top of page

No.82 イエス・キリストの生と死に象徴される二元性の征服

Pathwork Guide Lecture No. 82
UNEDITED版
1961年3月31日


イエス・キリストの生と死に象徴される二元性の征服
THE CONQUEST OF DUALITY SYMBOLIZED IN THE LIFE AND DEATH OF JESUS


 ようこそ、親愛なる友人たちよ。みなさん一人ひとりに、神の祝福がありますように。このひとときは、祝福のひとときです。今晩はたくさんの新しい友人たちがここにいますね。みなさんを歓迎します。新しい人にとってはこの講義を理解するのは簡単ではないかもしれません。というのも、この講義は前回の講義の続きであり、さらにそれを拡大したものだからです。十分に理解するためには、前回の講義を非常に注意深く読むことをお勧めします。

 これらの教えを学ぶみなさんは、前回の講義を学び、そしてそれについて考えました。人によっては、その中で示されている新しいものの見方で自分の個人的な問題を考えることによって、自分自身についての新しい気づきや理解を得た人もいるでしょう。またある人にとっては、この新しいテーマはまだ難しく、もう少し自己探求のワークが進んでいくにつれて理解が深まり、自分の最も奥深い場所に抱える問題を二元性の問題に当てはめられるようになる人もいるでしょう。

 今日というこの日は、人類の歴史の中において非常に特別な日を祝う記念日です。最後の講義にまさにぴったりのテーマです。今日は、イエス・キリストの人生が頂点を迎えた日です。彼の人生は偉大なる苦しみと偉大なる喜びの象徴となりました。この苦しみと喜びは、単に抽象的で、遠いところにあるスピリチュアルな感覚の中のことではなく、非常に人間的な現実なのです。苦しみと喜び、楽しみと痛み --- これらの二元性は、突き詰めると大きな二元性の一部分でしかないのです。それはつまり、生と死であり、生か死ではありません。

 よく誤解される霊的な教えのひとつに、人は喜びと痛みを超越しなければならない、というものがあります。究極的な意味においては、もちろんこれは真実です。しかしこれは、二元性の不快さから逃げ出すことによってもたらされることはありません。その代り、それは、二元性 --- 生と死 --- を受け入れ、十分に向き合うことによってのみもたらされるのです。喜びと痛みを超越することの真の意味を誤解している人は逃げます。なぜなら、彼らは経験をくぐり抜けるよりはむしろ避けることを望んでいるからです。もしあなたが、むき出しの、一糸まとわぬ死を逃げることなく受け入れるならば、唯一そのときにのみあなたは真の意味で生きることができるのです。そして、それができたときにのみ、そこには死も二元性も存在しないということを悟るでしょう。自分の弱さと恐れからしがみついている単なる慰めの信仰として受け入れるのではありません。むしろあなたはこのことを真実として実際に経験するのです。まずは「日々の生活における小さな死」の中でそれを経験することを学べば、そのときあなたはもっと大きく究極的な問題の中でも経験することができるようになります。あなたの意志がまっとうされず、間違った、不健全なやり方で苦しみから逃れようとするときはいつも、あなたは悲劇的な二元性を増長してしまいます。あなたは死を拒絶し、ゆえに究極的な意味においては生をも拒絶しているのです。

 死や苦しみからの逃避は必ず、たいてい気づきもしないうちに生と喜びからの逃避を引き起こしてしまいます。喜びをもって人生を生きるためにどんなに努力しようとも、意識していようが無意識であろうが、その人が死や苦しみに出会い、それと向き合うことを避けていれば、その人は人生と喜びからも逃げていることになるのです。これらは密接に関連しており、魂に非常に大きなダメージを与えざるを得ません。

 イエス・キリストは「汝ら幼子となれ」と言いました。この言葉は、たくさんのレベルにおいてたくさんの意味を持っています。ひとつは、子どもたちはとても激しく敏感に生き、経験します。子どもたちの持つすべての感覚や才能は新しく生き生きしていて、その存在のすべてのレベルにおいて人生で経験する一つひとつのことは、大人が受ける印象や反応、経験よりもずっと鋭敏なのです。これはよいことです。というのも、あらゆる意味での人生経験を拒絶しながら人生を生きている魂は、自己の持つ生きるための能力を弱めているからです。真の超越ではあり得ない偽りの穏やかさを構築するよりも、その存在の発達と成長のために、物事のあらゆる高みや深みをくぐり抜けることは、とても有効な方法なのです。死を含む、人生が差し出すすべてを受け入れた後にのみ、真の超越がもたらされます。自分がこの真実、正真正銘の高みにまで達したと信じている人もいますが、現実には彼らは単に痛みと苦しみを拒絶しているだけであり、ゆえに彼らは喜びと楽しみをも拒絶しているのです。このような人はいずれ、進化の過程のどこかの時点で、それはこの同じ人生のどこかかもしれないし、もっとあとの転生でかもしませんが、自分の魂の経験から逃げ出した、まさにこの場所まで戻らなければならないことを知るでしょう。そうすることで、そこで学ばなかったことを学び、そこを通り抜けることができるのです。

 そこをくぐり抜けた人だけが、真の穏やかさへと到達することができます。偽りの穏やかさの中にある人、もしくは人為的に養われた穏やかさの中にある人は、十分な勇気をもってこの人生経験から逃げ出さずにいられる人よりも、ずっと未熟で未発達です。けれども、前者が自分のことを後者よりも上だと信じる、ということがよく起こります。前者は、人生の浮き沈みを経験している人を見下しているのです。このような人生の浮き沈みは、実のところ、その人がまだ対極の、そして二元性という幻想に深くかかわっていることを示しています。けれども、そうだとしても、彼らはその幻想に出会い、取り組んでいるのです。そしてそれは、正直なこと、成長へとつながることです。

