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Pathwork in Japan
No.92 抑圧されたニーズ、放棄したために気づかないニーズ、 一次的な反応と二次的な反応
Pathwork Guide Lecture No. 92
UNEDITED版
1961年11月10日
抑圧されたニーズ、放棄したために気づかないニーズ、
一次的な反応と二次的な反応
REPRESSED NEEDS, RELINQUISHING BLIND NEEDS,
PRIMARY AND SECONDARY REACTIONS
親愛なる友であるみなさんにご挨拶します。みなさん一人ひとりに神の祝福を。そしてこの時間に神の祝福がありますように。
私たちはニーズについて講義を始めましたが、これ以上はないほどに非常に重要なテーマのほんの表面にしか触れていません。ですので、もっとしっかりと深く掘り下げようと思います。なぜならば、ニーズというものの意義を理解すること、それらに気づくことは単に光明や洞察を得る以上のことだからです。それは、抑圧されたニーズ、そしてそれに気づかないままでいるためにあなたの魂の内側でよじれて未解決のままになっている葛藤を示してくれるからです。魂の内側に葛藤があるということは、とりもなおさず人生の中に葛藤があるということです。そこで、みなさんのワークのこの段階においては、間違った結論をもたらすイメージよりもはるかに進んでより深いところに取り組んでいきます。
基本的には、ニーズには2つの種類があります。それは、本能的なニーズと理想化された自己像へのニーズです。本能的なニーズは、自衛本能と生殖本能という2つの基本的な本能から派生しています。これらのニーズはとても健康的で当たり前のニーズです。しかし、もしこれらが抑圧されると破壊的なものに変わります。それ自体では健康的で当たり前のニーズというのは、それに気づくことが抑えられたり、気づきが存在しない状態においては破壊的なものになり得ます。理想化された自己へのニーズには、たとえば栄光へのニーズ、勝利へのニーズ、虚栄やプライドを満たすことへのニーズがあります。この特定のプロセスを理解するために、あなたは理想化された自己像がどのように存在するに至ったのかを振り返らなければなりません。
これらの2種のニーズはしばしば混ざり合い、溶け合うので、あなたはもはや何が健康的で正当なニーズか、そして何がそうでないのかに気づくことはありません。一見矛盾しているように思えますが、たとえ無意識のうちにでさえ気づくことはありません。それらは合わさっていて、重なりあっています。上塗りされた、不健全で人為的に作り上げられた理想化された自己像のニーズだけが罪の感覚を生み出すわけではなく、すべての健全な人間の、健康的で当たり前の正当なニーズも同じように強い罪の感覚を引き起こします。これはしばしば環境の影響であったり、ゆがんだマス・イメージのためだったり、大規模に普及している誤認のためだったりします。あなたの無知、そして教育者や両親の無知が、本来であれば建設的な方法で奨励されるべきことを抑え込み、制圧するように仕向けるゆがんだものの見方を作り出します。この一般的な無知が、本質的に人間的なもの、そして必要でさえあるものを知覚させないように仕向けます。
いったん自分自身をこの抵抗と抑圧から解放すると、最も罪の意識を感じたことが当たり前で健全だ、というだけでなく実際には最も創造的である場合が多いことを知り、それは本当に大きな安堵となるでしょう。これらの誤認があるために、あなたは故意にそんなニーズを満たさないで渇望状態にしてきたのです。このような飢えた状態にいるために、そのニーズは消えることはありません。そうやって本来健全なものが不健全なものに取って代わるというプロセスが起こり、そのニーズは破壊的な方法で再び現れて、あなたは無意識にそのニーズがしつこく要求していることを満たそうとします。そのときあなたは、真の要求の価値を認めず評価しないという方法を用います。飢えを鎮めようと働く推進力は、間違った方向に向かいます。正しい方向、そして真の、正当なニーズを満たそうとする適切な努力は、完全なる気づきが存在するときにのみもたらされます。そうすると、知性が本能の力と結びつきます。
このテーマについてのあなたの誤認は、抑圧を生み出し、それに続いて防衛のメカニズムを作り出します。そしてそれは本当に破壊的です。私の友人の何人かは、その防衛メカニズムをちらっと垣間見るような、そんな出来事を経験しています。もしかしたら「このことと防衛メカニズムがどう関係しているのでしょうか」と尋ねるかもしれません。こうお答えしましょう。抑圧されたニーズというのは、これらのニーズを満たそうとして、一番自分のためになることに反した行動をとらせます。ゆえに、あなたの行動はもっとこれらのニーズを渇望状態に置くような経験を作り出します。これは本当に痛みがあるため、あなたはその痛みに対して防衛を生み出し、それがさらにあなたの切望の充足と相容れないものになります。
