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No.127 進化の4つの段階:自動的な反射、気づき、理解、そして知

Pathwork Guide Lecture No. 127
UNEDITED版
1978年11月15日


進化の4つの段階:自動的な反射、気づき、理解、そして知
EVOLUTION'S FOUR STAGES: AUTOMATIC REFLEXES, AWARENESS, UNDERSTANDING, KNOWING


 親愛なる友人のみなさんにご挨拶申し上げます。一人ひとりに祝福がありますように。今という時が幸せなものとなりますように。今年最初に行うこのレクチャーは、ワークに取り組むこれからの一年間にあなたの道が分け入る段階を指し示すものであり、おおまかなワークと重点を置くことになる部分を示しています。

 レクチャーの初めに、人類の意識が辿るおおまかな進化の段階についていくつかお話するのが良いのではないかと思います。進化には、はっきりとした4つの段階があります。これらの段階はお互いに関連し、重なり合っており、そしてもちろんそれぞれは細分化され、厳しさの度合いも違い、またたくさんのバリエーションがあります。以前集中してそれぞれの段階に関心を寄せ、十分に取り扱ったので今のところは細かく見ていく必要はないでしょう。私たちが次の成長の段階に至るときにふたたび詳細を取り上げたいと思います。当面はいくつかの全体像を探ってみましょう。

 人類の意識で最も低い段階は自動化された意識です。人々は自動的な反射に基づいて反応をします。つまりこれは感情的な反応であり、感情的な反応は深く刷り込まれている間違った結論や一般化された概念に基づいて起こります。別の言い方をすれば、これまでに取り上げてきたイメージに関するワークはすべて、人がどれほど盲目的かつ自動的に反応しているかを表しています。

 盲目的な反応はあくまでも選択の自由に基づくものであり衝動からではないこと、そして情緒本位ではなく理由あっての反応だと自分に言い聞かせるために、人は合理化や説明を試みます。このような自己欺瞞が必要となるのは、人格の一部が自由に解放されていればいるほど高くなり、また全体的に未発達である場合は低くなります。

 盲目的な自動性はいつも、人々が向き合いたくないと感じている題材によって引き起こされます。これはすべての人に当てはまることです。ある人は他の人と比べてこの反応がはるかに強く、このような隠された題材と自然と向き合えるまで発達するのにたくさんの時間を必要とします。そしてその状態にいたると、意識をさらに高い次元へと変えていくことができるのです。しかし比較的進歩した人々や、自らの成長に対して積極的な関心を寄せている人々でさえ、ぼんやりとした、自由でない、またはまったく無意識に反応してしまう領域があるものです。なぜそのような態度や反応を自分がするのか、なぜそのように考え、感じ、意見を抱くのか到底理解できないという領域があるのではないでしょうか。盲目的な自動性はさまざまな結果を生み、これについては今行っている一連のレクチャーの中ですでに話し合ってきましたし、この道におけるワークでも扱ってきました。盲目的な自動性は自己疎外を生み出します。創造性に障害をもたらします。愛を、そして楽しみや喜びを与え受け取る能力を妨げます。人間の精神と人生のすばらしい可能性に制限を与えてしまいます。なぜ自分がそのように反応するのかという本人の意識が欠けていると、その度合いに応じて多くのことが起こるのです。そして意識の度合いに応じて、盲目的な反射や自動性が気づきにとって代わるのです。
どのようにアプローチしているかに関わらず、真の成長の道であればすべての道において、人が不自由さを感じ、自動的に反応している領域があればその覆いを取り払い、その存在を明らかにしなくてはなりません。自動性とは最も未発達な段階であり、程度の差こそあれ誰にでも存在しています。

