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Pathwork in Japan
No.105 多様な発達段階における人類と神との関係
Pathwork Guide Lecture No. 105
1996年版
1962年6月8日
多様な発達段階における人類と神との関係
HUMANITY'S RELATIONSHIP TO GOD IN VARIOUS STAGES OF DEVELOPMENT
親愛なる友人の皆さん、こんにちは。皆さんに神の祝福を。この時間は祝福されています。皆さんの努力とワークは祝福されています。
今夜のレクチャーを始める前に、自己認識の道を歩んできた友人の皆さん全員に、霊的世界からの感謝を表したいと思います。これはまさに感謝すべきことです。世界全体において、各個人の自己認識を深める小さな一歩程、大きな助けとなるものはありません。その方向への皆さんの努力ほど、苦しみや混乱を解消する為の役に立つものはありません。自分自身の真実と、そして今この瞬間の現実と向き合いたいという誠実な欲求こそが、自らを助けるだけでなく、あらゆる状況を改善する唯一の方法です。これ以外に、争いをなくす方法はありません。この一年、皆さんはこの点で進歩しました。一人ひとりが、自分自身への洞察を少しずつ獲得しています。程度の差こそあれ、誰もがありのままの自分と、より向かい合えるようになっています。確かに完全にとは言えないかもしれませんが、確実に一年前より成長しています。おそらく実感できる以上に、実り多い一年でした。この活動の一時的な中断を経て、来年は、ありのままの自分と向き合う力という方向性で、更なる進歩をもたらす一年になると信じています。進歩と言う時、それは、未だなれない自分になろうとする努力を霊的進歩であるという誤った信念で、自分自身から目を背けるのではなく、自らを見る為の障壁を取り除くことを意味します。
日常生活には、自ら感じようとしていることではなく、ありのままの自分自身を見つめ、本当に感じていることを確かめる為の多くの機会が与えられています。あなたがすべきことは、常にこの内なる現実に注意を向け、その気づきを深めるよう自らに言い聞かせることだけです。実り多い来年の一年間を経て、友人の皆さんの多くは、おそらくあちらこちらの防御や抵抗を克服し、感情のより深いレベルへと入り、自らの存在とその意義に気づくようになるでしょう。最初の恐れに止められずに進み続け、向き合い、吟味し、抑圧せずにそれを受け入れることで、恐れが不合理であることが証明されれば、この更なる理解は、あなたを益々自由にすることでしょう。
皆さん、ここで今夜のテーマに移りましょう。今夜は、人間が経験する発達の周期、そしてその多様な段階における、人間と神との関係についてお話ししたいと思います。前回のレクチャーでは、大いなるサイクルの第一段階として、無自覚の状態についてお話ししました。最初の数回の転生の間、原始的な人は、未だ無自覚に近い状態にいます。彼はその日暮らしで、その瞬間のニーズを満たすことで精一杯です。マインドが未発達で、その為、問いを立てたり、疑ったり、考えたり、識別する能力を備えていません。彼は今を生きていますが、気づきはありません。今この瞬間を意識的に生きる為には、様々な段階をたどる必要があります。
人間がマインドを発達させるにつれ、まずは文明の発展に伴って益々差し迫る、即時的なニーズを満たす為にマインドを用いるようになります。言い換えれば、最初は具体的にマインドを使い、後になると抽象的に使い始めます。人は、人類が太古の昔から抱えてきた重要な問いを投げかけ始めます。「私は何処から来たのか?どこへ行くのか?人生の意味は何だろう?宇宙の意義は何だろう?」というような問いです。人は自然を認識し始め、その法則も認識し始めます。自然の法則の壮大さを観察します。そして疑問を抱き始めます。この最初の疑問は、創造主との関係に向かう最初の意識的な一歩を示します。「この法則を創ったのは誰なのか?これら全てを作ったのは誰なのか?この創造に、何らかの超越的なマインドが関わっているのだろうか?」そのような問いから、神に関する最初の概念が生まれます。そして、人がそのような無限の優越性、叡智、知性を持つ者がいる筈だと結論付けた時、彼はその至高の存在と関わる必要があると感じるのです。
しかし同時に、人間の霊的かつ感情的な未熟さが生み出す恐れや、その他多くの問題のある感情が、この至高の創造主という概念に色付けをしていきます。一方で、人間は自分の代わりに考え、決断し、責任を負ってくれる権威を望んでいます。自己責任から解放されることを期待して、この権威にしがみつくのです。他方では、人生への恐れや、人生に対処できない自らの劣等感が、この神に投影されていきます。人は、自らが目にするあらゆる自然の法則を創造した、この計り知れない程に賢く優れた創造主のパワーを感じます。未だパワーと残酷さを区別できない為、彼は自らが投影したこの神を恐れ始めます。こうして人は、この想像上の神のイメージを宥め、おだて、従属し、それによって征服されるようになります。
