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Pathwork in Japan
No.68 ポジティブで創造的な性質の抑圧 「思考の作用」
Pathwork Guide Lecture No. 68
UNEDITED版
1960年6月24日
ポジティブで創造的な性質の抑圧 「思考の作用」
SUPPRESSION OF POSITIVE AND CREATIVE TENDENCIES; THOUGHT PROCESSES
親愛なる皆さん、ご挨拶申し上げます。神の祝福がありますように。共に過ごすこの時間が、豊かなものとなりますように。
人間の人格についていつもとは少し違った角度からお話しすると先日お約束しました。今期最後である今夜がふさわしいでしょう。今期最後のレクチャーとして捉えるだけでなく、来期の序章としても捉えていただければと思います。
これまで行ってきたレクチャーの初期では、宇宙や創造、そしてその中における人類の役割について、概括的な内容をお話ししてきました。個人的な成長や浄化の重要性へと話が発展していきましたね。そして次の段階のレクチャーでは、間違った考え方や間違った結論、逸脱を原因とした人類の魂の障害(つまり葛藤や不幸せさを作り出すイメージのことです)を取り上げました。別の言い方をすれば、人間の魂の病んだ部分への癒しを取り上げてきたわけです。間違いや欠点、自己中心性などの抑圧と人格が向かい合えたときに癒しが起こります。抑圧が表面化し、いかにそれが間違った推測に基づいていたか、その存在意義を理解するとき、それは現実的で本物のコンセプトとなり、ゆっくりと心理に組み込まれていくのです。つまり、今までの私たちのワークは主に人間の人格の中でも、抑圧されたネガティブな側面を取り上げてきたということです。
言うまでもなくこれまでに行ってきたことは、人格を最大限に引き出し、成長させるために必要なすべてを含んでいます。人は悪い性質だけでなく、良い性質も抑圧します。私たちのワークの目的は魂の病んだ部分を癒すだけではありません。あなたの中で表現することを許されなかった部分、目的を達成しようともがいている部分が成長できるよう励ますことも、同じように重視しています。言い添える必要もないとは思いますが、自分の中のネガティブ性を抑圧することはもちろん、ポジティブ性を抑圧することに繋がります。無意識の中に存在する、間違った結論に基づいた破壊的な性質は、あなたの中の建設的で創造的な側面をも禁じてしまうのです。これは明らかです。ですから、あなたの中にある逸脱ももちろん、引き続き取り上げていきます。新たなアプローチの幕開けだからといって、これまでのアプローチを放棄するわけではありません。実際にはその逆で、破壊的なイメージをあらゆる方向から見直し、さまざまなヴァリエーションを見ていく必要があるのです。こういった作業がここで終わりだと考えている人はきっといないと思います。
ポジティブで創造的な性質の抑圧を模索するという、新たなアプローチを加えていきたいと思います。この性質は、個性を表現することを強く要求するのですが、個性とあなたの周りの環境は必ずしも一致しません。なぜポジティブな面が抑圧されなくてはならないのか、不思議に思うかもしれません。つじつまが合わないと思うかもしれません。不快で抑圧をする必要があるのは、ネガティブな側面だけなのではないかと思うかもしれません。しかし、そうではないのです。不快を抑圧するのと同じくらい頻繁に、人格にとって本来有益で、個人の成長へと繋がるはずの、最も創造的で建設的な面をも人は押さえつけるのです。
