top of page

No.106 悲しみvs. 抑鬱 「関係性」

Pathwork Guide Lecture No. 106
1996年版
1962年9月14日


悲しみvs. 抑鬱 「関係性」
SADNESS VERSUS DEPRESSION -- RELATIONSHIP


親愛なる友人の皆さん、こんにちは。皆さんを歓迎し、祝福します。

これまでと同じく、実り多い一年を約束されたこの新たなワークの始まりにおいて、更なる成長と解放が確かに期待できるでしょう。それは、自分自身と向き合いたいと本当に望んでいる皆さん全員に当てはまります。現時点で幸せを感じていなくても、友人である皆さんの多くは、既に大きな進歩を遂げてきました。この夏は、実りの時でした。

皆さんの中には、落胆している人もいるでしょう。「今も以前と同じように不幸で混乱している。この道は私を何処に連れて行くのだろうか?」という問いがあるかもしれません。ふたつのことをリマインドしたいと思います。ひとつは、解放感を感じ、成長を実感している人達も、あなたと同じように感じた時期を経験してきたということです。それでも彼らは諦めずに努力し、今や確かな成果を感じ始めています。ふたつ目のポイントは、停滞を感じる時、それは常に自らの存在の特定の領域と向き合うことへの隠された内的抵抗に起因するということです。その為に行き詰まりを感じるのです。従って、落胆し、停滞を感じている友人達は、非常に正直に次のように自問してください。「私の中には、洞察を妨げている壁があるのではないか?何かを認めることに対して警戒し、正当化して、自己憐憫、絶望、表面的な合理性を用いて、外的状況のせいにしていないだろうか?」注意深く自らを見つめ直せば、停滞の原因は内なる真実を避けていることに原因があると気づくでしょう。それに気づけば、解放と成長へと大きく近づくことができるのです。

表面的な行動ばかりに集中すると、内なる全てと向き合うには徹底した内的意志が必要だという事実を忘れることは簡単です。外的行動を重視することは、自己欺瞞に容易に繋がります。逃避には沢山の形があります。繰り返しますが、このワークの妥当性について、停滞、落胆、抑鬱がある場合、自らの存在の何処かで、あなたは自分自身から逃避しています。この普遍的な抵抗を一歩ずつ克服する人々は皆、自らの成長を感じ、束縛からの解放を感じます。

今夜はまず、悲しみと抑鬱の違いについてお話ししたいと思います。このふたつの感情の明確な違いを、今こそより深く理解することが重要です。

単純なケースでは、悲しみと抑鬱の違いは非常に明確で、皆さんもどちらかを経験した時のことを思い出して、その違いを実感したことがあるのではないでしょうか。しかし、悲しみと抑鬱は同時に存在する為、区別が難しい時もあります。それらは混ざり合い、重なり合っています。悲しみによって、抑鬱ではないと思い込んでしまうかもしれません。悲しみや痛みの感情は、純粋に正常で健全なものであり、否定的で破壊的な要素は一切含まれていないと信じているかもしれません。理にかなった悲しみを感じているにも関わらず、その根底にある原因と共に、自らの内にある非生産的な抑鬱を見出す為には、より深い洞察と理解が必要です。

まず、双方の違いを定義しましょう。あなたは悲しみの中で、自己憐憫に陥ることなく、人生の辛い現実を、自分の力ではどうすることもできないものとして受け入れます。抑鬱ではなく、本当に悲しい時には、あなたはそれを絶望感とは無縁の健全な成長痛として感じられるだけでなく、それが外的要因によるものであり、いずれは過ぎ去るものだと知っています。そこには重ね合わせも、隠蔽も、感情のすり替えもありません。抑鬱の場合、外的状況は同じでも、痛みを感じる原因は外的な出来事とは異なります。外的状況を変えられなくても、傷つき、恨み、羨望、自分自身や他者が犯した誤り等、特定の感情に向き合いたくない真の理由を理解しさえすれば、自らの内的状況を変えることは可能です。

