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Pathwork in Japan
No.80 協力、コミュニケーション、融合
Pathwork Guide Lecture No. 80
UNEDITED版
1961年2月17日
協力、コミュニケーション、融合
COOPERATION, COMMUNICATION, UNION
最愛の友である皆さん、皆さんに神のご加護がありますように。そして今この瞬間も神のご加護がありますことを祈りつつ。
進化の全体の流れにおける最高で、最も望ましい状態、それは融合です。地球には融合は存在しないのです。融合について曖昧な考えを持ち合わせている人たちは存在します。自身が孤立したときに、融合のようなものがあると感知するのです。しかしその一時が過ぎ去ると、融合するということの意義を感知せず、感じなくなるのです。融合は存在するのです。かくして因果関係の法則は適用されません。この点について深くお話しすることは控えたいと思います。おそらく皆さんの理解を超えますし、それを伝えるに人間の言葉で適切な言葉を私自身、見出すことができないからです。
しかし、融合へと達する2つの前段階についてはお話をしようと思います。この2段階は皆さん自身、皆さんの意識の中に存在しています。これらは、最低次では協力、高次においてはコミュニケーションとなります。協力とコミュニケーションなくして、生物は存在することができません。人も同じく、生きていけないでしょう。物質的次元においても然りです。食べ物、飲み物、家、身体的に生き抜くために必要なものは全て、協力とコミュニケーションの下に成り立つのです。生活している文明によって、その形、どう実施するかは変わるかもしれません。人が自然やその構成物とコミュニケーションを取る原始的社会では、協力とコミュニケーションは大きく異なりましょう。またより進んだ社会では、コミュニティーの構成員の数が増えてくるにつれ、他の構成員とのコミュニケーションの過程をまとめる必要が出てきます。適切な協力とコミュニケーションを通じて構成員とうまくやっていくことにより、最も物質的な、すなわち身体的次元において生活しやすくなるのです。私が長々と話す必要はない自明の理です。
このことを理解することにより、身体的生存と同様に、精神的、感情的、スピリチュアルな意味での生存も協力とコミュニケーションに依存しなくてはならないということに気付くことでしょう。全ての次元において同じ法則が適用できることは皆さんご存知のことです。しかしこの事実を理解していないということが、人類最大の過ちであり、最大の悲劇の一つなのです。この事実についてきちんと理解していれば、皆さんの世界は大きく異なっているはずです。
人の魂には、力が溢れ出し、それに反応する中心があります。この中心はコミュニケーションの法則、より低い次元においては協力の法則を制御しています。コミュニケーションについて理解できれば協力についても理解できるようになるものであることから、協力についてここでお話しはいたしません。協力とは、単にコミュニケーションの表面、上っ面でしかないのです。
普遍的な法則として、こうした力は個々の人間が調和のとれた状態であれば、制約なく流れるものです。一方で、これらの法則に無知であり、未熟で調和が保てないと、これらの法則は壊れ、捻られ、歪められ、コミュニケーションは成立しません。個々人でこれらの法則をきちんと理解しないと、究極的な融和への道のりにはこのようにして遅延が発生するのです。
これまでの様々な人間の魂に関わる問題に関するレクチャーを受けられた皆さんには、これらの法則をいかに容易く人間は破ってしまうかということについて理解に難しくないかと思います。人が勇み足であるとか、心配しすぎると、あるいはコミュニケーションを過度に渇望すると、こうした魂の力は自動的に、ざらつき、とげとげしく、そしてゴツゴツしてしまうのです。この魂の力の動きは突然であり、その影響は強すぎるため、他人の魂の中心へとも影響が出てしまいます。その魂の中心から、その影響を受けた人は反応しますがそれは多くの場合、無意識です。宇宙全体は均衡しています。しかしそのバランスが崩れると、復元しようとする宇宙の力が作動するのです。他者の魂に与える影響を翻さなくてはならない、これはしばしば痛みを伴うプロセスです。これに対して影響を与えた人の内なる力は、過度な勇み足を制限し、拒絶するように私には思えるのです。