どれだけ頻繁に自分の中の最高の力を削いできたかに気づくことでしょう。この力が削がれてきたのは、間違った動機だけが原因ではありません。周りの環境によってくじかれたところもあるのです。ハイアーセルフに抱く羞恥心について前回お話ししましたが、あのお話しは今回と同じ題材を普遍的に扱ったものです。今回のレクチャーに向けて徐々に皆さんの準備を整えてきたのです。しかしこういった普遍的なものとはまた別に、善し悪しや正解不正解とはまったく関係のない、個人的で各人に独自の抑圧がたくさん存在しています。あなたが気づいていないだけで、他人にとっては間違いでも、あなたにとってはまさに求めていたものだということもあります。周りの環境の方針に従って行動し、考え、感じ、対応し、表現しなければいけないと思っているのです。一般化し平均化する性質は、あなた方人類に一番よく見られる病のひとつで、皆さんが考えている以上に影響を与えています。自分という個の表明や創造性、表現を抑圧することであなた自身の心理にも影響が出ます。この影響は、人生を自分の選択とはいえないやり方で進めていくという形で現れます。周りの環境があなたのやり方を認めなかったからです。実際には、あなたのやり方に問題はなかったのです。それどころか、そのやり方は、魂が最大限の成長を果たすために最も必要なことだったかもしれないのです。今あなたが取り入れているやり方は、魂に最大の成長をもたらす、才能や行動を抑圧しているかもしれません。こういったことは生活の送り方といった、一見細かくて重要ではないことにも当てはまるのですが、ディテールこそが最も大切な場合もあります。というのも人格は、一見大したことのない小さなことに影響されて成り立っているからです。今となっては自分が絶対に欲しくなかったこと、そしてやりたくなかったことが何であったか分からなくなっているかもしれません。ネガティブな動機に基づいた逸脱から自分を解放すると、抑圧されていたポジティブな側面も表面化し、正しい光で物事を眺めることができるようになります。抑圧されていたネガティブな側面を、これまでに扱ってきたのと同じですね。
自分の中で最も創造的な部分を抑圧するという、極めて個人的なこととはまた別に、前回のレクチャーで説明したようなハイアーセルフに抱く羞恥心など、普遍的でより一般的な抑圧もあります。もうひとつ、すべての魂に一般的に見られる抑圧に、自分の霊性を表明することへの抑圧があります。表面的にはもう、自分には当てはまらないと思うかもしれませんが、存在の深い部分にはまだ残っているのではないでしょうか。生命力の顕現を抑圧するときにはいつでもそうですが、自分の霊性の表現を拒むときも同じように、自分を傷つけてしまいます。今は霊性を表に出すことを自分に許しているかもしれませんが、過去には拒んでいたときもあったのではないでしょうか。過去に、なぜそうだったのかを知ることは大切です。自分がどれだけの反抗や反乱を起こさなければならなかったかを知ることもまた、大切です。そしてどちらも、本来は必要ではないはずです。霊性という自分の側面に、どれだけの恐れや恥を今でも持っているかを知ること、そしてその気持ちを特に強く向ける相手がいることを知るのも大切です。すべては大切なのです。もうすでにお気づきかもしれませんが、多くの場合、ネガティブ性とポジティブ性の抑圧は互いに強く作用し合っています。周りからの意見や同意へ依存することはつまり、無意識の中にイメージを形成する欠点や身勝手さ、破壊性に繋がるのみならず、あなたの中で最も素晴らしい性質をも剥奪してしまうのです。そして後者は、前者と同じくらい、あなたを苦しませます。
霊性の表現への渇望について考えるとき、組織的な宗教がその答えになることはめったにありません。特にあなた方が生きている時代ではそうです。前の時代にあっても、組織的な宗教が成せることはそう大きくなかったでしょう。人が創るほとんどすべての組織がそうであるように、宗教も一般化し平均化し、すべての者に真実を提供するはずだったルールや教義を作るという人間の性質に左右されていたからです。犯罪などの愚行の管理や、共同体の健全さを目的とした社会的な法律などは別としても、個人の霊性はきわめてプライベートな問題です。ある人にとって最大の成長をもたらす霊性や、人生の送り方、表現の仕方が、他の人に当てはまるとはかぎりません。組織的な宗教はこのことを考慮していませんし、現代の宗教に代るさまざまなものも同じです。人にとって大切である霊性の表現ができるようになるには、我々がここで行っているようなワークを行う必要があります。つまり、あなた自身の個性やその顕現を抑圧するに至った原因に気づくということです。
