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No.101  防衛

Pathwork Guide Lecture No. 101
1996年版
1962年4月13日


防衛
THE DEFENSE


 こんばんは。みなさんに神の祝福を。そして、あなた方の進む道、あなた方の努力にも祝福がありますように。

  防衛のメカニズムについては、今までにも何度かお話ししてきました。このテーマに関しては、私たちは多くのレクチャーで取り上げ取り組んできました。そして、あなた方も防衛について学んできているので、防衛というものの存在にもある程度気づいていると思います。しかし、あなたが防衛状態に入ったとき、あなたというシステム全体の中で何が起こっているのかは、まだ完全には理解していないと思います。そのことを理解すれば、今後のワークと自己観察に大いに役に立つでしょう。つまり、防衛状態における身体、精神、感情そして、スピリチュアルなそれぞれの領域での防衛のプロセス、そして、あなたの人格のこれらすべてのレベルをとおして、いったい何が起こっているのかを理解することはあなたにとってとても重要なことなのです。あなたは、恐怖に対して自分を守るために、引きこもったり、自己を閉ざしたりしているとき、自分の内面に緊張や壁があることを感じ始めていると思います。しかし、この防衛的な反応は、あなたの内面奥深くに埋め込まれてしまっており、すでに第2の人格になっています。あなたが防衛に入っていても、なかなか気がつかないのはそのためです。ですから、あなたは、防衛についてもっと理解する必要があります。あなたの行動をよく観察して、自分の防衛的な反応にさらに敏感に気づくようになれば、この課題を乗り越えることができます。

  防衛に入っているとき、あなたは怖がっています。あなたは、恐れ、生命の危険さえ感じているかもしれません。確かに、現実的な危険というものもあり、人間は、それに対する防衛本能を持っています。実際に、あなたが何かに攻撃を受けたとき、あなたの持つ危険に対応する能力が、日常の行動を脇へ押しやり、今直面している危険に対してどう対処すべきかに意識を集中させます。目前に差し迫った危険に対処するために、あなたは持っているすべての能力をそれに集中させる必要があるのです。

  このとき、あなたの身体は、この緊急事態を乗り切るというひとつの目的のために変化します。体内では、ある種の内分泌系物質が放出され、その物質は、神経全体を駆け巡り、血圧を上げ、心拍数を加速させます。すべては危険に対して適切に反応するスピード能力を高め、俊敏に状況を察知できるように、あなたの全神経を向かってくる危機的状況に集中させます。あなたが実際に危険に直面しているとき、このような心身の状態は適切であり、とても役に立つ重要なことです。もし、あなたが実際の危険に際して、日常生活レベル並みの反応や知覚能力で対処しようとしても、自分自身を守ることはできないでしょう。しかし、危険な状況に陥ったとき、内分泌系から出されるこの物質によって、あなたは自分自身を守るために通常の状態よりも、身体的にも精神的にも強くなれるのです。そして、その危険な状況を瞬時に判断し、反撃するか、この場を逃げ出すかを決めることができるのです。

  一生の間に、そのような危険に出会う機会はあまり多くはないでしょう。危険の際に、内分泌から出される物質には、ある種の毒素が含まれています。この毒素は、まれにある危機的な状況下で、防衛本能を発揮するには効果があり、あなたの身体に損傷を与えることはありません。危険が去り、身体がもとの状態に戻れば、それは吸収され分解されます。この毒素は、危機的な状況下であなたの身体を興奮状態にさせるために必要なものなのですが、この毒素による興奮状態が長く続けば、身体へ悪影響が出てきます。治療のために服用する薬に関しても同じことが言えます。特定の薬を長期的に服用し続けると、身体に何かしらのダメージを与えてしまいます。

  例えば、あなたにとって不合理で非現実的な理由から精神的な葛藤を引き起こし、防衛状態に入ってしまったとしても、あなたの身体は、その防衛を引き起こしてしまった理由の正当性を問うことはありません。あなたが、恐怖を感じた瞬間、その毒を含んだ物質は体内へ放出されます。最初は、あなたは恐れから身を守るために防衛に入っていましたが、今では防衛状態があなたにさらなる恐怖を引き起こしています。したがって、非現実的なことを理由もなく怖がり、人生を防衛状態のままやり過ごすことをやめることは重要なことです。防衛にあなたの人生を支配されたままでいると、その有毒物質がやがては、血液循環や神経システムに影響を与え始め、身体に何かしらの悪影響を及ぼします。体質や身体の抵抗力にもよりますが、遅かれ早かれ、そして多かれ少なかれ身体へのダメージは症状として表れ始めるでしょう。これが、身体面で起きている防衛のプロセスです。