 進化の度合いを測る物差しの次の段階は気づきです。成長グラフの曲線は自動性から気づきへと進みます。しかし、気づきとは決して最も高い段階ではありません。より高次のふたつの段階があるのですが、まずはここで気づきの意味と重要性について見ていきましょう。この文脈において、気づきとは盲目的な自動性や反射の領域を明らかにすることに関連していなければなりません。盲目的な自動性の否定に一役買っているすべての口実、合理化、弁解、正当化、または自己欺瞞を情け容赦なく暴き、検討し、手放さなければならず、自分が盲目的な反射のメカニズムに直面するまで行わなければなりません。盲目的な反射のメカニズムに直面するとき、自分の自動性に気づき、その気づきによって自動性はもはや存在しなくなります。言うまでもなく、人々はまずある特定の部分を自動性から気づきへと進めることに成功するわけですが、同時にその他の盲目的な自動性は個人の成長のさらに後の段階まで残ります。自分という存在のすべての点である段階から次へと進んでいくことはありえないのです。

 自動性から気づきへの移行は、人間が通過する移行の中で最も困難なもののひとつといえるでしょう。自分が、無分別な恐怖や、迷信、一般論、現在とは無関係の時代遅れのすたれた状況によってつき動かされていることを認めるのはとても難しいことです。これはその人の虚栄心に反しています。なぜなら、その人は自分を実際よりも進化した自由な人間だと思いたいからです。ありのままの自分を長く否定すればするほど、その人はより苦しむことになります。大抵の場合、この無意味な苦しみが自己に正直になるきっかけを最後の最後に与えてくれます。もしその人の虚栄心がこれほどまで強くなければ、気づきを回避してしまったかもしれません。

 気づきとは、最も広義にとらえると、間違った結論や破壊的な感情、自滅的な趣向、または統合の欠如に向き合いながら、自分自身の限界を認めることを意味します。このことが難しいのはひとえに、人が自分の抵抗や恐れを甘やかし、実際の自分より優れた自分を周囲に見せつけるのを手放すことにあまりに消極的だからです。気づきの段階とは本質的には、真実からの逸脱や間違いに意識的になることを意味しています。自分が間違った考えに動かされていることを理解するとたちまち、その人は盲目的な自動性から解き放たれます。この気づきには勇気が必要であり、また内面の意志を育てる必要があります。

 ある程度の気づきが得られ、盲目的な反射が収まってきたならば、次は理解の段階です。気づきと理解では一体何が違うのかと即座に疑問に思うことでしょう。しかしここには大きな違いがあるのです。例えば敵意を例にあげてみましょう。まず盲目的な自動性の段階では、敵意は激怒の感情をその人の魂の中に引き起こします。形成された人格、イメージの種類やその他さまざまな事実に沿う形で、このような敵意を衝動的に表現し他者にぶつけます。これは大抵の場合、自分がそうしているということに気づくことなく行われるか、または「それをしても良い理由」を見つけ出し行動化します。もしくは、敵意を抑圧し抑えつけ、そこから生じるさまざまな結果を自分自身に向けるでしょう。どちらにせよ、自らの敵意を認めようと望まないわけですから、その存在に気づくことはありません。結果的に人はこの敵意によって盲目的な自動性へとつき動かされ、うまく言い逃れることを選んでいるのです。敵意としっかり向き合った途端、そのことに気づくでしょう。そうすると自動性はかならず止まります。ただし、この段階では理解に至っているというわけではありません。自分が敵意を抱いているということに気づいているということです。敵意が自分に何をさせているのか、敵意のために起こしている反応は何なのかを見ることもできるでしょう。

 敵意を理解するということは、なぜ敵意が存在しているのかを理解することであり、人生の初めに何が敵意を引き起こしたのか、敵意が作り出されるためにはどのような状態が存在していたのか、そして今新たな敵意の炎が生じるたびに存在する状態とはどのようなものなのかを理解するということです。過去にあった元々の状況と今の状況では表面的にそして本質的に何が似ているでしょうか?過去と現在の状況はどのようにあなたの精神と関連しているでしょうか?これらが少しでも現実に関連しているのだとすれば、どのように関連しているのでしょうか?なぜ敵意は間違った推測に基づいて起こるのでしょうか?どのような点において間違った推測に基づいているのでしょうか?ひとつ前の段階で気づいたことを理解するということは、これらの質問の答えを深く経験することにほかなりません。ただし、これらの答えは知的にもたらされるものではなく、機械的に学ぶことはできないのです。それは深く感じとる現実でなければなりません。こうして理解の段階へと至り、次の段階へ向かう準備ができたことになります。