要約すると、最初の覚醒の段階は、人間に疑問をもたらします。このような自発的な疑問や認識の経験の中で、人は多くの場合、本物の神体験や、神との関係性を経験します。しかしその後、葛藤や恐れが募り、欲求が切迫したものになるにつれ、これらの感情や態度が最初の神体験を色づけし、彼は最早本物の、自然発生的で、創造的な体験に基づいた関わりではなく、彼自身の投影に基づいて、神と関わるようになります。
マインドが一方的にしか育たず、意識の奥底に隠された問題や葛藤を解決する為に使われなければ、神との関係は益々偽りのものとなります。それが個人的なニーズ、希望的観測、恐れに基づいている為に、それは偽りなのです。これが進めば進む程、意識的であろうと無意識であろうと、神の概念は誤ったものになっていきます。最終的には、真実よりも教義が勝る、迷信となることでしょう。
これが延々と続くと、人間は本来の真の経験や認識が迷信に変わり、神を茶番にする状態になります。この傾向を続けられなくなった時、それまでに成長していた知性が、その状態を永続させることを阻むのです。知性はこう言います。「私達の人生を導く父なる神なんてあり得ない。全ては私達次第だ。私達の責任なのだ。私達には自由意志がある。」そして反動が始まります。多くの場合、人間は正反対の極端に走り、無神論者になるのです。
無神論の状態には、ふたつの形があります。(1) 人生と自然、自然の法則と創造の意義に対する認識と知覚が完全に欠如している状態。(2) 自己責任を否定するような迷信的な神のイメージや、人間の自己投影に対する反発の状態。後者の無神論は、それ自体が誤りであるとはいえ、神への信仰とは異なる、より発達した段階を示しています。これは主に、恐れ、回避、現実逃避、希望的観測、自己責任の否定から生じます。後者は大抵より現実的で、神との真の体験や関係に至る過程で、必要な過渡期となります。この段階では、個人の成長にとって極めて重要な能力が培われます。私が無神論を擁護している訳ではありません。子供じみて、執着的な、神への信仰を擁護している訳でもありません。どちらもひとつの段階です。それぞれの段階で、魂が学ぶ重要な何かがあるのです。マインドの表層が両極端な偽りを必要としなくなった後にも長く保たれる、生産的で永続的なものが魂に刻み込まれます。
無神論の第二段階では、人は自己責任を引き受けることを学びます。人生を導いてくれる望みの手を手放し、自らの過ちがもたらす結果から自らを解放します。それは、規則に従順であれば報われるという期待を手放すことになります。同時に、罰を受けることへの恐れからも解放されます。ある意味、それは彼を彼自身へと戻すことでもあるのです。
ところが、この段階もある時点を過ぎると、無神論という概念を最早維持することは不可能となります。いかなる思考、概念、科学的事実、哲学も、論理的な終着点や結論まで突き詰めれば突き詰める程、非真実や半分の真実、ある時期には健全に機能していた一時的な状態さえも、維持することが難しくなるのです。ここで簡単に説明した様々な段階を通り抜けると、人は必ず、自らの動機に問いかけ、自分自身を見つめ、自らの内を見つめる為にマインドを使うという境地に至る筈です。従って、人は内なる現実と向き合うことで意識を育てます。そのように進むことで、人の精神のより深い層は次々と解放されます。この解放において、真の神体験は必然的に訪れます。この真の神体験は、マインドが恐れて、弱さや希望的観測から創り出した自己投影的な神に対する子供じみた信念とは全く異なります。人は最早、神が自分に何かを要求し、期待しているから行動するのではなく、今を生きるのです。自らの不完全さを恐れず、そのことで神に罰せられる恐れを持ちません。半狂乱になることなく、不完全さを見ることができるのです。そのことの害を理解しながらも、恐れることなく、彼はやがて、不完全さそのものが有害なのではなく、その不完全さに気づかないこと、罰せられることを恐れ、不完全さを超越しようとするプライドが有害なのだと気づくでしょう。不完全さを乗り越えることに必死ではないからこそ、彼は自らの不完全さを落ち着いて観察し、その背景と存在理由を理解することができるでしょう。このプロセスを通して、彼はそこから育って行きます。このような態度を育むことで、真の神体験は可能になります。一方で時折、神体験を垣間見たり、感じたりすることは、自分自身に対する適切な態度を促進します。
この真の神体験とは実在そのものです。罰や報い、あるいは人間の努力を取り去る為に特定のやり方へと人を導くような、行為する実在として神が認識されることはありません。彼は神が在ると気づくのです。友よ、これを言葉で説明するのはとても難しいことです。私にはこのような形でしか言いようがありません。まずは何であれ、不完全で子供じみたものに向き合わなければ、神が在るという感覚にたどり着くことはできません。
