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No.243  存在に対する大いなる畏怖と切望

Pathwork Guide Lecture No. 243
UNEDITED版
1977年10月6日


存在に対する大いなる畏怖と切望
THE GREAT EXISTENTIAL FEAR AND LONGING


 最愛の友である皆さん。私は皆さんと共におります。また皆さんにとって真価が問われてきたこれまでもずっと共におりました。ともにおりますと申し上げたのは、皆さんが私の言葉を聞き、そして受容することができるようにするためであります。今回、このようにお話しするのは多くの意味において、また数多の理由がある故に必要なことなのです。その理由について感づいておられる人もいるでしょう。どういう影響があるのかそれを完全に知るにはまだ時間がかかることでしょう。これから、私が直にお話しするメッセージの意図は徐々に皆さんの魂の中で、その輪郭が作られ、さら時間をかけて皆さんの人生においてその意味がはっきりとしてくるかと思います。

 皆さん全ての方々が、恐れていたのです。私が提示した尺度における恐れのみならず、私が今後敢えて申し上げなくとも、早すぎる死、カオス、混乱、そして意味のない苦しみなどの恐れもありました。何も、私の尺度によって恐れを恐れとして経験するだけでなく、皆さんお一人お一人が、その尺度とは何かを定め、恐れに対する反応を認知できるようになるための機会が与えられたのです。

 恐れに対する反応が己に存すると真の意味で理解することが極めて大切です。外部の事象によって正面に突きつけられようとられまいと、恐れに対する反応はすぐそこにあるのです。そのような外部事象は、恐れに対する既存の感情や内的な状態の表れであり、またそれらに対応し、乗り切るための方法でもあるのです。嫌な経験を生み出すそのものが、意識の前面へと誘導されなければ、意識もその経験を変える機会を逃してしまうのです。

 つまり、世界が恣意的、カオスに包まれ、筋の通らないような分別の欠いた場所、すなわち、神はおらず、永久の生命や永久の魂もなく、人間の経験に意味などない、という恐れです。パスワークを通じてすでに気付いておられると思いますが、皆さんの状態は、その個性、性格の各レベルにおいて全く異なることがあります。これは神や神の創造物への信仰にも当てはまります。またこれに関連して、永久に続いていく存在と意識の中において皆さんの人生にやってくる全ての事に意味と目的があり、それを信じるということにも当てはまります。

 自己実現の究極の目的は、神、永久の生命、そして意識の狭間に存する物の善良なる意味の真理を確立することなのです。このプロセスこそが、顕現と浄化の正にその理由なのです。では、浄化とは一体何でしょうか?単に「善良」であること、ではないのです。己でもって「善良」である、というのは全くと言ってよいほどに意味のない表現です。自己をより深く充足させることにより、善良とは、異なるアプローチや価値を持ち合わせ、ある文化における道徳的姿勢を持つことであると理解することができるでしょう。時にある社会で「悪しき」ことと考えられていることが、現実世界の深いレベルにおいては、最高の価値を有する場合もある、逆もまた真なりです。絶対的な善良とは、なかなか見出すことの難しいこの世の個人の「小さな真実」、すなわち真実の最深部でしか達成できないのです。神を現実のものとして、近接性をもって受け入れるという偉大なる真実を持ってこそ、あらゆる疑念や疑いをも超える究極の善良へと到達することができます。

 光栄にも私が導いてきたこの道のりは、このプロセスへの準備なのです。少しずつ、徐々にではありますが、まずは私的かつ個人的な廉潔性と真実への違反に向き合うのです。そしてこのプロセスにより心を開けば、結果としてより多くの気付きが得られ、防御機能を緩めることができるようになり、開かれた流れの道ができるのです。さすれば、人類を支配する存在に対する恐れを、より容易に取り除くことができるようになるのです。これは人間を最深部において団結させる共通項なのです。全ての人が持つ最深部にある疑いや恐れに自分自身で向き合うことができた時、このプロセスの中の新たな段階の始まりとなります。

 疑いや恐れに蓋をして、結果として遠回しに表出されていた段階と、この恐れや疑いをはっきりと意識し、しばしそれと共に生きて、繰り返し向き合う段階は全く異なるのです。皆さんの進化のプロセスの必須かつ新たな段階においてこのような疑いと恐れを知り、感じ、経験し、苦しむことが第一歩なのです。永久の生命を切に願っていることも意識せねばなりません。ただ通常、そのように意識付けがされていません。この切望は抑制され抑え込まれています。したがって下位の切望へと形を変え、健康、幸福、豊かさ、できるだけ身体的な死を回避することへの切望となってしまうのです。

