top of page

No.103 愛を与え過ぎることの害「建設的意志力と破壊的意志力」

Pathwork Guide Lecture No. 103
1996年版
1962年5月11日

愛を与え過ぎることの害「建設的意志力と破壊的意志力」
HARM OF TOO MUCH LOVE GIVING -- CONSTRUCTIVE AND DESTRUCTIVE WILL FORCES


ようこそ、親愛なる友人達よ。あなた方一人ひとりを神が祝福しています。この時間は祝福されています。

今夜は、愛、意志、人間関係における、もうひとつの側面についてお話ししたいと思います。人生から、ご自身の経験から、そして過去のレクチャーから、これら三つの側面が相互に依存し合っていることはご存知ですね。それぞれが、あなたの人生と充足感にとって非常に重要です。それらが全て合わさって、ひとつの全体を形づくります。三つの内のひとつが健全かつ生産的に独立して機能すれば、残りのふたつも殆ど自動的に、同じように健全に機能する筈です。しかし時には、それぞれ個別に考察することも重要です。良い人間関係なくして、いかなる種類の充足感もあり得ません。そして、愛なくして良い人間関係もあり得ません。適切に機能する意志なくして、生産的に生きることはできません。愛と意志には、様々な形で現れる多くの歪んだ側面があり得ます。そのうちのいくつかについて、これまでも話し合ってきました。今回は、このテーマを新たなアプローチで考察してみましょう。

これまであなたは、愛の経験がない時に愛を感じるよう自らに強いることが、非常に有害であると学びました。そのような場合、誤った種類の意志と愛が用いられ、否定的な結果が生じます。しかし、愛を与えなければ愛は受け取れないことも、あなたは知っています。その為、意識的にせよ無意識的にせよ、あなたは愛を無理強いしようとするのです。あなたは未だ自らの内に存在していない感情を生み出そうと意志の力を使います。しかし、私達が共に取り組んできたワークの中で、自らに未だ愛を感じる能力がないことを自分自身に認めることは、適切な成長のプロセスだとあなたは学んできました。しかしながら、あなたは、差し当たっての真実であるこの状況に、適切に向かい合うことができません。それがあなたの今の現実です。罪悪感や批判なくこれを受け入れるならば、何故そうなのかをいずれ理解するでしょう。この理解によって、あなたの愛する能力は自動的に解放されます。それは自ずと成長していくのです。

自己発見のワークでどれ程成功しているかに関わらず、皆さん全員、自分自身を見てみれば、本物の温かく建設的な感情は、他者からも自分自身からも無理強いできるようなものでは決してないと気づくでしょう。本物の感情は常に自然発生的で、自ずと湧き上がってくるものです。それらは自然発生的に現れる自己認識の間接的な副産物であり、あなたの意識的な決定によって活性化される外的意志が決められるものではありません。従って、最初のステップは常に自己理解であり、あなたの愛する能力はそこから育つのです。これは新しい話ではありませんが、繰り返される必要のある内容です。何故なら、この知識は未だ、あなたの統合された一部にはなっていないからです。

これまでのところ、主にあなたの愛する能力に重点が置かれてきました。愛されたいと強く願っている為に、自らの愛の欠如があなたの最大の悩みとなります。何故なら、あなたがうまくいかせたいと願う人間関係が破綻する原因は往々にしてそこにあるからです。あなたが愛だと考えていたものが実はそうではなかったと気づくには、相当な洞察が必要です。皆さんの多くは少なくともある程度、その地点まで達しています。

それでは、ここで全く違う観点から関係性について考えてみましょう。心から愛していたにも関わらず、はねつけられ、拒絶されたとしたらどうでしょうか?皆さんの多くが、このことについて不可解な疑問を抱くでしょう。あなた自身がとても純粋で強い愛の力を持っていたと確信しているので、どんな形にせよ拒絶される理由は理解できません。例え、この愛の力が子どもじみた流れから完全に自由ではなかったとしても、少なくとも真の愛と混じり合っていたのです。あなたは、愛こそが人生と人間関係の鍵だと知っているからこそ、このことに混乱します。そしてあなたは、何故うまくいかないのだろう?と自問するかもしれません。人間の魂の中には、常に利己的で、貪欲で、未熟な流れがあるのでしょうか?しかし、もしそうだとすれば、完璧な人間はいないのですから、誰も愛を受け取ることはできないでしょう。同時にあなたは、明らかに他の人より本物の愛する能力が低い人々が、遥かに多くの愛を受け取るのを目にします。これは、あなたを混乱させるだけでなく、不安や自己疑念、不公平感や被害者意識を増大させます。この問題を見て、より明確な視点を得ましょう。

