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Pathwork in Japan
No. 108 愛さないことへの根本的な罪悪感、義務について
Pathwork Guide Lecture No. 108
1996年版
1962年11月9日
愛さないことへの根本的な罪悪感、義務について
FUNDAMENTAL GUILT FOR NOT LOVING -- OBLIGATION
親愛なる友人の皆さん、こんにちは。皆さん一人ひとりに神の祝福を。この時間は祝福されています。昔からの友人達も、新たな友人達も、皆さん全員、同じように歓迎します。今宵が、皆さんに新たな力、人生や問題への新たな洞察を与え、進む道を示してくれますように。もし希望がないのであれば光の兆しが与えられ、もし弱っているならば新たな力が流れ込みますように。
宇宙は無限に拡張しています。あらゆる宇宙の力、つまり生命力は、拡張、成長、統一性、統合に向かって働いています。個々の存在は、それ自体がひとつの宇宙であり、成長して外へと向かうこの動きに従います。これらの力が乱されたり、本来のチャネルから放り出されたりすると、愛は普及できません。あらゆる宗教では常に、愛こそが人生の鍵であると教えられてきました。愛がなければ、重要なものなど何もないのです。
私達は、共に歩むこの道において、単にこの真実を教える以上のことをしてきました。宇宙の力と調和し、拡張と統一性へと向かおうとするあなたを、どのような誤解や逸脱が阻むのか、私達は共に理解しようと努めてきました。地球上のあなたの世界には、確かに問題があります。現代においては更に、肉体的な生存の苦闘だけではなく、魂の生存の苦闘によって人生が困難となります。この世界は、少なかれ魂の力が乱れている人々で溢れています。その乱れが大きければ人々は精神病と呼ばれ、小さければ神経症と呼ばれます。言葉は重要ではありません。用語は時代と共に変化しますが、根本的な原因は常に同じです。宇宙の内なる力が全体的に流れないのは、人々が敢えて愛さず、この内的な力が自然で有機的な形で自由に成長するのを許さないからです。
人類全体にとってその結果は、衝突、不安、動揺、平和の欠如です。個人であっても、同じことが言えます。多くの場合、人は肉体的な病気になります。人間関係や仕事でも、問題を抱えます。人生に対処できず、あらゆる解決策を模索しますが、真の原因、ひいては真の治療法を見つけることは滅多にありません。深く染み渡る罪悪感が、彼らの魂を蝕んでいます。これは、精神の表層でくすぶる、より具体的で不当な罪悪感とは、異なる種類の罪の意識であることが多いのです。
これらの些細で不当な罪悪感は、引きこもり、愛さないこと、孤立といった真の罪悪感の代用です。言い換えれば、これらの小さな罪悪感は、偉大な宇宙の内なる力に逆らい、いわば流れを断ち切ったことへの償いとして存在するのです。この非常に根深い罪悪感が、あなたが自由を求め、自らを主張し、自分には幸せになる価値があると感じることを妨げます。友よ、幸せに値しないと感じる時は常に、自らが何処で、どのように、愛さないのかを具体的に見つけ出す必要があります。本来なら、普遍的な愛の流れに自由に漂って流れるべき時に、あなたのプライド、身勝手さ、恐れ、分離、些細な自己満足、臆病さは、あなたを孤立の壁で囲んでしまいます。そこから生じる悲惨は、愛が存在しない領域における外的な空虚さだけでなく、それ以上に、それに対する深く隠された罪悪感に起因します。この特定の罪悪感を見つけることは容易ではありませんが、見つけたいと本当に願うならば見つけられます。この罪悪感を見つけ、検証し、認め、経験しない限り、イメージや誤認等の他のワークは、あなたにとって本当の助けにはならないでしょう。
