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No.64 「外的な意志と内的な意志」わがままに関する誤解

Pathwork Guide Lecture No. 64
UNEDITED版
1960年4月29日


「外的な意志と内的な意志」わがままに関する誤解
OUTER WILL AND INNER WILL -- MISCONCEPTION ABOUT SELFISHNESS


 親愛なる皆さんこんばんは。この時間が祝福されたものとなりますように。
今夜は意志の力についてお話ししたいと思います。意志の力を正しく働かせることができれば、ほとんどどのようなことでも達成できるとされています。ですがそう強く願いながらも成し遂げられない経験を皆さんされていることと思います。拮抗する力が無意識の中にあり、それらが意志を散漫にするという事実もさることながら、意志には二種類あることを見過ごしているところにも理由があります。この二種類とは内的な意志と外的な意志です。このことについて理解することが非常に大切です。

 まずはふたつの意志がそれぞれどのように異なるのか、またどのように区別できるのかを見てみましょう。いつもそうですが、自分の感情や反応を正しい光の下で検証することで私の言葉が真実だと確認できることでしょう。このふたつの意志の力ですが、皆さん確かにその両方を経験しているのですが、そこに明確な違いがあることに気づいていないだけなのです。違いを知ることでご自身や他者の自己、そして宇宙の法則をさらに深く理解するための扉が開かれることでしょう。

 外的な意志は張り詰め、いらいらし、窮屈です。内的な意志は落ち着き、リラックスしていて、焦りがありません。外的な意志は不安や疑念そのものです。内的な意志には確信があり、不安も疑いもありません。
望み通りの結果が得られるかどうか懐疑的になることによって焦りは生じます。検証すると分かることなのですが、確信があるときに焦燥感は生まれません。結果に対する不確かな気持ちや疑念が理由で、落ち着きをもって待てなくなるのです。したがって焦燥感、疑念、不安は密接に関連しています。内的な意志には何かを疑うところがないため時機を待つことができ、最終的には勝利することができます。
成功するためには内的な意志によって外的な意志はある程度維持される必要があります。内的な意志がどのくらい機能するかに応じて結果が決まります。拮抗する力を多く含む外的な意志ですが、この外的な意志に対して内的な意志の割合が少なければ望む結果が実現することはないでしょう。
内的な意志は太陽神経叢から生じます。外的な意志の一部は知性から、そしてまた別の一部は魂の表面的な位置から生じます。外的な意志は大抵、未熟な感情や欲求、反応や理論をその動機としています。一方内的な意志は完全に皆さんのハイアーセルフから生じます。
 
 なぜ内的な意志は機能しないままに留まっているのでしょうか。内なる意志を禁じる姿勢は物質世界に蔓延するさまざまなレベルの誤りや真実からの逸脱、幻想によって引き起こされています。端的に言えば皆さんの顕在意識や無意識の中のイメージや間違った結論、誤解が原因です。こうしたものはいつでも皆さんに不確かな感覚をもたらし、内的な分裂を引き起こします。なぜなら何かが間違っていると、深くでは知っているからです。何かが間違った感じはするのですが、この感覚は漠然としています。漠然と何かが真実と一致していないと感じ、自己探求や自己発見の作業をしないかぎりこの気持ちは晴れません。何かが間違っているというこの感覚は皆さん全体を不確かな感覚で包み、成就したいという欲求や希望でさえも不確かなものにしてしまいます。欲求がかなり正当で健全なものであっても、どうも確信が持てなくなるのです。善良で健全な動機を見劣りさせるほどに、求める結果に対する動機が幼稚で真にわがままなものであることにも一因がありますが、それだけではありません。欲求そのものとはまた別に、内的な意志を覆ってしまうにじゅうぶんなほどの逸脱や誤解が無意識にあり、内的な意志が機能するのを妨げているのです。
 
 たとえば比較的小さな欲求であるとか、不健全な動機による妨害がまったくない欲求をあなたが持っていたとしましょう。それにも関わらずこの欲求とは直接関係のない、あなたの内でいまだに存在しているイメージのために内的な意志はじゅうぶんに機能しないままです。端的に言えば、あなたの精神が健全であるほど内的な意志はより良く機能できるのです。不健全な精神はいつでも混乱しており、他者や世界に対してだけでなくそれ以上に、自分自身に対して不確かな気持ちを抱いています。混乱は疑念を生み、疑念は短気を、短気は不安と緊張を生み出します。こうした連鎖反応に加えてその他にも考慮しなければならないことがあります。もしも欲求が満たされないのではないかという疑念をあなたが持っているのなら、そこには罪悪感も存在しているということです。欲求の一部は健康的で善良な動機によるものであり、もう一方は不健康な動機によるものです。つまり欲求の強さは全体で二倍になる可能性があるのです。不健康な動機による欲求は常に抑えがたい衝動を生み出しますから、罪悪感と衝動というふたつの矛盾した動きが内的な意志をさらに苦しめることになります。

