


パスワーク・イン・ジャパン 公式サイト
Pathwork in Japan
No. 109 真の罪悪感に対する償いを通じた霊的、感情的な健康
Pathwork Guide Lecture No. 109
1996年版
1962年12月7日
真の罪悪感に対する償いを通じた霊的、感情的な健康
SPIRITUAL AND EMOTIONAL HEALTH THROUGH RESTITUTION FOR REAL GUILT
ようこそ、最愛なる友人の皆さん。今夜、そしてこの道のりを通して、神の祝福と愛があなたと共にあります。今日初めてここに来られた、新しい友人達も歓迎します。このレクチャーは容易に理解できるものではないかもしれません。何故なら、今日のテーマは特に、ワークを通して特定の障害が取り除かれた後にのみ触れられる、精神領域に向けられているからです。この道を歩む友人達は、非常に集中的なワークを重ね、そこに触れられる領域に辿り着きました。私の言葉は、彼らにとって単なる知的理解ではなく、奥底にある感情の層にまで到達するでしょう。とはいえ、初めていらした新しい友人達には、魂のあらゆる所で共鳴を感じ、似たような自己発見の道を歩み始めるきっかけになるかもしれません。そのような道は見た目程簡単ではなく、痛みを伴わないものでもありませんが、充実へと繋がる唯一の道なのです。
前回のレクチャーでは、真の罪悪感についてお話ししました。かなり前に、真の罪悪感と偽りの罪悪感の違いについて説明したことがありますが、当時は皆さんの準備が整っていなかった為、それ以上の詳しい説明はできませんでした。偽りの罪悪感の背後に常に潜む真の罪悪感と向き合い、それを受け入れるには、あなたの精神生活の多くの領域が探求され、理解される必要がありました。
昔からの友人の皆さん全員が、パスワークのこの段階にすぐ入れる訳ではありません。しかし、誠実な努力を続ければ、遅かれ早かれ、皆さんはこの地点に到達できるでしょう。様々なイメージや誤解の迷路を手探りで通り抜けた後には、真の罪悪感と向き合えるようになっていることでしょう。
私達が共に過ごしてきた時間において、それぞれの細分化はあるものの、基本的にふたつの主要な段階を経てきました。私達がワークを始めた頃、私は自己浄化の重要性を伝えました。これこそが人生の真の意味であり、自己実現への道だと言いました。そして次の段階に入り、私達は浄化という言葉さえも意図的に避けるようになりました。「正しい」又は「間違い」というような考えを持たずに、自分自身を見られるようになることを重要視しました。これにはちゃんとした理由があります。
人間にとって最も難しいことはローアセルフと向き合うことで、真の罪悪感はまさにこのローアセルフと結びつきます。あなたは、ローアセルフと向き合うことをあらゆる手段で避けようとします。あなたには、その一部と向き合う能力と意志があるかもしれません。しかし、他の特定の部分では、それを認めるつもりは全くないのです。ローアセルフの可能性をひどく恐れ、今この瞬間に可能である以上に良い人になろうと願うが為に、耐えるつもりがない自らのローアセルフに起因する、ごく僅かな真の罪悪感を認めるより遥かにひどい、偽りの罪悪感を創り出すのです。この状態はかなり一般的であり、これに気づくことは非常に重要です。しかし、未だにこのことは過小評価されています。
ローアセルフと真っ直ぐに向き合えるようになるには、まず自分自身を受け入れ、許すことを学ばねばなりません。まさにその理由から、私達は共に歩む道において、第二の主要な段階と呼ぶ時期に、かなりの時間を費やしました。受け入れ、許すということは、完璧主義の害を理解する為に、自らを道徳化する傾向に気づいて、それを止めることです。これは一見逆説的に思えるかもしれません。何故なら、一方ではあなたのローアセルフ、つまり真の罪悪感に向き合い、回復、自己浄化を促しながら、他方では完璧主義、自己非難、道徳化、偽りの罪悪感がいかに危険なのかを強調するからです。