自らの内面で起こっていることを完全に理解しない限り、あなたは自分自身の感情を変える力を持ちません。だからこそ、抑鬱は常にフラストレーションや無力感と結びつきます。不思議なことに、健全な態度で向き合っていれば、変えられない外的な出来事に対して無力感を感じることはありません。憂鬱になるのは、今直ぐにその出来事を変えられない場合です。しかし、もしあなたが自らの内面を見つめる努力をすれば、人生や自分自身の態度について何かを変えることはできます。悲しみという単純な感情だけでは現実が受け入れられないのであれば、それは外的な状況が、あなたの苦しみの根底にある真の原因、あるいはその全貌ではないからです。友よ、これは非常に重要です。ぜひ考えてみてください。

例えば、死によって愛する人を失ったとしましょう。他に何もなく、本当に悲しいのであれば、あなたの感情は純粋にこの喪失からくるものです。これは変えられないことです。あなたはそれを分かっており、悲しみに暮れながらも、いずれはそのことを自らが受け入れるだろうと分かっています。例えその時に、痛みが未だ最も強い段階だったとしても、あなたは心の奥底で、自らの人生は続いており、いくら故人への愛や想いが本物であっても、死別によって人生が貧しくなることはないと分かっているし、それを信じています。この痛みは傷跡を残さないでしょう。何故なら、健全で、本物で、すり替えられていない直接的な感情は、あなたの存在全体にとって豊かな経験になるからです。

愛する人を亡くして抑鬱状態にある場合、そこにはあなたが気づいていない、混乱した、曖昧な、相反する感情が内在しています。それは漠然とあなたを不安にさせ、あなたはそれが喪失という正当な痛みだと解釈します。つまり、あなたは感情をすり替え、実際に起こった出来事を利用して、向き合いたくないもの、受け入れたくない感情を覆い隠すのです。その感情が、罪悪感や恨み、あるいは何であれ故人との関わりに直接繋がるものなのか、又は単にその喪失があなたの中でくすぶっていた未解決の葛藤を呼び起こしただけなのかは問題ではありません。両方の可能性もあります。もしかしたら、その故人との同一化が原因なのかもしれません。あなたは死への恐れや、人生が終わることへの恐れに気づくことを自らに許さないまま、その経験の中にいるのかもしれません。あなたはそれに気づいていない為、それに対処することができません。これが、抑鬱の原因です。悲しみとは異なり、抑鬱は非常に重苦しく、もどかしい、不健全な感情です。

何が不健全なのか、明確に見てみましょう。抑鬱の副産物の常である、自己憐憫を例にとります。自己憐憫には根拠がないので不健全です。見つけるつもりがあれば、必ず抜け出る道はあります。自己憐憫に陥っていると、抜け道を見ようとはせず、周囲の世界が変わるべきだと考え、自分に同情し、大目に見てくれるべきだと思うのです。更に先程説明したように、抑鬱においては、自らの不幸の真の原因について自らを欺きます。あなたは「正当な」と称する偽りの理由で、自分自身から逃げ出し、自己憐憫を強めることを正当化します。こうしてあなたは、世界に対して強制的な流れを行使するのです。又、抑鬱は受動的に変化しないままでいる為に不健全です。何故なら、自分自身と向き合えば変えられる、受け入れる必要のないことまで、誤って受け入れてしまうからです。同時にあなたは、本当は変えることができないものに対して戦っています。これら全てが、抑鬱の不健康な状態の特徴です。

死別の喪失は、敢えて分かりやすい例として出しました。人は外的な理由が明確でない、あるいは全く理由もないのに落ち込むことがよくあります。何故落ち込むのか、本人にも分からないのです。正当な言い訳や理由を探そうとするかもしれませんが、その人のハートの中心では、その感情の真の原因が、自らに懸命に納得させようとしているものとは全く違うことを知っています。

友よ、憂鬱になる時はいつでも、このことを理解することが非常に重要です。正当な外的原因のせいで悲しんでいると思う時、私がお話しした観点から、自らの感情を吟味してください。それは本当にただの悲しみですか?絶望や欲求不満を感じているのではありませんか?自己憐憫から自由ですか?どんなに辛い状況であっても、外的状況で人生が害されることはないと知っていられる程度に、強さと安全を十分に感じていますか?これらの問いに肯定的に答えられない場合は、その抑鬱をもたらす根深い問題を見いだす為に、健全な内省を用いる必要があります。そうして初めて、その原因を解消するまで人生に繰り返し現れ続けるものから、永遠に解放されることができるのです。それは、感じていることを無理に押しやるのではなく、それを理解しようと努めながら、まずは冷静に見つめることで実現します。