愛し過ぎることは、愛が足りないことと同じくらい有害で、破壊的であり、それ故に愚かです。今言っているのは、見返りとして愛を要求する個人的な愛のことです。要求することなく、手放すべき時も、共感や理解といった温かな人間的感情を抱くべき時をも察知する、超然とした愛のことではありません。しかし、パートナーシップであれ個人的な友情関係であれ、所有を求めて必要とする種類の愛は、求められる以上に与えることでも、与えなさ過ぎることでも、同様に破壊的になり得ます。求められていないのに愛し過ぎることは、愛がなさ過ぎることと同様に無神経で、自己中心的で、強欲です。あなたは未だ、このことを理解していません。

もしある人が、あなたの愛を受け取れず、それを恐れているにも関わらず、受け止めきれない程の強さであなたの満たされない愛への願いが表現されれば、相手は恐れて引きこもります。あなたが自らの内面のプロセスに気づいていなければ、このことに繊細にはなれません。ただ拒絶されたと感じ、その侮辱にしか目が向きません。自らの殻から出るのが恐くて、他者があなたの愛を必要としていることに気づかないのと同じ様に、他者がその時に耐えられる以上のものを与えて欲しくないというニーズにも、気づかないことがあるかもしれません。つまり、あなたが与えたいものを受け取らないという、相手の不可欠な権利を尊重していないのです。あなたにとって、それは0か100かの問題です。もしあなたの愛が全て受け入れられなければ、あなたは引きこもり、その愛は0になります。しかしもし、あなたが相手の内なる葛藤を理解し、受け取られるものだけを与える位に十分成長すれば、とても満足できる別の種類の関係性が生まれる可能性があります。しかし、あなたは内なる無知の為に、それを逃しているのです。

相手の中にある力の無さが、その人の感情的な未熟さ、内面の問題、葛藤を反映しているのは、確かに真実かもしれません。しかし、あなたはこれに怒ります。あなたが少し違う形で自らの為に主張しているバウンダリーでも、相手がそれを行使する時にはその権利を否定します。こうしてあなたは、相手が受け取れない程に強過ぎる愛の流れを押し付けることと、恨みを感じて引きこもることとの間で揺れ動くのです。あなたは未だ、自らの愛の強い力が歓迎されないと、相手への敬意や好意を維持できないのです。怒りの中で、あなたはポジティブな感情をネガティブな感情へと変える武器を使います。恨み、拒絶、プライドを感じ、その相手、あるいは再び愛することから引きこもってしまいます。このことを実際に認識しないまま、あなたはこの破壊的な不均衡の中にいる自分に何度も気づきます。この態度でもって、意義深いものになり得る関係性を、あなたは破壊してしまうのです。

私たちはこれまで、あなた自身の態度、与える力と受け取る力について何度も話し合ってきました。もしあなたが、愛し、受け取る力がないならば、この道を歩むあなたはどうすれば良いか知っています。自己認識に達し、自らの内に何が起こっているのか理解するまで、内省を続けるのです。しかし、この力の欠如が他者にある場合、あなたは当惑し、混乱するのです。この新たな理解によって、この問題と向かい合うことを学べるでしょう。あなたはこれから、与え、受け取る力について自らに問うだけでなく、この点における他者の力を問うことも学ぶでしょう。このことの重要性を知り、あなたはそれに思いやりを持ち、無闇に突き進むことはなくなるでしょう。言葉の裏にあるものを聞きとり、兆候を解釈し、例え相手が自覚していなくても、相手の中で何が起こっているのか感知することを学ぶでしょう。

これらの言葉は普段引きこもりがちではなく、他者に与えて、他者と関わりたいと強く願っているのに、自分自身から発せられるパワフルで要求的な力である愛情が、その対象である相手が受け取ることに乗り気でない為に、常に阻まれているように感じる友人達に特に向けられています。もう少し防御的でなく、身勝手でもなく、即時の意志に対しての拒絶や欲求不満に心を惑わされることがなければ、たとえそれが「病気」であっても、相手の能力の無さを尊重する高潔な精神を育むことができます。貪欲で自己中心的な「与える」ことが人間関係を破壊する一方で、この態度は人間関係を築いていきます。

