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Pathwork in Japan
No.115 意識の側面としての知覚、決断、愛
Pathwork Guide Lecture No. 115
1996年版
1963年5月24日
意識の側面としての知覚、決断、愛
PERCEPTION, DETERMINATION, LOVE AS ASPECTS OF CONSCIOUSNESS
ようこそ、親愛なる友人の皆さん。皆さん一人ひとりに祝福を。この時間は祝福されています。友人の皆さんが、成長し、発達し続けますように。何故なら、それこそが生命そのものの本質なのですから。
成長のないところに生命はありません。このことは、生命の物質的な顕現だけではなく、その根源そのものにも当てはまります。成長には勿論、いくつもの段階があり、成長の方法も様々です。場合によっては、成長のプロセスは間接的で徐々に進むものであり、本人は内的成長の可能性に気づかないことさえあります。そうすると、その成長は後々意識が高まった状態になってから初めて気づかれます。生命のどのレベルでも成長が止まると、その生命の顕現は消滅します。しかし、スピリットは永遠であるが故に潜在的には成長であり、死ぬことはできません。もし、その顕現された形態が成長のプロセスになく、つまりは生きていない時には、成長と展開が阻まれる可能性があります。非生命とは非成長です。成長としての生命は、段階的に進行します。生きているか、生きていないか、成長しているか、成長していないか、それぞれの間には、様々なグラデーションがあります。
これまで私たちは、人生、その意味、意義、定義、その顕現について、様々な観点から話し合ってきました。人生の様々な側面、その他のあらゆるテーマについて語る際、私は常に皆さんの成長段階に合わせて言葉を選びます。あなたの進歩に応じて、私の言葉はあなたの魂のより深い理解の根源へと浸透するように意図されています。自己探究のワークを通して、より深い理解のレベルが開かれ、真実の言葉が直接、その内なるレベルに届くようになるのです。少なくとも届くチャンスが得られます。従って、あなたのパスワークにおける特定の段階で、同じテーマを異なる視点から話し合うことは重要です。それまで表面的な理解しかできなかった事柄が、より深く理解できるようになるでしょう。新たな理解は、常に適切な瞑想と組み合わせて使ってください。これらのレクチャーは、瞑想と捉えることができます。
人は自らが成長のプロセスにあると信じながら、実際には、ただ堂々巡りをしている場合があります。方向性のない、あるいは方向性の誤った自己対峙のメソッドは、多くの場合、このような事態を引き起こします。このような場合、人は形だけこなして表面上は成長していると確信しつつも、内心はそうではないことを知っています。一方、本当に成長のプロセスの中にいる人は、多くの場合、一時的に落胆し、堂々巡りをしているように感じることがあります。しかし、彼らは内的には、時折内なる成長を経験し、認識しています。成長を感じるのです。最初は明らかな後退や再発の時期を経て、同じ側面、態度、歪みを繰り返し何度も発見しながら、常に新たな繋がりを発見し続け、同じ混乱に新たな光を当て続け、異なる思考の中でこれらを考察する時期を経てから初めて感じられることです。それらを様々な角度から考察することで、認識は高まり、確固たるものとなり、その知覚が広がり深まります。それが、人格の他の側面と結びつくのです。
真の道の途上にいる私の友人達は皆、螺旋運動が巡り、一周して同じ問題領域に再び直面する様子を見てきたことでしょう。二度目の理解は、より深いレベルで起こります。十度目は、九度目の理解より一層深いものになるでしょう。円は次第に狭まり、最終的にはひとつの根本的な混乱点に収束します。そうして初めて、その混乱に完全に向き合い、理解し、取り組み、受け入れることができるのです。原理として、このプロセスは、私が重要な概念を取り上げて様々な角度から考察するのと同じです。これも又、あなたが到達した能力とレベルに応じた螺旋運動に沿って進みます。このことは、ふたつの並行する螺旋運動があると言えるでしょう。ひとつは混乱を追究し、もうひとつは、それを補完する真の姿を表します。あなたが歪みを自覚し、それを適切に判断できる程度に応じて、あなたの真の姿は人格のより深い領域に取り込まれるでしょう。
表層的な見方では、成長と停滞はどちらも円運動をたどる為、似ているように見えることが多いようです。より綿密な知覚と、自分自身への深い探求だけが、その違いを示してくれます。確かに、次のより狭い円へと進む為には、同じ円を何度も繰り返さねばならない場合があります。しかし、次の円へと移行した時には常に、前進している現実が、あなたの存在の深みまで満たしてくれるでしょう。その時、あなたは自らが変化のない円の中で動いている訳ではないと知るのです。
