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No.130 恐怖を通り抜けることで、真の豊かさを見つける

Pathwork Guide Lecture No. 130
UNEDITED版
1965年1月8日


恐怖を通り抜けることで、真の豊かさを見つける
FINDING TRUE ABUNDANCE BY GOING THROUGH YOUR FEAR


 親愛なる心の友よ、こんばんは。おひとりおひとりに祝福をお送りいたします。ここから始まる一年が祝福されたものとなりますように。霊的な成長への皆さんの努力が多く実る一年となりますように。

 霊的な真実の一見した矛盾に、人はよく混乱するようです。矛盾したふたつを統合する共通項を私はよく指摘しますし、こうした矛盾についてはこれまでにもよくお話ししてきました。共通項はとても大切で、混乱を取り払ってくれます。二者択一に迫られる状況をなくしてくれます。
人生に対する人類の姿勢という意味において今夜お話しする題材はとても根源的なものです。このレクチャーを心から聞き、語られる言葉について深く考え学ぶことができれば、今夜のレクチャーから重要な助けを得ない人はないでしょう。自分の中にこれまでもあった答えのない疑問に、その存在に意識的であったか無意識であったかは別としても、今夜のレクチャーは答えてくれることでしょう。

 人生と霊的な現実という一見完全に矛盾し合うものには、ふたつの哲学が存在します。そのうちのひとつは霊的および感情的に成熟した人間は人生の困難を受け入れることを学ばなければならないと説きます。人生に対処していくためには瞬時に変えられないことや自分が直接影響を与える範囲を超えたことは受け入れなければならないとこの哲学は伝えます。受け入れを欠けば不調和、不安、緊張が生じ、困難はより大きなものとなり、思考の平和を破壊すると言います。死や運命がもたらすその他の避けようのない事柄を受け入れる能力は、人の成熟度や人格の円熟度を測るものだと説きます。

  またもうひとつの哲学では、すべてのネガティブなものは受け入れる必要はなく、死を含むすべての困難は不必要だと説きます。人が自分自身のために形作る運命以外に運命など存在せず、苦しみのない新たな運命をいつでも好きなときに作れると説きます。苦しみなど受け入れる必要はなく、宇宙は今まさに自分がいるこの場からすべての人に限りない富を提供しているのだという気づきが、真の霊的な目覚めの前提であると説きます。
ここには一見した矛盾が存在します。自分の中の混乱に気付いていようとそうでなかろうと、このふたつの捉え方に矛盾のないところを見出せなければ人は混乱してしまいます。こうしたふたつの姿勢や物の捉え方は、すべての偉大なる霊的な教えの中に間違いなく見つけることができると思いますし、私自身が提供するレクチャーも同様です。私が皆さんにお教えしてきたほぼすべてに、この両方の姿勢が存在しているのです。
さて皆さん、なぜこのふたつは互いに矛盾するものではないと言えるのでしょうか。このふたつは一体どこで合わさるのでしょうか。ふたつを統合する鍵、共通項は何なのでしょうか。恐れという要素に答えが隠されています。不幸せを恐れるがために幸せを望むのであれば、幸せに到達することはできないままでしょう。幸せを単に幸せのために求め、幸せの不在を恐れるために求めるのでなければ、幸せの獲得の妨げになるものは何もありません。この違いは途方もなく大きいのです。

 恐れを軽減するために常にとは言いませんが時には、その恐れを経験することは免れません。恐れる理由など何もないという真実に気づき恐れが取り払われる場合には、恐れを経験する必要はありません。しかし多くの場合で人というものはこうはいかず、恐れている状況に酷く自分を親しませることで脅威をなくそうとします。

  ネガティブなことを恐れるが故にポジティブなことを望むかぎり、ポジティブへと至る道を恐れが塞いでしまいます。地球というこの意識の領域は、ポジティブなものを直接求めるのではなく、その反対を恐れるが故にポジティブなものを求める姿勢によって特徴づけることができます。人類の基本的な欲求をここでいくつか考察したいと思います。

