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No.84 神聖なる特質の、そしてその歪みとしての、愛、力、穏やかさ

Pathwork Guide Lecture No. 84
UNEDITED版
1961年4月28日


神聖なる特質の、そしてその歪みとしての、愛、力、穏やかさ
LOVE, POWER, SERENITY AS DIVINE ATTRIBUTES AND AS DISTORTIONS

 こんにちは、親愛なる友人の皆さん。神の祝福を皆さん一人ひとりに贈ります。今この時間に神の祝福がありますように。

 主要な3つの神聖なる特質である、愛、力、そして穏やかさについて、またそれらがどのように歪んだ形で顕現してくるのかについてお話したいと思います。健全な個人においては、これらの3つの原理は完全な調和の中、状況においての具体的な必要性に基づき、交代しながら協調して働きます。これらはお互いを補足し、強めます。柔軟性が保たれて、3つの特質が決してお互いに矛盾したり妨げ合ったりしないように働きます。しかしながら、歪んだ人格においては、これらは相互に排除し合うのです。ひとつは相互の矛盾であり、ゆえにそれらは葛藤を創り出します。人生、そして人生の問題の解決策として、主要な役割を担うようこれらの特質のひとつが無意識に選ばれることから、このようなことになるのです。

 みなさんは、私が服従性、攻撃性、そして引きこもりの態度について話したことを覚えているかもしれません。これらは愛、力、そして穏やかさの歪んだ形です。そしてこれから、心理的にこれがどのように働くのか、どのように解決策たり得るのか、どのように優勢な態度が独善的で硬直した基準を創り出し、理想化された自己像の中に組み込まれていくのかをより詳細に話したいと思います。

 子どもの頃、人間は現実と想像上の両方において、失望、無力さ、拒絶と遭遇します。これらは不安感、自信の欠如を生み出します。それらを乗り越えようと模索しますが、残念ながら大抵間違った方法を用います。間違った解決策を用いたがために、子ども時代においてのみならず、その後創り出された困難を克服しようと、その人は自分自身を悪循環の中に引きこんでいきます。その人が用いるまさにその「解決策」が問題や失望をもたらすということに気付いていないために、その人は自分が解決策とみなしているものをより精力的に追求していくのです。それができなければできないほど、自分自身に疑いを持つようになります。そして自分自身を疑えば疑うほど、間違った解決策に迷い込んでいくことになります。

 これらの偽の解決策の内のひとつが愛です。それは、「もしも愛されれば、すべては大丈夫だ」という感情です。他の言い方をすれば、愛がすべての問題を解決するはずなのです。そうではないということを敢えて言う必要はないでしょう。特に、この愛がいつ、どのような方法で与えられるべきなのかということに固執している場合、現実には、このように神経症的な人は、ほとんど愛が経験できないのです。愛を受け取るために、そのような人は、内面的かつ外面的行動や反応において、いくつかの典型的な人格の傾向やパターンを身につけます。その結果、自分自身を実際よりも弱く無力にするのです。その人は、破滅から救ってくれる唯一のものように思える愛と保護を手に入れるために、どんどん控え目な特徴を帯びるようになります。その人は、本物あるいは想像上の他者の要求に応じるのです。そして、承認、共感、助け、愛を得るために、自身の魂を売ると言っても過言ではないほどに、こびへつらい、懇願するのです。無意識のうちに、自分そして自分の望みやニーズを強く主張することは、人生において唯一価値があると考えているものを放棄することになると信じています。それはつまり、子どもとして大切にされることです。それは、経済面だけでなく、感情面においても大切にされるということです。こうしてその人は人工的に、そして(最終的には)不誠実に、偽の不完全さ、無力さ、従順さを主張するのです。その人はこれらを武器として、そして最終的に勝利し、人生をマスターする手段として使います。
この欺瞞を自覚しないでいるために、これらの傾向は、その人の理想化された自己像、あるいはその一部となります。これらすべての傾向が、自分の「善良さ、高潔さ、利他主義」の表れであると信じることに成功し、ついに強く愛情深い保護者を所有しようと、その人が自分を「犠牲にする」ときには、自らの私利私欲を捨てた犠牲的精神の性質に誇りを持ちます。自身の知識、成果、力を主張することない「慎ましさ」に誇りを持つのです。それによって、自分に愛情を感じ保護してくれるように他者に強要することを望みます。この偽の解決法には、実にさまざまな側面があります。あなたがやっているワークにおいて、これらはきめ細やかに見つけ出されなくてはなりません。これらを見抜くのは簡単なことではありません。なぜなら、これらの態度は深く染み込んでいるからです。それは、あなたの性質の一部となったかのように見えます。それに加え、一見したところ真のニーズのように見えることから、しばしば合理化することができるのです。とても大事なことは、これらがいつも他の偽の解決法からの、まさに真逆の傾向によって阻止されることです。これら真逆の傾向もまた、たとえそれほど支配的でなくとも、常に存在しています。同じく、他のタイプにおいても、その心理の中にこの服従性の側面を見つけることができるでしょう。この偽の解決法がどの程度まで優勢であるか、そしてどの程度まで他の「解決策」によって中和されているかというのは、個々人によって異なります。