あなた独自の神聖な性質の表現は、どれほど倫理的なものであっても、いかなるルールや規則、教義にも当てはめることはできません。こういったルールは、表面的で正しい管理の在り方を示すことができたとしても、内面を正しく管理することはできないのです。昔はよく、人の霊性は宗教上の信条が掲げる一般的なルールによって妨げられていました。現代では、物質主義的な哲学という新たな教義によって妨げられています。自分の霊性の表明を抑圧することとひきかえに、社会のルールに跪くとき、その人の魂は苦しみ、行先を失います。
人は、人生の計画を抱いてこの世に生まれます。その計画を全うするために、あなたの心理は大声で、ある特定の方向へと進むように要求します。自分の中の逸脱やイメージ、間違った結論のせいであるとか、周りが良いとする行動をとるのが正しいと信じているからだとか、理由は何にせよ、この内なる呼びかけを否定すれば、あなたの人格の成長は救いようもなく妨害されてしまいます。
人はよく、愛と、センチメンタルな弱さやマゾヒスト的な依存の違いから目を逸らしますが(つまり、愛から退くわけですが)動機の弱さ故にまがい物の宗教へと逃避することと、本物の個人の霊性の違いもまた、ないものと捉えるところがあります。識別の欠如は、人の人格に深刻な結果をもたらします。
自分自身の最奥の自己がどこへ行きたいと導いているのか。それにも関わらずなぜ外側の自己はこの声に従わないのか。こういったことに無意識であることは、ネガティブな側面を抑圧するのと同じくらい人格を妨害します。今あげたような人格の側面を扱っていくことを、ここから先の我々のワークの目標としたいと思います。これまでに行ってきたワークの延長として、追加の考察となるということです。この新たな取り組みは、きわめて重要です。そして、以前と比べると、歓びの感触があるのではないかと思います。というのも、自分の欠点や子供っぽい身勝手さ、さまざまな間違った考えに向き合うのは、心地よいことではないでしょうから。この新たな取り組みは、じゅうぶんな気づきに達すると開放感を味わえるのですが、それまでは無意識が抵抗し苦しみ、ワークの喜びを奪ってしまうかもしれません。当初は正しいと思っていなかった内なる声、満足へと自分を導いてくれたはずの内なる声に気を留めなかったのだと気づくとき、ある種の悲しさを経験することも確かです。純粋な動機で正しいゴールを求めたにも関わらず、ネガティブな性質が邪魔をして自己の最奥の声に耳を澄ませなかったことも確かです。これから私たちが進めていく次の段階でも、こういった抵抗は残っているかもしれません。それでも、自分を表現するという完全なる権利を自分は持っているのだと知った今となっては、抑圧を見つける作業は容易になるに違いありません。自分は間違っているのではないかと漠然と感じ、封印してきた側面は実は、自分の最高の部分もしくは、霊的にも感情的にも最も高い形の達成へとあなたを導いてくれる側面だったと気づくでしょう。これまで罪悪感を抱いてきたことも、これからは歓びとともに気づきとして受け止めることができるようになるでしょう。この気づきは、本来あるべき姿へと一歩近づくようにあなたを誘うでしょう。
人間の人格を包括的に表面化するためには、成長の過程にさらにもうひとつのアプローチを加える必要があります。長い間我々は、人の感情的な側面に心を奪われてきました。もう一度申し上げておきますが、新しいアプローチを取り入れるからといって、感情への取り組みの比重を減らすわけではありません。無意識にある感情を発見することがどれだけ重要か、そろそろじゅうぶんに分かってきているころかと思いますが、ここで人格を表面化させるために追加の助力となってくれるであろう、思考の作用にも注意を向け始めたいと思います。感情と思考の作用との間には明確な境界があるわけではなく、相互作用の関係にあるわけですが、違いがないわけでもありません。
心理的なワークでも同様ですが、自分自身の思考の作用を理解することは、自分自身を制覇することと同じです。意識的なものであれ無意識的なものであれ、感情に支配されれば、自分自身や人生の舵取りができなくなります。同じことが思考の作用にも当てはまります。もしも自分自身の思考を制覇することができれば、精神を、人生を制覇できるようになるということです。私がここで制覇と言うとき、言うまでもなく、ネガティブ性やポジティブ性の抑圧を指しているわけではありませんが、残念ながらよく誤解され、間違った鍛錬を積む人が多いのです。ですから、同じ間違いに陥らないように気をつけなければなりません。思考のコントロールは硬直や抑圧なしに会得することが可能です。実際はその逆で、きちんと行えば、何を表面化しなければならないのかに気づくことができます。今、社会にある活動の多くは思考のコントロールを教えているようですが、抑圧によるものがほとんどです。よく言うことですが、抑圧は必要ではなく、むしろとても有害です。思考をコントロールするとき、感情が前へと出ることを妨げてはなりません。なぜなら感情が前へと出ることで観察し、見定めることができるからです。