私達は、人生の様々な側面や意味について話し合ってきました。もう一度このテーマに、今度は別の視点からアプローチしてみましょう。いくつかの要因が揃えば、生命は存在します。先に述べたように、生命とは動きであり、成長であり、意識であり、それ以上のものであり、全てが最終的にひとつの点、同じ点に行き着きます。しかし、それぞれの点は未だ分離しており、異なっています。それら全てが集まってひとつの全体、ひとつの有機体を形成します。有機体とは、複数の構成要素の集合体です。構成要素のいずれかが欠けると、有機体全体が崩壊するか、少なくとも深刻な機能不全に陥ります。例えば、企業を考えてみましょう。異なる社員が、それぞれ特定の職務を全うし、それぞれが特定の責任を引き受けます。もし、その内のひとりが辞任した場合、誰かが補充されなければ有機体は機能しなくなります。
肉体の構造についても同様です。肉体もまた、有機体です。正常に機能する体には、多くの構成要素の働きが必要です。体の一部が機能停止した場合、それが生命維持に不可欠なものであるか否かによって、身体機能が損なわれるか、あるいは物理的な人生が絶えることになります。
生命の内的有機体についても、全く同じ法則が当てはまります。平均的な人間は、全ての内的機能が正常に機能している訳ではありません。その結果、意識レベルは基準を下回っており、その人は半分しか生きていない、多くの場合は、それ以下でさえあります。
意識と生命との間の相互作用とは動きであり、それは自然現象において容易に観察できます。鉱物は意識レベルが非常に小さい為、その動きは殆ど知覚できません。植物の意識レベルは鉱物よりも高くなります。光、水、暗闇、乾燥に対する明らかな反応によって、そのことは分かります。従って、その動きも顕著です。こうして、成長は動物から人間へと、その段階に沿って進みます。
人間の動きは動物の動きに及ばない、と言う人もいるかもしれません。それは肉体レベルでは本当だとしても、マインド、思考、スピリットの動きにおいては、人間は動物より生き生きとしていることに疑いの余地はないとあなたも思うでしょう。スピリットにおける拡張と動きの可能性の範囲は、肉体のそれを遥かに凌駕します。このことの意味を完全に理解すれば、生命の継続性に関するあらゆる疑いは消え去る筈です。生命の連続性は最早、快い、あるいは不快な推測や理論というような議題ではなく、途切れることのない連鎖の論理的な連続として捉えられるでしょう。その連鎖が突然途切れると考える理由は何もありません。
意識の範囲を広げる可能性は、あなたのスピリットの制約によって制限されています。あなた自身の可能性を完全に活用した時にのみ、そのような制約は最早必要ではなくなります。そして、自らの可能性を完全に活用した時にのみ、あなたは自分自身、そして人生との調和が得られるでしょう。この角度からパスワークを眺めると、より深い理解によって新たな意欲と力が得られるかもしれません。
それでは、生命と呼ばれる有機体を構成する三つの主要な側面についてお話ししましょう。決意、知覚、愛の三つの側面は、意識の直接的な顕現です。意識の度合いが高ければ高い程、人生の幅は広がり、決断の自由度も高まります。あなたの自由意志、あるいは決断は、私達が見つけて解消しようとしている内なる束縛によって妨げられることはありません。あなた方もご存知のように、決断は無意識の誤認によって制限されています。あなたが現実、真実に基づいて経験を吸収できる程度に応じて、あなたは知覚し、決意し、そして愛することができるのです。
生きものは常に、過去のあらゆる経験の産物であり、その総和です。現実という観点から、経験がどのように取り込まれ、理解されるかによって、その人が身につけた人格、思考、意見が決まり、その人の感覚や感情、態度、傾向が説明されます。言い換えれば、それは、その人の人生の質を決定するのです。経験をより現実的、かつ真実に解釈し、取り込める程に、知覚はより正確になります。決断がより自由であればある程、決定できる範囲と容易さは広がり、愛する力や関わる力もより大きくなります。
これら三つの側面が相互作用し、相互依存していることは容易に分かるでしょう。例えば、イメージのように過去の経験の誤った解釈や、誤りの可能性から比較的自由であれば、破壊的な防御もより少なくなるでしょう。従って、あなたはより愛情深くなれるのです。それによって良好な関係性を築き、経験の幅が広がり、より多くの可能性、より多くの内的/外的な資源を得ることができ、あなたの決断の範囲も大きく広がります。例え、失望を経験したとしても、あなたは別の機会を見出すことができるでしょう。誤った形で経験を取り入れられた場合のように、失望があなたの能力を麻痺させたり、あなたの感覚を恐れや不信のなかで凍りつかせたりすることはないでしょう。