 まず生と死という名高い二元性から始めましょう。数年前に生と死に関して行ったレクチャーにもより深い理解をもたらすのではないでしょうか。その過去のレクチャーで私は、生と死はひとつであり、同じプロセスの異なる側面だとお話ししました。人類は死ぬという能力を身につけなければならず、この能力は受け入れるという姿勢によって可能になるとお伝えしました。受け入れるという姿勢によって恐れる必要のあることなど何もないと気づくでしょうし、実際、死は存在しないのだとお話ししました。生きることに恐れを抱く人は同じように死をも恐れているのであり、その逆もまた同じだとも申し上げましたね。

 死を恐れるかぎり、生きることを心から愛することは不可能です。少し距離を縮めて人の反応というものを観察してみればいつでも確証できることではないでしょうか。人が腹の底から生きることを楽しむとき、死に対する恐れは比較的少なくなることでしょう。死に対する恐れで縮こまっているほど、人は人生に執着します。人生を楽しんでいる、もしくは生きることに精力的に関わっているというよりは、死を避けるために人生に執着するのです。こうした人々はまったく、生きていないのです。死や死ぬことに対する恐れが、生きることを妨げます。深く生きることによってのみ、生きるとはひとつの終わりのないプロセスであり、死は一時的な幻想であると学ぶことができるのです。死を恐れるが故に生に執着すれば、人生の意義はその深さを失い、人生は楽しいものではなくなってしまいます。完全に死に対する恐れから自由な者などおらず、真に生きている者もいないに等しいわけですから、毎度のことではありますが、これは程度の問題であることは言うまでもありません。とはいえ、死に対する恐れから比較的自由で、つまり比較的意味深く楽しい人生を送っている人がいることも事実です。

 死は恐れに値するものではないと平均的な魂が気づくことはほとんど不可能ですから、ひとつ終わればまた次といった形で体に転生する循環を何度も何度も繰り返さなければなりません。魂にとって死や死ぬことが怖い経験ではなくなるまで、死に方を学ぶということです。死ぬことへの恐れが克服されるとき、永遠の生が可能になります。死ぬことを恐れているかぎりは、死を経験しなくてはならないのです。

 人類のもうひとつの名高い罪は、すべてをコントロールしたいという望みです。反対に言えば、コントロールの欠如を恐れるということです。霊的な真実を伝える数々の教えは死が不必要であることを前提にしており、真に進化を遂げたとき人は宇宙を制覇し、こうした人のみが自分自身の運命をコントロールすることができるとしています。人の魂はこの目標に向けて努力をするものです。しかしもしもコントロールの欠如を恐れるが故にこの努力をするのであれば、コントロールを手放し、放棄し、より柔軟に事実に自分を適応させる能力を必要に応じて手に入れなければなりません。人生という名の川に浮かぶ自分の船を先導し掌握することと、その手をほどくことの洗練されたバランスを学ばなければなりません。手放すことを恐れれば恐れるほど魂の動きの不均衡はより大きなものとなり、究極的には自分の運命に対するコントロールを失ってしまいます。コントロールをしようと強く掴むことは何の達成にも繋がらない偽りのコントロールです。人を単に固くし不安にするだけです。人の内の平和や自信を阻み、生きるというプロセスも妨害します。自信を育む唯一の方法は、一見「未知」に見えるものに自らを委ね、何かを強く掴もうとする拳を緩めることです。こうして人はそこには何も恐れるものなどないと知り、最終的には支配力を失くすことを恐れることなしに完全なる制覇を手にすることになるのです。

