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Pathwork in Japan
No.102 七つの大罪
Pathwork Guide Lecture No. 102
1996年版
1962年4月27日
七つの大罪
THE SEVEN CARDINAL SINS
ようこそ、親愛なる皆さんに神の祝福を。この時間は祝福されています。
以前、七つの大罪の意味について心理学的な説明をするとお約束しました。罪と呼ばれるものは、心理的な逸脱や未熟さが、行為や思考の形で外的に顕現したものです。言い換えれば、内面の歪みが「罪」と呼ばれるものを生み出します。あらゆる罪には魂の未熟さという共通項があり、それが関与すること、コミュニケーションをとること、愛することの能力を奪います。最も広義の言葉では、罪は愛の欠如です。未熟な人は決して愛することができません。そのような状態にある人は利己的、自己中心的、盲目的である為、他者を理解できません。未熟さは分離を意味します。分離の中では、人は愛さず、それ故「罪の中に」いるのです。心理学的に言えば、罪とは神経症です。霊的アプローチと心理学的なアプローチの唯一の違いは、霊的なアプローチが結果を重視するのに対し、心理学的なアプローチは分離、神経症、罪につながる隠れた原因、異なる流れ等、その構成要素を示すという点です。
第一の大罪は「プライド(傲慢)」です。以前にもこのことについてはお話ししました。(No.30「身勝手さ、プライド、恐れ」参照)皆さんは、その起源、原因、結果、その副作用をご存知です。簡単に言うと、プライドとは常に劣等感や不十分さの補償です。プライドのもたらす結果が、分離に至ることは明らかです。
第二の大罪は「貪欲」つまり欲深さです。これも又、以前のレクチャーからその深い意味をご存知でしょう。持っていないものを欲しがることは、自らを盲目にします。何故なら、欲しいものを手に入れれば幸せになれると思い込んでいるからです。しかし事実は、幸せとは外的手段では決して得られない内的状態です。欲しいものが得られない内的要因を無視する時も、あなたは盲目なのです。
自己理解を探求する中で、あなたは人生において欠けているものが健全な願いである限り、その欠落は自らの内にある葛藤が原因だと気づくようになっています。そのような葛藤はおそらく、あなたが最も望むものに対して無意識に抱いた恐れです。願望はあっても、その実現を阻む多くの障害に気づいていないのかもしれません。あるいは、自らが本当は何を望んでいるのかさえ気づいていないのかもしれません。このような状況下では、あなたは他者を羨み、彼らが持っているものを欲しがる可能性があります。何故なら、あなたは自らを満たすことを阻んでいる、自分自身の問題を解決できないからです。あなたが欲しがっているのは、自分で気づいていない真のニーズの代替品かもしれません。
貪欲もプライドと同様、あなたを他者から、そして真の自己から分離します。両方とも自己疎外から生じ、自己疎外へと帰結します。どちらも愛、コミュニケーション、他者と関わることとは正反対です。これらの悪徳は統一することなく、あなたを分離させ、上に置き、自分の居場所ではないように感じられる、特別で孤立した場所に据えるのです。これらは全て内なる盲目であり、外的には利己主義や分離へと繋がります。
第三の大罪は「色欲」です。色欲は大抵、誤解されています。それは性に関わると考えられがちですが、必ずしもそうではありません。では、色欲とは何を意味するのでしょう?性的か否かに関わらず、それは自己中心的、あるいは孤立的なスピリットにおいて耽溺される、あらゆる種類の情熱的な欲望のことを意味します。真の相互性のスピリットを欠いた、「欲しい、手に入れたい」といった子供じみた態度です。人は自らが望むものを受け取るなら、喜んで与えるかもしれません。しかし、その根底にあるのは相互性ではなく、自分自身への微かで根本的な重視です。真の相互性は、手放す能力、そして常に思い通りになる訳ではないことを受け入れる能力なしには不可能です。欲求不満に持ちこたえ、自らの意志を手放す成熟が、真の相互性の前提条件です。受け取ることのニーズが、本質的に利己的な欲深さである場合、それは色欲と言えます。