私達はこれまで、ディフェンスの害について幾度となく話してきました。それは、自分自身や他者に対する独善的で道徳的な態度の害です。文字通りには遵守されながらも、霊性に沿って守られることは稀な、硬直した基準となる完璧主義の害です。これらはしばしば、喜びを否定する厳格な禁欲生活へと繋がります。何故、そのようなディフェンスが存在するのでしょうか?それは、問題を抱えた精神は解決策を求めますが、意識的マインドがそのメッセージを誤解するからです。精神は次のように言います。「愛することへのディフェンスを手放して!自分自身を孤立させないで!感情をケチらないで!あなたは間違っている。人生の根源的な法則に背いている。それを償って、変化して、愛する人間になりなさい。」意識的マインドは、このメッセージを正しくは解釈できず、「正解で」「良く」「正しく」あろうと苦闘します。しかし、愛のない正しさに何の意味があるでしょうか?何の意味もありません。代償や贖罪としての完璧主義には愛がなく、孤立しているので、実際には真逆の結果をもたらします。それは、他者を重視するのではなく、自分自身、そして他者の目に自らがどう映るのかということばかりを重視します。従って、魂は混乱と動揺、不安と罪悪感に益々深く囚われるのです。このような偽りの解決策は自己疎外を助長するばかりで、そのメッセージの解釈を更に難しくします。
このプロセスと、愛さないことと、外へと向かう宇宙の流れを乱すことへの根深い罪悪感が、どのように結びついているかの全体像をここで理解する必要があります。私達が共に取り組むワークは、最終的にはそこへと導くものです。そうすれば道、あるいは上へ向かう道が始まります。あなた自身の中に存在する、愛することへのこの特定の禁忌に気づくまで、魂の探求と発見は多くの場合、下へ向かう道を辿るように思えるでしょう。時折の勝利にも関わらず、多くの場合、道は絶望的に見えます。そして、あなたは自問します。「この全ては、私をどこへ導くのだろうか?何の意味があるのか?どうしたら変われるのか?」例え、しばしば過度な完璧主義や「正しい」行為によって、どれ程巧みにその問いが隠されていたとしても、理論や知的なレベルではなく、実際に自らの利己的な愛からの引きこもりにようやく気づいた時に初めて、あなたは自分自身と向き合うことができるでしょう。そうすれば、償いをすることもできます。本当に建設的な方法で償うことで、この点において変化し始めることができます。どのように?本当にそれを望めばきっと分かるでしょう。あなたは、この内なる罪悪感を償わねばなりません。それは多くの場合、根拠のない小さな罪悪感全てよりも遥かに根深く、真の罪悪感を覆い隠す為だけに働きます。自らを好きになり、尊敬し、自分自身と心地良くいられるよう、魂が健全で平和になる為には償わなくてはなりません。愛さないことへの隠された罪悪感を明らかにする意欲を掻き立てる以外には、理論的な知識は助けにはならないでしょう。
友人の皆さんは常に忘れがちなので、改めて繰り返します。行為、思考、態度は、それ自体で良し悪し、正誤が分かることは滅多にありません。それを言えるとしたら、非常に極端な行為に限られますが、そのようなケースでも、上記のレッテルを貼ることは多くの場合、誤解を招くものです。行為、思考、態度の価値は、それが愛で動機づけられたものか、あるいは分離、利己心、恐れ、プライドで動機づけられたものかを見極めることによってのみ判断できます。あなたは依然として、自己と他者を行為や外的顕現によって評価し、その背後にあるものを無視します。
二人の異なる人物において、又は同一人物であっても異なる時期においては、ある行為や態度が愛に満ちた行為となり、関係者全員にとって解放的な経験となる可能性があります。しかし、別の場合では、全く同じ行為が卑劣で人を貶める行為となることもあります。愛の行為は、他者への真の思いやり、又は霊的な課題から生じるのです。ここでは、自己は最優先事項ではありません。又、外見上はとても高潔に見える行為が、一見、卑劣に見える別な行為よりも、内面的には卑劣な場合もあり得ます。このことは、あなたに大きな混乱を招くことでしょう。他者の行為を評価するには、直感的な能力が求められます。この能力を十分に発達させるには、自らに対して正直であることを学び、自らの適切で正しい行為が、必ずしも愛によって決められている訳ではないことを学ぶしかありません。
