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Pathwork in Japan
No.116 霊的な中心へと手を伸ばす「ローワセルフと、刷り込まれた良心の葛藤」
Pathwork Guide Lecture No. 116
UNEDITED版
1963年6月21日
霊的な中心へと手を伸ばす
「ローワセルフと、刷り込まれた良心の葛藤」
REACHING THE SPIRITUAL CENTER—STRUGGLE BETWEEN
LOWER SELF AND SUPERIMPOSED CONSCIENCE
親愛なる友よ、ご挨拶申し上げます。皆さんに祝福がありますように。共に過ごすこの時間が豊かなものとなりますように。
去年一年間、共にワークをしました。皆さん本当によくやりましたね。心からのワークだったと思います。自分自身と向き合うことへの抵抗という、生まれ持ったものを乗り越え、変化を経験しましたね。少なからぬ進歩を遂げました。皆さんが経験している継続的な成長のプロセスの重要性、自分自身の進歩について、ほとんどの人が完全にではないにせよ、気づくことができているのではないでしょうか。そしてここにいる人の多くは、さまざまな形で、意識の拡大や上昇を感じることになると断言することができます。自分のコントロールを越えたところにある外的な解決法が手に入らないと、以前は絶望をしていた場面でも、自分の内にある障害をより深く理解することで時折光がシフトする感覚を掴み始めることができているのではないでしょうか。特定の不幸や不満足は、内なる間違いと混乱の結果であると今では理解していますね。この理解自体が希望と安心感をもたらし、自分ではコントロールすることができない外的な状況による無垢な被害者という感覚を取り去ってくれます。人生の因果関係への理解をもう少し深め、実際に目の当たりにすることで、この世界もそう悪いところではないかもしれないという安心感があなたに染み入ることでしょう。こういった思考は意識化されることはなくとも、ある程度の洞察を獲ることで、影響が心理に及ぶのです。
いつも以上にすべてが混乱していると感じる人も中にはいるかもしれません。重大な認識に至るひとつ前の段階にいるということです。こういったときの葛藤は大抵、どちらかといえば避けたいと願っている何かと対峙するまで強い痛みを伴います。皆さんすでに経験をされていることですが、対峙の後の開放感と力強さ、希望と光はあまりに深く、その影響は消え去ることがありません。とはいえ、あなたが葛藤に携わっている間は、道に対する見解は全体的にぼんやりとしたものになります。これまでにどれだけ達成したのか、やり残しているのは何か、今自分はどこに立っているのか、内なる障害や逸脱についてどれくらい理解しているのかを判断し辛くなります。この段階にあるとはいえ、皆さんは今や自分の深さをじゅうぶんに見抜き、自分がどれだけ進歩したのか、そしてこれから先達成する必要があることは何なのか分かっていると思います。何より大切なことは、人生の中のどういったところで不自由さや障害を感じ、防衛をし、不安を感じるのかを具体的に知ることです。次のような質問を自分自身に投げかけることで進歩の度合いや課題を測ることができます。自分の問題が何であるか理解できているのはどのような部分なのか。さまざまなことを理解したにもかかわらず、まだ変化に抵抗しているのはどこか。混乱し、暗闇にあって、さらなる洞察を必要としているのはどこか。完全に解決することができたのはどこか。これを棚卸しと呼んでいいのか分かりませんが、このような作業は非常に役立ちます。
今年最後のセッションである今夜は、自己実現の道におけるいくつかの点や目標を再確認したいと思います。人が自分自身と自分の人生の間にある関係性を理解しないままに日々を過ごすとき、この人は絶望にあるのです。本人が意識しているかいないかは別として、何か答えを求めて人生を過ごすことになります。そしてこうした答えを外に求めることがほとんどです。皆さんご存知だとは思いますが、答えは外には決して見つからないのです。外への探究はさまざまな形をとります。他者が自分の意志に屈してくれるのではないか、そうすれば自分は幸せになれるのではないかと意識的または無意識に強要するのもそのひとつです。他者を屈させるのに失敗すると人は怒り、恨みっぽくなり、そして大抵の場合自己憐憫でいっぱいになるのですが、こういったすべての感情が無意識である場合もあります。外への探究のもうひとつは、哲学や宗教、科学などに理論や答えを求めるというものです。このような情報源から価値ある有効な答えを発見する可能性も確かにあります。しかし、手にした答えを深い、自分自身への内なる探究の灯火として使わないかぎり、本当の助けとはならないでしょう。知識が知識として留まって良いことはありません。実質や意味をその人の人生にもたらすことはないでしょう。
この機会に皆さんにお伝えしておきたいことがあります。これまでに何度もお伝えしてきたことであり、早い段階でこれを経験することは非常に稀ではありますが、すでに経験し始めている人もいます。何にせよ、再度申し上げておこうと思います。それは、満足のいく人生を送るのに必要なすべての知恵、すべての叡智、そして力を人は内に持っているということです。これは以前に何度もお伝えしていることなので、同じ言葉を繰り返し聞くことに飽き飽きするかもしれませんが、残念なことに、この重要性を本当に理解している人は滅多にいないのです。あなたという存在の内なる世界では、あなたが必要としているすべてを見つけることができ、そこへと続く正しい方向へ実際に歩みを進めているにもかかわらず、ただの理論として捉えられ、大した影響を受けずにいます。靄がかかった漠然としたコンセプトとして自己探究のワークを行い、幸せに、そしてより満足した人間になることもひとつでしょう。しかし、明確で簡明な目標を掲げ、あなたを迷わせ混乱させているすべてを解決する豊かな叡智や知恵、力、そして愛があなたの魂の深くにあるという力強い意義に気づくこともまたひとつです。完全な素直さで自分自身に向き合うことは、時に痛みを伴います。そんな自己との対峙への抵抗を乗り越えるためには、この違いを知り、意識的に正しい方向へと進むことが大きな助けとなります。
