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Pathwork in Japan
No.114 健全な苦闘と不健全な苦闘
Pathwork Guide Lecture No. 114
1996年版
1963年4月26日
健全な苦闘と不健全な苦闘
STRUGGLE: HEALTHY AND UNHEALTHY
大切な友人のみなさん、あなた方一人ひとりに、神の祝福を。愛と強さはあふれています。ハートを開き、この力(フォース)に波長を合わせましょう。
あなた方の誰一人として、自分の限界を超える困難に直面することはありません。皆、そうした困難を乗り越えるだけの強さを持っているのです。あなたの魂の中にある、強さという資源を疑わないでください。こうした内なる資源へと手を伸ばすのです。この資源は、外にある力の源からの助けに依存するよりも、ずっと力強い助けとなってくれることでしょう。祝福と聖なる助けとは、既にあなたの中にありながら眠っている力を通してのみ、可能となるのです。この力はあなたの内から流れ込むもので、外から流れ込んでくることはありません。
この内なる強さを頼みとすることを学びましょう。その強さこそが、あなたが持つ解放の力です。内なる装備を使いもせず、そこから強さや賢さを自らのものとすることもなければ、何一つ人生から自分のもとにやってこない。そう悟る代わりに、あなたは何かと外部の力にすがろうとします。しかし、内なる資源に頼ってこそ、あなたの自信と自尊心は、実際に強まるのです。外部の助けも、一時的には快いことでしょう。ですが、それはあなたの自信や自己への信頼、独立心や自尊心を強めてはくれません。ですから、内に手を伸ばすのです。宇宙の法は、何一つあなたの力量を超えて働くことはないと気づきましょう。そう思えないときは、あなたの内にある資源を疑っているか、無視しているだけなのです。
往々にして、人はこう言います。人生はつらく苦しみに満ちたもの、混沌とした不可解な試練であって、意味なんてない、と。そう言う人たちは、自分が人生から切り離されていると信じています。ですが、そんなことはありません! あなたの目にどのように映ろうと、人生はあなたが自分自身をどう捉えているかをそのまま映し出したもの。あなた個人の人生は、あなたを如実に示すものであって、あなたのあらゆる心の姿勢と癖を集めたものなのです。自分と人生とは別のものだと思うことは最大の過ちだと言えますし、最も根本的な過ちの一つでもあります。そう思うのは間違いなのです。こうした言葉があなたの内に意味と実感を伴うなら、あなたは成長のステージに到達したのでしょう。もはや怖れることも、風の中の無力な麦わらだと感じることもありません。あなたが自分自身を人生から切り離している限り、あなたは幻影の中にいるだけではなく、怖れと不和の中にいるのです。自分自身そして自分の能力や可能性の中にある信頼はすべて、人生にも携えることが可能です。心の内に歓びを抱き、その歓びを経験する能力を持つことこそが、あなたの人生となるのです。挫折や失意に対処し、必要とあらば自らの意志を手放す力が自分にあることを学ぶにつれ、人生に怯えることが少なくなります。ひとたびこうした視点から自分自身と人生とを眺めてみれば、自分自身と人生の統合という私たちのゴールにむけて、あなたはさらなる一歩を踏み出すことでしょう。
もちろん、人生は苦闘でもあります。ですが、苦闘には健全で建設的なものと、不健全で非建設的なものがあるのです。さまざまな哲学や宗教が、「あがくのをやめる」よう求めています。これは真の教えですが、あきらめる、降服するという意味に解釈されることが多く、あなたの権利を主張するものとはされていません。受動的かつ無気力であるべきだと感じると、あなたは自分を満たし、自分の目標を達成しようとしなくなります。これは、無関心や怠惰、停滞、マゾヒズムにさえつながります。そして、あなたの内にあるものや、あなたを取り巻く世界にあるもので、向上させられるものを向上させようと気に掛けることさえしない、そんな残酷さにつながるのです。