この三者間の相互作用の影響を理解することは非常に重要です。イメージを見つけること、何故イメージが偽りの知覚を表すのか知ること、子どもの頃に形成されたイメージに今もなお支配されていると知ることが、どうしてそれ程までに重要なのか、より明確に理解するようになります。あなたは、自らがどのように誤った認識に支配されているか、それが新しい経験の適切な解釈と吸収をいかに阻害し続けているかを理解します。そして、あなたは自らが持ち続けている誤った知覚が、どのようにあなたの決断や内的感情の世界全体を損なうのかを理解するでしょう。
あなたは古いイメージと誤った知覚に縛られ、まるで新しい体験が、痛みを伴う状況や出来事を誤って解釈する原因となった過去の経験と本質的に同じであるかのように、自動的に反応するのです。あなたはそれを限定的で一方的な観点から捉え、それを似たような状況全てに一般化したのです。その結果、あなたは状況にそぐわない反応をします。誤解を意識的に認識し、何故、どのような方法で誤解したのかを徹底的に理解しない限り、現状を変えることはできません。そうして初めて、あなたの反応はより適切で、現実と調和したものとなるでしょう。これはあなたを制限と、凍りついた感情から解放してくれます。
宗教的指導者が愛の重要性について説く時、それは正しいのですが、あなたが自らの誤った知覚に気づかなければ、愛があなたの存在を満たすことはできません。自らの内にある誤認を空にしなければ、どれほど多くの知識を外部から取り入れても、それが吸収されることはありません。従って、自己認識とは愛と霊性への前提条件です。それ以外に道はありません。真実をどれだけ吸収しようとしても、内面で未だ感じられないものをどれ程必死に感じようとしても、あなたの内なるメカニズムは依然として誤った、あるいは不十分にしか理解されていない素材に基づいて機能するのです。その結果、あなたはあまりに自動的で制限された反射反応に陥り、現実を知覚できなくなります。従って、あなたはその時に持ち得る、完全で広い視野を伴う決断ができず、人生の三つの側面の良き循環を生み出す、生産的で温かい愛の感情を感じることができません。
友よ、あなたのイメージが、知覚、決断、愛の力をいかに制限しているか目を向けてください。どんなに意識的に考えて努力しようとも、イメージの原因となる誤った知覚が、非常に制限された型の中にあなたをどのように押し込めようとするのかに目を向けてください。この角度からイメージについてじっくりと考えるならば、あなたは自らの意識がどのように弱められ、生きている実感がどのように薄れるのかを明確に理解するでしょう。真の生命力に満ちた活気は、人間においては非常に稀です。何故なら、殆どの人は正しい方向を探し求めようとさえしないからです。
過去についての誤った解釈がもたらす影響の大きさは、いくら強調しても足りません。大半の人間は、自らの過去が、現在の態度や振る舞いにどれだけ影響を与えているか知らずに人生を過ごします。友人達よ、あなた方さえもそうなのです。このことに完全に気づき始めた人々はごく僅かです。そのような誤った解釈が生じたことをある程度は認識しているかもしれませんが、あなたはその影響力を完全に理解できるまでには至っていないでしょう。
親は、子供の人生において最も重要な影響力を持つ存在です。親との関係性は、最も重要なものです。教師、兄弟姉妹、近しい人々は誰でも、影響を受けやすい子供の魂の物質に最初の刻印を刻む上で重要な役割を果たします。しかし、これら両親以外の人々の影響の大きさは、両親との当初の関係性との関わりにおいてのみ重要であり、それによってのみ決定されます。あなた方の殆どは、両親との当初の関係性が、現在のあらゆる生活状況において、未だにどれだけ強い影響を与えているかを認識する必要があります。このことの重要性を一度知覚すれば、あなたは真に自由になるでしょう。しかし、この地点に到達するまでには、多くのワーク、忍耐、粘り強さ、勇気、謙虚さが必要です。
これらの言葉の真実を経験する為の最善の方法は、自らの発見に当てはめて見ることです。子どもの頃、両親それぞれに対して、どのような感情を抱いていたかを考えてください。そして、現在のあなたの反応が、当時と同じ感情に基づいているかどうか気づいてください。このレクチャーを非常に個人的かつ実践的にワークし切ることによってのみ、あなたは真実を経験できるでしょう。単に理にかなっているという理由だけで、これを信じるだけでは不十分です。この転移を完全に理解する為には、体系的な自己探求のワークが必要です。