隠された葛藤や歪みを見つけ、理解し、解決する目的は、最終的にはあなたを、最奥のコアとの接触へと導くことです。すべての人の最奥のコアには、神聖な愛、叡智、そして力という宝が埋め込まれています。この目的が明確になれば、今後霊性と世俗の興味の間で葛藤することはないでしょう。
人類には大きく分けてふたつの基本姿勢があります。ひとつ目の人格を持ったタイプは神を探究します。こういった人は霊的な成長を求めます。より良い人になりたいのです。不幸せさや混乱が、霊性の探究へとこの人を導きます。以前にもお話ししましたが、こういった人は、自分自身の魂の内でしっかりと歩を進める代わりに、霊的な理論や教義といった外側の知恵を集め、本当の道を見失ってしまうことがよくあるのです。もしも思考を超越するための予備知識としてこうした知識を集め、人格の障害を理解し解決することで霊的な中心に達することができるのだと理解することができれば、神のうちに生きることと、個人としての人生を実現することの間に最早矛盾は生じません。個人としての人生の実現は身勝手で、霊的な人生に反するというのは誤解です。こうした誤解は、霊性を求めてはいるものの、自分自身の隠された葛藤や混乱に踏み込むという最終段階に至っていない人々の間にはびこっています。このような人が葛藤や混乱に気づいたとしても、気づきは理論に留まり、外的な神や霊的な気品といった心地の良い介入によって欠陥を解決したいと望むのではないでしょうか。
ふたつ目の姿勢は、人生とは幸せに、そしてできるだけ満足のいくものでなければならないという見解に基づいています。単に他者を気に留めず無慈悲な態度をとる、霊的に未発達な人々のことを言っているのではありません。ここで私が取り上げているのは、一般的な礼儀があり、他者に危害を与えようとは望んでいないけれど、霊性の獲得には興味のない人たちのことです。問題は自分自身にあるのだと、知性を通して理解している人は多く、大抵は世俗的な心理学を通して、歪みを見つけ、正そうとします。もしも人が真に深いところまで辿り着くことができ、じゅうぶんに意義深くこの探求をし、内なる成長が伴い、中途半端に終わることなく最後まで遂行することができれば、たとえ内なる中心が存在することなど知らなかったとしても、そこに到達することができます。中心、すなわち神の現実を発見することになるのです。この方法でなければ神は見つからないのです。伝統的な宗教は偉大な真実を含んでいると同時に、実際の真実とはまったく違ったものであるということを、このような内なる経験は教えてくれます。神を内に見出すことは、個人としての幸せを剥奪することではないと示してくれるのですが、このような誤解は無宗教の人達でさえ抱くものなのです。分裂や分割、矛盾や二者択一の考えは、分離と間違い、そして混乱が副次的にもたらすものです。真実は、すべてはひとつであることなのですが、これはただの理論ではないのです。真の自己を実現する自分の中心を暴き、実際に自ら経験するのです。そして両立し難いものはひとつになるのだと知ることです。
あなたの最奥の中心との接触の障害となるものを、これまで時間をかけて見てきました。これからも引き続き見ていきたいと思っています。これ以外に到達の方法はないのです。避けて通るわけにはいかないのです。最終的にこの宝物に達するとき、それが突然に劇的な出来事として起こるだろうと想像してはいけません。他のすべてと同じで、徐々に進んでいくプロセスなのです。ほとんどの人は、部分的ではあるものの、自分がすでに中心に到達していることに気づいておらず、またその他の部分では、未だにバリアがあるために行く手を阻まれているのだと分かっていません。じゅうぶんな自由と意識を獲得し、内なる中心から大抵のことができるようになるまでは、行きつ戻りつし、変動します。これを聞いて、自分は完璧であるとか、すべての問題や、下等な本能を乗り越えたと捉えないようにしてください。自分が抱えている問題や下等な本能を深く理解し、完全に意識できるようになるということは、霊的な自己という内なるコアが最早隠されておらず、近づきがたいものでもないということなのです。
不幸せで見失っているときほど、人は空虚で飢えていることでしょう。もしかしたら、愛情や理解に飢えているのかもしれません。常に滋養を与え続ける力を持ち、人生を実現するようあなたを維持し導いてくれる内なる自己との接触が少ないのではないでしょうか。内なる自己と接触するとき、人は孤独の本当の理由を理解し、空虚さは満たされます。
それぞれの人の人生では、全うすべきことが違います。そして、すべての人が全うすべきひとつのことがあります。再びここでも言えるのですが、これは矛盾しているように聞こえるかもしれませんが、そうではないのです。覚えておいてほしいのですが、この道の目的は、あなたという存在の中心を見つけることであり、この中心は現実であり、神なのです。この中心によって完全なる達成を見出すことができるのです。中心から孤立することで達成するのではなく、中心と一体となって達成するのです。あなたの孤立の緩和を外に見出そうとすると、より一層孤立してしまうでしょう。孤立の緩和を内側に見出そうとするとき、自分自身を見つめるプロセスは一見、自分本位で、外からはあなたが周りから孤立しているように映るかもしれませんが、実際にはこのプロセスは孤立や分離を和らげてくれます。孤立や分離は苦しみと孤独感を生み出すことが多いのです。あなたの霊的な自己は他の人の霊的な自己と同じですから、あなたが霊的な中心からの分離をなくしたその瞬間、周りからの分離感は消えてなくなってしまいます。本当のあなたは、他の人にとっての本物の自己だからです。あなたと他者の間にバリアはないのです。バリアは、外側の層にのみ存在しています。