健全な苦闘が、あなたのエネルギーを使い果たすことはありません。必ずしもすぐに成功へとつながるわけではありませんが、決して無駄にはならないのです。健全な苦闘には、悠然とした行動を取り、敗北を受け入れる力を持ち、健やかな意欲に裏打ちされた明確な目標を目指し、心理的に道からそれてしまっている場所を隠すために問題を利用するのではなく、問題そのものに重きを置く、という特徴があります。健全な苦闘においては、あなたがあなた自身と闘うことはありません。不純で未熟であるあることを克服するために必要なのは、自分と格闘することではなく、むしろこうした面を意識することで、そうするとそれを理解し、対処できるようになります。これが気掛かりや自責の念を克服する方法である、それにあらがうことではありません。
健全な苦闘は常にあなたをより強くしてくれます。流れに逆らって泳いだりしなければ、あがいて力を伝い果たし、憔悴したままでいることもありません。あなたの内にあるものを表に出すのに、努力は必要ないのです。実際、あなたが何をしているかというと、この内なる素質が明らかになるのを妨げるために多大なエネルギーを浪費し、なぜ自分はこんなに疲れているのか首をかしげているのです。ある年齢に達すると、人はもう人生に対処する十分なエネルギーを失くしてしまいます。ですが、もしもこのエネルギーの流れが逆転したなら、人生は大きく変わることでしょう。あなたは今、自分の内にあるもの、自分の感情の流れを常にせき止めているものが何かに気づくまいと、全力で闘っています。これは不健全な苦闘です。こうした苦闘をやめれば、役に立ち、意義もあり、実り多いものにエネルギーを注ぐことができます。しかるべき場所(チャネル)にエネルギーが使われていれば、エネルギーはいつでも自動的に補充されます。けれども、意図されたチャネルで使わなければ、エネルギーが補充されることはありません。ですから、他人に利用されないように自分を守ったり、自分の可能性を伸ばしたり、自分の目標に向かって進むための十分なエネルギーが残らないのです。隠されたネガティブな心の姿勢を見せまいと無益に苦闘したり、そんなものは無視すれば消えてなくなるはずだという偽りの信念に留まろうとしたりしなければ、ごく自然に、使うべきところに使うための力 が生まれるでしょう。
健全な苦闘に、不安はありません。怖れも、迷いも、疑いもありません。健全なはずの目標にむけて奮闘しているのに、ネガティブな感情が浮かぶとしたら、そんなときは常に、不健全な苦闘の只中にいるのだと心得ておきましょう。あなたは密かにあなた自身と――おそらくは猜疑心や利己心、完全さを欠いている部分を押し隠そうとする心の姿勢と――格闘しているはずです。そうでなければ、心をすり減らすネガティブな感情は存在できないのですから。そんな感情があるなら、もうあがくのはやめ、隠れた感情を表に出してやるときです。
人間の持つあらゆる態度と感情は、川の流れに例えることができます。それらは円の中で動き、内側の力と外側の力が互いに影響し合っています。ですが、流れを制御する要素は、常に己の内にあるのです。外の状況にコントロールを委ね、受けた傷は外から修復できるだろうと、また自分と人生との不協和音を整える助けになるだろうと考えても、これでは自由な流れを妨げてしまい、気づきに至ることはありません。外にばかり目をむけていては、その人の自由になる真のコントロール --- 唯一の意味あるコントロール、つまり自己の完全な気づき --- から、どんどん遠ざかってしまうのです。
自分の中の、ある感情やものの見方を好きになれないとき、あまつさえ怖れているときは、あなたは自分の中にあるその感情や態度を意識化することをブロックしているのです。つまり、自由に流れるべき感情の流れを滞らせています。もちろん、川の流れという比喩は目新しいものではありませんが、新鮮なアプローチとして使えば、抑圧で生じたダメージを視覚化することができます。防壁を取りのぞくきっかけとして、あなたには新たな刺激が必要です。では友よ 、一つひとつの感情を、態度を、反応を、川の流れとして思い描いてみましょう。川の流れをせき止めたら、何が起こるでしょう? ダムを作れば、せき止めることは可能です。ダムへと流れた水は、そこで止まってしまいます。けれども、ダムにたまればたまるほど水は力を増し、ついにはダムを決壊させてあふれだし、ダムばかりか緑の丘やかたわらの建物を片端から破壊していきます。防壁を壊すのに、何もこうした荒々しい方法を取ることはないのです。あなたの魂の中にダムを築く必要などありません。けれども、あなたが築くことを選んだのですから、手放さなければなりません。あなたが努力すれば、徐々に徐々にダムは崩れていきます。これは、意識的に自己と向き合うプロセスです。時期が来るまで待とうとすれば、防壁は水の力で押し流されます。人生があなたを手荒く扱ったり、防壁の奥にある破壊的な態度が重なってついに堰を切ったりすれば、今までとは種類も程度も異なる危機と挫折が訪れるのです。