相手があるがままに在ることを、あなたが願っていた反応とは違う受け取り方をすることを許しましょう。この方法で、あなたの人生は様々な理由で豊かになるでしょう。より意味のある人間関係を築けるだけでなく、自らの意志を押し通そうとすることに依存しなくなるからです。例え相手の愛する能力の不足を知っていても、相手に愛と尊敬の念を持ちながら、手放していられるようになります。例え相手の応答が「未熟」に見えても、それは問題ではありません。自分自身の為に望む権利を、相手にも与えることを拒まないようにしましょう。自らの内奥にある態度と傾向をこの視点で観察することで、いずれあなたは自らの突進の意味に気づくでしょう。最早これを人生から不当な罰として与えられたものとは考えず、その本質的な利己心と貪欲さに気づくことになるでしょう。落ち着きを持って進むにつれ、あなたはこの点においても、自ずと成熟していきます。この言葉を敢えて使えば、相手への敬意と礼儀を身につけて、相手のやり方を許すようになります。相手が、あなたが与える以上に受け取りたいのか、あなたが与えたいと願うよりも少なく受け取りたいのかに関わらず、あなたは一歩引いて手放し、相手のニーズにより繊細に寄り添うことができる魂の寛大さと高潔さを身につけます。もしこれが、相手や自分自身への軽蔑や恨み、自己疑念や自己卑下なく起これば、あなたは確かに成長したと言えるでしょう。おそらく、あなたは成熟した態度で自分の意志に反する事態に向き合うことができるでしょう。ただし、それはあなたの存在の表面的なレベルに限られているかもしれません。それがあなたの人格のより深い層にまで達した時、あなたはそれを受け入れますか?自分自身に問いかけてみてください。あなたに明らかにされる事柄をじっくり見つめ、そこから得られる洞察を受け入れるつもりがあるかどうか考えてみてください。このように成長することは、あなたが切望する豊かなものを諦めることではありません。それはあなたが即時的な意志を諦めることから、そう見えるだけなのです。実際、あなたは霊的に豊かになるだけでなく、成熟度、自立心、自己尊重においても豊かになり、人間関係においても豊かになっていくでしょう。

しかし、もう一度言います。もしこのような成熟した形で感じられないのなら、自分自身を無理強いしてはなりません。むしろ、この強く、要求的な力を外に広げる自分自身を見て、それが拒絶された時の自らの反応を観察しましょう。働いているその力を見て、自らを批判することなく経験してください。繰り返し言う通り、これが唯一の道です。

友よ、幸せと愛は、意志に基づくプロセスではあり得ません。それらは、善悪や正誤の判断なしに自らを観察することで訪れます。

さて、友よ、あなたは愛することを恐れ過ぎていませんか?引きこもり過ぎていませんか?誰かの手が差し伸べられ、愛が差し出される時に、あなたは敢えて世界や関係性に手を伸ばすことをせず、その代わりに自分の内に隠れてはいませんか?恐れの中で愛が訪れても、あなたが渇望するその愛を拒絶する罪悪感に苛まれないように、愛に気づこうとすらしない時はありませんか?あるいは常に寛大に、もしかしたら寛大過ぎる程に、与える準備をしていませんか?自らのニーズと子どもじみた貪欲さの為に、相手のことを顧みず、あなたは落ち着きリラックスして穏やかに相手を見つめることができないのではないですか?あるいは友よ、もしかしたらその両方を少しずつ持ち合わせていませんか?

この視点から自分自身を見つめてみてください。そうすることで、自己認識が高まり、少しずつ他者のニーズに対するあなたの感受性は発達します。相手があなたから何も受け取りたくない訳ではなく、もしかしたら今はその形では受け取りたくないだけなのだと気づくでしょう。もしかしたら相手にとっては、そこまで要求がましく、強引ではない愛の力と遭遇した時の方が、自らの殻から出やすいのかもしれません。

その両方の歪みはあなたの中に、あまりにも頻繁に同時に存在します。ある時には、強い要求に直面して、あなたは恐がるかもしれません。しかし、そのような要求がない時には、何が差し出されているのかを見ようともせず、あなたは自らの要求を相手に突きつけるのです。

さて、意志のテーマに移りましょう。これまで私達は、身勝手さ、外的意志と内的意志、健全な意志の力と不健全な意志の力とその様々な顕現について、多くの異なった視点から話し合ってきました。では今から、もうひとつ別の否定的な顕現、そして何故、意志が適切に機能しないのかについていくつかの理由を見ていきましょう。

①自分が何を求めているかに気づいていない時、例えその願い自体は健全で生産的なものであっても、その願いに気づいていないという事実そのものが、否定的な結果を生み出す筈です。何故でしょうか?願いそのものが問題なのではなく、それを隠さざるを得なかった理由が問題なのです。このようにかつては意図的だった無自覚は、実際には自己欺瞞になります。あなたは何かを欲しがりますが、自らの欲求を良くないものだと感じ、それは欲しくないものだと信じようとします。内的には欲しいものを、外的には自分自身と世界に対して欲しがらない振りをするのです。破壊的な結果を引き起こすのは、願いそのものの質ではなく、この自己欺瞞です。その願いが道徳的に許容されるか否かは関係ありません。その原因となるのは、あらゆる含意を伴う歪んだ認識です。こうして、あなたは自らが望むものを望まないのです。