ここで大まかに説明した各段階が、きれいに順を追って続くだろうと考えることは誤解を招くでしょう。それらは重なり合っています。人間の人格はひとつのレベルだけで出来ている訳ではないので、必ずしもこの順序で続くとは限りません。ご存じの通り、人格は矛盾に満ちています。人格の様々な層は、この点においても、その時々で異なる態度を示すものです。従って、人生のある時期には、人は意識的にはある段階にいながら、無意識的には別の段階にいる可能性があり得ます。このような自己認識の道を歩んで初めて、この隠された無意識の段階が表面化されます。このように後になってから、以前の段階に属するように思えるものが現れることはよくあります。これは、ある必要な段階が完全に生きられず、外側からの影響や圧力によって抑えられたことに起因します。ですから、私の説明は、あくまでも漠然とした全般的な概要に過ぎません。あなたが理解したことだけで、自分自身や他者を裁かないように気をつけてください。しかし、概して言えば、これは人類が繰り返してきたサイクルです。
自己認識は、最終的には気づきの中の実在の状態に繋がる筈です。同時に、神との新たな関係が生まれます。神は実在として経験されます。繰り返しますが、今という時を、まずは否定的な形で経験しなければ、その境地には到達できません。あなたが学んだ概念、観察した哲学や実践、従った教義によっても到達することはできません。現在の混乱、過ち、苦しみを生き抜き、その中に存在し、それに向き合って理解しようとしなければ、決して神の内に在ることはできないのです。言い換えれば、一時的で不快な現実と向き合わなければ、葛藤なしに幸福、平和、創造性の状態を得ることはできません。そのようにして初めて、大いなる「現実」が経験され得るのです。最初は時折、漠然とした形でそれは現れるでしょう。しかし、それはあなたに神への新たなアプローチと関係性をもたらします。それは神に対するあなたの態度や概念を変えるだけでなく、あなた自身や人生における境遇についての概念も変えるでしょう。
言うまでもなく、人間と神との関係において、祈り、すなわち神への語りかけも又、これらの段階を辿ります。祈りは、様々な段階の表現です。地球上の他のあらゆるものと同様、多くの場合、人間は内面では既に新しい段階に達しているにも関わらず、外見上は、未だに古い習慣的なパターン、つまり以前の段階で身につけたパターンに固執していることがあります。これは人の祈り方だけではなく、内面では既に超越しているにも関わらず、意識的には執着している特定の概念にも当てはまるかもしれません。マインドは習慣を形成します。習慣はマインドの本質的な性質です。実在から生じる経験は、決して習慣を形成しません。習慣を形成するのはマインドだけです。習慣を形作る性向と相まって、記憶は、真の霊的経験においてマインドの危機です。柔軟であればある程、型にはまった習慣パターンに陥ることは少なくなります。かつて経験を与えてくれた、古い概念や考え方に固執し、しがみついて再現しようとすることが少なくなるのです。
今、自分の中にあるもの、それが神であれ、人生であれ、自分自身であれ、それが何であろうと向き合う訓練を重ねるならば、生産的な生き方を阻む習慣パターンから解放されます。それは全て同じであり、それは実在そのものなのです。特定の経験をマインドに深く刻み込み、その経験を硬直したイメージにしたのは、習慣ではありませんか?誤認、誤った結論、せいぜい半分の真実に過ぎない一般化に固執するのは、習慣ではありませんか?友よ、これは多くの物事に当てはまります。
再度強調しておきたいのは、自らの内でそのような誤ったやり方に気づいた時には、罪悪感や焦り、「そうするべきではない」と感じることに注意してください。この態度こそが、最大の障壁であり、全てを上回る障壁なのです!
さて友人の皆さん、ここで質問に移りましょう。
質問:あなたが説明してくださったスピリットと自由意志について、私はとても宗教心の篤い人と、科学者の人に説明しようとしました。すると彼らは、もし神が全能で愛情深いのであれば、未来についても知っている筈だと言いました。未来を知っているなら、私達に自由意志を与えた以上、私達がそれをどう使うのか、神は知っていた筈ではないかと問われました。私はこの疑問に答えられません。
回答:そもそも、未来は時間の産物であり、時間はマインドの産物です。従って、現実においては、未来は存在しません。過去が存在しないのと同じです。殆どの人にとって、これは理解し難いことだと承知しています。マインドの外には実在があります。過去も現在も未来もなく、今だけがあります。これはせいぜい、知性ではなく感覚によって、漠然と感じ取ることしかできません。
更に、この疑問はまさに、このレクチャーでお話しした同じ誤解から生じています。それは、行動する神が為すという概念です。創造とは、真の意味で行動ではなく、ましてや時間に制約される行動ではありません。神がスピリットを創造した時、それは時間からもマインドからも外にあり、実在の状態にあります。この意味において、それぞれのスピリットは、神の如く自らの人生を創造するのです。神は何かを奪ったり、付け加えたりすることはありません。