 人間の成長においてもっとも重要なものは、おそらく勇気と誠実さでしょう。もしも、自分の苦しみと向き合い、喜びと向き合うならば、あなたは必ず成長します。一方で、苦しみを強く恐れる人は、それを否定し、決して直面しようとしません。道理もないのに、その真の姿よりも過大に恐れているのです。このような人たちは必然的に、同じだけ幸福と充足をも恐れていることになります。過去に数回、私はこの幸せへの恐れついて言及しました。たくさんの人が、それが真実であると気づきました。幸福とは遠く離れた場所にあり、手に入れることができないように見えるとき、人は安心してそれを切望することができるのです。しかし、しっかりと自分自身を観察するならば、その幸せに近づいたとき、自分がその幸せから逃げていることに気づくでしょう。それは、苦しみから逃げるのととてもよく似たやり方です。そして、苦しみと痛み、生と死はつながっており、本当の意味においてはひとつのものなので、あなたの幸せと喜びはあなたの死や苦しみに対する態度にかかっているのです。ひとつを受け入れることで、もうひとつも受け入れることになるのです。そして、一方を通して成長しそれを超越することで、もう一方を通して成長し超越することになります。

 苦しみのプロセスにいる最中に、あるいは少し後になってでも、あなたの魂が苦しみから何かを得ることができるかいなかは、苦しみに対するあなたの姿勢によって決まります。苦しみに対して盲目だったり、もしくはそれに反抗するような態度でさえも、最終的には魂の役に立ちます。まだそのほうが、感じる力、経験する力を麻痺させ、無感覚にさせて苦しみから逃げるよりもよほど良いのです。苦しみに対する盲目で無知な態度は、よりあなたを苦しめ、必要以上にその苦しみを長引かせることになります。そして成長のプロセスは、あなたの意識が学ぶべきレッスンを学び終えたときにのみ始まるのです。逆に言えば、気づきと健全な態度が、即座に成長と解放をもたらすのです。その結果、そのレッスンを認識したまさにそのときに、以前はあなたを苦しめていたものが痛みの要素ではなくなるのです。

 喜びと楽しみは神の意志に反する、という間違った思い込みの中で故意に苦しみを選択し、幸福を拒絶すべきだと言っているわけでは決してありません。この誤りを説いている宗教は実に多いのです。苦しみに対処するための健全な方法は、おそらく、人間の一生においてもっとも重要な鍵でしょう。もしあなたが、心を開いて、全身全霊で、それから学びたいという意欲をもって、理性と能力を保ちたいと願いながら苦しみを扱うことができるならば、たとえ感情的に暗闇、反抗心、臆病さ、自己憐憫に陥っているとしても、苦しみの結果、あなたが通り抜けてきた苦しみに向き合い、そこから成長した分だけ、あなたは幸せになります。もしも苦しみがあなたの魂を鈍らせたら、あなたがその状態を魂に許すことをやめるときまで、おそらく違った形で、さらなる苦しみがあなたに降りかかるのは必至です。その結果、自分への気づきが増し、それによってあなたの人格が甦るのです。

 ある特定の混乱は、これが苦しみにアプローチする過程において、成長を続けるスピリットの前に立ちはだかる難しさのひとつです。覚醒を遂げた人の多くは、苦しみとは自分の作り出したものであることを理解しています。漠然とでも完全にでも、あなたがこれに気づくと、自分のどの態度、行動によってこの苦しみが作り出されたのか、その理由が何も思い当たらず、分かるのは自分がフラストレーションを感じていることだけだとしたら、あなたは半狂乱になります。この知識を持っていない場合、あなたは隠された原因によって、さらなる苦しみが生み出されることを恐れます。それが意識的であっても無意識であっても、なんとかして見つけ出そうと必死になっているために、その原因へと辿りつく試みを故意に妨害しているのです。忍耐を持たず、性急に、フラストレーションと恐れの状態ですることは何でも、不可避的に活動のプロセスを減速します。だからこそ、理由を知ることもなく神が与えた苦しみを受け入れなければならないというこの思い込みは、違った意味で都合がいいのです。そのような思い込みを持っている人は、その下にある彼ら自身の原因を学ぶことはありません。ですので、残念です。が、いつかは学ばなければなりません。けれども、彼らの態度は、よりリラックスしていて、オープンです。しかしながら、神が苦しみを引き起こすという思い込みは、怠惰な運命論に形作られており、神は残酷でサディスティックだという論理的結論へとつながります。

 したがって、理想的な態度は、自己の内に隠された原因を探求する能動的な精神と、望んではいない痛みを受け入れ、自分が作り出すみじめさにはセラピー(精神療法)と同じ価値があることを十分に理解すること、それらをリラックスした態度で融合させることです。ここでもまた、歪んだ能動性と受容性が混ざったものとは対極にある、健全な能動性と受容性の正しい融合が必要とされます。