幾度となく述べてきたように、この利己的なニーズが強くなればなる程、人はより多くの犠牲を払い、従属し、殉教者のように振る舞う為、その態度に容易に騙されます。これらは全て、自らの思い通りにする為の無意識的な操作です。この傾向は捉えどころがなく隠れており、性的な情熱とは全く無関係なことが多いので、それが色欲であるとは気づきにくいかもしれません。しかし、あらゆる人間はこの色欲をいくらかは持っています。強制的な流れと激しいニーズがあるところには、色欲が存在します。あなた方の誰もが持っており、意識的に経験されなければ、それは更に強くなります。あなたが欲望するもの自体は建設的かもしれず、その為に、自分自身を騙しているかもしれません。しかし、あなたは宇宙の中心でいたいと望む、要求がましく渇望する子供のままなのです。意識していようと意識していまいと、その激しいニーズは、本来の満たされない状態を引き起こした原因からは切り離されています。あなたの無知、欲求、あるいは色欲は、耐え難い程に膨れ上がり、内なる方向性を変えるという解決策が見えない為に、より一層の欲求不満が募ります。
言い換えれば、満たされないニーズの本来の形が認識されないまま残っていることから色欲が生じるのです。自らの真のニーズに気づく度合いに応じて、成熟度は自ずと高まります。真のニーズに対して無意識だと、その置き換えが起こり、代替のニーズが煽情的に追い求められるようになります。それが例えどれ程正当で、建設的で、理にかなったものであっても、そのような追求は未熟さを示します。切迫感が強ければ強い程、欲求不満も高まるに違いありません。これが性欲であろうと、権力欲、金銭欲、人から好かれたいという欲求、あるいは特定の物への欲求であるかは関係ありません。これらの感情が調べられ、本来のニーズが見つかると、あなたは色欲を解消し始めることができます。あなたは本来のニーズを受け入れることはできますが、代替のニーズを受け入れることはできません。この本来のニーズが子供じみて破壊的なものであれば、それは明るみに持ち出されることによってのみ成熟できます。ふたりの人がお互いの充足を見つけることを助け合うように自らのニーズを認識し合い、表現し合うことで、意識的なニーズは相互的状態へと成熟できるのです。無意識のニーズは、常に一方的で利己的である筈です。
性的衝動そのものを罪深い色欲とみなすのは、全くの歪曲です。幾度となくお話ししてきたように、性は自然で健全な本能です。適切に成熟すれば、それは相互性と結びつき、愛と統一に繋がります。分離したままであれば、それは色欲になります。しかし、権力欲、金銭欲、名声への欲求、常に正しくあることへの欲求、その他あらゆるパワーに対する色欲と比べて、特に性が悪いというものではありません。
第四の大罪は「怒り」です。友よ、怒りとは何でしょう?ある意味で、怒りは常に嘘です。本来の感情は、多くの場合、傷ついたというものです。この本来の感情を認めるなら、怒る必要はありません。傷つけられると、あなたはプライドの中で劣等感から屈辱を感じます。何故なら、他の誰かにあなたを傷つける力を与えるからです。従って、あなたは本来の痛みを怒りに置き換えるのです。自らの弱さと、劣っているかのように思える自分自身の傷つきやすさを感じるよりかは、怒ることの方がより恥が少なく、相手より上位に自分を立たせてくれるように見えるのです。怒りは、傷つけられているという真の立場から、あなたを引き上げてくれます。プライドの中で、あなたは真の感情について嘘をつきます。このように、怒りとプライドには繋がりがあります。嘘は自己欺瞞のひとつであり、ひいては自己疎外のひとつでもあります。これは置き換えです。従って、自らの感情を受け入れる場合と異なり、嘘は否定的な影響を引き起こします。
怒りから解放された傷つきは、他者に悪影響を与えることはありません。従って、自分自身に跳ね返ってくることもありません。痛みや傷つきといった一次的な感情が意識されなくなったり、二次的な怒りの感情と混ざり合ったりすると、それは破壊的なものへと変わります。怒りが行為や言葉として現れるか、あるいは単に発散される雰囲気で現れるかどうかに変わりはありません。傷ついた気持ちを認めることは、他者との繋がりを断ち切ることにはなりません。しかし、あなたは怒りの中ではそうしています。本物の一次的な感情は愛やコミュニケーションに反することはありませんが、代替的な感情は愛やコミュニケーションに反します。
ご存知のとおり、私は通常「罪」という言葉を避けています。その言葉が、自己破壊的で非生産的な罪悪感を助長するからです。その代わりに、私はその根底にある状況に焦点を当てます。しかし、この文脈においては、この言葉を使わざるを得ません。人と人との隔たりを埋めるコミュニケーションを妨げる怒りは罪です。
勿論、健全な怒りというものもありますが、今はその話ではありません。実際、健全な怒りを表す別の言葉が必要です。
質問:ここで質問させてください。バガヴァッド・ギーターでは、怒りは大きな混乱を招く為、あらゆる罪の中で最悪の罪とみなされています。それは何故ですか?