あなたは、自分自身にも自らの正当性についても確信を持てず、あなたの願いの力、つまり意志の力を抑圧し、最終的には封じ込めてしまいます。あなたは妥協という形で再び現れるように変形させるかもしれませんが、その不明瞭さはあなたの精神に濃い霧を生み、あなたの自己表現を阻害する不健全な環境を生み出します。もしそれが不健全な願いであったとしても、あなたはその存在に気づいていない為、それに対処することはできません。あるいは、非常に健全な願いであるにも関わらず、あなたが社会や世論から押し付けられた基準、又はそう思っている基準に同調しようとするあまり、意識に上がることを許さない願いである可能性もあります。従って、あなたは自らの意志、自らの真の自己の意志とはかけ離れた、遥かに劣ったもので生きることを自らに強いているのかもしれません。そうする理由は、完全に否定的なものです。それは、自分自身であることへの勇気の欠如であり、他者を喜ばせることへの過剰なニーズでもあり、又は過去のレクチャーや自らのワークから知るに至った、その他多くの理由によるものです。従って、例え建設的な願いであっても、あなたに自覚がなければ、それは非建設的、時には更に破壊的なものになることもあります。

②意志の力や願いの力が非建設的なものになるもうひとつの理由は、あなたに二方向への分離があるからです。このことは以前にも詳しくお話ししました。もしあなたの意志が部分的に一方向に動き、他の部分で別の方向に動くなら、非常に否定的な結果を経験するでしょう。あなたの努力は阻まれ、失敗と欲求不満を経験することになります。大抵このような失敗は、道徳的な理由によるものだと誤信するかもしれませんが、そうではありません。どちらの方向も道徳的には適切かもしれませんが、あなたが自分自身と統一されていないという事実は、あなたが無意識の内に罰のように思う経験を生み出すのです。

③もしあなたの意志が非常に強く、障害を考慮せず、他者の意向を尊重せず、他者の現実を考えず、現実が許容する以上に願いが強い場合、あなたの願いは目的には逆効果となります。

④意志が弱過ぎたり、諦めて引きこもったり、無気力になったり、意義深い人生を送りたいと願うことを恐れ過ぎたり、そのように意義深い人生を生み出す為に必要なことを自分自身の為に敢えてしようともせずに、何らかの権威がそれを与えてくれるのを待つだけならば、意志の力と願いの力は損なわれてしまいます。

これら四つの側面は、あなたの意志と願いの力の健全で寛いだ着実な流れを阻害します。物事を正誤で、あるいは善悪で見る傾向から、多くの混乱が生まれます。意志の使い方については、霊的、宗教的、哲学的、心理学的にも、実に多くの理論があります。平和を得る為には結果を追求してはならないという学派もあります。意志の力を持つべきではない。手放すべきだと。又、別の学派では、意志がなければ人生も充足感も得られないと言います。友よ、この一見対極に見えるふたつの視点はどちらも正しく、どちらも誤っている可能性があることに気づきませんか?対極の視点がどちらも正しく、同時に破壊的でもあり得ることで、どのように混乱が生じるのか、私はこれまで何度も示してきました。

もし、あなたの意志が緊張して未熟な動機に支配されているのに、あなた自身がそのことに無自覚で分裂しており、強迫的で熱心過ぎる場合には、あなたの身勝手な意志を手放してリラックスさせなさいと言うことは正しいでしょう。しかし、あなたの意志が全く機能しない、あるいは不十分にしか機能しないのなら、どうして成長できるでしょうか?その場合、成長する意志、生きる意志、愛する意志が確かに必要です。それでも別のレベルにおいては、それは必要ではありません。例えそう望んだとしても、直接的な意志の力で、自分が感じていないことを自分自身に感じさせることはできません。しかし自らを公平に、自己欺瞞なく観察するには、意志の力が必要です。そしてこの観察から、愛する力と生きる力が自ずと成長します。あなたの意志が分裂の根底にある統一的な力を見つけ、それらがひとつの流れへと成長するのを助けましょう。

良い関係性を本当に求めるのならば、緊張なく、即時的な結果を期待しないで、それを得たいと願うべきです。期限に縛られたり、自らの都合の良いように限定したり、特定の結果に突進しないようにしましょう。関係性には他者も含まれます。自分だけではなく、相手のことも考慮する必要があります。このような配慮がなされないのならば、その関係性を無効にしてしまいます。この配慮が外的に明白な現象に向けられるか、あるいは隠された感情的な態度に向けられるかに全く違いはありません。