 持ちうるすべての力で結果を望んだとしても、今述べたような内なる状態が理由で、あなたの内的な意志は外的な意志を貫通することができません。外側であなたが何かを望んでいても、同時に内側では自分自身がそれを疑っているのです。望むものを獲得できるかどうかを疑うだけでなく、獲得することの正当性を疑っているのです。未熟さが故の自分の自己中心的な姿勢に対する漠然とした無意識の感覚は、有利な結果を獲得する価値が自分にあることに疑念を抱かせます。この疑念こそがあなたの内的な意志の力にとって最大の障害であることは言うまでもありません。

 内的な意志が妨げられるほど、あなたは外的な意志を強めることで穴埋めをしようとします。しかし外的な意志の力は例外なく不健康です。貧弱な代用なのです。外的な意志は緊張や不安、そして短気でいっぱいです。外的な意志はうまく機能することができませんから、同時にフラストレーションも持ち込みます。そしてこのフラストレーションによって疑念が更新されます。自分は不十分であるという感覚や劣等感が加算されることになるのです。

 外的な意志が健康的な動機によって構成されていることもあります。自尊心やプライド、虚栄心、支配原理などの不健康な動機は外的な意志に存在することはあっても、内的な意志には決して存在しません。内的な意志は純粋で健康的であり、疑念がなく、静かに流れます。確信を持っているのです。外的な意志に流れはなく、すべてをあらゆる方向に押し、そして引きます。我々の視点からすると外的な意志は残酷で不均一な動きをしており、稲妻の閃光のように時に強く、また時に弱く見えます。角があり、大抵その角は尖っています。方向と周波数が波打ち、定まっていません。対照的に内的な意志はゆっくりとした均一の動きを保ち、常に丸みを帯びています。

 今お伝えしていることは皆さんに、自分の魂にあるすべての不健康で誤った姿勢や反応を癒す必要があることをあらためて教えてくれることでしょう。このことは皆さんの幸せにとって大切です。よく言われるように、意志の力がじゅうぶんに強ければ山をも動かせるというのは真実です。しかしこの意志の力は内側から来るものでなければなりません。健康的な魂が前提なのです。皆さんが自分の意志がどこから来ているのか探求するならば、今お話ししていることはまた新たな光を皆さんの上に注いでくれることでしょう。もしも自分の意志が人格の外の層から来ていると発見したときは、そしてそんなときにはいつでも、気づきをさらに深め、なぜその意志は外側から来ているのか、それはそもそも何なのか、内なる意志を妨げる動機や不確かさは何なのかと探求を深めていくことができるでしょう。ふたたびここで自分が抱いている欲求を書き出していただくと、書き出しの作業がどれだけ有益であるかお分かりいただけると思います。それが済んだら自分の深くに耳を澄まし、自分が今抱いている意志に精密に自分を整合することでその意志はどのような感じがするのかを感じ、内的な意志なのか外的な意志なのか判断できるかどうか試してみます。それが外的な意志なのであれば、そこには多少なりとも疑念や良心の咎め、罪悪感、疑問などがあることでしょう。これらをあなたが感じる必要があるかどうかは別としてもということですが。もしくはそこには短気で差し迫った感覚があり、緊張しているため、この欲求について考えを巡らせようとするとあなたはひどく混乱してしまうかもしれません。この差し迫った感覚の裏には不確かさや疑念があります。より分かりやすいケースで感じるものと同じものがそこにはあるのです。違いは唯一、今感じているものは表面が衝動や緊急性に覆われているということです。どちらにしても健康的な動機と隣り合わせに存在するこうした不健康な動機を見ることをお勧めします。皆さんよくご存知のように、健康的な動機は不健康な動機を合理化することに寄与することが多いのです。不健康で誤った動機から自分を解放することでしか望むものは手に入らないのだと気づくことは、この作業を進めるための新たな後押しとなるかもしれません。