回答:怒りが二次的な反応である時、あなたは自らが本当は何を感じているのか分からなくなるからです。自分自身を誤解している為、他者を理解したり認識したりすることは到底できません。他のいわゆる罪の多くにおいては、完全に本来の感情を自覚しているかもしれません。特定の要素が欠落している為に他の感じ方ができなかったとしても、自分が何を感じているのかは分かるでしょう。しかし、怒りを感じている時には、一次的な感情は感じていません。気づきをもたらすことでのみ、より深く入り、根本的な傷や痛みを見つけることができるのです。
更に付け加えると、嫉妬、羨望、色欲といった他の多くの破壊的な感情にも怒りが含まれています。怒りは認識することさえ難しい、あまりに微妙で、陰湿で、隠された、魂の永続的な状態なのかもしれません。これまで真の感情に気づくようにと、あなた方を諭してきた理由がこれで分かるでしょう。恨み、敵意、怒り、憎しみ、どう呼ぼうが変わりはありません。これらは全て同じです。殆どの人間は、怒りを感じていることにさえ気づいていません。一度それに気づけば、その根底にある本来の感情をより簡単に見つけることができます。
質問:健全な怒りとは何ですか?
回答:健全な怒りは、正義が危機にさらされている時にも客観的です。あなたに自己主張を促します。問題が自分自身のものであれ、他者のものであれ、あるいは道理の為であったとしても、怒りはあなたを良きもの、真実であるものの為に戦わせます。一般的な問題に対して主観的な感情を投影しながらも、個人的な問題に対して客観的な怒りを感じることもあるでしょう。問題そのものを見るだけでは、その感情が健全な怒りなのか判断することは不可能です。健全な怒りは、不健全な怒りとは非常に異なる感覚です。不健全な怒りは、あなたのシステムを毒します。それは防御を呼び起こすと同時に、その防御の産物でもあります。健全な怒りは、あなたを決して緊張させたり、罪悪感を抱かせたり、居心地の悪さを感じさせたりすることはありません。又、自らを正当化するよう駆り立てることもありません。健全な怒りが、あなたを弱めることは決してありません。
外的な感情がいくら否定的に見えても、あらゆる健全な感情はあなたに強さと自由を与えてくれます。その一方で、一見肯定的に見える感情も、それが不誠実で、置き換えや誤魔化しがあるならば、あなたを弱めることでしょう。怒りがあなたをより自由で、強くし、混乱を減らしてくれるのであれば、それは健全な怒りです。不健全な怒りは常に、本来の感情の置き換えです。健全な怒りは直接的な感情です。
質問:それは旧約聖書における神の怒りですか?
回答:はい、その通りです。
質問:それは正当な憤りと何らかの関係がありますか?
回答:はい、それも又、健全な怒りです。しかし友よ、自省には細心の注意を払ってください。例え、怒ることが至極全うな外的問題に直面して怒りを感じたとしても、それが必ずしも健全な怒りであるとは限りません。それを見極められる唯一の方法は、その怒りがあなた自身と他者に与える影響を見ることのみです。真実を見極めることができるのはあなた自身だけです。自分自身に対して徹底的に正直にならない限り、この両者を区別することはできません。
第五の大罪は「貪食」です。貪食のより深い意味は、ニーズと関係しています。長期間満たされず、欲求不満を感じ、何度も挫折させられたニーズは捌け口を探し求めます。他の様々な可能性の中でも、そのような捌け口のひとつとして貪食が挙げられます。古代の叡智は、何故これを罪深いと見なしたのでしょうか?単に、肉体の健康を損なうというだけの理由ではありません。それは決して罪と呼ぶに足る十分な理由にはなりません。人生には、望ましくなく、健康を損なうような行為が数多くありますが、それらは罪深いとは見なされません。これは遥かに重要で、根源的なものが危険に晒されているのです。本来のニーズに気づかないが為に、内なる障害を取り除くことを通してそのニーズを満たすことができないのなら、あなたは自分自身を満たすことはできません。自らの潜在能力を十分に発揮できません。幸せになることも、幸せを与えることもできません。自らの創造力を開花させることもできません。あなたは、例えどんなに小さな形であっても、人間社会とその発展に貢献することはできません。
あなたが例えどれほど見下し、その重要性を認めないとしても、人間は誰しも進化の計画に何らかの形で貢献する可能性があります。しかしそれは、自分自身を満たすことでのみ可能なのです。真のニーズと、そのニーズが満たされない理由に気づかなければ、自分自身を満たすことはできません。満たされない原因を理解し、より充実に近づくにつれ、宇宙の力の限りない宝庫に何らかの貢献を果たし、全般的な進化と霊的発達に影響を与えられるようになります。全ての人間の充実と幸福が、進化全体にとって必要不可欠なのです。
満たされない気持ちの原因が常に利己心にあると言うのは不公平でしょう。それは利己心かもしれないし、子供じみた自己中心的な懸念のせいかもしれません。しかし、精神の一部では、幸福の中でこそ人は貢献でき、貢献しないことには損失もあることが認識されています。この何かを取り逃がすという辛い感情が、あなたを駆り立てます。正しい方向に努力すれば、最終的には内側へと向き、満たされない原因を探し求めるようになるでしょう。しかし、その内なるプレッシャーを、一時的に軽減するだけの間違った努力の仕方も多数あります。貪食はその中のひとつです。以前にも述べましたが、アルコール依存症等、他にも様々な形の依存症があります。
質問:自慰行為を主要な依存症のひとつだと言う心理学者もいます。これは貪食と関係がありますか?