思考の作用を理解しコントロールすることは、人格の成長にとって追加で重要なことです。それなしには、自分の最高の状態をじゅうぶんに表現することはできません。来期では、このことについて学び、細かなところに挑戦していきたいと思います。それまでの時間を使って、この題材について考えておいてください。この夏の間、準備をしておいていただきたいと思います。
はじめのステップは、いつもと同じです。つまり、不都合なことに意識を向けていきます。コントロールされていない考えに気付いてください。その考えが、あなたにとってどれほど影響のあるものなのか、その存在意義に気づくと同時に、どれだけ無意味なものであるかにも気付くようにしてください。思考の作用は、複数のレベルや層に現れます。大まかに表すと、前面に出ている思考と背景の思考とに分けることができ、それぞれがさらに細分化しています。適切に観察と集中を向けることができれば、徐々にさまざまな層に気づくことができるようになります。思考の層への気づきは、あらゆることに役立ちます。
前面の思考は随意的で、背景の思考は不随意的です。適切に観察できるようになれば、今私がお話ししていることがどれも、真実であると分かってもらえることと思います。前面の随意的な思考は不意に背景の思考へと滑り落ちてしまわないかぎり、くっきりとしていて簡潔です。建設的なことであれ非建設的なことであれ何かを考えようとするとき、思考を追えているようであれば、それは全面の思考だと思っていいでしょう。落ち着いて自分の思考の作用を観察してみると、そう時間がかからないうちに背景の思考の重要性に気づきます。背景の思考は自発的ではなく、混沌としており、そのほとんどが非建設的です。背景の思考の大部分が三つの種類に分かれていることに気づくと思います。
ひとつ目は、妨害された感情が原因の症状が見られるもので、決して姿を現さない内なる葛藤によるものです。もしも症状がきちんと分析され理解されれば、葛藤の核が前面へと出てくることでしょう。しかしそのためには、漠然としている不随意的な背景の思考を前面の思考へと持ってこなければなりません。ふたつ目は、過去の会話や、何か印象的だったことを、断片的にばらばらに再経験するというものですが、ひとつ目のカテゴリーに当てはまらないようであれば、この思考が重要であることはめったにないでしょう。あなたの思考は印象的だった何かを記録したわけですが、こういった思考は車輪が回転するように自動的に繰り返すのです。このような思考が背景に残り、じゅうぶんに意識をすることなく何気なく巡っているかぎり、何が大切でまた何が完全に塵なのか分別できません。自動的に繰り返すこうした印象は、内なる葛藤があることを示している可能性もあり、そういった意味では大切です。もしも印象が建設的なものならば、あなたの人生や人としての存在、内なる自己に何かをもたらしてくれる可能性があり、こういった点においてもまた、意義深いかもしれません。印象や思考を意識的に観察してはじめて、こうした利を引き出すことができます。別の言い方をすれば、背景の思考を前面の思考にしていかなくてはならないということです。とはいえ、一般的に人の頭の中で繰り返されるものは大抵、除去されるべき塵です。三つ目の背景の思考は、希望的観測です。このカテゴリーには複数のサブカテゴリーがあります。例えば過去の会話を、もっとこうだった可能性もある、もっとこうあるべきだった、もっとこう言えばよかった、など過去の会話を再経験するというものです。もしくは夢見心地に未来でこんなことが起こったらいいなと思い描くのです。しかし、この描写はあまりに漠然としていて非現実的で、幻であり、あなたの本当の欲求からかけ離れているか、あなたの魂が抱えている障害への考慮が足りません。こういった思考は、前面の思考にし、現実的にどのような価値があるのか査定しないかぎり、まったくどうしようもないものです。