 生と死、喜びと痛みへの間違った態度によりもたらされる自分自身の問題を解決しなければ、人生を本当に解決することはできません。自己の最も深い部分にある隠された葛藤、態度、概念の中で自分自身に向き合い、自分の反応の本当の意味を理解しなければ、人生が求めてくるものに応えることはできません。邪魔されていると感じるときにはいつでも、自分の求めるものは何なのか、そして恐れているものは何なのかを見つけ出してください。論理的思考を超え、表面に現れる願望や恐れの下にあるものを見るのです。表面にあるものは、実際、死と苦しみ、ひいては生や幸せから逃げるためにあなたが用いているやり方が表れているに過ぎないのです。最初から大きな、一般的な問題から始めることはできません。そんなことをしても、あなたはどこにも行きつくことはできません。あなたが真に成長できるのは、表面的には取るに足らないように見える、願望や恐れに対する日々の反応に取り組んだときです。そしてこのようなささいな毎日の出来事によって、生と死に対する正しい態度を学ぶことができるのです。ささいな出来事の中で、自分がいかに死から逃れようとしているか、そしてまったく重要でないように見える生活の細かいことに対するあなたの態度が、いかに苦しみから逃避しようとしているのかを見つめてください。最初に、あなたにあらゆる不調和をもたらす原因となっている最もありふれて取るに足らない問題について、自分自身に尋ねることから始めてください。この自己への問いかけを追求し、「なぜ私はこれが欲しいのか?それを手にできないことはなぜ恐ろしいのか?」ということを問うポイントまでくるとき、あなたは、自分が求める愛と、それを得られないことへの恐れの問題に辿りつくでしょう。どちらにしても愛を手に入れることなどできない、あるいはまた失ってしまうかもしれないという恐れの中で愛から逃げると、それはあなたが死に対しても同じ態度を取っていることを示しています。これは前回の講義で概説しました。それは、死を恐れているがゆえに、自らそれを招き寄せることになるのです。似たようなやり方で、あなたは愛を拒絶します。傷つくことを恐れ、それを得られないことを恐れ、もしくはまたそれを失うことを恐れるのです。あなたは、愛など欲しくはないと自分に言い聞かせようとしているのです。死についてもまったく同じことが起こっています。どうせ肉体に宿る命は終わることを知っているのだから、人生などいらないと自分自身に言い聞かせようとしているのです。どんなささいな問題であっても、それらはすべて、究極的には、「愛されること」対「愛されないこと」、つまり「生」対「死」という問題に突き当たります。手に入れられないことへの恐れの中で自分の欲しくないものを意図的に選んでしまうために、あなたは自分の魂の中に、不健全で自分を無感覚にするような状態を作り出しているのです。それはとても不健全です。なぜなら、あなたは自分が本当に求めるものは愛と生であり、本当に恐れているのは、永遠に愛と生を手にできないことだと正直に認めていないからです。この状態は不健全です。なぜなら、あなたは自分が本当には手に入れられるはずのものを否定しているからです。自分が求めるものだけを手にすることはできないかもしれませんが、手に入れられるはずのものを否定しているのです。あなたは、自分が欲する種類の愛を手にすることはできないかもしれません。それは、排他的で限度がなく、もう二度と失うことはないという絶対的な確信に保証された愛です。けれども、自分の望み制限を設けることによって、あなたは耐えられないほどのフラストレーションを作り出します。それは、自分の望みを成就できないなんて耐えられない、というあなたの誇張された思い込みからくるフラストレーションなのです。そしてあなたは、もしかしたら手に入れられたはずの愛を、その拒絶によって失ってしまうのです。こうして、自ら事態をより悪くしてしまうのです。同じやり方で、あなたは、不死への願望によって人生を拒絶しているのです。日々のすべての反応や問題は、これらの基本的な問題にまで遡ることができます。したがって、これらの基本的な問題は、それを自分に当てはめれば、あなた個人の意味を持つでしょう。これは、あなたの成長過程においてあなたが踏むべき重要なステップです。

 この点でもっとも重要なのは、自分の恐れるものが何なのか、つまりそれが死と苦しみでだと、ほとんどの場合気づいていないことです。愛の拒絶も同じです。あなたは、死と苦しみそのものから逃げているだけでなく、それよりも前にまず死と苦しみからもたらされる恐れからも逃げ出しているのです。そして、これこそが、最初に明らかにするべきことです。そうすることによってのみ、死に対する健全な態度を取り込むことができます。外面的には、あなたはこの恐れに気づいていないかもしれません。しかし、深いところで恐れはまだそこに存在しているのです。ほんの少しだとしても。自分の中にある、まだあなたが恐れている場所と向き合ってください。そしてそれに気づいて下さい。そうすることで、あなたは死ぬこと --- つまり生きること、を学べるのです。あなたは自分の中にあるあらゆる形の死、つまり肉体的な死かもしれないし、自分に起こるあらゆるネガティブなことかもしれませんが、それに対する自分の持つ真の恐れについて気づくことになります。それに気づくにつれて、あなたは自分の中の生命の力を解き放つことができるのです。この生命の力こそが、恐れるものに向き合うための勇気をあなたに与えてくれるでしょう。

 イエス・キリストの生涯は、とても素晴らしいやり方で、この古き真実を象徴しています。そして、多くの賢者や真実を捜し求める人々が、常にこの真実を手にしてきました。このことはたくさんの哲学や宗教、そして神話の中で示されています。イエス・キリストを通して、このことは彼の実際の生と死の中で象徴化されてきました。なぜならイエスは、私がここで述べたまさにその精神のもとで、自己の死を迎えたからです。

 イエスの言葉の多くは記録されず、特に人間には理解できないような発言は、後世の人々に伝えられませんでした。なぜ理解できないのかというと、人類の制限された理解のもとでは、その言葉は彼の教えと矛盾しているように思えるものだからです。ゆえに、彼の最後の言葉が記録され、人類に伝達されたのは偶然ではなかったのです。彼の最後の言葉、それは人間が信じていることや人間がイエス・キリストの中に見たいと思っていることとははなはだしく矛盾していました。にもかかわらず、その言葉は伝えられました。十字架にかけられたイエスの最後の言葉は、自分が神から見放されたという疑念と恐れを表現しています。このことは、たくさんの人々を困惑させてきました。イエスのような偉大なる魂が、どうして疑念や恐れを持ち得るのでしょうか?人は、その幻想と理想の中で、イエスがその苦しみの絶頂で表現した人間的な疑念や恐れなど持たずに、信仰という栄光のもとで死を迎えてほしいと思っていたのです。イエスの最後の言葉が人類に伝えられたというのは、とても重要なことです。イエスの生と死のすべての側面は、人間にとって、そしてその人の個人的な問題にとって深い象徴的な意味を持っています。だから、この言葉もまた、重要な意味を持っているのです。この講義と前回の講義の意味を理解するときにのみ、あなたはそれを十分に理解することができるでしょう。