 自分の内的な意志も時には機能しているのだと気づくことができると、今までの感じとは何かが大きく変わることでしょう。内的な意志が機能しているとき、気の咎めはまったく感じないと思います。何かを望む気持ちと共に深い落ち着きと静謐さを感じることでしょう。そして自分が望みを手にするのだという確信を持ちます。時間はかかるかもしれませんが、それに対して短気を起こす、または身を引くこともありません。自分自身としっかりと繋がった状態です。内的な意志では、あなたを緊張させることのない純粋な力が存在します。この作業は皆さんにとって非常に重要なものですよ。内的な意志を妨げる外的な層の意志を取り除く唯一の方法がこの作業なのです。内的な意志と外的な意志のどちらも同じ目標を追っていたとしても、両方が同じものを望んでいたとしても、外的な意志には常に緊張と焦りがあるというその単純な事実が内なる意志が展開し、浮かび、宇宙の力に影響を与えることを妨げるのです。

 すでに述べたように、あなたの個人的なイメージや誤解はしばしば内的な意志を妨げることになりますが同時に、自分の内的な葛藤が理由でこれまでに取り入れてきた集団のイメージもまた同じように作用します。集団のイメージや集団の誤解の例をここでひとつお話ししたいと思います。取り上げるものは非常に広く蔓延したもので、程度の差こそあれすべての人に影響を与えています。内的な意志を妨害するひとつの非常に大きな要因でもあります。お話しするこの集団のイメージと誤解とは、わがままと利他という概念に関するものです。何がわがままで何が利他的なのかについてはほとんどの人で歪みが存在しています。

 人がよく考えることのひとつに、自分に幸せをもたらすものが何であれ、それは他の誰かを傷つけるのではないかというものがあります。意識的でなければ少なくとも、無意識では誰もがよく考えることではないでしょうか。つまりあなたが幸せを感じるたびに、実際に自分がわがままか否かに関係なく、良心が悩まされることは避けられません。この罪悪感は幸せを求める内的な意志に影響を与えることになります。もしも自分が何かを楽しむことがあれば、もしも歓びや幸せをもたらす何かを自分が獲得することがあれば、それは他の誰かの犠牲の上に成り立つのだと自動的に無意識に考えているということです。わがままであってはならないと皆さんは教わってきました。「わがまま」な欲求を抑圧しなければならないと思ってきたわけです。結果的に自分の欲求が実際にわがままなものなのか、そうでないのかを区別することに失敗し、すべての欲求を分け隔てなく抑圧しているのです。幸せを求めるすべての欲求はわがままであるという信念のもと、どのような欲求も決して持つまいとしているのです。それぞれの欲求がわがままであるのかそうでないのかを区別することができないこの抑圧の過程で、非常にわがままな欲求も、非常に健康的でわがままとは何の関係もない欲求も、ひとくくりにしてしまいます。こうなると整理することも判断することも、折り合いをつけることも何もできなくなってしまいます。なぜなら整理し、判断し、折り合いをつけることではじめて、自由にどの欲求を選ぶのかを決めることができるからです。無意識の概念を端的に表わすと、幸せとは「わがまま」なもので、欲求とは幸せを目的としているためすべての欲求は抑圧しなければならない、とこうなります。つまり欲求は追い出されるわけですが水面下で存続することになります。無意識の中の真にわがままな欲求も、正当な欲求と同等にあなたに罪悪感を与えます。そのどちらも騒ぎ、主張を続けますが、大抵人はこれに気づきません。これらすべてに加え、欲求を禁ずることはあなたを憤慨させます。幸せにさせてくれない世界に憤慨するのですが、実際には自分自身の間違った結論がその原因なのです。すべての欲求や衝動を抑圧することによって、幼稚な欲求、つまりわがままな欲求が成熟し、洗練することができません。こうした欲求が成熟し洗練されるためには、それに気づき向かい合わなければなりません。結果として正当かつ健全で、少しもわがままでない欲求や衝動も成就できないのです。

 あなたを幸せにしてくれるという単にそれだけの理由でわがままだと決めつける無意識の結論が皆さんを苦しめています。これは非常に悲劇的なことですよ、皆さん。幸せや喜びに対する不必要な代償です。実際何がわがままで何が空想なのかを区別することができないというだけで、断固として幸せを望むことを拒んでいるのです。自己表現をしたいという正当で健康的な衝動が起こるたびに、自分の中にある非常に未熟で冷酷なわがままを扱うのと同じ形でそれを受け取り、感じているのです。