 服従的な態度が優勢な人は、これらの態度の中に蔓延するプライドを発見するのに、もう少し苦労することになるでしょう。他のタイプでは、プライドは表面にかなり出ます。自身のプライド、攻撃性や冷笑的な態度に誇りを持っていることもあります。しかしながら、一度でも自分でそれを見つけると、それは「愛」「慎ましさ」、あるいはその他のいかなる「聖なる」態度によっても隠すことはできなくなります。服従的なタイプは、これらの傾向を自分がどのように理想化しているのかを見るために、しっかりと洞察力のある目で見ていかなくてはなりません。このタイプの人は、歪んだ力から出る攻撃性のみならず、健全な自己主張に対しても、自己主張をするすべての人びとに対する、よそよそしい批判と軽蔑の反応を見つけるかもしれません。その人は自分が軽蔑しているもの、そして「スピリチュアルな進化」あるいは「倫理的なスタンダード」という点で優位性を感じているものに憧れを抱くと同時に妬んでいるかもしれません。その人は物欲しげに「もし私があのようにできさえすれば、人生でもっと先に進むことができるだろうに」と考え、口にするかもしれません。しかしそのようにすれば、自分の「善良さ」に圧力を加えることになり、「より善良でない」人びとが得るものを手に入れることを妨げます。そしてその人は、自分の自己犠牲の苦難に対してプライドを持ちます。これらの動機の真の性質の中にあるまさにその真実に満ちた洞察のみが、服従的な態度の中で蔓延する根本的な我儘さや自己中心性を明らかにするのです。これは他の態度も同じことが言えます。プライド、偽善、見せかけが理想化された自己像に組み込まれるとき、3つすべての態度の中にこれらが現れます。服従タイプは、プライドを見つけ出すのがより難しく、攻撃タイプは、見せかけを見つけ出すのに困難を感じます。なぜなら攻撃タイプの人は、冷酷であったり、皮肉を言ったり、自分の得を求める中で「正直さ」を見せかけるからです。

 保護的な愛情に対するニーズは、子どもにとっては確かに正当性を持っています。しかし、もし大人になってもこの態度を持ち続けるなら、それはもう正当ではありません。愛されることを求め続けるのは、究極の歓びを請い求めるだけでなく、「私は愛されなければならない。そうすれば自分自身の価値を信じられる。そうすればお返しに、私も愛そうという気になるだろう」というような要素があるためです。それは究極的に自己中心的で、一方的な欲求です。この態度全体の影響は重大です。まず、そのような愛や依存へのニーズは、現実に人を無力にします。その人が自分自身の足で立つこと、つまり自立する能力を育てることになりません。その代わりに、自分自身の理想像に沿って生きるために自分の精神的な強さを使い、他者がその人のニーズに応じるように強要するのです。言い換えれば、他者を自分に従わせるために、自分が他者に従うのです。彼は支配するために服従します。とはいえ、このような支配は常に柔らかく、弱々しい無力な形で顕現します。

 このような態度に巻き込まれている人が、真の自己と疎遠になっていくことは無理もありません。その人の真の自己は否定されなくてはならないのです。なぜならば、その主張は厚かましく攻撃的であるかに思われるからです。これはどんな代償を払っても避けなければなりません。しかしながら、そのような自己否定が人格に負わせる屈辱は、自己卑下や自己嫌悪という影響をもたらします。しかしこれは痛みを伴うため、最上の美徳である控えめさを推奨する理想的自己像との矛盾を脇にどけて、他者に投影されなくてはなりません。他者に対するこのような卑下と恨みの感情は、今度は理想化された自己像の基準に反します。それゆえに、この感情を隠さなければなりません。この二重の隠匿が反転を引き起こし、人格に深刻な影響を及ぼします。そしてまた、さまざまな種類の肉体的な症状としても現れます。

 怒り、憤慨、恥、フラストレーション、自己卑下、そして自己嫌悪には、2つの存在理由があります。ひとつめの理由としては、自分に真実の自己を生きるのを禁ずること、そして自分自身であることを妨げられているという屈辱があげられます。そうしてその人は、世界がその人自身でいることを妨げ、虐待し、自分の「善良さ」を利用していると信じるようになるのです。これが投影です。ふたつ目の理由に、これらの感情は、その人が自身の特定の理想化された自己像の指示に従って生きることが不可能であることから存在します。その指示とは、不快に感じてはならない、軽蔑してはならない、嫌ってはならない、責めてはならない、他者の欠点を探してはならないなどです。その結果、自分がそうあらねばならないと思うほどに「善良」ではなくなるのです。