 その最後のひととき、イエスは、彼が知っていたすべてを忘れ、彼の得たすべての啓示や洞察を忘れ去りました。落ち込んだり何か悩んでいるとき、自分が学び、知っていることが、知的な記憶として保たれているとしても、それを自由に使うことができない --- ある程度はみなさんも、このような経験をしたことがあるのではないのでしょうか?あなたの魂は、不信と疑念という暗い闇の中にあります。マインドのこの状態について自己を欺き、本当に感じていることを認めようとしないのは、正しい解決法ではありません。「こんなふうに感じたり思ったりするべきではない」と言い聞かせながら罪の意識と尊大さを感じることは、自己欺瞞につながるだけで、あなたが暗闇から出るのを遅らせるだけです。イエスもまた、これを示し、最も明確に説明してくれました。生命あるものの中で最も偉大なる魂であるイエスもまた、疑念の中にいたのです。彼もまた、一瞬、信仰を失ってしまったのです。しかしイエスはそれを認め、そのことを自分自身からも他者からも隠しませんでした。これは何を意味するのでしょうか? それは、未知のもの、つまり死に対する荒々しくむき出しの恐れを意味します。それは、肉体的、心理的、そして霊的な痛みから来る激しい苦しみを意味します。何の見せかけも自己欺瞞もなしに、そして彼を信じる者たちを欺くこともなく、イエスはこれに真正面から向き合いました。彼は自分自身に対して誠実であり、したがって彼を信じるすべての人々に対して誠実だったのです。彼はその最後の瞬間においてもなお、誠実であり続けました。霊的な教師、そして権威と言われる人の中には、自分が恐れや疑念を抱く瞬間があることを認めたがらない人がたくさんいます。その人は、そのことを恥じているのです。弟子たちに対する面目を失うことを恐れるのです。この基本的な恐れは、たいていの場合「受け入れることができる」説明によって合理化、正当化されます。今述べたような教師や権威は、自分自身のために、この不誠実さに対して言い訳をすることでしょう。弟子を失望させたり、弱らせたりしたくないという表面的には立派な態度によって。しかし、他者を失望させるのは、この不誠実さそのものなのです。大いなる師であるイエスが死の間際に疑念を感じるなんてはたして可能なのか、ということを多くの人が理解できなかったにもかかわらず、イエスのこの誠実さは、誰をも失望させることはありませんでした。ほとんどの人は、まさにこの疑念と恐れは人間にとって重要なレッスンなのだということを知りませんでした。彼らは意識の上では理解していませんでしたが、内側でいまだかつてないほどに真実が自分のハートと魂の中に直接流れ込み、強まったことを感じたのです。脳を介して理解したわけではなくても、感じたのです。

 知的な説明が、ハートと魂で感じ受け取るものをあいまいにすることがなければ、また、一見知的な考えと矛盾しているように見えても直感が機能することを許せば、その人は深い清らかさと純潔さがあることを意味しています。これは、頑固で偏屈な宗教家たちがよく使う「純潔」「清らか」という言葉とは何の関係もありません。イエスが言っていたのは、この子どものような態度のことです。これが、幼子のようであれ、喜んで経験せよ、というイエスの言葉の別の側面です。イエスの弟子たちはこの性質を持っていました。彼らもまた、存分に経験したのです。そしてイエス・キリストその人は、自身の生と死の中でこのことを十分に示されました。彼は、制限することなく、自分の持つ疑念、恐れ、痛みと脆さを認めることを恥だと思うことなく、力の及ぶ限り自己の苦しみを通り抜けました。この子どものような心を持つ、この能力からのみ、真の喜びを経験することができるのです。イエスは、このことを生きている間だけでなく、魂の再臨によっても証明しました。しかし、このことは、ほとんど記録されていません。よく誤解されるのでもう一度申し上げます。この事実は誤解されているか、あるいは少なくとも完全には理解されていません。イエスの復活と再臨、それは魂としての生が継続することを意味するのだと理解している人でさえ、現世的な視点からこの現象を十分に深く理解してはいません。彼らは、ただ単に、イエスは死後も人生が続いていることを体現しただけだと考えており、イエスの復活と再臨が意味することはそれだけだと思っているのです。友人のみなさん、それにはもっとたくさんの意味があるのです。この現象は、魂の中で生きること以上のものが続いていく、ということを証明しています。ちょうど今、あなたがこの転生にいる間、そのことはあなたにとってより多くのことを意味しています。イエス・キリストさえも、絶望の中にいるとき、自分が知っていたことを忘れてしまうとすれば、他のすべての人が困難を通り抜けるときにそうなっても不思議はありません。このようなとき、知的な理解だけではそうすることしかできないのです。誰よりも、イエスはそのことをよく知っていました。キリストの再臨は、その時代にいなかった人々、そして引き継がれていく次の世代の人々にとっては理論上のことでしかないかもしれません。したがって、キリストの再臨にはより深い意味、つまり人間の内なる生命の象徴的な比喩がそこにあるのです。これはより深い意味を持っています。キリストの弟子たちにとってイエスの再臨は明らかに次のことを描き出しています。「自己を偽ることも欺くこともなく、あらゆる意味においてこの厳しい試練に向き合い、究極までそれを通り抜けてきたあと、私は今真の意味において生きている。まさに、完全なる意味において生きている。あなたにも、それは可能なのだ。肉体の死を迎えるときまで待つ必要はない。なぜなら、あなたは毎日、小さな試練や葛藤の中でたくさんの死を迎えているからだ。これらを経験する方法こそが続いて起こる人生を決定し、そしてまた、あなたのものになり得る喜びに満ち溢れた状態を決定するのだ。もしもあなたが、これらの厳しく辛い試練や苦しみを、誠実さとともに今のこの魂のもとで経験したならば、その分だけ、あなたが肉体の中に在る間、人生と喜びとを経験することができるだろう。」これは、イエスの復活におけるその他すべての意味を超えた、究極的な意味でのメッセージです。ここに、かつて示されたことのない、生命でもって示した象徴を見ることができます。

