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Pathwork in Japan
No.107 愛することを妨げる三つの様相
Pathwork Guide Lecture No. 107
1996年版
1962年10月12日
愛することを妨げる三つの様相
THREE ASPECTS THAT PREVENT LOVING
親愛なる友人の皆さん、こんにちは。皆さんに神の祝福を。この時間もまた祝福されています。
私が祝福をする時、その言葉はあなたにとってどのような意味を持ちますか?もしかすると、現実味がなく意味もない、単なる言葉として聞こえていますか?しかし友よ、祝福は紛れもない現実です。あなたが自由で、あらゆる障壁、つまりあなたが感じ、生き、最大限に人生を経験することを妨げる全ての層から本当に自由ならば、これらの祝福はあなたにとって現実のものとなります。あなたは光と自由の世界、調和と真実の世界、愛の世界から、あなた方一人ひとりへと流れるその愛の流れを感じるでしょう。しかし多くの場合、この愛の流れはあなたに届き、内側に浸透することができません。あなたがそれを知覚して経験できないのは、そのような知覚を司る筈の感覚が、恐れ、恥、切迫した願望、防御によって鈍っているからです。これらは全て、誤り、混乱、誤解に基づいています。
このことについて、どれ程話し合ってきたことでしょう!しかし、あなたは私の言葉をただ耳に入れるだけで、それを本当に理解し、経験することがあまりにも少ないのです。あなたが自らの内にその特定の真実を見つけた時にのみ、言葉は現実となります。そして友よ、これは知的な推論や発見によって成し遂げられるものではありません。あなたが自らの感情を感じ、それを通して生きることを自らに許し、人生を通して抱えてきた具体的な誤認を見つけることによってのみ成し遂げられます。自らの非真実に気づくことは、外側からもたらされる愛の流れと、内側にある愛の流れに、あなた自身がより近づくことを可能にします。
一人ひとりの内には、愛と叡智の源泉があります。それは、あなたの奥深くにある宝であり、それに近づくことを妨げるあらゆる側面を自覚した時にのみ、その姿は現れます。あなたは、真実やガイダンス、問題解決の糸口を自分自身の外に求めることに慣れています。おそらく、賢明な教えや、誰かの助けを通して。しかし、最も信頼できる現実的な答えは、あなた自身の内側にあります。その源泉を開くには外側の助けは必要ですが、その助けがあなたを内なる源へと導くものでなければ、それは何の役にも立ちません。
この自己対峙の道とは別に、源泉を開く助けとなる別な方法はあるでしょうか?はい、あります。外的かつ内的に穏やかさを求めましょう。叡智や愛の源泉を覆い隠す内なる雑音をはっきりと認識する為、穏やかになれるように毎日瞑想を行なってください。このような瞑想は、内なる雑音を簡潔な思考に置き換え、切迫したニーズで他者への現実的な認識を曇らせることを止め、最終的には賢明なガイダンスの源泉から、温かい愛と慈しみの感情、理解を引き出すでしょう。
恐れ、恥、防御、切迫したニーズ等の雑音に耳を貸さずに迂回して、直接静けさの泉へ向かおうとしても、内なる宝物に本当に達することはないでしょう。そうしようと思うかもしれませんが、それは現実にはなりません。一時的に存在する障壁や雑音は、リラックスしてオープンな状態で認められ、そこから意味が見出される必要があります。友よ、それが方法です。穏やかさを保つことへの障壁の意味を見極める為に、日々の静寂の時間を設けることは、あなたを大いに助けるでしょう。この習慣は決して怠ってはなりません。
障壁がいかに有害かについては、以前お話ししました。当時は、自己に重点が置かれており、他者との関係については焦点を当てませんでした。しかし、あなたも良くご存知のように、不幸や混乱は常に、他者との折り合いの難しさに結びついています。従って、あなたがパスワークでの取り組みで得た自己認識を、これから、他者との関係にも当てはめて考えてみましょう。
