に子供自身にとっての理解可能な限定的な論理を有していることが分かるでしょう。感情は綿密に調査すれば非常に限定的で欠陥がある可能性があるものの、心の中で生じる葛藤に全く無意味なものなどありません。混乱した感情の独自の論理を理解しない限り、本当の全体像は掴めません。

親からの拒絶に無意識の混乱を抱えながら、人格はそれ以外では成熟した存在に成長します。しかし、人生の感情的な側面全体を彩るのに必須な、特定の印象は保たれたままとなります。無意識の深奥では、切望するあらゆるものを明らかにするのは望ましくなく、恥ずべきことだと内なる子供が未だ感じているのです。

個人が愛から退き、愛することを拒むのは多くの場合、傷つけられたり失望したりすることへの恐れよりもむしろ、ここに示された親との状況によって決められることが多いのです。例え、相反する衝動や強迫観念によって、いかに隠され矛盾した形で現れていようとも、この内面の要素を認識することは重要です。胸が張り裂けるような問題は、この葛藤から生じます。あらゆる連鎖反応や悪影響を含む、根本的な誤った結論を認識することによってのみ、この葛藤は取り除くことができます。

一方には、利己心や自己中心性に対する罪悪感があり、それは愛することを不利益で割に合わない冒険に変えてしまいます。他方では、愛することへの恥があります。この葛藤そのものが、人間のハートを引き裂くのです。あなたは無理に愛そうとしながら、ハイヤーセルフから湧き上がる本当に愛したいという自然な願望を恥じて、それを止めます。このようにして、愛さないことに罪悪感を抱き、愛することを恥じるのです。

愛や慈しみを切望しながら拒絶される時、子供は強い屈辱を感じることも考慮すべきです。無意識のマインドに、愛することは屈辱的だという考えが形成されます。子供が最も望んだ人物が、愛や感情の自由な共有を控えたので、愛は隠す必要のある恥ずべきものになるのです。傷つけられたり、失望したりする恐れよりも、ここでお話ししている要素に、愛することへの恐れの原因があると認識することは、非常に重要な洞察です。

自己探求を通して様々な症状を認識することで、この葛藤の存在を見つけることができます。自己観察は、特定の状況であなたがどのように反応するか、あるいはむしろ、あなたの感情がどのように反応し振舞うのか明らかにしてくれるでしょう。こうした反応は往々にして非常に微妙なものです。何か頼むことを恥ずかしいと感じる時、心の内を明かし最も深いニーズを見せることへの強い恥の感覚に気づく時、そのような微妙な作用が働いています。例えば、祈ることを恥ずかしく感じる自分に気づくかもしれません。その恥の対象であるハートのニーズ、愛に満ちた寛大さである真の自己、祈りそのものこそが、あなたの内にある最善のものではありませんか?

これは又別な普遍的葛藤です。時に非常に明白なこともありますが、他の多くの葛藤と複雑に絡み合い、見分けがつかなくなることもあります。それでもやはり、この根本的な葛藤のいくらかは、誰の内にも存在します。

ある特定の状況も要因のひとつとなり、この葛藤の強さを決定づけます。拒絶する親に求めるものを惜しみなく与えてくれた、もう一方の親との関係を観察しましょう。拒絶する親が表向きは「優位」であり常に勝者である一方、愛情深い親は控えめで、見たところ弱く、拒絶的な親の支配下にあり、おそらく少し軽蔑すらされている場合、魂の内の葛藤はより一層強くなります。子供がそう感じている限り、実際にそうであるか否かは問題ではありません。子供は自らの拒絶される体験に加え、愛情深い親が一見又は実際に拒絶されるのを目撃します。そして子供は、拒絶する親が強く、愛情深い親は弱いという印象を持ちます。従って、少なくとも無意識においては、愛は弱さとなり、超然さは強さのサインとなります。子供は望ましい親のように強くなり、望ましくない親のように弱くはなりたくないと強く願います。