 おおまかには、これが「愛」を選んだ人の姿です。その「愛」は、硬直した、一方的な解決策として、思いやり、理解、許し、統合、コミュニケーション、兄弟愛、自己犠牲など、その細分化されたものも含みます。これは神聖なる特質の歪んだ形です。このタイプの理想化された自己像は、これに附随する基準を押し付け命令を下します。その人は常に裏方でなければならず、自己主張をしてはならず、要求には応じなければならず、他者の欠点を見つけてはならず、すべての人を愛さねばならず、自分自身の真の価値や成果を決して認めてはならないなどと延々続きます。表面的には、これはまったく本物の聖なる姿のように見えるでしょう。しかし友人であるみなさん、それはただ真の愛、理解、許し、慈悲などの真似事(パロディー)でしかないのです。下に潜んでいる動機の毒が、真から誠実であることもできるものをも、歪め破壊してしまうのです。

 ふたつ目のタイプは、力を求める者です。この人は、力を持つことと他者から自立することが、自分の問題のすべてを解決すると考えます。このタイプは、その他のタイプと同じく、たくさんのバリエーションや細分化された特質を示します。これが、他のふたつの態度より優勢であることも、劣勢であることもあり得ます。このタイプにおいて、成長途上の子どもは、安全でいるために自分にできる唯一の方法は、強くなること、何事にも耐え得る力を持つこと、自立すること、無感情でいることだと信じ込みます。そうすれば、誰も、何事も自分に触れることができない、つまり傷つけられることはないからです。そうしてその子は、自分の人間としてのすべての感情を追い出しにかかります。それにもかかわらず、感情が抑えきれずに表面化すると、その子はどのような感情でも恥ずかしく感じ、それを弱さとして考えます。それが実際の弱さであろうと、想像上のものであろうと関係ありません。愛と善良さもまた、弱さと偽善として捉えられるでしょう。服従タイプの歪んだ形のみならず、本物の健全な形においても同じです。暖かさ、愛情、コミュニケーション、身勝手さのない状態、これらすべてが卑劣でいけ好かないのです。このような衝動が自分自身の中で疑われるとき、その人は深く恥を感じます。それは、服従タイプが、自分の中でくすぶっている恨みや自己主張の性質を恥じるのと同じです。

 人生、そして人格にはたくさんのやりかたや領域があり、そこでこの力に駆り立てられて攻撃性が現れます。それは主に、達成するということに方向づけられているかもしれません。この力を動因とする人は、競争し、誰よりも優れていようと試みます。どのような競争も、その人の個人的な解決策に必要とされる貴重で特別な地位への傷のように感じられます。あるいは、すべての人間関係において、より一般的で、はっきりしない態度である可能性もあります。その人は人為的にタフさを培います。それは、服従的な人の無力な柔軟さほどの現実味しかありません。このような状態では、同じく不正直で偽善的なのです。なぜならこの人もまた、人間の暖かさと愛情を必要としているからです。この人もまた、自身の孤立によって苦しんでいます。この苦しみを認めないという点において、この人は他のタイプと同じく不正直なのです。理想化された自己像は、自立と力に関しては神のごとき完璧さの基準を持つように命じます。その人は自分が誰をも必要とせず、完全に自己充足していると信じています。単なる人間に過ぎないその他大勢とは対照的に、その人は愛、友情、助けを必要としません。このイメージの中にあるプライドはとても明らかですが、不正直さを見つけるのはより難しいでしょう。なぜなら、このようなタイプは「良い子ちゃんタイプ」がいかに偽善的であるかという合理的説明の下に隠れているからです。

 この理想化された自己像は、力と感情、人間的な情動からの自立を求めますが、それは人間である以上誰もが持ちえないほどのものです。そしてそれは、その人が理想化された自己の求めるようには生きられないことを証明し続けることになります。これは、その人をうつ状態、そして自己卑下の状態に投げ込みます。その状態は、そのような自己懲罰の痛みに無自覚でいるために、またもや他者に投影されなくてはなりません。理想化された自己像でいられないということには、常にこの結果が伴うのです。また、本当に細密に全タイプの理想化された自己像が強いることを分析するとき、どのような形にせよ、全能であるということが常に含まれています。しかし、これらの感情的反応(ER)はとても微妙で紛らわしく、合理的な知識によってしっかりと隠されていることから、すべてに気づくためには特定の感情や特定の機会を見なければならず、とても大変です。あなたがやっているワークだけが、自分の中にこれらの態度がどのように存在するのかを引き出してくれるのです。もちろん、ひとつのタイプがその方向において優勢であれば、より簡単に見つけられます。しかし、ほとんどのケースでその態度はより隠されて、他のタイプと衝突し合っています。

 攻撃タイプ、つまり力を持つことが解決策だと考えているタイプのさらなる兆候は、「世間は、そして人びとは本当にはどれほど悪いのか」という人為的に培われた視点を持っていることです。この視点ために、その人はそれのことを証拠づけるものを受取ることになります。しかし、彼は、誰も好きにならない理由として、自身の「客観性」、そして自分は騙されないことに対するプライドを持つのです。愛してはならないというのは、その人の命令の一部です。もしその人が愛するとき、あるいは本来の性質が時々現れるとき、それは理想化された自己像に対する粗野な違反行為となり、それを恥じます。逆に言えば、服従タイプは、自分以外のすべての人間を善良であると考えて、すべての人を愛する自分にプライドを持ちます。というのは、それが服従的な態度を取り続けることを可能にしているからです。現実には、他者がその人を愛し、評価し、承認し、守ってくれさえすれば、他者の良し悪しは本当には気にもしていないのです。たとえどんなにうまく「説明」されていようと、他者の評価はすべて、この見方によって決められます。誰もが実際の長所と短所を持っているがために、その服従者と他者がどう関わっているかによって、どちらを選ぶこともできるのです。