さて、この観点から別のことを考えてみましょう。多くの場合、あなたは自らの動機が利己的で愛に欠けていると既に気づいていても、自らの行為が倫理的で道徳的だと確信しています。あなたの動機は、承認や称賛、愛されたいという願望であり、愛する為のものではないかもしれません。これらは勿論、利己的な動機です。自らの動機に気づきながらも、自らの行為には何の問題もないと確信します。しかし多くの場合、これさえも真実ではありません。時には真実であるかもしれませんが、利己的な動機があなたを利己的な行動へと駆り立てる多くの時には、あなたは全てを見ていないのです。あなたの気づきは正しい行為に向けられますが、利己的な行為の方には向けられません。利他的な行動の背後にある利己的な動機を無視したように、あなたは利己的な行為からも依然として目を逸らします。隠された利己的な動機は、それらを行動として示す(アクトアウトする)ようあなたを駆り立て、周囲に悪影響を及ぼします。罪悪感はあなたを過度に従順にさせ、他者の不当な要求に屈服させるかもしれません。これでは、相手の利己主義を強めるだけです。そうなると、あなたは混乱し、不当な要求に対していつ自己主張すべきなのか、いつ譲歩し、利他的に行動すべきなのか分からなくなります。
自分自身への正直さは最終的に、愛することを自らに禁じることで、いかに宇宙の力を乱しているのか気づくことを助けてくれます。これに気づけば、あなたは愛の為にその禁忌を手放すでしょう。あなたは変化への深い欲望を育み、内的にも外的にも変化の為の手段と方法を見出します。愛の為に、小さな恐れや不安、想像上の恥や弱さを手放します。あなたは他者への思いやりや、それ自体が良きもので、建設的であるものへの想いによって導かれます。このことは、あなたを自由に流動的にし、安心させてくれるでしょう。
友よ、これは説法ではありません。これらの言葉は、あなたの存在の奥深く隠された層、あるいは核心に向けられています。多くの場合、脳内の知識が強くなれば強くなる程、存在のより深い部分では無知になっているものです。このこと全てについて、慎重に考えてください。瞑想や自己探求の中でこの考え方を適用し、自分自身にはどの部分がどのように当てはまるのかを見つけてください。恨んでいるかもしれない相手に、これを当てはめてはいけません。その誘惑は常に大きいでしょう。しかし、自分自身の中に見るようにしてください。自らの完璧主義や小さな罪悪感に気づいたら、それら全ての背後にある、別の種類の罪悪感(PGL#49参照)を見つけるようにしましょう。
さて、ここで別のテーマ、義務についてお話ししたいと思います。自己探求を通して、多くの皆さんは生きることへの反抗を見つけました。この反抗は、様々な形をとる可能性があります。それは明らかな形で現れることもあれば、怠惰、無気力、停滞、あるいは全てが骨折り損のように感じられ、むしろ何もしない方がましだと感じる、徹底的な退屈という形で現れることもあります。
何故、人生に反抗するのでしょうか?あなたが恐れたり反抗したりするのは、不幸や痛みの為だけではありません。それも勿論、理由のひとつですが、他にも理由はあります。あなたは人生から課された義務、責任、責務に憤慨しているのです。肉体的、心理的に生き残る為の闘いには、油断のなさ、決断、自らの間違いから学ぶ意欲も必要です。自らをさらけ出し、リスクに向き合って行動せねばなりません。愛や人間関係、義務において人生に「イエス」と答えない時、あなたは自らの意志に反して人生に押し流され、引きずり込まれます。健全さを保つ為には、生きることの能動的な部分をある程度まで経験しなくてはならないのに、あなたはまるで流れに逆らうかのように反抗します。あなたはそうせざるを得ないからそれに従い、「イエス」と答えてそうする訳ではないのです。人生のあらゆる側面において人生に自ら「イエス」と答えず、人生にただ押し動かされるままでいると、あなたは人生の尊厳、壮大さ、美しさを体験することはできないでしょう。
自分自身に対しての道徳的義務を負うことを拒む時、あなたは不本意の極限まで至ります。理論的には自らの惨めさに対して責任を認めても、実際の生活においてはそこから逃れたいと願うようになるのです。やがて、人生におけるあらゆることが退屈な仕事となります。それが進行すると、食事、起床、身だしなみ、ちょっとした家事といった日常的な習慣でさえ負担になるかもしれません。そうすると大小を問わず、日々の家事を行うことにも、尊厳と自由を感じられなくなります。
あらゆることが苦難に感じられる時、あなたの中の何かが反抗しています。もしあなたが、自らの満たされなさや問題の責任を根本的に放棄し、内的にもその繋がりを見つけることを拒めば、このような疲弊感は必然的に生じます。あなたは物事が誰かによって、あなたの為にやってもらえることを望みます。決断を下すことや、生きることの重圧に耐えたくないのです。あるいは、もっと正確に言えば、通常なら刺激的な挑戦となる筈のものが負担になります。皆さん、どうすればこれを解決できますか?