最愛なる友よ、完璧主義と自己非難があればある程、あなたは自らのローアセルフを受け入れることはできません。何故なら、私が以前から何度も言っているように、その完璧主義において、あなたは偽りの完璧さに自らを追い込み、それを押し付けて、破壊的なものにします。ありのままの自分自身でいる勇気や謙虚さを持ち、自らを穏やかに受け入れる時、ローアセルフをありのままに受け入れる回復力を持ちます。そうして初めて、真の罪悪感を受け入れ、償うことができるのです。真の罪悪感を受け入れることは、真の価値観を受け入れ、更にその深い認識を可能にします。だからこそ、こうした人格レベルを扱う限り、自らの完璧主義的な傾向を助長しないよう、罪深さをほのめかすような表現は勿論、ほんの少しでも非難のように感じかねないようなことは一切避けることが極めて重要です。
あなたは今、更なる一歩に進む準備ができています。真の罪悪感に向き合う準備が整う段階に非常に近づいている人もいれば、まだ偽りの罪悪感を認識するのに苦労している人もいるでしょう。彼らは依然として自己非難、弱さ、能力の麻痺、誤ったイメージや概念、更には自己非難の反対である自己正当化によって阻害されています。彼らは他者を非難することに囚われているか、あるいは他者に利用され、つけ込まれるような弱さに陥っています。自らの権利を主張できないことは、悪とは正反対のように見えるかもしれません。例え、そのような従属が不健全だと認識していても、感情的には、自らが真の罪悪感を抱くローアセルフの無意識な側面と、この麻痺との強い繋がりは実感できていないでしょう。まだ深い核心に踏み込む準備ができていない友人達も、根気強く努力を続ければ、いずれはたどり着くでしょう。しかし、個人的なワークで自然に準備が整う前に、真の罪悪感と無理やり向き合わせようとすることは、あなたを完全に閉ざしてしまうか、または押しつぶしてしまう可能性があります。
あなたのローアセルフの側面全てを受け入れる回復力は、個人的なパスワークに導かれる前から培うことができます。先程述べたように、達成するのはそれ程難しくはありません。自己探求とより小さな「悪」に向き合い、不愉快な真実に直面した分だけ精神は強くなります。適切な瞑想と思考プロセス、又この段階に近づく度にしっかりと観察することで、このような強さは培われます。自らの過敏さを観察し、自分がどれ程簡単に傷つくかに気づき、どれ程容易に自ら引き起こした強い痛みの反応で、自分自身を甘やかす誘惑に屈しているのかに気づけば、ローアセルフとしっかり向き合うことを避ける兆候が見えてくるでしょう。
自問自答してみましょう。「自分を甘やかしたいのか?自己憐憫に浸りたいのか?それとも建設的な傾向と並存する、否定的な傾向を穏やかに見つめられるのか?」自己理解への願望を日々育み、それを真摯に追求すれば、これまで漠然としか感じられなかった破壊的傾向に対する極端な反応は、やがて冷静な自己観察へと変わっていくでしょう。この態度こそが、自分自身と真正面から向き合う為に必要とされる回復力を生み出す前提条件です。それにはバランス感覚を維持すること、あるいはより良いこととして、自らがバランス感覚を失いがちであることを認める正直さが必要です。
受け入れる準備ができていない傾向に直面すると、あなたは絶望、傷つき、自己卑下、不公平感等の過剰反応を殆ど人工的に引き起こします。あなたは、人が善良で良い人間でありながら、同時にいつくかの側面では正反対の人間になり得るということを、少なくとも感情的には忘れています。あなたは善と悪の間で揺れ動き、善悪の両方を見ようとはしません。マインドに留めておくべきは「どちらか」ではなく「両方」という点です。このように、これまで直面したことのない自分自身の領域に向き合い続けると、その経験は決して壊滅的なものではないでしょう。友よ、本当に健康で強くなりたいなら、このことを理解する必要があります。
ここで、ローアセルフや真の罪悪感に向き合わないことで、あなたの人格、人生、周囲の人々が蝕まれる影響について少し考えてみましょう。伝統的な精神医学、あるいは心理学が、神経症や心理的問題と呼ぶものは、ローアセルフの回避に他なりません。別の言い方をすれば、あなたの全体性が損なわれている領域と向き合わないことです。残念ながら、この事実は十分に認識されていませんが、いずれは認識されるでしょう。心理学では既に、偽りの罪悪感に伴う衰弱や麻痺、それに伴う本来の生産能力の障害という症状を認めています。その根本的な原因は、基本的には常に自らのローアセルフと向き合うのを拒むことであり、その結果として、償われない真の罪悪感の重荷を背負い続けることです。このことは、未だ理解されていないか、あるいは完全には理解されていません。