ワークでの自己分析は、いくつかの点において一般的な心理学と似ていると、この道を歩んでいるとある方が言っていました。これはある程度、本当かもしれません。ただし、この二つの最大の違いは、しっかりと定義された最終的な目的があるかどうかです。一般的な心理学では、内なる葛藤の解決は、より良い機能を獲得するという目的のために行います。前にもお話ししましたが、この作業によって、人は霊的な中心との接触に導かれはしますが、あたかも不注意によるものかのように捉えます。霊的な中心との接触は心理学が掲げる目的ではないのです。しかし私達にとっての目的はただひとつ、霊的な中心との接触です。この接触を求める道中、霊的な中心はすべての問題を解決していくはずです。この道を歩む皆さんは、信条や教義、学説といった世俗的な心理学者達が重視するものを、最早あまり重視しないのではないでしょうか。刷り込まれた意見は、それが真実であれ間違いであれ、自己を表明するという観点からすれば妨害です。この道ではいつでもそうですが、特に今夜のガイダンスで我々は、内なる霊的な中心という現実に重きを置いています。この中心が解き放たれるとき、理論や信条への執着が入る隙はありません。神は証拠を超え、証拠を必要としない個人的な経験となるのです。この現実は、道を妨げるすべてが取り去られてはじめて経験できるものです。すべての不幸や争いは無知と誤解がもたらすのだと、ひとつ前のレクチャーでお話ししました。あなたが出会うすべての内なる問題は、例外なく現実が歪んだものなのです。即席に接触が可能な現実によって引き起こされた歪みに制覇されていては、実際の現実から広がる事実を、より大きな視点で捉えることはできません。この霊的な現実は、個人的で内なるものとしてのみ経験することが可能です。もしも普段から接触している現実をしっかりと深く洞察できているのならば、この二つの現実に矛盾は生じないはずです。深い洞察のためには、あなた個人の態度や見解、コンセプトを一度疑い、それがどのようなものであるか述べ、そして新たに述べ直す必要があります。覆い隠されている概念の意味や重要性を知るという意味でも、自動的かつ無意識に起きている反応を探る必要があり、こういった概念を表面に浮かび上がらせ、見定めることができる状態にする必要があるのです。このプロセスによって、あなたの内にある非現実性を理解し、最も広い意味での現実にどんどん近づいていくことになるのです。
人の心理に起こる内なる混乱や戦いのなかでも主要な部分を占めていることについて、お話ししておきたいと思います。以前にも違った角度から同じ内容を取り上げたことがあるのですが、この話題は最も大切ですから、今度はより直接的な形で取り組んでみたいと思います。繰り返しも出てきますし、いくつかはひとつ前のレクチャーでも触りを扱いました。また中にはプライベートセッションで取り上げた方もいますね。
内なる戦いの中でも、最も悲劇的なもののひとつに、我々がローワセルフと呼んでいるものと刷り込まれた良心との間に生じる摩擦が挙げられます。表現や言葉が、最も深いところで何を意味しているのか理解されないままに使われ、最終的には力を奪われ、オウムのようにただ繰り返されてしまうことが、あまりに頻繁にみられます。これは有害なことですし、自立した理解と、創造的な思考という私達が目指すものとは真逆の効果になってしまいます。ときには言葉を再定義し、新鮮さをもたらたすことも大切です。混乱を避けるためだけではなく、言葉に対するアプローチと理解にインパクトを与えるためにも大切なのです。ですから、私がローワセルフという言葉を発するとき、それが何を意味しているのか改めてここで定義したいと思います。ローワセルフは、人の欠点や、人格の落ち度が眠っている人間の性質のみを指しているわけではありません。もう少し微妙で、言葉にしにくいものも含んでいます。ローワセルフの説明として最適なのは、感情の雰囲気として表れる自己中心性ではないかと思います。善良な意図や利他的な行動、思慮深い態度があるにもかかわらず、内なる世界には利己性が存在しているのです。前者が強いほど、内なる利己性はより発見が難しく、認めにくく、受け入れ難いものとなります。子供っぽく、一方的な利己性が罪悪感や羞恥心によって隠されているほど、そこから成長し、抜け出すことが難しくなります。馬鹿馬鹿しいほどに、何を差し置いても自分本位であろうとするこの姿勢に、鋭く意識的になる必要があります。あなたの中のこの部分は、極度に支配を望んでいます。他者の関心事などどうでもよく、どんなことをしてでも邪魔をしようとします。自分の小さな望みや、自惚れを満たすことが、それよりも大切な他者の関心事を帳消しにしてしまうのです。ローワセルフを実際の行動に移すことは確かに稀ですが、半分意識的で半分無意識なあなたの望みや志に、ローワセルフの反応が反映されるのです。
ローワセルフが存在しているという事実よりも問題なのは、あなたがローワセルフに対して抱いている反応や姿勢です。ローワセルフに対する羞恥心と罪悪感は、先ほど申し上げたような、成長や表明の妨げとなる誤解から生じたものです。誰よりも自分は、ローワセルフを完全に乗り越えているべきであり、自分の中にこんなにも子供っぽく、馬鹿げて自己中心的で自己本位な姿勢が存在するなどありえないという考えから、この誤解は生じています。こうして悪循環に繋がる自己欺瞞や偽りといった精巧なシステムを始動することになり、幸せや自尊心は破壊されていきます。自分の中のローワセルフと和解している人はそう滅多にいないでしょう。理屈では和解するのですが、自分の中のローワセルフのすべてに納得しているわけではないのです。とはいえローワセルフは、納得することではじめて少しずつ成長していくことができるのです。否定することで、ローワセルフが姿を現わしたとしても見過ごしてしまいます。姿を現わした瞬間に覆い隠され、視界から押しやられてしまい、はっきりとしない感情として現れるローワセルフは、見過ごされてしまうのです。こんなにも具体的な形となって現れていても気づかず、一体どうして乗り越えようというのでしょう。まさか、ローワセルフにまつわる一般的で理論的な知識によって乗り越えようというわけではないでしょうに!