 地球上における人生は現実の象徴であり、その逆ではありません。そしてそれは、イエスの生と死にも言えることです。イエスは、私たち一人ひとりに、進化の歴史、死後の生、そして死後の約束について、単に伝えるだけでなく、それ以上のことを言っているのです。それを理解するために、地上での肉体を去るときを待つ必要はありません。あなたには、毎日その機会があるのです。今あなたが死後の生を信じることができるかどうかは問題ではありません。何を信じていようとも、すべての日々が、日々の小さな「死」とは何かを認識し、それを経験し、そしてその中で必然的なものとそうでないものの区別を学ぶことによって、人生をベストに生きるための機会をすべての人々に提供しているのです。もしもあなたが、リラックスした受動的精神の中で、例えば過去の間違った態度の結果や肉体的な死など、必然的で避けられないものと出会い、同時に成長したい、そこから何かを体験したいと望むならば、自分がどこで、どんなやり方で、本来は避けられたはずの困難を不要にも選択してきたのかをはっきりと認識するでしょう。これは、あなたの中に、避けられないものから逃げようという精神があるから起こるのです。逃げれば逃げるほど、あなたは本来避けられるべき両極端を自分に招き寄せることとなります。

 とても個人的な自己探求によってのみ、自分がどのようにこれら両方の要素、つまり避けられることと避けられないことに反応するのかを決めることができます。避けられることと避けられないことというこの問いかけは、自立と互いに相互依存し合うという問題と似たものを浮かび上がらせます。個人的な自己分析だけが、それぞれの個人にその答えを与えてくれます。そのほかに道はありません。すがりつける一般的なルールは、そこに存在しないのです。

 要約します。孤立と孤独は、内側の、認識されていない依存の結果であり、内なる自立の上にある健全な相互依存とは相反するものです。だからこれは、必然性についての問題と切り離すことはできません。避けられない必然的なものから逃げ出すことによって、あなたは、本当は逃れることのできる困難を自分にもたらしているのです。そして、避けられない困難を恐れるあまり、あなたは自分にさらなる困難を引き寄せています。このことを理解してください。この避けられない困難を認め、それを通り抜けた後に、あなたは、避けられない困難が終わったことを知るのです。

 さて、何か質問はありますか?

 質問:どのようにすれば、困難が困難でなくなるのでしょうか? 例えば拷問などはどうでしょうか?私は死を恐れてはいませんが、死ぬときの苦痛は恐れています。あるいは人が、無力な生き物が拷問を受け、そんな中で死んでいくのを見るのを恐れます。

 答え:すでに述べたように、人が困難を経験し通り抜けずにいる限り、それこそが困難です。あなたは、正反対のことを自分自身に言うとは思っていなかったでしょう。それどころか、自分の恐れを否定することが、死そして生から逃げ出し、否定するひとつの形なのです。死を通り抜けた人のみが、そこに死はないという確信を持つことができます。これを見つけ出すためには、それを通り抜けなければなりません。あらゆる形の苦しみのように、死の意味合いが少ないものでも、それが自分の恐れる死や苦しみほどに極端なものではないことを見つけるためには、やはり経験しなければなりません。たいていの場合それは、痛みに満ちたものでも、あなたを消滅させてしまうほどのものではありません。

 人生を振り返ってみれば、このことについてたくさんの事例を見つけることができるでしょう。自分の人生経験のいくつかを振り返るとき、恐れていたものは何だったのか、それを前にして恐怖に動けなくなるほど、不相応なほどに恐ろしく見えていたものは何だったのかを見つけ出すことができます。そして、実際にそれを通り抜けることによって、それらは恐ろしいものではなくなるのです。究極的には、あなたはそれによって傷ついてはいませんでした。実際、あなたは、ポジティブな意味において、影響を受けました。つまり、それによって自分を成長させ、あなたの全人格に、そして思考プロセスだけでなくあなたの全資質、感情面での人生にたくさんの経験をもたらしてくれたからです。もしもあなたが、過去を振り返る中で十分な誠実さをもって自己に問いかけるならば、あなたはその経験がもはや恐怖ではないことを認めることができます。したがって、恐怖は現実ではないのです。なぜなら、現実とは永久不変のものだからです。対して幻想は、時が過ぎるにつれてその激しさを失います。しかし、現実でないものを現実として経験している限り、解決するには、自分に対してそこから抜け出そうと言わないこと、避けられないことを避けようとしないことです。そうではなく、自分の恐れと苦しみを知ること、そしてそれにリラックスして向き合うことです。自分自身に「これは幻想だ」と言うことでは、苦しみという幻想を避けることはできません。あなたにとってそれが現実であるならば、あなたはそれを通り抜けなければならないのです。その間ずっと、あなたは自分が知的に理解していることを感情に強要するのでなく、それをマインドの中で保ってください。そして、自分の思考や感情を観察しながら、両方が一緒になって、自由に存在することを許してください。こうすることで、苦しみを通り抜け、真の意味でそれを経験することがより容易くなることでしょう。なぜならば、この経験だけが、あなたにその幻想を見せてくれるからです。全身全霊で、あらゆる側面を持つ人生へと向かって行くことは、この二元性を超えるための素晴らしい助けとなることでしょう。

 質問:あなたは、人々を失望させることができるのは偽り、不誠実だけであり、ほかの方法はあり得ないと話されました。これについて、もう少し説明していただけますか?