日々の生活の中で、自省するときなどは特に、このことに容易に気付くのではないでしょうか。隠れた渇望や過大な欲求に気付いていないことが多く、あるいは、自分はそうではないんだと、それらに蓋をしてしまっているかもしれません。しかし、皆さんの中に潜むこうした気持ちこそ重要な意味を持っています。そのことに気付くと、そうした従来は意識していなかった気持ちこそが扉を閉めている原因と知るのです。そうすると、対人拒絶ではなく、均衡復元の法則の下、他の人が意識していないその人の魂の力は、自己の気持ちに応えようと作動するものであると理解することでありましょう。
このプロセスをより理解するためには、勇み足を踏むことの意味を明確にする必要があります。勇み足を、肯定的なものだと捉えているかもしれません。それゆえ、勇み足を踏むことは自然の均衡を壊したりできない、はずもないと考えるのです。しかしそうではないのです。以前にもお話したことを踏まえますと、このような勇み足は、自己の高まる欲求が真実に基づくものではないという意味において、現実の歪みから生まれたものだと気付くでしょう。空想なのです。言葉通り、皆さんの想像、葛藤、そして真実を歪める行為から生じる、これが勇み足なのです。無意識に、愛、優しい気持ち、関心を持つこと、こうしたことをしないといけないと信じ込んでいます。良好な相互関係のために勇み足になるのは当然なことなのです。しかし、実は自分の人生が危ういという一方的且つ幼稚な欲求から生じるものなのです。これにより、均衡力の法則により他者が自己の過大な気持ちから遠ざかる、という内的な気持ちが生じます。葛藤や未解決の問題を抱えている人において、そのような遠ざかりへの動機は無意識且つ否定的です。比較的問題の抱えていない人は、その反応は似ているものの、その動機は肯定的且つ意識的なものとなります。
無理強いをさせるこのような巨大で前向きな動機を想像してみてください。そうすると必然的な応答がどうなるのか、はっきりと理解できると思います。魂の力もそのように想像してみてください。両方の立場で今までの経験を思い返してみてください。自身から過大な欲求が溢れだし、それが拒絶されたという場合。そして、そのような力強い思いが皆さんに向けられた場合です。愛やコミュニケーションのためとは思いつつも、受け入れることができなかったことがあると思います。このような経験の振り返りによって、勇み足が何かという理解の促進となりますし、今後も皆さんにとって振り返りは役立つものでありましょう。
隠れた自身の魂の力の領域や動機について見抜けるようになるまでは、こうした内部の活動や反応は無意識のうちに行われていました。せいぜい、隠された部分に近いものは感じていたものの、あいまいでした。今、自省の道のりを歩みつつ、皆さんはもう隠れた部分について知ることができました。この発見をコミュニケーションと均衡の法則に重ねると、今まで以上に深い洞察力を得ることができます。他にも、自分の「愛」が拒絶されたので、自分には価値がないなどという間違った結論に達することもなくなる、というメリットがあります。愛を表現すると傷ついて失望する、だからそれらから自分を守らなくてはいけないと。しかし幼稚で、過大な欲求は健全な愛とは全く関係ないものであり、そういう渇望があるゆえに不健全な影響とそれに続く拒絶が生じる、と理解できるはずです。この理解が十分にあれば、傷つくことから身を守る必要性などなくなります。この「守りの態勢」、あるいは偽注意により孤立化し、コミュニケーションを拒絶することとなるのです。ひきこもりによって、自身から何の試みをしなくては、希求し感じ入る力も生まれません。したがって、何も生まれない、これはここで挙げている他の極端な例と同様に不利益にしかならないのです。