他者への反応を冷静に観察すると、ぎゅっと閉じていくような内的緊張を、非常に強く認識するようになる筈です。このことは、あなたが何の制限も受けずに自由に、率直に、他者と出会うことを妨げます。そうしてあなたは、相手を捕まえたり、性急に要求したりせずに、ただ手を差し伸べるということができなくなります。恐れなしに与えることができなくなるのです。あなたの行う様々な活動がどれ程の価値あるものであろうと、愛を持って他者に出会うつもりにならない限り、人生は本当に充実したものにはなり得ません。恐れは常にこう言います。「だが、そのように温かく愛情深い感情につけこむ人だっているだろう?自分を守らず、感情を感じることを自らに許せば、私は苦しむことになるだろう。」確かに、非真実の層で厚く覆われていると、あなたの内なる泉、その賢明なガイダンス、頼りになる直感はその役目を果たせません。感情を抑え込むことで更に厚く覆ってしまうと、内なる真実の泉は開かれません。ですから、意識的な理解によってこの泉を覆い隠す層を貫いて、その救済策を求めなくてはなりません。
真実の泉を阻む、自らのブロックの理解に基づいた他者との深いコミュニケーションなしには、あなたは孤立します。幸せにはなり得ません。私たちは、他者との深いコミュニケーションを阻む様々な側面については議論してきました。次にここで、更により深く理解すべき三つの様相についてお話しましょう。それらは、愛することへの内なるNOを生み出すからです。お察しの通り、この内なるNOは、苦しみへの恐れ、傷つき、失望のみによってもたらされる訳ではありません。
これらの考慮すべき三つの様相はある程度、ほぼ全ての人間に見られます。しかし、三つの様相の内ひとつが優勢で、他のふたつはそれ程重要ではない場合もあるかもしれません。例え、自分には当てはまらないと感じても、自分自身を見つめ直し、感情的な反応を注意深く観察してみてください。それらの反応を解釈してみると、これら三つの様相のどれかひとつ、あるいは三つ全てが、程度の差こそあれ、自らの内に存在していると気づくでしょう。
第一の様相は、自然な感情を感じることを自らに許すと、やりたくないことを強いられるのではないかという恐れです。そうしたくない時に犠牲を払わなくてはならない、あるいは不利、又は不都合な時に屈服することになるかもしれないと恐れます。あなたは他者からの過剰で、おそらく子供じみてさえいる要求から自分自身を守るには、自然な感情を抑え込み、内から流れ出す愛の流れを断ち切らねばと信じています。
逆に言えば、この自然な感情を自らに許せば、屈服せざるを得ないだろうと考えているのです。他の選択肢は見えません。従って、このふたつの選択肢しか見ないことで、あなたは感情的な成長という有機的なプロセスを弱め、精神生活や他者との関係性に深刻な影響を与えながら、最も否定的で破壊的な方法で自らの感情を操作します。そのような悪影響をふたつ挙げます。ひとつは、愛することを意図的に禁じたことへの根深い罪悪感、もうひとつは、それに伴う自信と自尊心の欠如です。愛さないことの償いとして、人は他者の為に通常よりも遥かに多くのこと行い、その結果、実際に利用されてしまいます。あなたが行うことは、愛なしに行われており、それは愛を出し惜しみした代償であり、その行為では罪悪感を取り除くことはできません。
これは誤った結論に基づいた、偽りの非現実的な手段をもって避けようとしていた状況そのものに、結局は陥ってしまうことの証明です。罪悪感、愛する代わりに自らが強迫的に行っている行為に対する憤り、自尊心の欠如等、真の感情がトラブルを招くという誤解から生じるあらゆる感情は混乱を生み出し、親密な人間関係を築くことを困難にします。常に否定的な形で関わり続けるか、あるいは引きこもり、苦い孤独の中で生きて欲求不満を膨らませるかのどちらかです。その結果、これらは叡智、愛、直感の泉、真の内なる導きの源への障害となります。