抑鬱の原因の解消は、不快な感情からの解放だけではなく、何よりも、あなたに不利に働くことのない、むしろあなたの為に働く力を解放するという目的を果たします。抑鬱は、人生が十分に活用されないまま過ぎ去ってしまったかのような感覚をもたらします。そうすると、人生は本来あるべき力強い経験にはなり得ません。

抑鬱は自己発生的なものです。抑鬱は結果であると同時に、真に生きること、自らを満たすことを妨げる原因でもあります。見落とされがちなのは、抑鬱を単に一過性に起きて最終的には何処かに行ってしまうものではなく、抑鬱そのものを問題として考える必要があるということです。確かに、特定の抑鬱は、暫くすると忘れられることもあります。しかし、人生が再びあなたを挑発した時、その再発を防ぐことはできません。又、内的な原因による、破壊的な影響からも身を守りません。ですから、抑鬱をワークの課題として取り上げてください。

あらゆる精神的苦痛は、生きることを妨げます。それは他者と関わることを阻害するからです。私達は、人間関係の重要性について話し合い、取り組み、理解を深めてきました。あなたは、魂の健全さと自由さの程度に応じて、実りある関係性が成り立つことを学びました。しかし私達は、人間関係や関わりとは何かを、より深く理解する必要があります。

友よ、人生とは関係性です。多くの人が「人生とは何か?」と問います。多くの答えがあり、どれも真実かもしれません。しかし何よりも、人生は関係性そのものです!関わりが全くなければ、生きていません。人生や人間関係は相対的なものです。それは、あなたの態度次第です。肯定的にも否定的にも関わることができます。しかし、関わる瞬間、あなたは生きます。だからこそ、否定的な関係性を持つ人は、殆ど関係性を持たない人より生きていると言えます。全く関係性を持たないとは言えません。もしそうなら、その人は生きていないことになるからです。破壊的な関係性は、最終的にはその破壊性を解消するクライマックスへと向かいますが、偽りの穏やかさを装って関わりを持たない場合は、生きるという意味においては更に生きていません。

あなたは「関係性」という言葉を周りの人間と結びつけて考えることに慣れています。しかし実際には、この言葉は、無生物、概念、アイディアといったあらゆるものと結びつけられます。生活環境、世界、自分自身、自らの思考、態度にも当てはまります。関わりの程度に応じて、フラストレーションは減り、充実感が得られるでしょう。

関係性の可能性は巨大です。地球上で最も低次の形態である鉱物から考えてみましょう。鉱物には意識がないので、関わることはないと思うかもしれません。それは間違いです。それは生きているので関係性を持ちますが、その関係性の有様は生命の程度に限られます。より正確に言うと、それ以上の関係性を築くことができないからこそ、それは鉱物なのです。鉱物は自らが認識され、利用されることを許容することによって関わりを持ちます。従って、その関わり方は完全に受動的です。動物の関わる能力は、より動的です。他の動物、自然、人間に対して積極的に反応します。

人間同士の関わる能力の幅は、あなたが今認識しているよりも遥かに広いものです。人間の中でも最も低い尺度の関わりから見てみましょう。独房に入れられる必要のある、精神に重い障害のある者、あるいは犯罪者です。両者とも完全に引きこもり、内的にも外的にも孤立して生きています。他の人間とは殆ど関わりを持てないでしょう。しかし、彼らは生きているので、何らかの形で関わらねばなりません。そこで、彼らは人生の他の側面で関わります。例えそれが最も否定的な形であったとしても、物事、環境、食べ物、特定の身体機能、あるいは何らかのアイディア、芸術、自然とも関わるかもしれません。友よ、この観点から人生や人々について考え始めることは非常に有益です。このテーマについて瞑想すれば大いに役立ち、自らの人生だけではなく、様々な事柄についての理解を深めてくれるでしょう。