 もちろんこうしたものへの願いは理に適っていましょう。私の言葉から、こうした切望は誤りであり、未成熟なものだから取り払うべきであると決して早合点してはなりません。むしろその逆なのです。こうした切望は最も理に適っているのです。しかし、これらの切なる願いを切望の礎と見るのと、存在し得る、存在すべき、また当初は無意識でも最終的にはあなたという個性が意識的に求める真の魂の基礎から派生する副産物と見るのとでは、大きな差があります。

 この切望に充足感が得られないと、一個人の一部において、創造物であるあなた個人とキリストの間に解離が起きてしまうのです。この解離は、(暗いところを彷徨う)個人とキリストの間だけではなく、その人の中にも生じるのです。人格の分離がここに発生するわけです。一方で切望に充足感が得られている光の指す状態、他方で暗いところで恐れ、疑い、苦しみ続ける、すなわち充足感が得られていない状態となります。

 後者の状態に意識してない場合、相当なる痛みを伴う経験となります。というのもその経験はその個人の意識、態度、考え、信念や感情の絶え間ないプロセスとして継続的に作られるからです。内に存する創造主体がために、経験とは意味のないという幻想の下、人は生きているのだという経験を作り出したものから解離している時、かなりの痛みを伴います。最大なる痛みを意識に与えることなのです。そうすると、宇宙はカオスで、意味のない恣意的なものの一つに過ぎないと思ってしまうことでしょう。

 人は暗闇の中で死ぬと、意識の接続が遮断されて、一時的に物理的な体の外には命など存在しないという感覚を持つのです。つまり、明るい、真の知識を得ている部分では死んでも命は存在すると経験しますが、無意識なる恐れと疑いに満ちた暗闇にある側面は、物理的な身体から離れた後、無意識となってしまうのです。このプロセスを経て、身体的な死によって意識をも終わるという幻想に包まれてしまいます。覚醒していない部分は、生まれ変わった人に統合され、受け継がれ、その人が進化の旅路へ出発する準備が整うと向き合うものなのです。

 この解離した、恐れと疑いに満ちた部分に自覚していないと、永久の生命についての切望に意識することができません。恐れ、疑いや恐怖が、体外に命は存在しないのだという具体的な恐れ、疑いそして恐怖と全く関係ないものとして、遠回しに表出されるように、永久の生命への切望も間接的に表出されるのです。本来はその表出のされ方はいろいろあるのです。潜在意識の中で、先ほど申し上げたような理に適うものとして表出されることもあります。行き場をなくしたような、例えば誤った、非現実的な充足への切望という形にもなるでしょうし、衝動的な形にもなるでしょう。その表出のされ方は何であれ、根本にある真なる切望とは、永久の生命に対する願いであると意識しておくことが大切です。

 このことからも、恐れ、疑い、恐怖の暗い部分と切望は直接的に関係しているということがはっきりと分かるでしょう。恐れ、疑い、恐怖を自覚しなければ、切なる願いを意識することができないということになります。それらを意識することができれば、切なる願いをも自覚できるということ。逆にそれらを自覚することができれば、恐れ、疑い、恐怖を信仰、真理の知識、安心感と安らぎへと変換させる第一歩を体系的に、意味のある形で且つ知的に踏むことができるのです。これ自体が、切なる願いに充足感を与えるプロセスなのです。

 自己の知るため、低次における己と向き合う、それを変えていくために勇気、廉潔性、心を開くこと、善意の心、前向きな姿勢と真実への完全なるコミットメントが必要であったように、深部にわたる普遍的かつ存在に対する恐れ、疑い、恐怖に向き合い、共に生きていく、変革をもたらすためには、同じく勇気、廉潔性、心を開くこと、善意の心、前向きな姿勢と真実への完全なるコミットメントが必要です。

 これに関連して、さらに2点お話ししましょう。1点目は恐れや恐怖を消し去り、全ての疑いをも払拭する切なる願いが充足された状態について、どう見るかあるいはその概念についてです。そのような状態がどういうものかという大まかな考えなくして、己の切望に対して意識することができないでしょう。想像もできないはずです。ここで2点目に繋がるのですが、疑いや恐れの暗い部分と切望の思いにどう気付くのか、さらに進めて基本的な切なる願いが満たされ、他の充足感も自然と達成され得る状態をどう作り上げるのか、ということです。