回答:それは頻度と年齢に大きく左右されると言えます。ある程度、自慰行為は正常です。成人してから習慣的に行うのであれば、間違いなく貪食に関連しますが、真のニーズの置き換えはそれ程大きくはありません。その真のニーズが、成熟した関係性を築きたいという切望であることがより見えやすいのです。貪食の場合、欲求の置き換えがかけ離れている為、根底にある真のニーズを認識することがより困難になります。しかし自慰行為も又、代替手段になります。個人的な関係に巻き込まれたり、責任を負ったりするリスクを冒すことなく、安堵感や解放感を得る為の安易な逃げ道なのかもしれません。
第五の大罪は「羨望」です。これについては以前にも触れたので、改めて詳しく説明する必要はないでしょう。貪欲について述べたことは、羨望にも当てはまります。羨望については、過去に幾度となく話し合ってきました。
質問:健全な羨望といったものは存在しますか?
回答:いいえ、ありません。ただし、特定の状況下で、羨望が健全な行動に繋がる可能性はあるでしょう。健全な野心といったものは存在します。例えば、野心を持たない人、無気力で、引きこもり、無感動で、無関心な人がいるとしましょう。この人が羨ましく感じざるを得ないような人と出会った場合、無気力な状態から抜け出し、ひいては正しい方向へ進み出すきっかけになるかもしれません。破壊的な感情が建設的な結果をもたらす場合もあれば、それ自体は建設的な感情であっても、不健全な影響を及ぼす場合もあります。それは、人生の状況と結びついた、人間の人格の複雑な様相によって左右されます。しかし、破壊的な感情が特定の状況下でポジティブな結果を生み出す可能性があるとしても、その感情自体がポジティブで、健全で、生産的になる訳ではありません。
第七の大罪は「怠惰」です。怠惰は先ほど述べた無関心や無気力のことです。怠惰は生きることや、愛することから引きこもるという偽りの解決策を表します。無気力がある所では、人生は拒絶されます。無関心がある所では、他者を感じ理解することに対してハートの怠りがあり、他者と関わることができません。怠惰、無気力、引きこもり、それをどのように呼んだとしても、これ程無駄なものはありません。人生に対して前向きで建設的な態度の人は、怠惰には陥りません。自らの安全を過度に心配しない人は、引きこもらず、従って無関心になることもありません。怠惰は常に利己心を示します。自らの為に恐れ過ぎると、前に進み、他者に手を差し伸べるリスクは冒さないでしょう。手を差し伸べる人は誰もが、傷つくリスクを負いながらも、そのリスクを価値あるものとして受入れるのです。
怠惰な状態にある時、あなたは人生、自分自身、他者にもチャンスを与えません。このような生命否定は、基本的な利己心や自己中心的な懸念を不健全とみなすようにならない限り、決して解消されることはありません。怠惰は、私がこれまで述べてきた防御機能のひとつです。傷つくことを恐れるあまり、あなたは怠惰になり、生命を生み出すあらゆるものに対して無関心になることで自らを守ります。だからこそ、怠惰は罪と呼ばれるのです。
質問:霊的な観点から見て、怠惰で浪費された人生はどうなりますか?
回答:人は最終的にそこから抜け出すまで、何度も人生を繰り返さなければなりません。身の回りでよく目にする法則がここでも当てはまります。悪循環に囚われれば囚われる程、そこから抜け出るのは難しくなるのです。自らの葛藤や問題に深く絡めば絡む程、変化はより困難になります。結局、あなたがそこから出て、変わることを望まないからこそ、葛藤も問題も生じるのです。自分自身と向き合うことを避け、変化に抵抗し続ける程、問題は増していきます。これは、外的人生が非常に耐え難くなり、その不幸によってあなたが最終的にはそれと向き合うこと、変化することを望むようになるまで続きます。
人生が耐え難いものになる前に、変化への意志を奮い起こすことができれば、多くの不幸を避けられます。だからこそ、何とか「切り抜けている」限り、人々は内なる問題に囚われたままなのです。彼らが真剣に変化を起こそうとするのは、人生が最早耐え難くなってからなのです。より大きな規模でも同じことが言えます。怠惰に人生を浪費し続けると最終的には、その存在が自らを奮い立たせ、そこから逃れようと奮闘できるように、転生の状況が非常に不快なものとなるかもしれません。
残念ながら、状況がそれ程悪くない限り、怠惰は多くの場合、最も抵抗の少ない道を選びます。これは次の人生において、怠惰な生き方を困難にする心理的条件を作り出します。何故なら、状況が十分に悪化すれば、最終的には自己保存の本能が働き出すからです。この転換点がいつ訪れるのかは、人によって異なります。この転換点は、より困難な転生で訪れることもあれば、今生の途中で訪れることもあるでしょう。
質問:これらの大罪のいくつかが、何故、原因ではなく結果であるのか疑問に思います。又、憎しみや恐れについては言及されていません。これらの感情もやはり、同時に原因と結果です。
回答:宗教的な教えでは、原因ではなく結果について語られることが非常に多くあります。かつて人類は、原因を見る程に深く探求する準備はできていませんでした。期待できる最善は、例え個人における根本的な原因が解消されなくても、人々の破壊的な行動を防ぐことでした。少なくとも、破壊的な行動の伝染性と直接的な外的影響は、完全に排除されたとは言えないまでも減少しました。人間の行動がいかに伝染しやすいかは、あなたもご存知でしょう。思考と感情も同様に伝染します。言い換えれば、思考は思考に影響を与え、無意識の感情は無意識の感情に影響を与え、その間、外的な行動は外的な行動に影響を与えます。伝染性のある行動は、少なくとも最悪な形においては抑制されていました。だからこそ、かつて原因よりも結果に重点が置かれていました。人類が進化する今、内的原因により多くの注意を向ける必要があります。
質問:そして、何故、恐れについては言及されないのですか?