 この道を歩む友の多くは、理解の段階へと導いたのは過去のワークであると認めています。ワークはそれぞれによって、またひとつのワークの中にも多様さがあり、ある特定の領域では理解に至っているかもしれませんし、すでに次にくる段階をうすうす感じているかもしれません。同時にまたそれ以外の領域では、盲目的な反射の裏に隠された何かに向き合うことへの抵抗といまだに戦っているかもしれません。ある点においてはまだ盲目的な反射が自分を支配しているという気づきが欠けているのです。人の全体をみたときに、その人がここで例にあげた4つの段階のひとつに達した、と言うことなどできません。また、完全にまだ低い段階にいる、とも言えません。みなさん、この道においてはこれらの段階は常に混ざりあっているのです。

 自分のどの側面が今ここで取りあげている段階のどこに当たるのか、そのような見方を皆さんが持つことはとても大切です。自動性を作り出しているイメージを発見できたにもかかわらず、いまだに自動性に支配されているのはどの部分なのか、意識できていますか?実際に、これはあり得ることであり、自分でも知らず知らずのうちに盲目的に反応し続けている可能性があります。あなたがイメージを発見したその時に得たつかの間の洞察は消えてゆき、いつか見つけたイメージの記憶としてのみ生きながらえるのです。別の言い方をすると、その洞察は理論上の知識となってしまった、ということです。もう生きたものではなくっているのです。自動性が自分の中にまだ存在することを認め、承認し、観察しないかぎり発見されたその洞察は再び生きたものになることはありません。

 気づきを得たとき、そこに留まってはいけません。気づいたことへの理解を深めていますか?理解を深めれば深めるほど、盲目的な反応への衝動は減り、滅多にぶり返すこともなくなるでしょう。

 進化の度合いを測るこの物差しにおいて最も高い段階は知(ち)(「知っている」という状態)という段階です。理解と知には大きな違いがあります。理解することは、ネガティブなパターンや破壊的な感情、そして間違った考えの因果を確かめることです。これらの要素には害があることを理解し、自分が幻想や誤認にある意味で浸りきっているからこその害であることを理解するということです。しかし、これはまだ知ではありません。私は、熟考したうえで知識ではなく知という言葉を使っています。知識は知と比べてはるかに漠然としており、概括的でそっけない言葉です。ここで私がしているのは知識の話ではありません。私は真実を知るということについて話しているのです。真実を知るとき、イメージや誤認の因果を理解する以上のことが起こります。間違った結論の裏にある正しい結論をあなたは知るのです。そして誤認のみが大混乱や不調和、そして不幸を作りだします。他の何ものにも、作り出すことはできません。

 あなたが真実の概念を深く知るとき、ある特定の間違いに隠された特定の真実を理解し始め、あなたが存在している領域の内と周りで何かが起こり始めます。知っている、すなわち知は、理論的な理解とは違います。知とは、真実を経験するということなのです。真実でないものの背後にある真実を知ることは、偉大なる霊的な原理、もしくは複数の霊的な法や原理と人を繋ぎます。これらの原理を知ることで、世界が開かれるのです。

 神聖な原理を知るための唯一の方法は、ある特定の真実に向かう道をかすませてしまう不真実を、極めて個人的に経験することです。理論を学ぶこと、地球上で最も偉大な文学を読むこと、もしくは霊的な著述に目を通したとしても真実を知ることは不可能です。真実を知るということは、私が論じてきた進化の段階を追うということなのです。

 真実を知ることは盲目的な反射に気づくことであり、これはつまり、なぜ盲目的な反射が存在するのかを理解し、そして盲目的な反射が何を引き起こしているのかを理解することです。特定の誤認が原因で作りだされた自動性の背後にある真実を知ることです。人がこのように自分の道を歩むとき、深く内へ向かうとき、奥に潜んだ個人の宇宙が創造の原理と霊的な法則、つまりは宇宙全体が明されるでしょう。このような形で真実を知ることはあなた自身に、そしてあなたの周りの環境すべてに癒しの影響をもたらします。本当の意味で真実を知るとき、あなたは宇宙を手に入れるのです。ひとつの真実を知ることは、すべての真実を知ることなのです。