 まず、充足感について説明いたしましょう。はっきりと申し上げたいことは、ここでお話ししているのは、外的な充足感ではありません。人間は、健康、豊かさ、自己の価値、愛する人との愛の精神的充足感を求めるのです。このようなものは、例えあったとして内的な状態を無視しては意味をなさないのです。切望が満たされたという内なる状態は言葉で言い表しにくいものです。私たちは、宇宙を圧縮して、3次元の概念に立脚した人間の言葉の閉塞した概念の弊害についてすでによく分かっています。にもかかわらず、私は今、この状態についての概念を言葉で説明しようとしています。かくして皆さんが内的な状態を自分で理解し、感じ入り、のちに自分なりの概念を持つことができるようになるでしょう。

 これは今までも超自然的な、あるいはスピリチュアルの領域の文献でも広く説明されてきましたし、涅槃、悟り、宇宙意識などの名前も付けられたりしました。名前は特段重要ではなく、内的充足感の得られた状態とは、皆さんお一人お一人の経験の中で、神と深く繋がること、神の存在に気付くこと、他ならないのです。その意味について見ていきましょう。

 そもそも、このような状態にあっては恐れなど存在しないのです。安全であるとか、家にいるような感覚が自己に広がり、生活、自分自身を含めあらゆることに安心感が得られ、人生は「心地よい」ものとなりましょう。グローブのように、皆さんにフィットするのです。

 しかし、まず自己に恐れが存在することを認識しない限り、安心感、安心して恐れることなく生きていける感覚は得られません。すでに申し上げたように、この恐れははっきりしていないし、よく自身で理解できないのです。恐れとは、沈んでいたり、蓋がされていたり、代替レベルや異なった表出のされ方をすることが多いからです。深く存在に対する恐れに自覚することができれば、恐れることなど何もないというもう一つ別の状態があり、それを切望していると感じることができるのです。希望的観測や現実逃避でもなく、神により生かされているという、深いより現実的な経験則、すなわち絶対的に恐れるものなどない創造物の中で生かされているという知識に立脚した状態への切なる願いです。

 信仰への偽りとはかけ離れた安心した状態には活気があるのです。根本にある恐れから目をそらすために多層になっているのではありません。この活気の中にあって、人生の中で起こる全てのものに対して最も現実的な対応を取ろうとするのです。世界の中でこの所属感を持つことで、真の歓喜が生まれます。そしてこの歓喜は安らぎとともに、生命やそれがもたらす多面的かつ意味ある経験への理解、興奮、魅了された感覚をはるかに上回る卓越したものとなるのです。

 私がここでお話ししている安心感や安らぎとは人生や経験とは何かということへの深い知識や受け止めと関連しています。その深部にわたる意味は、最も重大な問題から、平凡な大したことない問題などが起きた時に常に感じることができます。カオスや意味をなさないことへの恐れが自己にあると認識すればするほどに、感情が意味と意義を持った経験へと変わっていくのです。安心感が増大すればするほど、これはより現実味を帯びるのです。

 この安心感はみなさんの中に神がおられる、そういう経験をしているのだと端的に考えてみましょう。確かに神は、皆さんが気付かなかっただけで常におられるのです。神との近接性と、さまざまな事象や経験をしており、日々の生活があり、どういう意味があるのか、それは神の思し召しによるものだということを、皆さんの心で感じることができていなかっただけなのです。神の存在が故に皆さんの見るもの、触るもの、聞くものそして感じるものに色合いが出るのです。喜びと安らぎ感が皆さん自身とその周りにもたらされるのです。生きること、そして創造の連続性の中で創造された全てのものに対する喜びに満ちた興奮、安らぎある魅了される心こそが、想像し得る最も望ましい状態なのです。人はそのことを知っていようがなかろうが、最も手に入れたいと欲しているのが、このような状態なのです。

 ではこの状態について、言葉でもう少し説明してみようと思います。ただ容易なことではありません。意味するところが何なのか、最も内部に存する理解力を駆使して聞いてください。文化や時代により名称があったりなかったりすることがありますが。このような意識の高次の状態はこの世から消えたと考えられています。すなわち、そうした高次の状態を持つことは他の世界で生きることを意味します。ただこれだけでは正しくありません。キリストとの真なる繋がりを持つ状態とは、この物質的な現世においてしっかりと結びつきを持つことを意味します。あるいは、今言葉で言い表そうとしていることは、高次のスピリチャルな状態が物質的な世界、また物質的世界における心身にもたらされている、したがって永久の生命、安らぎと喜びの偉大なる光により広がりを見せている、と言った方がより正確です。程度はどうあれ、皆さんが自身の魂をしみ込ませるべき物質、まさにそのものであることだけは、はっきり言えます。