私が指摘しているのは、手放しつつ求めることと、意志を持つこととの適切な組み合わせです。身勝手さは去り、良き意志が残ります。この良き意志は、繰り返し新たに育む必要があります。良き意志を持つと、どのように手に入れるか、あるいはいつ手に入れるかの欲求に対して寛容になることで身勝手さを手放します。あなたは変化や変動に整合しつつ、自らの不穏な気分と同様に、他者のニーズや意志への気づきも広げます。何故なら、生きているものは何ひとつ、静止していることはないからです。自由な精神を持つ者だけが、自分自身や他者、人生の状況から発せられる絶えず変化する流れに従うのに十分な注意を払い、寛ぐことができます。その為には、健全な意志が機能しなければなりません。あなたは意志を無くしてはなりませんが、あらゆる細部を指示する身勝手さの硬直した条件から自由でいる必要があります。これは、外的意志と内的意志の違いを示します。内的意志は、本質的に自由な真の自己から来ます。もしあなたが内的意志に自由を許すならば、あなたは最早、身勝手さの制限に閉じ込められることはなくなるでしょう。

意志がなければ、生命も成長も存在し得ません。自らを実現し、自らの潜在力の開花を望むならば、多くの場合、緊張した外的意志は障害となります。充足を間接的にもたらす為に育てなければならないのは、内的な自由意志です。直接的なアプローチとは気づきですが、それは自然に得られるものではありません。それを得るには、あなたの寛いだ意志が必要です。もし意志が道徳的な判断と結びつくと、真実は手の届かないものとなり、意志は破壊的なものに変わります。もし意志が道徳的判断を下す傾向を超えて、何が正しいのかではなく、何が真実なのかに焦点を当てるよう方向づけられれば、意志は真実を生み出し、ひいては愛が生み出されます。

人生において、自らの可能性に気づき、ある程度の充足感を経験した領域では何処でも、あなたは常に自らの健全な意志を更新してきた筈です。振り返ってみると、その通りだと分かるでしょう。望むものを手に入れる為に、意志は何度も繰り返し、寛いだ寛大な心で育てられる必要があります。特定の成功や特定の人間関係を願う等、自らの限られた概念に囚われてはなりません。意識的であろうとなかろうと、そのような態度はあなたを奴隷にするでしょう。成長、自己認識、潜在力の自覚、意義深い人間関係の確立、どのような目的であれ、意志の内的な育成は全体性の為に意図されるべきです。しかし、個々の要素については柔軟性を持ち、絶えず変化する状況や条件に適応していく必要があります。このような態度を持つことで、あなたは寛大な精神を持ち、相手から、あるいは自らの真の自己から発せられる様々な生命力が調和的に働くことを許せるでしょう。

さあ友よ、これらの言葉をよく学んでください。私が学ぶと言う時、単に知的な理解には留まりません。知的な理解は多くの場合、内的な吸収を阻み、ひいては成長も阻害します。私がお話しすることを、あなたの最奥の自己で感じてください。この全てに沿って生きるよう自らを強制してはなりません。むしろ、あなたが何処で、いつ、どのように逸脱するのかを批判なしに、あるいは直ちに違う自分になることを強要することなしに気づいてください。ただ、それを見るのです。この道で個人的なワークを進めるにつれ、あなたは更に深い理解を手にするでしょう。この視点から、あなたは自らをより理解し、ひいては他者や人生をもより深く理解できるようになるでしょう。

さて、このテーマに関して質問はありますか?

質問:この強迫的な過剰に与える態度は、サディズムに繋がる可能性はありますか?一方で、これは宣教師には典型的でしょうか?

答え:最初の質問に関しては、話を単純化し過ぎているようです。更に、それがサディズムに繋がるというのは誤りです。しかし、人間の精神の内のあらゆるものは相互に繋がっているので、場合によっては、何らかの関連性が見つかることもあるかもしれません。同様に、マゾキズムに繋がる可能性もあります。ご存知の通り、サディズムとマゾキズムは同じコインの表裏に過ぎず、人間の魂のひとつの側面ではなく、多くの側面によって条件づけられ、引き起こされます。

ふたつ目の質問についてですが、あなたが言っていることの内には真実があります。他者に何かを強制したいと思う時、それが愛であれ信念であれ、それは身勝手さから生じます。そのような人は、強迫的な衝動によって行動します。全ての宣教師が必ずしもこの傾向を持っているとは言いませんが、多くにこの傾向があるでしょう。あなたが愛や救済を提供する場合、個人の意志や考えが他者からは歓迎されないことを受け入れるのには叡智が必要です。他の多くの人々よりも成熟と叡智が必要であり、それ以上に、他者の不完全さにおいて本人の自由を許すには、あなた自身の自己認識が必要です。

教義に関しては、その教義がどんなに美しく聞こえたとしても、例えそれが正しい教義であったとしても、外から押し付けられた教義ほど、スピリットと魂を損なうものはありません。これについては以前にも度々お話ししましたが、内的成長と自由は、自分自身でいることでのみ得られるということを強調し過ぎることはありません。このような道を通して、あなたは言葉で説かれる教義を内面的に経験するようになるでしょう。それこそが本物で、更なる成長を促す唯一の信仰です。

