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No.104 知性と意志 ― 自己実現の道具、またはそれを妨げるもの

Pathwork Guide Lecture No. 104
1996年版
1962年5月25日

知性と意志 ― 自己実現の道具、またはそれを妨げるもの
INTELLECT AND WILL AS TOOLS OR HINDRANCES OF SELF-REALIZATION


 大切な友人であるみなさんに、ご挨拶いたします。神はみなさん一人ひとりを祝福します。この時間は、祝福に包まれています。

 自分自身を理解するとはつまり、真の自己を見つけることを意味します。この「真の自己」が何なのかについては、これまでにもさまざまな角度からお話ししてきました。私がさまざまな用語を使っていることに、気づいている人もいることでしょう。たとえば「イメージ」でも「真の自己」でもかまいませんが、同じ言葉を繰り返し使うと、その裏にある本当の意味が失われてしまいます。言葉の持つ意味が死んでしまうのです。言葉がただのレッテルになると、みなさんは自分がしゃべっていることを真に理解することのないまま、同じ言葉を何度も使ってしまいます。「意味」は生きています。「意味」は永遠に新鮮で自由な経験ですから、みなさんはそれを失くさないように、しっかりと自分を守る必要があります。言葉の裏にある意味を改めて経験するためにも、時には「受け入れがたい」と感じるような表現を使ってみることもお勧めします。言葉の内側に潜む意味を改めて把握し、その言葉が喚起する生きた経験を受け取ることができないときには、その「できない」という事実に気づいてください。気づくことに、大きな意味があります。

 みなさんが言葉の持つ生きた意味を忘れてしまうという事実は、真の自己と表層的な人格との間に起きる現象を示す良い例です。言葉の持つ生きた精神を経験するのは、あなた方の真の自己です。そして、言葉の意味を感じずに繰り返し使うのが、あなた方の知性です。記憶とは、一度経験した何かを再び体験しようとする意志ですが、この意志によってただ単に再体験するだけでは、その言葉の意味に生命が宿ることはありません。結局、この体験もパターン化するだけで、これでは、みなさんの真の自己はうまく機能しません。

 では、真の自己がどうしたら機能するのか、その働きを邪魔するのは何なのかについて、理解をもっと深めてみましょう。混乱と誤りの中にあるみなさんの人格層がこの障害を引き起こします。さらには、みなさんがその事実に気づかないのも、この障害の原因になります。よくご存知の通り、真の自己に到達する方法はただ一つ、自分自身を知ることしかありません。自分の中に混乱が発生していると知ることで、みなさんの気づきはさらに深まります。たとえその問題に対する答えがわからないとしても、みなさんはすでに真の自己に一歩近づいているわけです。

 みなさんの世界では、思考プロセス、知性、頭脳(マインド)、意志力などがあまりにも重視されているために、霊的な成長のために意志や思考プロセスをそのまま使えば本当の自分自身になれるのではないか、とどこかで信じていますね。たとえば、善と愛を実践することが霊的な成長の兆候だと学ぶと、自分の思考や意志力をコントロールすることで、善と愛を実践しようとする人がいます。ですが、こうしたやり方がうまく行かないのは、これまでのワークからもうわかっていることと思います。これは結局、本来の自分以外の誰かになりたいという願望を表しているに過ぎません。

 真の自己を、力や意志によって支配することはできません。真の自己とは、思考や意志とは無関係に、まさかと思うようなときに自然に生ずる創造的経験の現れです。これはとても大切なポイントなので、常に心に留め、忘れないようにしてください。知らず知らずのうちに、無意識のうちに、意図していないようで実はどこかで故意に、みなさんは今でも思考と意志の働きを使ってさまざまな概念を叩き込むことによって ― 別の言葉で言えば、「思考過程」によって ― 真の自己を引き出したいと願い、それに励んでいます。ですが、これは絶対にうまくいきません。

 ここで、疑問が生じるかもしれません。「それならば、この苦しいワークの中で、どうしてわざわざ知性や思考や意志を使うのだろう?」と不思議に思う人もいることでしょう。その答えはこうです。自分の頭(マインド)の中の混乱と間違い、方向性を見失った意志と動機を理解するために、みなさんはやはり頭(マインド)を使って考え、意志を働かせねばなりません。そうすることを通じて、あくまで間接的に、真の自己の誕生を促しているわけです。

 この点に関して、霊的成長の度合い(ステージ)について、簡単にまとめてみましょう。最も原始的な発達の段階は、気づかずに「いる」状態です。動物、植物、鉱物などは、この無自覚状態にあります。原始人はここからほんの少しだけ進歩していたに過ぎません。当然、原始人にも脳がありましたが、ほとんど直感だけに基づいて彼らは行動していました。脳の機能、または「知性」は本当にゆっくりとしか発達しませんでした。鉱物から原始人へと移る間に、自覚、知性、意志がごくごくわずかずつ優勢になっていった様子が私たちにはわかります。この発達がさらに進み、無意識の状態が減っていくにつれて、次の段階に近づきます。

 次は、気づきながら「なる」という状態です。この段階にいる人々は、知性と意志を使いながら物質世界で生き残ろうと懸命にもがいています。知性と意志は、物質世界に対処するために不可欠な能力です。思考と外的意志はあくまで物質のもので、さまざまな問題(これも「物」とみなします)に対処するために使われますから、物質から離れた「いる」という状態に進むためには、これらの能力を使うことはできません。こうした能力が過度に使われると混乱や間違いが創り出されますが、そのいわば余分な物を取り除くために、思考や意志を利用することは可能です。霊的物質として現れた問題に対処するために、思考や意志を使うこともできます。こうした道具が過度に使用され、「いる」という状態の障害になるような何かを産み出してしまうことがあり、自らが創造したその障害物を取り除くためには、思考と意志をもう一度使う必要があるわけです。ですから、その後の「いる」という状態 ―本当の自分― に到達するために、直接的にこうした能力を使うわけではありません。つまり、意志や思考の働きだけで真の自己を引き出したいと願うのではなく、まずは自分自身に対する理解が必要だ、ということです。