川の流れをせき止めずにいれば、屑や汚れは自由に浮かび上がっては消えていきます。絶えず再生される透明で清らかな水が、最後には川から塵芥を押し流してくれるのです。それが自然の理ではありませんか? 魂の流れにも、同じことが言えます。怖れたり、過去の心の傷という塵芥やその後の破壊的な傾向から目を逸らすことで、あなたは防壁の奥にネガティブな感情を積み上げていくのです。そうした感情は、いつの日か、何が起こるかをコントロールできなくなるときに、あなたを必ず水没させてしまいます。ですが、常に塵芥が表に出るようにしておけば、怖れることはありません。心の中に築いてしまったブロックを壊し始めると、今まで感じたこともないようなネガティブな感情を体験し始めます。すると、そこにまた蓋をしてしまいたい誘惑にかられるでしょう。この誘惑には気をつけてください。いずれ、あたたかくポジティブな思いや、寛容で情愛のこもった利他的な感情があふれ、ネガティブな感情が害をなすことはなくなります。ネガティブな面から目を逸らすことは、その存在を消すことにはならないのです。
あなたが自分の不安にあらがい、その存在を否定すると、それはダムの奥で逆巻く波のように膨れ上がります。ダムが持ちこたえている限り、あなたが感じるのはうっすらとした居心地の悪さだけでしょう。なぜだかわからないまま疎外感を覚え、自分の最良のポテンシャルが発揮できていないという気がします。それでも、状況は飲み込めておらず、防壁の奥に積もるにつれて威力を増す不安の脅威も感じてはいません。しかしいつの日か、外部のある出来事を機に、あなたがついぞ向き合おうとしなかった無力感と不安とがあなたを絶望の底に沈めることでしょう。つまり、不安を抑え込もうとあがくことで、あなたはかえってこれを増幅させているのです。その存在を否定することで、他にありえたであろう姿よりも、大きく強いものにしているのです。他の感情や態度についても、同じことが言えます。怖れ、疑い、敵意、何であれ――原則は同じことです。現実の川の流れであれ感情の流れであれ、自然の法則は、世のすべての力に当てはまります。
であれば、この防壁を取り去る方が、ずっと賢明ではありませんか? 壁が自然に壊れるのを待つことは、自分は無力だと言うのと同じことです。感情が洪水のように押し寄せ、あなたにはその感情の意味が理解できません。なぜなら、つもりに積もってその勢いはあまりに強くなってしまったからです。そのときまで待っていてはなりません。自らを省みないまま危機を迎えてしまう人は、あまりに多いのです。
こうした無益な苦闘を回避するのが、このワークのねらいです。無益な苦闘を回避するには、決壊する前に、防壁を取りのぞかなくてはなりません。そうして、流れに本来備わっているものが流れ出すようにし、そしてあなたが巧みに避けてきたこれらの感情 --- 疑念や敵意、嫉妬に所有欲、自己本位で高圧的な態度 --- いわば、あなたの中の傷ついた子供が抱えるすべての感情に向き合うのです。
人はなぜ、こうした感情への気づきに抵抗するのでしょう? 抵抗の真の意味を明らかにしてみましょう。抵抗とは、単にこのワークをしたくないということではありません。流れをせき止めているものが何であれ、取りのぞく必要がなければ、ワークをすることも気にならないでしょう。あなたの中に流れる川は、一つだけではありません。あなたという人間はいくつもの態度や感情でできているのですから、そこには多くの流れがあるのです。ありがたいことに、中にはせき止められていない流れもいくつかあり、あなた自身と人生に対する健全で建設的な姿勢を生み出してくれています。防壁がさほど強固ではなく、抵抗を克服するのもさほど難しくない流れもあります。ですが、それが自分を守ってくれると思うがために、あなた自身が故意にせき止めた流れも多いのです。
あなたがこのワークを始めるとき、意識的な自己は、この「禁じられた領域」に触れなければならないことに気づいていません。その存在を、完全に無視してきたからです。ワークがこの領域に近づくと、それがいったい何なのかを悟ることすらないまま、初めて抵抗が姿を現すでしょう。自己探求の初期に、これを経験する人もいます。また、禁じられた領域に触れられるようになる前に、しばらくワークが進み、小さな防壁が崩れていくつかの川が流れ出す人もいるでしょう。