 あなたの人格のメンタルな面では、実際に現実的な危険に会ったとき、すべての知的能力は-内分泌から出る有毒物質の助けを借りて-反射的に目の前の危険に集中します。一点に全神経を集中するため、その他のことに意識を向けることはできません。その時点での危険に対処し、自分自身の身を守らなくてはならないため、それ以外の真実や知恵を垣間見ることができません。危険にさらされているとき、人生の調和についてや何かしら意味のある重要なことなどに考えも及びません。実際の危機に直面しているときのこのメンタル的な反応は、とても役に立ち理にかなっています。この現実的な危険が実際に去ってしまえば、あなたは通常の状態に戻ることができ、あなたの思考は再び人生の他の事柄や他人や自分自身について-危険から身を守ること以外のこと-に集中できるようになります。

 しかし、何かに攻撃される危険がまったくないときにでも、絶えず危険や攻撃から身を守るための心理的な防衛状態に入ってしまうと、メンタル面での成長に支障をきたしてしまいます。たとえあなたが優れた能力をもっていたとしても、あなたの考え方は未熟で限定されたもののままになってしまいます。そして、あなたは人生のあらゆる問題に対して、限られたものの見方でしか対応できなくなります。

 このことは、とても微妙で、あなた自身もまったく気づかないほど知らない間にあなたの中で起こっています。あなたの中で、防衛が習慣になってしまっているので、本当の脅威と非現実的な脅威を見分けることもできないのです。そして、防衛は、他者や人生、そしてあなた自身に関する真実に向き合うことを邪魔します。防衛は、あなたの持つ可能性や適切な選択をすることができる潜在的な能力からあなたを遠ざけます。これは、あなたの思考が、ありもしない危険から身を守ろうとすることから起こります。つまり、危険が本物であろうと、想像上のものであろうと、あなたの中で防衛のシステムはまったく同じように働いているのです。実際に危険に会ったとき、より意識を集中し強力になった思考は、反撃に出るか-もしくは、状況が絶望的で手に負えないなら-逃げるか身を隠すかの判断をします。他のことを考慮する余裕はありません。あなたが非現実的な危険から自分を守ろうとしているときも、同じことが言えます。あなたは、偽の解決策として、攻撃的になったり、自分の人生から身をひいたり、妥協したりします。しかし、そうすることによって、あなたは自分に対する誠実さを失います。あなたが防衛をするのは、自分自身が危険に身をさらされるのではないかという恐怖が原因です。あなたは、いつも何かの争いに巻き込まれており、思考のほとんどを自分を守ることに集中しています。そのため、自分の人生について適切に考える十分な余裕がないのです。めったにない本物の危険に対して極度に意識を集中させることは自分の身を守るために必要なことですが、そのような危険がないときには、その防衛があなたにとても大きなダメージや制限を与えていることが理解できると思います。
感情の面においては、実際の危険に会ったとき、あなたはただ恐怖と怒りを感じるだけです。実際の危険に直面したとき、これらの感情はとても役に立ちます。恐怖と怒りを感じるこが、自分を守るための推進力と強さを生み出すからです。その瞬間、あなたはこれ以外の感情は何も感じません。もし、そのような危機的な状況で他の感情を感じてしまうと、身を守るために必要な強さを生み出すことができなくなってしまいます。しかし、危険が去ってしまえば、元の人格が戻り、恐怖や怒り以外の感情も感じることができるようになります。

 しかし、常に防衛の状態に入っていると、あなたは怒りと恐怖に支配されたままでいることになります。これがあなたとまわりの環境にどのようなダメージを与えるのかは、またの機会にお話しします。あなたは、傷ついたとき、攻撃され、あなたの安全が危険にさらされていると誤解します。そして、すぐにハートを閉じてしまいます。そうすることで、傷ついたことを怒りと敵意に置き換えます。そして、あなたは防衛に入り-個人的な偽の解決策がどんなものでも-あなたを傷つけたその相手に対して戦争を始めます。言うまでもなく、あなたはもはや真実がまったく見えていません。あなたは、傷つきましたが-それがどんなに不愉快でも-それは、本物の危険ではなく、防衛に入る必要はないのです。防衛に入ってしまうことで、最初の痛みよりももっと大きな損害が無限に続くことになります。こうなると、あなたは、もはや最初の痛みに気づくこともなく、第2の感情-怒りしか感じなくなります。真実を抑圧することで、本当の自己からどんどん遠ざかってしまいます。
 