幼い頃の反応に自分自身が縛り付けられていることに気づけば、あなたはそこから解放されます。その方法以外に、どんなに知識を外側から集めようとしても、それが霊的な知識であったとしても、そこからあなたを解放するものはありません。この気づきこそが、あなたの意識レベルを高め、真に生きているという躍動感であなたを満たしてくれるでしょう。あなたの意識、ひいてはあなたの生命は、自分自身に対するこれらの内的洞察を通してのみ成長し得るのです。自らの非現実性に気づくことで、あなたはより偉大なる現実を生きます。愛のように見えるものの、実際には愛ではないものをまとった、愛の欠如に気づくことによって、あなたはより多くの愛を手に入れるでしょう。強さ、幸福、充実、自己信頼、安全、これらの感覚は、見たくはない自分自身の内面と向き合うことによってのみ育ちます。自分自身から目を背ける誘惑は常に存在するのです。
人類が誕生して以来、人々は安全を追い求めてきました。安全の欠如こそが恐らく、人類が自らに招いてきたあらゆる苦難の原因でしょう。そうなるのは、あなたが間違った方法で安全を探し、その結果の失望、更なる不安、いつまでも見つからないことへの絶望と共に探しているからです。あなたは、自らの恐れ、不安、不確かさを、外側からどうにか和らげたいと願っています。しかし、例えそれがうまく行ったとしても、それはごく限られた時間だけであり、その後は失望感を覚える筈なのです。
物質的な安全が実現された後に初めて、人は物質的生活に囚われていた間は気づけなかった、ある種の不安に気づきます。暫くの間は、和らげて欲しいと騒ぎ立てる、胸を蝕むような不安を無視することに成功するかもしれません。快楽であれ苦痛であれ、建設的であれ破壊的であれ、あなたはあらゆる回避によってこの声をかき消そうとするかもしれません。しかし、いずれは内なる不安と向き合うことを避けられなくなる瞬間が必ずやって来ます。これまで向き合う勇気がなかった問いを投げかけなければなりません。あなたは、そのような不安を何に感じているのか、正確に明らかにしなければならないのです。しかし、その時までは、外的な、つまりは不十分な幻想的手段を用いて、その騒ぎ立てる声を鎮める方法を見つけるでしょう。自らの不安と向き合う唯一の現実的な方法は、それに向き合い、認め、受け入れること。これがスタートです。それから、内的な誤り、誤認、偽りの知覚を理解することを通して、内的な答えを見出すことを始めます。これこそが、人生の嵐にも耐え得る、堅固な大地に安らぐ真の安心をもたらしてくれます。
先に述べたように、外的世界に幻想の安全を見つけることが、必ずしも無意味な追求であるとは限りません。社会に貢献すること、例えば科学的、芸術的、道徳的な価値ある活動をすることで、自分自身から逃げようとするかもしれません。このような活動は、それ自体が建設的で、他者の助けにもなり得ます。それらが逃げることに分類されるのは、安全が自分自身の外側には見出すことができないからです。人はこうした活動を遂行している間、内的不安をかき消しているかもしれません。しかし、これが真の解決策でないことは、あなたもすぐに認めるでしょう。真の意味で内的安全を見出すことは、良い活動を止めることを意味するものではありません。内なる重心を確立しながらも、良い行いは確かに継続できるのです。
あなたが不安なら、どうやって愛することができるでしょうか?それは不可能です。勿論、程度はあるでしょう。二者択一という訳ではありません。人には安全を感じる領域があり、それに応じて愛する力もあるかもしれません。しかし、不安が魂に浸透している程度に応じて、愛する力の完全性は失われています。それでは、内的安全と愛との結びつきから、愛する力の尺度の様々な段階を評価してみましょう。
愛することの基盤は、健全な自己愛にあります。これまで、私たちはこの点について詳しく話し合ってきました。しかし、ここで付け加えたいのは、もし、あなたが不安なら、自らを信頼することはできません。もし、あなたが自らを信頼できないなら、どうして自らを愛することができるでしょうか?つまり、健全な自己愛と内的安心は直接的に繋がっているのです。そして、他者への愛は健全な自己愛に依存する為、同じく内的安心に繋がっています。
次に、愛の他の段階についても考えてみましょう。この尺度の最も低いレベルにあるのは、無生物に対する愛です。愛を表現したいという本来的な欲求が、無生物への愛情表現に留まる人は少なくありません。それが彼らの唯一の発信なのです。物体は対立しません。物体は、他者の感情を知覚するという複雑なメカニズムを求めません。非難も批判もしません。最低限の自己犠牲や配慮しか求めません。物体は要求をしないのです。
次に挙げられるのは、抽象的な概念、原理、芸術、自然への愛です。自らの職業への愛も又、この範疇に入ります。抽象的な概念への愛は、愛に伴う明らかなリスクへの個人的な関与を避けつつも、少なくともマインド、魂、スピリットをある程度は揺さぶります。それは又、異なる意見を持つ相手との関与、あるいは対決が必要となる場合もあります。一方、物体への愛はごく未発達な形であり、そのような交流を必要としません。概念や原理への愛は、単なる物体を愛するという孤立した追求よりも、遥かに外向的であると言えるでしょう。