回答:恐れは行為ではないからです。それは不随意的な感情です。恐れは、他の様々な感情の結果として生じ、恐れないようにと直接諭しても取り除くことはできません。心理的理解のプロセスと、その根本的な原因を解消することでしか取り組むことはできないのです。「それは罪だから恐れてはいけない」と人々に言っても、それでは彼らの恐れは防げません。むしろ、更に恐れは増すでしょう。しかし、もし彼らが感情的な逸脱のプロセスをゆっくりと解きほぐし、それを理解し、誤った概念を正していけば、その時、人は非合理的な恐れが常に利己的で分離をもたらすことに気づき、最早そのような非合理的な恐れの意味は見いだせなくなるでしょう。憎しみや怒りについても、多かれ少なかれ同じことです。
質問:マタイによる福音書には、神への信仰を通して恐れを克服できるとあります。それを私達の教えとどのように関連付けますか?
回答:皆さんも既にご存知の通り、本物で、恐れのない、深く、誠実な形での神への信仰は、まずは自分自身への信頼があってこそあり得ます。自分自身への信頼が欠けている程度に応じて、神への信仰も持てません。確かに、愛情ある権威にしがみつきたいニーズから、信仰を重ね合わせて自らを欺くかもしれません。しかし、自分自身への信頼という成熟が確立されていない限り、それは真の信仰ではあり得ません。自分自身を可能な限り理解しようとせず、どうやって自らを信じることができるでしょう?あなたが他者にどのような影響を与えるか、あるいは人生や他者があなたにどのような影響を与えるかに困惑し、暗闇の中で手探りしている限り、あなたは自らの精神生活に関する重要な情報を無視します。無知とは、真実を発見することへの内面的な意欲のなさ、多くの場合、無意識の意欲のなさの結果です。隠された抵抗を克服することで、あなたは自らをより深く理解し、自分自身への、ひいては神への信頼を深めるでしょう。このような方法でのみ、恐れを克服できるのです。
質問:私には、 七つの大罪は十戒についてのそれとない説明であり、明らかに恐れに基づいているか、あるいはこれを適用する際に恐れを生み出すように思えます。
回答:そうです。あらゆる教えは、誤用や誤解があれば恐れを引き起こします。厳格な戒律に従うことの潜在的な弊害を探る機会もなく、一方的に唱えられれば、厳しい戒律は恐れと罪悪感を生み出し、ひいては憎しみを生み出します。
今日では最早、人間が単に行動においてのみ戒律に従うことは不可能であり、建設的でもありません。それだけでは不十分なのです。例えあなたの行動が完全に適正で、戒律に沿っていたとしても、あなたの最奥の自己は恐れを抱いている可能性があります。最終的な権威はあなたの外ではなく、あなた自身の精神の中に宿っています。理想化された自己が求める完璧主義的な要求と、真の自己があなたに望む生産的な人生との間には大きな隔たりがあります。
質問:私は、これらの罪が流動的であることに気づきました。まるで互いの中へと流れ込んでいるかのようです。時にはこれらの罪が相反するように見えることもあります。例えば怠惰は、貪欲や貪食と対照的であるように思えます。完全に正反対という訳ではありませんが、ある意味でそう言えます。しかし、それらは同時に存在し得ます。例えば、怠惰と貪食の間には、明確な繋がりはあるのでしょうか?