この点に関する誤った結論は、多岐にわたるかもしれません。愛情深い親は弱く、拒絶する親は強いという見方は完全に間違っているかもしれません。むしろ反対の場合もあるでしょう。しかし、両親の間の状況は、実際にあなたが見ている通りかもしれません。そうすると、求めるものを与えてくれる親を弱くするのは、愛ではなく他の要因であるというのは間違った結論です。弱さをもたらすのは歪んだ愛かもしれません。あるいは、愛する力は相対的に本物であっても、他の要因が弱さの原因となり、愛する力を損なうのです。一方、「強い」拒絶者は実際には強くないかもしれません。真似るのに値する多くの望ましい資質を持っているかもしれませんが、愛と疎遠であったり、人格の最高の資質を示すのを抑制したりすることではありません。

例えば、他の多くの要因の為に、支配的で「強い」親が、その支配下にある弱い親よりも多くの愛を与える場合、状況は更に複雑になります。どちらの親にも「望ましい」資質があるかもしれませんが、それらは互いに衝突し合うのです。あなたは無意識の内に片方の親に嫌悪感を抱きながら、もう一方の親を模倣しようとしているかもしれません。自らが何を望んでいるのか分からず、目標が特定の要因によって相殺されて実現不可能である為に引き裂かれています。両親との状況がそれ程に極端ではない場合、問題の根本的原因を突き止めるのは更に難しくなります。両親だけでなく、自らの内にも存在する矛盾した感情の微妙さと掴みどころのなさによって更に複雑になります。この認識は非常に重要です。何故なら、それが更なる苦難をもたらすからです。

更に複雑なのは、外見が内的状況に一致していない場合が多いことです。外見上、片方の親がもう一方より明らかに支配的な場合であっても、内面ではその状況が全く逆の場合もあります。あるいは、表向きはどちらも威圧的でも「強い」訳でもなく、内面では関係性に明らかな不均衡が存在している場合もあります。特に、子供として外的状況を知的記憶に留めながら、内的状況を吸収し、非常に繊細に感知していたことを忘れてはなりません。外的状況は内的状況と比べて遥かに影響力が小さいのです。外的状況がどのように見えようと、あなたは、依存的で、欲求があり、ニーズがある親を劣っていると強く感じ、その一方で、欲求やニーズを拒む親を強くて優れているとみなします。こうして、あなたは極めて微妙なやり方で拒絶する側と同盟を結び、その者と共に弱い親を拒絶するのです。弱く、要求がましく、依存的な親と同じにみなされるより、望ましい拒絶者から受け入れられることを望みます。あなたの最奥の自己にとって、実際に言葉や行為で弱い親を裏切るか、単にそうしたいと望むだけなのかは問題ではありません。その傾向があるだけで裏切りと感じるには十分であり、ある意味ではそれは事実です。強く切望するものを手放すからこそ、その裏切りはより深刻化します。

あなたは愛の力が花開くのを禁じることで、自らの最善を裏切ります。同時に、片方の親から受け取る為に、望むものを与えてくれたもう一方の親を裏切ります。そして今や、あなたは無意識の内に、与える行為そのものを軽蔑に値する弱さとして見なすのです。

裏切りは微妙ですが、同時に、あなたの魂の中で最も支配的な葛藤でもあります。自らのワークの中で、あなたの最善、最高、最も崇高なものを裏切るだけでなく、元々より弱い立場にあったもう一方の親、あなたを満足のいく形で愛し大事にしてくれたかもしれない親をも裏切る部分を見つけることが必要です。この内面の裏切りを見つけてそれを止めることが重要なのは、拒絶された親が苦しむからではなく、殆どの場合、自分自身で気づいている以上に、あなた自身が苦しんでいるからです。裏切りは罪悪感と共に重くのしかかります。それはあなたの最も深い罪悪感です。