 これまでの説明で、防衛がどのようにあなたを支配しているか、だんだんと分かってきたと思います。防衛のシステムは微妙で、見つけ出すのに骨が折れるかもしれませんが、自分自身の防衛を乗り越えることを正しく意図すれば、次第にその入り組んだ防衛の存在に気づいていくようになります。あなたは、想像上の生命の危険と傷つくこととを混同して防衛をしていますが、それに加えて、あなたの意志に対する欲求不満、つまり、あなたの思い通りにいかないことすべてに対しても感情的に防衛をしています。これらのすべてが、無意識のうちに、あなたの安全を脅しているのです。しかし、あなたの考えるその安全とは、現実的には、意味のない偽物です。欲求不満は、誰にとっても不愉快なものですが、だからと言って危険なものではありません。防衛の本質は、危険を避けるためのプロセスです。それが、本当の危険に使われたときは意味を持ちますが、そうでないときに、防衛を使えば、人格全体のバランスに支障をきたします。あなたは、まだ理解できないかもしれませんが、あなたの能力は制限されています。言い換えれば、必要のないときにでも、あなたの中の自己防衛本能が働いていて、建設的なことに使うエネルギーを浪費しているということです。本来、本当の危険に使われるべき防衛本能を他のことで使えば、人格は歪み、バランスが崩れてしまいます。

 それでは、次にスピリチュアルな面で、実際の危険に会ったときの防衛についてお話ししましょう。ここでもやはり、目の前の危険に対して感情が一点に集中することが必要であり重要になってきます。すでにご説明しましたように、身を守ることがきるように、あなたの感情は、恐怖と怒りだけに集約されます。こうして集中することで、愛情や暖かさ、親愛、理解や思いやりといった感情から自己を切り離します。そうすることによって、危機の中にあるとき、自己の中に引きこもり、戦うか逃げるかの力を蓄えるのです。あなたは、もはや外の世界とのつながりを断ち、自己と他者の絆も断ち切ります。他者との分離を解消することや他者との交流や統合などは火急の懸念事項ではないのです。実際の危険に直面しているとき、愛情のようなポジティブな感情は、危険から身を守るという目的にはそぐわないのです。しかし、いったん危険が去ってしまえば、暖かく、社会性があり他者との交流を求めるすべての感情が戻ります。すべてのことが、創造性や他のスピリチュアルな面についても言えます。いつもは、どんなに創造性の富んだ人でも、危険に巻き込まれているときは、一時的にその創造性も止まり、危険が去ってしまえば、またその創造の力も戻ってきます。

  あなたは、多かれ少なかれ誤解から大抵の場合いつも防衛に入っています。その誤解とは、傷ついたり、思い通りにならなかったり、批判や拒絶されたりすることが危険なことで、それから自分を守らなくてはならないと思い込んでいるのです。そのために自分の感情を制限します。さらに、あなたは、創造性をも制限し、人生や他者に手を伸ばし、愛すること、理解すること、感じること、そして、自己を表現することも制限しているのです。あなたは、自己を限定することでスピリチュアリティを十分に生きていません。このような制限を課すことで、あなたは次第に自己から切り離されます。そして、知らず知らずのうちに他者をも切り離し拒絶するので、他者からも傷つけられ、失望させられるといったことを繰り返すパターンを生み出します。こうして、あなたはさらなる防衛が必要になり、ふたつの悪循環が作り出されます。ひとつは、あなたの内にある悪循環と、ふたつめは、あなたと他者との間の悪循環です。これらの悪循環は、あなたの防衛に拍車をかけ、互いに相手を排除し合う要因となります。

 何の危険もないときに不必要に防衛に入ることで、あなたは有毒物質を体内に放出しています。そして、思考や感情を制限し、創造性を抑圧しています。あなたは、人生や他者との交流の中にある様々な可能性を見ていません。それどころか、あなたは、ありもしない危険に対して懸命に防衛をすることで、自己を孤立させています。全防衛能力を駆使するような危険に出会うことは、本当にまれです。あなたは、どのように防衛を使うのかを学ぶ必要はまったくないのです。防衛は反射的な本能でどの人間にも備わっているものだからです。子どもでさえ、教えられなくても危険な状況になれば、反射的に反応します。

 もうひとつ重要なことをお話しします。あなたが、現実的ではない危険に対して防衛本能を使い続けると、その防衛が本当に必要なときに、効果的かつ反射的に使えなくなります。つまり、いつも防衛状態に入っていると、いざというときに本物の危険に対処することができなくなるのです。実際には、犠牲者ではないのに-防衛に入り、そのように振舞うことで-本来使うことができる力が出し切れず、無力になってしまい、本当の犠牲者になってしまいます。だからと言って、防衛を強化してもこの状況は改善されません。それでは効果がないのです。しかし、防衛を使う必要がまったくないとき、それを使わないことを学ぶならば、あなたの防衛本能は自然に本来の能力を取り戻すでしょう。