あなたの見たくない領域は、必ずしも醜くもなければ悪しきものでもありません。結局のところ、足枷をはめられたままの成長は、常に自滅的なもの、自己中心的なものですが、その力点は利己心ではなく、むしろ偽りの自己防衛にあるのかもしれません。見方を変えれば、抵抗とは、開示すること、傷つくこと、もろさに対する防衛なのです。
何よりも大切なのは、あなたがこの抵抗に気づけるようになることです。この視点から自分の成長を振り返ってみれば、大きな解放が訪れる前には、必ず自分自身を見つめることへの抵抗という段階があったことを思い起こすことでしょう。抵抗がどんな形を取ったとしても、あなたは常に、真実の中で自分を見つめる意志をかき集め、この抵抗を克服しなければなりませんでした。それが最も強く、最も大切な目的でなくては、やり遂げられなかったでしょう。とはいえ、過去に努力をしたからもう同じ苦闘を味わう必要がないとは、一瞬たりとも思わないでください。これは、自己の気づきにあらがう不健全な苦闘を克服するための健全な苦闘なのです。
防壁を取りのぞくことに対する抵抗のサイン、それを見つけることを学んでください。サインにはさまざまなものがあるでしょう。ですが、ひとたびあなたが注意をむければ、見逃すことはありません。もっともらしい言い訳を鵜呑みにしないことを学びましょう。
抵抗が存在するのは、自分に対する認識が防壁の向こうに見える現実とそぐわないから、というだけではありません。そして、防壁が人生の傷に対する盾になってくれるからと言うことも十分ではありません。それはあまりに一般的です。防壁が維持されている隠れた理由の一つは、人は魂の奥底で、子供のままでいることは可能だという見込みのない望みを抱き続けているからです。子供たちは、幸福と安全のために必要なものを与えられるという恩恵を受けているように思えます。また、子供たちは必要なものを自分で手に入れる労苦を逃れることができます。自分の足で立たなくても、受け取る資格がある --- この幻想は、とても魅惑的です。こうした子供時代の利点を思い出すことが、過去の傷を抱える場所に触れることへの怖れと結びつきます。精神的な力(エネルギー)が意図的な無力感に向かうため、エゴはいつまでも弱いままで、自分で自分を信頼することができなくなるのです。そして、そのひきかえに、ニーズに応じて他者を頼るための言い訳をあてがってくれます。人は、幸福や充実感や安全が他者によってもたらされるという信念をあきらめたくありません。そのためにこの望みにしがみつくのです。これが、障壁をなくすことに抵抗する主な理由です。
ひとたび壁を取りのぞいてしまえば、自分が不当な望みにしがみついていたことも、そうと認めたくなかったこともわかるでしょう。自分の人生に責任を持つという労を避けたかったこと、今までこの点で失敗してきたという負い目を感じたくなかったということもわかるでしょう。
自分のニーズを満たしてもらおうと他者を頼ることは、さまざまな形を取ります。外側の態度にも、内側の態度にも、さまざまに当てはまることでしょう。自分の場合はどうなのか、これを見つけ出さなくてはなりません。
子供が無力なように、病弱な人もまた無力です。どちらも他者に頼っています。ですから、抵抗という心理は、成長しきっていない子供であるだけでなく、作為的な病人でもあるのです。
一方で、あなたは自分の無力さに怯え、自分が無力な存在でなくなるチャンスを与えず、自分が本当に無力なのかを試すこともできずにいます。そのくせもう一方では、逆のことを怖れています。つまり、本当は自分で思うよりもずっと多くの資源を持っていると認めることが怖いのです。認めてしまえば、ある義務や自己責任を引き受けることになるでしょう。そして、あなたはむしろ偽りの責任を担おうとします。その方が承認を得やすいように思えるからです。これを検証できるのも、巧妙に隠された領域、あなたが自分について相当の知識を得ない限り、たやすくは見つからない場所だけです。