希望的観測の思考も断片的な印象も自動的な繰り返しも、主に背景の思考の材料となります。このような思考は不随意的です。出たり消えたりし、連続性がありません。随意的な思考の邪魔をします。自分自身の思考の世界をしっかりとコントロールすることを学び、自らに手綱を引き寄せようとする意欲を打ち負かしてしまいます。そして非建設的なまま留まります。思考のコントロールによって、より多くの気づきや意識の上昇がもたらされます。考えることを禁じるのではなく、逆をしてみましょう。背景の思考にあることを、前面の思考に移し替えるのです。まずは、漠然とした背景の思考を吟味することを学びましょう。そして大切ではないと思ったら、捨てる姿勢を身につけます。このプロセスにより、今までにも増して無意識にある葛藤を浮かび上がらせ、健康で建設的な形で思考をコントロールすることができるようになります。
そのうえ、今まで背景の思考に奪われていた大きな力が、解き放たれます。背景の思考が浪費する心理的かつ感情的な力がどれほどか、想像もつかないのではないかと思います。こういった力がある一定量浪費されると、身体にも影響を及ぼします。
思考の作用をまずは観察し、そしていずれコントロールできるようになるためには、ある程度の練習と集中が必要です。とはいえ、あまり大変なものである必要もないですし、時間をたくさんかける必要もありません。それでも、定期的な努力が求められます。背景の思考を前面の思考へと変え、どれくらい重要かを見定め、自分自身の思考の作用を司る者になることは、内に秘めた力を解放するのみでなく、意識を上昇させ、全体的な気づきを深めることに繋がります。自分自身や、内側の状態にもっと気づけるようになり、自分という人や人生を包括的に理解するようになります。周りの人たちや生命、自然、そのほかに気づき、観察できるようになります。理解力が増すのです。自分自身から気づきを奪い、行っている仕事の集中を妨げる、取るに足らない変動的な思考に振り回されることなく、自ら選んだ思考や仕事に集中できるようになります。
不随意的な背景の思考は、あなたを支配者とする代わりに支配される側にしてしまいます。コントロールの欠如の原因となるのは、感情や心理だけではありません。あなたは自分自身の背景の思考の餌食となっているのです。もちろん感情や心理、思考の間には繋がりがあるにはあるのですが、こちらに関しては後に取り上げていきましょう。
不随意の背景の思考は、休むことなくあなたを邪魔し、行っていることを中断します。たとえ背景の思考が意義あるものであったとしても、その存在に気づかず前面の思考へと変容することができないのであれば、利を引き出すことはできないでしょう。背景の思考は、あなたが活動や仕事に深く引きつけられていないとき、その隙に入り込みます。何度もお伝えしていますが、背景の思考が背景であるかぎり、意義などもたないのです。背景の思考はあなたがそれに気づかないかぎり、弱いものなのです。それと同時に、大抵の場合、姿が見えやすい前面の思考よりも遥かに影響力があるという意味では、強いとも言えます。思考の作用を観察できるようになるに従い、背景の「弱い」思考がいかにこっそりと、あなたを支配しているかに気づくでしょう。自分が考えたいと思っていたことから引き離されていることに、最初は気づかないかもしれません。そして突然、自分が背景の思考に取り込まれていることに気づきます。ここにきてようやく、背景の思考を見定め始めることができるのです。「取り止めもない思考に囚われている」と人が口にするとき、それがどれだけ重大なことか、それがどれだけの効力をもつのか、考えにも及びません。
背景の思考は、集中をとても難しいものにしてしまいます。ひとつごとに注意を向けるのが難しいのは、このためです。あまりにたくさんの時間、力、そして努力が背景の思考のために無駄になっています。建設的な思考に時間や力、そして努力が使われていないのであれば、その間、思考はくつろぐことを許されてもいいはずです。思考が落ち着く機会を与えられたとき、最高のくつろぎに達するのですが、背景の思考があると落ち着くことができません。背景の思考は、知らぬ間に思考を散乱させ、疲労させてしまいます。