回答:両者は正反対です。何故なら、貪食は満たされないニーズから生じる、貪欲に掴もうとする行為であるのに対し、怠惰は無関心から引きこもることであり、手を出そうとしないからです。しかし、怠惰と貪食には共通点があります。すなわち、本来のニーズに気づいていないことです。どちらも臆病であることから、ニーズを見つけること、あるいは充足を妨げる状況、つまり子供じみた自己中心的な懸念や利己心に変化をもたらすことが阻害されます。怠慢と貪食はどちらも混乱と無秩序から生じ、同じものを更に生み出します。
これらの罪が全て混ざり合い、重なり合っていることは紛れもない事実です。互いに相反しながら、同時に存在し得るのです。何故なら、全て同じ共通点があるからです。人間の人格は葛藤の中にあり、一面的なものではありません。その為、人格のある側面が、別の側面とは矛盾する態度をとることがあります。皆さん全員、自分自身や他者の中に、そのような矛盾を見出したことがあるでしょう。だからこそ、成熟した人は他者を「これ」か「あれ」で判断しないのです。彼らは人間の矛盾を理解し、その知識を身の回りの個々の事例に応用することができます。
罪もあらゆる戒律も、普遍的な傾向を示します。人間の精神は、明確に区切られた領域に分かれている訳でもなく、それぞれの領域が互いに無関係な訳でもありません。むしろ、それぞれが影響し合っています。これらの罪についても同様です。
質問:それでは、あなたが言ったことからすると、七つの大罪には罪の重さの違いはないということですか?時々、怠惰は高慢よりも悪いと言われることもありますが。
回答:これを評価するのは難しく、誤解を招く可能性があります。怠惰は活動的ではない為、克服するのがより難しいというのは本当かもしれません。怠惰は能力を麻痺させる為、長引きます。しかし、七つの罪は全て、同じ根本原因の症状です。
質問:神への畏れについてお伺いしたいのですが。聖書には「主を畏れることは叡智の始まり」と書かれています。私たちはその畏れを正しく理解しているでしょうか?私たちはこの段階を超えて進化しましたか?
回答:この質問は、以前にも話し合われました。これは語義と誤訳の問題です。「恐れ」という言葉は、極めて誤解を招きやすく有害です。本来の意味は、創造主の偉大さの前で感じる「尊敬」あるいは「畏敬」です。いかなる人間も、ほんの僅かであっても神の無限の偉大さを理解することは到底できません。感情的かつ霊的成熟に向けて成長するにつれて、創造と創造主の偉大さを理解する上での自らの限界を認識します。それは叡智からもたらされた畏敬、あるいは尊敬です。しかし、自分自身を小さな「罪人」にして自らに鞭うったり、自己価値を貶めたりするような不健全な態度の中に叡智はありません。そうすることで、あなたは創造主の価値を貶めることになるのです。非常に未熟で霊的に幼い者だけが、普遍的マインド、すなわち神を理解することは不可能であると知らずに、自らを虐待します。それを知ることが叡智です。成長するにつれて、人生で恐らくほんの僅かな瞬間毎に、あなたは神を理解する自らの能力のなさを感じるでしょう。この能力不足に気づいた瞬間、あなたはそれを無視していた頃と比べて、遥かに偉大になっているのです。
質問:神への恐れは、懲罰的な特性を持っていた古代宗教からの要素ではありませんか?
回答:はい、その時代から受け継いだものもあります。しかし同様に、おそらく過去の時代の名残から、誤訳された可能性もあります。
質問:霊的な観点から見た罪についてはどうですか?実際に罪を犯さなくても、罪深い行為を考え、恐れやその他の理由から罪を実行しない場合、それもやはり罪とみなされますか?
回答:イエスはこのテーマについて、言うべきことを全て語りました。行動、感情、思考の間の違いは、人間が信じたがっている程大きくはありません。これは特に、行動に至らない理由が愛や理解からではなく、恐怖心からであった場合に多く当てはまります。あなた方は、誰でもオーラがあることをご存知です。あなたが感じ、考えることは、あなたから発せられ、何らかの形で常に他者に感知されます。他者の意識レベルが高ければ高い程、その人はあなたから発せられるオーラをより強く認識します。意識レベルが低ければ低い程、オーラの認識は低くなりますが、それでも無意識の内では感じています。従って、例え行動に移さなくても、あなたの「罪」は他者に影響を与えるのです。
一方、恐れや罪悪感からこれらの感情や欲望を抑圧すれば、結果は更に悪化します。あなたは決して根本原因に辿り着けず、自分が何故そのように感じるのか理解できません。今のありのままの自己を受け入れず、自分は実際よりも進化した人間だと自らを欺くようになるでしょう。しかし、自らの感情や欲望を素直に認め、内的にそれと向き合うなら、根本原因を見つけ出すことはできます。その結果、恐れと罪悪感から自分自身を解放する、唯一のことをするようになるでしょう。
質問:今日のポスト紙で、ハリー・ゴールデンは次のようなことを書いていました。同調とは隣人と同じような家に住むことではなく、むしろ隣人に好印象を与える為、あるいは隣人に好かれようとして同じような家に住むことだと。おそらく、これは同調について正確に説明していると思います。さて、人は成熟すると、自らが住む社会にどの程度まで同調するでしょうか?