 これが、ありもしない現実に対して使っている不必要な防衛を止めなくてはならない理由です。あなたが「危険」と思い込んでいるものは、感情的に傷つけられたり、拒絶をされたり、あなたの思い通りにいかなかったりすることや、批判をされたりすることです。あなたは、何かしら非難されると-それが真実であったり、場合によっては、真実が一部しかなかったり、もしくは、まったく真実でないこと-それが生死を分かつような危険に感じてしまうのです。そのような批判を受けたとき、あなたの感情はためらいなく「私は今危険な状態にある」と言い切るでしょう。

 それでは、それが真実であるかどうか検証してみましょう。あなたは傷ついたり、物事が思い通りにいかなかったり、批判を受けたときに、本当に危険が差し迫っていると感じたり、あなたの生命の危険を感じますか。実際にはそうではないということをあなた自身が立証しなくてはなりません。例え、不当な批判に対してでも、成熟した大人の態度で現実的に対応するなら、そのような批判も、もはやあなたを危険に陥れるようなことはありません。あなたが、批判から懸命に自分を守ろうとしているのは、その批判がしばしばあなたが直面したくない何かを暴露するのではないかという恐怖を感じているからです。これが真実ではないのでしょうか。恐らくあなたは、変化に対して不安を感じていたり、真実が明らかになることで、愛されなかったり、大切にしてもらえなかったりするのではないかと思い込んでおり、その真実に対して防衛をしています。しかし、真実というものは、あなたと同じように不完全な人々からやって来ることもあるのです。

 あなたが避けなくてはならないと思い込んでいる最悪の危険とは、真実そのものなのです。そしてあなたは、他者に対して、相手の中にその真実があると指摘することによって防衛をしています。しかし、その相手もまたその真実は見たくはないのです。恐らく、強い人もいれば、弱い人もいます。しかし、それがいったい何だと言うのでしょうか。人はそれぞれに独自の調和のリズムと価値観を持っており、他の誰かと比べることはできません。そのような評価に意味はないのです。ふたりの人間が互いの真実を指摘し合いますが-その真実に対する指摘はある程度は正しいかもしれませんが-それは、お互いが、自分の中の真実のすべてを見たくないからなのです。

 あなたの弱さや、少しでも弱い部分を見せることが、あなたを拒絶したり、愛さない理由と権利を相手に与えることになるとあなたは誤解しています。そして、あなたは、相手がこのような態度を取ることに耐えられません。ですから、その架空の危険を避けるために、あなたは愛すべき人間というマスクを維持しようと、あなたの持っているすべての防衛を使うのです。わずかな痛みだけのために、あなたは生死に関わる危険が迫ってきたかのように必死に防衛をします。しかし、人が人を拒絶するのは、欠点とかただ弱いからとかいった理由だけではないのです。

 あなたがもう少しじっくりとまわりを観察すれば、真実を隠すことが拒絶を招いているという事実を疑いようもなく見ることができるでしょう。あなたの最悪の欠点や歪んだ認識でも素直に表現すればそれは受け入れられます。しかし、一方で、あなたがそれを隠そうと防衛をすれば、軽蔑や反感、拒絶、恐怖を生み出し、それらのネガティビティが相手に防衛を引き起こします。もし、自分の欠点や誤解を表現できないとすれば、あなたはまだ真実のすべてを見ていないのです。防衛に入ることをやめて、真実を見ることを望めば、あなたは自然と受け入れられるでしょう。あなたがこの新しい反応を選択して初めて、誠実でいることがどれだけ建設的で、前向きな結果を生むかを理解できるでしょう。

 防衛にはいっているとき、あなたが守ろうとしているものは真実ではありません。本物の危険であれば、そのとき、その危険は真実です。しかし、もし偽の危険であれば、真実はそこにはなく、どこか他にあります。あなたは、自分が危機に直面したときに、「これは本当の危険か?この中に少しでも真実があるのだろうか?」と自らに問いただしていません。その瞬間あなたに関心があるのは、「私が正しいのか?相手が正しいのか?」です。それは、何が正しいのか、何が真実なのかを見ることができない限定された「私対他人」の考え方です。

 普段あなたは、自分が危険に巻き込まれないような方法で防衛をしていることが多いでしょうが、必要に迫られたときは、より効果的と思われる防衛方法を選択するでしょう。あなたは逃げ出そうとするか、もしくは、危険を避けるために、あなたが正しいと証明できる問題とすり替えます。3つめの選択肢は、反撃です。他者の欠点を指摘するのです。自分の嫌な部分を見るのを避けるためにこの防衛をすることと、本当に真実のためにこれをすることでは、大きな違いがあります。