質問:愛の根底にある意志について話された時、それは欲望、願いによって育まれると仰いました。しかし、意志は又、経験や判断によっても育まれるのではないでしょうか?このことを尋ねる理由は、愛について話す時、感情面での不一致についても触れなければならないからです。

答え:勿論、意志はあなたの最奥のニーズだけでなく、経験や学びによっても育てられます。どれがあなたの真のニーズなのかを特定するのは、非常に重要な洞察です。あなたの今のあるがままのニーズが子どもじみた未熟なものであったとしても、それを認める方が自分自身にとってずっと良いことだとは知っている筈です。しかし、それを実行に移すべきだという意味ではありません。そのニーズが存在していることに十分に気づいてください。こうして、ニーズは意志へと変容します。例え、意志に持ち込まれた本物のニーズが不完全で未熟なものだったとしても、それは教育的な影響力、あるいは何らかの理由で受け入れた他者の意見で決められた、外から押し付けられた成熟した健全な意志よりも、より健全だと言えます。このような押し付けは、これまで何度も話し合ってきた、自己疎外へと繋がります。あなた自身の個人的な過去の経験から、パターン、イメージ、先入観によって左右されて、判断を誤ることがあるかもしれません。限られた経験やそれらに対する偏った見方は、あなたに現実の自由を与えてくれません。それは、あなたが改めて人生と出会い、真の意味で視野を広げ、可能な限り人生を十分に経験する能力を広げる妨げになるかもしれません。しかし、例えどれだけ未だに不完全な自分でも、自らの真実を生きるのであれば、その時々に感じる自分自身の本当の姿と欲求への自発性と気づきは、あなたを制限という束縛から、先入観から、狭く硬直した見方から解放してくれるでしょう。これらは全て、自分自身から目を背ける結果として生じるものです。

あなたが知っていること、正しいと思うこと、限られた過去の経験に基づいて、自らの意志を操作するならば真の自己の自発性は損なわれます。真の自己が何か非生産的なことを望んだ場合、それを行動に移す必要はありませんが、あなたではない何かを意志することよりも、その事実に直面した方が遥かに健全でしょう。もしあなたの意志が恐れによって決められているなら、あなたは真の願い、あるいはその背後にあるニーズにも到達していません。もし、あなたが内側の子供じみた感情によって、自らが経験していない外から押しつけられた何かで自らの意志を決めているならば、あなたはその押しつけを捨てることよりも、遥かに大きな困難に直面するでしょう。何故なら、そうして初めて、その幼稚さを乗り越え、まさにその幼稚さそのものが、自らを超越して成長するための魂の力を取り込むことができる領域へと到達できるからです。

不一致についての質問に関しては、あなたが何を知りたいのか分かりません。

質問:私の子どもじみた欲望、愛、意志が、相性的な不一致がある人間関係に向けられた場合、全てが間違いであると言えるのか。この言葉で、私の言いたいことは伝わりますか?

答え:このレクチャーで私がお話ししたことを本当に理解すれば、その質問の答えは得られるでしょう。そのような不一致が生じるのは、お互いにとって実現不可能な関係の中に片方、あるいは双方の意志が無理やり囚われるからです。このふたりの間に別の関係性もあり得ますが、強い意志の力がその本物の可能性を押しやってしまいます。本物の可能性は、意志が別の何かに向いているので認識されないのです。現実は、あなたが望む形に収まる筈です。こうして、不一致の問題が生まれます。

質問:幼い孫のことで質問したいと思います。彼は、殆どの時間を恐れの中で生きています。この恐れの為に、しょっちゅう体調を崩します。この恐れとは、彼が愛する人々、大切に思う人々全員が、互いに敵対し合っているというものです。彼が片方を愛すれば、他方が離れてしまいます。彼は常に心を裂かれています。何か良い方法を示して頂けますか?

答え:あなたが既に知っていること以外に、私が言えることは何もありません。しかし、できるだけお手伝いしましょう。まず、彼が恐れていることは正しいという事実に、あなた方が十分に向き合う必要があります。それは、彼の作り話でも想像でもありません。この事実を表面的に認めるだけではなく十分に向き合えば、それだけで、彼のみならず関係者全員に癒しの効果がもたらされるでしょう。