そして次は、人間以外の生物、つまり植物や動物への愛です。その愛が単なる理論ではなく生きたものであるならば、そこにはある程度の犠牲、配慮、そして少なくとも時折は、瞬間的に利己的な快適さを脇に置くことが求められます。拒絶されるリスクも、相手のニーズを深く考える手間も、相互理解を築く努力も必要ありません。これは、動物を飼ったり世話をしたりすることに、ごく僅かに当てはまるかもしれませんが、他の人間との親密な関係性において求められる程のものではありません。人間との親密な関係性では、自分自身のみならず、相手に対しても感覚を澄ませる必要があるのです。
次は、人類全体への愛です。これもやはり、最も苦労の多い愛の形であり、最も充実感をもたらす親密で個人的な愛の関与から、人を解放するかもしれません。しかし、これには努力、指向、犠牲をいとわない意志、活動、その他多くの建設的な態度が求められます。これも又、そのような愛が単なる理論に留まらず、実際に愛が実践される場合にのみ当てはまります。
尺度の最も高いレベルにあるのは、近しく、親密な関係性における個人への愛です。これまでのレベルの愛との関連で既に説明したので、それが何故かを繰り返す必要はないでしょう。この問いについて深く考えてみれば、それが最も建設的でレベルの高い愛の範疇にあることの理由が他にも多く見つかるでしょう。あなたや、あなたが関わる人達は、不穏な顕現として愛を実演しますが、それは本物の愛とは全く無関係で、むしろ未熟なニーズと依存的状態を示しているに過ぎず、しばしば関係の破綻や不和をもたらします。しかし、そのような相互コミュニケーションでさえ、あなたの全般的な発達や愛の力を高めるという真実を変えることはありません。波乱に満ちた関係性がある人生は、隠者や世捨て人の人生に比べれば遥かに調和に欠けるかもしれませんが、内的成長のプロセスは一見した外的調和によってのみ判断できるものではありません。
あなたは特定の人との交流は比較的容易に対処できるかもしれませんが、他の人と関わることには恐れを感じるかもしれません。もしそうであれば、あなたが最も成長を必要としている領域から逃げているのではないかと、自問してみてください。早急で表面的な評価には注意しましょう。あなたが避けたいと願う愛の側面に対する、恐れ、不安、反応に問いかける時にのみ、真実の答えを感じることができます。例え、あなたが依然として脅威を感じているものを明らかにすることを延期しようと決めたとしても、それがあなたを害することはありません。そうすれば少なくとも、あなたは自らが到達したレベルについて自己欺瞞に陥ることはなくなります。
私がお話ししてきた愛の尺度について、不思議に思う方もいるでしょう。神への愛が、抽象的な概念や原理への愛の範疇に入ると思うかもしれません。又、神への愛をこの尺度の最高位に挙げなかったことを、不思議に思うかもしれません。友よ、神への愛は健全で真正なものになり得ます。同様に、それは逃避にもなり得ます。もし、それが健全で真正なものであれば、自らがコミュニケーションを持ち、関わりを持てる誰かへの愛として顕現します。そして、あなたが自らの恐れや虚栄心を克服し、愛する力や意志の欠如を引き起こすあなたの内の障害を見つけ出し解消しない限り、これは決して起こりません。人間は、万物の創造主という想像を絶し、理解不能な存在について頭をいっぱいにする必要はありません。謙虚にそのような理解の限界を認め、人間が学ぶことができる事柄、すなわち他の人間に与え、愛することに注意を向けましょう。私がよく言うように、不信心を自認する者の方が、実際には信心を公言する者よりも、神への愛に近い場合があるのです。不信心であっても、困難な人間関係や、それを通しての相互成長を厭わないかもしれません。信心を公言していたとしても、思考のプロセスを通しては決して真に理解できない、抽象的な神の概念への不健全な執着の下に、逃避願望を隠している場合があるかもしれません。神との経験に近づく唯一の方法は、感情、知覚、決断の解放を通した内的成長です。
もし神が、自己発達を通してもたらされる内的経験ではなく、概念や理想の追求ならば、それは抽象的な概念や原理への愛の範疇にあります。従って、実践的な関わりや、自らの自己中心的な目的より相手のニーズを優先する柔軟性が求められる、人間の愛という親密な関係性よりも価値が低いものとなります。概念としての神を愛するのに、こうしたことは一切必要ありませんが、被造物同士の関わりを通して神を愛するには、こうしたことが不可欠です。深い自己理解を通して、他者への理解が深まり、それを通して、神聖なるものへの知覚が育つのです。