 わかりやすく言えば、防衛は、真実を生み出しませんし、真実や現実に対して、考える機会を与えていません。防衛に入っているとき、あなたが考えているのは、非難を避けるということです。あなたは、非難されることが、拒絶であり、失望であり、傷つくことだと信じているのです。このとき、その非難が不当なものであることを証明することがあなたにとってより重要になってきます。たとえ、その非難に真実が含まれているとしても、です。というよりもむしろ、その中に含まれている真実を見ることがあなたにとって、不当であり何よりも避けたいことなのです。そして、あなたは真実から逃げ出します。そしてそれは、自分自身と人生から逃げ出しているということです。その結果、あなたは、真実や自分、そして人生の中に、言い訳や自己欺瞞、自己疎外や孤立を持ち続けることになります。

 防衛は、身体に悪影響を与え、思考や感情、考え方や創造性、そして、精神性をも制限してしまいますが、さらに、他者や自己の内面の自由、そして真実につながる能力をも制限します。それは、愛することや、自己や他者を尊重する能力に関わってきます。これらすべては、完全でなくてはならないという根本的に間違った考え方からきています。なぜなら、あなたは自分が完全ではないので、価値がなく、受け入れられないと信じているからです。

 人がこの防衛の壁を見つけ出し取り除くために、より深く内面を探るなら、日々のコミュニケーションの中のお互いの困難を避けることができます。そうすれば、互いに反感を募らせることも少なくなり、相手を恐れることもなくなるでしょう。あなたが攻撃の標的にされているといった間違った感情が原因で-そして、あなたは防衛に入るのですが-あなたは、他者を恐れ嫌っています。自分の価値が損なわれると思うような何かが暴露され、その誤解がもとで傷ついているときも同じことをしています。そして、あなたが他者を嫌ったり恐れたりするもうひとつの理由は、不足しているという感情です。あなたは、人生や他者があなたの願いに答えてくれないので、あなたを失望させているのは人生や他人だと勘違いしているのです。自分以外のものが満たしてくれないといった痛みは、自分自身が不十分であるといった誤解に比べればたいしたことではありません。もし、あなたが自分の持っている欠点のせいで他者に受け入れられないと気づき、それに進んで向き合うなら、どんな批判もあなたを傷つけることはないでしょう。

 防衛の状態でいるとき、あなたは気づいたり、経験したり、誠実でかつ筋のとおった考え方をしたりすることができません。同様に、暖かさや愛情、人の気持ちを感じることもありません。ですから、あなたは現実の中にいることもできず、本当のコミュニケーションもできないのです。あなたのすべては、自分を守るために架空の危険に対して防衛をし、ひとつの小さなことにだけ集中しています。このような状態では、人生で大切なことや現実についてなど考えることができません。

 ご存知のように、防衛の形にはいろいろなものがあります。いくつかはとても微妙で、攻撃というはっきりとした形をとるまで誰にもわからないものもあります。はっきりと防衛をしていることが分かる人もいますが、冷静で無口な人の穏やかな防衛の方が強い場合があります。そういう人たちにとって、攻撃に対する恐怖はとても大きく、自分の力でそれを対処できないと思っているので、常に、人生や他者から逃げています。しかし、明らかに積極的な防衛でも、引きこもったり、逃げ出す防衛にしても、どちらも私たちに与える損害は同じように大きく、ネガティブな結果を招きます。どの選択肢を選んでも、他者や真実、深い関係、人生に自ら手を伸ばすことができません。これらの防衛手段は、あなたを警戒態勢の状態にし、人生や他者、そして自分自身を見えなくしています。あなた自身やあなたのまわりの環境に与える損害-不調和や分離-はとてもここで十分に説明することができません。

 防衛状態のとき、あなたは他者や自分自身のニーズを満たすことができません。自分を守らなければならないというニーズが幻想だったと気づき、防衛を止めたとき、あなたは、想像もできないくらいの自由を経験できるでしょう。あなたは、人生の喜びを知るためにただ生きればよいのです。あなたのところに来て去っていくものに対しては、ただ受け取り、そして手放すのです。来るものに対して防衛をするのではなく、意図を持って穏やかに真実を観るのです。この姿勢があなたの反応を変えます。あなたから発散するエネルギーはまた違った輝きを持つでしょう。そして、あなたの人生が完全に変わり始めます。

 防衛を見つけ出し、観察し、理解することを学べば、-そうすれば、最後には、防衛を解消できるでしょう-あなたは、幻想から解放されます。幻想は、あなたを追い込み、牢獄に閉じ込めます。そして、必要のない防衛が、この地球を破壊します。そして、個人や世界にさらなる不調和、偽り、敵意、抵抗を生み出しているのです。