この事実と十分に向き合うと、あなた自身の罪悪感という問題に出会うでしょう。この罪悪感も又、完全に意識化されねばなりません。このような意識は、以下の問いを浮き彫りにするでしょう。「私自身の不完全さのせいで、この子の内面に問題を引き起こしてしまったのだろうか?そのような事実を抱えてどう生きられるのだろうか?」この切実な問いを無意識に認識している為に、あなたはそれに直面することを避け、まさしく子供の恐れの原因となっている破壊的な感情を益々強迫的に排除しようとするのです。破壊的な感情を強迫的に排除しようとすればする程、あなたは一層、実際には感じていないことを感じる振りをしなければならなくなります。そしてこのことで逆に、彼だけでなく、あなた方全員の問題を悪化させるのです。周囲の恐れと罪悪感を増幅させます。しかし、自らが感じていることに向き合い、その根源まで探って十分に理解できれば、違うように感じられる随分前から、周囲の雰囲気は変わり始めるでしょう。そのような探求は、罪悪感と、自分自身や他者への批判がない状態でのみ可能です。これはきっと彼を助けます。

あぁ、あなたは彼に多くのことを話せるし、彼は確かにこの点において、並外れた理解力を持っています。しかし、あなたが「今何があるのか」に向き合い、誰かを道徳的に非難することなく自らの未熟さをただ受け入れ、そうすることでよりそのことについて学ぶのでない限り、あなたが彼に何を言っても実際の助けにはなりません。このような活動は、彼の恐れを生み出している張り詰めた雰囲気を和らげるでしょう。この緊張は、その根本を十分に理解していないが為に、強迫的に未だそうではない自分になろうと努めることから生じます。あなたの成長のゆっくりとしたプロセスを受け入れましょう。強迫観念と焦燥感を手放してください。それによって、敵意という不完全な感情の害は、それを克服しようとする強迫観念よりも害を及ぼすことが少なくなります。

このような心構えでいれば、あなた方と同じく彼も又、今の人生に彼自身の未解決な問題を持ち込んでいることを真に理解できるでしょう。環境は、既に存在するものを顕在化させるだけです。そもそも存在しないものを顕在化することはできません。あなた方が自らの問題を生き抜かなければならないように、彼も自らの問題を生き抜かねばなりません。不完全な両親や環境的条件は、単に問題を表面化させただけです。しかし、この真実が個人的な経験になるのは、あなたが自らの抱える焦燥感、自己受容の欠如、他者の道徳基準を満たして認められようとする依存、罪悪感、恐れを取り除くことができた時だけです。その時まで、あなたは自己認識と自己受容のワークを静かに探求することで彼を助けることができます。

あなたはこれら全てを知っている筈なのに、日々の些細な感情に対しては、その存在に気づくこともなく、ひいてはその深い意義にも気づかぬまま、ただ見過ごしてしまいがちです。これで、互いに与え合っている影響を認識できるようになるでしょう。あなたの視点、あなた方全員の視点は、未だ制限されています。これは、あなたが未だに本当には考慮に入れていないことです。

質問:それは私個人のことですか?あるいは、私達全員ですか?

答え:少なくとも、この自己発見のワークをしているあなたと、あなたの娘さんのことです。あなた方ふたり共、自分自身についての発見の中で、彼が恐れているものが実際にそうであることを知りました。あなたは忠誠心の分裂というパターンを辿りました。今やあなたは、それが事実であるだけでなく、何故そうなのかもある程度理解しています。これは大きな進歩です。しかし、あなたは未だ、それが他者に与える影響を理解したり、経験したり、繊細に感じ取ってはいません。そのような理解が、子供を助けるのです。道徳化をしない理解です。

質問:数秘学のように、特定の数字は好ましく、それ以外は好ましくないというものはありますか?

答え:そのようなことは絶対にお勧めしません。強くお勧めしません。

質問:例え親がどれ程善良で、親切であったりしたとしても、子供が親に対して反応や神経症を起こすのは、自然の摂理なのでしょうか?

答え:違います。これは確実に自然の摂理ではありません。これも又、人間とは何か、人生とは何かについての完全な誤認を示します。それは人間の仕業です。ある子供達が最善で、最も好ましい状況にありながら神経症のような症状を持つ一方、極めて好ましくない状況の子供達に神経症的な症状が比較的少ないのは何故か。勿論、人間は誰しも神経症から自由ではないので、皆無とは言えませんが、上記の理由を理解する唯一の方法は、人は一度生まれるのではなく、未解決の問題を抱えて何度も生まれ変わるということです。これらの問題をあなたに与えたのは、自然ではありません。

質問:かつてあなたは、この地球上でこの道を歩む方が、スピリットの世界で歩むより容易だと話されました。しかし、私達の愛した人々も又成長し続けていると、私達は知っています。彼らも又、自己実現を目指してワークしており、私達のワークによって助けられています。これがどのように機能するのか説明して頂けますか?