盲目的な自己中心性、利己主義や独占欲から、しばしば波乱を起こす激しい関係性を生きる人は、人類の為に良い行いを重ねつつも個人的な関わりを避ける人生を生きる人の、一見した穏やかさと比べると、未熟なように思われるかもしれません。確かに、穏やかな人の方が全般的には発達しているのかもしれませんが、親密な関与という点においては、学ぶべきことは沢山あるでしょう。嵐のような関係性に未熟さを表す人は、確かに未熟で、魂に問題を抱えているのかもしれません。しかし、そのような人達は、少なくとも本当に人生の真っただ中におり、例え人生の教訓を理解できない、あるいは理解しないにしても、それを避けてはいないのです。しかし、最終的には経験そのものが重要です。何故なら、その経験から適切に評価し、吸収して、真実から誤りを、誤った解釈から適切な知覚を区別する道が開かれるからです。
ある程度の欲求を抱きつつも、もしかすると恐れているかもしれない経験に自ら身をさらさなければ、どうして何かがおかしいと気づけるでしょうか?自らの不純で自己中心的な愛の形と向き合わなければ、どうして知覚を高め、決断の範囲を自由にし、愛する力を浄化できるでしょうか?それを避けて通れば、あなたはそこから抜けだせないのです。
パスワークを辛抱強く学んでいる皆さんは、ご自身が最も本質的なことを成し遂げていると知っています。例え、時に失望することがあったとしても、探し続けてください。不本意な義務を果たす為ではなく、心からそうするなら、あなたが後悔することはありません。
この学びの道に未だ思い切って足を踏み入れていない方々は、自らの不安や不安定さについて考え、それをどのように緩和しようと試みているのか自覚してみましょう。自分自身からどのように逃げるのかを知りましょう。それは、あなたを本当に苦しめるものに対する、より信頼に足る解決策を探し出すきっかけになるかもしれません。どんなに美しい祈りも、どんなに崇高な思想も、自分自身との徹底的な向き合い、又これまで魂の奥底に眠っていたものを意識化する作業とは、決して代替できません。
それでは、友人達よ、ご質問をどうぞ。
質問:内向的な人は、人生から引きこもっているのでしょうか?それとも内向的な人は正常だとお考えですか?
回答:お分かりでしょうか、私たちは言葉の問題に入っています。ある言葉は人によって、考え方によって、違う意味を持ちます。「内向的」という言葉は、ある人にとっては内省、自分の内面を観ることになります。他の人達にとっては、外的世界から引きこもることを意味するかもしれません。後者の場合は詳しく説明する必要はないでしょう。
しかし、もしあなたが前者の意味でこの言葉を使っているならば、こう申し上げねばなりません。それは決して「何を」するかではなく、「どのように」するのかによって大きく左右されるのです。「何を」するかに囚われていると、誤解、誤り、混乱、不明瞭な思考に陥る危険が確かに高まります。「どのように」するかに焦点を当て続ければ、明晰さを得るでしょう。内向性が自分自身と向き合うことに繋がり、その経験からより全体性を持ち、感情や他者との関わり方をより理解し、より成長できるのであれば、内向性は健全だと言えます。
言い換えれば、内向性が健全な外向性に繋がるならば、それは真の成長を進めます。もし自己への執着が、実りのない非建設的で、変わらない無意味な考え、不満、自己憐憫、自己欺瞞の考えや言い訳を周回しているならば、そのような破壊的な精神活動に耽る人の周りには、必然的に孤立の壁が築かれる結果となるでしょう。それはまさに現実逃避です。しかし同様に、外向的な人も、内なる真実と向き合うことから逃げ出す場合があります。このような外向性は、本当の関係性を築くことには決してなりません。外向的な人も、内向的になり得ます。健全な人は誰でも、このふたつの方向性の間でバランスを保ちます。どちらか一方が優勢になるのは、確かにバランスが崩れている兆候です。内向性は、外向性や自発性、他者に手を伸ばすことに導くものでなければなりません。これは魂を豊かにし、人生が与えてくれる教訓を学ぶ為に、吸収され、消化され、評価されねばなりません。内向的な時期は、外界との関わりをより円滑にし、人生に喜びをもって向き合うことを可能にするでしょう。交互に繰り返されるリズムは、まさに生命や調和、そして宇宙全体の動きの表現であり、自然のあらゆる所に見出せるものです。それは身体の呼吸の中に、惑星の動きの中に、海の波の中にあります。それは宇宙の物理的顕現の内にあるのと同様に、存在の精神的、感情的、霊的な波の中にも存在します。
本物の自己探究は、決して人を自己中心的にしたり、引きこもらせたりすることはありません。もし、そのような結果が見られるなら、自己対峙のワークが何らかの形でうまくいっていないと言えます。その場合、その人は正しい道に戻る為のガイダンスが必要となります。
質問:私たちの友人Wに対して何か特別なメッセージはありますか?