これは、今のあなたのワークへの方向性をはっきりと示しています。このプロセスのすべては、広げて明らかにして、気づきがもたらされなければなりません。そのときにのみ、あなたはより適切な行動パターンを育むことができるようになり、そうすると自分が望む結果を手に入れることを約束してくれます。それは幸せと充足をもたらしてくれるからといって、何ら恥ずべきことではありません。したがって、防衛メカニズムが存在するのは、人生のリスクを恐れ、愛や関わりを恐れているからだけではなく、ある種のニーズが許されず、それは正しくないという間違った考えがあるからだと理解できるでしょう。そのためにあなたは、自分自身の中にあるニーズに対しても防衛するのです。私は、この観点からすでによく知られている性的なニーズについてのみ話しているわけではありません。さらに進んで話しています。人類は今までに、性的なニーズは抑圧されるべきではないということを学んできました。性的なニーズというのは、それ自体において害はなく、罪深いものではありません。しかし、他にもたくさんのニーズが存在することはまだ理解されていません。それは、性的なニーズが負っているのと似た扱いを受けているニーズです。これらの他のニーズは人類のさらに深い領域へと至ろうとするもので、性的なニーズに対してなされてきたのと同じように、意識に上げ、認め、適正に方向付けされる必要があります。
すでに述べたように、もしあなたのニーズが抑圧されているならば、それらを満たそうとする衝動はより強くなります。これはとても論理的です。なぜならば、ニーズに気づき、はっきりと理解していると、特定の環境のもとで最も適切なやり方でそれに対処できるからです。そのニーズに気づき、はっきり理解していると、選択することができるし、結果的に自分にとってより満足につながることを手に入れるために何かひとつのことを手放すことができます。そのようなやり方で手放すという能力は、成熟を示唆しています。一方で、抑圧は見えないニーズとそれを盲目的に追い求める状況を引き起こし、そこにどんな問題がかかわっているのかを見えなくします。ゆえに、自分にとって一番いいことのために行動できなくなります。より大きな充足を受け取るためにはどこを手放すのかを知ることが必要です。しかし、ある状況の中ではそうはできません。なぜならあなたはそれを見ていないからです。差し迫ったニーズは、自分が手に入れられるものにきつくしがみつく状態を引き起こします。しかし、それは完全に不適切なものであることがよくあります。これに気づかず、知らないままでいると、いかなる時にも直ちに自分のニーズを満たしたいと試みる子供っぽい強欲さを助長することになります。そしてそれが不可能になると、フラストレーションは耐え難いものとなり、まるで自分が捉えられているように感じ、自分にとって最もいいことに反することをし続けている悪循環の中に捕まってしまっていることに気づきます。自分のニーズに気づくことだけが、必要なとき、どうにもならにときにも、一時的なフラストレーションに耐えることを可能にするのです。たった今満たす必要はない、将来的にいつか満たせばいい、というような先まで見通す知恵は、あなたの健全なニーズにとって良い働きをします。そしてそのような知恵を持っていれば、直ちにニーズを満たそうとする切迫した状態を手放すことができます。あなたが気づいていれば、自由にこれを選択することができます。
自分のニーズに気づかず、無意識に罪の意識を感じたり、間違った思い込みを持っていると、硬く結ばれた結び目のように凍った状態になり、すぐに満たそうとする切迫した状態はフラストレーションを耐えられないものにします。それは未熟さの特徴のひとつです。満たされない、あるいは充足が欠如した状態は、あなたにとって、ニーズを持つこと自体が間違っているのだと立証しているようなものです。そしてこのことがさらに気づきを隠してしまうことになり、ニーズを満たすことを求め続ける状態を引き起こします。こうして自分に制裁を与えることになり、切羽詰まった状態はさらにその強さを増し、ゆえにより対処するのが難しくなります。
それでは、ニーズを満たそうと追求するのを可能にするのは、人がニーズに気づいていることと、そのニーズが正当なものであることだ、という一見矛盾しているように思える状況が存在することを説明します。そのためには、ときにフラストレーションが必要な要素となります。それに耐えなければならないのです。一方、気づかないでいることや抑圧は切迫した状態を作りだし、未熟さや無意識の状態が勝り、フラストレーションに耐えることができません。ほんの少しでもそれを手放すことはできず、ゆえに自分のニーズを満たす可能性を妨害することになります。
このことを即座に理解するのは非常に難しいかもしれません。というのも、それは特定の要因に適用されるものではないからです。一般的な、何にでも当てはまるルールや法律は作れません。自分自身の内側で、自分の場合、それが具体的にどのように表れているかを見つけることができれば、そして見つけるときにのみ理解することができます。手を加えていないそのままのニーズとその意義、その正当性、それが望む目的に気づくことを自分に許可するにつれ、あなたは自分が過去にそれらを妨害するために何をやってきたのか、どうやってそうしたのか、こんな妨害を引き起こしたのはどんな防衛メカニズムが働いていたのかを観察することができるようになります。そして最終的には、ひとつの中心点、自分の内側の深いところにあって、自分が猛烈にしがみついて手放すことができなかったことを発見する場所を見つけることになります。そしてあなたは、現在の人間の言葉で言うと、いわゆる神経症的な状態の中に閉じ込められ、囚われでいます。神経症というのはすべて、抑圧されたニーズやそれを満たそうとするある一点を手放せないというような、そんな核の部分の周りに作られます。