ある種の人々は他者に利用されることで、真の罪悪感を埋め合わせようとする傾向があります。この埋め合わせが表面的なレベルで行われる場合、良いことよりも害の方が大きくなるのは確かです。何故なら、建設的にバランス感覚をもって真の罪悪感と向き合う為には、マスクセルフ、理想化された自己、自己欺瞞の傾向は全て排除しなければならないからです。従って、人間の不幸や魂の病の最奥の原因に近づく為に、人は慎重に、適切なタイミングで進まなくてはなりません。世俗的な心理学が、損なわれた全体性以外の原因を探し求めている限り、真の治癒は怒らず、症状の一次的な緩和に留まるでしょう。
最初に必要な一歩は、自らのローアセルフの傾向を無視することが、自分にどのような影響を与えるのか理解することです。これらの苦しみのある領域に向き合わないと、ローアセルフの傾向がつくり出す問題に対処する際、あなたは無力になるでしょう。従って、あなたは自らに二重の罪悪感を負わせることになります。ひとつ目は、現実の利己心と愛の欠如が行為、思考、感情に表れることによって生じる罪悪感であり、ふたつ目は、正反対の振りをして、本来の過ちを償おうとしない、自己欺瞞と偽善によって生じる罪悪感です。
このような両刃の罪悪感は、偽りの罪悪感を生み出し、それに伴って弱さや無力感、そして自己尊重の欠如が生じ、不安感や劣等感へと繋がります。その結果、あなたは傷ついた自尊心を他者に依存するようになります。この依存は従属を招き、自らが搾取されることを許す為、あなたを弱体化させる効果があります。勿論、こうした傾向の全てが表に出る訳ではありません。これらは、第二の主要な段階で探求され、理解される必要があります。偽りの罪悪感に気づくのにもかなりの時間を要することが多く、ましてや真の罪悪感に気づくのには更に時間がかかります。
このワークの過程で見つけられた、あなたが他者からの承認を得ようと用いる様々な手段は、常に自分自身を受け入れていないことの結果です。自らの最悪な部分に行きつくまでは、自分自身を受け入れることは不可能です。その時に初めて、あなたは自らの存在全体を受け入れることができ、自らの内にある善良さを本当に確信することができ、自分以外の誰も与えてくれないものを他者に求める必要がなくなるのです。自己受容の代わりに、他者に受け入れてもらおうと必死に努力することは、あなたの全体性を更に損ないます。それとない方法で、それは常にあなた自身と他者を裏切り、あなたの魂を売り渡すように仕向けます。
言うまでもなく、この裏切りはあなたをより自己中心的にし、他者、自分自身、普遍的な力に対して閉鎖的にさせます。人生と現実に対する意識を低下させます。目を閉じ、手足を縛ったまま、人生を歩む原因となるのです。つまり、それはあなたの最良の部分、自己逃避するのを止めた時にのみ、真に展開できるものを損なってしまいます。あなたのコミュニケーション能力や、愛する能力を妨げ、損ない、薄めてしまいます。この能力は生まれながらに備わったもので、あなたの回避は、その能力の展開を阻害するのです。従って、あなたは内側で引き裂かれます。あなたがその真の原因に気づかない為に、内なる葛藤があなたを混乱させます。その結果、バランスが崩れます。真の罪悪感を償う誤った方法で、他者に利用されるまで譲歩するか、あるいは具体的な理由が分からないまま漠然とした罪悪感から、防御的になり反抗的になるのかのどちらかです。
過去数年で私達が取り組んできた様々な側面を取り上げ、今夜ここでお話ししていることと結びつけてみて下さい。そうすることで、あなたは真の罪悪感と偽りの罪悪感の心理的側面についてより深い理解が得られるでしょう。自らの全体性の損なわれた部分から目を背けている限り、自己尊重も自己確信も存在し得ません。しかし、勇気を持って自らの損なわれた部分に向かい合うことで、そうしなければ修復できない傷を癒すことができるのです。必要な勇気と集中力を奮い立たせる為には、それがあなたの人生と、あなたの中にある最良の部分を蝕む影響を完全に理解しなければなりません。そうすることで、自らの内に潜む罪悪感を見る為の「インセンティブ(動因)」が与えられるでしょう。