 答え:私が真実という言葉を使うとき、たいていの場合、人々が思慮に欠けたやり方で表現しているちっぽけな真実を意味しているわけではありません。これは、真実とはまったく違うものです。時には、偉大なる真実が、ほんのささいな「真実ではないこと」と矛盾しない場合もあります。そして、ほんのささいな真実が、偉大なる真実と大いに矛盾していることもあるのです。ここに、あなたがすがることのできるルールや基準はありません。すべての真実に言えることですが、それぞれのケースが独自のものであり、評価し、識別することが必要で、その過程においてずっと能動的に考えることが求められます。そのときにのみ、あなたは、ほんのささいな真実が偉大なる真実と一致するのはどんな場合か、そして一致しないのはどのような場所かを理解できるようになります。その人自身の動機が、この問いかけに対する本当の答えをもたらしてくれます。もしもその人が自己に対して誠実であるならば、人を傷つけてしまうちっぽけな真実が、個人的な欠点あるいは弱さ、つまり高慢さ、虚栄心、身勝手さ、反抗心、不安感、フラストレーション、ほかにもありますが、それらからもたらされるということを見つけるでしょう。もしこれらの内面の動機がより正当な理由によって覆い隠されてしまうとしても、だからと言って影響力を持つ隠れた流れの存在を取り除くことにはなりません。しかし、究極の意味において自分に誠実な(真実でいるということ)人は、ほかの誰かを失望させることなどできないのです。結局、自分自身に対するこの誠実さを手に入れることが、この癒しの道におけるあなたの自己探求のゴールなのです。

 質問:教会がイエス・キリストの肉体的な復活に重きを置いていることについてお尋ねしたいと思っています。それについて、あなたの意見をお聞かせ願えますか?

 答え:そこには、二つの側面が関係しています。そのうちのひとつは、過去に述べたことがあります。もうひとつのものについてはまだ述べていません。というのは、それは前回と今回のこれらの二つの講義で扱ったテーマであり、そのときにはみなさんはまだ準備ができていなかったからです。

 最初の側面についてもう一度簡潔に繰り返します。それは、完全なる誤信であり誤認です。それは人間が肉体的な生命の存続を信じたいと思うことから起こる、肉体的な死に対する人間の持って生まれた恐れから来ています。それゆえにイエス・キリストの再臨を、このように肉体的な復活として解釈せざるを得なかったのです。

 もうひとつの側面は、さらに深く、広い意義を持っています。そこには最も深い叡智や真実が、象徴的な形で含まれています。この象徴主義については、以前の講義で広範囲にわたって説明しました。イエス・キリストの復活は、もし死や苦しみ、そして未知なるものへの恐怖から逃げずにそれを通り抜ければ、肉体の中に在る間に、最も深い意味における人生を真に手にすることができると、象徴的に教えています。「ピュア」というとき、一般的に理解されている、陳腐な、肉体を拒絶するような、そんな意味で使っているのではありません。なぜなら、肉体はスピリットの一部で、スピリットは肉体の一部だからです。すべてがひとつの全体をなしているのです。だからこそ、イエス・キリストは肉体を持った人間として現れ、肉体というのは拒絶されたり、否定されるべきものではないことを示したのです。もしあなたが死を受け入れるならば、人生において、肉体において、流れる生命の力によって復活を遂げるでしょう。その生命の力によってあなたは自分という存在のすべてのレベルにおいて、つまり肉体レベルにおいても、真に喜びを感じるでしょう。お分かりですか?

 質問:はい。しかし、この考え方の誤りについてのあなたの言葉は、福音書の中にある、弟子たちの墓への到着についての記述部分が事実ではなく、その約束はまったくの偽りであったという結論に至ります。

 答え:いいえ、まったく違います。イエスが彼の弟子たち、つまり愛する者たちの前に現れたとき、ずっと語り継がれ、ある状況のもとではこれからも語り継がれ続けるであろう現象が起こったのです。みなさんの時代では、これを、魂という実在の具現化と呼んでいるのではないでしょうか。それは、すべての肉体的人生がそうであるように、魂という物質の固体化です。しかし、これが起こったという事実は、一般的には知られていない、深い哲学的、心理学的な意味を持っています。すでに説明したように、その意味は、生と死に出会うこと(経験すること)、そうするとあなたは死ぬことなどできない、ということです。あなたは真の意味において、生きることになります。ですから、弟子たちが目にしたことは本当だったのです。けれども、弟子たちの大部分がその意味と目的を理解できませんでした。イエスがいつもやっていたようにその説明を試みたとしても、何人かは理解したかもしれませんが、すべての弟子が理解することはできませんでした。彼らはそれを単なる現象としてだけ捉えました。実際にそうだったのですが、そのこと自体は珍しいことではなかったのです。この説明でもう少し理解できましたか?

 質問:私は質問を準備していました。そしてその質問はこの話にぴったり合っています。芸術、芸術家の作品と関係している質問です。個人を前提にあなたの言っていることを推測すると、喜びの原理対現実の原理 --- つまりフロイトや他の哲学者が言う、芸術は個性を表現するもので、現実に向かって努力している個人の創造物として、人間の経験ということころまでたどり着いた、と私は考えています。なぜならば、その人が喜びの原理は支配的に君臨することはできないということを理解するとき、その人は失望し、自分の作り上げた世界に行ってしまいます。そしてそこから、その十分な才能がある場合、芸術を生みだし、結果的に自分と現実を再び結びつけます。私は原則的に、これが正しいと思うのですが?