そしてこれが無力感や依存、選択ができない状態、どちらを選んでも同じように満足に至ることのない2つの選択肢しか見ることができない状態、つまり神経症的な症状を引き起こします。あなたはまさにこの状況下で真っ二つに引き裂かれます。もしあなたの中に、ほんの一部でもこれらのニーズに同意しない部分がなかったならば、それらを抑圧する必要があるとは思わないはずです。したがって、あなたの中で「No(ノー)」と言っている部分がある、ということです。そして「No(ノー)」と言えば言うほど、そのニーズはより切迫したものとなり、あなたの中のもう一つの部分がその「No(ノー)」と闘い、不当なまでにそのニーズを満たそうとしてくれない世間と闘うことになります。全身全霊を込めて自分自身をサポートし、自分に協力することでのみ、充足をもたらすために必要な行動や振る舞いのパターンを自分に課すことができるようになるのです。それは子供じみた白昼夢の理想を満たすほどではないまでも、最終的にはこれで十分だと思えるほどの充足をもたらすでしょう。また一方で、こうして実際に現実的に充足すると、子供じみた白昼夢と合致するような完璧さが欠けているとしても、もっと大きな幸せを生み出すことになります。それは、あなたがこの道で身に着けた強さと自己信頼、すべては自分次第であり、他者によるものではないという知識を得た結果です。それは、十分すぎるほど現実と幻想の間にある違いを補うことになります。
自分の中にあるどうしても(それまでは)手放せなかった場所、その中心点を見つけるタイミングは個々人によりまちまちです。もう一度言いますが、一般的にこうだ、ということはできません。そんなことをすると単にあなたを間違った方向に導き、知的なやり方で解決策を探せと示唆しているようなものです。それよりもむしろ、私が何度も何度も提唱しているように、自分の情動が意識の表層へともたらされるのを許可し、自分自身の内側に答えを見つけてください。このすべてに気づくことによってのみ、自然で健全なニーズと、理想化された自己像に上塗りされた、人為的に作り出されたニーズの違いを見分けられるようになるでしょう。健全で自然なニーズを満たすことを思慮深く学ぶにつれて、そのときにのみ、そして学んだ分だけ、あなたは偽りのニーズを手放すことができるようになります。無理に偽りのニーズをもみ消してしまおうと試みることなどできません。そんなことは何の得にもなりません。あなたができること、そしてすべきことは、まずはそのニーズに気づくこと。そして他方では、真のニーズを満たすために現実的で適切なことをするのを徐々に学ぶことです。そうすると、それだけで自動的に偽りのニーズを消し去ることになります。最初はゆっくりと、そのニーズの持つ激しさが弱まります。そして、健全な内なる行動、またそれによって可能になる健全な外的な行動をとることによって真の充足があなたにもたらされるにつれ、偽りのニーズは徐々に消えていきます。偽りのニーズは、たとえあちこちで満たされたとしても、あなたを空虚で不満足な状態のままにします。
分裂と抑圧、それがゆえに起こる自己破壊的な行動や望まない結果、そして建設的な結果へと導く適切な選択ができないという罠に捕らわれている状態、それらをもたらす中核が内に存在していると、そこではうずくような、ねじまがった状態が精神の中に広がっています。それは、さらに多くの葛藤へとつながり、最終的には外的状況の中で具現化するに至ります。そしてその外的状況の中で、あなたは自分の目前に立ちはだかることに対処できないのです。あなたは決心したり、選択をすることができません。あなたは駆り立てられます。内側でも外側でも、同じように満足することのない2つの選択肢しか見えなくなります。そしてその2つの間で引き裂かれます。一方ではニーズに屈服します。服従し、譲歩し、迎合することによってあなたは自分自身に怒りを感じ、自分を軽蔑するようになります。他方で、自分のニーズを満足させる、というまさにこのニーズに反抗します。この2つの選択肢はどちらも建設的な結果をもたらすことはありません。この2つの選択肢のいずれの中にも、結果的に自分のニーズを満たすという建設的な結末に向けて手放す、そのポイント(時点)を見つけることはできません。
このプロセスのすべてが表層意識に届くとき、あなたはこの道において最も重要な、自由へと向かうステップの一つを踏み出したことになります。いったんこのようなやり方で自分を隷属化していることを理解すると、自分に対する軽蔑にも気づくようになります。無意識のうちにあなたはこの自己侮蔑をニーズの存在へと変えていたのです。けれどもいったんこのすべてが意識に上ると、実際に、そして現実的に健全なニーズのために自己を軽蔑する必要などないことに気づきます。自分を軽蔑する本当の理由は、内側で手放したくないという思いがあるからだと理解するでしょう。そして手放すことを学ぶにつれ、新しい強さと自己尊重が育ち、あなたにとって大きな経験となるでしょう。最初のうちは、時どきしか現れませんが、それぞれに新しい勝利をもたらします。そしてその勝利はより長く続くようになり、元へと逆戻りする程度も弱まり、頻度も下がります。