 力を求める者は、何事においても決して失敗してはなりません。自分自身の失敗を誇り、無力さを証明して、ゆえに他者に愛と保護を強要する服従タイプとは逆に、力を求める者は何事においても決して失敗しないことに誇りを持ちます。(人格の特定の領域では、失敗が認められ、許容されている場合があるかもしれません。なぜならば、その領域においては、優勢な態度が服従的であるからです。服従タイプが、人格の特定の領域において、解決法として力を用いるのと同じです。)両者とも同じく硬直していて、非現実的で、実現不可能です。従って、これら「解決策」のどちらも、自分自身に関して、絶えず続く苦痛と幻滅の源であり、ゆえに自己尊重の欠如が深まる結果をもたらします。

 前述したように、どれかひとつが優勢に出ているかもしれませんが、個人の中ではすべての「解決策」が常に混ざり合っています。したがって、その人は自分が解決策として選んだ命令を正当に扱うことができません。決して失敗しないこと、誰も愛さないこと、あるいは他者から完全に自立することがたとえ可能であったとしても、同時にその人の理想化された自己像の命令が、人を愛すること、誰からも愛されること、そして他者を征服することである場合、それはますます不可能なことになります。というのは、そのようなゴールに到達するためには、攻撃的でしばしば冷酷でいる必要あるからです。理想化された自己像は、片方では愛を得るためには常に非利己的であることを要求し、もう片方では同時に、力を得るためには常に利己的であることを要求するかもしれません。さらには、心をかき乱されないように、人間の持つすべての感情に対して完全に無関心で超越していなければならないと要求するかもしれません。魂の中でこれがどんなに葛藤を生み出しているか、魂がどれほど引き裂かれているか、あなたには想像できますか?!することすべてが間違いで、罪の意識、恥、不適切であるという感覚が引き起こされ、それゆえにフラストレーションと自己卑下が誘発されるのです。

 それでは、解決策として選ばれ、それゆえに歪められた、3つ目の特質である穏やかさについて考えてみましょう。人は初め、前述のふたつの側面の間で引き裂かれたがゆえに、自分の内的な問題、ひいては人生そのものから引きこもるという方法を用いることで、出口を探し出そうとしたのかもしれません。つまり、引きこもりあるいは偽の穏やかさの下では、その人はいまだ半分に引き裂かれており、ただしそのことに気づいていないのです。あまりに頑強な見せかけとしての偽の穏やかさを築き上げたために、人生の状況が許す限りにおいては、自分自身を真に穏やかであると信じます。しかし、人生の嵐がその人に触れ、荒れ狂う結果をなすがままにするならば、潜在する葛藤がついに浮かび上がり、その穏やかさがどんなに偽物であったかを見せることでしょう。それがまったくの砂上の楼閣であったということを裏付けるのです。

 引きこもりタイプと力を求める者には、共通の何かがあるように見えます。それは、感情や情動からの超越、他者への愛着のなさ、自立への強い衝動です。潜在する感情的な動機、つまり傷つくことそして失望することへの恐れ、他者に依存して不安を感じることへの恐れ、がどれだけ類似していようと、これらのふたつのタイプの理想化された自己像からの命令はとても異なります。力を求める者は、自分の敵対心と攻撃的な戦闘意欲に対して誇りを抱きます。引きこもりタイプは、完全にこのような感情について気づくことはありません。そして、それらの感情が表面化するときにはいつも、その感情にショックを受けます。なぜならば、その感情はその人の命令に違反しているからです。これらの命令は、慈悲深く、そして人間の弱さと良い特質を知りつつも、煩わされず、影響を受けることもなく、すべての人間から超然として見えることなのです。これがもし本当であれば、それはまさに穏やかさででしょう。しかし、いかなる人間も、そこまでは進んでいません。したがって、このような命令は、同じように非現実的で実現不可能なのです。これらも、やはりプライドと偽善を含んでいます。この超然とした態度が正義と客観性においてまるで神のようであるという意味におけるプライドです。現実には、その人の見方は、たとえば服従タイプと同じく、他者が自分のことをどのように考えるかによって、色眼鏡がかかるかもしれないのです。しかし、その人はあまりにプライドが高いために、高貴なる自分が、そのような人間の弱さに動かされていると認められないのです。自分について、それらすべてを超えた者として考えます。そして、これがまったく真実ではなく、また他のふたつのタイプと同じく他者に依存していることから、その人は同じように不正直なのです。そしてこれが真実ではなく、人間である限りは真実とはなり得ないことから、自分の理想化された自己像の基準と命令の要求には遠く及ばず、他のふたつのタイプが個別の基準に及ばないときと同じく、自己卑下、罪悪感、フラストレーションに陥ることになります。