私が「インセンティブ」と言う時、それは何を意味するでしょうか?あなたはレクチャーを聞きながら、漠然と何かが起こるのを待っています。ハンドルを握れば運転できるのに、自分自身が運転席にいることに決して気づきません。自らの反応に目を向ければ、運転できるのです。些細な違いを見抜く為に、意志、集中力、鋭い自己観察を使う努力をし、このデリケートな領域で自らに向き合うことを避ける微妙な反応、時には微妙ではない反応を察知できます。観察することで、全て無意識とは言えない目隠しを外すことができるでしょう。この目隠しは、毎日様々な形で現れます。それをただ指差すという行為そのものによって、目隠しは取り除かれるのです。
インセンティブに従うとは、特定の否定的傾向が仄めかされる度に、自分自身が過剰に傷つくことに気づき、それが他者からのものであれ、自らのものであれ、日常生活の出来事を通じて起こるものであれ、過剰な恐れや反発を感じる自分自身に気づく態度を意味します。又、「私はもう駄目だ」という過剰な反応にも目を向けてください。必ずしもこのような言葉で表現される訳ではありませんが、あなたの感情を言葉にすると、結局はこういう意味になります。
それでは更に、次のステップについて考えてみましょう。真の罪悪感やこれまで隠してきたローアセルフの特定の側面と向き合い、健全な自己受容に到達できたら、次はどうすれば良いのでしょうか?勿論、認識することが第一歩ですが、ただそれを認めるだけでは十分ではありません。この最初の一歩を踏み出せるようになるには、心から望まない行動や変化があなたに強いられることは決してないということを、何度も繰り返し思い出す必要があります。それは私がそう言うからでも、何らかの霊的法則が強制を禁じているからでもありません。権威や法則に従うことは、建設的な結果を生み出す自由な行動とは言えません。しかし、例えその抵抗を乗り越えてでも、いつかあなたが良いことをしたいと本当に願う時が来るでしょう。ですから、まずは自らが自由な存在であることを自覚し、その行動が自らの自由な選択によるものである時にのみ行動することです。良い行動に気づかず控えるよりは、良い行動を控えたとしても、そのことに気づいている方が良いと理解して、回避の壁を打ち破りましょう。自覚的に行動を控えたとしても、罰せられることはないと知るのは非常に重要です。十分な認識は、最終的には過去の罪を償う為の行動を起こしたいという気持ちを芽生えさせるでしょう。
これからお話しすることは、あなたが完全に自立した自由に到達し、償いを願う段階に達した時に当てはまります。実際に、有機的な成長と発達によってこの段階に到達する時、その可能性は歓迎されるでしょう。回復の可能性がなければ、間違いは正せず、過ちは償えないという偽りの信念の中、あなたは絶望に留まってしまうかもしれません。あなたの信念は、しばしば罪悪感と向き合わない無意識の理由です。人は本当に償いたいと願う時、償うことができるのです。
さて、それはどのように行われるのでしょう?決まった公式はありません。現実はダイナミックで無限の多様性を含む為、そのような公式はあり得ないのです。自分が明らかに犯した過ちを償うのは比較的容易ですが、微妙な態度や感情的反応を償うことは、それ程簡単ではありません。前者の場合、例えば、あなたが不当に扱った相手と率直に話し合うことで、償いが実現する可能性があります。このことで、相手は最早、不当な扱いを受けたと感じたり、混乱したりすることが無くなる為、過ちを解消できるかもしれません。場合によっては、話し合うことに加えて、あなたの側で何らかの建設的な行動を起こす必要があるかもしれません。誠実な精神でインスピレーションを求めれば、どのような行動をとるべきか自然と分かるでしょう。果たすべき義務として、表面的で安易な態度で片づけてしまわないように。話し合うだけでも、話し合いに行動が伴う場合でも、それは傷ついたハートを解放し、化膿した傷を癒してくれるでしょう。行動を起こす前に、自らがその行動を起こすことを心から望んでいると確信するまでは、決して行動に移すことのないように。祈りの中でその方法を問い、自分自身を開いてください。あなたが他者に与えたかもしれない痛みを完全に認識した時、その痛みを取り除くのに十分な程、あなたの願いは強くなります。そして、あなたは正しい方法を見つけるでしょう。しかし、自らが引き起こした痛みに向き合うことを望まない限り、それを本当に償おうとは思えません。自らが与えた痛みを認識したくないからこそ、自らのローアセルフの全体像と向き合いたくないのです。