回答:「同調する」という言葉が通常使われる意味、つまり他の人々に好印象を与える、あるいは拒絶される恐れから、他者の期待に応えるという意味であれば、成熟した人々は全く同調しません。しかし、それは彼らが反抗的だという意味ではありません。又、あらゆることを他者と違うやり方でやるという意味でもありません。彼らも特定の事柄を隣人達と同じように行なうかもしれませんが、それは、彼らがただそうすることを自由に選んだからです。自由だからと言って、同調しないことを誇示する必要はありません。同調する人は多くの場合、自らが他者と違うことを示す為だけに反抗し、自分が望むことと正反対のことをする必要性を感じます。これはコインの反面です。他者と違うようになるリスクを冒せず、自立した選択ができない人々の行動と、同じ根源から生じているのです。同調しているかどうかは、外的顕現で示されることはありません。それは内なるスピリット、動機によって決まります。周囲の人々と同じ様に生活している人々は、不安感や同調のニーズから、そうしているのかもしれません。あるいは、その生活が好きで、その生き方を自立的に選ぶ自由からそうしているのかもしれません。反抗心からあらゆることを人と違うようにする時、その根底にある同調のニーズが露わになります。彼らは社会に対してではなく、自分自身の内なるニーズや不安感に対して反抗しています。そのような反抗は、自由ではないし、多くの場合、本当にやりたいこととは全く反対の行動させるのです。しかし、他者とは違う自分である勇気を持っている人々は、自由な精神をもってそうしている可能性もあります。
質問:「唯一無二の愛」に関する質問です。成熟した人は、どうやら愛を楽に与える一方で、当然ながら何らかの見返りを求めているようです。例えば75%成熟した人が、愛を与えることからこの素晴らしい感情を受け取るとしたら、愛の対象となる相手はそれ程重要ではないように思えます。愛を必要とし、与えたいと思い、実際に愛を与えられる、このように成熟した人は、ロマンチスト達が語るような「ふたりが出会い、この人だ!」というようなことについて、どのように折り合いをつけるのでしょうか?
回答:これには多くの混乱があります。第一に、愛には様々な種類があります。確かに、成熟した人が様々な形で多くの人を愛することは紛れもない事実です。分かりやすくする為に「温かさ」や「理解」という言葉を使いましょう。このような感覚は、成熟した人に対して能動的に愛を返す訳ではない人々に対しても感じられるものです。しかし、成熟した人は相手から愛情を返されない限り、性的な愛、つまりふたつの性の間にある愛を抱くことは決してありません。成熟した実りある関係は、相互的なものです。一方的なものであってはなりません。成熟した男や女が、嫌われているのに愛することができると信じるのは大きな誤解でしょう。期待できる最善の状態は、成熟した人は防御的ではない為、お返しに嫌い返さないということだけです。彼らは巻き込まれず客観的なので、相手が何故嫌うのかを感じます。そのような場合、彼らは例え気楽な友情関係であっても、関係を求めようとはしないでしょう。成熟した男女は、相手によって異なる度合いの理解と暖かさを持つでしょう。彼らは様々な形で多くの人と関わります。しかし、結婚というコミットされた愛においては、成熟した関係性を築く為に相互関係は必要条件です。これは両者が同じ感情を同じ強さで抱くという意味ではありません。夫婦の愛はそのような尺度で測れるものではありません。関係性は変化して変動しますが、全体として相互関係がある筈です。あなたはここで、一般的な人間関係における愛と、エロティックな愛という二種類の異なる愛を持ち出して混乱しているのです。
質問:夫婦間の愛において、はじめは夫の方がより愛しており、その後、妻の方がより愛して、それから又変わるといったことはあり得ますか?
回答:勿論です。しかしこれも又、真の意味での愛とは別の何かに関係しているかもしれません。ある時点で、一方の人のニーズや不安がより大きく、その人が依存性を表したとしても、そのニーズが満たされると状況は変わるかもしれません。
質問:夫婦関係の中で最も重要で最良の調整要因は、相手の中に神を見るよう徐々に育つ能力ではないでしょうか?