 この状態にあると、敵対するものとの融合を感じることができるようになります。敵対心むき出しになる必要などもうないのです。例えるならば、自分自身で創造し、分解し、再創造、し、そして癒す力があることを知っているからです。また同時に、事を成し遂げるに必要な神の愛を必要としています。この二つの状態が存在することに違和感を覚えず、むしろ融合していると感じ、またこの二つに相互接続性と相互依存関係があると感じるのです。

 大いなる切望が徐々に満たされてくると、とても興奮する、一方で新たな安心感を人生に与える結びつきが生まれます。神から分断されてしまったことによる全ての断片は修復され、新たな一つの全体感が皆さんに大きく広がります。皆さんの持つ可能性こそが、生きていくための新たな舞台となるのです。生きていくことに心を傾ける能力があることを知ることで、まるでそうであるがの如く、その能力と「心地よくやっていける」のです。このような柔軟な、人生を受け入れる、人生を肯定する姿勢を取ることで、自身の持つ強みは効果的かつ力強く、一方で柔軟に成長していくのです。逆に、柔軟であることは自己主張と自己決定を断固として行うという側面にも繋がります。冷淡で、頑固な反抗精神に基づく強さ(これは弱さを隠している裏返しなのです)と、神の思し召しに基づく真の強さの違いはわずかではありますが、確かな違いがあるのです。

 命に終わりはなく、進行形で、永久の、無限なものであると知ることは、皆さんが今の体から離れる時に、どのように感じ、考え、感じ入り、経験をし、また状態になるのかということを神がはっきりと教示してくださる、ということを必ずしも意味するわけではありません。永久に存在すること、存在することを中断することはできないこと、この感覚は、実際に見たり聞いたりしなくとも、自己の深い部分で知ることができます。

 皆さんの望みや、外見上の切望を考えてみますと、その祈りの力点は、健康、感情あるいは仕事の充実などなど、外部の欲なのかもしれません。たとえスピリチャルな目的が充足されたとしても、いまお話しをしている外的な切望を満たすことはできないのです。外的な充足感は、恐れのない、今もこれからも神に近接性をもって存在し続けることができる、壮大な深い普遍的意識の状態を求めることで可能になりますし、実際のところ往々にしてそうなのです。

 これが次の問いへと繋がるのです。この状態を得るためにどのような行動や姿勢を取るべきなのか、ということです。まず繰り返して申し上げたいことは、新しい視点で自身の気持ち、気分、さまざまな精神的側面をよく見ていただきたいのです。例を挙げるならば、自分なりに解釈してきた多くの側面における気分や状態は、今回のレクチャーの観点から見てみるとさらに深い意味を持っているということに気付くのではないでしょうか。安心感が得られない、落ち着きのない不満に満ちた曖昧な感情は、皆さんが様々なレベルにおいて精査し解決しなくてはいけない心理的問題に深く根を張っているのかもしれません。心理的起因やその説明に加えて、存在しなくなることへの恐怖の裏返しとなる、抑圧された存在に対する大いなる切望、そしてその切なる願いが満たされないことによる虚しさがあるのです。

 蓋で覆われている低次ではない、心理的かつ感情的な問題によるものでもない、イメージや精神的な誤解でもない、より深いレベルにおける自己をさらけ出す必要があります。これらは全て、存在に対する大いなる切望やその願いが満たされないことへの恐怖によるものなのです。皆さんの進化の道において、そのコツを得つつ、レベル毎に外部の迷路をどう歩んだのかということを振り返る必要があります。恐れや切望は、理論的な理解ではなく実際に経験することによってそれが何であるかに気付くことができるのです。

 この恐れと切望を一旦経験すると、他の問題や、痛みあるいは恐れでもって、それらを払いのけたり、和らげようとしなくなるのです。恐れと切望に伴う痛みをしっかりと経験する勇気を持ちましょう。皆さんを内向きへとさせる外部の経験へとこの深く隠された恐れや切望が表出されることを待つのではないのです。不幸にして、ほとんどの人間はこのサインに注意を払っていません。恐れや切望は輪廻転生を通じて続くものであり、カルマを安定させるものとしてそれらを様々な形で表出させ続けるのです。しかし、魂がそれらの表出のされ方、そしてその経験に目覚めて、矢印といいましょうか、源に向かう赤い糸としてそれらを活用し始めると、核心が必ずや見えてくるのです。