さらに言うと、手放すというこの捉えがたい微妙なポイントを見つけると、あなたはもはや自分のニーズの奴隷でいることはなくなります。それはまさに今あなたがそれらを意識化し気づいているからであり、さらには自分自身のために充足をもたらす最善の方法を見つけようと懸命に取り組むことができるからです。手放せないということは、劣等感や自分は十分ではないという感覚の最も根底にある要因です。手放すことができると、あなたに強さと自分への自信、そして健全な自尊心を与えます。それは地球上で自分以外の誰も与えることができないものです。そしてこの強さは自分の内側で育つからこそ、あなたは偽りに満ちてゆがんでいる、単なる上塗されたものに過ぎない人為的なニーズを手放すことができます。そして、あなたは自分の真のニーズを満たすために、一歩ずつ必要なことに取り組むことができます。けれども、この自尊心こそが、最初に確立されなければなりません。それがないと、あなたは閉じ込められたまま、ブロックされた状態のままです。そして破壊的な防衛メカニズム – これは相互的に排除しあう2つ、ニーズを満たそうとして働くものとそれに反して働くものを正当に扱おうするもので、その大部分は手放せないがために引き起こされる自己侮蔑の産物です。
けれども、手放すというこのポイントは何なのか、について性急に答えを見つけようとすることには気を付けてください。特定の欲求の表面をみて、ポイントを見つけたと間違って考えてその欲求を犠牲にしないでください。これはとても間違った方向に向かう可能性があり、単に間違った自己犠牲、敗北主義、自己破壊性を奨励することになりかねません。このポイントを見つけるには、このプロセスを十分に意識化すること、そうして初めてその力が育ちます。そしてそのときがくると、そのポイントを「これだ」と感じることでしょう。マインドの中で疑いなど生じません。何よりも、そこに喪失感、何か大切なものをあきらめたという感覚はありません。特別に徳を成す感覚もありません。自分が何をしているのか、なぜそうするのかを十分に知ったうえであなたはそうするのです。あなたは、そうすることが、自分勝手でいることなく自分の利にかなうことだと十分に理解しているからこそ、そうしたいと思うのです。このような感覚が手放すというポイントと重なるときにのみ、あなたはそのポイントを真に見つけたことになります。そのときまで、自分の情動を探求し、抑圧されたニーズを表層へともたらし、内なるプロセスを開き、苦心して取り組まなければなりません。そして一方では、それに続いて起こる外的な行動や反応を観察するのです。
人間の精神は微妙であるため、人間の人生のより表層レベルよりもずっと、誤った理解や解釈が起こりやすいということです。ですから、本当に手放す代わりとして使われる偽りの犠牲に気を付けてください。本当に手放すことは決して犠牲ではありません。これは知的な賢明さで、現実の状況に十全に向き合うことを通してそこにたどり着くことができます。まず自分のものではない何かを手放しても、何かを犠牲にすることにはなりません。したがって、自分のものであったはずの何かを手放すという危険な幻想へと導かれることはありません。そして、真の自尊心とは正反対の偽の自己満足を感じることもありません。手放すということのポイントは単に、自分の意志の力が何の支配権も持たない場所を発見することを意味しています。そして、そのままの在り方に順応し、同時に自分の強さを集結して自分にできることをする、それを意味しています。圧迫している無意識のニーズがあるためにしがみついている幻想を捨てることです。
ここにいる何人か、もしかしたらほとんどの人が、私がこの手放すことのポイントについて話すときに、今この瞬間には何のことかわからず途方に暮れているとしても、気にしないでください。ゆっくり、しかし確実に、このワークを進めていくにつれてそれはもたらされます。他の人の助けを借りてこのワークをしていない人にとっては、私が今話していることを理解するのは本当に難しいかもしれません。
抑圧された、誤って解釈されたニーズは結果的にあなたのエネルギー、強さ、自尊心を奪うことになり、そのような状況になったさらなる要因は、関係づけ、反応する力です。これについてよく考えれば、それは本当に明らかです。あなたのニーズが切迫していれば、そしてそれに気づいていなければ、その分だけあなたはそれに対して盲目で、生き生きした状態にいることができず、現実の状況の中で自由でいることができず、それゆえに適切な方法で状況に対応することができない状態になります。そのような不適切な反応はかならずネガティブな連鎖反応を作動させることになります。
これに関連することとして、これから一次反応(初期反応)と二次反応(派生反応)について話しましょう。精神が健全であればあるほど、その人は先ほど述べたその状況からより自由でいられます。隷属関係もより弱まります。そしてその人には一次反応をするための能力がより備わっています。これが意味することは次の通りです。あなたが自分の抑圧されたニーズに捕まって、すでに述べたようにネガティブな状況に陥っていない場合に限り、あなたは独自に、自然発生的に他者あるいは状況に反応します。もしあなたがフラストレーションに耐える力がなく、現実に起こっている受け入れがたい状況に思い切って向き合い、対処しようとしないがために手放せないなら、自然に反応できる状態ではいられません。本来であればとても価値のある、本能的な感覚に敢えて耳を傾けることもありません。あなたは罠にかかったように囚われ、依存し、解決の手がかりが与えられるのをただ待っています。そのために、あなたの対応や反応は二次的なもの、つまりあなたが考える他者からの反応はこうだろう、という推測に基づくものとなります。言うまでもありませんが、これは真実、自然に起こること、そして現実を妨げます。二次反応においては、自分の内側の、ほとんどの場合無意識下の、自分が存在するはずだと思い込んでいることに反応している、そのことだけに焦点を当て、注意を払います。実際に存在していることには注意を向けません。一次反応においては、抑圧されたニーズを満たしたいと望む幻想から解放されているので、実際にどうなのかを見ることができます。