問題が明確でない場合、例えば、あなたが何かを差し控えたり、引きこもったりしたというような、微妙な感情や間接的な結果の問題だった場合も、あなたは犯した過ちを償う方法を見つけるでしょう。恐れ、臆病、プライド、裏切り、誤解等、どんな理由であれ、あなたが最善を尽くすことを躊躇うことは、他者に痛みを与え得るのです。それは、他者を困窮させ、彼らの無価値観を強めます。あなたの振る舞いがもたらすこれらの微妙な影響は、見極めるのが難しく、償いも容易ではありません。しかしもし、あなたのハートが誠実で、この地点に至るまでの全ての段階をワークして通り抜けた上で、償いへの確かな願いがあるならば、祈りや瞑想の中で表現される願いが、その償いの方法を見つけさせてくれるでしょう。例え、かつて不当に扱ってしまった相手との関係を修復する機会がもうなかったとしても、以前のように最善を尽くすことを妨げるのではなく、自らの最善を与える能力を培うことこそが償いとなります。もし、他者がその新たに見つけた能力から恩恵を受けるならば、それも又、償いなのです!あなたはこのことの真実を深く感じるでしょう。もし、あなたが自ら孤立の壁を手放し、自らの生まれ持った存在の豊かさを他者へと注ぎ込むならば、それは償いとなるのです。
友人の皆さん、要するに、真の罪悪感と、ローアセルフの認識されていない側面の壊滅的な影響から解放されるには、ふたつの主要なステップが必要だということです。ひとつ目は、冷静かつ適切に自己非難や自己正当化のない状態でありながら、作為でも不作為でも、自らが犯したあらゆる過ちに対して完全に責任を引き受けた上で、これらの側面を見つけて向き合うことです。麻痺や弱さをもたらすあらゆる偽りの罪悪感を突き抜け、他者から搾取されている領域も探す必要があります。そうすることで、あなたはこれまで「秘密」にしてきたことに直面します。ふたつ目のステップは償いであり、多くの場合、まずは自らが抱える真の罪悪感を他の人間に表現し、1人で抱え込まないようにします。そして次に、その過ちを正し、償う方法を見つけることのふたつの段階に分けられます。
親愛なる友人達よ、これを一度だけの行為ではなく、意識を高める絶え間ないプロセスとして続ければ、自己意識の成長と誠実さが生まれ、必然的に自己尊重がもたらされるでしょう。このプロセスは、存在するとは思っていなかった力を与えてくれます。その力は他者からの承認を求めるあまり、魂を売り渡してしまうような、切迫したニーズから自立できるよう助けてくれます。何の制約もなく、最善の働きを意のままに駆使して、自分自身を自由に表現する力を与えてくれるでしょう。あなたは、理解されたい内容が伝えられないというもどかしい思いをすることなく、コミュニケーションを取り、他者と繋がり、自らの権利を主張できます。それは、あなたの日常生活に新たなエネルギーと活力を与え、十分に生きることを可能にしてくれるでしょう。それは又、人生のあらゆる側面と出会う為のスタミナ、柔軟性、回復力を与え、困難を最大限に活かし、人生の恵みを存分に楽しむことを可能にしてくれます。愛する皆さん、言い換えれば、これは魂の最終的な癒しなのです。言うまでもなく、それは容易に手に入るものではありません。この道から外れたいという誘惑に打ち勝つには、かなりの時間がかかるでしょう。しかし、私は助けになる為にここにいます。ガイダンスはここにあります。このことを知れば、確かな喜びを感じられるでしょう。何故なら、それによってあなたは入口に近づくからです。
質問:祝福についてのディスカッションをしました。理解の為に、あなたの助けが必要です。祝福とは何ですか?