こういった不調和や無秩序は世界共通ではあるものの、いくつか例外もあります。しかしこういった例外の多くは、残念なことに、感情の気づきを犠牲とした上で思考の作用をコントロールしています。つまりせっかくの効果も台なしになってしまうということです。私たちがここで目標としたいのは、感情と思考がお互いを妨害し合うのではなく、お互いを助ける形で結びつけることです。
私たちがグループで行うワークの目的は、人間性の中の病んだ部分を強さへと変容し、自由にし、健全にすることだけにとどまりません。人格全体を表へ現わし、成長させることも同じくらい大切にしています。よって来期では、次の三つのアプローチに注目していきたいと思います。
1、イメージや間違った結論、逸脱を見つけ解決していく作業の継続
2、抑圧された創造的な力や方向性、活動を見つけ、あなた独自のやり方で機能すべきだった特性を表へと表明していく
3、思考の作用を理解するとともに、ゆっくりと時間をかけてコントロールする方法を学ぶ
色々な意味で、これら三つは相互に関係し、重なり合っています。こういった繋がりを見つけるのもワークの一部であり、また最も大切なことでもあります。今後一緒に行っていくワークの準備として、この夏に着手していただきたい練習を提案したいと思います。1日に2回、5分ずつ座ってください。どんな時間に行ってもよいのですが、これ以上長くならないようにします。邪魔が入らず、中断を恐れる必要のない場所と時間を選びます。横にならずに、心地よい状態で座ってください。そして深く落ち着きます。完全に力を抜き、どのような力も働かせず、無理をせず、プレッシャーをかけずに座ります。とても静かに呼吸をし、呼吸によるお腹の動きに意識を向けます。お腹は、出ては引き、出ては引きと動いているはずです。呼吸の代わりに、目と目の間にひとつの点をイメージしてもいいでしょう。どちらでも楽な方にしてください。すぐに、あなたの思考に不随意の背景の思考の邪魔が入ることに留意してください。不随意の思考がやってくることを予期しておき、静かに観察をします。今これらの思考があなたにとって大切な感じがしなければ(あなたの心理の邪魔を示唆するようであれば)静かに、短気になることなく、手放すようにしてください。呼吸によるお腹の動きについていく作業、もしくは目と目の間に置いた想像上の点を見つめる作業に、ふたたび戻ってください。背景の思考がやってくるたびに、これらの存在に常に気づくようにします。背景の思考が現れるたびに観察をするだけで、思考の作用のメカニズムを理解し、自分がその犠牲になっているのだと気づくにはじゅうぶんです。
こういった意識があなたをゴールへと近づけます。はじめは、何も考えず、ただ呼吸の動きだけを考えるなど不可能だと思うかもしれません。招いてもいない思考の断片は、常に紛れ込んできます。こういった思考は大抵とてもパワフルで、自分が思考に溺れていることに気づかないほどです。少し時間がたってようやく、思考の存在に気づきます。気づくまでにどれくらい時間がかかったにしても、背景の思考があなたに何を考えさせたのか、思い出すようにしてください。それがどんなことであれ「私はこれとあれを考えていた」と心の中で思うようにしてください。この作業自体が、自分自身への気づきを深めます。気づいた思考の分析は後に回し、引き続き集中に戻ってもいいですし、もしも強くそう感じるようであれば、すぐに分析に入り、集中の練習はまた別のときに再開するのでも構いません。
誠意をもって辛抱すれば、思考の観察者となるところまで到達できるでしょう。思考の作用の扉を護衛する、とも言えるかもしれません。落ち着きが本当に意味するところを、掴み始めることでしょう。たった一瞬ではあるかもしれませんが、思考と感情が静かに佇むようになります。そして練習を続けていくにしたがってこの一瞬がどんどん長くなっていきます。思考と感情が静かになる時間が長くなるほど、座ったあとに休まった感じがすると思いますし、その他さまざまな効果があることでしょう。日中の活動の中のいくつかでは、一生懸命にならずとも自ずと背景の思考に注意を払う習慣が身についてくることでしょう。つまり、あらゆるレベルで自分自身への気づきが増すことになります。