本来自然なはずのニーズが、より抑圧され、それによってより切迫したものになっていると、ますますあなたは何も見えなくなり、ものの見方がより制限されます。したがって、自分に向けられる他の人たちからの反応を誤って受け取りがちになります。たとえば、他者に傷つけられたり、拒絶されるのは当然のことだと思ったりします。実際にはそんな状況は存在していないのに、です。ニーズに気づいていないと、どちらの方向にも現実をゆがめることになります。いいか悪いか、好ましいか好ましくないか、とすべてを過度に誇張します。きちんと状況に対処すことや、人を評価することができません。二次反応、つまり条件づけられた反応を体験することしかできません。その反応は信頼できず、決してあなたを安心させることはありません。一次反応、つまりもともとの率直な反応を経験する力のみが、地に足の着いた揺らぐことのない、本能的で信頼に足る物事の姿をもたらします。それは自分自身、自分の自由、自分が好む好まざるにかかわらず状況に向き合い対処しようとする力から引き出され、そしてそうすることで自分の幻想を手放せるようになります。二次反応は、幻想にしがみつき、それがゆえに思い切って現実を見ようとしないことから引き出されます。たとえば、好かれたいというニーズが強すぎて、もしかしたら好かれないかもしれないという可能性に向き合えない場合、あなたは客観的に、そして自由にその状況を観察することができず、それが実際にはどういうことなのかを見つけることもできません。自分が好かれていることを確信するまで、あなたは思い切って他の人たちを好きになることを自分に許しません。あなたへの好意を確信して初めて、あなたは他者を好きになります。これは二次的反応です。他者を好きだという自分の気持ちは真実だけれど、それもまた現実とは全く関係のない事柄に基づいているかもしれません。しかしながら、好かれないことに十分に対処できるほど自由であれば、あなたは自分のニーズに影響されない状態で自分が観察したことに基づいて自然に見て、反応するでしょう。そうすると、あなたは好かれるという差し迫ったニーズを、真実のもとに手放すことができるはずです。この真実に取り組むときにのみ、自らのニーズを満たすためにすべきことをするというところにいられるようになります。自由な反応、そして自然に生まれる反応はどちらもあなたにとって好ましい感情を作り出し、そうするとあなたは好かれることになります。あるいは、あなたが自然に、一次反応の中で真実を見ることで、どこにいても気の合う人を自由に見つけるようになります。これは伴侶にも、友人にも、一般的な付き合いにも当てはまり、そこに違いはありません。おそらく、とてもシンプルな例を示すと今私がここで説明しているプロセスに対してもっとわかるようになるでしょう。
一次反応のための能力は何にもまして重要です。一次反応が難しいのは、ニーズを抑圧し、それゆえに幻想にしがみつき、さらには幻想を手放せなくなり、現実の状況を見ることができなくなるからです。同時に、一次反応が取れないことがあなたの隷属状態を強めます。ますます他者への依存が高まることになるのです。ゆえにあなたは他者を恐れます。あなたの依存はしばしば完全なる幻想上の出来事、要因、状況に左右され、それは悲劇です。ですので、あなたは本当に存在しない何かと闘い、あなたの健全で当然のニーズを満たす機会を棒に振っているのです。健全で当然のニーズを満たすためには、一次反応を育てる自由と強さが必要条件です。両方の側から取り組まなければなりません。抑圧された情動やニーズを意識上に上げ、もっと気づくことによって、あなたは幻想や偽の希望、現実に向き合いたくない、望みどおりのあり得ないゴールを手放したくないという状況にしがみついて固執していることを明らかにするのです。このプロセスはあなたを解放し、一次反応を育てることになります。また、自分が条件付きの状況でのみ反応していて、自然な状況では反応していないという事実を観察することによって、あなたは最終的には敢えて無条件に、そして自然に反応する、ということができるようになるでしょう。そうして、一次反応を生み出すことになります。これはあなたが現実に向き合い、幻想を手放すための助けとなります。そうして、あなたは自由に自分のニーズの真の充足を追求することができるようになります。
友人のみなさん、私はこの講義が簡単なものだとは思いません。ほとんどの人にとっては、本当にこれを吸収するためにはかなりの時間が必要でしょう。個人のワークでより早く進歩を遂げると、より早く吸収するようになります。そして、何人かの人がまさにそこに近いところにいるのを見てうれしく思っています。けれども、私の言葉のいくらかでも理解し、内側での気づきを得ているならば、それだけで大きな助けとなるでしょう。私がここで述べた、多様な側面を伴う内なる状態に至ると、それは単にもう一つの勝利以上の体験をあなたにもたらし、前進するための大いなる一歩となるでしょう。つまりそれは、あなたが、必要のない悲惨な状況やフラストレーションをもたらしているあなたの魂の病んでいてゆがんだ側面の解決に近づいているということです。
さて、何か質問はありますか?