 ここで問題となるのは、すべての人間にある未熟な部分の、真にわがままなところを一体どのように扱えばよいのかということです。よく見る間違った方法はわがままを抑圧し、それほど共感してもいない利他の姿勢を上から強制的に被せることです。これでは、わがままであることを自分に許すことは実は非常に快適なのではないかという概念が派生してしまいます。この考えはあなたの中で足がかりとなり、わがままであれば幸せがやってくると無意識に信じることになります。しかし悲しいかな、わがままであることは許されていません。幸せを求める気持ちに従えば、人から愛されることも認められることもなくなってしまうと間違って思い込んでいるのです。愛と承認はあなたにとって必要なものですから、それが手に入らないくらいなら「幸せ」の方を手放します。つまり内的な状態を言葉に表すと次のようになります「もしもわがままであっていいのなら、やりたいことはすべてできる。それが幸せということだ。一方で、人から愛されず認められることがなければ私は幸せにはなれない。つまり、幸せになるためには不幸せになる必要がある」と。完全に不合理に聞こえるかもしれませんが、未熟な潜在意識とはまったくこの通りに不合理で矛盾しているものなのです。人の魂にどれだけの悲痛な混乱が存在しているかがお分かりいただけると思います。似たような感覚が自分の中にもあることを確認することはそう大して難しいことではないのではないでしょうか。この葛藤はある程度例外なくすべての人にあると、ここで思い切って言わせていただきたいと思います。人によって程度の差こそあれ、あることには変わらないのです。皆さんが必要以上によく感じる救いようのない絶望の原因がこの間違った結論です。この絶望は皆さんが時折陥る気分的なもの、理由や合理化を自分の外に見出そうとする気分をはけ口とします。とはいえ、絶望の裏には先程お話しした内的な葛藤があり、それが本当の姿なのです。もしこの誤解が事実だったとしたなら、幸せとは実際不可能です。そして人から愛されることなく不幸であれば、自分が絶望的であることは正当化されます。

 この間違った概念によれば幸せはわがままなことであり、幸せになれば人から愛されることはないということになります。どちらにしても不幸です。このふたつの間を行き来することはできるかもしれませんが、どちらに転んでも不幸でフラストレーションを感じることになります。しばしば人は内的に反抗し、世界や周りの人々にこの法則、もしくは一見法則と見えるようなものを破らせようとします。しかし、自分は解決の糸口のない状況にあるのだという信念があなたを間違った方向へと駆り立てます。皮肉なことに正当で健全な衝動ではなく、あなたの中の最も幼稚でわがままな衝動をまっとうすることでこの状況から抜け出そうとしてしまうのです。これは他者の気を損ない、否定的な反応を引き出してしまいます。他者からの反応によってふたたびあなたは自分が置かれた苦境がやはり絶望的であると確信を新たにしてしまいます。しかしそこにある反抗心の原因には気づいていませんから、真に健康的な衝動の方を選ぼうなど考えにも及びません。代わりに他者とのこの試みにおいてあなたは最も激しく、わがままな衝動の方を選んでしまいます。気づきが進み、意識的な識別と選択を持ってしてはじめてあなたは適切な選択ができるようになり、自分の内なる結論は間違っていたという証拠を他者から受け取ることができるようになるのです。葛藤が内なる意志を挫き、達成する権利のある欲求までも禁ずる様は自明の理といえるでしょう。

 もしもわがままが許されるのであればその方が幸せなのではないかという考えは無意識の中にだけ存在しているかもしれませんが、同時にあなたは今ここで求められている正しい答えは何なのか、どうするべきだと期待されているのかを知っています。こういった場合には、適切な形で自問をすることで内なる矛盾やブロックに近づくことができます。じゅうぶんに深く入っていくことでこれまで自分が持っていたこの答えはどんどん、自分自身にでさえ説得力のないものとなっていきます。こうなったときあなたは、痛んだ場所に近づいているということです。このことについて少し考えてみると、もしもわがままが許されるのであればその方が幸せだというこの考えに完全に無意識だったわけではなく、意識的でもあったと気づく方も中にはいらっしゃるかもしれません。
この誤解が意識的であっても無意識であっても、日々求められる利他的行動をどうしたら自由な心で行うことができるのでしょうか。実際に利他的行動を実行に移しているかどうかはここでは問題ではありません。どちらにしても葛藤があるでしょうから。利他的行動を起こさないことに罪悪感を抱き、反対に行動に移せばそれはそれで自分の意志や信念に反するように感じるからです。これでは任意に選択される自由な行動ということにはなりません。本心から同意して何かを行うのではなく、それが衝動からの行動なのであれば一体どうして自分自身と統合された状態であれるというのでしょうか。きっとあなたの中は分裂し、自分自身といがみ合い、内なる平和や正しさが失われた状態となっていることでしょう。自分に罪悪感を抱かせることをし、個人的な興味に反することをして一体どうして幸せになどなれるでしょうか。あなたがこの信念を抱いているかぎりは、どちらの選択もあなたに不満を抱かせることになるのです。