ここで対照として、最も高次な形態の人間を見てみましょう。美しい関わりを持つ人々です。他者と深く関わり、関わることを恐れず、経験や感情から身を守る為の防御的な覆いを持たない人々です。彼らは愛します。自らに愛することを許すのです。結局、愛する能力には常に、内なる意欲や、愛する準備が整えられていることが含まれます。このカテゴリーに属する人々は、抽象的に全般的に愛するだけではなく、リスクを顧みず、個人的に具体的に愛します。こうした人々は必ずしも、聖人でも信心深い訳でもなく、完璧に近い所にいる訳でもありません。欠点もあるでしょうし、時に間違えることもあるでしょう。否定的な感情もあります。しかし、全体的に見て、彼らは愛し、関わり、関係性を恐れません。彼らはディフェンスから解放されています。そのような人々は、時に失望したり挫折したりしたとしても、実り豊かで有意義な関係に満ちた人生を送ります。

いわゆる平均的な人々にとって、人生とは何でしょうか?それは、ふたつの極端の組み合わせです。可能性は多岐にわたります。ある人は、人生の特定の領域では比較的自由で、良好な関係を築けているかもしれませんが、他の領域では大きな障害に悩んでいるかもしれません。個人的な深い洞察でのみ、自分自身についてこの観点での真実を見つけられるでしょう。最も欺瞞的なものは、表面上は良好な関係に見えても、深みや内的意義が欠けている場合です。そのような場合、自らを欺き、このように言うのは簡単です。「ほら、私には良い友達が大勢いるでしょう!私の人間関係には何の問題もない。それなのに、私は不幸で、孤独で、満たされない。」友よ、もしあなたがこれに当てはまるのなら、良い人間関係があるということや、本当に関わるつもりがあるということは真実ではあり得ません。

関係性が本物ならば、孤独にも不幸にもなり得ません。あなた方の関わり方は、表面的な機能は果たすかもしれません。快く、気を散らすような、しかし何処となく浅薄です。真の自己を現わすことがないので満たされません。その為、他者があなたに関わろうとするのも阻み、相手が自覚しているか否かに関わらず、彼らが探しているものを与えません。これは、あなた自身を曝け出すことへの無意識の恐れのせいであり、様々な内なる葛藤の為です。あなたがそれらを解決しようとしない限り、有意義な関係を築くことはできません。従って、あなたは満たされていない筈です。

一般の人には関わり合いや関係性に対して何らかの能力や意欲がありますが、十分ではありません。相互交流やコミュニケーションのドラマは、表面的なレベルで展開されます。その為、無意識の傾向や流れは当事者に影響を及ぼし、浅薄な関係性が近しい相手とのものであれば、遅かれ早かれ混乱を招きます。浅薄な関係性が深まらなければ何も起こりませんが、その場合には、それが本当の絆だと自らを欺くこともできません。無意識の破壊的な傾向は、向き合って理解することでのみ解消できます。これは、関係性を損なうものではありません。何故なら、相互交流を通して、コミュニケーションは自動的により深いレベルで行われるようになるからです。

深くて有意義な関係性を築いているのが何かは、多くの場合、あなたの中で明確にはなっていません。ある時には、お互いのアイディアの交換が基準だと考え、又ある時には、性的快楽の交換が基準だと考えます。どちらも確かに存在するかもしれませんが、それがあるからといって必ずしも深いコミュニケーションになるとは限りません。唯一の真の基準は、あなたがどれだけ本物で、オープンで、防御的でないかということだけです。自らの感情を感じて、自分自身を、そして自分にとって本当に重要なことの全てを曝け出す覚悟がどれだけありますか?真の悲しみ、ニーズ、心配事、憧れ、願いをシェアできる相手はどれ程いますか?いたとしても、ごく僅かでしょう。このような感情に気づけるようになるにつれて、あなたはお互いにシェアし合え、相手の人生も本当に理解できる人々を見つけます。自分自身から目を背けているなら、自らが敢えて認めないことを他者に打ち明けることなど、どうしてできるでしょうか?こうして、あなたは孤立と満たされない状態の中で生きます。独房という偽りの安全の中で、人生が過ぎ去るがままにしている為に、あなたは死を恐れるのです。

だからこそ、私たちは、自分自身に真実を認めるこのワークを非常に重視しています。何故なら、そうして初めて、偽りの関係ではなく真の関係を築き始め、有意義な人生を送ることができるからです。以前は代替手段として利用していた芸術、自然、思想といった人生の他の側面との関係性も、より生き生きとした新たな形へと変化するでしょう。