ローワセルフに対する羞恥心と罪悪感、そして隠そうとする姿勢が原因となって、人格は悲惨な影響を被り、ローワセルフは長らえることになります。ローワセルフから成長し抜け出たいという、あなたが一番望んでいることの邪魔をします。この自己欺瞞の態度からはさらに、より深刻な混乱が引き起こされます。この一連は、無意識に行われるがために、尊大で破壊的な衝動と相まって、識別や理性が入る隙はなく、あなたが生まれながらにして持っている最も創造的で建設的な衝動や姿勢さえも隠してしまうことになります。しかも、完全な誤解からそうなってしまうのです。意識という日の光の中で成長することが許されさえすれば、生産性を秘め、活力を与えてくれるはずの衝動や本能が、妨害されたまま、現在の形にとどまるかぎり、それは実際に破壊的なのです。ローワセルフは何か美しいものに成長することもできるのですが、その成長を許されていません。なぜなら、現在の形は最終的なものであり、それを否定し追い出す必要があるという、無意識による無知が存在しているからです。さあ、明確にするために要点をまとめてみましょう。ローワセルフの抑圧には三つあります。(1)ローワセルフとしての明瞭で極端な現れ方や人格の傾向、他者の関心事を排除する利己性と自己本位な姿勢という微妙かつ総体的な雰囲気(2)本物の創造性と建設性を抑圧する姿勢(3)現在の幼稚な状態ではまだ非生産的で自己中心的であったとしても、成長の機会が与えられさえすれば創造的で生産的、かつ建設的となりうる本能の抑圧。ローワセルフそのものが悪いものであるかのように扱ったり、無視をしたりすることで成長の機会は奪われます。
今挙げた三つの違いを把握することは大切で、三つとも、受け入れられ、気づかれることを必要としています。そしてその理由はそれぞれであると理解する必要があります。すると、最も価値あるものとして私達に提供されているものは大抵、妨害され、否定され、隠されたものなのだと、理解することになるのです。故に膨大な混乱があなたの内に生まれます。ローワセルフを否定し真逆の意図や望みを偽ることで、実際のローワセルフの傾向は消え去るはずだという考えに関連した混乱です。生き生きとした生命力としての可能性を秘め、美しく健康的な形で機能する機会は、この混乱によって退けられてしまうのです。このような性質は内で絡み、混ぜこぜになり、そして人格は混乱によって絶望へと突き放されてしまいます。このすべては、意識と無意識の間の不毛の地、漠然とした真空で起こります。
グループの活動がお休みになる夏の間を使って、今お話ししたことに思いを馳せてみてください。皆さんにとって価値あることなのではないかと思います。私達は皆、来年一年間のワークにおけるさらなる進歩を望んでいます。そのための素晴らしい準備になると思います。ローワセルフの実際の性質について自問したりせず、ローワセルフへの先入観は横に置き、まずは自分がローワセルフに対して抱いている態度を見つめるようにしてください。ローワセルフの顕現が確実であることにショックを受けていますか。ローワセルフのせいで、自分自身に短気になっていますか。ローワセルフなどすでになくなっているべきだと感じ、人間らしく存在することを拒んでいませんか。これまで完全に正当だと信じてきた一般的な基準からの影響を受けることなく、新鮮な視点から見たとき、自分の内にある、非常に建設的となりえる何かを、あなたは否定していますか。特定の反応や衝動という微妙な形で、ローワセルフが顕現する様子を観察し始めてください。そして、そんなローワセルフを即座に押しやる自分の傾向も見るようにしてください。続いて、こういった逃げの反応が持つ望みや態度を観察してください。これらを明るみにし、落ち着いて観察してください。ローワセルフに関して、自分自身をどれだけきつく、そして狭量に扱っているかをしっかりと理解してください。あなたが自分に課している堅苦しく強硬な姿勢、自己破壊的な厳しさはあまりに均衡を欠いています。これらすべては、夏以降に扱う新たな段階に向け、準備としての健全なワークとなるでしょう。今述べたことが、内なる戦いのひとつの側面です。
では反対の側面はどうでしょう。良心という概念を人類は、大きく取り違えています。つい数年前、人類には二種類の良心があるとお話ししました。ひとつは真実の自己から生じるもので、もうひとつは刷り込まれた良心です。このことに触れたレクチャーは皆さんから忘れ去られ、あれから皆さんが手にしてきた気づきと統合されていません。ですからここで一度、刷り込まれた良心とは一体どのようなものなのか、簡単におさらいしておこうと思います。
良心という言葉を語るとき信心家は、精神の神聖な中心から生じる内なる良心のことを指します。しかし彼らは、この内なる良心と他の良心との間にあるあまりに大きな違いを無視することも多々あるのです。人類をより良い生き物にするのに熱心であるが故に、社会からの圧力は、常識的な基準に従うよう個人に強要します。こうして刷り込まれた良心は強化され、内にある、本物の良心にはより多くの覆いが被されていくのです。