 現在の人類の状態では人はまだ、人生のすべてをすぐさまコントロールできる段階にはありません。一時的に、望ましくない運命を創り出す自分の内なる制限のいくつかを受け入れる必要があります。恐れによる薄っぺらの外的な意志で、望ましくない運命という結果を力づくに押しよけてしまえば状況は悪化します。今現在の自分の限界、すなわち一過性の結果を一時的に受け入れることは、悲劇や苦しみに忍従することではありません。それは拡大や慰み、至福がやや少ない、一時的なひとつの段階を経験することを意味し、現在の自分の状態や限界に責任を持ち、それによって自分の状態や限界に対して抱いている恐れを克服することを意味しているのです。こうして扉は開いていきます。

 実のところ人類はその最も進化した状態にあり、自分よりも偉大な力に自らを委ね手放す能力を持っており、自分自身の運命を制覇していると言えるのです。少なくともすべての人がこの可能性を秘めています。実際にはこうして委ねることではじめて偉大な力と一体となることができます。恐れや不信から人は自然と、手放すことやコントロールを放棄することを拒否します。つまり最も善良なものであり同時に自分自身の力、自由、そして至福であるものを自ら遮断するのです。

 さらにもうひとつ、人類が求めるものには至福があります。永遠の生命や、自らの運命を支配すること、そして至福という今私たちが話していることはすべて、先天的かつ本能的に人の霊性に深く根差している目的です。人の魂は自らの定めがそこにあることを知っており、それが自らの源であることを分かっています。これが故に魂はこの状態を捉えなおそうと努力するのです。

 痛みを恐れ、歓びの欠如を恐れるが故に歓びを求めるのならば、扉は閉まったままとなることでしょう。自分がこれまで尻込みしてきた歓びの欠如は底知れぬ暗闇ではないと分かれば、恐れが歓びの達成を妨げることはなくなるでしょう。

 人生のすべてにこの原理を当てはめることができます。病を恐れるが故に人が健康を求めるのであれば、健康は妨げられてしまいます。老いることを恐れれば、永遠の若さを妨げます。貧困を恐れれば、豊かさを、孤独を恐れれば真の親交を、親交を恐れれば自己充足を妨げます。あらゆる側面に言えることなのです。

 大いなる敵は恐れです。この敵と対峙し、打ち勝つための最善の道は恐れをまず突き止め、認め、明言することです。こうすることで恐れを少なからず減らすことができ、さらなる恐れの追放の道を切り開くことができます。もちろんいつもそうですが、こうした望みは自分の考えや意図の中で明確に表現する必要があります。しかし恐れへの取り組みが、恐れに対する恐れによって阻害されている場合には、事はより難しくなります。このようなときは恐れに抵抗し立ち向かうのではなく、落ち着いた気持ちでそれを認め、一時的に受け入れる方がより円滑な除去へと事を進められることでしょう。

 だいぶ前になりますが、人の魂が躓く主なブロックにはプライドと身勝手さ、そして恐れがあるとお話ししましたね。人はより統合されるほど、どのような時でもひとつの原点に立ち返ることができるものです。この三つにも同じことが言えます。プライドと身勝手さは、恐れの存在がなくなれば容易に克服することができます。自らの品位が損なわれるのではないかと恐れなければ、偽りのプライドの必要もありません。自分にはどうすることもできない何かからコントロールされるのではないかと恐れなければ、身勝手さの必要もないのです。

 今まさにこの場所で、人の心や魂から恐れが根絶されたその瞬間、瞬時に手に入れることができるすべてへと分け入るのを妨げる巨大な鍵のかかった扉、それが恐れなのです。

 皆さんが経験している人生の真の意味はこれなのですよ。経験という名の学校を幾重もの転生を繰り返し経験する人類の意識というこの領域、この領域の真の意味はこれなのです。私たちが歩んでいるパスワークという道の意味もまさにそうです。つまり恐れは不必要であるということです。