改めて申し上げたいのは、心の奥底には、人生が突きつけてくる戦い、敵意ではなく良い意味での挑戦に対して、「イエス」と答えていない何かが存在するということです。この小さな声を見つけ、表に出し、その意味を受け入れてください。この声は、何も与えずに全てを受け取ろうとしたがる、貪欲な子供の声だと気づくでしょう。隠れている声を表に出して、その声にある利己主義と怠惰に気づいてください。その本質を理解し、偽りの道徳観や正当化なしに見れば、あなたは変わりたくなるでしょう。成熟した責任感には、愛と利他心も必要です。人生において責任を負うことに怠惰な抵抗をする時、あるいは、しなくてはならないという理由だけで行動する時、その愛と利他心が何処で、何故、どのように欠けているのか探してみましょう。あなたはやがて、内なる態度を変化させ、その結果、人生に逆らうのではなく人生と共に歩むようになります。親愛なる友人の皆さん、常に疲れていて無気力だったり、絶えず憂鬱や反抗の苦しみに苛まれていたりする場合、人生に対するこの極めて基本的な拒絶が、あなたにとって真実かどうかを調べてみてください。
この拒絶を発見したら、それがどんなに非合理的で理不尽な形であれ、そのまま表出することを許してください。恥じないでください。それを自らに表現し、書き留めて、ヘルパーに限りなく心を開き、自らの内にある心地の良い幻想的な理想を全て打ち明けてみましょう。もしかしたら、この声はただボンヤリと何もしないで過ごしたいだけだと言うかもしれません。何かを乗り越えたり、努力したり、人々や彼らの要求に向き合ったり、その要求が正当かどうか判断すること等はしたくないと言うでしょう。それは障害、欲求不満、批判に対処したくないのです。その声は、あなたがただ漂っていたいのだと言うでしょう。
ご存知の通り、あらゆるものに健全な側面と破壊的な側面があるように、漂っていたいという欲望にも、健全な側面と破壊的な側面があります。普遍的な愛の力に従い、人生において能動的に「イエス」と言う健全な漂いがあります。漂いの不健全な歪んだバージョンでは、ただ惰性で生きて、人生を一切担わないことを望みます。この不健全な願望を簡潔に見極め、自己欺瞞なくそれを認めることで初めて、何故それ程までにこの願望が魅力的に感じられるのかを理解し始めることができます。
理由は人それぞれと言っても過言ではないでしょうが、共通する要素も常に存在します。失敗や欠陥が露呈されることへの恐れ、つまりプライドがあります。現状以上の完璧さを求める欲望もあります。それらは自らに感じることを許さない、愛の代用品です。ここに繋がりがあります。愛するなら、それ程に完璧である必要はありません。従って、それ程までに失敗を恐れる必要はなくなります。失敗することを恐れなければ、人生はそれ程まで困難なものにはならないでしょう。多くの場合、人生をそれ程までに苦しいものにするのは、生まれ持って無意識に抱えている失敗への恐れです。そうしてここに、プライドと恐れがあるのです。あるいは、何であっても自らの意志に反する現実には耐えられないので、人生に「ノー」と言うのかもしれません。あなたは欲求不満を恐れるあまり、人生と共に進む意欲を持たないのです。ここで私たちは、愛を阻害し、魂を乱す根本的な欠点であるプライド、身勝手さ、恐れに立ち返ります。
いずれの場合も、まずは自らの感情や反応を自覚することから始めねばなりません。最初、それらはプライド、身勝手さ、恐れのどれとも、全く似ていないように見えるかもしれません。しかし、じっくりと観察し、その意義を分析すれば、常にこの三つ巴に立ち戻るでしょう。更にプロセスが進むと、この三つの態度は愛を真っ向から阻害し、愛とは正反対のものだと分かります。今それに気づいていようといまいと、それらのせいで、あなたは深い罪悪感を心に抱きます。その結果、あなたは、元々育みたいと思っていた愛よりも、共に生きるには遥かに困難な態度や行動を、自らに背負わせてしまうのです。
親愛なる友人の皆さん、人生に対しての反抗がどれ程なのか、そしてそれが人生にどのような形をとっているのか探すようにお勧めします。あなたの内奥深くで、義務を負わないことと自由を同一視している部分を見つけてください。そして、それが間違っていることを理解する為に、更に探求してください。このレクチャーをよく考察し、愛さないことの罪悪感と義務の問題というふたつの側面に、どのような共通点があるのかを理解してください。
それでは、ご質問をどうぞ。
質問:あなたが仰っているのは、人生に対する態度が正しく前向きであれば、感情も又正しく、その結果、その人の行為も自分自身と他者に利益をもたらすということですか?それは全て、この根本的な態度にかかっているということでしょうか?