人の粗野で破壊的な本能を防ぐために、刷り込まれた良心が不可欠であるというのは違います。破壊的な行動を自制する良心が未発達な人達にとって、社会の単なる法律はじゅうぶんであり、むしろその方が刷り込まれた良心より適切です。刷り込まれた良心は、害あるのみです。前にも説明しましたが、内なる葛藤においてまず行われるのは、ローワセルフを明るみに出す代わりに隠すことです。しかしそれでは、ローワセルフが幼稚な状態から成長し、抜け出す可能性を奪ってしまいます。刷り込まれた良心はまた、生命力を開放する、最も建設的で創造的な生命力や衝動も隠してしまいます。自分自身についての非現実的で歪んだ視点を染み込ませ、こういう人にならなければいけないと思い込ませるのです。魂が生まれつき持った神イメージや歪み、そしてローワセルフだけではないということです。刷り込まれた良心も、含まれているのです。多くの混乱を引き起こし、自由と真実の妨げとなるのは大抵、刷り込まれた良心の方です。人間としての自分を自ら否定させる引き金となるのはこの刷り込まれた良心です。刷り込まれた良心からの要求と、あなたの内にいまだに隠れている自己中心的な小さな子供の要求の狭間で、あなたは怒り狂う嵐の中で引き裂かれているかのようです。この嵐が明るみに出されないかぎり、嵐を制覇することは決してできません。ふたつの現実から自らを救い出すことなどできません。刷り込まれた良心のみが、ローワセルフの本能が行動化するのを防げるのだという間違った信念から、刷り込まれた良心にしがみつこうとしているのです。これでは自分を、健全に安定して信頼することができません。自分にその機会を与えていないのです。健全な自尊心や自己信頼は、真実の自己からのみ生まれます。刷り込まれた良心にしがみつくことでさらに、自分自身から遠ざかってしまい、我々がよく指摘する悪循環に陥ってしまいます。真実の自己を発見しないかぎり人は、刷り込まれた良心を確認し、それに従い、なだめ、盲目的に後に続こうとします。羊のように。自立した思考や識別の能力を発展することは決してなく、さらに弱く依存した状態となり、自立がより難しくなるのです。
外から見たときの行動が、結果的に同じものになるか違ったものになるかは分かりませんが、たとえ結果が同じだったとしても、屈従と恐れからの行動と(刷り込まれた良心に従うことによる行動とも言えるでしょう)内なる葛藤や直感、根拠から導き出された自由の精神という、あなた自身の真実の良心に基づく行動との間には、途方もない違いがあるのです。もしもあなたが今、刷り込まれた良心に反抗しているならば、それは服従しているのと同じくらいに不自由な状態です。刷り込まれた良心に服従し、結果が好ましくなかったとき、反抗や自己憐憫といった腐食が生じ、人生や世界を責めることになるのです。自分の真実の良心に従えば、責任はすべて自分で負うようになり、ネガティブな結果さえもあなたを絶望へと追いやることはないでしょう。快適な結果と不快な結果の間には、思うほどの大差はないのだとそのうちに分かると思います。なぜならどちらにせよ、あなた自身の基準から導き出された行動や決断であれば、成長の可能性は同等だからです。
刷り込まれた良心と、粗野で自己中心的、破壊的な子供との間に起こる戦いは悲劇です。この戦いに気づかず、あまりに不必要な戦いであるがために悲劇なのです。
もちろん、教育は大いに関係しています。もしも人類がこういったことに気づき、若い人々を正しい方向へと導くことができれば、多くの害は免れます。ただし、あなたの中のすべてがこの葛藤に陥っているわけではないのですから、教育の無知や間違った導きのみが、この葛藤の責任を負っているわけではありません。刷り込まれた要求や基準、ルールが実際に存在しているか、もしくは単にそう信じられているかは別として、これにしがみついていない、機能した、自由な部分もあなたの中にはあるのです。刷り込まれた良心に執着しているのは、欠点やローワセルフ(それが本物であっても想像上のものであったとしても)を受け入れず、個人的かつ具体的に問題を感じているところのみだという事実は、注目に値するのではないでしょうか。この具体的な葛藤に光を当て、向き合うとき、自分が抱えている内なる問題と、目の前の問題との間に密接な繋がりがあることが分かるのではないかと思います。
皆さんご存知のこととは思いますが、個人的な問題や逸脱は、それが実在するものであっても想像上のものであっても、子供の頃の痛みや不満から生じたものです。片親、もしくは両親からの愛情に安心できず、受け入れられていると感じることができないとき、子供は、この痛みはあとでまた修正しよう、とりあえず今は精巧な防衛を築こうとします。子供の頃の痛みは人生の重荷になるだけではありません。あなたが今も引き続き使っている防衛は、自己実現の可能性を破壊してしまうということを、これまでのところでお分かりいただけたと思います。今では皆さんの多くが、理論としてだけではなく、個人的な経験を通してよくご存知だと思います。大抵の場合、あなたがあいまいな感覚を抱いている方の親、または恐れを抱いている方の親は、刷り込まれた良心を象徴しています。なぜなら人は、必死にこの親からの愛情を獲ようと努力するからです。刷り込まれた良心には、社会的なルールだけでなく、今ここで引き合いに出されている親のルールも含まれているのです。そしてこの親も、その人自身の刷り込まれた良心に執着している可能性があります。親から何かしらの基準や期待をかけられていると思い込んでいることも多いと思いますが、こういった取り組みをする際には、実際がどうであったかということではなく、感情的に何か感じるものがあるかどうかがとても大切になってきます。
過去や現在の両親に対する態度を観察することなしに、刷り込まれた良心をじゅうぶんに理解することは到底できません。両親に対して抱いている特定の感情や状態、そしてあなたに対する両親の態度、そこから生じるイメージや行動のパターン、築き上げてきた防衛のメカニズムを観察するということです。この全体像を観察することではじめて、刷り込まれた良心と、実際、もしくは想像上のローワセルフとの間に起こっている争いが新たな意味を持ち始め、解決に必要な洞察を与えてくれるのです。この戦いはたとえ観察できたとしても、意識できたとしても、一般的な知識では緩和できません。あなた自身の個人的な問題との関係性において捉えることが不可欠です。ローワセルフと刷り込まれた良心との間に起こっている争いは、その顕現の仕方や、その他多くの点で、他の人が抱えているものと同じであることも実際多いのですが、他者のものとはまったく違っている場合もあります。