 その次の最も成長が進んだ段階が、気づきながら、「いる」という状態です。肉体を離れた瞬間にこの状態が訪れる、ということではありません。そうではなくて、みなさんは肉体にいながら、その状態に達していることをふとしたときに感じられるのです。そして、そう感じる回数が徐々に増えていくのです。この経験ができるかできないかは、すべてみなさんの姿勢次第です。混乱や苦しみを作り出した思考や意志という道具をどれだけ有効に活用できるか、または、本来の目的以外のところで使わないでいられるかという点によって、真の自己の経験ができるか否かが決まるのです。

 人類は今、二番目の段階にいます。気づきながら、「なる」という状態です。しかし、この状態自体もたくさんの細かい段階や程度に分けることができます。ここで、みなさんがわかりやすいように、便宜的にこのサイクルを二つに区分けしてみたいと思います。最初の半分では、知性、記憶、判断、意志力を掘り起こし、大きく発達させることが重要となります。以前にも話した通り、こうした能力が未熟のままだと、問題を完全に解決することはできません。ですから、人類は人生に対処するために学び、記憶し、知性を育まねばなりません。また、気づきのない状態では自らの内側で眠っていた動物的で、生々しく破壊的な本能を克服する意志も必要となります。意志と知性がなければ、自分や他人に害を及ぼすような行為を判断し、それを抑えることもできません。これはつまり、人間の行動は思考、知性、意志によって管理支配されていることを意味します。

 そして、残りの半分で人類はこの段階を完全にマスターします。ここで初めて、「いる」という状態の出発点に向かうことになります。このとき多くの人は、自分が物質的に満たされる以上の何かを求めていることに気づきます。さまざまな宗教や哲学が、この「高次の状態」についてそれぞれ違う言葉を使って説明しています。人が「高次の状態」を望む理由は、「自分が不幸だから」、「それがあると耳にしたから」だけではありません。新しい生の形に向かって、その人の奥底から強い衝動が沸き上がってくるからこそ、そう願うのです。ところが人々の多くは、物質世界での生活に必要な道具を使ってこの霊的生活の中に入ろうとします。もちろん、これは間違った試みなので、うまくはいきません。知性、思考プロセス、意志力といった道具を使って高次の状態に到達しようとするとき、人は限られた過去の経験に基づいて理想の人生像と自分像、つまり、私たちが「イメージ」と呼ぶものを構築します。

 このような状態については、これまでに何度も話してきました。自分が望む姿とは違う本来の自分を受け入れることを拒み、自分を抑制し、偽っている状態のことです。思考プロセスが産むもの、意志の行使が作り出すものが証明するのは、そこから直接的には本当の自由と霊的な成長がもたらされることはない、という事実だけです。思考と意志力が間違って使われると、混乱と苦しみが創造されます。イメージというものについてよく考えてみれば、本当の自分、本当の感情を隠すために、その上に想像上の基準を押しつけていることがわかるはずです。もっとよくなりたい、何か違うものになりたい、もっといいものを、さらに多くを手に入れたいともがき続ける限り、本当の自分、本当の感情を受け入れることはできません。思考と意志力は「なる」というカテゴリーに属すものなのですが、しばしば間違った形で、つまりみなさんを自分自身から、本来の姿から、今持っているものから遠ざける方向で使われることがあります。完全に調和の取れた「いる」という状態は、たとえ自分の現在の状況が不調和の中にあるとしても、それをありのまま受け入れることで、初めてもたらされます。「受け入れる」ことで自分自身を理解し、今の状態から抜け出し、成長することが可能になります。今回の生で、たまたま置かれることになった状況を何かで覆い隠していては、いくら頑張ってもそこから出ることはできません。どれほどもがき続けても、結局は、物理世界の常に従う形で正しく使われないと、知性や意志がいかに破壊的になりうるかという事実を再確認させられるだけです。

 思考と意志は、外的行動や意図に方向性を与える仮の道具です。物理的な意味での生活、外的行動、自己の真実を知る決意のために、この道具は活用できますし、それが本来の用途です。決して霊性のために使われるべきものではありません。霊性とは、あらゆるものを超越したものであり、愛とそれに随するすべてを指します。いくら自分を強いてみても、誰かを無理に愛することができないのは、みなさんもよくおわかりですね。この場合、いくら「愛している」と思い込んでいても、実際には違います。これでは本当の意味で愛していることにはなりません。自分の中のさまざまな誤り、混乱、思い込み、他者の意見に対する依存といったものをすべて取り去ることで、初めて愛が生まれます。こうした障害物を取り除くには、まず、その存在を完全に理解するしかありません。そうすれば、愛は自然に現れます。ちょうど、真の自己が自発的に表に出てくるのと同じです。

 善い人間になる、人を愛する、思いやりと優しさを持つ、ということは、頭の中で決めさえすればそれだけでこと足りる、というわけにはいきません。ですが、自分が完全になれない理由を見つけ、愛に満ちた善い人間になるのを妨げるものを取り去ると決意すること、そして今の自分と本当の自分との間や現在の人生と完全な人生との間に存在する何かを取り除くと決心することはできます。