更に付け加えねばなりません。痛みや苦しみをそれ自体で恐ろしいものだと信じるのは、人間の完全な幻想です。私が言っていることを理解しようと試みてください。人間の苦しみへの過度の恐れは全く非現実的であり、これも又、マインドが誤って生み出したものです。人間が痛みや苦しみを恐れる主な理由は、それが自分とは何の関係もなく、自らの責任ではないにも関わらず、それは降りかかると信じているからです。言い換えれば、それは不当であり、カオスのような偶然だと思うのです。しかし、自らが体験するあらゆる痛みが、真実と現実から目を背けていることに起因すると認識した時、原理として理解するだけでなく、実際にその繋がりが理解できた時、その人は最早それを恐れることはなくなります。彼はその鍵を使い始めるずっと前から、その鍵を見つけます。最早、自分にはどうしようもないと感じる人生の理不尽に対して、身を守ろうとはしなくなるでしょう。従って、彼の苦しみは全く新しい様相を呈し、生産的なものへと変わるでしょう。
こうして、実際の苦しみは、それに対する恐れや態度の半分も恐ろしくはないことに、人は気づきます。多かれ少なかれ、あなた方の多くはこれを経験しています。何かが起こる前に恐れることは、実際にその経験を通り抜けるより遥かに酷い経験だということです。そして又、一度自らがどのように痛みを生み出したのかを完全に理解すると、その痛みが全く新しい様相を呈することも経験しました。完璧主義や道徳観、正当化を捨て、この一連の出来事を内省的に観察すれば、外的な状況は変わらなくても、痛みは瞬時に和らぎます。現実を真に受け入れる時、同じ様に人生の不完全さも受け入れることができるのです。不完全さへの抵抗がなければ、多くのパターンは変化し、自らの苦しみも減らせます。しかし、人生は完璧であるべきだという、意識的あるいは無意識的な期待が、あなたに反抗や抵抗、そして障壁を築かせるのです。その結果、本来なら人生に存在しなかった不完全さや、苦しみを増やす原因となるのです。つまり、苦しみ、人生、人生と自分自身に対する自らの立ち位置への態度が、どのように苦しみを経験するのか決定づけます。もし苦しみに対する人間の態度が歪んでいなければ、マインドと物質を克服する為に解決せねばならない問題の美しさに気づくでしょう。それらは、あなたの地上の人生において最も美しいものです。自らの抵抗や盲目さ、自己認識の欠如を克服する時にのみ、人生の美しさが経験できます。例え、幸福や充実感を味わう時に、困難な時期を通り抜けねばならなかったとしても。
人がこの理解に至ると、先程のような問いかけはしないでしょう。その問いは、あまりにも混乱しており、現実に対する盲目さと認識の欠如があり、霊的な未熟さを示している為、問いかける者にとって納得できるような答えは得られないのです。マインドの領域を超えているものを、マインドで理解することはできません。理解するには別の能力が必要ですが、そのような能力の実在が否定されている限り、どのようにその人を最終的な理解に導けると言えるでしょうか?
この問いには、人類の永遠の葛藤、すなわち宗教的概念における葛藤が内在しています。神は全能の父であり、意のままに行動し、神の法則に従えば報いを与え、謙虚に求めさえすれば、あなたが自らの内的人生に能動的に関わらなくても導いてくれる筈だという、人間の前提があります。その一方で、人間には自由意志があり、自らの運命を形作り、自らの人生に責任を負うという前提もあります。宗教的な教師は後者を教える一方で、人間に特定の定められた規則に従うことも強制して、自由な意思決定と自己責任を同時に損なってしまいます。この一見相反するふたつの概念の間で、人間は混乱します。あなたの質問は、そのような混乱の典型的な例です。
全能の創造主と人間の自己責任は、時間軸の中で、マインドを通して捉えた時にのみ、互いに矛盾するものとなります。全能の創造主が、時間軸の中で、マインドから見て、人間のように振る舞うと認識される時です。実際に、実在の状態において両者の間に矛盾等ないと感じる為に、わざわざ意識的な状態になる必要はありません。あなたがすべきことは、抵抗せず、ありのままの自分以上の存在であろうと装わず、現時点での自分以上に完璧であろうと努力することなく、ただ自分自身と向き合うことだけです。そのような自由の中で、それぞれの個別の側面を見つめる時、あなたは実在の状態へと導かれ、この問いかけのような矛盾がない存在として、神の真理を内的に知覚します。そうすれば、完全な自己責任が、至高の存在を排除するものではないことを深く知るでしょう。内的に準備ができていない人は、私がここで言っていることは決して理解できないでしょう。