つい先日、罪悪感について話し合いましたね。人々が主要な罪悪感と向き合うことを避ける為に、いかに頻繁に架空の罪悪感を作り出し、取るに足らない欠点で自らを責めるか説明しました。皆さんの大半にとって、愛を裏切ることこそが、自らの意識から締め出している主要な罪悪感です。最も愛してくれた者を見捨て、少なくともあなたの感覚ではより少なく与えた者の為に裏切ったことのあらゆる影響や側面に気づき、向き合わない限り、その裏切りはあなたの人生観を暗くするでしょう。それは自己確信、自信、自尊心を奪い去ります。劣等感の最も深い原因となります。魂に閉じ込められたこの裏切りのせいで、あなたは自らを信じられません。心がこのように言います。「自分が裏切り者だと知りながら、自らの内の最善のものを絶えず裏切っていると知りながら、どうして自分を信頼できるだろう?自分を信じられなければ、他の誰も信じられない。」これは自然な結果であり、更なる連鎖反応を引き起こします。人を信じなければ、信じられる理由がないと絶えず自覚させるような人々を引き寄せるのです。しかし、他者を心から信頼すれば、適切な識別力と判断力を以って、あなたの信頼に値する多くの人々を引き寄せるでしょう。これを実現させるには、まず自分自身を信頼できない理由を明確にする必要があります。そしてこれは、ここで示した根本的な裏切りを見つけ出し、取り除いた場合にのみ起こり得ます。

ですから友よ、これまで抱えてきた裏切りを自らの内に探してください。例え最早、両親との関わりを観察する機会がなくても、突き止めてください。あなたは同じ感情を他の人々に投影しているかもしれません。彼らは心理的に、距離をもった状態で両親の代わりを果たしているのです。それは友達、夫、妻、親戚、同僚かもしれません。あなたにとって、何らかの形で近しく、大切で、重要な誰かです。おそらくあなたは、親を裏切ったのと同じような微妙なやり方で、その裏切りを続けています。あなたが本物の愛、感情、友情、何らかの助けを与える準備がある人を拒絶し、何らかの理由でその人のことを無力で、弱く、依存的であると感じたり考えたりする時はいつも、その人は「弱い」親の役割を担っています。一方で、あなたが望むものを与える準備が十分できていない別の人物もいるかもしれません。それは愛である必要はなく、尊敬、賞賛、受容かもしれません。その場合、その人物が拒絶する親の役割を担っています。最も微妙で捉えどころのない感情を調べてください。時に、片方の親、又最奥の自己に対して繰り返される裏切りを正当化する側面を裏まで回って探ってください。

親愛なる友よ、裏切りという行為は実に微妙なので、自らの外的行為だけを見て明確に見極めることは不可能です。裏切り行為を証明する、明白な行為などは見つかりません。この点について、あなたが自らの最奥の反応と感情を調べることを心から望まなければ、誰もあなたを納得させることはできないでしょう。そうではないことを証明する立派な論拠は見つかります。しかし、あなたのハートは決して納得しません。そして、それが本当に重要なことなのです。

最も単純な言葉で言えば、この問題は次のような誤った結論に基づいています。「愛は弱さであり、愛や情を我慢するのは強さである。」あなたは弱くなることも、依存的になることも望んでいないので、誤った強さの概念に合致する人物を真似るだけでなく、自分にとって弱そうに見える者を裏切ります。この誤認に伴う感情、反応、態度を見つけたら、その概念を考え直し、真実に沿って新たな概念を形成できます。そうすれば、多くの混乱や誤りが自分の中にあり、それが裏切り行為を引き起こし、内的人生や外的人生に更なる否定的な結果をもたらしていることに気づくでしょう。この気づきと、内なる動機を見極める姿勢が、あなたが現実にアプローチすることを可能にし、力を与えてくれます。この方向から探求を始めることが最も重要です。健全かつ真の意味で差し出された愛と謙遜の行為を弱さと見なす、あなたの感情の部分を探してください。孤高であること、冷淡でいることが強さであると信じている部分を自らの内に探してください。それが見つかる時、あなた自身への裏切りも見つかるでしょう。

誤った概念を見つけ、少しずつ正しい概念を取り込むことで、愛は屈辱的であり、謙虚さ、寛大さ、情、そして真の自己を示すことが弱さの印であるという恐れを手放すでしょう。多くの場合、真の自己は石の壁の後ろに隠れています。この石の壁は邪悪さでも、利己的なものですらありません。傷つけられたり、失望したりすることへの恐れでもありません。確かに、これらの影響もありますが、その度合いは小さいのです。真の自己を隠す壁の主な構成要素は、想像上の弱さへの恥であり、あらゆる優しさや理解、愛するハートのあらゆる共感や傷つきやすさと共に自分自身であることへの恥です。