では、真実を直視すると、状況はどのように見えるでしょうか?あらゆる要求を満たしたり、譲歩したりしなくても、愛することは十分に可能です。もしそうありたいと望むのなら、行為においては利己的であったとしても、愛し、感情を持ち続ける方が、より良いことではないだろうか?それは、愛なしにできる限りのことをするよりも遥かに良く、実際、遥かに利己心が少ないと言えるのではないだろうか?愛があれば、正誤に関わらず、利己的か利他的かに関わらず、自らの権利や願望を主張することはより容易です。愛がないと、自己主張は非常に難しくなります。何故なら、消えることのない罪悪感があなたを麻痺させてしまうか、あるいは例え異議を唱えられたとしても、それは痛みを生み出す形で表出するでしょう。愛があれば、要求に応じないことは、本当に相手を傷つけることにはなりません。従って、反対したり、従うことを拒否したりすることは、もはや脅威ではなくなります。あなたはリラックスして、容易に、問題のない方法で行なうことができます。あなたの愛する能力は、自らも愛される存在であることをあなたに感じさせてくれ、その結果、愛することと感じることへの内的NOが取り除かれたが為に、外側に向かってもNOが言えるようになるでしょう。
だからといって、本来愛が存在しない所に人工的に愛を強いるべきではありません。ご存知の通り、それは無益です。初めは、大抵殆ど隠れている、微細で微妙な流れに気づくよう努めてください。その流れの中で、あなたは本来の自然な感情から引きこもり、意図的にそれを萎縮させているかのようです。この流れに出会い、さらに認識するようになれば、それを手放すことも可能になります。愛を強いるか、自然な感情から引きこもるかという選択肢以外にも、可能性はあるという知識と理解から、人は愛を阻むことを止めるでしょう。あなたは、この上なく喜びに溢れ、強くなり、解放的な結果をもたらす新しい自由を手に入れます。
初めから温かい愛情深い感情がなければ、どのような感情があるのかを見てみましょう。あなたはこれまで話し合ってきた、否定的な感情の全てを見つけるでしょう。その感情を追い払ったり抑圧したりするのではなく、認識し理解しなくてはなりません。十分に理解すれば、温かく自然な愛の感情はやがて必ず表に出てきます。何故なら、この愛する感情はあなたの中に存在しているからです。誰かに与えてもらう必要はありません。自然な感情を経験すべきではないという単純な誤解を抱いているが為に、愛する感情はポジティブな感情の芽生えを阻む、否定的な感情の下に埋もれてしまっているのです。この誤解が明らかになっていない以上、訂正は不可能です。だからこそまず、誤解を明らかにする必要があります。何故それが誤解なのかをはっきりと理解する必要があります。そうすれば、先に進むことができます。湧き上がってくる感情の流れをあるがままに経験するならば、おそらく次のような一連の流れを経験するでしょう。誤解が、自然に湧き上がる感情の意図的な遮断を引き起こします。その結果、罪悪感、恐れ、不安、怒り、恨み、無力な憤り、譲歩し過ぎることと厳し過ぎることとの間で揺れ動く混乱が生じます。このような感情や混乱の全てを十分に経験して初めて、自らの内なる愛の現実を実際に感じられるのです。
最初は、愛は時折、弱々しく、ありふれた形でしか現れないでしょう。愛が現れる時には、それに気づき、その流れを許し、それが自分自身や周囲の人々にどれ程素晴らしい影響を及ぼすのかを見てください。例えば、あなたから注がれる愛の流れを感じると、彼らの過剰な要求はたちまち減るかもしれません。何故なら多くの場合、彼らの要求は、盲目的な無意識の愛への懇願だからです。その要求は、本当に求めているものの代償です。本物の愛が与えられると、要求は必ず弱まります。