真の関わりやコミュニケーションは、誰にでも何でも話したいという子供じみた衝動と混同されがちです。その為、愚かな率直さ、不注意な暴露、残酷な「正直さ」が、自らのオープンさや他者との関わる意欲の証拠であると誤解して、無分別に自らの感情を見境なくシェアして自分自身を危険に晒すかもしれません。実際には、これはあなたが引きこもっていることを覆い隠しているに過ぎず、その引きこもりは、隠れたレベルにより微妙な形で現れます。従って、あなたは関わっても利益にはならないという「証拠」を自ら招きます。

本当の自己理解、そして自ら課した牢獄からの解放によって、自己開示や人間関係での緊張感はなくなります。あなたは直感的に、適切な相手、適切な機会、適切な方法を選ぶようになるでしょう。時折、判断を間違えても、決してそれに打ちのめされたり、再び隠れ場に追いやられたりすることはありません。しかし、この自由、この有機的な成長プロセスは、徐々にしか訪れず、自己認識の道を歩み始めてようやく実現するものです。

多くの場合、精神科医はその人の他者と関わる能力や人間関係の深さと有意性に基づいて診断します。又、より深刻な障害を持つ人の方が、障害がそれ程顕著ではない人よりも、容易に助けを受け取れる場合があることも事実です。何故なら、後者は簡単に自らを欺き、事態はそれ程深刻ではないと装う為、内なる真実から目を背けることができるからです。このような誤魔化しは、より深刻な障害を抱える人には使えません。彼らは、選択を迫られる地点に差し掛かります。自己欺瞞に陥ることなく、真正面から内なる人生と向き合うか、あるいは深刻な精神崩壊を起こして自己対峙を先送りにするかという選択です。いずれにせよ、彼らは回避し続ける軽度の神経症患者より、決断を下す地点、次の人生でしか達成できないかもしれない地点の近くにいるのです。

自分は人間であり、弱さを曝け出す為には助けが必要だと認められない限り、自らの問題解決や真の人間関係を築くことへの助けも得られません。従って、あなたの人生は、少なくともいくつかの重要な領域において、常に空虚なままとなります。

殆どの皆さんは今のところ、真の関係性や愛が何なのかという明確な概念すら持っていません。あなたの関心は依然として、主に自分自身を中心に集中しています。もし、あなたが他者に対して社交的であるなら、それは自然で自発的なプロセスではなく、作為的かつ強迫的なものです。しかし、この道を根気よく歩み続ければ、他者への自然な思いやりと温かさが身に着くでしょう。

以前、あなたのハートの周りに築く壁についてお話ししました。更に理解を深める為に、より詳しく探求しましょう。これは極めて重要かつ必要なことです。あなたの内にある壁を理解し、認識しなければ、自らの孤独を理解することはできません。あなたは自らが他者にどのような影響を与えているかを理解できません。多くの場合、あなたは他者がどのように自分に影響を与えているのかさえ理解しないのです。何故なら、既にお話しした理由から、現実の影響を感じることを自らに許さないからです。従って、あなたは真の印象や経験を色づけしてしまい、最早、真実の中にはいなくなります。あなたは自らがどのような経験をし、他者から現実にどのような影響を受けたか、より正確に気づく必要があります。グループワークに加えて、個人セッションでもこの道を継続的に歩んでいくことが最も重要です。このことは人間関係を理解する上で、自己認識を大いに助けてくれるでしょう

それでは、質問に移りましょう。

質問:変化する関係性についてはどうですか?又、多様性や流れを求めることについてはどうでしょう?関係性が変化したり、多くの関係性を望んだりすることは、健全な関わり方の顕現ですか?