これらは、コミュニケーションを支配する法則に関する二つの大きな歪みです。より細分化することもできますし、個々人で異なる個人変動もあります。これから皆さんが成長して、誤った印象による誤った反応を認識し、またそれに気付くことができるようになれば、このような状態を調節できるように徐々になっていくことでありましょう。常に(自己の内的反応をその重要性から精査すると、そうだと理解できるものです)、勇み足、過大な欲求、そしてひきこもりを行ったり来たりする、ということを覚えておいてください。時に、変だなと思いつつ、二つの代替策を同時に追い求めたりするのです。あるいは、いわゆる「安全地帯」にいようと少なくとも試みるのです。これでは、皆さんの魂は半分に破れ、皆さんの強みもどこかに消え去り、調和が取れずして不幸である、望みはないと思うのも当然です。今こうなっている、その原因を外部で起きている事象に求めますが、それらは皆さんが作り出した内的状態のごく自然な結果として起きているのです。このことを悟っている人はいません。
友人である皆さん、繰り返しになりますが、知識としてこの理論を知っているだけでは役に立ちません。お一人お一人が努力し、逸脱、歪曲、失敗から自省することでこれらの法則の真の意味が見えてくるのです。自身の内部状態とは関係のないと思われる外部事象は、自身の動機付けの成果物だということも分かるでしょう。これを知り、知識を解き放つことで、ここから変わろうとする、そして過大な欲求がなくとも徐々にコミュニケーションを取ることができる強さや忍耐力を得ることができます。今までのレクチャーからも分かる通り、過大な欲求は、それを無意識な反応や動機付けの中で加速させることで、未だに受け入れられず何とか克服してやろうと思っている子供時代の失望が形を変えて、生じるものなのです。
この理解が十分にできれば、過大な欲求を解き放つことができるようになり、それは幻想だったのだと思うようになります。過大な欲求を提示することが死活問題でなくなれば、本来であれば健全な方法で得ることのできるはずの、最も必要としているものに対して妨害するという極端な行為に訴える必要もなくなります。通常は、他者の魂の暫定的な感覚に恐怖を与えてひきこもりに至らしめる、あるいは自身を孤立させて、周りからは分からないものの自分に壁を建ててそれを得るためのリスクも冒さないことを通じて、妨害行為をします。このように、自己の中心から、このような魂の力が調和のとれた形で溢れ出し、この種の問題が未解決であっても好ましい効果がもたらされるのです。というのもこの法則は機能せざるを得ないからです。解き放つことで、その力は必ずや自身に戻って来ざるを得ないのです。
これを体得するには、人生に変化が必要です。相互依存や欲に満ちた生活ではなく、真の意味で、コミュニケーションを取り始めることになりましょう。人は、自己の欲求を満たしたければ、他者の欲求を満たすのです。人間の相互関係、そのものです。これは、仕事でも、プロの世界でも、個人レベルの人間関係においても、婚姻あるいは友人関係においても不変です。皆さんのこの地球上での世界は真のコミュニケーションではなく、依存関係と欲に支配されています。友である皆さん、自身でのこれまでの気付きとともにこのことを認識していただき、いかに自分で抑制、妨害をし、真に欲するものを不可能ならしめているかに目を見開いてください。
本当は皆さん、コミュニケーション取りたいと思っているのですがそのことを認識できないでいるのです。拒絶されたことによる失望で、自分は本当に切り離された存在と意識的に信じ込むほどに控え目になってしまったのです。しかし現実は、傷つきたくないので守りの姿勢を取る、恐怖とひきこもりから孤立化させるという誤ったレイヤーで覆われているだけで、過大な欲求は心の中でくすぶっているのです。プロセスさえきちっと理解すれば、傷つくことは必ずしも必須ではありません。この中核的な欲求を見出し、認識、そして経験し、その切迫感と欲求がどれほどかを見極めます。欲求、渇望、そして不適切なほど過大の度合いが大きいほど、自己の認識に反して実は気付かなくなるものです。つまり、欲の規模が大きいほどに、自分ではその認識がしっかりとあると思いがちです。しかし必ずしもそうとは限りません。むしろその逆なことが多いと思われます。自分の中にある何かが過大であることを感知し、それを恥じるのです。何かおかしいと思う知識があるからです。無意識に継続的なしつこいこの欲求が満たされないことについて(それが非現実的なほどに過大なので)侮辱された感を持つかもしれません。よって見えないようにするのです。蓋をするとでも言いましょうか。欲求に依存している自分に嫌気がさします。自身の欲求を満たすためにお願いをしていた人に対しても失望するのです。この失望が極端且つ偽の(脱・依存)という真逆の外部反応を引き起こすことがあります。友である皆さん、これこそ要注意です。