まとめてみましょう。あなたの顕在意識にあらゆる感情が流れ込むことを禁じているものとは、一つめが不完全さに対する怖れ、二つめが傷から守ってくれるはずの態度を放棄しなくてはならないという怖れ、三つめが子供のままでいたいというこだわり、何しろあなたのニーズ、あなたの幸せ、あなたの安全についての責任は他の人にあるのだから、という理由のためです。今一度、あなたを戒めておかなくてはなりません。すでに多くの感情が意識の表に達していたとしても、こうした禁忌を特定するのはたやすいことではありません。やり抜けば、無力さという怖れが見つかるでしょう。なぜなら、あなたもまた、自分が望まなければ、無力である必要はないと知ることを怖れているからです。さらには、あらゆる願いをすぐに叶えたいという、子供じみた願望を手放すことも怖れているでしょう。
こうした抵抗は、たとえこの流れがその中に初めての欠片をもたらしたとしても、あなたを人生の流れから切り離します。それよりも、抵抗の欠片を目に見える場所で自由に浮かび上がらせる方が、ずっと良くはありませんか? 目にすれば、取りのぞく手立てがわかります。さもなくば、水かさが増すにつれ、抵抗も防壁の陰に積み上がることになります。
抵抗のサインを自覚するのです、友よ! あなた自身を観察するのです。いかに不快な感情を絶えず脇に押しやろうとしていたか、それが「消え失せる」ことを願っていたかを、きちんと見るのです。いかに手軽な説明を見つけようとしていたか、そのせいで心から満たされることがなかったかを、見るのです。いかに言い訳をして、こうした心の揺れに目をむけずにいたかを、他のすべてがずっと重要に思えたのかを、見るのです。安易に正当化することがないよう、気をつけてください。それが最も危険だからです。理不尽な正当化 --- 極めて良識ある人々の中にさえ存在するもの --- の方が、真実を看破するよりも労力が少なくて済み、ずっと扱いやすいのです。ところが、一見もっともらしく見える正当化を行えば、真の危険を招き、真摯な努力と誠実さの育成とを求められることになります。
霊的な進歩と内なる成長に関心があるみなさんは、こんな疑問をお持ちかもしれません。「できる限り自分に正直であるために、一番大切なことは何ですか? この中で、私を最も助けてくれる行動はどれですか? 自己認識以外の行為であっても霊的な成長をもたらすはずだと信じたいときは、自分を欺いているのでしょうか? 自己を認めなくては、成長できませんか? 私は十分に努力していると言えるでしょうか、もっと努力できるのでしょうか? さらに努力できるとしたら、なぜ私はためらっているのでしょう? 傷つくことも不安を生むこともない領域においてのみ、自己を見出し、育めるということでしょうか? だとすれば、自分の内に何があるかを知ることへの抵抗という可能性を考慮しなくてはなりません。今の告白についての私自身の態度はどうでしょうか? どうしても気が進まないのならば、勇敢な振りをするよりも、せめて自分を見つめる勇気が無いことを知っておく方がましではないでしょうか? そう告白するのは、勇気があるということでしょうか? 私という人間のある部分は勇敢で、心の底から正直に自分を見つめようとしているのに、正反対のことを真実だと思っている部分があるなどと、認められるでしょうか?」こうした疑問を自分に尋ねてみてください。そして、注意深く耳を傾けるのです。答えに惑わされないよう祈りましょう。友人のみなさん、そうすれば疑問を呈したときに想像し得た以上のことがわかるでしょう。そして、ひとたびこうした疑問に正直に答えたなら、あなたは健全な苦闘と不健全な苦闘の違いを経験することになります。
自分の中に疑いがありながら、疑いたくはないと思うなら、あなたはその存在を否定することで、疑念にあらがうかもしれません。ですが、疑いは取り除けないのです。まさにこれがあなたの抵抗、あなたの防壁の仕業です。あなたは疑わないふりをしているのであって、現実は違います。疑いは、多くの感情の一つにすぎません。ネガティブな感情の塊は、認めることに抵抗する態度となっていきます。抵抗をやめるのです。ネガティブな感情は、自由に表に出してやりましょう。そこに怖れるものは、何一つ無いのです。
不健全な苦闘は抵抗です。そして無益です。なぜなら、あなたは現実にそぐわない何かを信じようとして、自分と闘っているからです。それくらい単純なことですし、こうした枠組みで認識しなくてはならないことです。
当然ながら、友よ、あなたはそのことを忘れようとするでしょう。ですから、あなたが適宜これを思い出し、新たな角度から問題に取り組めるように効果的な事例など、あなたに必要な資質を身につけるのを確認することが私の務めです。