 質問:防衛に入っているときに、身体に有害な物質が放出されると言われましたが、パスワークを学んでいけば、その害は癒されるのでしょうか。

 回答:それは可能です。あなたが防衛を止めて、これ以上その有害物質で身体を汚染させることを止めれば可能です。そうすることで、あなたに安心がもたらされるでしょう。しかし、過去の防衛状態が続いた結果、身体へのダメージがすでに相当に深刻な場合、完全にその毒素を取り除くことができない可能性もあります。これが可能かどうかは、いろいろな要素にもよりますが、基本的には可能です。

 質問:他者からの批判についてですが、それは聞かなくてはならないのでしょうか。

 回答:冷静にそれを聞いて、判断をしてください。あなたに対するその非難の中に、真実は含まれていますか。それに対する、あなたの内面の恐怖を観察してください。そうすることで、その非難が間違っていたとしても、その恐怖に何の根拠もないことを理解できるでしょう。あなたに何も悪いことは起こりません。あなたは、危険ではないのです。

 質問:しかし、不当な批判に苛立ち悩まされるとしたらどうなるのでしょうか。

 回答:その苛立ちこそが、あなたが防衛をしている証拠です。防衛をしなければ、あなたは苛立つこともないでしょう。どうして苛立つことができるのでしよう。あなたは、ただその批判の内容を吟味し、その中にどれだけの真実が含まれているかを判断したらよいのです。大抵の場合は、あまり深く調べなくても、その批判が不当であると確信できるでしょう。批判の中に真実がないのなら、あなたは何に対して苛立ち悩まされるのでしょうか。この批判の中の何があなたを苛立たせることができるのでしょう。このような観点から、批判を分析したことが今までにありますか。批判自体は、正当なものでも不当なものでも、あなたを傷つけることはできません。あなたの中に批判を受ける何かがあって、それが原因で愛されなかったり、尊重されないという思い込みがあなたを傷つけているのです。

 質問:うそや真実でないことについてはどうでしよう。

 回答:前にもお話しましたが、落ち着いて、それを調べれば、うそでもあなたを傷つけることはできません。あなたは、危険に対して防衛をします。うそや間違った意見は、あなたを傷つけることはありません。そして、防衛をなくすことで、あなたはうそや誤解に建設的に対応できる能力を取り戻すことができるのです。あからさまな嘘や中傷、有害な評価に対して、防衛をしてはならないと言っている訳ではありません。このような場合の防衛は、現実的な防衛です。あなたが非現実的なことに防衛を使わなくなれば、次第にこのような防衛を適切に使うことができるようになります。

 質問:裏切られたことを非難し、裏切りに対して当然の怒りを抱えています。その怒りは、自己防衛かもしれませんが、それは、約束し、それを裏切った誰かに対する自然な(当然な)反応で、結局、約束や期待は実現しない場合、この怒りは当然のものではありませんか。

 回答:何が「当然」で何が「当然でない」かお話しする前にもう一度言いますが、それが必要である場合、もしくは、建設的で生産的な方法を取らずに、どのような不当な行為も裏切りも行うべきではありません。ただ傍観して何もしないといった間違ったケースもたくさんあります。これは、不健全であり、犠牲者を装って、正義を嘲っています。興味深いことに、防衛をする人ほど、建設的な防衛や反撃する能力が低く、自分自身を苦しめ、犠牲者になります。相手に対して、適切で健全に対抗(aggressiveness)することや主張する方法は存在します。相手に対してどのような対抗が健全で、どのようなものが健全でないかは、一般的なルールでは決められません。その違いは、とても微妙なので、自己分析でしか本当のことはわからないでしょう。現実的な危険というものは、身体的なものばかりでなく、他のレベルにおいても起こりえます。何度も繰り返し言いますが、不必要な防衛から自由になれば、本当の危険に対して健全な防衛で対処することが上手くなっていきます。ふたつの防衛が混じり合ってしまうと、不健全さは弱りますが、同時に健全さも傷つき、結局、前向きな結果が得られないときがあります。

 それでは、何が「当然」なのでしょうか。これは、とても誤解されやすい言葉です。誰でも、子どもじみた非生産的な部分を持っているので、そういった反応は、確かに「当然」ということになるでしょう。しかし、それは完全にそれが健全であるとか、成長する可能性がないという意味ではありません。内面にいる子どもの部分を強調せず、それに同調もせず、それに対して罪悪感も必要ありません。それが、パスワークでいつも教えている道です。理解していただけましたか。