第二の様相は次のようなものです。過去のワークから学んだように、殆どの人は象徴的に優越した世界に受け入れられ、それに属したいという願望があります。この一見優越的な世界が、無感覚で、無感動で、更には辛いものである場合、あなたは承認を求める相手から嫌われることを恐れ、ありのままの感情を敢えて感じようとはしなくなります。この優越的な世界における想像上の、あるいは現実での規範に従うのならば、拒絶しなくてはならないと思い込んでいる相手に、自然な温かい感情を抱いている場合、この恐れは特に強くなります。その状態で拒絶する場合、自分自身に与えるダメージは非常に深刻な影響を及ぼすでしょう。
しかし、周りの人々は、あなたの予想とは全く違うように感じているかもしれません。もし、あなたが外的な承認の為に、自らの最良の部分を否定したり裏切ったりしない、優しく愛情深い人であれば、おそらく彼らはあなたのことを尊敬し、好きになり、受け入れるかもしれません。彼らはこうした反応に気づいていないかもしれませんが、無意識の流れは確かに現実なので、彼らの反応はそれを証明します。自分自身でいる勇気を持ちさえすれば、真実を見出すことができます。人によっては、自己主張をする「強い」自分でいるよりも、愛情深い自分でいることの方が、勇気が必要な場合があるのです。
逆に、あなたが求める優越的な世界が、実際にあなたが考える通りの世界だと考えてみましょう。これはつまり、彼らもこの点において、あなたと同じ位未熟だということではないでしょうか?そのような未熟さを真似しても、自己尊重や人格の確信は決して生まれません。それができることは自己嫌悪と罪悪感を生み、ありのままの自分自身でいることでのみ得られる、確固たる足場を奪い去ることだけでしょう。拒絶すべきだと思われる弱い人々への愛を差し控え、真の自己を裏切って強さを装うことで、勇気と自己主張が足りなかったり、明らかな弱さを見せて屈服したりする時に感じるのと同じ自己嫌悪が生じます。この偽物の強さは、現実的かつ本質的に、従属と全く同じ位弱いものです。あなた方の内でこのカテゴリーに属す人々は、他者に承認される為に、自らの内にある最良のものを否定します。自然な温かい感情を抑え込み、人工的な強さをつくり出すことで、意図的に自己疎外のプロセスを始めるのです。
繰り返しますが、これは全て意識的ではありません。あなたはこれらの内的なプロセスに全く気づいていないかもしれませんが、自らの反応を注意深く観察すれば、私の言うことが自分自身にも当てはまることが十分に分かるでしょう。多分、あなたは既にある程度気づいていますが、このような観点から深く考えたことはないでしょう。これらの反応の意味を更に理解すれば、より包括的な視点が得られ、こうした子供じみた態度も変わります。真の自己に対して正直でいる勇気がある時、「優越的な世界」が軽蔑すべきと考える人をも愛する勇気を持つ時、「優れた世界」と「劣った世界」という区分そのものが幻想だと気づきます。この気づきはあなたを自由にし、今は想像もできない程の力を与えてくれるでしょう。
未だ自らの存在の迷宮を深く掘り下げていない人々にとって、私の言葉は突飛、あるいは馬鹿げて聞こえるかもしれません。しかし、友人の皆さんの幾人かは、これらの言葉が人生や人間についての極めて致命的な誤解を解く助けになるでしょう。
愛することへの内なるNOの第三の様相は、最初は逆説的に聞こえるかもしれません。この様相が強い人々は、充実と愛のニーズが非常に強く、それが満たされないことを特別の恐れや脅威と捉えます。彼らの「解決法」は強い強制的な流れです。言うまでもなく、この解決法は非生産的であり、破壊的でさえあります。強制的な流れは、愛を自由に与えることを禁じます。それは巧妙なやり方で、リラックスした穏やかな形で与えることに対して、内側でのNOを生み出します。それは奪い取り、要求します。そのような人々は与えたいとは思うものの、それは相手のニーズや望みを賢明かつ敏感に認めたからではなく、自らの要求を満たすために強迫的に与えるのです。従って、その贈り物は無償でもなければ、また本心からのものではありません。