回答:私が既に彼に伝えたこと以外に付け加えることはありません。彼は祝福され、導かれています。彼が自覚している以上に成長しているということは、改めて強調しておきたいと思います。彼には自ら活用できるものが沢山あります。これらは、思考プロセスにプレッシャーや負担をかけず、リラックスした状態で活用されるべきです。むしろ、これまでに積み重ねられてきた成長の糧を全て手放すべきでしょう。それが彼に、より一層の喜びをもたらしてくれるでしょう。
そして、皆さんに申し上げたいのは、人間は人生の本質的な課題について、多くの場合、とても歪んだ見方を持っています。何という誤った知覚、間違った価値観でしょう!あなたが「悪い」と考えることが、より広い視野、現実の視点から見れば、最善のことであることも少なくはありません。又、あなたが好ましい、あるいは「良い」と考えることが、現実では、最も好ましくない出来事である場合もあります。あなたの視野は徐々に、人生に対する適切な知覚へと調整されるでしょう。
あなたは大抵、現実を垣間見て、その美しさと叡智を体験する準備が潜在的には整っています。しかし、思考や感覚の癖という足枷が、解放されることを阻むのです。解放されようとすると、何らかの罪の意識を感じることすらあるかもしれません。何故なら、重苦しい思考や感情だけが、人格の深さを示すという誤った概念に囚われているからです。全てが本来あるべき姿である、現実の明るい側面を喜ぶことは、軽薄に思えるかもしれません。あなたの内側で起こる成長が表出することをただ許してください!これらの新しい知覚は、あなたがしばしば自らに押し付けてきた、陳腐で「善良な」反応や応答よりも遥かに信頼できます。無意識の内に誤った概念に固執して内面の成熟を抑え込むのではなく、蓄積された内面の成熟を表に出しましょう。パスワークの道のりの一部は、あなた自身の不快で欠点のある側面、つまり痛みがある、屈辱的で、好ましくない側面を見つけ出すことです。今はもうお分かりでしょうが、この不快な瞬間は先に進めば長くは続きません。自らが誤っていると思い込んでいるが為に人為的に抑え込んだ、真の価値観、建設的な傾向、思考、感情を見つけ出すことです。自分自身に本来備わった価値を受け入れることは時に、自らの破壊性と向き合うことと同じ位、あるいはそれ以上に難しいものです。その理由は様々ですが、それについては又別の機会に見ていきましょう。今のところは、自らの内で何がポジティブなのかに注意を向けておくべきだと述べるにとどめます。
多くの場合、あなたは誤った価値観を追い求めたり、恐れる必要のない不確実性を恐れたりすることで、内的安全を危うくします。本来は否定的感情から自由であるにも関わらず、あなたはしばしば否定的感情を人工的に鼓舞しています。時として、真のあなたはとても遠く離れているかもしれません。しかし、別の時には、あなたが考えているよりもずっと近くにいるものです。
質問:現実の受容は、愛の前提条件ですか?