 答え:あなたは、昇華のことを話しています。

 質問:そうです。死後の存在を意識的に信じていない者、そして意識的に死を超えて存在したいと望んでいない者は、現在のこの肉体的な人生を楽しみ、喜びを享受したいと思っています。肉体的な人生というのはつまり、肉体、そして肉体の喜びと感覚を意味しています。私は、そのような人に関してお尋ねしたいと思います。昇華させることへのニーズを含み、与えられた才能やある種の個性というのは、芸術を生み出したいと願います。それを創造すると永遠の命を手に入れます。つまり、死後の生を信じるのと同じものではないですか?言っておきますが、私は死後の世界があるかどうかについて尋ねているのではありません。

 答え:そのことはわかっています。そして、そのことについてお答えしようとも思いません。死後の世界があるかどうかについて、誰が何を言おうとも、そこには何の違いもありません。自分自身の経験を通してのみ、そこに辿りつけるのです。もしも、真の意味で自分のものではない考えを上塗りしても、それは、不信心を認めるよりもさらに不健全です。これはちょうど、前回の講義で私が強調した点のひとつです。さて、それでは、あなたの質問のほかの側面にお答えしましょう。

 第一に、肉体の死後も生命が継続するという真の知と経験は、肉体的な生のあとに来るスピリットとしての生を得るために、肉体の喜びを犠牲にすることもなく、犠牲にし得ることでもなく、あるいは今後犠牲にする必要もない、という点を明確にしておきます。すでに講義の中で述べているように、それは、成長を通して、正しく健全な態度でそこに至るならば、肉体の喜びを犠牲にしなくてもいいのです。それは、まったく逆なのです。恐れや弱さから宗教への信仰にしがみついている人たちは、一方が他方と相対するものだという結論に達しています。事実、これら二つの講義が本当に理解されたならば、このことは完全に明白になるでしょう。解放された生命の力が身体を避けて流れるはずがありません。したがって、その生命の力は、人がより受容的になり、肉体のレベルをも含むすべてのレベルにおいて喜び受け取ることができるようにするのです。

 しかし、すべてのレベルにおけるこの完全なる喜びを経験するためには、魂が健全であることが求められます。不健全な魂には、その健全さが欠けている分だけ、喜びを経験する力がないのです。

 同時に、もし人が自分の中の不健全な側面や態度を癒すならば、その人は、より大きな喜びを経験することができるようになるだけでなく、より満ち足りた人生へと導かれていきます。けれども、このことも言っておきましょう。ほとんどまるで副産物かのように、その人はもっとクリエイティブになります。そして、その人は、霊的法則と真実という現実を経験し始めます。成功へとつながる分析のできる人は、たいていの場合霊的法則と真実という現実を信じるようになります。それは偶然の一致ではありません。とはいえ、このようなことは今この時代には望まれるほどには起こりませんが。これは、宗教上の宗派を意味しているのではなく、むしろ、自分自身の私的な理解、経験、内面の証明と知識を示しているものだと言えます。これらはすべて、魂が癒されたことから起こる副産物です。誤認から、ゆがみから、そして霊的法則の逸脱から魂が癒されたからこそ起こることです。すべてのレベルにおける喜びの真の経験、クリエイティブな能力の開花、そして霊的真実に対する内なる知は、内面の健全さの結果としてもたらされるものなのです。

 同時に、魂がより病んで歪みがあるとき、真の喜びを受け取る能力が低下し、その生来のクリエイティブな能力も麻痺してしまうでしょう。ひどい内面の葛藤を抱えていながらも大変クリエイティブな人々が存在するという事実は、このことと矛盾しているわけではありません。それは、クリエイティブな才能があまりにもすばらしいために、魂の問題があっても、その才能は現れます。そしてその人は、すべてのレベルにおいて現実からより分離していることを意味しています。このことは、宇宙の法則と霊的真実が無視されていることを意味しているだけでなく、この地球という次元において顕現している現実もまた無視されているということを意味しています。

 芸術を通した不死への願望は、人間の持つ永遠の生への切望、そして死に対する苦しみの別の形をとったものにすぎません。ある人は、内なる知を通してその信仰に行き着いたわけではなく、恐れと弱さから信仰を受け入れて、狂信的に宗教を信じます。別の人は、先の人よりも、そのような信仰を「必要としない」という意味で自分自身をより強く信じています。けれども、その人の表現方法は、根本的には同じで、その人が生み出してきた仕事を通して不死を手に入れたいという願望があります。どちらの人も手放したいとは思っておらず、人生にすがりつきたいと思っているのです。彼らは、あきらめることができないのです。このような「すがりつき」や「あきらめられない」態度は、重大な問題や毎日のささいな出来事の中で、表されていようといまいと、魂を縛りつけ、監禁していることを意味しています。それは成長を妨げ、人格のすべてのレベルにおいて現れるさまざまな形の停滞を生み出します。自分を手放すこと、大切に思うものを得られるという保証がなくても未知の中に入っていくこと、それらからもたらされる大きな自由だけが真の成長を生み出します。ですので、芸術(あるいは科学、その他の表現方法)を通して不死を願うことは、本質的に、恐れから信仰にしがみついている宗教家のやり方と大差ありません。前回の講義で説明したように、無神論者も、偽の宗教者と同じように、この道から外れ、間違ったやり方で死と出会うのです。偽の宗教はこう言います。「私は、死を恐れているから信じたいのだ。私は手放したくない、あきらめたくはない」と。そして、無神論者はこう言います。「神を信じている者は弱いだけだ。私は十分に強いから、そんなものはまったく必要ない」と。しかしこの人もまた不死を欲し、そして創造を通して不死を捜し求めることは強さの証明であると考えているのです。これは、人生にしがみつき死と戦うための、また別のやり方です。このタイプの人は存在しなくなることを恐れるあまり、信じるという危険を冒さないのです。そして、もし宗教家たちが間違っている場合に感じる失望を感じるリスクも避けます。どちらのタイプも、自分が本当に理解してはいないこと、そして未知なるものを受け入れなければならないことを認める能力を持っていないのです。さて、友人のみなさん、外面的にはこの無知を認めているたくさんの人々は、必ずしも本気でそう言い、それを感じ、生きているとは限りません。彼らもまた、最も奥深くにある態度の中で、死からの逃避を現実化しています。健全な態度を決定するものは、その人が公言したり、考えたり、信じたりするものではありません。それは単にあらわれているものにすぎません。ですので、あなたは、その人が公言している信念や態度に基づく評価に気づいているべきです。例えば、死への願望は、必ずしも死後の生を本当に信じていることを示しているわけではありません。あるいは、「存在しないこと」との一致を示しているわけではありません。それはただ単に人生に対処していくのに疲れたという表れ、つまり、もちろん、どのように死に対処していくかを知らないことの結果でもあるのです。