 これで思考プロセス、知性、頭脳(マインド)、意志が、真の自己、愛、霊的と呼ばれるものすべての誕生を邪魔するという理由が、みなさんにも少しわかってもらえたでしょうか? これらはどれも、自分自身を知り、理解した結果として自然に現れます。思考と意志には結局、思考と意志を産むことしかできません。自分と無関係な何かを創造することはできないからです。愛や完全な理解、そして真の自己の持つすべての資質は、思考や意志とは何の関係もありません。

 創造的なプロセスを通ったことがある人は、本当の創造とは、意志の働きや、「創造的プロセスはこんな風に違いない」という思い込み、あるいは自分で勝手に立てた筋道に従うような考えによって決まるものではないと、すぐに認めることでしょう。創造はあくまで自然に、思ってもみないところに現れます。最も期待していないときに、あなたの目の前に創造が生み出されています。真の自己や、愛、深遠な理解という真の感情が創造的に現れるのと同じことです。これは、他人の教え、あるいは自身の以前の真の経験をそのまま繰り返し唱えるだけの、うわべだけの感情、頭で考える気持ちとは正反対のものです。

 真の自己の上に何かを重ねてしまうと、当然ながらその姿は隠されてしまいます。この重ねられた付加物は頭(マインド)と意志が欲しがるために生じます。真の自己を隠すと決意する頭(マインド)と、それを遂行する意志がなければ、この付加物が生まれることはありません。みなさんは霊的な成長のプロセスの途中にいながらも、幸せや気づきを求めて、本当の自分の上に何かを重ねてしまいます。「なる」という状態は、常に何かに向けて努力し、闘い続けることを意味します。この状態にいなければ、努力も闘いも争いもありません。他の状態には、混乱や苦しみが産まれる危険もないからです。

 発達の度合いが最も低い状態、鉱物の命を例にとって説明してみましょう。鉱物には自覚や意志がほとんど存在しませんし、知力(マインド)に関しては、まったくと言っていいほどありません。それゆえ、彼らは悲しみを感じません。同じように、最も高次の「いる」という状態にも、悲しみは存在しません。ところが、その前の「なる」という状態を頭(マインド)、知性、思考、意志を有機的な方法で使いながら通過する術を学んでいないと、「いる」という状態に至る際に大きな悲しみを経験することになります。一方、自分の頭(マインド)と意志を不自然な無機的な方法で使ってしまった場合は、今度はその間違いの原因となったもの、意図的な活動によって派生した頭(マインド)の中の余剰物を取り去らねばなりません。頭脳(マインド)、知性、意志そのものが苦しみや悲しみを産むと言うことはできませんが、本来の用途から外れた形でこれが使用されると、結果は同じになります。イメージ、誤った結論、硬直、一般化といったみなさんの力を弱めるものが創造された責任はすべて、みなさんの頭(マインド)にあります。だからこそ、今度はその頭(マインド)という同じ道具を使って、これらを取り除かねばなりません。そのためには、こうした偽りの構造がどのようにして産まれたかについて、表面的な部分だけにとどまらず、深く、完全に理解することが必要です。

 多くの宗教も人間の頭(マインド)の働きが持つ危険性に気づいています。こうした宗教はどれも、この部分や意志の機能を取り除こうとしますが、これではうまくいきません。いつも述べていますが、私の言葉を鵜呑みにしようとせず、自分でよく考えてください。そうすれば、本当にそうだということがわかるはずです。たとえば、厳しい訓練と自制によって、頭の働き(マインド)を人為的に自分から切り離すことができたとします。すると、何が起きると思いますか?その人は自分の中に存在するものを無理に抑圧しているため、これまでの訓練で培った方法では手に負えないような危機に直面すると、結局、その押さえつけていたものが再び表面に浮上してくるのです。このような訓練のポイントはただ、奥底に残っているはずの何かからどれだけうまく目をそらすことができるかどうか、でしかありません。だからこそ、好ましくない思考、感情、態度をなくすことで「頭の働き(マインド)」を自分から切り離してしまおうとする訓練は、極めて人為的であり、人々に真の解放をもたらすことはありません。本当の自由を目指す人にはネガティブブな状況を恐れる必要はありませんし、そのための無理な自制や訓練も不要です。今そこにあるものだけで、すべては済むからです。論理はとてもシンプルです。望ましくないものをなくすための唯一の方法は、その存在を理解し、知り、正直に認めることなのです。

 勘違いしないでください。頭の働きをすべてなくしなさい、と言っているのではありません。頭脳がなければ、馬鹿な人間になってしまいます。この世界に生きている以上、みなさんには頭(マインド)の働きが不可欠です。ただし、これをネガティブネガティブな形、つまり成長の妨げになったり、悲しみと混乱の直接の原因を生み、真の自己の創造的プロセスを邪魔したりするような方法で使用することだけは絶対にやめてください。みなさんの多くは、クリエイティブ・アートの中だけでなく、深遠な愛や思い、人生に対する新たなアプローチが自分の奥底から沸き上がって来たときにも、これを経験していることでしょう。こうした動きは、別の領域から生じたものです。このような動きが生じたときの自分自身を詳しく観察してみれば、自分がもう一つ別の脳を持っている、感情や反応の中枢を持っている、というような感覚を覚えるはずです。始めのうちは、こうした経験も少ないと思いますが、自身に対する理解が深まるにつれて、次第にそれが起きる頻度も増え、経験の時間も長くなります。この経験を人為的に、故意に再現しようとしてはなりません。実際問題として、絶対にうまくはいきません。そうしようとした瞬間、みなさんは再び、頭(マインド)と意志という道具を、本来正しく機能しない領域で使っていることになるからです。