質問:人為的なニーズと自然なニーズは、どのように見分けるのでしょうか?
答え:例えばあなたの虚栄心を満たすニーズを発見したとします。あなたはそれが生きる上では必要なものではないことをよく知っています。または、他者に打ち勝つ必要を感じているとしますが、人はそんなものはなくても生きられることを知っています。しかし、そのような発見は自分に道徳を説くために使われるべきではなく、無理やりニーズを引きはがすために使うこともできません。それは単にさらなる抑圧に行き着くだけです。なぜそれらのニーズが存在するのか、その理由を見つけることが必要なのです。本物の、健全なニーズを渇望し、人為的なニーズがその場所を譲ることを発見しなければならないのです。ある種のニーズが偽物であるという事実は、私がそう言うからという理由で単純に受け入れてはいけません。偽物から本物を見分ける最善の方法は、自分のニーズを満たすことであなたに、そして他者に何がもたらされるのかを考えることです。偽りのニーズを満たしても、浅くて一時的で、長くは続かず、しばしばそれは他者の犠牲の上に、あるいは自分自身のより緊急なニーズの犠牲の上にしか成し得ません。一方で、真のニーズを満たすことは、かかわるすべての人にとってとても建設的な何かを生み出します。あなたが満たされることは、他者にとっても建設的なことで、あなたの中の他のどんな重要な要素を阻害することもありません。それは成長の結果であり、幸せや充足だけでなく、さらなる成長を生み出します。
それ自体は健全なニーズであっても、それに気づくことが押さえつけられてしまうと、不健全な要素がそれにくっついてしまうことになります。そうなると健全なニーズをどうにもできなくなり、ますます現実に向き合うことができず、フラストレーションに対処することやそれに関係する幻想を手放すこともできなくなるほどに激しさを増すことになります。自分の中にあるこれらの要素をすべて調べてみると、どのニーズが建設的で健康的で、本物のニーズなのか、そしてどれがそうでないのかにしっかり気づかざるを得なくなります。
質問:では調和を強く求めることについてはどうでしょう?
答え:それ自体は健全なニーズです。しかし、それがあまりに強くなり、それを満たすために、例えばあなたが同じように健全でまっとうな自己主張へのニーズ、自立や成功、幸せや充足など、ある程度の健全なファイティング・スピリット(闘志)を要求するこれらすべてのニーズを放棄してしまうとしたら、その場合そこには何かの間違いがあり、最もあなたに害を与えることになります。あなたは調和に対するニーズにしがみつき、それがためにあなたの存在、あり方の必要不可欠なもう一つの部分を冒涜していることになります。そしてそれは抑圧、不満、不安、挫折感、自己卑下をもたらします。そしてこれはしばしば他者に投影されます。調和へのニーズが他のニーズを妨げず、他のニーズを満たすために時には調和へのニーズを手放す力があるときに限り、すべてはうまく行きます。そうなっているかどうかを判断することができるのは、あなただけです。さらに自分を見つけていくプロセスにおいて、あなたがこれを決め、そしてそこから先へと進むのです。
質問:これらの深い根っこに触れ、自分の精神の中でこのねじれを引き起こしているのは何なのかを認識することができ、それがたくさんの領域でどのように具現化されているのかを理解すると、その領域が非常に活発化し、病気になったり、生き残ろうと闘うことになります。本当にこれらのねじれにたどり着いたら、この過酷な反応とどう闘ったらいいのでしょうか?