回答: これもまた、「はい」か「いいえ」では答えられない質問のひとつです。変化する関係性や多様性への欲望は、健全な動機と不健全な動機の両方を示している可能性があります。多くの場合、一方が優勢であったとしても、双方が組み合わさっています。単純化し過ぎることには注意せねばなりません。関係が悪化したからといって、必ずしも逆戻りや停滞を意味する訳ではありません。不健全な服従、愛情への渇望、あるいは、その他一方的で神経症的な束縛に対する、必要かつ一時的な反応であるかもしれません。様々な相互的な歪みによって結びついていたふたりの間に、健全な関係性が存在するようになる前には、一時的な外的あるいは内的な嵐が起こり、それが自然界における激しい雷雨や地震と同様の均衡機能を果たすことがあります。

関係が自由と健全さが優勢になるか否かは、関わる当事者次第です。同様に、一見摩擦のない円滑な外的関係性は、必ずしもその健全さや有意性を示すとは限りません。関係性とその意義を詳しく調べることこそが、唯一の答えです。決して、一般化することはできません。パートナーシップ、恋愛、友情、いかなる関係性においても、ふたりの人間が共に成長するには様々な段階を通る必要があります。相手だけではなく、自分自身への十分な洞察力を深めることで、関係性はより確実に安定したものとなり、益々実り豊かなものとなるでしょう。

多様性を求めることに関しても又、それは真の動機に左右されます。主に恐れ、貪欲、がめつさから、そしてひとりの人との真の関係を築くことができず、その欠如を多くの表面的な繋がりで埋めようと、性急な強迫観念から多様な関係性を求める場合、又は、より深い関係にある少数の人々に依存し、見捨てられない為の保険として常に他者を求め続ける場合、それは言うまでもなく不健全な傾向を示します。しかし、様々な人間の豊かさや、自由な精神に基づいた関係性を求め、一方の関係性を他方の関係性の為に利用しようとするのでなければ、多様な関係性を求めることは健全なことです。多くの場合、両方の動機が存在します。しかし、前者の場合であっても、以前の引きこもりに対する反動として、一時的な必要が生じている可能性があります。その場合の多様性への追求は、健全さへの一歩かもしれません。否定的な兆候は、しばしば肯定的な一時的な段階が起こっていることを示します。

質問:そのことは、人が他者に対する自らの反応を操作することと、どのように関係しますか?

回答:実は、この質問は既に答えられています。操作は、防御や代替的な偽りのニーズから生じます。それを自覚しているか否か関わらず、操作される側は、恐れ、ニーズ、依存から屈服して高潔さを失うか、抵抗するかのいずれかの反応を示します。その場合、反発の背景には、奴隷になることなく愛情を得たいという願いがありますが、その人は未だ、手放すことができれば反発する必要はないことに気づいていないのです。生死に関わるかのように必死に他者を必要とすることのない自由な人ならば、相手の無意識の支配が押し付ける状況に憤慨する必要はなくなります。その人は手放し、静かに自らの高潔さを守ります。大抵は隠れた形で起こる、どちらが強いかを巡って両者が争う時にのみ、彼らの関係性は、支配、反抗、従属、妥協、恨みといった感情の間で揺れ動きます。両者は互いに何かを相手から求めますが、どちらにも与えるつもりはありません。どちらの主張も歪んでおり、非現実的です。従って、常に自由な真の関係性を築く可能性に影を落とす争いが展開します。

質問:関わりたいと願うふたりの人間が、様々な理由からお互いに操作し合ったり、あるいは片方が操作したりする場合、真の愛の要素は何処にあるのでしょうか?真の愛は、そのような操作を解消したり、軽減したりするものではないでしょうか?

回答:無意識の防御手段である操作を必要とすればする程、真の愛は存在できません。このふたつの要素は相互に排他的です。操作に対する偽りのニーズを調べてみると、それは自己中心的な恐れと、感情や存在に身を委ねることへの過剰な警戒から生じることが分かります。従って、操作は愛を阻害します。例え、真の愛がある程度あったとしても、操作という側面によってその愛は妨げられてしまいます。

真の愛が歪みよりも大きければ、歪みそのものは解消されなくても、愛の比重が大きいが故に、関係における問題は少なくなります。問題のある領域を解消するのは、理解を通してのみ可能です。そうすれば、愛は花開きます。しかし、暗闇や混乱が存在する領域で、パートナーが現実と向き合わなければ、愛が存在することはできません。愛しているという事実だけで、あらゆる否定的な流れや歪み、葛藤や恐れ、無意識の防御機能や操作が解消される訳ではありません。それ程簡単な話ではないのです。