 思考には二つの種類 ― 表層的な部分の知性が司るものと、より深い部分にある真の自己が司るもの ― があります。知性の部分は、意志によって方向性を定めたり、操作したり、支配したりできますが、真の自己に対してはそれができません。そして、この「真の自己」のほうが「知性」よりもさらに知的で、確実で、信頼が置けます。真の自己は常に建設的でもあります。みなさんには選択する必要さえありません。真の自己は、常に「そこ」にある唯一無二の存在で、疑問や疑念も一切持っていません。疑問や疑念はすべて、表層的な部分の知性の一部です。真の自己とは、たまたま現在の状態に置かれることになった自分自身を理解し、受け入れることを通じて、みなさんの中に産み出された結果であり、創造物なのです。自分の現在の状況に関する真実を受け入れていけば、真の自己もその姿を現すことができます。

 真の自己に固有の資質の一つに、人生における一つひとつの側面や経験に対して常に新しい形で反応する、というものがあります。真の自己は、過去による支配を受けません。それゆえ、子どもと同じように一つひとつの経験が新鮮であり、痛烈でもあります。ところが、何かの経験が起きたときに、印象を受けやすいみなさんの頭(マインド)がそこにイメージを作り出してしまうと、その一度きりの経験は、一般化された法則というものへと変えられ、完全に凝り固まってしまいます。すると、みなさんの中にあるはずの新しいものを経験する能力は、過去の経験に縛られることで縮小します。新鮮さが失われ、時には真実さえもが損なわれます。というのも、現在と過去に類似点はないからです。いえ、もしもみなさんがイメージによって過去という名の存在を形作らなければ、過去は存在しないとさえ言えます。

 おそらくこれで、これまでに私たちが何を検証し、何についてワークしてきたのかが、みなさんにもさらにはっきりとしたことと思います。みなさんの意識と無意識内に深く刻み込まれている過去の経験を消し、頭(マインド)の持つ限定的で間違った構造から自由になるための唯一の方法は、そうした存在に気づき、しっかりと見つめ、できるだけ広く深く理解することです。本当の自分とは違う「あるべき姿」を必死に追い求める気持ちを捨て去り、真に正直になり、進んで自分自身と対峙することによって、初めてこれが可能となります。繰り返します。「何々すべきだ」と自分に言っている限り、これは絶対にできません。自分で創り上げた道徳に従って自らを縛りつけている間は ― それはしばしば微妙だったり、わかりづらかったり、目には見えない形だったりしますが ― みなさんの人生に悲しみを引き起こす原因を理解することができません。悲しみは、いつも自ら創り出しています。悲しみが外側からやって来ることはありません。どれほどそのように思えたとしても、絶対に違います。

 多くの場合、人々は「いる」状態の出発点に向かって、「なる」段階の二番目のサイクルに入る用意ができていますが、頭(マインド)、知性、外的意志を過度に重視し、その考えに故意にしがみつくことで、有機的な成長を拒みます。こうした人々は意志を抑制し、思考を操作し、感情を厳しく調教すれば、自分が成長できる、真の自己を経験することができると思い込んでいます。そして、一時だけの、かりそめの平和を手に入れると、自分は正しい道を歩んでいる、と簡単に信じてしまいますが、結局は内部でくすぶっている真実がこの偽りの平和を破壊し、再び失望を味わうのです。

理想像に向かって ― まだそこまで内面の準備が整っていない「望ましい姿」を目指して ― 生きようとする気持ちを手放しさえすれば、知性と意志という道具の使い道を誤り、さらに多くの障害物を作り出してしまうようなこともありません。自分が本当に感じる何かよりも概念を大事にしてしまう姿勢を捨てることができれば、真の自己という宝石の輝きを曇らせることもないはずです。みなさんは、知性と意志がないと不安だという理由で、この道具を手放そうとはしません。外から与えられるルール、決まりごと、概念、理想がないと、自分自身を信じることができません。何が正しく何が悪いのかを知らないまま、みなさんは無意識のうちに、自分で押しつけた「基準」をいつまでも捨て去ることができないでいます。ありのままの自分自身を見つめさえすれば、何も恐れることはないにもかかわらず、その事実を無視しています。自分自身を見つめるためには、まずは、その上に「かぶさるもの」の存在を認め、次に「なぜ、それが存在するのか」という理由を確定する必要があります。そうすれば、そこに「安心を求める気持ち」が介在していることがわかるはずです。この安全性にしがみついてばかりいると、真の自己を引き出すことはできません。今、私が述べたことを順に行っていけば、成長が妨げられることもありません。みなさんは生まれたときから、霊的に成長する準備ができているのです。

 ただし、外的意志や知性を過度に重視する気持ちを無理やり切り捨てようとしてはなりません。自分の中に何があるのかを見つめ、それを理解し、変な道徳を押しつける代わりに、ありのままの自分を受け入れてください。知性や意志という道具をないがしろにしろ、と言っているのではありません。常に新しく生まれ変わり、何かを生み出すプロセスがもたらされ、真の自己だけが生むことのできる創造的自発性を直に経験するために、そうした道具を間接的な形で活用するのです。

 自分の内側にあるものが、外から借りてきた基準とほとんど変わらないように見えることもあるでしょう。ですが、この二つはまったく違います。あなた方の中から自然にわき出てくるものだけが、真の価値を持っています。そしてあなた方に、他から借りてきた観念、知性の働きが生み出した概念を捨て去る準備ができておらず、そのために裸の自分を見る心構えがないと、破壊的な力を持つパターンやイメージの奥に存在するもの ― 純粋に自分自身の中だけにあるもの ― を見つけることもできません。「概念」がどれほど真実に思えても、たとえそれを真実として経験したことがあったとしても、その経験の信憑性は、思考と行動が機械的に繰り返されることによって、簡単に失われてしまいます。