答え:そのような強い反応や、それほどのネガティブな体験がある場合、あなたの中の何かがいまだにそれを手放すことと闘っているということです。つまり、あなたはどこかで、それがあることで自分は利を得たり守られているのだとまだ信じていることを意味しています。無理やりそれを押しやるかわりに、そのねじれた状態のままでいることで自分にどんな利がある、と思い込んでいるのか、あなたのどこかの部分でそれがないと何か不利になる、とどんなふうに思い込んでいるのかを見つけようとしてください。あなたの中で起こっている闘いや過酷な反応は、利益と不利益という不合理な思い込みを理解することなく無理やり押しやろうとすることがある程度の原因になっているのです。このような理解が欠けていると、あなたは極度の不安を体験することになります。なぜならば、ねじれた状態が誤った無意識の思い込みの中で機能するからです。ですので、それを見つけ出すことに取り掛かってください。そうすると、あなたの闘いは終わります。
これに目を向けず無視しているがために、あなたは一時的に変わることができないのです。そしてそのことで、自分に対してより我慢できない状態を作っています。あなたは自分を自由にするために、もっと加速したいと思っていますが、極度の不満を体験せずに加速することはできません。早く進まないことに我慢ならないと、自分と闘っている状態にいることになり、それによって大切な「防衛」を手放す恐れがますます高まります。
我慢ができない状態は、幸せや充足を手に入れるためには完璧でいなければならないという無意識の誤認によって引き起こされます。けれどもこれは真実ではありません。そしてここにいる私の友人の何人かはそれを理解し始めています。この誤認があるために、ゆがみがあることを発見し、さらにそれに対する理解が十分でないためにまだそれを手放せていないことを知ると、あなたはかなり取り乱します。そんな状態では、問題となっている状態にしがみつかせている想像上の不利益を見つけるのはますます難しくなります。
質問:この深いフラストレーションや自分の中にある攻撃性は神経症によって引き起こされますが、これらに気づき始めると、自分が意識レベルで気づく前に病気になります。あらゆるやり方で自分の中にあることに向き合わず無意識に、自分の全構造を破壊されるように感じることから逃避します。いったんそのことを認識すると、ある程度それは消えてしまいますが、さらに深いところにある何かが浮上します。そうするとまたこの同じ病気の中に逃げ込むことになります。これが私の問題なのです。病気の中にまで逃げ込んでしまう私のこのパターンを壊すにはどうしたらいいのでしょうか?
答え:あなたは、さらに深いところにあるものが浮上するといいました。この場合、なぜあなたがこの病気、つまり間違った解決法、病気であっても別のものであってもあなたの逃避を可能にしているものを手放すことに対して闘うのか、それが答えです。前に述べたとおり、偽の解決法の想像上の「利益」が表面に押し上げられるのに、その人はそれに向き合うのを恐れるのです。こうして、抵抗を克服するための同じプロセスをまた経験しなければならなくなります。このプロセスの中では、このように何度も何度も同じ要素を見つけるのはよくあることです。進化と成長は螺旋を描くように進みます。こうして進歩するにつれ、あなたは逃避や抵抗が現れると瞬時に気づくようになります。以前はあとになってしかわからなかったですが。このようなシンクロ(物事が同時に起こること)はただあなたが真の成長を遂げたことを示唆しているのです。ネガティブなことは、それを見つけたからと言ってすぐになくなるわけではありません。何度も繰り返し現れますが、ネガティブなことが作動していることを観察し、実際にそれが起こるのと発見するまでの時間の感覚が短くなり、その2つは同時に起こるようになり、ついには消えてしまいます。ある一点でついに螺旋が終わるまで、より狭く狭くなりながら螺旋を描きます。このプロセスを知らないでいるとしばしば大きな苦痛を感じます。なぜならば、あなたは自分が逆戻りしてしまったと思い込み、そう思うことでさらに耐えられなくなり、気が狂いそうになって望みをなくしてしまうからです。けれどもこれを理解すると、あなたはリラックスしてさらに観察することもでき、まだ今は隠されている答えが表面化するようになります。間違った反応は、ネガティブな状態とそれに続いて起こることから引き出されますが、これらの答えは単にその間違った反応の間の割れ目を簡単に狭めるだけでなく、ついにはねじれていて有害な防衛のメカニズムを手放す方向へと導きます。理解できますか?
質問:はい。しかしそれは何とも終わりのないことのように思えます・・・
答え:いいえ、終わりがないなんてことはありません。たった今言った通り、この螺旋はより小さく、より狭くなっていきます。最後には内側で変化が起こるその地点が訪れます。まるで自ずと変化するような、そんな地点に至ります。そして新しい反応パターンが顕著になりますが、それは言ってみればほとんど知らないうちに始まります。これが長い奮闘の結果です。しかしくじけることなく何度も何度も、一見やる気も失せるほど同じことに繰り返し取り組み、そのたびに同じことを改めて見つけて、ついにあなたはこの自動的で、自然に起こる新しい反応を経験することになるでしょう。これは決して無理やり、故意に起こすことではありません。もしそうであれば、それは本物ではありません。
質問:未成熟で非現実的だと知りながら、自分が次善のもの(二番目にいいもの)では満足できないという認識を有しているとどうなるのでしょうか?私はこうしか感じることができません。別のことを感じるのは不可能です。
答え:この場合もまた、根本の「理性」が欠けています。このゆがみがあなたにとって物事を台無しにすることはあっても利することはない、ということを受け入れなければなりません。あなたがこのことを観察し理解すればするほど、それを維持するのはより簡単だと思うようになります。なぜならば、それはより多くの幸せを与えてくれることを、あなたの中の子供が知っているからです。真実は何なのか、より理に適うことは何なのか、そしてそうでないことは何なのかを静かに観察することでのみ、あなたは手放し、変わることが可能になります。この変化もまた、自ずともたらされます。このプロセスを観察し、なぜ精神がそれを持ち続けるのかを理解すると、結果が生み出されます。そこにはもう無理な闘いはありません。
質問:心理学的なアプローチと同様に、祈りと神へと目を向けること、そして助けを求めることは私たちにとって大きな手助けになるというのは本当でしょうか?