回答:はい、確かにその通りです。このレクチャーも、まさにこの点を扱っていると思います。どちらの方向にも作用すると言えるでしょう。現実を受け入れることができれば、確かにより愛することができるでしょう。そして、内的成長を通して完全な誠実さをもって自分自身と向き合い、あらゆる防御や抵抗を捨て去ることで、あなたは愛の力に到達します。あなたは同時に、現実を受容し易くなるでしょう。不快に思える現実を受け入れようとしない抵抗は、解放されれば愛の力と同じエネルギーの流れです。否定的感情は、現実と愛への扉を閉ざすことの結果です。相互依存していることは明らかです。何故なら、それらは実際には同じものだからです。
不完全な知覚とは、現実の中にいない、あるいは現実を見ていないことを意味します。温かく、外向的な愛情、思いやり、理解といった感情は、現実の要素を真に知覚したことの結果です。そして同時に、現実認識の幅と深さを益々広げていくのです。こうした傾向が強まる程に、生産的な感情を、人を弱体化させる偽りの感傷と置き換えることが少なくなります。真の深い感情への恐れが消え去ると、心理は最早、偽りの肯定的な感情を生み出す必要がなくなります。そのような恐れは、愛の対極にある自己中心性の結果です。そして、その同じ自己中心性が、偽りの非現実的な「善良な」感情を生み出す原因となります。これはどの観点から見ても、その方程式が必然的に導き出されることを示す、別な視点です。
誤った現実認識の最も重要な側面のひとつは、ある面では完全に健康であるにも関わらず、人格の別の側面では葛藤の中におり、問題を抱えていると信じてしまうことです。これは、全く不可能なことです。ひとつの苦痛は、ある程度は本人の人格の他の領域にも影響を及ぼします。ひとつのことは、別なことと密接に繋がっているのです。例えば、あなたが決断することに困難を感じ、自らの視野が非常に狭いと信じていながら、他の面では自らの可能性を過大評価している場合、そのような決断力の欠如は、間違いなく人格の他の傾向や態度にも影響を及ぼす筈です。特定のタイプの人々との関りや対応に困難を感じるなら、その人々を避けるだけでは問題の解決にはなりません。何故なら、不快感として表される困難は、あなたの人生の他のあらゆる顕現や表現に影響を与えるからです。だからこそ、あらゆる不快感を警告信号として受け止め、避けるべきではありません。不快感を避けるということは、あなたが自らの精神、ひいては人格全体を、健全で正常な部分と歪んで葛藤する部分とで小さな区画で分けられていると確信している証拠です。この誤った知覚は、あなたの現実認識がいかに限定的であるかを如実に示しています。
自らの盲目と隷属から抜け出したいならば、これら区画同士の繋がりと相互依存を確立する必要があります。勿論、あなたは人生のある側面では比較的うまく機能しているかもしれませんが、明らかな問題が健全な領域にまで及ぼす影響については気づいていません。何故なら、より病んだ領域との比較という方法でしか、あなたは判断できないからです。自分自身と真摯に向き合うという、完全かつ徹底した意志から生まれる喜び、安らぎ、安心の感覚は、あなたには想像できない程です。そうすれば、それらの繋がりを通して、あなたに関わる現実が徐々に鮮明に見えてくるでしょう。これこそが、あなたが始められる唯一の方法です。
良く機能し、愛し、知覚し、決断する前に、この究極的な健康状態に至らねばならないと解釈しないようにしましょう。自らの問題を全体的な意義で認識することで、この点において相対的な進歩を遂げることができますが、それは勿論、容易なことではありません。見つけた問題の一部を表面的に、安易に言い表すことと、上記の認識を混同してはなりません。その認識は深い気づきであるべきであり、あなたの内的誤認とそれに基づく他者や人生への誤った反応から生じる、あなたの外的問題、傷つき、満たされなさ、欲求不満の全てを理解する、超越的な経験でなければなりません。このゴールが達成された時、構築のプロセスを始めることができるのです。しかし、深く根付いた誤った反応を本当に手放す前から、あなたは自らの運命をコントロールできるようになるでしょう。何故なら、あなたは今、自らの人生との関係性を本当に深く知覚しているからです。このような理解によって、長らく誤りや混乱で詰まっていたあらゆる経路に、新鮮で清らかな空気がもたらされます。これこそが、私がお話ししている真の安全です。
思いがけず、今夜のレクチャーは、過去のレクチャーの繰り返しや要約のように思われるかもしれません。しかし、このテーマをより深く見るならば、自分自身に対する新たな理解が深まるでしょう。そうすれば、このレクチャーが新しいものであることが分かります。何故なら、ほんの少し前までは、この内容を理解し、自らに適用することができなかったからです。今そうできなくても、いずれは必ず適用できるようになります。しかし、このテーマについて瞑想の時間を確保しさえすれば理解できる、既に準備の整った方々は何人かいます。
これらの言葉があなたの内で根付きますように。新しい友人たちにも、やがては魂の中の種となる何かを見つけられますように。愛の流れが、皆さん全員を包んでいます。それが、あなた方に新たな生命を吹き込みますように。平和の内に、神の内にいてください!
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