 今、ここで述べていることはいにしえの叡智の一部です。これまでにも、このいにしえの叡智については多くを語ってきましたが、ほとんどが本当の意味で理解はされていません。だからこそ、こうして違う言葉を使いながら、みなさんに繰り返し伝えようとしているのです。今、みなさんの多くが近づきつつある局面は、今晩私がお話ししたことのすべてに気づくことをみなさんに求めています。

 では、質問に移りましょう。

 質問:自分自身についてワークを続けている間に気づいたのですが、私は自分のすることに対して自らを正当化しなければならないために、同時に、自分の行動について自らを責めています。これは防衛が働いているためで、私の中にある間違った結論やイメージとも関係があると気づきました。今、私は感情的な混乱状態にありますが、これについても頭で理解しようとしています。この自己正当化と自己非難の問題の対処法について、アドバイスをいただけないでしょうか?

 答え:自分を正当化していることに気づいたら、その理由を自分に問うことです。いらないものをわざわざ正当化する人がいるでしょうか?必要だと感じるからこそ、自分を責め、判断し、道徳を説きます。自分に道徳を説くということはつまり、必ず自分自身を何かしらの形で正当化してもいます。それから、何を責めているのか、どうして責めるのかと、はっきりと自分に聞くことです。そうすれば、自身の内なる知識とは関係なく、社会や環境がそうするからあなたも自分を責めている、ということがすぐにわかることでしょう。すると今度は、「そうした傾向をなくしたい」と願うようになるかもしれません。非難することから離れられれば ― さまざまな理由から ― もっと建設的で満ち足りた人生を送ることができるはずだ、と感じるからです。ですが、その内なる願望に気づく前に、まずは「真の望み」と社会の意見への依存とを区別する必要があります。次に、あなたが完全に自分を開くことを邪魔している問題を解決するためには、まず、その問題を受け入れ、理解しなければなりません。もちろん、これも自分自身を正当化したり非難したりすることをやめることで、初めて可能になります。この点については何度も触れているのですが、みなさんはすぐに忘れてしまいますね。 正と誤、善と悪を求める姿勢で問題に向かっていては、その経験の持つ真実を見つけることはできません。

 問題をなくしたいと願うことで、自己正当化や自己非難が自動的に生じるというわけではありません。あなたが自分の理想や自ら押しつけた基準に従って生きたいと願うときにだけ、そうしたものが生まれるのです。あなたは現在の自分の状態を受け入れることができず、「自分は何か別のものだ」と思っています。そうして本来の自分から逃げているから、問題から抜け出すこともできません。問題も自分の一部として受け入れることができたときに初めて、あなたはそこから解放されます。問題を完全に受け入れれば、自分を正当化したり、責めたりすることも二度とありません。そのときのあなたはすでに、理想を手放し、自ら押しつけた基準を捨て去っているからです。

 誰かが何かを望んでいるとします。もしも、その人が他から借り入れた基準や先入観などに左右されずに生きているのならば、たとえその望みがすぐには叶わなくとも、自分を責めたり、正当化したりする必要はありません。たとえば、その人が何かを書きたいと思っていて、その夢が実現していないとします。このとき、そう望むことだけで、自責の念は生まれません。ですが、社会が「ものを書かない市民は罪を犯す」、「ものを書かない者は他よりも劣っている」などと言い出すと、その人はたちまちに自分を責め始め、今度は自分を何とか正当化して、その非難から逃れようとするはずです。何かしらの言い訳や説明を見つけることで、非難をかき消そうとするのです。

 いいですか、この二つをしっかりと区別してください。社会の意見に頼っている自分に気づくことです。問題を解決したいと思う理由を突き止め、その問題を眺めてみれば、あなたがいつでも自分を責め、正当化しているという事実に気づくはずです。この気づきが深まるほど、自己非難や正当化の頻度は減ります。これが、理解するということの始まりです。自分に向かって説教をし、いつでも自分の正当性を立証しようとしていることに気づき、そんな自分への理解が深まるにつれて、こうした行為自体も、自己観察を通じて消えていきます。ただし、社会の意見に対する依存をなくさない限り、問題の解決はあり得ません。

 さまざまな概念や基準 ― あなたが存在していると思い込んでいるもの ― に沿って生きなければならない、という強迫観念によって、とても多くの不幸が引き起こされます。もしも、そうした基準の存在を知らなければ、あなたが不幸になることはありません。多くの場合、不幸は比較という行為によって生まれます。不幸は純粋な存在ではありません。簡単な例を挙げて、説明しましょう。貧しい人がいるとします。その人は飢えてはいませんが、周りの人々と比べて、物理的に持っているものが少ないわけです。このとき、もしも誰もがその貧しい人と同じだったら、その人が不幸になることはありません。ところが、実際には他の人の方が物理的に豊かなために、その人は苦しみを味わいます。では、これは本当の不幸なのでしょうか?違うでしょうか?違うとすれば、その苦しみはその人の頭(マインド)から、自分に押しつけた概念から、外から借りてきた知識から生まれたもので、その人を真の自己から引き離すものということになります。自分の不幸について、今話したような視点から見つめることを考えてもいいかもしれませんね。確かに、あなたの本当のニーズが満たされていないとしても、その不幸が自分と他人を比較することによってさらに悪化させられていることに気づくはずです。誰かと比較したい、そうしなければならないという気持ちをなくすことで、本当の望みが解放されます。そしてあなたは、さまざまな障害物の理解へ向けて、開かれていくことができるはずです。

 自ら押しつけた基準によって動かされている限り、あなたを本当に不幸にするかもしれない状況を理解することは絶対にできませんし、それが消えることもありません。恥かしさや自尊心があなたに道徳を説き、自己正当化を強いている限り、問題から抜け出すことはできません。あなたには、その問題が何なのかが理解できないからです。まずは、早く解決したいと焦らず、問題を静かに見つめることです。

 質問:私はこれまで、頭(マインド)が何かを建設するという印象を持っていたのですが、あなたのお話によると、感情がその役割を果たしているような気がしたのですが、そうですか?