この点に関して、あなた方の幾人かは疑問に思うかもしれません。何故、肉体を持った状態であれ、あるいは人間の霊媒を通した肉体がない状態であれ、偉大なスピリット達が偉大な叡智を伝えてきたにも関わらず、その教えが、私が語る大いなるサイクルの一時的な段階をむしろ奨励しているように見えるのかと。彼らの教えは、人々をその未熟な段階から引き上げるのではなく、むしろその段階に合わせて調整されていました。当然、何故そうなのか疑問に思うでしょう。答えは、それぞれの段階が徹底的に経なければならないということです。段階を飛ばすことは強制できません。そうでなければ、吸収されないものが魂に残り、後になって現れるからです。仮に、あなた方がこの数年に経験してきたような成長を遂げていない人々がここにいたとしましょう。例えば、神との関係について語ろうとしても、それは全く意味をなしません。あなたにとっても稀なことかもしれませんが、自己非難や自己正当化のない、真の自己認識の平和を少しも体験したことのない人は、実在の状態の意味を感じることは到底できないでしょう。グループがこの大いなるサイクルの第二段階と第三段階の中間にあるとしたら、スピリットは理解されるような形で語りかけなければなりません。それでも、嘘をつくことはありません。しかし、そのようなグループにとって、それ以上の理解は人間的に不可能なのです。グループが徐々に、この段階から自らに向き合う段階へと向かうことでのみ、例えマインドがついて行けなくても、この人々の魂は、より多くの真実を吸収し始めることができるのです。この世界、あるいは別の世界からの霊的なヘルパー達が、皆さんが既に明らかにした段階を促しているように見えることがよくあるのは、このような理由です。
コメント:このレクチャーを一年前に聞いていたとしたら、今のように感じることはなかったでしょう。
回答:勿論です。少なくとも今は、例え稀な瞬間であっても、理解し、把握し、感知するチャンスがあるのです。
より小さなレベルでは、人間は様々なレベルでこれらのサイクルを何度も繰り返します。これらの段階を体験するのは、一度だけではありません。ここ数年、私が皆さんに与えてきたレクチャーも、ある意味、これらの段階を通過していることに気づかれるかもしれません。各段階を通過することで、あなたは鍵となるもの、つまり自己認識のための準備をしてきました。その為の能力、意欲、勇気、動機、そうすることの理由は培われるべきものであり、容易に得られるものではありません。だからこそ、これらの段階が存在するのです。しかし、それが既成の法則として存在する訳ではありません。急がせることができない人間本来の成長のリズムがある為に、それは存在しているのです。それでも、励ましと準備が必要です。抵抗に注意を向けるための助けも必要です。
質問:異なる段階における、祈りの意味を詳しく教えて頂けますか?
回答:それはレクチャーそのものからも明らかだと思います。祈りは、どの段階における意識的な態度、あるいは概念であっても適合します。最初の段階、つまり人間が殆ど無自覚の状態にある時には、神の概念がない為、祈りは存在しません。次の段階では、人間が疑問を抱き、問いかけ始め、その自然発生的に思いを巡らす経験において自らを考察で満たす時、それ自体が祈り、あるいは瞑想となります。それ自体が祈りであり、瞑想になります。次の段階は、至高の知性への気づきかもしれません。この段階の祈りは、宇宙と自然の驚異への賞賛という形を取ります。それは崇拝です。更に次の段階では、心の混乱、未熟さ、不十分さが、恐れ、執着、無力感、依存を引き起こし、希望的観測や貪欲、現実の否定から嘆願が生じ、祈りはそれに応じて表現されます。この状態で祈りが聞き届けられたように見えるのは、神が行動されたからではありません。あらゆる自己欺瞞や回避にも関わらず、ある意味でその人は誠実であり、実在の法則が到達する内なるチャネルを開いたからです。これは重要な区別であり、後の段階で初めて理解されるでしょう。祈りが聞き届けられるかどうかに自らが関わっていることに気づけば、無力感や、人間が創り出して重ね合わせた規則をもって媚びねばならない、頑固な神の気まぐれからも解放されます。付け加えるならば、祈りが聞き届けられたように見えるのは、少なくともその瞬間における、その祈りが向かう特定の領域での葛藤がないマインドの力の表れであることが多いでしょう。
人が自立した段階に入り、人間を罰したり、報いたり、人生を導いてくれる想像上の神を手放し、あらゆる高次の存在を否定する無神論の状態になった時、当然ながら彼は祈らなくなります。少なくとも従来の意味で祈ることはなくなります。その人は自らを瞑想し、真摯に自らを見つめるかもしれません。あなたも既にご存じの通り、これこそが真の意味での最高の祈りです。しかし、無神論の状態にある人間は、全く無責任で、自分自身について考え、顧みることができないかもしれません。彼は、自己逃避の為に神を利用する人と同じ様に、自分自身から逃避するのかもしれません。