練習に取り組む際には、くつろいだ気持ちで臨むようにしてください。そして同時に落ち着いた内なる意志を使うようにしてください。何より大切なことは、不随意的な背景の思考に囚われて、練習が成功しなくても苛立たないことです。失敗の経験は、今ここで私がお話ししていることを理解する術として利用してください。それが最も効果的ですし、展望を獲ることに繋がります。そして展望は、私たちが追い求めている目的へと最終的には連れて行ってくれることでしょう。もしも今後、ひとつのことに思考がどうしても引き戻されてしまい、集中できないことがあるとすれば、それは掘り下げるべき何かがあるというサインであり、葛藤と何かしらの結びつきがあるというサインです。そうであるならば、ある程度の明晰さが獲られるまでは落ち着かないでしょう。そしてこの練習には落ち着きが欠かせないということを覚えておいてください。
練習の成功は比較的小さなものであっても、さまざまな進歩を示してくれるでしょう。背景の思考と前面の思考の違いを知る力を獲るという、先ほどお伝えした効果に加えて、その他の物事に対しても違いを見ることができるようになります。さらには、内面的にも外面的にもバイタリティーが増すでしょう。記憶は良くなり、明晰で強い思考力が獲られます。そして最後にとても大切なことがあります。あなたの内なる意志が働くようになるのです。内なる意志は、皆さんにお話しする内容すべてにおいて最後まで大切であり、学びを進めていくために必要です。集中を学べば、それに順じて内なる意志もよりよい機能を発揮します。背景の思考が落ち着くに従い、あなたは思考を方向付け、落ち着きを獲得するのです。
背景の思考に気づき、コントロールすること、そしてさまざまなレベルの思考の作用の全体を理解することは、今あなたが気づいている以上に大切なことです。心理の葛藤と、思考の取り組みを切り離すのは間違いです。このふたつはとても密接に関係しているのですが、このことは両方のアプローチが最後まで遂行されたときに明らかになることでしょう。
背景の思考は、ある特定の形を伴って現れます。何か流動的な物質のようなのですが、悪い意味で流動的なのです。厚みがあって、靄がかかっており、頑固な塊で、溶かすのがとても大変です。剥き出しの硬直さを緩める方が簡単なときもあるくらいです。硬直は把握することができるからです。ネガティブな流動性は回避的で、自然界のゼラチン質や水銀のごとくです。
練習が上達し、観察者となることができたら、包囲磁石の針を視覚化してみてください。方位磁石の針はあなたの思考の動きを象徴しています。針が前後に動く様子を観察します。背景の思考をコントロールできないとき、思考は散乱するわけですが、すると方位磁石の針は大きく揺れ動きます。反対に、内面の落ち着きを獲て、求めているものに意識が集中しているときには、針は静止を保ち、均衡がとれており、安らかで、コントロールされています。ここでいうコントロールとは大変な努力や、外側の意志によるものではなく、くつろぎと、穏やかで内的な意志が呼びさまされた結果によるものです。不随意の思考の作用と距離をおいて観察するほど、それに打ち勝ち成功できるのです。
私たちが次の段階で共に行うワークに先駆けて、この夏の期間を準備に当てると効果的だと思います。この練習にあたっては、私のアドバイスに従ってみてください。そして今夜お話しした視点から、過去にあなたが求めていたことについて考えてみてください。果たして大切なことだったのか、もしくはあなた自身の生き方から見たとき、そう大して重要でない、細かなことに感じられるのか。ポジティブで創造的な衝動の表現を思いとどまったのは、当初はそれが正しいことではないと思ったからでしょうか。もし違う理由があったとしたら、それは恐れや周りからの同意への依存心からのためらいだったのでしょうか。もしくは、求めていたものがそもそも、不健康な動機に基づいていたのでしょうか。不健康な動機の下に、健康な動機が隠れていたにも関わらず、意識のあいまいさと不健康な動機があるという罪悪感から、それに気づかなかったのでしょうか。