欲求とその度合いがどのくらいなのか。そしてその次に、どのようにしてそれに今まで対応してきたのか、そのことを考えてみてください。以前にもお話しした通り、その対応の仕方、取り得る方法はたくさんありますが、皆さんは新しい視点で今それを理解しようとしているのです。
すでに皆さんには、愛を得ようと自己の魂を犠牲にすることがあり、それは、程度は大きくないとは言え、従順であるがゆえにしてしまうものなのだとお話ししました。この傾向が見られる時、従順であることで愛することができる、愛への準備と意思にもなるのだと思うかもしれません。従順とは、真の犠牲と利他の心だと思い込んでしまうかもしれません。しかしながら慎重に考察することで、このような渇望と真の愛とは別物である、したがって真のコミュニケーションも成立しないと分かるようになるでしょう。
内在する従順な側面の脆弱さを守る防御策なのだと感じる攻撃的な側面についてもお話しをしました。またほかにも、同じような防御策であるけれど違った形で現れる引きこもりの側面についてもお話ししました。また、自分の人生や感情、全てを誇張しようとするわざとらしさについても触れました。
このようなものは、欲しいものを手に入れる、あるいはそれが手に入らなったことへの失望や焦燥感から自己防御する際の手段なのです。この「防御」によって自動的に欲望の充足は不可能となるので、常にズタズタになり、どの策を取るものかと悩み、決められずと同時に、矛盾した策を求めるのです。このようなやり方単体ではコミュニケーションの原則が歪められて、結局のところ自己の心に充足感は得られません。また、同時に互いに排他的な代替策を取ってしまうと、魂という世界に不協和音をもたらすことになり、ごちゃごちゃとしたところへ秩序をもたらすことがさらに難くなります。
このようなことが分かってくると、真のコミュニケーションを多面的に行うことができるようなるでしょう。また、健全な相互依存における矛盾と思われるものが何か、このことを悟り、理解することもできるのです。この健全な相互依存は、他者からではなく、自己の歪んだ欲求やしつこさから脱依存している状態であれば、可能となります。脱依存してこそ、健全な相互依存関係を持つことができるのです。しかしこの両者は逆になっているのです。以前にも指摘しましたが、残念ながらこれはよく発生する問題なのです。孤立の殻へ引きこもる、あるいは他者への配慮がなかったと誤解され、周りの人たちを敵に回す人は依存と欲求に基づく、危険な依存関係やさらに有害な依存と欲求へと発展する危険な依存関係を露呈します。こうした内部の行動様態は(隠したとしても)自己の希望を包み隠さず表現したことにもならず、健全な脱依存や依存関係を持とうとする決意の表れにもならないのです。
友である皆さん、このテーマについて質問はありますか?
質問:過大な欲求とは神経質な側面と理解しましたが、これで正しいでしょうか?
回答:はい。過大な欲求にある錯覚によって、人生がそれに紐づいていると信じ、感じるのです。そのように思ってほしくないのです。失望や焦燥感の観点から自己の気持ちを精査してみると、気持ちの真の度合いが見えてくるのです。その度合いと意味合いをよく分析することではじめて、錯覚に気付くことできるでしょう。感情の強さや度合いはここでは関係ありません。
質問:私は違うように思ったのですが、二人がお互いを必要としているけれどもその求め方が違うとおっしゃいました。自己の欲求を満たすために他者の欲求を満たす。これが好ましくない、あるいは間違っているのはなぜでしょうか?