 今度は、今お話ししている概念がなぜ間違っているのかについて検討してみましょう。人格の内でこの誤解が含まれている部分についてお話しします。

 まず、あなたを幸せにするという単にそれだけの理由ですべてが自動的にわがままで他者に害をきたすというわけではありません。それどころかあなたが幸せであればより多くの幸せや喜びを他者に与えることができます。他の人にするのと同じように自分自身を思いやる資格があなたにはあります。自由で強く、そして幸せな人間であってはじめて充実した人生を送り、今いる環境で建設的になることができるのです。これを達成するためには自分自身を思いやる必要があります。自分自身の権利を尊重する必要があるのです。そしてこれが他者の利益や権利とぶつかることは本当にないのです。そう見えるときもあるかもしれません。確かめるための唯一の方法は自分自身に完全に正直になることです。他者の利益に反しているように見えるとき、自分の行動が正しいか間違っているかを判断するひとつの決まったルールがあるわけではありませんが、自分が抱いている望みや衝動、そして動機に完全に気づいていることは必須です。こうしてはじめて何がわがままで何がそうではないのか識別できるからです。

 一見非常に望ましくまた有利に思えるけれどわがままであることについては、皆さんがそれに気づいていても無意識であっても、次のようなことが言えると思います。わがままというものは実際には、たとえ今そう見えていたとしても、何の特にもなりません。あなたの意識が高まれば高まるほど、このことを強く確信するようになるでしょう。今はまだ理解することが難しいかもしれませんし、真実の完全な形としてこれを目標に掲げ努力していくことしかできないかもしれません。今お伝えしている展望はしかし、自分に押し付ける、または正しい行動を取らなくてはならないと思うという理由でそうしているかぎりは獲得できません。行動の選択が完全に自分から来るものでなければ、つまり自由な場所からの選択でなければ自分のものにはならないのです。それまでにあなたができることといえば、そしてすべきことは、自分自身に素直になることです。それでもなお、わがままな行動がより望ましいと思うようであれば、以下のような方法で熟考することができます。原因と結果を持つひとつの独立した出来事は、それ単体で見るときと、より大きな文脈で見るときでは違った側面が見えてくるということです。別の言い方をすると、ある出来事を見たとき、わがままは有利であるという見方が実際本当なのではないかと思えるかもしれません。しかし一連の連鎖反応を追ってみるとまた別の視点が見えてくるに違いありません。この新たな視点によりあなたは、以前のように利他的行動に無理に走らされるのではなく、自由意志によってそれを選択したいと思うようになります。これ自体が途方もなく大きな違いを生み、自動的に新たな展望を目の前に開き、わがままであることは今もそして長期的にも有利ではないと示してくれるのです。わがままが有利であるという考えは現実から切り離されたものです。行動による最初の影響だけを見るかぎり、全体像は見えません。断片のみが見えているのです。断片のみで全体を伝えることはできません。たとえば大きな家にある小さな石だけを見せられるとしましょう。石を見ていくつかの事実は述べられるかもしれません。石の質や素材、色について語ることができるかもしれません。しかし小さな石を見たからといって、家がどのような様子であるかに言及することはできません。家の美しさやセンス、建築や家の中はどうか、部屋の形や家具のしつらえなどを判断することはできないのです。断片のみでは限られた判断の可能性が与えられた状態だとも言えます。人間の内的および外的な行動、姿勢、反応にも同じことが言えます。直近の結果のみを考慮することで、断片のみが与えられた状態にもかかわらず全体に対する判断を引き受けることになるのです。視野を広げる必要があります。そうすることでより真実に近い洞察を得ることができるからです。信仰によって何かを受け入れなさいと言っているのではありません。いい人になることで来世は報われるといったことでもありません。あなたが起こす正しい行動の結果は今、この場所で、この地球に生きている間に経験することができます。

 わがままが有利だと考える、またはそう感じるとき、あまりに当たり前なことをあなたは見落としています。原因と結果を繋げることができていないのです。視野がぼやけているのはこのためです。原因と結果というあまりに明らかな事実を繋げるのに超自然的な洞察や形而上的な知識など必要ありません。灯台下暗しにならず、目の前にある事実としっかりと繋がり、考え、少し先まで手を伸ばすことが必要なだけなのです。