先ほども申し上げましたが、この戦いであなたは、自分自身を冷酷に厳しく扱っています。最も残酷な支配者が行使するかのように、社会が行使しているとあなたが感じている不条理な基準を遥かに超える形で、自分自身に鉄の法則を負わせています。内なる中心は常に更新されるその活気によってあなたを育んでくれるというのに、あなたの盲目で行き過ぎた基準は、この内なる中心に到達するのを不可能にしてしまいます。希望的観測とは正反対の、希望に満ちた状態や、先見の明、成熟した決断の能力、愛し愛される能力、受け取り与える能力、関係する能力を、内なる中心は与えてくれます。この中心は、ひとつの目的を満たすためだけではなく、人生において大切であるすべてを満たしてくれる有益さを、調和と共に作り出すことができるのです。あなた方の多くは、人生のある部分には深い満足を感じていると思います。しかしそれ以外の部分では不満で孤独です。「私は大きな達成をしたのだ。この達成のために他が剥奪されるだけのことだ」とあまりに多くの人が自らに言い聞かせ理性化しています。しかしこれは本当ではありません。これが本当ではないことを、あなた方は深いところでは知っていますね。人生の一部を達成したからといって、他が犠牲になる必要はないのです。健康的な魂には、すべての達成の余地がじゅうぶんにあります。人としての存在の深いところまで達している人にとってはそうなのです。これまで目詰まっていたチャンネルは、すべて開くのであり、部分的に開くわけではないのです。どのような自己表現も、すでに自由を獲ている何かの犠牲となって苦しむ必要はないのです。それでも人は、自分にはすべてを受け取る価値はないと、どこか深くでは感じています。すべてを達成している自分という概念を、築こうともしません。別の層では、子供じみた要求過多な態度が存在しているのも事実ですが、すべてを達成している自分という概念を思い描くことから身を縮め、多くを要求し過ぎていると思い込んでいることに気づくのではないでしょうか。この戦いで、自分自身と折り合いがついていない証拠です。人生のすべてを達成している姿を思い描くとき、あなたの内のどこかで「いけません」という声がするのです。これはあなたが自分自身を厳しく扱い、許さず、受け入れていないために発せられるのです。あなたの内にいる自己中心的な子供と仲直りをしていないから起こるのであり、あなたがこの子供の要求を押しやることで、それは対応し切れないほどに桁外れなものとなってしまうのです。
聖な性質すべてを妨害し、自らを罰する態度を生み出し、足かせを作ります。これは犯罪や破壊的な行動を防ぎはしません。むしろ逆です。抑圧し隠すことによって、意識の表面では容易に対応することができたものもできなくなり、内側で芽生え、蓄積し、緊張とプレッシャーが生じます。前にもお話しした、霊的な中心の一部を担う内なる良心、そこに接触する機会を自らに与えることなく、あまりに長い間、刷り込まれた良心に従ってきたために、自制できない行動に駆られてしまうのです。最後に大切なことなのですが、倫理や道徳といった法則や基準に人が反抗するのは、刷り込まれた無情な良心がまったく無慈悲に、柔軟性を欠いた要求をし、盲目的な評価を下すからです。人が本物の、内なる良心に反抗することなど決してないのです。
つまり皆さん、あなたと内なるあなたの間に立ちはだかるのは、間違いや、誤解、間違ったあなたの内にいる子供に成長してもらうためには、粗野で自己中心的、破壊的なこの子供をじゅうぶんに受け入れる必要があります。内なる子供の顕現すべてを完全に理解した状態のみが、この子供の成長を可能にします。内なる子供の「悪」の部分に対する感覚を見失わずに、しかもそれを受け入れるという姿勢がどれ程できているかによって、内にある最も高い部分をどれだけ知覚し、経験し、受け入れられるかが決まります。内なる子供から発せられる衝動を見て、好ましくない側面があるにはあるけれど、それに従って行動する必要はないのだと理解することで、内なる子供への罪悪感を手放すことができます。少なくとも自分の成長具合を誤魔化していませんし、内なる子供の要求を行動化することなく、その内容をしっかりと見定めることができます。そうすることでこの戦いに勝つ機会を手にすることができるのです。間違った良心から自分を解き放ち、自分自身の真実の良心に耳を澄ますことができるようになるのです。
この話題に関して何か質問はありますか。
質問:事前に準備してきた質問があるのですが、まさにこのレクチャーに分類されるのではないかと思います。人は、自分の理想化された自己像に自分を押し込めようとするだけでなく、両親の理想化された自己像にも応えようとしているということでしょうか。合っていますか。
回答:完全に正解です。無力さと不安定さから子供は、両親から受け入れられようと必死に努力します。このとき、両親の基準を取り入れなければならないと信じ込むのです。先ほどもお伝えしましたが、実際にそこにあった基準がどれ程のものであったのか、単に子供が思い込んでいたのかは、ここでは問題ではありません。内なる確信を置き去りにした状態で、子供は間違った、偽りの、表面的な、ある特定の基準に執着を抱き始めることになります。この子供は、真実の自己から遠ざかり、それは弱いものになっていきます。さらには、このような生き方をし、基準に従ってみたものの、望んだような結果が獲られないときには恨みは倍増し、騙されたと感じます。しかしもちろん、この方法ではうまくいかないのです。皆さんご存知のように、誰の中にも成長したいという強い望みと同等に、多かれ少なかれ、子供のままでいることを諦めたくないという思いがあるものです。面倒を見てもらえる子供のままでいたいという主張を取っておくためには、刷り込まれた基準や良心にしがみつき続ける必要があるのです。それが両親であれ、親の代理となる人であれ、その人があなたにしたように、刷り込まれた基準や良心で自分自身を満たそうとし、威圧し、強要するのです。手に入れ損ねた何かを、遅ればせながら手に入れようとするのです。つまりこの一連は永続されることとなり、刷り込まれた基準や良心がどれだけ強烈で、どれだけたくさんの副作用をもたらすのかをじゅうぶんに理解できるまで続くのです。