 この段階の初期に人は真実を単離した形でのみ知り、再び失い、次に手にするときにはより長い間この真実を得られるようになり、失うことも少なくなります。私たちが歩んでいるこの道の他の段階で経験した螺旋の動きがここでも起こるのです。理解は緊張や恐れ、不安を軽減し、人を希望で満たします。ここでいう希望とは、非現実的な甘い考えや、逃避、白昼夢ではなく現実的で正当な希望のことです。なぜなら人が自由な状態へと成長したいと本当に願うならば、救済は奇跡へのぼんやりとした希望が作りだすものではなく、具体的な可能性であるということを道そのものが明確に示しているからです。真実を知るということは、すでに鍵を手にしているということです。その真実を自分のものにすることを意味しているのです。進化においては、ある一点を知ればすべてを知ることになるときがやってきます。なぜならすべては、一点に収束するからです。あなたがどこから着手するにしても、結果に違いはありません。多面性は、その中に多くの部分を含み、それぞれを同等にしながら、最後に一つになります。それゆえに、ひとつの真実を本当に熟知することは、たとえそれがたった一瞬であったとしても、すべての真実を知ることなのです。

 次にくる段階は知に関連したことで、少なくとも友人であるみなさんの中で、知に向かう境界への一歩を踏み出した幾人かにとっては、向こう側へ渡るための手助けとなるでしょう。その他の人は、もう少し後でその時期がやってきます。どちらでも変わりはありません。誰が先にいるかで測ってはなりません。他者と比べることで測ることは絶対にできません。比べることは忘れ、あなたなりの尺度を見つけなければなりません。

 真実を知ることは、宇宙に精通することです。これは癒しであり、秩序をもたらします。あなたが真実を知るとき、あなたを包みそして超越する宇宙の力の中で何かが起こり始めます。あなたが不真実や間違った考えを信じ執着するとき、あなたの個人的な世界に混乱が生じます。このことは、混乱と破壊の原因である不真実を暴こうとする私たちすべての人間に共通する努力からも馴染みがあることでしょう。均衡が破れ、衝突や混乱はさらなる連鎖反応へと繋がっていきます。不真実、幻想、または誤認は二元性を作り出します。二元性とは恣意的な概念の分裂であり、さらなる混乱、衝突、破壊的な感情、考え、または行動という結果をもたらします。これらはすべて、少なくとも理論の上では、馴染みのある領域ではないでしょうか。必ずとは言わないまでも、内側で経験しているのではないでしょうか。幻想の裏に隠された真実を知った途端、分裂した概念は改善へと向かい始めます。精神のエネルギーに現われる均衡の乱れは整理され始めます。混乱、無秩序、そして衝突は秩序と統一へ向かいます。これは生産的で現実的、温和で建設的な感情、考え、概念、思考、意見、そして一致した行動を生みだします。変化が起こったということであり、もう以前のように変化への抵抗はなく、変化を恐がるのではなく、歓迎するのです。

 真実を理解することは大きなことではありますが、より建設的な生き方へと変化するにはまだ至りません。真実を知ることは、変化を有機的にし、避けられないものにし、あまりに自然で変化以外の方法など存在しないという状態にします。真実を知ると本当に霧が晴れるのです。一見矛盾が優勢だったところを統合し、恐れることは何もないと証明し、意見の相違のあったところに全体性をもたらします。病があったところを癒し、よどみが成長を妨げているところを前へと進め、過剰な活動のもととなる半狂乱な不安を落ち着かせます。