このタイプの人は大抵、先に述べた感情を抑圧するタイプとは正反対です。多くの場合、このふたつのタイプは相互に対立します。「与える」ように装って要求をまかり通したとしても、相手は要求と強制的な流れに怯えて遠ざかります。
愛に飢え、それ故、拒絶されることを恐れる人は他者を見る目がありません。彼らが感じるのは自らのニーズだけです。相手を穏やかに見つめ、相手のニーズを感じとる余裕がありません。拒絶されるかもしれないと考えることは、彼らにとって耐え難い苦痛ですが、焦り過ぎるあまり自らその拒絶を招きます。拒絶が現実になると、彼らが経験するのは、自らの無価値さの確認です。彼らの歪んだ視野は、問題となる状況の正しい評価を妨げます。しかし、その敗北は無価値さとは何の関係もありません。世界や他者を価値の有無という観点だけで捉えてしまう自らの盲目さが、相手の恐れや問題と同じ位、その敗北の原因となっているのかもしれません。その後に生じる強力な強制的な流れは、恐れていた無価値さを払拭するために用いられますが、結果として彼らの最悪の恐れを裏付ける手段となってしまいます。
このカテゴリーに属する人の真の解決法は、主として三つあります。第一に、彼らは自分自身への信頼の欠如と向き合い、その本当の理由を見つけなくてはなりません。例えば、愛の欠如等を見つける必要があります。それは多くの場合、子供が愛されたいと望む時のように、愛される為に与えようとする過剰な熱意によって隠されます。第二に、歪んだ概念を見つけ、歪んでいる理由を理解しなくてはなりません。第三に、自己探求のプロセスで生じるあらゆる感情を、ありのままに経験することを自らに許さなくてはなりません。
おそらく、意識的な切迫したニーズの根底には、情や愛を求める真の感情を抑え込む理由があるのでしょう。これは非常に隠されている為、あっさりと完全否定されるかもしれません。愛されたいというニーズを感じるだけで、それを他者への真の愛情と混同してしまうのです。真の愛情は、切迫感は遥かに少なく、より穏やかな感情であり、ニーズのように自己中心的では全くありません。このような成熟した感情は確かに存在するものの、その発達は阻害されてきた為、これを意識化しなくてはなりません。欲求不満に耐えられないという子供じみた弱さの為に、繰り返し満たされないことで必要以上に傷つきます。満足を得られるようになるには、これまで説明してきた様々なステップを最後までやり通さなければなりません。
この全てには時間がかかります。更なる失望に陥るかもしれませんが、失望は今やワークを行う際に活用され、更なる自己探求の為の素晴らしい手段となります。それまでの間、人が自覚的に学べることは、魂の力を振り絞って必死にもがくのではなく、流れに身を任せるということです。抑圧や怒りなしに欲求不満に耐えられるよう自らの魂に教えることで、あなたは成熟していくでしょう。これには、振り子をよりバランスの取れた位置へと導く、癒しの効果があります。強制的な流れの過剰な活動や、激しいもがきの中から穏やかさが生まれ、それが人を実在の状態へと近づけます。
切迫感や飢餓感の原因となる全ての欲求不満の感情が、意識的にじっくりと感じられることが許され、簡潔で意味のある言葉に翻訳されねばならないことは、いくら強調しても足りません。「愛に飢えた」タイプの人々には、もうひとつ認識し、向き合わねばならない反応があります。時として、ニーズが満たされると「愛」は薄れていきます。このことは、愛だと思っていたものが愛ではなく、飢えたニーズだったという証拠となる筈です。これは確かに大きな違いです!これらの人々は、他のふたつのタイプに属する人々と同じく、他者のニーズを満たすことはできません。彼らは他者に侵害されていると感じ、距離を置きます。この事実を認識することが何より重要です。彼らはこの隠れた逆流の中で、抑圧的なタイプや優越的なタイプと同様に、警戒を解くことを恐れますが、その恐れは表面的なニーズによって覆い隠されています。彼らの目に映るのは、自らが欲しいもの、あるいは自らに起こる出来事への恐れだけで、それ以外には何も見えません。彼らはこのふたつの選択肢の間で引き裂かれ、あらゆる外的な出来事を全てニーズか、恐れかの観点からしか解釈しません。どちらの選択肢においても、現実を見ることはありません。