回答:はい、そのことを言っています。非常に単純に聞こえるかもしれませんが、皆さんもご存知の通り、普遍的な力と調和するように、この根本的な態度を確立することは、非常に困難な道です。
質問:ディスカッションのセッションを少し変更して改善しようと計画しています。何かご提案はありますか?
回答:はい。技術的な部分については詳しく触れるつもりはありません。それは友人の皆さん同士で解決できるものです。試行錯誤を繰り返す骨の折れる道のりは、一人ひとりが学びを得られるテストです。このように何かを共に築き上げることで、単にアドバイスに従うよりも、遥かに価値のある達成感が得られます。それによって、皆さんのスピリットはそこに宿るでしょう。結局のところ、大切なのはそれだけなのです。従って、肝心な問題は、できるだけ多くの参加者とあなたのスピリットが共にいられるよう、どのように進められるのかということです。
その方向への助けになるよう、セッションの目的を改めてお伝えします。このディスカッションのグループの主旨は、理論的知識を実践に移し、理解を含め、私生活に応用するのを助けることです。このような視点を持って議論に臨み、常にお互いにこれを確認し合うことで、抽象的な理論化に陥ることを避けられます。理論を述べるだけのミーティングであれば、皆さんにはそもそも容易なことですから、実際には必要ではないのです。感情的に理解できない何かを声に出して表現することを目標にしてください。次に、個人ワークとグループワークを通して、そのような感情的理解が依然として欠けていることをまずは確認します。あなたは良くご存知でしょう。理解への第一歩は、自らが理解していないことを認識し、簡潔に言葉にすることです。これが戦いの半分です。知的には理解しているものの、未だ感情的には理解していないもの、未だ生きた経験ではないものを、一人ひとりが言葉にしてください。その後、他の人達が例を上げる等して、それを明確にすることを助けてくれるでしょう。本人が望まない限り、個人的なことを開示する必要はありません。議論を一般的な内容に留めることもできます。これをグループワークとは混同しないでください。重要なのは、あなた方の感情的な同化を助けることです。議論されている特定の部分を既にワークした経験のある人達が、その同化に至る方法を示してくれるかもしれません。
しかし勿論、知的理解がされていない所があれば、スタディーグループはそれを伝える場になります。もしプライドがそれを阻むならば、それはあなた自身の損失だけではなく、この試み全体の損失となります。正しいスピリット、謙虚さ、正直さによって、議論は生き生きとしたダイナミックな体験となるでしょう。そうでなければ、退屈でだらだらとした議論になってしまいます。
これらのスタディーグループが有意義なグループに成長するスピードは、まずは自らの「無知」をさらけ出すことをためらう臆病な人達のプライド、次に、他者を感心させようと自らの「知識」をひけらかす騒々しい人々のプライドに左右されるでしょう。両者とも、切実な疑問を抱えているものです。こうした態度には、かなり意識的なものもあれば、怠惰やプライドから、明確な形をとらない漠然としたものもあります。このような内的不参加は、議論の質を落とす受動的な偽装です。参加者全員が、知的にも感情的にも理解できない点を声にする質問を準備できれば、このディスカッションのグループは関係者全員にとって有益になるとお約束します。
これらの議論を、自らを精査する機会としても活用してください。共有する動機は何ですか?共有しない動機は何ですか?あなたの声や混乱が口にされる程度に応じて、この議論は計り知れない程の価値を持つでしょう。そうすれば、自らの混乱を口にする人々だけでなく、それを模範とする他の人々にも助けが与えられます。そして、皆さんのグループは本当の意味で、一人ひとりが生徒であり、同時に教師でもある学校となります。これを念頭に置いて実践しようと努めれば、外的な詳細は自然とうまく行くでしょう。それらは取るに足らないことです。試行錯誤を重ね、その過程で得られる改善は、容易に軋轢を生むことなく実現するでしょう。この基本的なスピリットが浸透すれば、人々は自然と引き寄せられます。何故なら、大切なのはスピリットの強さだからです。臆病で、盲目で、怠惰な人達でさえ、積極的に参加する人達の誠実さ、自らに対する正直さ、謙虚さによって引き込まれる筈です。こうして、この試みが花開きます。
質問:このレクチャーに関連した、個人的な質問があります。何年も前、夢の解釈をして頂いたおかげで、私は母に対する罪悪感を何か別のものの背後に隠していることに気づきました。そして、私は自分自身を愛していないことに気づき、どうしたら他者を愛せるのだろうか?と疑問に思いました。突然、これが真の罪悪感かもしれないと思ったのです。このレクチャーの後半で、日々の家事も億劫になるという話になった時、それが自分にも当てはまると気づきました。そして、このような考えが頭をよぎりました。もしかしたら、私は自己中心的だから、真の罪悪感を隠しているのだろうか?