 ここでみなさんに、真実を知ることの癒しの要素について、日常のささやかな一例をご紹介したいと思います。こうすることで、私の言葉はやたらと形而上的でよそよそしく、どこか遠くにあるゴールとしてのみ思い描かれることなく、より実践的で到達可能なものとなるからです。あなたがひとりの仲間と接し、その人の行動や真意に困惑するとき不調和が生まれます。たとえ口論を控えたとしても、あなたが相手の動機を知らないという事実が、不安や暗さ、不調和の曇りを生み、それは相手がどんなに鈍感であっても明確に感じ取れるものなのです。逆に、あなたが本当に相手の真意を知っているとき、あなたからは落ち着いた知が発せられ、それを口にするにしろしないにしろ、あなたが何を知っているのか相手に注意を促すにしろそうでないにしろ、あなたの知が相手に影響を与えないはずがありません。相手の紛らわしい行動の裏に隠された真実をあなたが知っているということは、いつ話すべきで、またいつ黙るべきなのか、そしてどのように話すべきで、どのように黙るべきなのかを本能的かつ自然に判断できるようになることなのです。相手の真意、つまりは相手の真実を理解しているだけではこの能力を手にすることはできません。もちろん、理解しているだけ、とはいっても理解していないよりは良いのですが、自分の知を正しいときに正しい方法で相手に提供するためには巧みで繊細な舵取りが必要で、これを使わないということはある種のしくじりを避けられないということなのです。

 よく指摘することですが、自分自身を理解していない人が他者を理解することはありえません。自分自身を愛し敬意を抱いていない人が他者を愛し敬意を抱くことはありえません。同じことが知にもいえます。自らの不真実の裏に隠された真実を知ることができない者には、相手の混乱の裏に隠された真実を知ることはできないのです。知が存在しているからこそ、人との真の関係はすべての大混乱を取り除いてくれるのです。

 我が友よ、きっとほとんどの人が、もちろん頻繁にというわけではないとは思いますが、ここに例として挙げた瞬間を経験しているのではないでしょうか。もしかすると、時折他者がこのような知の状態にあるところに遭遇したことがある、またはそんな人を見たことがあるかもしれません。そのときは、その場の重要性を何となく感じ取る適度だったかもしれませんが、今後このような現象に出会うときにはより鋭敏に気づくことができるようになるでしょう。あなたに向かっている相手がこういった状態にあるときのことを思い出してみると、知はあなたを怖がらせるものではないことが分かると思います。むしろその逆で、相手の知に包まれて、あたたかく心地よく感じたことでしょう。多分、そのときはこれが何であるのか突き止めることや、たくさんの言葉で分析することはできなかったのではないかと思います。しかし、これらの経験やあなたがそのとき起こした反応をあらためて再構築してみることで、今私がここでお伝えしている通りだとうなずけることでしょう。

 知は、まず自分自身のために獲得し、自分自身から受け取り、自らを通して、そして自分の内側で獲得する以外にないのです。これは人類がひとり残らず(この道をすでに歩み始めている我が友であるみなさんも含めて)支配されている盲目的な反射という状態からある一定の気づきへ、ある一定の理解へ、そして初めは単離した形であったとしても知へと、人々を導いてくれる戦いなのです。知とは癒しであり、調和であり、宇宙を自分のものにすることなのです。

 さて我が友であるみなさん、ここで一見して最も深刻な混乱もしくは矛盾のひとつにぶつかります。そしてそれはあなたが知に達して初めて解決できるのです。それは何かというと、コントロールすることと手放すことの間にある混乱です。ここにいる幾人かは、コントロールすることとコントロールを手放すことを結びつけている原理もしくは魂の動向を理解しようと、この道を歩んで初めての苦しい挑戦をしてきました。知が存在しているところには葛藤や矛盾は存在しません。しかし幻想や間違った概念が分裂した考えを作り出す場所では、バランスの取れない結末と手放すべきコントロールが存在していますし、その逆もまた同じなのです。