不健康な動機がもしなかったとしたら、求めていたものを追う勇気があったといえるでしょうか。自分の人格に誠実に、意思を貫くことができたでしょうか。不健康な動機が欠けてしまったら、もともとの求める気持ちは消えてなくなってしまう、または弱まる可能性もあるでしょう。それに気づくことができますか。今挙げた質問や、似通ったものを自分自身に問うてみてください。いつも同じことですが、一番難しいのは始めです。まず気づき始めるべきは、職業や主たる活動を選択するときのような表立ったものである必要はありません。小さくて微妙なものでいいのです。小さくて微妙であるからこそ、その大切さは見分けにくいかもしれません。それでも、どのような時も大きな全体の一部である小さなことは、他の大きなものを発見するのと同じくらいに大切です。あなたの内的および外的な人生にとってこの発見は、何かしらの重要なことへとあなたを導くことになるでしょう。
こういった発見の作業と同時に、随意的な思考の作用と不随意的なものの間にある違いを感じましょう。これで秋のワークへの準備はじゅうぶんなものとなるでしょう。
何か質問はありますか。
質問:これまでの作業で、自分が抱いている恐れが原因で、望んでいたものを追い求めていなかったことに気づきました。身を引いてしまったのです。今日ここで学んだ新たな視点で同じ課題に取り組むことを考えたとき、歓びの作業になるとは思えないのです。また痛ましい作業を一巡りしなければならないと感じます。
回答:そうともかぎりませんよ。前にも言いましたが、内なる動機は大抵の場合重なり合い、相互に関係しています。あなたの場合、まずは目標が不健康な動機によるものだったのか、もしくはあなた独自の人格にまさにぴったりの自己表現だったにもかかわらず、単にそれを不健康な動機が覆っていたのか確証する必要があります。どちらにしても、正しく取り組めば痛みは必然ではありません。掲げた目標を達成することが正解であったとしても、あなたの魂が持つネガティブ性が目標の妨げをしたことには変わりありません。この視点からすれば、私たちが今まで行ってきた取り組みと何ら変わらないということになります。多少の痛みは伴うでしょう。とはいえ、健康的な表現の抑制(これはいつでも、恐れと依存に基づいているわけですが)を発見することは、あなたの前に新たな道を開くでしょうし、この新たな道は極めて満足のいく充実したものとなるでしょう。
人が何かを求めるとき、それは人が本当に欲しいものではなく、欲しいと頭で考えているものであることがほとんどです。そうであれば、そこには必ず不健康な性質や反応が存在しています。
自分の中にある逸脱や幻想という怪物の世界、つまりは自分のローワーな性質と向かい合い、すべてを真の概念へと覆すわけですが、これは明らかに、自分の中にある何かが恥であるとか、罪悪感を抱くなどといった誤りが原因の抑圧と向き合うよりも痛いでしょう。もちろん、抑圧という事実があるかぎりそこにはネガティブな動機があるわけですが、それでもあなたの中にある極めて創造的な何かを表現することは大きな歓びと解放の経験をもたらすでしょう。そしてあなたという個人の人格の達成へと導いてくれることでしょう。
最愛の友よ、今夜皆さんに特別な祝福を捧げたいと思います。素晴らしく神聖な力があなた方を包んでいます。ハートと魂と内なる意志を開いて受け取ってください。この力があなた方を包むに任せなさい。力があなた方を貫き、あなた方のために、そしてあなた方と共に働くに任せなさい。個人としての自分の最高を現すことができますように。あなた方の中の最も創造的な部分が表へと姿を現すことができますように。その創造性は、今はまだ覆い隠され、内で眠ってはいるものの、表へと引き出されるときを待ち望んでいます。あなたの神聖な精神を表現し、顕現するために、あなたの中にまだある障害を取り除くのを、この神聖な力に助けてもらうようにしてください。この言葉と共に今夜私は退きますが、いつでもあなた方のそばにいます。神聖な平和とともに、あなたの道を行きなさい。あなた方ひとりひとりが神聖な者であり、真の素晴らしさを内に秘め、それが形となって現れることを声を大にして求めているのだという歓びと共に、あなたの道を行きなさい。最愛の者たちよ、平和と共にあれ。神とともにあれ!
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