 これらの3つの主要なタイプを、大まかな形で簡単に説明しました。たくさんのバリエーションが存在することは言うまでもありません。これら「解決策」の力、強度、分配に準じて、理想化された自己像の専制が顕現します。このすべてが個人のワークの中で見つけられなければなりません。忘れてはならないのは、理想化された自己像からもたらされたこのような態度が、その人のすべてに当てはまるわけではないということです。言い換えれば、人生や人格の特定の領域あるいは側面の中ではより強く表れ、他ではより弱く、また人生の別の側面では、まったくないこともあります。このワークで最も重要な部分は、これらの感情を感じ、真にそれらを経験することです。あなたが自分の知性でもってただ客観的にあなたの中に何があるのかを見ていくだけならば、人生を妨げるこの理想化された自己像を克服することは不可能です。あなたは、しばしば矛盾するこれらすべての傾向について、強く意識していなければならず、それには痛みがともないます。あなたの中にいつもあり、隠され、そしてあなたが他者に、人生に、運命にその重荷を負わせることによってあなた自身を「守っていた」痛みを意識的な経験にすることです。そのためのワークが必要なのです。一見、これは逆戻りのように見えるでしょう。このワークを始める前よりもひどくなったと思うでしょう。しかし、それは違います。今までに隠されていたすべての感情を意識し、そうすることでその感情を実際の分析に使えるのは、まさにあなたの成長が可能にしたことなのです。さもなければ、あなたに害を及ぼす不必要なすべてのものを含む、自分の専制君主、理想化された自己像の上部構造を解決することはよもやできないでしょう。あなたは、習慣となった感情的な反応(ER)にあまりにも条件づけられ、あまりにも深く関わっていて、自分の目で何が正しいのか見ることができなくなっています。一見さして重要とは思えない感情的反応がもう自分の一部になっているために、あなたはある状況に対してその感情的反応を見過ごしてしまいます。そして一方では新しい、隠された認識を探しているのです。これらの感情的な反応は、あなたの注意がそれらに集中されれば、ヒントを与えてくれます。もしあなたが感情を乱されていなかったとしたら、これは不可能です。したがって、この感情の乱れは、明らかにされるべきで、そしてその瞬間こそあなたがそれを潔く受け入れるときなのです。

 ですから友人のみなさん、この光の下であなたの感情を見始めてください。そうすると、あなたは自分の理想化された自己像が、どんな不可能な要求をしているのかを見つけることでしょう。それらすべてを要求しているのが、神でもなく、人生でもなく、他者でもなく、自分自身の理想化された自己像であることを知るでしょう。そしてまた、自身の要求を満たすためには、他者の助けを必要とすることに気づき始めます。したがって、あなたは無意識に他の人びとが与えることのできないものを要求するのです。それにより、歪んだ自立性を手に入れようと努力するにもかかわらず、あなたは必要以上に依存することになります。攻撃タイプあるいは引きこもりタイプどちらにおいても同じです。

 あなたはまた、これらの条件の原因と結果を見つけ出さなくてはなりません。自分の人生、そして過去と現在の困難を新たな見方で見ることになるでしょう。すべてとは言わないまでも、これら多くの困難を自分自身で創り出したことを理解するでしょう。まさにあなたの「解決策」のために。