回答:そのような関係の寿命はそれなりに長く、一定期間ならうまくいくことでしょう。というのも、適切なコミュニケーションの中核的な部分としての、個人の欲求からの脱依存ができていないという点において、真の価値、真の相互依存に基づいた関係ではないからです。このような関係は、交渉、従順また威張り散らすような態度の相互作用に基づいており、両者の縛りのない内部反応でなく、その個人の態度が、支配的であったりそうでなかったりと各段階で変わる、そんな関係です。
質問:依存と脱依存について、その健全さの線引きはとして難しいように感じます。どのようにしたらよいでしょうか?
回答:線引きはとして難しいです。お話ししたところで、掴みづらい捉えにくいもので、そこから真実を見出すことはできません。繰り返しになりますが、原則とか方式はないのです。最善なる理論を構築して、自己の知性の中でそれを信じることはできましょう。しかし自身の気持ちはそこからずれることがあると思います。その境目を知る唯一の方法は、パスワークを通じて研鑽を積むことです。自分の気持ちや反応と向き合い精査して、そしてまた気持ちの源に立ち返りその意味合いを理解することでしか、知りえないのです。この隠れたネガティブで困惑させる、不協和音のような気持ちは、元々は希望であり、そこから派生する焦燥感に違いありません。この点に気付けば、今ある希望が本物かまやかしなのか分別がつくでしょう。未成熟で歪んだ感情を十分に理解することができてはじめて、健全なる感情とは何かということに気付くことができます。いわば皆さんが成長していく中で、ある程度はすでにある、ないしは備わっていくかもしれません。
いずれにせよ、ここまでくるとただ欲することと、充足感がないことで心が痛むほどに必要とすることは違うものだと感じるようになるでしょう。
質問:ちょっと一言よろしいでしょうか?充足感がないことによって生み出される焦燥感や不安感の程度で、理解できたような気がします。
回答:おっしゃる通りです。ただ、偽の調和、多層の欲求の欠如、これは恐れるがゆえ、人生、愛、そしてコミュニケーションから引きこもろうとするものであり、注意が必要です。この点についても十分な精査が必要です。
質問:融合についてお話しされました。今週ニュースを見て思ったのは、キリスト教教会の統合の可能性についてです。法王もこれについてよく考えていらっしゃるようで、法王の全教会への呼びかけもありましたし、さまざまな宗派が統合という希望の下にともに行動を取っています。こうした試みの一方で、キリスト教原理主義と自由主義神学は互いにそれを拒絶する動きが依然として強いです。米国聖公会の司教が今週、アダムとイブ、エデンの園、天国と地獄などの聖書の「神話」について言及していました。多くの聖職者から異端的であると非難されていました。宗教における神話とは何だと考えますか?
回答:神話の意味するところを理解している人はいません。多くの人は、神話は、発明、幻想、想像、おとぎ話、嘘である感じています。これが一般的な捉え方です。しかし、神話の本当の意味するところは全くそうではありません。
こうした誤解は、異なる宗教の統合が成功を見ないということの唯一の理由ではありません。たとえこのような誤解がなくても、他の何かが統合の妨げとなるでしょう。時として、人は、所属する宗教、政治など簡単に手放すことのできないものへの忠誠心や忠実心を持つものです。個人の恐れ、恐怖心が関係しています。「自己の信条を手放すこと、それは自分という世界や自分を取り巻く安全が崩壊する。」と感じるのです。自分の安全に脅威と考えるものは受け入れ(られない)のです。
この問題は、神話、象徴などの誤解が中核的な要素なのではありません。むしろ人の心理的な問題と言えます。すでに確立された誤った安全、そしてあっているか間違っているか別として、ある種の考えを粘り強く持ち続けることの原動力について考えようとしないことが問題なのです。統合を進める人たちがこのような考えでいるのであれば、それを融合と私は考えません。統合に向けた動きそのものは融合へと近づくかもしれませんが、内在する障壁が外部の障壁を呼ぶことになりましょう。
ここから言えますことは、正しい方向への舵取りと一歩を踏み出すことです。「私はこれを諦める、ではあなたはこれを諦めてください。」、というなんとも幼稚なやり方でアプローチこそ取られてきましたが、真実を探すという共通の欲求に基づいたものではありません。このように、妥協することに正当性を持たせるために真実は置き去りにされてしまうことがあるのです。
質問:神話の本当の意味するところを教えていただけますか?