 わがままな行動と利他的行動のどちらかを選ばなくてはならないとしましょう。利他的行動が利益をもたらす様子はなく、少なくとも直接的な利益にはなりそうにありません。しかしもしも客観的に見てその行動が自分にとって何かしらの利になると信じるのであれば、それが世界という大きな規模に対する行動であっても、より小さなグループに向けたものであっても、たったひとりのためであっても、きっと何かしらの形であなたに利をもたらすことになるでしょう。すぐにそうなるとはかぎりませんが、それでも皆さんが思うよりもよっぽど早くに起こるものです。この確信は今後育っていきます。確信は事実へと変化していきますが、自分が取る行動は正しいものなのだと心から納得し確信している場合に限ります。選択が自由に成され、衝動によるものではない必要があるのです。報いを得るためではなく、正しいと信じている、それだけでなくてはなりません。報いの形が愛着や愛、承認、他者からの義務として受け取るもの、または良い子であることで神から報われるなど、どの形であっても報いのためであってはならないのです。別の言い方をすれば行動の選択は自分自身から来るもので、そこから何かを得ようとするのではなく(直近の利が誰に行くものであったとしても)純粋な選択でなければならないということです。こうして選択できるとき、あなたは自分自身と統合され、ひとつとなる感覚があることでしょう。視野を広げ、必要とされている成熟まで意識を上げることに繋がります。わがままは得なことではなく、ましてや利にはならないという真実があなたのもとにやってくることでしょう。またさらに別の言い方をすれば利他的行動とは健康的な意味でわがままだということです。

 利他的行動を報酬のために実施することは、それをわがままな行動へと変えてしまうとお伝えしました。しかし反対に正しい行動に正しく成熟した形でコミットするとき、隠された動機なく自由意志でそれを選択するとき、ある種の報酬が獲られるものです。その報酬とは自分と統合されることによる気分の良さ、そして自分を尊重することでのみ得ることができる安心感です。自分が心から認める何かを行うとき、そこには自分を尊重する気持ちが追加されます。この気持ちは決然とした利であり実にさまざまな形となって現れます。それが故に自分を軽蔑する多くの弱さを克服する強さも、その他たくさんの利をあなたに与えてくれることでしょう。恐れや不安のいくつかは軽減し、特に人と接するときのそういった感情を軽減することでしょう。他者を恐れる感覚は常に、自分の弱さや自分は不十分であるという感覚に基づいています。自分の中の混乱に終止符を打ち、利他的行動を続ける決断を独自に下すことによって、つまり自分自身と統合された状態になることによって、他者に対する恐怖や弱さの原因となる自分は不十分だという感覚や自己卑下を減少させる自尊心を獲得することができるのです。

 自分が本当に望み利他的行動を実行するのか、もしくはそうしなければならないと思うからそうするのか、この違いはとても大きいと強調してもしきれません。利他的行動を取りたいと望むための確信が欠けているのであれば、確信がもてるようになるまで自己探求を続け、利他的行動を取りたいと望むという目標の状態と比べて今の自分の動機や概念はどうか査定し続けなければなりません。こうしてはじめて衝動に駆られることなく自由意志で決定することができるようになるのです。結果的に、利他的行動は内なる確信に反するものとして自分に課さなければならない束縛ではないことが分かります。もしも利他的行動の動機が正しく、自由意志で選択されたものであり、あなたの反応が成熟しているのであれば、利他的行動とは健康的な意味で真に自己中心的なものであり、利となるのだと疑うことなく理解することでしょう。

 今述べたことは、もしもわがままに溺れることが許されるのであれば自分は幸せになることができるという誤解からあなたを解放することでしょう。幸せはわがままなので禁じなければならない、というまた別の誤解がこの誤解から生じます。間違った結論によって内なる意志は機能することを妨げられ、あなたから表出することができません。幸せへの欲求が生じるたびに、内なる小さな声がそれを禁じ、内なる意志が潰されることになるのです。欲求は外的な層で「再生」するかもしれませんが、先程もお話ししたように外的な意志はどんな目標も実現させるにはじゅうぶんではありません。外的な意志はあなたを引き裂くだけであり、内なる強さや平静、平和を破壊するだけです。

 皆さん、自分の意志がどこから来ているのか、どんな感じがするのか意識してみてください。内なる意志が妨げられていると感じるときは、自分の中のどこで欲求の正当性を疑っているのか、そしてなぜ疑うのかを探ってください。あなたが抱いている欲求が実際に他者や自分に害を与えるものであり、疑いが正当なものであることも時にはあるかもしれません。またあるときは、欲求は正当なものとみなされるかもしれませんが、多くの無意識かつ不健康な動機が健康的なものと混じっているかもしれません。また別のときには、あなたの願いは完全に正しく善良なものであるにもかかわらず、わがままやその他に対するあなたの誤解が内なる意志の機能を妨げるかもしれません。