 コントロールを誤解することやコントロールの誤用は「強要する流れ」なのです。つまり、子供っぽい貪欲さ、自らのフラストレーションに耐えられないということです。怖がりで、緊張して引きこもった状態であり、何かを操作しなければならないという衝動的な必要性、身勝手さ、そして何かを失うことが耐えられない状態です。今挙げた例はもちろん、宇宙をよく知る真実の自己がもつコントロールとは違います。真の個(自分であること)が存在するとき、ちっぽけな自己による間違った形のコントロールは完全に手放されなくてはなりません。より高次で広義の意味での本物のコントロールがもたらされる前に、ちっぽけな自己によるコントロールを手放さなければならないのです。真のコントロールとは、コントロールを手放し、どんなことも何者も操作せずそこに漂うという一見リスクとも思えることを通してやってくるのです。みなさん、これはもちろん矛盾しているように聞こえることでしょう。すべての霊的な原理は、人間の言葉という制限の中で表現すると、矛盾として現れるのです。なぜならすべての神聖な法はふたつの補完し合う原理、つまり最も広義の男性的な原理と女性的な原理を持ち合わせているからです。このふたつはお互いを排除し合うのではなく、人生のすべての活動において共存しているのです。

 融合の原理を矛盾のように見せてしまうのは人間の言語が持つ制限だけではありません。それよりもむしろ、それは人間の持つ恐れに満ちた人生から引きこもる態度です。その態度は理解と知の欠如を生み出します。人が恐怖に引きこもってしまう以上、そしてコントロールを手放すリスクを負うことを求めない限り、コントロールという言葉は簡単に誤解されてしまうでしょう。私が宇宙を自分のものにし、より高次の意味でのコントロールを手に入れるためにコントロールを手放すという言うとき、それは神の創造物であるすべての存在の運命へと向かって踏み出す欠くことができない歩みのひとつなのです。

 リラックスした内側のコントロールを得るためにはまず、コントロールを手放さなければならないということが盲目的な反射から知へと至るこの道に身を置くことでのみ理解してもらえると思います。この内側のコントロールは内部深くに起こるもので、ここでもまた言えることですが、これは上部のマインドからではなく、太陽神経叢から起こります。コントロールは、その人が自らを見失っている部分に働かなければなりません。つまり盲目的な欲求や理解しがたい衝動によって動かされ、やみくもに暗中模索し、しがみついているがゆえに考えや推測、反応、そして行動に繋がっている部分です。真実を知ることによってこれらの部分をコントロールできるよう学ばなければなりません。

 自己中心と他者中心の対立に関しても、似通った混乱と不均衡が存在します。ここにも、混乱と不均衡があります。自己中心性は子供っぽいうぬぼれにもなりえ、全世界が自分を中心に回り従うことを要求します。これはわがままのひとつの形ともいえるでしょう。他の人と比べて自分が上だったり下だったりと、本質的に他者とは違った形で自分を経験し、自分もしくは他者というどちらにしても非現実的な評価をして自分を周りから疎外します。

 このような歪みは自動的に歪んだ形の他者中心性をもたらします。他者が言っていること、もしくは世界が自分に要求していると思い込んでいることに合わせて自分の視点、意見、目標、考え方、理想、そして感覚までも決定します。この他者中心性は自己を失うということです。これは自己疎外です。

 正しい形の自己中心性とは、自己疎外とは真逆に位置するものです。重力を自己の中心の深いところに見出すことができ、内側から価値、目標、考え、そして行動を引き出し、自分自身の責任を負うことができます。これによって気高さと自尊心が育つのです。しかしこれには、自らが選んだ視点を制御するという労力が必要となり、また一見自分が孤立していて周りが不賛成かもしれない状況下でもコントロールを手放すというリスクを冒す必要があります。他者をコントロールし操作するために自分自身の感情のコントロールすることをやめると、本当の自己をまっとうするという意味での自己中心性に至ります。これは自己中心性と他者中心性の間に有機的かつ適切な均衡をもたらします。他者も自己と同じくらい気配りを受け取るに値するのです。他者を好くこともできれば、愛することも、自分と同じくらいに尊重することもできるのです。ただしこれは、自己に誠実であることを犠牲にして成されることではありません。

 健全な自己中心性は天秤の片側に乗っており、健全な他者中心性は反対側に乗っています。片側を不健全に幼稚なゆがみに転換すれば、反対側もそれに合わせる形をとります。これはコントロールすることと手放すことを扱ったときとまったく同じプロセスです。