さて、友よ、これは皆さん一人ひとりにとっての思考の糧であり、更なるワークの素材です。敢えて言えば、殆どの人にこれら三つの様相が何らかの形で組み合わさっています。しかし、多くの人はひとつの様相が顕著であり、それは容易に確かめることができます。ここにいる人、あるいはこの文章を読んでいる人の中で、これらの様相の内のどれもがすぐに当てはまらない人はいません。これらの様相に取り組めば、必ず更なる成果が得られる筈です。このレクチャーは、そのような不合理な態度が存在する、あなたの存在のレベルに向けられています。これはあなたの理性的な思考に向けられたものではありません。
それでは友人の皆さん、質問に移りましょう。
質問:憐れみと思いやりの違いを詳しく説明して頂けますか?歳を重ね、友人の多くが苦しむ姿を見るようになった時、どのような態度を取るべきなのでしょうか?
回答:このテーマについては過去に繰り返し話してきましたが、この問題に関して更に助けになるのであれば喜んでお話ししましょう。しかし、私が理論的に正しい感情がどうあるべきか話しても、それは全く役に立たないでしょう。あなたは自らの感情を更に操作し、本当は自分のものではない態度を自らに押し付けるだけになってしまうからです。あなたはそれが健全な手段にはなり得ないと分かっています。正しいか間違っているかに関わらず、自分が本当に感じていることを認めることが重要なのです。
憐れみと思いやりの違いについて私が述べたことに加えて、ここで何故、人は思いやりという遥かに建設的な感情ではなく、憐れみを感じるのかを説明したいと思います。自らの強さと自らが与えられる助けを妨げる、憐れみという破壊的な感情に押しつぶされる時は常に、あなたは何らかの形で否定的に関わっていると確信できます。例えば、憐れみは他者が苦しんでいる運命が、自らにも起るかもしれないという恐れの投影かもしれません。あるいは、自らが気づいていない何かに対して、罪悪感を抱いているのかもしれません。
他者の不幸に、ある種の満足感を覚えるという普遍的な態度があります。これは自らが同じ運命を辿らなくて済んでいるというだけではなく、他者が罰を受け、苦難に遭っていることに対しても満足感を覚えるからです。勿論、これは全く不合理な考えですが、その態度には次のような考えが含まれています。「もし、他者も苦労しているのならば、私はそこまで辛くはない。苦しむのは私だけではないから、他者も苦しんでいるのは嬉しい。」多くの場合、このような反応はかなりのショックと罪悪感を引き起こす為、完全に抑圧され、弱々しく非生産的な憐れみによって過剰に補償されます。こうして、あなたは憐れむことで赦されたと感じます。何故なら、破壊的な形ではあっても、憐れむことで相手と共に苦しむからです。
もし、あなたが多くの未浄化な感情や、多くの子供じみた利己的で短絡的な態度を持つ人間であることを認めながら、それを非難したり、容認したり、正当化したりせずに受け入れることを学び、本物の反応を発見してそれを体験することができれば、これらの不合理な態度の背後にある誤認を理解できるようになります。そうして、あなたの真の理解の程度に応じて、誤認は徐々に消えていくでしょう。憐れみは思いやりへと変わり、行動を通して、あるいは単に真の感情を伝えることによって、苦しんでいる人々に建設的な助けを与えることが可能になるでしょう。
質問:過去に、あなたは原因と結果の密接な関係について話されました。私たちはひとつの原因が同一の結果をもたらす、因果律の世界に生きていると考えるべきなのでしょうか?