 答え:どちらも、そうした役割を持っています。両方とも、建設的または非建設的な何かを作ります。どちらの場合も、本来の目的以外の形で使われると、破壊的な力を持ちます。本当の感情を隠し、頭(マインド)で霊的な状態を建設したいと考えると、そこに破壊的な力が生じます。一方、自らの歪みに気づき、その上で何かを建てるのならば、建設的な力が発生するのです。意識できる感情は、たとえそれがネガティブなものでも、破壊的になることはありません。ところが、無意識のネガティブな感情は破壊的な結果と密接に結びついています。これに対して、ポジティブな感情は建設的な結果を生み出します。頭(マインド)は物質的な何かを建造するために使われている限り、建設的な力を発揮します。なぜなら、それがマインド本来の使用目的だからです。また、ネガティブな建造物を取り去るための意図を形成するためにも、頭(マインド)の働きを利用する必要があります。頭(マインド)と感情との間には、厳格な意味での境界はありません。互いに交じり合っています。思考も感情も頭(マインド)の一部です。ですが、あなたという存在を構成する別の領域 ― 真の自己 ― は、それとはまるで異なる種類の思考と感情を創造するのです。

 質問:ヨガに関して、二つ質問があります。あなたが今晩おっしゃったことは、ヨガの言う「真実の鏡となる」ことと同じですか?それから、真実に到達するためにマインドは自らを退治する者となるべきだ、という発言とも同じなのでしょうか?

 答え:はい、同じです。ただし、この発言はよく間違って使用されます。多くの人はこの発言を「力」として利用し、無理やりに何かを押しつけたり、逆に何かを切り捨てたりするために使います。残念なことに、「退治する者」という言葉自体が、この深い誤解を表しています。この言葉の中に、誤ったプロセスが示唆されているのです。いくら退治しようとしても、本当の意味で頭(マインド)をなくすことはできません。一時的に姿が隠れるだけです。頭(マインドの働き)を完全になくすためには、理解というプロセスを通過する以外にありません。無理に壊そうとしても、混乱は絶対に消えません。その存在が一時だけ見えなくなるだけです。これに対して、強迫観念をなくし、焦ることなく、道徳的な考えを押しつけず、否定することもなく、混乱を静かに見つめるのならば、そこから抜け出るために必要な理解を望むことができます。「退治」という言葉からは脅迫、焦燥、教訓などが示唆されますが、それは本来の意味とは違います。

 みなさんは、このような現象をこれまでに経験したことがありませんか?自分の気に入らない何かに出会ったときに、じっくりと腰をすえて、その問題を取り除くようにしないと、いつか必ず、今度はまた別の形で同じ状況に出会います。ですが、状況を静かに見つめていれば、きっと問題に対する深い理解に到達します。すると徐々に、問題は本当の意味で力を失い始め、衝撃も薄くなっていきます。たとえ同じ問題が何度も現れてしまい、その度にじっくりと向き合うことができないとしても、常にこの視点を忘れずに、そうしている自分自身に気づくようにすれば、少しずつ気持ちが落ち着き、穏やかになるはずです。問題を「退治」しようとしても、このようにはなりません。「退治」は、無理やり追い払うのと同じだからです。これでは、問題を隠しているだけで、自分をだましているのと同じです。問題が消えたように思えるもしれませんが、それはみなさんがその存在に気づいていないだけです。これでは、本当の意味で問題を取り除いたことにはなりません。無理強いすることからは結局、自己欺瞞と幻想にしかたどり着きません。

 自分にとって望ましくない部分をそのまま水面に浮かべるように漂わせ、その様子を観察し、ありのままに理解する術を学ぶのです。問題を解決するには、これ以外に方法はありません。何かを力ずくで切り捨てたり、「退治」したりするほうが早いように思えるかもしれませんが、真に成長し、霊的、感情的な健康を得るための近道はどこにもありません。望ましくない部分をあるがままにして、その存在に完全に気づいていれば、必ずや深い理解があなたの元を訪れ、いつしかその存在自体も消えていくことでしょう。

 スピリチュアルな教師たちが、あなたが先ほど言っていたようなことを述べることがあります。そういった人々は、確かに真実の一部分は理解しています。ですが、真実を自ら経験し、完全に理解した者が「退治」という言葉を使うとは、私には思えません。自分自身の洞察を売り渡し、その代わりとして他人の経験を借用し、自分のものにした人々なのではないでしょうか。もちろん、翻訳者、通訳者などの他、誰かの経験を世の中に伝えようとする人が間違った言葉を使っているという可能性はあります。いずれにしろ、「退治」に代表されるような概念は、真の「いる」という状態から遠くかけ離れているだけでなく、幻想の、想像上の「いる」状態へと、あなた方を導くことさえあります。