 通常、理解から知への境界を人が越えようとするとき、適切で健全な自己中心性と他者中心性の感覚が、深い経験と知覚という形で感じとられます。適切にそして健全にコントロールすることと(不健全な)コントロールを手放すという両方ができるのです。この両方を知覚し、体験し、心のなかで生かすことができるとき、あなたという存在の光は広がり、自由、そして経験の制限はなくなるでしょう。この境界を越え、中へと入ったとき、すべての矛盾は補完し合う全体となり、理解するだけでなく知を得て、それを生きることになるのです。たとえば、完璧な幸せが可能になるまであなたは完璧以下を生きる力がなくてはなりません。あなたが自分と他者のより良い幸せのために最高の自己表現を求めるならば、この自己表現は完全に自由な精神から生じなければなりません。やらなければ、といった気持ちや自分が恐れていることを避けるため、自らの弱さを甘やかす気持ちから生じるものであってはなりません。幸せを求める理由が不幸せを避けるためでなくなったとき、あなたは適切なコントロールの均衡を保つための洗練された一点を探し当てたことになり、これは創造の全体の欠かせない一部として、自分の人生に対する永遠に偉大な力を得たことになります。

 何か質問はありますか。

 質問:もしかしたら、私は理解と知の間にある境界付近にきて、知を垣間見たのではないかと思っています。境界の先には知があり、そしてそれは素晴らしいものだと知っているにも関わらず、何かしらの恐怖や引きこもる傾向、しぶる気持ちがあり、依然として境界に達する前に縮こまってしまう。このような状況に何か意見をいただけないでしょうか。

 回答:このワークに取り組む際に幾度となく辿り着くさまざまな心理的要因とは別に --ちなみにここでその心理的要因について列挙する必要はないのですが -- より根源的で限りなく大きな恐れと消極性が裏に隠れているのです。再びお伝えしますが、これはすべての人に当てはまることです。この要因については過去にも触れたことがあるのですが、今はもしかすると以前とは違った形でより深く理解してもらえるのではないかと思っています。そしてこの要因とは、存在することへの恐れなのです。存在することへの恐れとは生きることへの恐れであり、死への恐れ、愛への恐れ、楽しむことへの恐れ、リスクへの恐れ、変化への恐れ、失うことへの恐れ、未知への恐れ、痛みへの恐れ、信頼への恐れ、コントロールを手放すことへの恐れ、葛藤や一見葛藤のように見える何かを合わせ持っている自分への恐れ、正しさと間違い、そして一見正しさや間違いに見える感情、感覚、反応、動機、要求、表現を持っている自分への恐れなのです。存在することへの恐れは、これらすべてを構成します。この恐れの重大さを人が理解しないかぎり、この恐れの裏に隠れているものに気づくことができません。つまりこの恐れを乗り越えることができないのです。この恐れを乗り越えることの中に最も偉大な進化への境界が隠されており、私たちが今歩んでいるこの道のみならず他のすべての真実の道が人々を導いていかなくてはならない場所はここなのです。そしてこれは、宇宙の力に抵抗することではなく、宇宙の力と共に漂うこと、つまり宇宙の力を自分のものにすることなのです。人々の誤認は、これか/あれかしかない二元性を見出すでしょう。自分自身をコントロールし、自分の人生や周りの世界、自分自身の力強く活気に満ちた創造の力を操作しなくてはならないと考えます。あるいは、自分を見失って滅びてしまうと感じるかのどちらかです。結果的にその人は存在するという状態に至ることはできません。その人は存在することと自分のものにすること、別の言い方をすれば受動性と能動性は互いに排除するものではないというだけでなく、相互に繋がりをもち、互いに依存しあっているということが理解できないのです。