答え:心理学的なアプローチは、実は祈っていることと同じです。ここで何が起こっているのかを本当に分析してみると、これらすべてのゆがみを、自己教化(道徳的に諭す)しようとせずに、あなたが見つけ、認め、理解することそのものが、自己を浄化するために最善を尽くしていることになります。ここ最近のいくつかのレクチャーの中で述べたように、いわゆる心理学的アプローチとはスピリチュアルなアプローチと矛盾するものではありません。もちろん祈りは助けになりますし、祈ることをお勧めします。けれども私は、祈りを提唱する以上のことを与えなければなりません。そしてあなたは単に助けを求めて祈る以上のことをしなければなりません。祈りの中で、あなたは自分の態度を観察しなければなりません。それはとても深く、捉えられないほど微妙です。あなたが祈り、神が自分のためにやってくれたら、と期待している隠された態度を見つけたら、その時あなたのアプローチは破壊的だというだけでなく、それはまた、あなたの中にある人生について、そして自分の役割についてより深く根差している間違った態度を示しているのです。助けを求めて祈るならば、完全なる意図と自分が向き合い、変わらなければならないことを理解しなければなりません。そして、真実を見たいと願い、それが自分の努力とそうしたいという意欲にかかっていることを理解しなければなりません。そのとき、祈りは非常に役に立ちます。そのような健全で正しい態度と、神が自分に手渡してくれるのを待って座っていればいいのだという考えとの間には、捉えにくい違いがあります。後者の種類の祈りは何であれ効き目はありません。
質問:しかし、スピリチュアルなアプローチというのは、今あなたが教えてくださった、心理的なアプローチにたくさんのものが付加されているということでしょうか?
答え:あなたの成長におけるこの特定の段階において、いわゆるスピリチュアルな点をより重んじるのではなく、いわゆる心理学的な点により重きを置くことが健全で、あなたにとって良いことなのはなぜか、という理由についてはここ最近のいくつかのレクチャーで十分に述べました。私たちにとってそれはすべて一つ、そして同じです。それらは単に異なる面、見方やアプローチでありながら、同じ目的に向かっています。スピリチュアルに重点をおき、それがあまりに長く続いて自分を見つけることを犠牲にすると、それは現実逃避につながり、私が最近述べた偽の宗教へと行きつくことになります。それは間違った神の概念につながります。このレクチャーをもう一度読めば、私の言いたいことを理解するでしょう。神について話さないことによって神を軽んじていることになるという考えや、変わるためにゆがみに注目すると冷静から遠ざかることになるという考えは、当然まったく真実ではありません。常識はあなたにそういうでしょうが。あなたの中にそんな漠然とした考えがあるなら、それはあなたが隠されたままにしておきたいものを見つけ、それを変えるのを恐れているからです。それは、神やスピリットの世界、そしてその法則について話すことで、痛みや不快感を経験しなくても自分を変えることができるだろうという子供じみた希望の現れです。もちろんそんなことはできません。霊的な要因についてより知的に理解しても、内なる変化を誘発することはありません。しかしみなさんが今この道でやっていることは、内なる変化をもたらすことになり、真のスピリチュアリティに近づいていきます。それは世間で語られるどんな真実で美しい言葉よりもスピリチュアリティに近いのです。外側で信じていることと、その信じていることを実行するための内なる能力とはまったく別の問題です。信じていることを実行するためには、本当にたくさんの時間と努力を要し、そして苦しみも伴います。残念ですがあらゆる宗派の宗教や社会で、この側面が無視されています。彼らは単に思考のプロセスのみを取り上げており、それらはしばしば真の内なる生、生きた情動と相容れず、対立します。
ここにいるみなさん、一人ひとりが、今晩の講義で何か少しでも光をもたらし、ワークの助けとなるものを見つけられますように。自分自身の奴隷状態から自分を解放するために、そして分かつのではなく一つにするために、もう少しみなさんのやる気を引き出し、希望や強さ、緊張や不安を感じないで内側からの後押しを見出すことができますように。親愛なるみなさん、自己実現と自由へと向かうこの輝かしい道を、平和のうちに進んでください。みなさんに祝福を。神のうちにいてください。
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