回答:時間があれば、長くお話しすることはできます。コース後半にこのテーマについて詳しくお話しする予定です。今日は、人間にとって受容でき、また理解できる形で真実を伝えるのが神話である、ということだけ申し上げておきましょう。シンボルと似ているところがありますが、正確にはシンボルとひとまとめにして、神話は、絵画の中に写し出されている広大な真実です。精神世界の絵言葉、夢でみる絵言葉のようなものです。シンボルと神話の違いは、シンボルは大切なもの、そうでないもの含めて何にでもシンボルを用いることができます。夢では皆さん、自分の小さな特質を反映し、各々のシンボルを見ることがあるでしょう。一方、神話は、一般的で普遍的な真実と関係します。受け入れられる、また理解しやすく簡潔かつ視覚的にイメージしやすく表現されていることから、皆さんも感受することができるわけです。神話とシンボルの原理原則は同じです。
質問:外の世界に投影されるある超自然的活動は、高度に個人特性的かつ相対的であるというのは本当でしょうか?すなわち、人が真実であると見て感じ取るものと投影されるものは関係している。投影するものはその人物のある超自然的行動と経験に関係しているということですけれども。
回答:その通りですが、それだけにとどまりません。多くのシンボルと異なり神話は、真実なのです。その人が捉えやすいように表現されているのです。しかし、神話には、絶対的な真実が表現されているのです。
質問:最近私が目撃したことについてコメントをもらえればと思います。透視なのですが、その人はトランス状態でもなく、ある魂を見ることができていました。これはどういうことなのでしょうか?読心術、この世にない身体を感じたのか、あるいはその魂がそこにあって、その媒体が見ることができたということなのでしょうか?
回答:おっしゃったこと全て可能性はあるでしょう。人類は、「二者択一」で常に考えるのです。あなたの言ったどれがこのケースに当てはまるか分かりません。ただ、あなたが信じたいと思うほどの大きな意味はありません。「読心術」なのかどうかということでしたが、それでは生きている、存在している魂を排除してしまいます。魂が生き生きと存在すること、そして魂との結びつきがあるからこそ、潜在意識は魂に魅了されるわけですから、その媒体となった人は、あなたの潜在意識から遠回りして出てきた魂を感じたのでしょう。
質問:でも、そこに実際の魂が存在したという風に言えますか?