 人間の持つ自分自身に対する恐れを乗り越えることはあまりに難しくなっています。なぜならば、人は自分の真の暗い側面(ダークサイド)を恐れているのではなく、これが暗い側面だと信じ込んでいる対象を恐れているからです。あまりに多くの人が、知らないうちに最も破壊的な部分が自らを支配してる最中に、自らの最善を差し出さなければならないことを受け入れるのは不可能だと考えるのです。この人は自分自身の暗い側面を恐れ、何がなんでも見ようとしません。自分に必死にしがみつき、手放すことを拒みチャンスを掴もうとしません。そして人が自分自身を恐れている以上、その人は生きることを、死を、愛を、そのほかのすべてを恐れていることになります。存在すること自体に恐れを抱いているに違いありません。なぜなら自分自身の存在を恐れているからです。

 みなさんから頂いた質問を、このレクチャーのために準備した討論のためにとっておいてください。それは本当に重要です。あなたが身をもって参加し、自分自身の混乱を明らかにすることで、このレクチャーで述べた4つの段階を通り抜ける道がより円滑なものになるでしょう。その間、あなたの中のどの部分、そしてどの点が今でも自動性に巻き込まれているかを見出してください。そしてどの点においてあなたは気づきに、または理解に達しているでしょうか。また、4つ目の段階である知に至るための境界にどの程度近づけているのかを見出してください。自動性をあなたがどう感じているかが、これを見極める方法です。自動性が存在すると、あなたはわびしさや絶望を感じ、落ち込み、不安や恐れ、生きていないような不活発さ、退屈や嫌悪を感じ、仕方なく自分が納得できないことをやり、言い、考え、感じます。気づきがもたらされるとこれらの兆候は取り除かれます。そして気づきの状態を残しつつ、安堵の感覚を誘発しある種のエネルギーを解き放ちます。それでもここにはまだ変化が入り込む隙はありません。どの点において、そしてどのように変化が可能なのか、気づきの状態では見通しさえきかないのです。理解がこれに展望を与えてくれます。そして知は、変化をすでに成し遂げている状態であり、同時に常に達成し続けている状態です。なぜなら真に生きることに終わりはないからです。生きることは、絶えずさらなる経験とさらなる自己表現に向かって成長し続けるものだからです。つまり絶え間ない知は絶え間ない成長をもたらすのです。

 今自分がどこに立っているのかを測るとき、外からの知識や盲目的な自動性によって決めないでください。これらはあなたを過度に謙遜させたり、もしくは過度な自己賛美へと引きずり込みます。あなた自身の深くに耳を澄ますし、自分の人生や人となりをさまざまな方向から分析してみてください。そうすれば分かります。内側の反応のある側面だけをとって自分の全体を評価することは間違いだと気づいてください。あなたの人格のさまざまな側面がそれぞれの段階で現れているのですから。

 この一年のワークによってみなさんがより知の状態に近づきますように。幾人かは知への境界を超える最初の一歩を踏み出せますように。みなさんに必要な助けと導きはすべて与えられています。霊的な力はみなさんが気づいているよりずっと本物であり、力強いものです。しかし、みなさんを助けるこの力は本人の努力を維持し得るものではありますが、同時にそれ以上であってはならないのです。上へと向かう魂の旅のどの段階にあっても成長への主導権はいつも自分になければなりません。今述べたような目標に向かうためのワークにはさまざまな面があり、すべてが活用されるべきです。この道において最も建設的な手法のひとつは、他者を鏡として利用することであり、他者との関係性の中でお互いの人生や精神的な状況を写しあうために人と関わることです。これは誰からも見過ごされるべきではありません。このような形で他者とワークをすることがどれだけ効果的であるか強調してもしきれません。誰もまだ満足にこの道を探究できていません。数々の価値ある題材がこの手法によって引き出されるために残されています。どれだけ他者が盲目的な自動性に巻き込まれていたとしても、この人はあなたにとって良い鏡となる場合が多いのですから、他者を鏡として利用してください。こういった交流にしり込みしないようにしてください。

 自己探求という務めを根気強く続けるすべての人にとって、来たる年は決定的な一年となるはずです。祝福とともにあってください。あなたに向かって流れ、あなたを覆い包んでくれるあたたかな力強さを受け取ってください。平和のうちにあってください。神のうちにあってください。




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