 質問:よくわかります。まず始めに、人間関係の中の感情のもつれを明確にして、その後、それに対して現実的に対処していくということですね。

 回答:そのとおりです。もうおわかりのように、あなたが不健康な感情移入をすることで、状況を正しく判断できなくなり、対処もできなくなります。

 質問:私の友人が言った嘘にも現実的な危険があるのでしょうか。

 回答:あるかもしれませんね。すべては事実や行動、微妙な傾向や考え方、そして正確に対処できるかどうかによります。しかし、この他者からの影響や他者に関する気持ちを声に出して表現することが、必ずしも真実を立証できるとは限りません。これには、他者が言ったことにわずかな真実が含まれているのかどうかを詳しく見てみる必要があります。他者の言い方が例え歪んだ表現だったとしても、それはその相手の問題であり、人間の限界でもあるかもしれないからです。このような場合、一概に「それは嘘だ」と言い切ることは、できないと思います。なぜなら、これは、とても微妙な問題だからです。

 質問:感情の高揚についてお話ししていましたが、感情的に鈍く、抑制していて、反応がない人についてはどうですか。

 回答:感情的な反応がないのは、過剰防衛をしているからです。表面や意識上では、感情をほとんど感じない人でも、内面には存在しています。その感情は、意識下でくすぶり続け、ダメージを与えます。私たちが続けているワークで、無意識の中の感情を意識の上にのぼらせることの大切さがそこにあります。そうすることで初めて、その感情を適切に扱うことができるのです。

 例えば、あなたが実際に憎しみを感じなければ、それを取り除くことはできないのです。あなた自身がその原因を理解して、それから解放されるために、その感情を抑圧から解放して、意識上で認識しなければならないのです。これは、防衛の壁についても同じことが言えます。それ気づかない限り、あなたは何もできません。ですから、このワークで最初にすべきことは、このパスワークの方法に従って、今までに抑圧してきたことを認識するということです。感情がない人間は誰一人いませんが、自分が感じていることが、どのような感情であるかも理解しておらず、普段は、その意味も考えようともしないのです。そのわずかでも認識できる感情がこのワークの最初の手がかりとなります。たとえ、知的な活動が優勢的で感情を故意に鈍らせているような人でも、必ず何かを感じているはずです。防衛が強い人ほど、感情を抑圧しています。しかし、そのような人でも、努力をすれば、感情を突き止められるようになります。このような人は、恐怖と怒りの感情に支配されていることが多いのです。人が感情に気づかないのは、いつも何かしら理由をつけてそこから逃げているからかもしれません。

 質問:そうですね。では、感情が意識できている人は、観察しやすいということですね。

 回答:確かにそうです。ですから、いまだ気づいていないすべての感情に気づくことが最重要課題なのです。こうして初めて、現在抱えている問題に対処できるのです。

質問:私の個人的なワークで、私とヘルパーは、私の中に、人間として適切でない考え方があるのを見つけました。人間とは何なのでしょうか。

 回答:この質問にお答えするには、少なくとも1ヶ月くらいかかると思います。しかし、これからお話しすることが、あなたの考え方と真実を少し調和させることができると思います。「彼は、これであり、あれである。」とか。「彼女は、かくかくしかじかである。」と言っていることと、あなたの持っているその限定された考え方を比べてみてください。無限に存在する多様性や組み合わせ、矛盾、何の制約もない可能性や思考の潜在性そして、すべての人の中にある感情の豊かさに気づいてください。すべての人間には、あなたが知りうる-ポジティブもネガティブも両方-感情、傾向、人格構造があり、ひとりの人間の資質が時にはポジティブにまた違う場面では、ネガティブに映し出されるのには、人間の魂の持つ複雑さに由来しています。あなたが何の制約もない人間の可能性や潜在性を理解し始めたとき、人間というものをさらに理解できるようになるでしょう。もし、あなたが意識下でも無意識にでも、人間とは、これやあれだけだと限定しているのなら、あなたはその考え方に縛られ、他者を理解できないでしょう。

 奇妙に聞こえるかもしれませんが、人間の無意識下の目的に、人間の人格を制限するというものがあります。これは、人が、人間が考えうる範囲のものであれば、理解しやすいと信じているからです。しかし、これは真実ではありません。あなたが人間の無限の可能性や様々な側面を受け入れれば、さらなる理解と直感を得ます。これが、私が今お答えできることです。この質問に関しては、どのようにお答えして詳しくお話ししても、すべてをお話しすることは難しいでしょう。私たちの表現は、とても限定されており、このような複雑なテーマを説明しきれないからです。

 質問:人が自己の内面に隠されているかなりの部分に気づいたとしたら-例えば、無意識の内の75パーセントの部分を認識し、それがどのような状態か見ることができたら-その認識した潜在意識の部分にどのように働きかければいいのでしょうか。もしくは、そのようなことは必要ないのでしょうか。