「私は感情表現が豊かなので、これには当てはまらない。愛を十分に惜しみなく自由に与えている。」と言う人も多くいるでしょう。このような場合、真の自己が姿を現すというのは部分的に正しいかもしれません。しかし、これが完全に当てはまるのはごく稀で、かなり浄化された存在の場合のみです。真の自己の一部は現れますが、残りの部分は隠れたままです。その通り、あなたは最大限に与えたいと思う寛大なハートを持ち、その愛は多くの誤りや誤認の層を貫くかもしれません。しかしあなたは又、自らの殻や壁の後に引きこもることもあります。愛や献身として現れるものの一部は、真の自己からではなく、いわば「借り物」なのかもしれません。そうであれば、それはあなた自身のものではありません。繰り返しますが、これは微妙な問題です。これが真実かどうか、又どの程度までそうなのかを感じ取るには、個人のワークに取り組むしかありません。

何故、あなたは最善の自分を閉じ込めたまま、似たような行動パターンを「借りて」本物の代わりに使うのですか?時折見せる、愛情深い、与えることを惜しまず、社交的な人格は、真の自己の一部にしか過ぎないのでしょうか?何故か?今お話ししたように、愛し、与えることへの恥が、壁の向こうにいる真の自己を隠させるのです。断罪され、独り取り残されると感じるようになるのは、当然の結果でしょう。これは決して、愛することは恥ずべきことだという第一印象を再考させるものではありません。そもそも、この結論は意識的なものではないので、変えることはできません。意識から隠されている限り、何も変えることはできないというのはご存知の通りです。第二に、誤った結論をもたらす第一印象は、その後に続くどんな印象や体験よりも遥かに強烈で、比べものにならない程にパワフルです。従って、あなたは元の誤った結論を保持することで妥協します。「愛してはいけない。真の自己を表してはいけない。」そして、更に距離を置くことで、非難と孤独という新たな体験が加わります。それはあなたに、社交性というマスクを負わせ、真実ではない感情や本物ではない愛を表現します。真の自己は依然として現れません。

この代用的な社交的人格は愛情であるとか、あるいは「偽物」と呼ぶべきものだということを言いたい訳ではありません。繰り返しますが、これはそのようなことよりも微妙なことなのです。あなたの存在の一部ではありますが、真の自己ではありません。しかし、真の自己の感情の一部が、この重ねられた層の構成要素となっているのです。これらの葛藤がもたらす数多くの流れが、本来の真の人格の純度を薄めてしまいます。微妙なやり方で、あなたは本物である自分を敢えて見せないように、自分自身と自らの愛を劇的にするのです。これは人生の多くの局面で起こる現象であり、男女の恋愛関係において最も顕著に見られます。

ワークのこの特定の段階が何処に導くのかは、あなた自身が見て取れるでしょう。裏切りが自らのケースにどう当てはまるのかを見つけて理解すると、ほとんどの場合、あなたが真の自己を隠していることに気づきます。その認識をもって、真の自己が成長し、表に現れる為の土台を整えるのです。このワークは見かけ程簡単ではありません。また、一部の人々が思う程、困難なものでもありません。

浄化の目的は、真の個性を解放することであると、この時点で既に感じているかもしれません。それが自由の真の意味であり、幸福に生き、本当の意味で健康で強く在る為の唯一可能な手段なのです。ハイヤーセルフの恥についての普遍的な葛藤に気づくこと、それが自分自身の内に存在することを感じ始めるということは、例えそれが監獄の扉を開いて真の自己を解き放つずっと前であっても、素晴らしい新たな強さを体験させてくれるきっかけとなるでしょう。これが自らの内にあるという気づきと、日々の感情的反応にそれがどう現れるのかを絶えず観察することが、真の自己を解放する為にあなたの牢獄の格子を取り除くことに近づけます。