 今夜扱ったテーマは広く蔓延したものであり、重要です。このテーマがどのように皆さんおひとりおひとりに影響を与えているかを探るためにはおそらく個別にワークをする必要があると思います。それぞれの人で違う扱い方をしなければなりません。とはいえ、今日お話ししたことが自分にどのように当てはまるのかを感じ、このテーマについて考えていただくことで皆さん全員が前もって準備をすることはできると思います。
このテーマについて何か質問はありますか。

 質問:真実の自己からの行動ではないと分かりながらも、変わりたいという気持ちから利他的行動をとり、衝動からの行動にはしたくないと思っています。それでもあまりに疲れ、疲労困憊し、何が自分に欠けているのか理解しようとしてもできないときがあります。

 回答:あなたがとても疲れ、疲労しているという事実そのものが自分の内なる意志に反して利他的行動に専心し、実際には衝動から行動に出ているというサインなのです。あなたは善良で利他的でありたいと思っていますが、奥深くでは自己中心的な行動が自分に利をもたらすと思っているのです。結果的にあなたは自分を強制することになり、これがあなたを疲れさせます。自分の中の衝動を瞬時に無くすことはできませんし、自由に選択する状態にすぐに達することはできません。自己中心的な行動はあなたの利とはならず、利他的行動がそうなのだと気づいてはじめて自由に選択することができるようになるのです。この誤解は深くに埋もれていることもあるため、まずは意識的になる必要があります。この気づきの段階を飛ばすことはできません。飛ばしてしまえば利他的行動は衝動に留まり、不自由な選択のままです。別の言い方をすれば、利他的行動をしたいと思っていない自分にまずは完全に気づく必要があり、なぜそうなのかを理解する必要があるのです。過去に利他的行動に従うことに反抗的であったこと、そして同時に自分の自己中心的な行動に罪悪感を抱いていたことに気づかなければなりません。ワークのこの部分は時に少し痛みを伴いますが、重要です。取り除いてはいけない部分です。この段階をじゅうぶんに克服してはじめて自分の行動や態度を識別し、判断し、そして選ぶことができるようになります。こうして自分の中にある概念を作り直すことができるのです。

 多くの人が個人セッションで自分の正当な欲求や衝動が抑圧されていたことに気づき、そしてこの気づきはさらに自分の中にある自己中心的な欲求も浮き彫りにします。そして発見した自己中心的な欲求を行動化する場合が多いのです。つまりふたつの間違った状態を行き来する状態から抜け出すことができなくなってしまいます。こういった場合ワークはまだ完了していません。半分のところで行き詰っているのです。それに、自己中心的な衝動を行動化する必要はないはずです。わがままを抑圧するか行動化するかという二択よりも多くの選択肢があるはずです。自己中心性や有害な行動にはけ口を見出すことなしに何かに気づき判断を下すことはできます。とはいえ、可能なかぎり正直に気づいていかなければ先には進めません。ちなみに個人セッションが人を以前より自己中心的にするとよく責められるのはこれが理由です。個人セッションが適切に扱われれば、こうなる必要はないのです。過去に間違った動機から正しい行動を取ったことがあるからといって、間違った行動を取る必要はありません。もし望むなら正しい行動をするのを嫌だと思っている自分に気づくプロセスに身を置きながらも、同じ正しい行動を続けることもできるのです。何にしても今の状態は一時的なものです。あなたは移行期にあるのです。今ここで何よりも重要なことは、なぜ自分がその行動をしているのか、そしてその行動をするときにどのような感じがするのかを感じることです。

 要約します。探求をはじめる前の段階では、自分が利他的行動をしていると思い込んでおり、その行動に対する憎しみや反抗心に気づくことなく単にその行動を嫌っています。次の段階では、この行動に対する憎しみや反抗心が自分の中にあることに気づきます。さらに、自分をこの行動に強制している他者(そう思いたいということですが)を非難している自分に気づきます。そして次に、自分は実際なぜこの行動を取っているのか、本当の動機は何であるのかを検討し直す段階がやってきます。人は大抵ここで、人から期待された結果今の行動を取っているのだと気づき、人からの承認やその他の見返りを欲しいが故に他者に嫌な思いをさせたくないと思っていることが明るみに出てきます。さらに探求を続けると、それまでに発見した理由とはまた別に、わがままな行動の方がよっぽどいいと思っている自分に気づきます。なぜそうしたいのかと自問してみると、わがままな行動はより利益が大きく快適だからという答えがやってきます。ここまで来れば、あなたの中の誤解を真の概念に置き換えることができる段階に達したということです。ただしこの置き換えは誤解をすべての側面や度合いで完全に意識できたときにはじめて起こります。そしてまたこの段階では、自分が取った行動は衝動的で不自由なところからの選択であったが故にわがままなだけに留まらず、人からの承認を求めていたわけですから、一見利他的だった行動は実はよりわがままなものだったということに気づかずにはいられなくなることでしょう。わがままの尺度が単に変わっただけなのです。個人によって形はもちろんさまざまですが、今説明した大まかなプロセスを経験する必要があります。そのうえで行動を続けるかどうか決めればよいのです。それぞれの場合によってこの判断も異なることでしょう。このプロセスであなたは過去に自分が不当で不必要なことをしてきたこと、そしてこの行動で他者が、最終的には本人が傷つくことになるにしても、あなたを利用していたことにも気づくことでしょう。他方で中には有効で合理的な行動もありますから、たとえ今も動機が明らかでなかったとしてもそれを続けることができるかもしれません。どちらにしても自分の感覚や動機、内なる反応に気づくことが大切です。多くの場合無意識である内なる概念に気づくことが大切なのです。そして何より、自己欺瞞に気づくことです。