 受け入れることを学ばなければならないという訓戒を耳にするとき人はいつでもこれを、苦しみや損失というこの先変わることのない決定的な運命を受け入れなければならないことだと解釈するようです。コントロールを手放すことを学びなさいと諭されるとき、人はこれを危険や痛み、苦難という奈落に自らを放たなければならないという意味だと受け止めます。そのため、これらの言葉を耳にするときに恐れは増幅し、緊張した気の進まない状態や頑固さも増すのです。自分を固くし、自由や永遠の生命、そして至福から身を引き、縮こまってしまいます。 しかし実際には、自分が最も望んでいるものを獲得するよう求められているのだと、受け入れることによって気づくのです。コントロールや些細な身勝手さを手放すことで人は新たな自由へと解き放たれ、ポジティブで望ましい何かに開放されるのだと、とうとう人は分かるのです。怖がってコントロールしようとしがみつく必要はもうないのだと。

 魂がじゅうぶんに、そして深く真実に感銘を受けるとき、受け入れることはすべての善良な宇宙を抱擁することであり、それは最早リスクではないのだという気づきや発見に人格は突然に到達します。恐れを克服するために恐怖を経験することはなくなります。こうして人は通念にとらわれない生き方ですべての達成、富、恵み、至福、そして永遠の生命の活気あり歓びに満ちたすべての側面を経験する準備が整います。恐れを克服するとき、心から望んでいることが一瞬にして開かれるのです。事の対極への恐れが自分の中から消え去るとき、邪魔になるものはもう何もなくなります。

 この真実に気づく瞬間こそが、皆さんのスピリットが長く待ち望んできた解放の瞬間です。あなた自身のものとなるときなのです。「これが事の道理というものか。この素晴らしい簡潔さが、なぜこれまで見えなかったのだろう。不必要な困難でなぜ私は自分を悩ませていたのだろう」と、皆さんのスピリットが言っているかのようです。こうして牢獄から外へと足を運びます。こうして世界はあなたのものとなるのです!

 魂にこの気づきへの準備ができていない場合には、恐れることはないのだと魂が学ぶ必要があります。恐れという無知の表現である状況に関わり、経験することでこれを学ぶことができます。こうしてはじめて恐れという無知を突破することができるからです。現時点では、その何かが自分を傷つけ、自分から何かを奪うようかのように見えていたとしても、それは自分が恐れているそのものではないのだという真実を自己は見出さなければなりません。

 ここにいらっしゃる皆さんがこの経験をされていると思いますよ。何かを恐れ取り越し苦労をし、実際に経験をしてみると恐れていた半分も実は悪い経験ではなかったということを何度経験されてきたことでしょうか。 
このことはひとつの大切な事実に我々を導いてくれますね。つまり、恐れの主な要素は何か具体的な望ましくない事実や事象ではなく、未知という質だということです。恐れの中で最も重要な要素は、未知という質です。意識的に恐れを抱くのであっても無意識であっても、すでに経験したことに恐れを抱く可能性もあります。しかし恐れの状態で何かを経験すると機能や知覚のすべてが鈍くなってしまいます。経験する真実をじゅうぶんに取り込み、消化し、受け入れることができません。恐れは人の視野をかすませ、客観的に物事を評価する能力を鈍らせます。先入観と共に何かを経験し、実際を経験する代わりに自分が予期し期待したものを印象として抱く可能性はとても高いのです。

 これが故に魂は、恐れを取り除くまでに度重なる反復を要します。死という経験は特にそうです。死ぬことよりも生まれることの方が遥かに大きなトラウマだということをここで皆さんに断言させていただきたいと思います。それにも関わらず人類の集合的イメージには死に対する妙な恐怖の側面が存在します。この地球という領域に何度も生まれてくる魂にこの集合的なイメージは深く印象づけられているのです。物質的な肉体を脱ぎ捨てるという実際には解放の事象を人が経験するとき、集合的なイメージが恐れを生み、結果として人は緊張し不安を感じてしまいます。そして死という事象をもっとも開かれた意識の状態で取り込むことが難しくなってしまうのです。