 あなたの偽の解決法に深く関われば関わるほど、真の自己の顕現から遠ざかるということを知的に理解するだけでは充分ではありません。これを経験する必要もあるのです。あなたが自分の感情とワークできるように、それらを表面化することを許せば、これは起こるはずです。そうすれば、またそうすることでのみ、あなたの真の自己の本質的な価値を感じ始めるでしょう。そしてそうなってのみ、理想化された自己像の偽の価値を手放すことが可能となります。ですから、これは相互のプロセスなのです。それがどんなに苦痛を伴おうとも、その偽の価値を直視することを自分に許すことで、あなたの真価がついに出現し、それにより、あなたはもう偽のものを必要としなくなるのです。この理想化された自己が、あなたを真の自己から遠ざけているために、あなたは自分の真の価値に全く気づかないのです。あなたは人生を通して、これら偽の価値に(無意識に)集中します。それは、自分には欠如しているけれど持っていなくてはならない偽の価値であったり、自分と他者を欺いてあたかも自分がそれを持ち合わせているかのように振る舞っている偽の価値であったり、またその他には、まだ価値と称するまでに至っていない未開発の潜在的なものであったります。あなたの理想化された自己像は、これらの価値がまだ発達する必要があるということを認めません。ゆえにあなたはこれらを発達させることはなく、それがすでに成熟しているかのように主張します。すべての努力をこれらの偽の価値に集中させることに使うため、あなたが真の価値に気づくことはありません。そしてそれを見ることができないために、その偽の価値を手放すことを恐れるのです。手放してしまうと、何も持っていないかのように思えるからです。したがって、あなたの真の価値は見過ごされます。それらは存在しないのです。これはもしかしたら、あなたの真の価値が理想化された自己像の要求に反しているからかもしれないし、あるいは自然に努力なしで来るものは、真実の何かのように見えないからかもしれません。あなたはあまりに不可能なことに全力を尽くすよう条件づけられているため、現実に価値があってすでにそこにあるものに対して全力を尽くして気を張っている必要がないということに思いが至らないのです。ですので、あなたはこれらの実際に価値あるものを活用しません。それらは大抵が休眠状態にあります。友人のみなさん、これは実に残念なことです。なぜならば、前回私が示した通り、結局あなたは理想化された自己像を構築し、それになろうと努力し、自分を受け入れること、信じることの真の価値を見ることができないのです。この全体のプロセスを明らかにするのは、初めは痛みをともないます。なぜなら、不安、フラストレーション、罪悪感、恥などの感情が、非常に強く体験されなくてはならないからです。しかし、あなたが勇気をもってこのワークを進めていけば、すべてについて全然違った見方を手に入れることになるでしょう。最後にとても大切なことを言いますが、あなたはまさに初めて真の自己を見始めることになります。そしてその限界も見るのです。初めは、理想的自己像とは程遠いこれらの限界を受け入れなくてはならないことにショックを受けるでしょう。しかし、受け入れることを学んでいくに従い、あなたは本当には見ていなかった、あるいは気付いていなかった価値に目を向け始めるようになるのです。そして、全く違う感じ方で強さと自分への自信を感じ、それによって人生と自分自身を見るようになります。最終的に、少しずつ少しずつ、このプロセスが起こるでしょう。それは偽の自立ではなく、真の自立を強め、他者に認めてもらうことがもはや自分自身の価値を測る尺度ではなくなります。今のところ、他者の評価はとても重要です。それは、あなたが自分自身を評価しないために、他者の評価が代用されるからです。しかし、あなたが自分自身を信頼し好きになり始めるにつれて、他の人びとがあなたについて何を考えるかということは今までの半分までも気にならなくなるでしょう。あなたは自分の中で安全に休み、プライドや見せかけの中で偽の価値を構築する必要がなくなります。実際には頼りにできず、あなたを弱めるだけの理想的自己に頼ることはなくなります。この重荷を捨て去って感じる自由は、言葉では表せません。

 しかし、友人のみなさん、これは時間のかかるプロセスです。一夜にしてやってくるものはありません。確固とした自己探索、そして自分の問題、態度、そして感情を分析することによってたどり着きます。この方向に進むにつれ、真の価値とその能力を備えた真のあなたが、内的で自然な成長のプロセスの中で進化していきます。そしてあなたの個性がより強められます。あなたの直感的な本質は、阻まれることなく、自然で信頼に足る形で自発的にもたらされ、顕現するようになるでしょう。これが、あなたの人生の最高の状態をもたらすでしょう。完璧なのではなく、いかなる失敗からも自由であるということでもなく、そして間違いをおかす可能性を排除するのでもなく、失敗や間違いは以前とはまったく異なる形で起こるでしょう。もっともっと、あなたは神聖なる態度である愛、力、穏やかさを、歪んだ形とは反対の健全な形で、融合していくのです。

 愛は目的を達成する手段ではなくなります。あなたを消滅から救うものではなくなります。それはすなわち、自己中心であることの終わりなのです。そして、あなた自身の愛する能力が、力と穏やかさを結合させるでしょう。あるいは別の言い方をすれば、あなたは健全に自立した状態で、愛と理解の中で他者とコミュニケーションを図ります。それは真に自立している状態です。なぜなら、愛、力、そして穏やかさは、欠如している自己尊重を自分に与えるために使われないからです。本物の、自己中心ではない愛は、もはや健全な力を妨げなくなるでしょう。それはプライドや抵抗から生まれる力、他者を打ち負かすための力ではなく、他者に何を証明しなくとも、自分自身と自分の困難を我が物として超えるための力です。あなたが力の特質を歪めることで支配力を求めるときには、自分の優越性を証明するためにそうするのです。あなたが健全な力によって統制を手にするときには、それは成長のためです。そこらここらで支配力を得られなくても、歪みの中にいたときのような脅威を表すことはないでしょう。あなたの目には、それがあなたの価値を減少させることには映らなくなり、ゆえに他者に証明すべきものは何もありません。こうして、あなたはそれぞれの人生の経験において、真に成長していくでしょう。あなたは学び、達成するでしょう。したがって、あなたは偽物ではない、真の力を手にすることになります。そこにはいかなる歪曲した野望も無理強いも性急さもありません。

 健全な形の穏やかさは、あなたが感情、経験、人生、そして自分自身の葛藤から自分を隠す原因とはなりません。しかし、前述の健全なふたつの態度によって、自分自身にそれほど没入しないようになり、結果として、本当の意味でより客観的になるでしょう。それが、経験や感情を避けることない、真の静謐さです。一時的に痛みを伴う経験や感情を避けることなく、それを通り抜け、その背後に何があるのかを探し出す勇気を手にすれば、大切な鍵を与えてくれるのです。

 ですから、愛、力、そして穏やかさは、互いに協力し合いながら存在することができるのです。事実それぞれが健全であるときには、それぞれが互いに補完します。しかし、もしそれが歪んでいるならば、それらはあなた自身の中で最大の戦いの原因となる可能性もあります。

 では、親愛なるみなさん、質問をお受けします。

 質問:子どもが癇癪をおこして愛を強要するとき、そして大人になってからも、必ずしも外に向かってではなくとも内に向かう癇癪でもってこのパターンを繰り返すとき、これは力の「解決法」から来ているのでしょうか?