 本物の感情が流れ表出することを許すことではじめて、ようやく内なる概念が変化するところへと達し、真実に対する確信を獲得するのです。

 質問:今夜お話ししていただいた間違った動機の多くを自分の中に感じ、同時にそれらを変化させたいと望みつつ自由意志で自ら選択してもなお、自分は少しわがままだと感じます。承認や愛を求めているのとも違い、何か新しいやり方を試したいといった感じなのだと思います。

 回答:完全に意識に上がっていないだけということもありますが、承認や愛をそれほど求めていないということなのですね。霊的に進んだ人になるために神の意志を行いたいということなのかもしれません。何にせよここでは動機はあまり関係ありません。動機もまた、上から被せられたものに過ぎない可能性もあるからです。否定的な動機に気づいているにもかかわらず自分の中にまだわがままなところがあると感じるということは、自分の中のすべての感情や無意識の結論、考えに完全には気づいていないということです。元々のわがままな欲求の方が快適だとどの程度自分が思っているのかまだ分かっていないのかもしれません。その意味ではどんな欲求を自分が持っているかじゅうぶん把握していないかもしれません。誤解によりしばしば欲求は抑圧されており、隠れた場所から表に出さなければなりません。自分が本当に望んでいるものは何なのだろうか。そしてなぜそれを求めるのだろうか。こうした問いははじめシンプルに聞こえるかもしれませんが後になると多くの人にとって最も難しいものとなります。欠くことのできないこの最初の問いかけの作業は多くの場合、今あなたが考えているよりも難しいワークです。これが成し遂げられるとき、事はより容易になることでしょう。いつもここで難しいのは、ある一定のところに到達するまで人は自分の中で何が起こっているのかあまりよく分からないということです。自分が動揺していることは感じるのですが、理由を突き止められません。自分の本当の欲求が何であり、なぜそうなのかしばしばまったく意識出来ていないのです。心が動揺し不安を感じるたびにこうしたことを意識できるようになれば、この道において大きな前進を果たしたことになります。まずは自分が何を欲しているのか分からなければ、今お話ししているような内容をより深く探り、分析することはできません。これを見つけることができれば、つまり単に自分が欲していることを知り、正当化の裏にあり自分を動揺させているものが本当は何であるかを知るだけで、動揺が大幅に軽減される経験をすることでしょう。

 親愛なる友よ、今夜お届けした私の言葉が皆さんの内なる進歩のためのさらなる材料や糧となりますように。今夜のお話は皆さん全員にとって非常に大切な種子を含んでいます。新たな自由に向けた新しい展望を開くことになるかもしれません。真の自己を牢獄から解き放つための大切な鍵のひとつを含んでいるのです。親愛なる者たちよ、おひとりおひとりに祝福がありますように。平和のうちにあってください。神のうちにあってください!

   
   

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Pathworkのガイドの著作物は、The Pathwork Foundationの所有資産です。このレクチャーは、The Pathwork Foundationの商標、サービスマークおよび著作権ポリシーに準拠して複製され、いかなる方法においても変更または省略することはできません。また、著作権、商標、サービスマークおよびその他あらゆる公示の削除は許可されません。
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日本語版の取り扱いについて
Pathwork in Japan (パスワーク・イン・ジャパン) の許可なしに、無断でコピー(複製)、貸与、頒布、販売することを固く禁じます。また、文書およびインターネット上(ウェブ、メール)での引用・転載を含む公開も禁止します。

また、本レクチャーの受領者は、英語版から日本語版を作成する際に発生する複製・配布・翻訳などにかかる費用をご負担いただきます。

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