回答:もちろん、言えると思います。おっしゃる通りです。
質問:レクチャーの中で、人間関係を維持することのできる相互の欲求について、それは有害であるとお話しされました。ただ、私がだれかを愛していれば、その人も私を愛してくれるはずだという考えは公正だし、間違っていないように感じます。そうでないと相互の欲求はより不健全なものになると思います。
回答:わが友よ、もし私が一方的な愛を擁護していると思っているなら、それは大きな間違いです。健全な状態であれば、そのようなことを心配する必要などありません。なぜなら自己を欲求、最も内部にある本当の己から解放することができているからです。すでに以前のレクチャーでかなり詳細にお話ししましたように、直感であなたの愛情や愛を、それに応答できる人へと振り向けることができるのです。互いに思うということは向こうから勝手にやってくるのです。相互関係が成立しないなどということはありません。相互の関係が構築できないというのは不健全な状況であるがゆえであり、愛やコミュニケーションを自由な形で受け入れる態勢がなく、未成熟な渇望に基づいているからです。あなたはこのグループで勉強されるのもまだ日が浅いので、そのような質問をされるのは無理もありません。ここで教えていることの意味が分かってくれば、魂から足かせがなくなれば、健全なる相互関係が本質であり、自動的に出来上がるものだと理解できるでしょう。一方的な愛は、まさに歪みや逸脱の表れです。それを防ぐには、心配したり、事前に計画したり、感情を振り向けようとしないことです。自分の感情をこの方向へ向けてみるのだと無理強いをしないことです。しなくてはと思ってしまうのであれば、適切に対応すべき、意識的な反応でなくてはいけない無意識な反応が多層にわたり起きている証左なのです。自由に反応すれば、相互の関係はおのずとついてくるのです。
質問:精神科では今日、ショック療法が行われていますが、精神や分かりにくいですけれども、体にも悪影響を与えるのではないでしょうか?
回答:その通りです。悪影響を与えるものです。本当の治療ではなく、一時的な見せかけの治療でしかありません。
質問:どういった影響があるでしょうか?
回答:一時的、見せかけの、偽りの治療だということです。
質問:機械的な手段を用いて精神疾患を治し、現実に戻すというものでしょうけれども、再発予防には、原因が何であったかを考える必要があります。それで機械的な手段と言えるでしょうか?
回答:現実へ戻すということですけれども、限定的にしかできないでしょう。また同時に、こうしたショック療法は人間の精神や見えにくいですけれども体にも部分的に悪影響をもたらす可能性、多くの場合はもたらしているのです。
質問:ここ数日、そのようなショック療法はどう行われるのかということを見まして、数分ないし数秒間、ショック療法を受けた人たちが死んだように思えました。短時間、死ぬことなど可能なのでしょうか?
回答:そのようなことはありません。あなたの言う死、それはへその緒が切断された時のことでしょう。一見すると死のような無意識な状態というのは数多く存在しますが、へその緒が切断されていないので、それらは死ではありません。
質問:ショック療法はへその緒にも悪影響を与えうるのでしょうか?
回答:可能性はあります。しかし、へその緒に影響がなくとも、他の部分、そして内なる自己、本質の機能への悪影響が同じくあるかもしれません。
質問:夢のシンボルを解釈する何か公式なようなものがあれば教えていただけますか?
回答:はい、友である皆さん、私はその訓練を長年やってきました。しかし、すでにできあがった公式があるわけではありません。あったとして、ことを過大に単純化するだけでしょう。夢を真に理解し、解釈する作業は長く、時に飽き飽きするようなプロセスです。解釈には知識や経験だけでなく、直感、きちっとした理解、そして才能も大いに必要なのです。夢とは個人によって異なり、自身の世界における過大な単純化がことのほか行われます。結果として、人々が真面目にしかし自動的に分析しようとすると、夢がもたらす真の利益は失われてしまうのです。
質問:専門的な知見を要するのではれば、なぜ夢を見るでしょうか?
回答:夢の持つ真実を知りたいのであれば、時間と努力を費やしてください。そうすればその真実を理解することができましょう。時に助けが必要となります。自己の最深の己を知りたいのであれば、そのような助けを受けることを恥ずかしがらず、導かれるのです。よく言っておりますように、本来の自省とは一人ではできないのです。夢の解釈だけの話をしているわけではありません。多くの人は自己を知りたくないのです。それが夢であれ、日々起こる意識的な反応であれ、己を深く理解することができるものから目を背けるのです。
私の言葉が役に立ち、強さやより明確なビジョンを与えるものでありますように。友である皆さん、それを生かすのは皆さん次第です。お一人お一人に、神のご加護がありますように、そして私たちの世界からお届けする、強さと愛に包まれますように。お健やかに、そして神への信仰を。
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