 回答:私が、何度も言ってきたことをもう一度繰り返しますが、あなたは、ただ誤解や子どもじみた部分、偽り、歪んだ反応や考え方を観察すればよいのです。あなたがそれを観察し続けていけば、なぜあなたの感情が現実や真実とうまく調和しないのかを学ぶことができます。あなたの感情がどれだけ誤っていて、不適当であり、破壊的で、不都合で、非現実的かを明確に理解してください。あなたの中のこうした反応と、あなたが知識として知っている-まだ理論上のものかもしれませんが-現実や真実を、建設的な反応を無理に自分に押し付けることなく、比べてください。あなたの反応の仕方がなぜ非生産的で現実感がなく、もう一方の反応が建設的で現実的なのはなぜかただ比較して理解してください。あなたが望む方法で感じたり反応したりできない自分を認識し、受け入れてください。罪悪感や何の強制もせずに、あるがままの自分を受け入れて、自分の未熟さを認識してください。自分に対して怒りや苛立ちを持つことなくこのワークをすれば、あなたの感情は、真実に関する正しい知識を受け入れ始めるでしょう。あなたの行動の中の子どもじみた感情を観察をしていけば、最終的には平穏がもたらされます。さらに、その感情がなぜ、どのように非生産的なのかについて、さらなる知識と理解を得られるでしょう。

 質問:「7つの大罪」の背景についてお話ししたかったと思いますが。

 回答:この「7つの大罪」のリストを用意してください。前にも言ったと思いますが、このテーマに関しての説明は長くなりそうなので、他のレクチャーに少し補足して説明するというわけにはいきません。それぞれの項目について書き留めて、個別に質問してくれれば、お答えできると思います。あなたの質問に対する説明が、レクチャーとなるでしょう。

質問:伝統的なユダヤとイスラムの聖典の中で、魚や肉の食事についての記述があります。これは、「肉を食べるな」という戒律ですが、キリスト教は、豚肉は禁止していません。マタイによる福音書の15節でイエスキリストは、「口に入るものは人を汚さず、口から出て来るものが人を汚すのである。」と言われました。しかし、四旬節の間は、キリスト教でも食事制限をしています。私の質問は、この食事の規制は、人間が不浄だからですか、それとも神聖だからでしょうか。そして、四旬節とその日数の意味は何でしょうか。

 回答:最初の質問の答えですが、この食事に関する法が定められたとき、人間の科学と衛生面での知識は、あまり発達していなかったため、そのような情報が宗教と関連付けられ、法が定められました。その法は、衛生と健康面の理由から定められています。長い間を経て、状況の変化と共に、その法は変えられました。近頃では、宗教がそのような法を定める必要はありません。いかなる時も、これらの法は、精神生活とは何も関係がありませんでした。それは、ただ健康を守る予防措置のようなものなのです。人類が現在霊的な必要性としてまだそれらにしがみついているなら、それは本当の精神性が何であるかに関するはなはだしい誤解を示しています。それは人類の浅薄なアプローチを示しており、精神性とは何かを考えることに対する嫌悪を表しています。今日の科学は、特定の法則が有効な状況を発見するかもしれません。しかし、それもその状況が広く普及している間です。その状況が変われば、その法則は消えてなくなるでしょう。何の目的や理由もなしにそのような法則に固執することに意味はありません。

 2番目の質問に関してですが、四旬節の本来の象徴的な意味は、自己に向き合い、身体だけでなく、すべてのレベルを浄化するための時間を持つことでした。いつも言っていますが、外的な現象は、内面の象徴に過ぎません。身体そして魂をも含めた浄化は-単に教義に固執してするのではなく、独自の方法でなされた場合-健全さを生み出します。どのような教義でも、それが見せかけだけのものであれば、そこには融通の利かない頑固さと、自己のために考えることの責任の放棄が見られます。それ故に、そのような教義は生きてはおらず、躍動する魂は、もはやそこにはないのです。四旬節の本来の意味は、浄化、熟考、自己に向き合い、新しいものを受け入れ、自立し自ら現実に向き合う強さを準備するという時間のことなのです。

あなた方が、今よりさらに防衛を意識するようになりますように。そして、防衛があなたに与える影響-思考プロセス、感情の持つ力、身体システム、そして、精神世界-も理解できるようになりますように。あなた方が防衛することなしに、手放し、受け取り、よく見て調べて認識し、客観的に物事を見られるようになりますように。もう「善対悪」の視点から考えたり感じたりすることもなく、他者と手を取り、経験を共にできますように。防衛は、あなたを他者から隔て、他者に向かって手を差し伸べることをできなくします。今晩再びあなたに広げられる祝福が、あなたのさらなるワークのために、特にこの防衛という課題であなたを助け、あなたの中で最も大きい障害から解放するのを助けますように。みなさんに、祝福が届きますように。私たちの暖かさと愛情を受け取ってください。平穏のうちにいてください。神のうちにいてください。

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