あなたの真の自己は喜びに満ちるでしょう。そしてあなたは、自らの内で最善のものを隠さなくてはならない、それは恥ずべきものだと考えたことが誤りであったと、はっきりと疑いなく気づくでしょう。真の自己を隠し続けることが、どれ程不必要な重荷だったのかを知るのです。ある人はそれを冷淡さと偽りの強さというマスクの後に隠します。又別の人は、最良の側面を全て備えた真の自己に似ているが、本当はそうではない何かを重ねた層の後に隠します。どちらの場合も、偽りの層を取り除き、真の自己が何処にあるのかを見極める必要があります。例え最初はごく稀に、ごく慎重にしか現れなくても、真の自己が表に出ることを許してください。しかし、真の自己は恐れたり、恥じたりする必要はないと気づくでしょう。恐れは主に、自らを曝け出すことへの恥の結果として生じます。このプロセスによって、あなたは子供時代の誤った印象から作り出した幻想の世界を取り外します。幻想の世界を追い払って現実に生きることが、どれ程大きな安堵をもたらすか想像もできないでしょう。そこで生きることができるのは、真の自己だけです。何故なら、非現実的な概念から生み出された蓄積された層は、現実の世界では生きられないからです。あなたは自由の中で生きます。あなたは最早、自らの内の最善の部分や、他者を裏切る必要はないと知るでしょう。

友よ、このテーマに関する質問はありますか?

質問:これらはエディプス・コンプレックスとどのように関連していますか?

回答:エディプス・コンプレックスと呼ばれる状態と、今日お話しした葛藤との関連は次のとおりです。性本能が目覚めると、それは拒絶する親から愛されたいという想いと交じり合います。そのような場合、常に対立は悪化します。目覚めた性本能と、拒絶する側の親に愛されたいという思いが混ざり合います。こうした場合、葛藤は悪化します。目覚めた性本能がもう一方の親、つまり拒絶しない側、あるいは拒絶度合いが少ない親に向けられた場合、今夜説明した問題はそれ程強くは現れないかもしれませんが、魂の状態は遥かに複雑で、葛藤に満ちたものになるかもしれません。一般化することは不可能です。それぞれのケースは独自であり、個別に調べる必要があります。そうすれば、全てがどのように繋がっているのかが分かるでしょう。

質問:「宇宙の意識」という本を読みました。そこには「罪悪感の喪失は、宇宙意識の状態における最も顕著な特徴のひとつだ。」と書かれていました。これはどういう意味ですか?

回答:これまで受け取ったレクチャーや教えからもご存知のように、地球上の世界は非現実の世界です。一時的な現実と言うこともできるでしょう。あなたが経験する事柄、霊的かつ絶対的な真実を無視する表面的な知性の論理からの結論は誤りです。特定の状況に正しく当てはまるとしても、子供の頃に下された魂の誤った結論のように、それは限られた価値と真実しか持ち合わせません。例え限られていたとしても、独自の論理を持たない訳ではありませんが、人生の全般的な真実として適用するならば、これらの結論は誤りであり非現実となります。地上での人生における特定で一時的な状況に当てはまるよう知性が正しく導く結論や推論と、この同じ結論や推論が当てはまらない絶対的現実の霊的法則との間には同じ関係があるのです。

ご存知のとおり、罪は無知以外の何物でもありません。それは歪みです。悪事、害意に満ちた行為そのものを目的として楽しむ人はいません。これらが自らを守るのに役立つと誤解している為に、それを行う場合があるかもしれません。自らを分析し理解すればする程、自分の場合にもそれが真実であることが分かるでしょう。従って、それは他者にも真実である筈なのです。ですから、人々が否定的に振る舞ったとしても、恐れを感じたり、個人的に巻き込まれたりすることはありません。最早あなたが苦しむことはありません。不可能に思えるかもしれませんが、これは本当です。

意識を高め、絶対的な真実との繋がりを感じると、邪心、不正、罪、悪意のようなものは存在しないということが分かります。これら全てがはびこるのは、この地球上で、自らの歪みがもたらす制限された視野の中で生きている間だけです。この誤った状態から抜け出せれば、この世界のあらゆる悪は単なる防御兵器、むしろ偽りの防御兵器に過ぎないということが分かるでしょう。何故なら、それは現実には全く逆の効果をもたらすからです。悪と罪の動機が分かると、最早恐れることも、個人的な危険を感じることもなくなり、その結果、その現実性も失われます。あなた方は全員、少なくともある程度は、この真実を体験する道を歩んでいるのです。