回答:人間の言葉で説明するには「願い」、強く誠実な願いだと説明するのが良いでしょう。これには、今この瞬間のあなたが理解できる以上のものがあります。利己的な動機、曖昧で矛盾する混乱した感情、不安や恐れ、真実でも偽りでも僅かな罪悪感の疼き、これらのもので妨げられることの無い、非常に強い願いを抱いていると想像してみてください。その願いは、利己心の欠片も無い、澄み切った流れです。そのような願いが祝福です。澄み切った、混じりけのない、混乱のない、分裂のない力、それが祝福です。もし、人間がそのような形で他者への願いを表現できるとしたら、その願いをほんの僅かでも受け入れようとする人に及ぼす力と強さは、あなたの想像を超えるものとなります。人間はそのような願いを抱き、祝福を与えることはできますが、それは段階を追ってのことです。受け手の方も又、その祝福を自らの一部でしか受け取れず、他の領域はブロックされているかもしれません。障害と誤認が壁を創ります。しかし、壁が存在しない場所では何処でも、そのような願いは人に影響を与え、精神に働きかけます。ご存知の通り、出来る限り願いを込めることは、祈りのひとつの形です。しかし、地球上の物質の重さに最早囚われていない存在の願いは、より純粋な力を持つ可能性が高く、それが受け入れられ、目指された所に届くならば、愛の更なる普及に活用することができます。
質問:願いは、身勝手ではないのですか?
回答:必ずしもそうとは限りません。
質問:これは、自分の願いを神の意志に委ねることと、どのように結びつきますか?
回答:もし、あなたが純粋に愛情深く、利己的ではない何かを望むなら、それは神の意志です。神の意志を行いたいと願うことは、あなたの願いである筈です。他のことと同様に、それは動機についての方法、理由、内容によって左右されます。それだけで、その価値の有無が決まるのです。私が何度もお話ししたように、物事そのものに良いも悪いもありません。何故、願いそのものが悪いものであり得るでしょうか?あなたは、自分自身に正直でありたいと願わねばなりません。愛することを願わねばなりません。そうでなければ、破壊的なことを願うかもしれないのです。人々は多くの場合、用語で躓きます。ある特定の言葉を取り上げて、それが特定の意味しか持たないと主張する人々がいるかもしれません。そして勿論、この言葉が別の意味で使われると、誤解が生じるのです。私達は、その点には関心がありません。むしろ、その言葉の本質と意味について考えてみてください。建設的な顕現として願いを捉えて見れば、それが必ずしも身勝手さではないと分かるでしょう。
質問:願いが叶うということは、それが祝福だということですか?
回答:いいえ。私が言ったのは、もしあなたが他者の為に明確な願いを持っているなら、それは祝福だということです。それが叶うかどうかは別問題です。
質問:その願いの後ろに、願いが叶わないかもしれないという恐れがあったとしたら?
回答:それは祝福ではありません。祝福は、純粋な願いです。それは、エネルギーの能動的な流れです。恐れは利己心を表します。願いはエネルギーの流れなのです。葛藤状態にある人間の願いは、相反する感情によって打ち消され、エネルギーの流れは弱まります。しかし、もしエネルギーの流れが一方向に向かう、あるいは主に一方向に向かう場合、その願いは強くなります。
質問:ディスカッションの中で、ヤコブには祝福が与えられ、エサウには与えられなかったことへの疑問が出てきました。祝福を受け入れる準備ができていない人に、祝福を届けることは可能なのでしょうか?