実のところ、他者と関わる能力は簡単に測定できます。あなたの日常生活には、理解さえすれば多くの手がかりが隠されているのです。関係性に問題がある程度に応じて、双方に無意識の歪みが存在します。交互に相手を責め合ったり、あるいは自らを責めたりします。ひとつの過ちが別の過ちを消し去る訳ではないこと、そして関係性のあらゆる問題は当事者全員に責任があることを理解するには、この道での経験と同様に、時間と理解が必要です。このような洞察は真実であるというだけで、常に大きな解放的効果をもたらします。この真実は、罪悪感を抱くこと、非難したり、責めたり、裁いたりする必要性からあなたを解放してくれる筈です。

質問:あまり親し過ぎない相手との方が、時として関係を築くのが容易なことはありませんか?批判的になりにくいですから。

回答:勿論そうです。それは真の関係性ではなく、表面的な関係性であることの証拠に過ぎません。真の関係性とは、関わることを意味します。それは単に、否定的な側面や傾向を見るという意味ではありません。関わるということは、自らの存在全てを差し出すということです。深く関わる関係では、両者の内に認識されていない、未解決な問題の領域がある為、摩擦に苦しむことになります。だからこそ、建設的な態度でアプローチすれば、どのような摩擦も有効な踏み石となり得ます。とはいえ、深い関係だけを持つべきだと言っているのではありません。それは不可能だし、非現実的です。しかし、人生を活力に満ちた、実り多いものと感じる為には、様々なタイプの人間関係が数多く必要になるでしょう。

より具体的には、無意識の期待、主張、要求は関係を台無しにすると付け加えることができます。全ての期待は必ずしも「誤っている」訳ではなく、期待が心の底でくすぶり続け、相手の要求と衝突して相互に緊張を生み出すからです。意識の表面に浮上して初めて、不当で理不尽であると認識できる要求もあります。しかし、そのような要求ではなく正当な期待であっても、あなたがそれを認識していないが為に、問題が引き起こされることもあるでしょう。

質問:同じ様に、自分が他者と瞬時に繋がっていると考えるのは、自らの全能性を信じる子供じみた思い込みによる、ある種の「黒魔術」の投影ではありませんか?

回答:はい、その通りです。間違いを犯したくないと願う子供のような一面は、誰の中にも存在します。多くの場合、人が他者を直感的に理解できるという事は本当です。しかし、その危険性は、自らが常に正しいと思い込みがちになることです。時には正しいこともあるが、常に正しい訳ではないということを理解するには、かなりの成長、成熟、叡智が必要です。これを認識し、自らの限界を受け入れれば、間違えることは最早、耐え難い恥ではなくなります。

この点において、成長はしばしば段階的に進みます。最初、人は自信が全くないので、自分自身や自らの感覚に価値を置かないかもしれません。彼らは劣等感を強く感じている為、自分の直感はおろか、理性さえも全く信じないかもしれません。彼らは常に、他者が正しいと信じるでしょう。そしてその確信が事実であるかどうかに関わらず、又自らがこの隠れた確信に気づいているかどうかに関わらず、彼らは過度な自己主張によって誤った形で、それと戦おうとするかもしれません。勿論それは、状況を改善する為には最悪の方法です。何故なら、病の存在を認めなければ、いかなる病も解消されることはないからです。そのような人々は、一定の成長プロセスを経て、自らの感覚がしばしば正しいことを経験するようになります。これは大きな安心と喜びです。そして自信が芽生え始めます。しかし、これは成長の梯子のほんの小さな一段に過ぎず、彼らはこの現象の現実性を完全には確信していません。確信が持てないので、全てが想像であったと気づくことを恐れ、その恐るべき失望から身を守る為に、本質的に子供じみた主張である全能感を奮い起こします。この要因に気づかないままその段階に留まる限り、彼らは劣等感から完全に抜け出すことはできません。しかし、これに気づくことで、彼らは常に自らが正しいとは限らないからといって、自らに価値がない訳ではないと学ぶでしょう。彼らは最早、間違うことを恐れなくなり、自分自身とのより現実的な関係性へと進みます。