人間が積極的に自己認識を追求し、ありのままの自己と向き合う段階に達しても、最初は未だ、助けを乞う古い祈り、つまり、自らすべきことを避ける為の神頼みという祈り方に慣れているかもしれません。しかし、この祈りの習慣が残っていたとしても、その人は自分自身と向き合い始めます。自己と向き合うことがより深いレベルまで到達すれば、その人は徐々に、これまで慣れてきた祈り方を避けるようになるでしょう。通常の意味での祈りを、積極的には行わない段階を経験するかもしれません。しかし、瞑想は行います。多くの場合、それが最高の祈りなのです!自らの真の動機を見つめ、ありのままの感情が浮かび上がることを許し、それらの存在理由を問いかけることで瞑想します。このような活動では、従来の意味での祈りは益々意味を失い、矛盾を孕むようになります。その人の祈りは、自己認識の行動であり、真実の中で自らを見つめることです。その人の祈りは、最も不快なものであろうと、真摯に向き合おうという意図です。それが祈りです。何故なら、真実の為の真実こそが、愛への入口であるという姿勢を含んでいるからです。真実と愛がなければ、神体験はあり得ません。感じられていない真実を装おうとする試みからは、愛は育ちません。しかし、どんなに不完全であっても、真実と向き合うことで愛は成長します。この態度こそが祈りなのです。自らへの率直さが祈りであり、自らの抵抗に油断しないことが祈りであり、恥じて隠していたものを素直に認めることが祈りです。これが進むにつれ、実在の状態は断続を伴いながらも、ゆっくりと現れてきます。実在の状態では、祈りは最早、口にする言葉や思考の行為ではなくなります。それは永遠の今に存在する感覚であり、あらゆる存在との愛の流れに身を委ねる感覚であり、理解や知覚の感覚であり、生きているという感覚です。今申し上げたいくつかの側面に加え、言葉では言い表せない他の多くの感覚があり、最高の意味での祈りを構成している現実を伝えることは不可能です。それは神の現実における、神の気づきなのです。しかし、この種の祈りはいかなる教え、所定の実践、規律を通しても、真似したり、学んだりできるものではありません。これは、自分自身と留保なく完全に向き合う勇気と謙虚さから、自然に生まれる結果です。祈りと実在がひとつである、この最も高次の状態で神と関わる段階に至るまでは、あなたにできる世界で最良な祈りとは、いかなる留保なく自分自身と向き合うことと、あなたの内なるものと自らの意識的なマインドとの間にある偽装を取り除き、又あなたの内なるものと他者との間にある偽装をも取り除く意図を絶えず新たにすることです。友よ、これが道です。
質問:最近、若い従兄弟が悪性腫瘍を患っていると知りました。このグループで彼の回復の為に祈って頂くことをお願いすると共に、私にできることがあるか、彼を助ける為にできることがあるかを知りたいのです。
回答:愛しい人よ、この質問は、今夜そして以前から、私がお話ししてきた全てと非常に矛盾するものです。あなたがそのように感じるのは、確かに理解できます。勿論、あなたも、グループ全体も祈ることはできます。そのような祈りの真価は、相手の最善を願い、相手が苦しむことを望まず、そのような苦しみを和らげる為にできるだけのことをしたいという真摯な善意にあります。そのように意図しているならば、インスピレーションを求めて自らを開いてください。もし、力や慰めを与える方法があるとしたら、それはこのようなオープンさから生じるかもしれません。しかし、私達の観点から見ると、これらの事柄は非常に異なって見えます。現実における一時的な苦しみ、別離、死は、あなたが思うようなものではないのです。時間の中でこの瞬間に、それを痛ましく感じることは良く分かります。純粋な思考と感情、純粋な意図が、効果を及ぼすことは間違いありません。必ずしも、あなたが望む通りではないかもしれませんが、それでも非常に良い影響をもたらします。
質問:彼の死そのものが辛いのではなく、幼い子供達を残して逝ってしまうこと、やり残したことがあまりにも多いのが辛いのです。彼の才能や輝きも。
回答:この人生で成し遂げなかったものは必然的に失われると、あなたは考えていますが、実際そうではありません。自らの生命を断つ訳ではない限り、それが正しく、良いことでなければ、誰もこの地上を去ることはありません。宇宙全体において無意味なこと、生産的でないことは、何ひとつ起きません。無駄というものが存在しないのです。一時的な無駄が存在するとしたら、生命がある間に、それを最大限に活用しない場合に限ります。しかし、肉体を去る人がどんなに若かったとしても、地球の人生を去ることは決して無駄ではありません。あなたがこの言葉を本当に考え、瞑想するならば、これは更なる大きな助けとなり、より慰めになるでしょう。このことは、原因と結果の法則を覆す手段があると私が告げたり、人間が経験するべき特定の段階、つまり関係者全員にとって実り豊かなものとなる経験を避けられるよう、神はあなたを守ってくれる等と言ったりするより、遥かに大きな慰めになる筈です。勿論、私は彼が助けを得られないと言っている訳ではありません。それは私の領域外にあります。必ずしも、あなたが恐れているような結果になるとは限りません。しかし、そうであろうとなかろうと、無駄はありません。後に残される人々にも、意味があるのです。
質問:私たちのグループワークの進捗状況に意見を頂き、真のグループワークとなるよう、よりダイナミックな経験の方法を示して頂けますか?