自らの誤った結論を見つけ、それを解消すると最早、愛することと自由であることを妨げるものは何もありません。暗闇の中にあり、誤った結論の為に利己的で愛が欠けていた自らの一部を取り除きます。誤りを見つけ、取り除いた所には、現実の真の概念があり、恐れなく愛することができるので、言い換えれば、罪なく生きることができるのです。悪と罪はあなたが幻想の中で生きている間だけ存在する幻想の世界の産物です。絶対的な現実ではないのです。意識を高めた瞬間、あなたは幻想から解放され、それは最早何の現実性も持ちません。例え他者の誤りに気付いても、この高められた意識があれば、誤りを見通してその意義と起源を理解し、その影響がほんの一時的なものに過ぎないと実感します。現に、誤りや罪は現実に全く影響を与えません。それは、現実に生きながら非現実に生きている人々にのみ影響を与えます。

質問:創世記について質問があります。エデンの園の二本の樹についてです。知恵の樹の果実が何故禁じられていたかは分かります。銀の皿に盛られて与えられるのではなく、私達はゆっくりと自らの力で手に入れなくてはならないからです。しかし、もう一方の「不死」については理解できません。結局のところ、私達はスピリットとして不死なので、既にその実を食べています。何故、禁じられているのですか?

回答:勿論、これは地球上でのあなたの生命のことを指しています。知恵の樹と同様です。これは転生したスピリットに適用されるのです。二本の樹が意味することは、霊界の絶対的現実の中で生きる解放されたスピリットには到底当てはまりません。もし人間が、自己成長の努力によってではなく、霊的に不滅であるという内なる信念や確信を持って生まれながら、未浄化な状態であれば、彼らの生存本能はあまりにも弱くなってしまうでしょう。内面の問題や混乱の為に、解決しなければならない程度の不確実性は抱えていなければなりません。これは彼らの為の守りなのです。さもなければ、地上での人生の困難に立ち向かおうとはせず怠惰になるでしょう。彼らはもっとゆっくりと成長したがったり、より良い条件が得られる僅かな意識の向上で満足したりするかもしれません。そして統一性の状態により早く入れるよう、自らを完全に開放しようという動機に欠けてしまいます。確信が未だ持てないという理由で、人々が地上での人生にしがみつかなければ、救済計画全体の実現はずっと後になるでしょう。この知識を禁じることによって、成長は加速するのです。

一方、成長の為に一生懸命に努力した結果、不死の確信と内的感覚がもたらされるならば、地上で生きるための意志が弱くなることはありません。それどころか、成長した存在は、不確実性からただしがみついていた時よりも、別の意味で、そして更に強く、地上での生活を歓迎するでしょう。より良い状態が存在すると知りながら地球上での生命を楽しむことは、霊的成長の副産物であり、高次の意識状態です。より高次の意識へと自らを導くことに成功した者は、自らが不滅であることを知っています。汗水流して努力しながら自らを誤りから解放した為に、それを知っているのです。そうして彼らは地上の人生に美しさを感じます。それが唯一の生命形態だからしがみつかねばと考えるからではなく、それ以上のものがあると知っているからです。

このような高められた意識状態がなければ、地上での人生は困難であるかもしれません。悪と罪という幻想、誤りと誤認の中で生きている為、見通しはむしろ暗いものになるでしょう。しかし、どれだけ困難であっても、自己破壊性が異常に強くない限り、あなたは生にしがみつくでしょう。これは良いことであり、重要なことです。しかし、もし有機的な自己成長がないまま、不死への内的な確信があなたの言う「銀の皿」に載って与えられれば、人間は生にしがみつこうとはしないでしょう。(私はこのconviction「確信」をbelief「信念」とは言いません。)そのような人々が必ずしも自殺するとは言いません。しかし、人生の喜びを生かしておく為の苦闘が、例え稀にしか現れなかったとしても、そこに美しさを見出す力が目覚めることはないでしょう。

最愛の友よ、私は自分の世界に戻ります。神の祝福、愛と力、この道を歩むひとり一人に与えられるあらゆる助けを残していきます。真の自由へと向かってワークするあなたの意志が、自己解放を通して得られる、あなたが手にする権利ある喜びをもたらしてくれますように。大事な皆さんに祝福を。平和の内に、神の内に!


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