質問:先ほどお話しされた、本当は建設であるにもかかわらず、そうではないもののように扱ってしまっている本能について、以前のように、具体的な例を挙げていただくことはできないでしょうか。
回答:その様な例のひとつに、自分自身の直感を塞いでしまうことが挙げられるでしょう。あまりにも頻繁にみられることです。定められた方向から逸れてしまうのではないかと恐れているために起こります。自分の直感と、定められた方向という二つが下す決断と向き合うことを避けたいのです。直感に従った結果、周りから認められないのではないかと、リスクを恐れているのです。これはとても頻繁に起こることです。
もうひとつは、性的またはエロティクな直感です。これらは、成長の機会さえあれば、本来は完全に創造的かつ統一の力を持った直観です。未熟に表現されるときのみ、自己中心的なのです。セクシュアリティーやエロティシズムに対して社会が強調している罪の意識のほとんどは、この創造的な直感力を自己中心的なままに留め、隠された状態にしてしまいます。もし万が一、この直観が表現されたとしても、それは自己中心的なものとなり、本人は罪悪感と重い罪の意識を感じることになります。とはいえこういった自分の感情に気づかないことがほとんどです。社会のルールが少なくとも、本物の「悪」に向けられていたならば、セクシュアリティーのみではなく、すべての自己中心性は破壊的なものとして強調されるはずですし、分離の状態から成長し、抜け出す必要があると強調されるはずなのです。この創造的な直感力を妨げることにより、感情の充実感が曲げられ、妨げられ、周りと関わる能力が阻害されるだけでなく、すべての癒しと再生能力といった普遍的な生命力が硬直してしまいます。皆さんにとって馴染みのある極端なケースももちろんそうなのですが、より微妙な形で現れることもあります。まさか自分の内にこれに似た、無意識の態度が潜んでいようとは夢にも思っていないような、最も悟った者たちにも現れます。このような破壊的な影響はよく、異性間の人間関係の障害として現れます。障害は、微妙かつ隠れた誤解として現れることもありますし、関係を崩壊し続けるパターンを形成することもあります。後者の場合、関係を保つことができなくなるか、もしくはじゅうぶんな関係性を一行に築かず終いになるかのどちらかです。
人は、男性であれば自分自身の男性性を、女性であれば女性性を受け入れてはじめて本当の意味で人間になれるのであり、最終的に神聖になれるのです。しかし、内なる障害はいつでも、男性では自分の男性性との間に、女性では自分の女性性との間に争いを引き起こしてしまいます。人は生まれながらにして男性性と女性性を授かっています。健康な人では、両方が調和と共に働いており、男性はより男性性が、女性はより女性性が働いています。自分と反対の性が自分の内でぶつかることはありませんし、自分の性を恐れることで不自然に反対の性を強化することもありません。よって、男性性と女性性の互換性が働き、男性はより男性的に、女性はより女性的になるのです。
この話題に関しては多くを語ることができます。今夜そのすべてを取り上げることはできませんから、また後に話したいと思います。いただいている質問にとって最も重要な部分を触るくらいにしておきましょう。これはあまりに頻繁にみられることですが、自然な直感が妨げられているとき、男性は自分の男性性を妨害します。自立することを恐れるのです。なぜなら、自立することで愛される特権を諦めることになると思ってしまうからです。愛は女性や子供にのみ与えられると思い込んでいるのです。この男性は、自立に抵抗することで自分の男性性に抵抗することになります。愛されることは男らしくないという誤解から、愛されることへの自分のニーズを否定し、自分の男性性に抵抗します。さらに、不健康な攻撃性と敵意と、自分の中の男性性と健康的な攻撃性を含むすべては、同じだという間違った恐れを抱き、自分の男性性に抵抗します。つまり、二重の混乱に巻き込まれてしまうのです。健康的な男性性が持つ攻撃性や積極性は、この人が罪悪感を抱いている敵意と混同されてしまうのです。そして、健康的な男性エネルギーにまで罪悪感を抱いてしまいます。ふたつを分けて捉えることができないのです。愛着や愛への自分のニーズを即座に抑え込みます。男らしくないと信じているからです。同時に、子供じみた依存への執着を手放すことに消極的です。この執着は外には現れないかもしれませんが、内には存在しています。無意識のこういったすべての混乱の中でこの人は、それぞれの状況に応じて男性性を操作することで、自然で健康的な男性性の表現を妨げます。男性性が自然かつ自発的に流れることができません。
似たような苦しみが女性にもあります。女の子が自分は否定されたと感じるとき、この子は自分が受け身で、無力だと感じます。女性性の一面である受動性と無力さはここでは、屈辱として感じ取られます。彼女は、自分の中にあるすべての男性性を武器として召集し、この屈辱に対抗するため、屈辱的で無力な状態を思い起こさせる女性性、自分が恐れを抱いている女性性に立ち向かいます。受動性に傷つき、無力なのは女性性のためだと勘違いし、立ち向かいます。同時に、自分のすべての創造性、活動的な傾向は世の中から女性らしくないと思われていると感じます。知性や才覚、勇気もまた同じように捉えているかもしれません。そうなると、これらにも立ち向かうわけです。これはもちろん、自分の真の女性性に対する恐れと相関関係にあります。自分の女性性に対抗するための武器として男性性を磨き上げ、その上で一般に男性的だといわれている性質を抑圧することで不自然な女性性を作り出すところまでいくことも、ままあります。しかし、こうして作られたものは、男性が必要としている愛がこうした女性性ではないのと同じに、男性的でもありません。女性が持つ知性や勇気、さまざまな活動、自立の精神は、女性性に統合されさえすれば、女性としての生き方を高め得るものです。しかし、自分の受動性や、惜しみなく人に分け与える能力に対抗するがために、誇張された女性性を作り出さなければならなくなり、不自然に自分の活動性を抑圧することになるのです。