回答:勿論、これは因果律の世界です。ひとつの原因が同一の結果をもたらすかについては、同一という言葉が厳密に何を指すのかによります。一見同じ原因のように見えるものが、実際には全く同じではないこともあります。行為は同じでも、個人は違います。殺人という露骨な例を考えてみましょう。仮に、ふたりの人がまさに同じ動機で殺人を犯したとしましょう。しかし、その感情や行為に至った背景、それぞれの全体的な発達、人格、性格の特徴は異なるかもしれません。殺人を犯した後の反応も同じではないでしょう。従って、その結果は全く同一ではないかもしれません。必ずしも外的な結果ではなく、問題となっているふたりの結果という意味においてですが。
しかし、あなたがもし、この因果律のことを極めて精緻で、有機的で、無限に公正で、調和のとれたプロセスで、宇宙全体の均衡を保つ要素であり、その働きがあまりにも正確である為に、誤りや不正が不可能だという意味で言っているのであれば、その意味では、ひとつの原因は同一の結果を生み出すことになります。
因果律の世界に生きている事実を人間が受け入れることが、何故それ程に難しいのか理解するのは容易ではありません。世界とそこで起きる出来事をじっくり見つめると、常に原因と結果のある生きた現実に直面します。日々の些細な問題にも原因と結果は働いていますが、あなたはあまりにもそれに慣れ過ぎて日常生活の一部にしている為、それを当然のことだと思っています。より深い理解を得る為に必要とされる新鮮さで、原因と結果の働きを見る能力をあなたは失っています。
常に起こっていることを人間が見られるならば、同じ法則が、より広い意味でも存在する筈だと理解することは、それ程難しくはないでしょう。原因と結果とが密接である場合と、時間的に離れている場合とで、異なる法則が働くと考える人はいないでしょう。時間は関係ありません。時間はただ、原因と結果のどちらかを明らかにしてくれるだけです。人間は時に両方を見ることができ、時にどちらか一方しか見ることができません。人々が論理的に考え、この現象の究極的な結果を見れば、原因と結果のどちらも見えないからといって、原因と結果が相互依存している事実は変わらないと気づくでしょう。
自らの人生において原因と結果を十分に明らかにした時、いわゆる信仰、実際には真実の体験というべきものがもたらされます。そうなると最早、教義や仮設を重ね合わせる話ではなくなります。原因が見つからず、あなたは様々な出来事や結果に惑わされてきました。自分自身をより深く知ることで、多くの結果の原因を見出します。疑う余地のない事実として、その繋がりに気づきます。これはあなたに自由と強さを与えるだけでなく、因果関係を真の光の中で示してくれます。その結果、あなたは自らの人生であろうと、他者の人生であろうと、世界、あるいは創造物全般において、原因が分からなくても、同じ因果関係の法則が当てはまる筈だと分かるでしょう。
親愛なる友人の皆さん、この言葉が実り豊かな土壌に落ちますように。真実、愛、現実を締め出すご自身の障壁を見つける方向に、小さな一歩でも近づくことができますように。それが障壁を取り除く為の最も建設的な一歩なのです。人間の過ちは常に、障壁の存在を否定し、それに抵抗しようとすることです。しかし、それではかえって、障壁を強めるだけです。あなたはその障壁が本当は何なのか見ずに、取り除きたいのです。しかし、それが何で出来ているのかを認識し、理解すれば、それは力ずくで押し退けられないことに気づきます。それは徐々にしか解消できず、その解消の度合いは、その障壁がどの程度理解されているかによるのです。
再び、愛の温かい流れが、皆さん一人ひとりに届いています。あなたの内側を穏やかにしてください。恐れ、警戒、恥、当惑、そして感情に対する抵抗を見つけてください。そうするに従って、この流れはより深く届くでしょう。それは、あなたのハートの中に何らかの様相を送り、光と力と希望であなたを満たすでしょう。平和の内に、神の内にあれ!
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