回答:友よ、お答えしましょう。殆どの皆さんは、このグループワークが計り知れない程重要であることを感じ、経験し始めていると思います。自らの否定的な感情を安全に表出することを許せる、他にどのような方法があるのだろうか?理解のない環境であれば破壊的になるとしても、他の人達のより深い洞察に有益になるように、否定的な感情に捌け口を与えることはできないだろうか?抑圧のプレッシャーを取り除くには、他に何ができるのだろうか?他者を鏡にして、自分自身を理解することを学ぶ為に、他にどのような方法があるのだろうか?表面的なレベルではなく、存在のより深いレベルでのコミュニケーションを最善かつ最速に学べる他の方法はあるのだろうか?これら全ては既に始まっており、このことをマインドに留めておけば、今後数年間で、更に発展させることができるでしょう。昨年度のように今後も成長を続ければ、個人的なワークに加えて、グループワークは益々実り多いものとなり、どんな状況でも欠席したくない貴重な資源のひとつとなるでしょう。様々なグループの進歩は主に、個人の参加と、表面のディフェンスを突破しようという意欲、抵抗を手放そうという意欲、内なる真実を見ようとする意欲、そして正当化、道徳化、合理化、知性化を免じる意欲にかかっています。あなたはこの全てを知っています。この点において、あなたは手探りの段階ではありますが、特定の領域では時にとても良い進歩をとげています。しかし未だ、多くの防衛とプライドが、究極的な成果をもたらすチャネルを本当に開くことを阻んでいます。あなたはあまりにも頻繁に、自らを見過ごします。自らを曝け出そうとしません。真摯な意志を揺らがせずに、私が強く勧める率直さで内なる感情と向き合うにつれて、状況は間違いなく改善するでしょう。従って、グループワークに関する限り、自らの反応をより表現していくことを学ぶよう、更にリマインドしたいと思います。自分自身の反応を観察することを学びましょう。いつも何か理由をつけて、自らの反応を正当化しようとする傾向に気づいてください。あなたの主観性を観察してください。そうして徐々に、あなたは理不尽で、子供じみた、不完全な感情を言い訳なしに表現できるようになるでしょう。そうして初めて、あなたはそれらをありのままの姿で考察し、理解し始めることができるのです。明確に表現する以前に言い訳を準備している限り、あなたが望んでいる解放に不可欠な自己認識は得られません。自らのディフェンスを認識するにつれ、それから逃れようとするのではなく、むしろディフェンスの中、その気づきの中で、自分自身を経験することを学ぶでしょう。これが正しいアプローチです。更なる進歩です。これは現実的な感覚から言えば、感じられないものから無理やり遠ざかろうとするよりも、むしろより啓発的であり、建設的なアプローチです。友よ、繰り返し同じことを言っているのは分かっています。しかし、いくら強調しても足りません。これは常に忘れられる為、絶えずリマインドされる必要があります。この感情の経験、つまり感じていることの中におり、それが意味する所を見つめることが、グループワークの方法です。それによって、より実りある相互関係が生まれます。それは現時点で想像できる以上に、あなたの個人的成長に貢献するでしょう。
この方向で、皆さんは素晴らしいスタートを切りました。このグループワークの初年度は、期待以上の成功でした。しかし、あなた方がより多くの事を成し遂げられないという意味ではありません。続く来年度、この探求に真摯に取り組む皆さん一人ひとりに、より一層の恩恵がもたらされるでしょう。知性から知性ではなく、魂から魂への交流がより築かれるでしょう。
質問:前回そして今回もお話しになった、人間の発展について質問してもよろしいでしょうか?私達の西洋文化は、特別な実在の状態に向かうのではなく、知性や意志に固執することで苦しんでいるように思えます。もしそうならば、この傾向に対抗する為、例えば教育や文化生活で何ができるでしょうか?
回答:皆さんもご存じの通り、それが一般的な傾向であることは確かです。何ができるのか?答えはただひとつです。繰り返しになることを承知の上で、もう一度言わねばなりません。あなたが今行っているように、自己認識を高める以外に方法はありません。感情的に成熟すればする程、意識は高まり、それはあなたから溢れ出て、自然発生的に、創造的に、どのような活動においてもその表現を見つけるでしょう。医者であれ、教師であれ、靴職人であれ、違いはありません。あなたは発言や説教によってではなく、ただ自らの存在によって、自らの発するものによって、周囲に影響を与えます。自己発見の道を歩む人はそれぞれ、この大いなる変化に貢献することになります。皆さんと同じことを、十分な数の人々が実行しない限り、世界を変えることはできません。しかし、人間誰しも、その目的達成を助けています。自らに正直であろうとする努力は、決して自分自身だけに有効な訳ではありません。ちなみに、この変化は既にあちらこちらで始まっています。教義を説き、感情を押し殺し、真の実在の状態は程遠いにも関わらず、善人でなければならないと思っている大勢の人々よりも、皆さんのようなグループは貢献しています。たった5人のグループでも、今この瞬間に居合わせた現実と向き合うことは、皆さんの地球領域のみならず世界全体において、どんなに善意に満ちていても表面的な知性にしか届かない教えや、理想よりも、遥かに大きな貢献をしています。
質問:他者の強情、利己心、冷笑に怒ったり動揺したり、高い地位にある人の不正行為に心を乱すのは欠点ですか?道にある光は、私達全員が属している社会組織の間違いに対して、私達を盲目にするのでしょうか?社会問題に対して、私達の態度はどうあるべきですか?