何であろうと、あなたの内にあるものにあらがってはなりません。否定すると、あなたのエネルギーを消耗するからです。自己欺瞞が長期化し、望む結果を手にできません。自分はただの人間であって、仲間と同じ弱さを抱えているにすぎず、見下すべき存在ではない。そう受け入れることを学ぶのです。そうすることで、あなたはもっと自分に優しくなり、自分の内にあるものすべてを直視できるようになります。友よ、そう信じているかもしれませんが、自分に対する手厳しい見方は美徳ではありません。正反対です。なぜなら、それは尊大で不遜な態度であり、自己欺瞞と不誠実さを増長させるからです。
さらに、内に不快を感じるときは常に、より深い意味を求めるだけでは足りないことも、覚えておいてほしいのです。子供と同じように感じるときも、よくよく調べてみる必要があります。そして、これら二つの感情に共通点を探すのです。けれどもこのアプローチが意義と自由をもたらすには、この道である程度の成長を遂げていることが必要です。さもなくば、興味深い思索であったとしても、ただ空虚なものになるでしょう。大人になっても受け止めきれない子供の頃の傷が、流れに防壁を築き、抵抗し、自分に嘘をつき、破滅的なパターンと内なる怖れと危うさの中に生きる原因になることを、決して忘れないことです。こうした傷は、あなたを間違った方向に苦闘させ、人生という流れに不協和音を生じさせます。これを理解した場合にのみ、あなたは流れに分け入り、宇宙の力と調和して、時や場所や動向に合わせて流れゆくことができるのです。
自分の中の抵抗を決して認めず、意識的に見ようとしない人たちは、なおも学ぶことが多く、抵抗を自由に受け入れ、抵抗に対処できる人たちに後れを取っているのです。
このレクチャーに関する質問が浮かんだら、どうぞお尋ねください。
質問:怖れを抑え付けていることに気づいてしまい、かえって怖れがあふれだすとしたら――あなたは今日、この怖れの洪水があるときは、常に苦闘があるというお話をなさいましたよね――そんな人は、どうしたら良いでしょうか?
答え:怖れに気づいてしまうと怖れの洪水を招き、手に負えなくなると思うのは間違いです。苦しみを招くのは、気づきではありません。怖れと、怖れの下に潜むものに対する態度が苦しみを招くのです。誤った態度とは、怖れに対する不健全な苦闘のことです。「私は怖れるべきではない、私は怖れを感じたくない、怖れは不快なものだから」と言い聞かせることで、まさに今恐れの中にいる自分の一部と闘っていることになります。怖れに呑まれるという感覚は、怖れの波に身構えるゆえに生まれます。今なおあなたの防衛機能が働いて、自分が怖れの中にいることに気づくまいとしているのです。
あなたはこの防壁の一部を取りのぞきました。この防壁が、自分の成長を妨げていると悟ったからです。ところが、あなたのもう一つの部分は、怖れの余波を受けながらも駆け引きを始め、怖れがすっかり隠れ家から姿を現さないうちに、これを取りのぞいてしまおうとするのです。怖れにあらがうことをやめれば、こう言えます。「私は、他の多くの人間と同じように、今怖れの中にいる」と。怖れに沈むのではなく、いよいよ怖れの波に身を任せ、波間に浮かび上がるのです。怖れに溺れるのではなく、怖れの海を泳ぐのです。そうすれば、危険だという感覚は拭い去られます。なおも怖れを抱えていても、まるで違う感じがするでしょう。怖れに沈むのは、怖れの波にあらがうからです。溺れることを怖れていると、泳ぐ力があっても泳げなくなってしまいます。泳ぐときにだけ、怖れの陰に潜むものが見えるのです。
心を離れない執拗な怖れは、どんなものであれ、しかるべき対処を取らずにいる非現実的な怖れです。こうした怖れの陰には、必ずや他の「感情の流れ」があり、それらがブロックされ、流れを妨げられているのを見つけるでしょう。敵意、屈辱、高慢や恥、傷心、傲慢、驕り、自己憐憫、理不尽な要求への固執などのさまざまな感情があるかもしれません。怖れにあらがうのと同じように、あなたはこうした感情にもあらがいます。怖れのすぐ下の層には強い敵意があって、それは触れることのできない特定のタブーであることは珍しくありません。こうした感情に意識の新鮮な風を当ててやれば、怖れは自然と消えていきます。本当にそうなると、お約束しましょう。また、すでにこの時期を通り抜けた友人たちが、何よりの証拠となってくれることも多いのです。
質問:では、精神的な怖れではなく、物理的な怖れだとしたら?