回答:それは強さによります。祝福には様々な種類があります。霊的発達を伴った高次の存在からの祝福は、心理的な壁を突き破る程に高い振動を持っていることがあります。そのような浸透は、その人が自らを立て直し、自らの壁を弱める為に必要な行動を起こす効果をもたらすかもしれません。強度と振動がより少ない祝福は、要塞の壁は突き破れなくても、紙のように薄い壁は突き破れるかもしれません。つまり、個人がその力強い衝撃、つまりは祝福の結果で何をするのかが問題なのです。人が祝福を受け取る際に、平和、希望、喜び等の素晴らしい感覚を経験することは頻繁にあるでしょう。しかし、衝撃が去り、効果が薄れると、その人は元の状態に戻ります。その人は、祝福を正しく活用していません。世界は、他者の思いや願いで満ち溢れています。相反する流れは絶えず続いており、それは人間同士の間だけでなく、人間と異世界の存在との間でも起こっています。素晴らしい気分で過ごせる日には、知らず知らずの内に、愛の流れや祝福、純粋な願いを受け取っているかもしれません。この流れを活かすか、それとも再び暗闇に逆戻りし、人生や祝福があなたを運んでくれるのを待つかは、あなた次第です。祝福は時折与えられるものです。これら全ては、宇宙における特定の法則のリズムに沿って起こります。しかし、最終的に暗闇からあなたを引っ張り出すのは、あなた自身なのです。
親愛なる皆さん、祝福されていてください。自らを開いてください。温かさ、力、愛が、あなたに流れ込み、通り抜けます。このレクチャーのパスワークが示唆する健全な状態に人生を向かわせる目的で、この力を活用できますように。これが何を意味するか、視覚化することは不可能です。実際の困難であれ、困難に見えるものであれ、残念ながら、殆どの人は自分自身と向き合うことの困難に対処する方法を知りません。しかし、あなたが何者であろうと、人生がどれ程困難であろうと、これこそがあなたのものになり得る幸せへの鍵なのです。これによって、私は再び愛の祝福をします。平和の内に、神の内にいてください。
訳注:本文中「償い」と訳しているRestitutionは、聖書では回復と訳されることもあります。宗教的には、教会の復興や特定の宗教的文脈における権利や財産の回復を指すことがあり、一般的には、損害の賠償や元の状態に戻すことを意味し、法的な文脈でも使用されます。
###
以下の注記は、Pathwork®の名称およびこのレクチャー資料の使用法を示したものです。Pathwork®の商標/サービスマークは、The Pathwork Foundation(パスワーク・ファウンデーション)によって所有され登録されており、The Pathwork Foundationの書面による許諾なく使用することはできません。The Pathwork Foundationは、その単独裁量権において、Pathwork®の商標を、協力団体やその支部のような他の組織および個人による使用を許可します。
著作権にかかる規定
Pathworkのガイドの著作物は、The Pathwork Foundationの所有資産です。このレクチャーは、The Pathwork Foundationの商標、サービスマークおよび著作権ポリシーに準拠して複製され、いかなる方法においても変更または省略することはできません。また、著作権、商標、サービスマークおよびその他あらゆる公示の削除は許可されません。
レクチャーを提供される側は、複製と配布のための費用のみを支払うこととします。The Pathwork Foundationのサービスマークまたは著作権で保護された資料を使用する任意の個人や組織は、The Pathwork Foundationの商標、サービスマークおよび著作権ポリシーを遵守することに同意したものとみなされます。これに関する情報またはこのポリシーを入手するには、The Pathwork Foundationにご連絡ください。Pathworkという名称の使用は、the Pathwork Foundationによって承認される変容のプログラムを修了したファシリテーターとヘルパーにのみ許可されています。
日本語版の取り扱いについて
Pathwork in Japan (パスワーク・イン・ジャパン) の許可なしに、無断でコピー(複製)、貸与、頒布、販売することを固く禁じます。また、文書およびインターネット上(ウェブ、メール)での引用・転載を含む公開も禁止します。
また、本レクチャーの受領者は、英語版から日本語版を作成する際に発生する複製・配布・翻訳などにかかる費用をご負担いただきます。
さらなる情報やPathworkへの参加については、Pathwork in Japanにお問合せください。
ウェブサイト:https://www.pathworkinjapan.com
お問合せ先 :pathworkinjapan@gmail.com
※ガイドレクチャーに関するお問合せはメールで承っております。下記メールアドレスまでお願いいたします。
pathworkinjapan@gmail.com