 さて、昇華という問題を取り扱うときがやってきました。昇華は、とても多くの場合、完全に誤解され、そしてとても不健全な現象です。それは、精神分析医の概念と同じように、宗教家の中にある歪んだ、有害なプロセスになり得るのです。宗教家は、「肉体を持つ生は罪深い。それは魂に反する。それは悪魔を表し、ゆえに私の肉体的衝動を昇華し、それを霊的なものにしなければならない」というとき、昇華しているのです。このことは抑圧へとつながっていきます。そして、先入観なしに新鮮な目で抑圧を見ると、それは不誠実さ、自己欺瞞、自己についての認識の欠落、そして事なかれ主義以外の何者でもありません。他方で、心理学者はこう主張します。「現実とはとても惨めで、絶望的なものであり、喜びの衝動とは矛盾しており、昇華させるよりほかに選択肢はない。悪の要素がより少ないものとして、私は妥協してそれを選択する。一方で、もし自分の喜びの衝動を認識したいと望むならば、私は最も原始的で基本的な本能に従って生きなければないだろう。しかし他方で、このことは私と周囲との間に葛藤を引き起こすだろう。だから、私は喜びを優先することをやめるだろう。それゆえに、状況は絶望的だ」と。これらの原始的で基本的な本能は、肉体的な喜びへの「霊的な」拒絶と同じように、喜びの原理に貢献することはありません。成熟し健全な魂のもとでは、喜びの衝動がその人の環境や周りの人を妨げることは決してありません。これは昇華や、抑圧、忍従によるものではありません。なぜなら、その本能は人格の残りの部分とともに成長し、原始的で基本的な本能よりさらに高次の形で喜びに対する感受性が強くなるために、それが起こるのです。この高められた喜びは、肉体的なレベルをも含んでいます。そして、そのあと、死と苦しみに向き合うという結果になります。それは否定しないことを通して、少しずつ二元性を取り除くことによって起こるのです。そうすることで、あなたの知る地球上の現実が変わり始めるのです。最初はあなたの内面世界において微細に変化し、それからあなたの周りにゆっくり広がっていくのです。

 クリエイティブな能力は昇華の産物であるというのは完全な間違いです。別の言い方をすると、クリエイティブな能力は、喜びの衝動を人格の別の領域にシフトさせることから生まれるというのも完全に間違っています。あるがままの健全な人は、文字通り、両方を持つに足る豊かさを持っています。それは、人生におけるそのほかのたくさんの表現方法と同じです。制限され歪んだ魂だけが、どちらかを選択をしなければならないのです。もし喜びの衝動を抑圧するなら、それはどこかで表現されなければならず、そして多くの場合あなたの創造性という領域において表現されるというのは真実です。しかしこのことは、もしその人格が完全で統合され、すべてのレベルにおいて健全に機能しているならば、よりクリアでパワフルにそれが表現されることはない、という意味ではありません。代用品としてではなく、人生の完成形として、より建設的で完全なやり方で現実化します。

 親愛なる友人たちよ、この大変特別な日に、私はみなさんに、私たちのワーク、そしてあなたの内的な成長の現在の段階が、進化、宇宙、人間の歴史上の偉大なる出来事にどんなにぴったりとあっているかを示そうと試みました。みなさんすべてに祝福をお送りします。私たちの強さを、愛を、そして祝福を受け取ってください。この強さを受け取り、みなさんそれぞれにとって最も適した方法で使ってください。平和のうちに、神のうちにいてください!



###



以下の注記は、Pathwork®の名称およびこのレクチャー資料の使用法を示したものです。Pathwork®の商標/サービスマークは、The Pathwork Foundation(パスワーク・ファウンデーション)によって所有され登録されており、The Pathwork Foundationの書面による許諾なく使用することはできません。The Pathwork Foundationは、その単独裁量権において、Pathwork®の商標を、協力団体やその支部のような他の組織および個人による使用を許可します。

著作権にかかる規定
Pathworkのガイドの著作物は、The Pathwork Foundationの所有資産です。このレクチャーは、The Pathwork Foundationの商標、サービスマークおよび著作権ポリシーに準拠して複製され、いかなる方法においても変更または省略することはできません。また、著作権、商標、サービスマークおよびその他あらゆる公示の削除は許可されません。
レクチャーを提供される側は、複製と配布のための費用のみを支払うこととします。The Pathwork Foundationのサービスマークまたは著作権で保護された資料を使用する任意の個人や組織は、The Pathwork Foundationの商標、サービスマークおよび著作権ポリシーを遵守することに同意したものとみなされます。これに関する情報またはこのポリシーを入手するには、The Pathwork Foundationにご連絡ください。Pathworkという名称の使用は、The Pathwork Foundationによって承認される変容のプログラムを修了したファシリテーターとヘルパーにのみ許可されています。

日本語版の取り扱いについて
Pathwork in Japan (パスワーク・イン・ジャパン) の許可なしに、無断でコピー(複製)、貸与、頒布、販売することを固く禁じます。また、文書およびインターネット上(ウェブ、メール)での引用・転載を含む公開も禁止します。

また、本レクチャーの受領者は、英語版から日本語版を作成する際に発生する複製・配布・翻訳などにかかる費用をご負担いただきます。

さらなる情報やPathworkへの参加については、Pathwork in Japanにお問合せください。
ウェブサイト:www.pathworkinjapan.com
お問合せ先 :pathworkinjapan@gmail.com

※ガイドレクチャーに関するお問合せはメールで承っております。下記メールアドレスまでお願いいたします。
pathworkinjapan@gmail.com

© Pathwork in Japan All Rights Reserved.

bottom of page