答え:物理的な窮状に対する態度が、精神的な問題から目を逸らす理由とはなり得ません。現実的な怖れは、最良かつ最適なやり方で対処されることでしょう。怖れている不快な結果が取り除かれないなら、最終的にはその不快さに対する受容をもたらさなければなりません。もし成熟したやり方で現実的に対処すればそれは可能です。ですが、これにあらがう限り、受け入れることは不可能です。マインドが引き裂かれ、一方では「変えられないものは受け入れるべきだ」と言うかと思えば、もう一方では「受け入れたくない」とも言います。こうした心の亀裂に気づかなければ、怖れは必ずついて回ります。おまけに、内に潜むネガティブな感情は隠れたままです。そうした感情は、今外にある理由にかこつけて、自らの存在を知らせようとします。けれども、外付けの理由がネガティブな感情を消すわけではありません。精神的な問題から逸脱していることを認めるときにのみ、避け難い人生の困難に応じることができるのです。現実に存在する外的な怖れに押しつぶされているのなら、あなたは、人生におけるあなた自身の一部にあらがっているのです。ではここで、本日のレクチャーの冒頭に立ち帰りましょう。
もしも人生のある出来事を怖れているなら、友よ、自身に問いかけるのです。自分の強さを、怖れを切り抜ける自らの資質を、疑ってはいませんか? そこから取り組んでみるのです。この問題について、最後の言葉を送りましょう。自らの資源に対する疑いは、あなたの子供じみたこだわりと関わりがあります。思い通りにせねばと、あきらめきれずに固執すればするほど、あなたは怖れにとらわれるでしょう。そして、この怖れと子供じみたこだわりという知識にあらがうことでしょう。私たちの求める感情的な成熟とは、フラストレーションに耐え、常にすべてが自分のやり方でいくわけではないと受け入れる度量のことです。受け入れることで、ようやく自分自身と人生とを学び取るのです。流れを押しとどめようとするのではなく、波に身を任せるころ、それだけがあなたに自分への信頼を与えてくれるのです。
あなたの欲しいものが何であれ、手にしていないことを受け入れるなら、自分の内に信頼が培われ、その信頼は真に自分が得るに値するものでしょう。欲しいものを自分に与えることができないのに、それを手にしなければならないと考え続けるなら、あなたは無力で、依存的で、不安定なままです。フラストレーションを受け入れることができたなら、人生に立ち向かえるという自覚が生まれ、自信につながることでしょう。
大切な友よ、この最後の二つの文章について、深く瞑想してください。そうすれば、わかるでしょう。あなたが怖れていることは、自分自身と人生の制約とを否定しつつ、望むものを手にしなければという思いを抱えた絶望的な依存状態に比べれば、さほど怖しくはないことを。
大切な友人のみなさん、お一人お一人に祝福を! あふれる愛が、あなたを勇気と知識で満たしますように。勇気も知識もあなた自身の内にあります。あとは、どんな状況にも対応できるようになるだけなのです。またこの愛が、今夜私がお話したことを芯から理解しようという内なる意欲はもとより、あなたに強さと知恵を与えてくれますように。と言うのも、これはあなた方にとってまたとない解放を意味するからです! 生きることと、半ば生きていることの違いとでも言えるでしょうか。今日のレクチャーをどれほど考えてみても、それだけでは足りません。生きた知識にするのです。単に頭で理解するのではなく、あなた個人に当てはめてみるのです。私たちの愛と祝福を受け取ってください。怖れるものは何もありません。
このワークを続ければ、あなたは永遠により強く、より創造的になり、あなた自身とあなたの人生に、より深く調和することでしょう。そして、今まで考えたこともないほど、生き生きと日々を送ることになるでしょう。安らぎあれ。神のうちにあれ!
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