 回答:そのように端的に示すことはできないのです。例によって、一般化というのはすべからく誤解を招きかねません。一つひとつのケースが異なるのです。ひとつの例としては、まったくその通りかもしれません。その人の理想的な自己が本人に自分の意志を常に実現するよう求めているので、力の動因がフラストレーションを抱えることになります。しかし、自分のすべての問題を解決するために愛を必要とする服従タイプの中にもそれは存在するかもしれません。その人は、それが解決策であるとあまりに思い込んでおり、あまりにもそれに依存していることから、この要求に他者が従わないことに激怒するのです。憤激と自己卑下があまりに強いことから、それは外面化せざるをえず、そして他者に投影されるのです。これは回りまわって、罪悪感を創り出します。なぜなら、それは他者に対して決して怒るべきではないという理想的自己の命令を破ることになるからです。それはまた、力と愛を求めることが組み合わさっている可能性もあります。これらふたつの態度は、絶えずお互いに戦っているのです。一方では、愛されることへのニーズが非常に強く、しかし他方では、特にその依存性を暴露されることについての恥辱を感じ、愛されることを切望するのと同じくらいに、何事にも傷つけられないという見掛けを切望している力タイプの優位性を示しています。ですから、このふたつの組み合わせかもしれません。各人が別々に個人的にどちらの偽の解決法を使っているのかを見つけなければなりません。これら「解決策」が無意識に構築された子ども時代の状況のみならず、現在の苦境や人生の問題においても、個々に見る必要があります。その人は、どのように、ある傾向がある状況においてより優勢で、別の傾向が異なる環境では優勢となるのかを見つけ出さなければならないのです。

 質問:これらの特質の歪みがどのように顕現するかを見せていただきました。それから、それらがどのように健全な形で互いに協力して働くのかを見せていただきました。しかしさらに、神聖なる方法で協力し合うだけではなく、実際にそれらは互いの副産物のように感じるのですが。力という形を取る愛、愛を通してもたらされる力、そして両方が一緒に穏やかさを生み出すように。ここで私の質問ですが、この結合それ自体歪みはありますか?人はそれらを組み合すことができると思っているが、それは歪んだ形でなのでしょうか?

 回答:繰り返しになりますが、真逆の態度が存在します。一方では、人は愛と強さは組み合わせ可能であること、その人は実際に愛し、同時に強くいられると時折信じるかもしれません。そしてその人が思いつきでこういうのを聞きます。「だけどなぜだろう。なぜ私はこれを手に入れることができないのだろう。そして同時にあれも手に入れることができないのだろう?」と。より綿密な分析においてのみ、ただそれが歪んでいるがために、互いに排除し合うのだということが分かります。ですからもちろん、人はなぜか密かにそれを組み合せて持つことができると確信しているのです。もしそれが健全な形であったらならば、その人は正しいのです。しかし、不健全な形であれば、そうはなりません。それにもかかわらず、ワークの中では、なぜそしてどのように、ふたつの傾向が相反するのかを、それぞれの原因と結果を見ていくことで正確に見ていかなくてはいけません。ある人には、これらすべてが無意識であることから、それが組み合せられないと、しばしば同時に思い込んでいる場合も確かにあります。したがって、その人が服従的であるとき、自分を嫌うことになります。なぜならば、他方では誇り高く、超然として、自立しているべきだからです。その人は、自分が健全に自立している状況で、自己主張しつつ同時に与えることもできるということに気づくことができません。すなわちこれは両方で働くのです。一方では、その人は自分自身がそれを組み合わせていないことで自分を憎みます。そして他方で、どちらか一方を取る決断をしなければならず、それができないと無意識に思い込んでいるために、絶望しているのです。

 質問:疑問に思うのですが、人が柔軟で常に正しい判断力を持っているという思い込みの下では、ふたつを結合させようという歪んだ企みを偽って見せかけることはできるのでしょうか?

 回答:はい、その通りです。しばしばそういうことがあります。

 質問:強迫的な行動の理由について、洞察をいただけますか?特に、取りつかれたように買い物を止められない状態や食べずにはいられない状態の一般的な感情の基盤となるものは何でしょうか?それから、どのようにしてこのふたつの特定の行動に対抗することができますか?