自己探究のためには、以上が良い例となるのではないかと思います。個人の状況に応じて当てはめてみてください。質問の答えになっていますでしょうか。
質問:はい、とても大きな助けになります。もうひとつ質問があるのですが、この質問は答えるのが難しいかもしれません。馬鹿げた質問かもしれませんが、セックスということを考えるとき、人が未婚で、約束した相手を持たないながらも幸せな関係を求めるとき、どれくらいの乱交を支持しますか。
回答:どのような乱交も支持しません。乱行とは、この場合、何を言わんとしているのでしょうか。
質問:あなたはセックスに対する本能は自然なものであり、正しいとおっしゃいます。ただ、これはどれくらいまでを指すのでしょうか。
回答:親愛なる者よ。この質問の答えにもなり、かつ同じ内容への他の質問の答えにもなると思うのですが、唯一お答えできることは、人が内なる自己の深いところで、刷り込まれた良心に影響されることなく、自分自身にとって正しいと感じるのであれば、それは正しいということです。そしてこれは、結果が幸せなものであるか不幸せなものであるかとは無関係です。もしも人が、誠心誠意このことに取り組むことができれば、分裂することなく、肩にかかるすべての結果の責任を完全に負うことができるならば、存在するすべてのレベルでこの関係に責任を負うことができるならば、もしも偽りの道徳心が事をぼやかし真の道徳心を妨げないのであれば、間違ったことなど何もありません。本来は自己責任であるべきものが規則に置き換わっている最良の例は、この話題を置いて他にはないでしょう。単に、人がリスクを恐れるためにこうなるのです。
もしも人が、すべてを誠心誠意行えたなら、この世界はとても違ったところになっていることでしょう。これは人間関係、本を読むこと、散歩をすること、会話をすること、その他すべてに言えることです。この世はなんて不幸せな場所なのでしょう。それは人が引き裂かれた状態にあるからです。注意力や動機が分裂することなく行えていることが何かひとつでもあるでしょうか。人が何かに完全に献身することなどほとんどありません。いっときに一人、二人、三人、または十人のマスターに仕えているにもかかわらず、真の自己には絶対に仕えることがないのです。人は常にすべてが完璧であることを求めます。人生の最後まで保証を求めはしても、間違いは欲しくないのです。それでも、そんなことは可能ではないことをじゅうぶんに分かっているので、社会が掲げるすべての道徳的なルールに従い、「まとも」を装うことで、完全に献身することを拒否するのです。これが実際に存在している道徳的なルールなのか、もしくは想像上のものであるのかといった疑問は、見過ごされています。
私が今お話している見解の水準は、あなた方のそれとはあまりに違っているので、同じ言葉を使っても、意味すら同じにはならないでしょう。あなた方の意識が上昇するとき、概念や用語、そして価値を、今までとは違った形で理解することでしょう。乱交というものが、たとえ人々の間ですべての社会的制裁を受けるものだったとしても、我々の視点からすればこれもまた、人々が行うその他多くの行為のひとつとして映ります。もし我々が乱行という言葉を使うことがあったならば、量を指して使うことは決してなく、費やされる質に対して用いられることでしょう。
今くださった種類の質問であれ、政治的、宗教的、またはその他、いかなる活動や姿勢に対する質問であれ、片方が正しく片方が間違っているという考えに基づく、既存のルールの観点から質問に取り組もうとすれば、すべてを簡単に簡潔に解決できるとする刷り込まれた良心の支配下に置かれてしまいます。あなたの内にある粗野な小さな子供と、刷り込まれた良心との間に起こる戦いによって今もなお、打ち負かされている証拠です。もしもあなたがこの戦いに携わっていないのであれば、そもそもこのような質問は出てこないはずなのです。こういった質問は、戦いそのものの表現なのです。
誤解を招きたくはありません。もちろん放埓がいいと言っているわけではないのですが、真の自己は、刷り込まれた良心とは違った形で、より厳しい基準を自らに課していると言えるかもしれません。真の自己の基準は、世論に背くことを求める可能性もあるため、従うのがより難しいことが多いでしょう。ただし、真の自己の厳しさは、刷り込まれた良心とはまた違ったことに重きを置いています。真の良心はあらゆる自己欺瞞を見抜きます。人が生き方をごまかそうとするとき、断固として反対します。完全なごまかしに身を引き渡すことのないよう、多くの場合、刷り込まれた良心や既存のルールを盾として利用します。
この夏の期間が実りある時間となり、今年一年間で獲たことが熟し、結実する時間となりますように。この一年を統合し、自分の立ち位置を確認し、成し遂げるべき残されたものが何であるかを見定められる時間となりますように。今年一年がそうであったように、来年もまた成功が約束されていることでしょう。今私たちが進んでいる自己実現の旅を続け、自己実現に対するすべての抵抗をひるむことなく乗り越える人々に、さらなる開放を用意してくれていることでしょう。この一年であなたは、自分の中心へとさらに一歩、近づけたのではないでしょうか。継続することで、すべての生命の源である内なる光にさらに近づくことができるでしょう。
皆さんに祝福を。あなた方へと流れている愛と力を受け取ってください。あなた方のチャンネルを開くための、こちら側からの支えを受け取ってください。祝福を。平和と共にあってください。神の共にあってください。
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