 これまで長年にわたり、私がさまざまなアプローチを使い、色々な視点からみなさんに伝えようとしていることは、偉大なるスピリットたちがこれまでにもさまざまな形で発言してきましたし、これからもそうした話を聞くことがあるでしょう。それぞれの言葉は違うかもしれませんが、伝えようとしているエッセンスはみな同じです。たとえば、イエス・キリストは悪に抵抗してはならない、と語りましたが、彼の言わんとしたことはこういうことです。「悪や混乱や歪みに抵抗しても、それは地下に潜るだけです。悪や混乱や歪みに抵抗しなければ、あなたはそれに気づくことができます。あなたはいつしか謙虚になり、本当の自分以上の何かになろうとするのを止めます。悪から抜け出て、真の自己へと生まれ変わるための基本的な必要条件を手にすることができます。切り捨て、無理強い、退治、懲戒的行為といったものはすべて抵抗と同じです。自分を判断しているとき、あなたは抵抗しています。自分を正当化しているときも、あなたは抵抗しているのです」

 質問: では、どうしたら、正しく自制できるのですか?

 答え:今晩話したことはもちろん、過去のレクチャーで伝えたことのすべてが、その答えになっていると思います。私が繰り返し触れていることの一つに、自らを律する懲戒的行為は「力」であり、自己を知ることからみなさんを遠くへ追いやってしまうという点があります。自分の望む姿を探すのではなく、ありのままの自分を見つめるという意図を持つことによって、あなた方は自己知識に至ることができます。自制という言葉には、強要、抑制、弾圧、強硬措置といった意味が含まれています。これらはすべて、理想化された自己像を強化するための近道であり、方法であり、幻想なのです。

 今日のレクチャーで述べたように、知性も意志も自制も、外的行動や物理的な意味での人生、または破壊的衝動の出現を抑制するためには必要です。ですが、みなさんが成長し、「いる」という状態に至るためには、自制はまったく役に立たないばかりか、とても有害な存在となります。思考や感情は、制限を受けることで別のものに無理やり変えられます。本当の自分を見つめようと何度も意図することは、自制とは違います。このような意図は、みなさんがこれから先も従っていくべきものです。意志は、「本当の自分を知る」という目的の下で使われている限りは建設的かつ現実的で、善い存在です。「本当の自分とは違う何か」になるために使われる意志が、現実的であるはずがありません。道徳を押しつけたり、責めたり、嫌ったり、無理に正当化したりせずに、ありのままの自分を静かに見つめていれば、自制することもありません。そこにあるものを、ただ見つめるのです。理解できましたか?

 質問:どうして自制心を持たずに生きることができるのでしょうか?その点がよくわかりません。

 答え:それはまた別の話です。これまでのレクチャーでもそうでしたが、今晩もその点についてはとてもはっきりと伝えたつもりですから、あなたも偏見を持たずにこれまでのレクチャーを静かに読み直せば、私が何を言おうとしているのかがわかることでしょう。確かに、未熟な魂は破壊的衝動を数多く持っていますし、それをチェックできるのは自制心だけです。ですが、今はそのことではなく、内面生活について話をしています。みなさんが成長し、未熟な魂が持つ非常に破壊的な衝動から解放されることについて、真の自己と愛の誕生について、私は話しているのです。自制心や意志の働きによって愛が生まれると思いますか?自制することで創造的プロセスが可能になると思いますか?自制すれば善い人間になれると思いますか?そんなはずはありませんね。私の言わんとしていることが、少し理解できたでしょうか?

 質問:自制にはさまざまな形があると思いますが、私が思っているものと、あなたが言おうとしているものとは違います。私が言いたいのはチャネリングです。

 答え:どういう意味ですか?

 質問:感情の流れを変える(ある方向に向ける)ということです。

 答え: 自分の感情の流れを変える、つまり感情の働きに介入し、何らかの水路を開くとき、あなたは頭(マインド)で決めた事に従って感情が流れ出ることを期待し、その通りに動くようにと、感情に無理強いをします。それが純粋な行為だと思いますか?それで本当に真実にたどり着くことができると考えているのですか?自分を守るガードを外し、感情に「こう流れなさい」と命令したりせず、方向付けしなければ、感情はそのまま自然に流れ出します。その結果に対して、あなたはがっかりすることと思います。感情を制することで理想の感情の状態が生まれ、自分を律することで「なりたい自分」になることができる、と考えているからです。ですが、その「なりたい自分」は「本当のあなた」ではありません。真に変わることができれば、流れを変える必要もなくなります。たとえば、あなたの感情も建設的な形で自然に流れ出します。感情を自分の意のままに導こうとするのは、あなたが自分の感情を信頼していないからです。確かに、あなたの感情は未熟なのですから、そう思ってしまうのも当然です。ですが、あなたが感情の流れを変え、介入することで、感情が成熟することができると思いますか?他の有機体にも、成長しようとする身体にも、同じように介入し、無理に導こうとしますか?もしもそうならば、あなたはその成長を止めることになります。感情にも、これと同じことが言えます。自制することで、あなたの感情は行儀良く振舞うかもしれませんが、それでは未熟な段階を卒業したことにはなりません。

 この点については、これまでに充分すぎるほど話をしましたので、ここでもう一度繰り返す必要はないと思いますが、一点だけ付け加えます。感情の流れを変え、無理やりに導くことは、操作されたネガティブな感情を生みます。感情を完全に自由にすることによって初めて、みなさんはその本来の姿を理解します。この理解を通じてこそ、感情を真に変容することも可能となります。みなさんの感情は元来建設的なのですが、それがネガティブな形に歪められていることを理解しなければ、その本当の姿にたどり着くこともできません。感情に、そして自分自身に外から介入して、自由になれるはずはありません。個性や自己を大切にすること(selfhood)が「自由」なのです。自制し、介入し、無理に導くことは、自由から遠く離れた行為です。

 質問:「いる」という状態に入ると、その人は真の自己になり、ポジティブポジティブなレベルですべてがうまく機能し、深いレベルに神経症的な傾向があることを発見します。すると、真の自己さえもが消えていくような気がします。この状態にあるとき、どうしてその人は創造的行為を求めなくなるのでしょうか?