回答:確かにあなたの言う通りですが、これが具体的にどのように当てはまるのか、その自己中心性はどのように現れるのかを具体的に突き止めねばなりません。単なる一般的な知識以上のものにしなければならないのです。あなたのこの一瞬の目覚めは、正しい方向への第一歩であり、まさに新たな自己認識です。以前から良く申し上げているように、過度の完璧主義は、何らかの形で愛することから引きこもることの代用品です。魂に愛する準備が整っていれば、あるいは別の言い方では、霊的成長の潜在性が高ければ高い程、愛が阻害される度に、魂はより強く反発するのです。従って、例え不快に感じられたとしても、その反発そのものが薬なのです。
これまで何度も述べてきましたが、このことは未だ十分には理解されていません。心理学者でさえも、神経症そのものが、ある意味で、魂の治癒への第一歩であることを理解していないのです。病気は外的出来事によって引き起こされるのではなく、魂の潜在力を発揮することを妨げる、魂の侵害によって起こります。これは常に個人的な問題であり、究極的には霊的あるいは道徳的な問題です。高潔さの問題です。このような苦痛を伴う症状がなければ、本人は何かがおかしいことに気づかないでしょう。実際、病気と見なされているものは、同時に薬でもあります。そこにこそ、霊的法則および普遍的法則の良き特質があるのです。
一方で、あなたは大きな愛の力を感じます。それはあなたの本質の一部です。しかし、それは禁じられることによって弱められます。禁忌が問題の原因なのです。それを具体的に見つけなくてはなりません。もうすぐです。あなたは自らの内にあるこの問題の核心を完全に認識する瀬戸際に立っています。その敢えて愛さないという傾向は、人生の特定の領域に当てはまるだけで、全ての人間関係に当てはまるわけではありません。しかし、この点を検証すれば、不当な罪悪感や、完璧主義を生み出す真の罪悪感の源が明らかになるでしょう。
親愛なる大切な友人達よ、愛の力、生命の力が、あなた方一人ひとりに、又ここにいない友人達へも豊かに流れ込んでいます。皆さんもきっと、それを感じられるでしょう。あなたは光と力強さを感じています。この道を喜んでください。これ以上に意義あるものはありません。時に人生でどれ程痛みがあっても、後退や停滞をどれ程感じても、これ以上に意味をなすものはないのです。これをやり抜けば、光はより安定し、より強くなるでしょう。より率直に、より直接的に発言すれば、このグループ全体が益々成長していきます。絶望的な憂鬱の中にいる人達は、隠れようとする傾向が弱くなります。その代わり、彼らは現時点で自らの強さを感じている人達、そのような状態を通り抜け、乗り越えてきた人達の元に行くでしょう。そのような人達とのコミュニケーションは彼らを助けます。これが真の愛であり、真の人間関係です。皆さん全員、このことについて学ぶべきことが沢山あります。皆さんは、自己発達において非常に重要な段階の始まりに立っています。皆さんは、これまでに多くを学び、それによってこのグループ全体が、真に機能的な愛のグループとなり得る段階に近づいて来ているのです。
それでは、皆さん全員に祝福を。平和の内に、そして神の内にいてください!
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