回答:ご自身の問いをよく考えてみれば、その根底にある感情的依存と道徳化の特徴に気づくでしょう。どういう態度をとるべきか?それは欠点なのか?と自らに道徳を説き、他者に道徳を説いています。良く言うように、根底にある態度がこのように偏っている限り、真の答えは見つかりません。いいえ、自己発見の途上にいるからといって、盲目になる必要は全くありません。盲目になること等できないのです。存在するものに目をつぶり、容認することは答えではありません。答えは、悪を怠惰に受け入れることではありません。しかし、悪に対して反抗することでもありません。反抗している時には、悪を変容させることはできません。せいぜい、確固たる基盤を持たない表面的な改革を行うことしかできず、結局は、同じように誤った結果に行き着き、再び悪になるでしょう。
生産的なアプローチは、自己道徳化の態度を見いだし、それを取り除いた後、自分自身に問いかけます。「私の怒りは本当に客観的なものだろうか?それとも感情に巻き込まれているのだろうか?」それによって、客観的な怒りと主観的な怒りの違いが分かるでしょう。前者には切迫感がなく、客観的で、あなたを落ち着かなくさせたり、苛立たせたりすることはありません。苛立ちを感じ、怒りが個人的にあなたを傷つける時、それは常に、自分自身の中で向き合っていない何かを隠しているということです。このような平安の欠如、この動揺は、常に主観的な怒りの兆候であり、あなたが自らの内に実際に何が起こっているのか認識できていないことの表れです。
これまで幾度となく述べてきましたが、もう一度繰り返さなくてはなりません。自己認識から生まれる内なる成長と変容に支えられていなければ、いかなる集合的な手段も真に世界を変えることはできません。心理的レベルに深く隠された自らの不正、貪欲、利己心、偏向、プライド、恐れに向き合わない限り、いかなる社会改革が実施されようとも、それと同じ態度は世界に現れ続けることになります。社会改革は人間の産物であり、人間によって維持されています。一般的に、人間が外面的には消し去りたいものを内面に隠してしまうと、それは実現の見込みのない矛盾となります。しかし、誤りや悪を取り除く為にできることをするなと言っている訳ではありません。ただ、世界を変えるために本当に必要な事を理解せねばなりません。自分自身と戦っている限り、外的な戦いが結果です。内的に貪欲で利己的で、そのことに気づいてさえいない限り、外的な貪欲さや利己心を排除することはできません。もし、あなたが本当に社会全体の向上に貢献したいと願うなら、行動でできることとは別に、あなたが外的に激しく反発するものと似た状態を、自らの内にも見つけてください。それらはより微かで、形も変えているかもしれませんが、本質的には必ず存在します。それを認識する時、あなたや、あなたのような何百万人もの人々が、世界の病の責任を負っていることを知ってください。罪悪感なく、自己懲罰なく、ただ事実を認識するだけです。外的な改革がどれ程効率的であっても、私が勧めていることをより多くの人々が実行しない限り、永続的な効果は発揮されません。歴史を見れば、その通りであると分かるでしょう。改革や一般的な改善は、人間がより自己責任を持ち、自己認識を高め、より成熟する度合いに応じて、本物で永続的なものとなります。しかし、社会改革が人間の内なる成長より遥かに進んでいる場合、それは一時的な効果しか持たず、消滅したり、最終的には対極にある極端で同じく邪悪な状態に陥ったりする可能性があります。概して言えば、世界とは個々の人間、彼らの内面状態、その時の内なる真実の露出に過ぎません。私は何年も前に、このことをお話ししました。今なら恐らく、あなたもそれをより深く検証できるでしょう。悪を排除しようという試みにおいて、極端から極端へ振れるというこの不均衡こそが、まさに個人の魂の中で起こっていることなのです。人が表面的な変化を試みると、彼は極端から極端へと揺れ動きます。それが良いルールであっても、自らが好まないルールと引き換えに、あるルールを取り入れるならば、それは深意ではありません。その人は、自らが本当に感じていることを探ろうとはしていないのです。このワークで頻繁に直面するように、これはまさに、あなたが世界全体で経験していることなのです。
親愛なる友人の皆さん、ほんの短い間だけあなた方のもとを離れます。とはいえ、内なる成長の継続的なプロセスを止める必要がある訳ではありません。それは、あなたが自分自身、日々の経験、反応、感情にどのように取り組むかにかかっています。何であろうと、この自己観察を続けてください。それを止めたり、自分自身から逃げたりしないように。今のありのままの自分を見つめることで、心に平和をもたらしましょう。それ以外に、本物の平和を現実的に得る方法はありません。しかし、偽りの、幻想に基づく方法は数多くあります。皆さんの殆どは、少なくとも折に触れて、そのような経験をしたことがあるでしょう。あなたの平和の欠如は常に、自分自身と向き合いたくない気持ちから生じます。このことを覚えておいてください。そうすれば、あなたが自らのプライド、見せかけ、抵抗を解消するにつれて、あなたは真実の中にいること、気づきの中にいることの意味を感じるようになります。例え、その瞬間のあなたの葛藤や混乱が生み出す不快な現実であっても、それから逃げ出さずに向き合い、それを生きるならば、不快な現実でさえ平安に満ちたものとなります。それは神なのです。その瞬間の不快な現実、矛盾と混乱の産物でさえ、逃げたりせず、真摯に向き合って体験すれば、その現実でさえ安らかなものになります。それは神です。最終的により偉大な現実への扉となり得るのは、それだけなのです。
これをもって、皆さん全員、皆さんの大切な方々の一人ひとりを祝福します。存在の世界から来る愛、温かさ、真実を感じてください。求めれば、それはあなたのものになります。あなたは今、鍵を手に入れました。それを使ってください!平和の内に、神の内にあれ!
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