 答え:創造性は真の自己から生じます。完全に真の自己になるためには、大変多くの理解と観察が必要です。ですが、この理解と観察は、みなさんの中に深く染みついた、隠れる、道徳を押しつける、正当化する、という習慣によって、常に邪魔されています。時にはうまくいくこともあるかもしれませんが、すぐにすべてを忘れ、次に問題に出会ったときには、以前と同じように、それを無理に鎮圧し、判断し、本当の姿を見ないようにしてしまいます。

 これを克服するのは難しいことですが、さまざまな先入観や偏見から完全に離れて、すべてをありのままに見つめ、理解しようとする習慣を身につけるためには、この点についてしっかりと自覚しなければなりません。またおそらくは、過去に真の自己を経験したからその存在を当然なものと考え、それは以前と同じように自分の中にあるのだから、何とかしてもう一度手に入れたい、と懸命に努力してしまうかもしれません。ですが、努力というのは、真の自己をもたらすのとは正反対の行為です。たとえまったく同じ行為を繰り返したとしても、過去の経験を完全に複製することはできません。それを求めるあなたの姿勢が、抑圧から解放され、ジャッジすることなくあるがままを見たいという気持ちをもって、焦らずにじっくりと向かう態度だけが、過去の経験を新調するができるのです。

 あなたの真の自己は、無理に押しつけられた偽の層によって覆われています。あなたはきっとその覆いの一部を剥ぎ取り始め、安定期にたどり着いたのかもしれませんが、また別の覆いがあなたの前に迫ってきています。そこを突破するために、あなたはまた最初から始め、これまでと同じプロセスを通過しなければなりません。こうして、真の自己を何回か経験するうちに、あなたには大いなる力が備わります。ですが、その力がいつまでもあるとは思わないでください。そうした期待は、大変にネガティブな結果を招くからです。

 質問:クリエイティブ・ワークに従事していたのに、突然にそれができなくなってしまった場合は、どうなのでしょう?

 答え:それは、あなたの中に自分でも完全に把握できていない障害物が残っているからです。前に真の自己の経験を獲得したとき、あなたはきっと、そうすることを期待はしていなかったはずです。それは知らないうちに現れました。あなたは一切の手も加えませんでした。そのときにあなたが取った態度は、まさに適切なものだったのです。ですが、その態度をなくしてしまうと、純粋な経験もまた損なわれてしまいます。そして後に残るのは、過去の経験の再来を期待して無理やり努力するという、真の自己の経験とはかけ離れたものだけです。

 質問:先ほど「基準を押しつける」ことについて触れていましたが、子どもの教育はどうしたらいいのでしょうか?幼い子どもに教える基準はすべて、「押しつける」ことになってしまうと思うのですが。

 答え:そうですね、その質問に答えるには、また別の機会を設ける必要がありますし、とても長い話になります。ここで一つだけ言えるのは、あなた方の教育はひどく間違っている、ということです。ですが、このレクチャーで伝えているような「教え」に従いさえすれば、とても建設的な教育も可能になります。自分を知り、理解し、そこで得たものと正直に向き合う姿勢を子どもたちの中から掘り起こすことができれば、破壊的衝動を好き勝手にさせてしまうのか、それとも、正しい振る舞いのために霊的な真実を幽閉してしまうのか、といういずれにしても不満足な結果しかもたらさない二つの選択肢の間で悩むこともなくなります。真実と対峙して内面を発達させることを幼い頃から始められるように、子どもたちを後押ししてあげることもできます。そうすれば、借り物の、押しつけられた基準は、自らの振る舞いを建設的行為にすることができない人々だけのものとなります。

 あなた方のしている教育は、現時点で到達できるはずの状態よりもはるかに下のレベルにあるため、道徳という名の法が鞭や牢獄のような強い影響力を発揮しています。その結果として、愛のスピリットの命が育まれることもできません。人類が教育システムを変えるには、もうしばらく時間が必要だと思いますが、何かが始まりつつあるのも確かです。おそらく、最初は個々の家庭や一人ひとりの教師のレベルの話かもしれませんが、この変化は徐々に普及するはずです。そのときまで、もっと多くの人々が、何かのふりをするのではなく、本当の自分を見つけねばなりません。混乱、痛み、苦しみを取り除くには、これしか方法がありません。そうして初めて、神が現れることができます。光、愛、喜びはすべて真実から生じます。真実はあなた方から遠く離れたものではありません。今もまさに、あなた方の中に存在しているのです。

 みなさんに祝福を与えます。私の言葉がみなさんの中に浸透しますように。たとえその影響が小さくとも、それは必ずやみなさんにとって大きな力になることでしょう。私の言葉について考え、そこから伝わるものをしっかりと感じてください。私が伝えたものを追い求めていけば、それを真実として受け止めることができるはずです。「これまでもずっとそうしてきたから」、「私はまだ、ありのままの自分に気づこうともがいている途中だから」というだけの理由で、みなさんは何かしらの思考に必死にしがみついています。そこから離れてください。そうした態度からは争いしか生まれません。みなさんに祝福がありますように。平和に包まれ、神の中にありますように。


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