 回答:それらに対抗する唯一の方法としては、このワークに取り組み、奥に隠された理由を探すことです。そこには、とても個人的な特定の原因があるはずです。そしてその原因を見つけなくてはならりません。もし規律によって無理に遠ざけようと試みたとしても、達成できることと言えば、良くて無理に症状を遠ざけることぐらいで、その間に他の症状が代わりに生み出されより大きな不安を生み出すことになります。なぜこれらの強迫観念が存在し得るのか、これもまた一般化できないのです。しかしながら、できる限りで一般化してみるならば、こう言ってもいいかもしれません。どのような強迫観念も、何かを持っていなければならない、成し遂げねばならない、得なければならないという無意識の結論から来ています。しかし、これが外側の人格に達する頃には、その目的は代用品に置き換えられているかもしれません。例えば、理想的自己像は何かに沿って生きる、あるいは何かを得るよう命じますが、その人にはできません。そうなると、他のはけ口を探すことを余儀なくされるわけです。自分がそうあるべきだと信じるように生きられないこと、達成すべきだと思うものを達成できないことで、自分へのフラストレーションが大きくなり、それを代用しなければならなくなります。象徴的な意味で分析する場合、物を買うという強迫衝動は貪欲さを表します。これは持っている、所有することへの力の歪みから来ています。または愛の歪みから来ていることもあります。「もし愛を得ることができないのであれば、代わりに物を持ちたい。」食べるという強迫衝動も類似した根幹を持っているかもしれません。人が切望している喜びを受け取れないことに対するフラストレーションの代用品であるかもしれません。この切望する喜びは、人生を解決しようという誤った試みの存在に起因しています。これらの試みと歪んだ態度の影響が十分に分析されると、それらの存在がその人が手に入れたいと望むまさにその物を禁じているということを発見するでしょう。いったんこれが明らかになると、抗いがたい性質を持つその代用品の必要性は、その人が内的な原因と結果を理解する程度まで減少します。たとえ私がここで引き合いに出している一般的な説明や例がある人には適応するとしても、実際の助けにはなりません。その人は自分自身でそれを探さなければなりません。そして見つけたことを最初に体験するとき、それはこの説明とはまるで異なるものとなるでしょう。そのとき、そのときにのみ、それが有益なものとなるのです。

 質問:人が薬物中毒になるということについて、その心理的な説明とはどのようなものですか?

 回答:繰り返しますが、私は一般的な説明の域を超えることはできません。それぞれのケースにより異なっているかもしれないのです。私がここで言えることは、人生は対処するのが非常に難しいものとなるのです。それはなぜなら、人生がとても難しいからではありません。内的な問題がその人を半分に引き裂き、着実に自己離反が進み、それゆえに、現実がただ醜いだけではなく、より遠いものに感じるようになるのです。幻想の痛みは耐えがたくなります。これらすべてが、より一層の意図的な逃避という手段を生み出します。薬物中毒、アルコール中毒、精神病、あるいはそれに類する手段です。中毒は愛、喜び、そして恍惚状態(エクスタシー)への渇望が動機となっていることがよくあります。ここで、これら悪循環の内のひとつが存在します。人が真の自己から疎遠であればある程、経験できる喜びは減り、よってその切望はより大きくなります。このような中毒においては、近道として代用品が求められるのです。

 質問:私たちは異なる質や強さなどを持つ思考形態に囲まれています。どのようにこれらは私たちの異なる自己に作用するのでしょうか?

 回答:他者から放たれるネガティブな、あるいは歪んだ思考や感情形態は、同じく歪みを内包する同様のレベルに影響を与えます。真の自己から放たれる思考や感情形態は、他者の真の自己に影響を与えます。いかなる事情においても、あなたは他者の歪んだ形態の犠牲にはなりません。なぜなら、もし本当に自分自身の内側を探求するならば、そのような影響は、あなた自身の歪みを見つけ出し、それを自覚することができるよう、そしてその下に潜む問題を解決することで対処できるように、あなたを助けてくれるからです。あなた自身に及ぶ、自分の思考や感情の影響については、それがあなたの苦難の原因であると言うとすれば語弊があるでしょう。それらは、あなた自身の葛藤やあなたが求める間違った解決策から生産されるものなのです。これらの葛藤や間違った解決策が生み出す同様の形態は、二次的なものです。妨害となっているのは思考形態であると考えるべきではありません。それらは存在するのです。しかし実際の妨害は、間違った態度から来ているのです。あなた自身、あるいは他の人びとの歪んだ思考形態は、あなたの奥底に潜む問題を浮上させることができるだけなのです。そしてそれは良いことなのです。皆さん一人ひとりに祝福を贈ります。これらの言葉が再びあなたの糧となり、より深い思索をもたらすだけでなく、洞察と理解をももたらしますように。あなたが光と自由に向かうさらなる一歩を踏み出せますように。このワークに取り組んであなたの理想化された自己像の中にある暴君とプライドを弱めれば、光と自由はあなたのものになります。この幸福の道を進んでください。もっともっと強さを身につけて、そして私たちの祝福と愛であながた生き生きといられる手助けをさせてください。大切な私の友人のみなさん、幸せでいてください。平和のうちに、神のうちにいてください!



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