 この恐れと切望に伴う痛みの経験を十分に行なわないと、幻想に陥ってしまうのです。逆にしっかりとそのことを経験することで、その痛みは少しずつ解消されていくのです。忍耐力、不屈の努力、そして知恵を駆使して繰り返しこのようなアプローチを取り、経験をしていくことが必要です。最高で、最も望ましいかつ揺るぎない意識の状態、すなわち望ましい状態と今までの行いを含み、覆いまたそれを超える究極の全ての充足感を理解するための知恵とは、すんなりと手軽に、いとも簡単に得ることはできません。ここで意味していることは、皆さんの心と意思をオンにして、集中、コミットメント、献身の心を始動させなくてはならないということです。人生の最終目標は、近接性を持って神は存在するのだという現実を見出すことなのです。理論的な推論やあり余る自身の信念ではなく、己の内と外の命に存在する正真正銘の事実です。

 皆さんは単に不幸だから、やんわりとあるいははっきりと満たされているという感覚がないためにパスワークを始められたかもしれません。人生に対するスピリチュアルな意味を意識的に求めていたかもしれません。しかし、どなたもこの切なる願い、充足することのできない痛みや恐れに気付こうとされていません。というのも怖くてしっかりとそれに向き合うことができないからです。おそらく、そうしたものに向き合う準備ができていない、己の外的な部分における他のレベルにおいてさらに具体的な浄化が必要だからかもしれません。しかし皆さんの中にそうした側面があることを真剣に理解してもそろそろよいのかと思います。それらに向き合うための指導を求めて祈るのです。

 究極の充足感と私が述べている感覚に近いものを一瞬感じた、そういった時間があったかもしれません。もしそうであれば、このレクチャーで私が申し上げている充足感の意味と自身の経験を振り返って結び付けて、調和させてみてください。たとえ短期間であってもこの高揚感、安らぎ、安心感、興奮、魅了された心、深い歓喜、そして生きているというはっきりとした感覚は皆さんのさらなる動機付けのビジョンとなるかもしれません。たとえそのような経験の記憶がなくとも、経験があるが極めて度合いの低いものであっても、皆さんの深いところで、このポテンシャルについてはっきりと把握しているのです。その知識を使えばよいのです。

 疑いの余地なく、努力をして集中することで、その恐れや切望を体験することができるでしょう。最初、それらに対する感覚ははっきりとしたものではないかもしれません。しかしその感覚を浮かび上がらせるにつれて、このレクチャーで私が説明した正にその意味が分かるようになります。分断した意味のない、また接続性のない世界、つまり自身の存在が理に適ってないように見え、いつでも消え失せることのできる、全てを愛する創造者と全てのものに意味を持たせる創造の原則のない、奈落の底で一人宙づりになるような世界への恐れを経験することで、切に全てを愛する創造者と、生きとし生ける者すべてには目的とちゃんとした意味がある、という世界を求めていることが分かるでしょう。恐れや切望を知らずして誤った安心感を与える言葉や、慈悲のない、神のいない世界を受け入れてしまうような間違った皮肉で、あるいは正当な恐れや切望であってもそれらを実体のないものとすることにより、その恐れや切望を追い払うようなことはもうやめてください。皆さんの自己の最も重要なこれらの側面を確かに経験できるような勇気とコミットメントを持つのです。繰り返し、はっきりとした形で痛み、恐れそして切望を感じてください。キリスト教でいう救済にあたる状態を得るためキリストの介入を、最もシンプルかつ謙虚に祈ってください。賢くそして謙虚であれば、この新しい状態をうっすらと短い時間ではありますが知ることができます。しかしまたそれを見失うので、それを求めて何度も何度も闘うのです、内なる努力、この新しい目標を達成することを諦めないでください。

 疑念をもつこと、それは分離された状態の本質です。恐れや、疑念と恐れのないことへの切望と同じように、疑念にも向き合うのです。ただ、皆さんの恐れている状態が存在するのと同様に、皆さんの切に願っている状態も同程度に存在し得るのだという素直な疑いの心にするのです。完全なる確実性、喜び、切望への充足感がある意識レベルにおいて存在しないのであれば、疑念、恐れ、痛み、満たされない切望の状態が生まれてしまうのか、このことを自分に問うてみるのです。