答え:成長と自己発達は、存在のあらゆる領域である程度は起こり得ます。しかし、妨害や障害が最も強い領域でこそ、本人が成長を望むならば、その成長は最も効果的になり得ます。妨害や障害が無ければ、深く埋め込まれた問題が表面化することはありません。それは顕現できないので、あなたもその気づきは持てません。その気づきがなければ、その問題から成長して抜けることはできません。これは全て、以前にも説明しました。

肉体なしで生きるスピリットの領域では、物質がもたらす妨害と出会わない人生を送ります。障害がなくても、ある程度の成長や発達は可能ですが、地球上での成長や発達の程度には達しません。物質は常に存在する妨害なのです。それは抵抗です。私達は心理的抵抗についてお話ししましたが、それはひとつの側面、抵抗のごく一部に過ぎません。地球上の人生、物質における人生は、ひとつの抵抗です。どのようなものであれ、抵抗がなければ、あなたは生きることすらできません。しかし、抵抗し過ぎた場合、それ相応に自らを損ない、抵抗の程度が限度を超えた場合、やはり生きることができません。地球上での生命は強過ぎることも弱過ぎることもない、適度な抵抗の均衡を必要とします。意志についても同じことが言えます。意志とは物質の抵抗、分離の抵抗を克服する力です。意志が強過ぎると有害であり、弱過ぎると物質の抵抗を十分に克服できません。抵抗があるからこそ、より早く成長できるのです。抵抗と共に進むよう学ぶことで、あなたは正しいレベル、適切な均衡で内面的に発達します。言うまでもなく、これは脳で理解できる規則、規制、法則、教義によって学べるものではありません。これは、あなたが今歩んでいるパスワークのようなものから発達する内的な感覚です。それは直感的なものであり、学ぶものではありません。あなたは自らに必要な抵抗の特定な度合いに合った、適切な流れに馴染むように成長していきます。その度合いは、全員違います。それぞれの人には固有の振動、あるいは周波数があります。それは、彼または彼女の外的及び内的な存在全体としての総和です。この固有の振動に応じて、抵抗は物質の一般的な抵抗とも合わせられねばなりません。あなたが生産的かつ調和的に生きる程度に応じて、あなたの波動は物質の一般的な抵抗とも調和するようになるでしょう。これが、地球上での発達が遥かに早く進む理由です。

皆さん一人ひとりに祝福を。これらの言葉が、再びあなたの存在の最奥に響き渡りますように。あなたにとって実りあるものとなりますように。おそらく直ぐではなく、数か月後、あるいは数年後かもしれませんが、あなたの自己発見のワークにおいて、私が今夜お話ししたことを真に理解する時が来るでしょう。平和の内に、最愛の皆さん。神の内にいてください。


###


以下の注記は、Pathwork®の名称およびこのレクチャー資料の使用法を示したものです。Pathwork®の商標/サービスマークは、The Pathwork Foundation(パスワーク・ファウンデーション)によって所有され登録されており、The Pathwork Foundationの書面による許諾なく使用することはできません。The Pathwork Foundationは、その単独裁量権において、Pathwork®の商標を、協力団体やその支部のような他の組織および個人による使用を許可します。

著作権にかかる規定
Pathworkのガイドの著作物は、The Pathwork Foundationの所有資産です。このレクチャーは、The Pathwork Foundationの商標、サービスマークおよび著作権ポリシーに準拠して複製され、いかなる方法においても変更または省略することはできません。また、著作権、商標、サービスマークおよびその他あらゆる公示の削除は許可されません。
レクチャーを提供される側は、複製と配布のための費用のみを支払うこととします。The Pathwork Foundationのサービスマークまたは著作権で保護された資料を使用する任意の個人や組織は、The Pathwork Foundationの商標、サービスマークおよび著作権ポリシーを遵守することに同意したものとみなされます。これに関する情報またはこのポリシーを入手するには、The Pathwork Foundationにご連絡ください。Pathworkという名称の使用は、the Pathwork Foundationによって承認される変容のプログラムを修了したファシリテーターとヘルパーにのみ許可されています。

日本語版の取り扱いについて
Pathwork in Japan (パスワーク・イン・ジャパン) の許可なしに、無断でコピー(複製)、貸与、頒布、販売することを固く禁じます。また、文書およびインターネット上(ウェブ、メール)での引用・転載を含む公開も禁止します。

また、本レクチャーの受領者は、英語版から日本語版を作成する際に発生する複製・配布・翻訳などにかかる費用をご負担いただきます。

さらなる情報やPathworkへの参加については、Pathwork in Japanにお問合せください。
ウェブサイト:https://www.pathworkinjapan.com
お問合せ先 :pathworkinjapan@gmail.com

※ガイドレクチャーに関するお問合せはメールで承っております。下記メールアドレスまでお願いいたします。
pathworkinjapan@gmail.com

© Pathwork in Japan All Rights Reserved.

bottom of page