成長や学習は、全て分布曲線と周期によって決められます。周期が止まると成長も止まり、その人はやがて、最初の一歩を踏み出そうとしていた以前の状態に戻ってしまいます。一時的な改善が持続されなければ、人は実際の成功に目が眩んでも、その経験は幻だったかもしれないという不安を払拭できる程の確信は得られません。従って、実際には依然として何も解決されていないのです。

未熟な精神は、過小評価と過大評価の間で常に揺れ動きます。どちらも現実ではありません。この分布曲線を進めることによってのみ、本当の視点が得られ、そして本物の自信が身につくのです。

「自分がいつも正しいとは限らないと認めると、劣等感の状態に戻ってしまう」という、頻出する誤った信念が認識されれば、全てはうまくいき、間違えることへの恐れは消え去ります。正しくなくても良いと認めることができる程、直感は育ち、判断の妥当性は高まります。しかし、それが常に正確であるとは限りません。この段階で極めて重要なのは、成長経験が幻想であったという根拠のない危険から生じる、間違いへの恐れを自覚することです。

最後に、皆さん一人ひとり、そしてこの言葉を読む方々、今このワークを始めようとする方々、既にワークをされている方々、あるいは未来に始めるであろう皆さん全員に、とても特別な祝福を送ります。この一年のワーク全体を祝福し、皆さん全員に愛と温かさを残して行きます。自己認識への抵抗に気づき、それを受け入れることができれば、皆さんに積極的な支援が届くことをお約束します。自らの内にある真実や現実から遠ざかり、有意義で充実した人生への成長を阻んでいる、あなたの合理化に気づく意欲を見つけてください。あなたが今何処にいようとも、あなたの中に注がれ、あなたを包み込むこの祝福が、皆さん一人ひとりの助けとなりますように。人生は良いもので、憂鬱は非現実なものであることに気づきますように。生命の流れは絶え間なく続いており、あなたの限られた視野でのみ恐れられているニーズがあるのです。無意識の内に自らを縛り付ける、自発的な盲目という束縛を取り除くにつれて、この言葉の真実を体験するでしょう。神の祝福がありますように!


###



以下の注記は、Pathwork®の名称およびこのレクチャー資料の使用法を示したものです。Pathwork®の商標/サービスマークは、The Pathwork Foundation(パスワーク・ファウンデーション)によって所有され登録されており、The Pathwork Foundationの書面による許諾なく使用することはできません。The Pathwork Foundationは、その単独裁量権において、Pathwork®の商標を、協力団体やその支部のような他の組織および個人による使用を許可します。

著作権にかかる規定
Pathworkのガイドの著作物は、The Pathwork Foundationの所有資産です。このレクチャーは、The Pathwork Foundationの商標、サービスマークおよび著作権ポリシーに準拠して複製され、いかなる方法においても変更または省略することはできません。また、著作権、商標、サービスマークおよびその他あらゆる公示の削除は許可されません。
レクチャーを提供される側は、複製と配布のための費用のみを支払うこととします。The Pathwork Foundationのサービスマークまたは著作権で保護された資料を使用する任意の個人や組織は、The Pathwork Foundationの商標、サービスマークおよび著作権ポリシーを遵守することに同意したものとみなされます。これに関する情報またはこのポリシーを入手するには、The Pathwork Foundationにご連絡ください。Pathworkという名称の使用は、the Pathwork Foundationによって承認される変容のプログラムを修了したファシリテーターとヘルパーにのみ許可されています。

日本語版の取り扱いについて
Pathwork in Japan (パスワーク・イン・ジャパン) の許可なしに、無断でコピー(複製)、貸与、頒布、販売することを固く禁じます。また、文書およびインターネット上(ウェブ、メール)での引用・転載を含む公開も禁止します。

また、本レクチャーの受領者は、英語版から日本語版を作成する際に発生する複製・配布・翻訳などにかかる費用をご負担いただきます。

さらなる情報やPathworkへの参加については、Pathwork in Japanにお問合せください。
ウェブサイト:https://www.pathworkinjapan.com
お問合せ先 :pathworkinjapan@gmail.com

※ガイドレクチャーに関するお問合せはメールで承っております。下記メールアドレスまでお願いいたします。
pathworkinjapan@gmail.com

© Pathwork in Japan All Rights Reserved.

bottom of page