 今、我々はどの宗教においてもそれぞれに取り上げてきた人生にかかわる問題の最も中核的なものをお話ししているのです。救済は、狂信者による思い付きなどでなく真の概念です。もうお払い箱となった宗教と不必要に結びついてしまうという点で、この救済という言葉で気分を害されるかもしれません。しかしこのレクチャーでお話しをしている救済を皆さんの魂が切に願う、この事実は不変です。魂、心、考えていること、知識、感情、存在しているということ、これら全てでもって神はすぐそばに永遠におられるのだということを体験できないと、その魂の少なくとも一部は、たとえ意識的に信じようとしたところで、神の存在、自分の命の連続性の法則への無知から生じる恐れによって、痛みを伴う分離、暗闇をさまよう状態に陥るのです。

 イエス・キリストに助けを求めてください。キリストは、皆さんと共におられ皆さんを愛しているのです。しかし皆さんがそれを感じ取れないのです。というのも分離の状態にあっては、その感覚が鈍るのです。忍耐強く、そしてまた魂の大いなる高まりで自分を奮い立たせるのです。皆さんからすると、この旅路は極めて長いと感じることでしょう。というのも、今までやってきたことは下準備にすぎないわけですから。しかし、永遠なる「時」を刻む偉大なる時計では、それはほんの1分、1秒にしか過ぎないのです。

 物質的世界において大きく前進することが皆さんの課題であり、何もないところを神聖なる生活で満たしていくのです。その過程で、意識の細かな粒子が一時的に分離して、意識全体との分かり切っている永遠なる不可避の接続性が失われてしまったのです。私の言うやり方で再接続をする必要があるのです。この作業に全身全霊を込めるのです。さすれば、全て今やっていること、課題、義務、充足、嬉しさがより意味合いを持ち、歓喜に溢れることでしょう。それは皆さんが切に願っていた、しかしまだ手に入れてはいないと気付いていない、あるいは手に入れてないことを本当は分かっているがそのことにはっきりと気付いていない、そんな新たな光を得るために役立つでしょう。

 親愛なる友である皆さん、今日はここまでといたしましょう。今日の新たなトピックは、皆さんの人生における多くの外的変化が最も意味のある形で起こる新たな段階の始まりについて、お話したということお分かりいただけたのではないでしょうか。このトピックは、決して止まることはない、私が皆さんと直接お話しすることができないときでさえ止まることは決してない、共にやっていかなくてはならない課題の新たな段階に向けた内容です。

 個々人で、またグループで養った成長や前進、とても喜ばしいことです。より力強い光となって皆さんの環境へと広がっていくのです。最大限の注意でもってこれから育む必要のある新たなエネルギーを、いま作り出しているのです。このエネルギーの流れが強いほど、神聖でポジティブかつ歓喜に満ちた経験をする本来備わっているクリエイティブな潜在能力もまた無限になっていくのです。同時に、不適切なネガティブな方向にチャネルを持つことで、この流れは破壊をもたらす可能性があります。したがって、自己の心の方向に盲目とならぬよう、このエネルギーの流れが流れるべきところへと流れるよう、瞑想や祈りは具体的なガイダンスに基づいて行うことをお勧めします。

 新たな課題に取り組む年の1回目のレクチャーを終える前にもう一つ言いたいことがあります。友である皆さん、聖書についてもっと勉強されるとよろしいのではと思います。何がどのレベルにあるのか、それを紐解く上でもこの偉大なる書物の理解に私は力を貸したいと強く願っています。この偉大な本は、歴史的事象、象徴的な意味、最も偉大なる事実、人間の意識の限界による歪み、あるいはかつては「正しい」とされていたものの、今日においてはもはやそうではない、といった既存の文化的要素による歪みなどの様々な断片的なものが集まったものです。その時を超えて叡智に満ちたメッセージを理解し、裨益するためにも殻をもいで聖書に書かれている価値ある真実をお話ししていきたいと思っています。質問があれば私へどうぞ投げかけてください。一か月ありますからお答えを準備し、皆さんに最も有益かつ裨益する形で解釈と回答をしたいと思っています。皆さんにとっても新たな領域となりましょう。

 皆さんに愛と祝福を、これからの旅路においても愛と祝福が皆さんにもたらされますように。皆さんのビジョンが確かなものになることで、今の皆さんの美しい努力が見て取れる現実のものとなるでしょう。キリストの愛に包まれ、神とともにありますように。

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