回答:それは、あらゆる人間関係に当てはまります。
質問:私は新しい種類の感情に気づき始めています。抑鬱、恐れ、抑圧が解消するにつれ、個人的な関与や感情を持たない人格が現れます。それによって、愛にはふたつの側面があることに初めて気づきます。それは、対象としての自己との個人的な関与における、ある種の否定と肯定性です。従って、愛は理解と非個人的な関与となり、特に好きでもない、個人的に関わりもない見知らぬ人にも感情を抱くことができるようになります。これは受容です。人間関係において、このことは「どちらがより愛しているか」というような疑問がなく、ふたりの間で成長するプロセスとなります。それは深く個人的な与え合いであり、最も興味深い感情です。まるで自らの身体を失うかのような感覚です。
回答:そうです。まるで誰かがあなたを通してこの感情を広げているかのようです。まるで何か新しい存在が、内側であなたを把握したかのようです。もしかして思考についても、同じことを体験するかもしれません。ある思考があなたの中で考えられていながらも、その考えはあなた自身の思考プロセスではなく、同時に非常にあなた自身の考えでありながら、あなたの存在の中の新しく、馴染みのない領域から来ています。それはより穏やかで、より賢明な何かが、あなたを通して思考し、感じているということです。
私が繰り返し話しているのはこのことです。ゆっくりと表面化し、あらゆる混乱の層から姿を現すのは真の自己です。ありのままの自分を理解して受け入れることを学ぶことによって葛藤を解消していくにつれて、真の自己は顕現し始めます。抑圧や逃避、偽りの解決策や防御ではなく、自らの内のあらゆるものと真正面から向き合い、理解し、現実そして真実の概念と照らし合わせることによって、つまりはパスワークを通り抜けることによって、真の自己は顕現するのです。あなたが仰っているのは、真の自己の顕現です。今は、生活や存在のあらゆる領域に同時に現れる訳ではないでしょう。おそらくまずは、比較的軽微な葛藤が解消された領域で現れるかもしれません。次のステップは、例え表面的には偽りの解決策として不関与が用いられているとしても、深く主観的で破壊的な関与の存在を明らかにする、より深刻な問題を解決することです。真の自己という新たな状態においては確かに深い関与がありますが、それは全く異なる形での関与です。弱めたり、混乱を招いたりするような関与ではないのです。真の自己の関与は、関係者全員にとって生産的です。子供じみた依存や過剰な関与では経験できなかった有意義なもので、あなた自身やあなたと関わりのある人々を満たしてくれるでしょう。
道のりのある地点から、あなたは自らの努力の結果として、真の自己の顕現を経験する高原にいる自分自身に気づくでしょう。しかし、未だ未解決の問題に取り組むあなたは、再び高原から離れて次の高台に到達するまで、これまで経験してきたサイクルをより深いレベルで繰り返さなければならないかもしれません。あなたが言い表したこのような時、先程お話しした神への畏敬の念と、創造主を理解する自らの限界という認識が、同時に湧き上がってくることがあります。自らの内にある神聖な側面が、最初は別なもののような感覚であなたを満たし始め、やがて浸透し、内側からあなたをすっかり包み込み、最終的には、あなたはそれが自らの不可欠な一部、つまりは真の自己であることを知るのです。
質問:男性が女性を本当に深く愛していないのに結婚した場合、それは誤っていますか?又、適切な導きがあれば、この結婚がうまくいく可能性はありますか?例え初めは冷めた関係であったとしても、その後にふたりが恋に落ち、真の愛情関係に発展する可能性はありますか?
回答:正しいか誤りかについて明確にお答えするのは非常に困難です。それは様々な状況に左右されます。動機、抱いている感情の種類、関係に注がれる意志や努力によっても異なります。しかし一般的に言えば、動機が誠実で、相手への愛情、尊敬、好意といった感情があり、更に共通の基本的な利益もあるならば、情熱だけに基づく結婚よりも良い結婚になり得ると言えます。情熱のみに基づく場合、真の価値観が見落とされることもあります。とは言え、ふたりが恋に落ちているからといって、必ずしも真の価値観を見落とすという意味ではありません。彼らは、その真の価値観から、恋に落ちたのかもしれません。
恋愛関係に規則性はありません。しかし、真の価値観が認識されれば、特定の状況下においては発展する可能性があります。しかし、そのような場合、両者の動機については慎重に検討する必要があります。深く隠された要因が関わっている可能性がある為、迅速かつ容易に済ますことはできません。例え歪んだ不健全な動機であっても、最終的に明らかになってみると、必ずしも有害な影響がある訳ではないかもしれません。しかし、その存在に気づかなかったり、向き合おうとしなかったりするのであれば、それは極めて有害になるでしょう。
親愛なる友人の皆さん、私がこれら全てのレクチャーでお伝えしてきた内容を取り入れ、皆さん自身の内に統合できますように。未だ大部分は取り入れられてはいませんが、自己発見のワークへの継続的な努力への意志こそが、それを可能にしてくれるでしょう。今夜の私の言葉が、知性と感情の両面において、皆さんの理解を深めてくれますように。皆さん一人ひとりが、それぞれの道、それぞれのワーク、それぞれの活動、それぞれの人間関係において祝福されますように。皆さん全員が、罪の意識を感じることなく、ありのままの自分を受け入れることを学び、その受容を通して「罪」と呼ばれる条件を解消できますように。平和の内に、神の内に!
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