 加えて、人の意識的な理知は実際の死というものを無視し、代わりにそこに含まれる未知という要素に目をやってしまいます。恐れが人を半分麻痺させるのです。よって人の内で真実が印象づけられることがなくなってしまいます。この段階ではこの人の意識は低いため、経験は靄のかかったものとなってしまいます。そしてもちろん、ほんの少しでも取り込まれた経験も容易に忘れ去られます。記憶とは恐れや偏見、誤解によって散らかされていない、自由な精神の状態に依存するからです。魂が多少でも記憶したことは即座に、個人に影響力を持つ集合的なイメージが強いが故にかき消されてしまいます。

 死という移行期に人が「これが死というものなのか。素晴らしいではないか」と経験を自身に取り込んだとしましょう。しかし先ほど説明したように、最も開かれた意識の状態で真実が経験されなければ集合的なイメージをかき消すことはできません。そして恐れは、人がじゅうぶんに経験することを妨げます。しかし事が繰り返される度に、少しずつ真実が魂に浸透し、時間はかかりますがそれでも確実に魂は恐れを取り除き、移行期というものにくつろいだ状態で向かえるようになっていきます。それはあたかも夜に皆さんが眠りに落ちるときのようなくつろぎであり、人生での新しい段階を前にして未知や恐れを生み出す不安を抱える代わりに、わくわくしているような状態です。死への恐れが死のプロセスを生み出します。死に対する恐れが消えるとき、死のプロセスは不必要なものとなり止むのです。

 人生における他の多くにこの原理は当てはまります。これまでに私が例として挙げてきたことにもそうですが、それ以外のたくさんのことにも当てはまるのです。恐れが存在するときには常に、恐れが恐れているその状況を創り出します。こうした状況はしかし同時に、恐れは不要であるということを自己に説得する唯一の方法なのです。

 よく知った出来事ほど恐れの度合いは低いものとなります。恐れは感覚を鈍らせるので、それは悪循環ではありますが、すべての悪循環は断ち切ることができます。そうは言っても痛みは怖いではないかと皆さんは思われるかもしれません。しかし友よ、考えてもみてください。痛みがこの先どこに繋がるのか分からない場合に人は異常にそれを恐れますね。つまり痛みに何か危険なものが含まれているのではないかと疑うからです。何か重大な病なのではないか、最終的には死に至るのではないかと。痛みが人の安全を脅かすことはないとされていたならば、くつろいだ思考の状態で痛みを耐えることができるのです。つまり痛みが痛みであることが止むのです。

 自分が抱いている恐れに対峙し、正面からそれを認めようとするときには、そこに含まれている未知の要素を具体的に確認し理解することが大切です。未知の要素を少しでも未知ではないものとする可能性がこうして生まれ、ともすれば完全に除去できる箇所も出てくるかもしれません。同時に他の部分では、いくつかの要素では、今のところ未知のまま存続する必要があるのだと意識的に受け止めつつ、恐れを受け入れる必要があるかもしれません。

 未来が何をもたらすのだろうと不確かな気持ちがあるとき、そこには必ず恐れが存在します。最大の困難であっても、よく知っていることにはそう大した恐れは抱かないものです。大抵の場合、未知を既知に変えるためには恐れている未知に分け入る必要があります。死の経験のときと同じです。しかし未知に分け入ることを、何かネガティブで痛みを伴う経験を未知の中に見出さなければならないと解釈してはいけません。
  
 皆さんの心理のすべてが肯定的な経験に対して開かれ、ネガティブなものに対する恐れの片鱗さえない状態となれば、未知は次々と既知となっていくことでしょう。すべてのレベルにおいて人生はより充実することでしょう。

 今夜のことに関して何か質問はありますか。

 質問:私たちが言うところの死を経験するのは、この地球という領域だけでしょうか。

 回答:そうです。しかし魂の進化のために死と同等に重要なものが他の領域では存在します。

 質問:地球という領域に転生をするのは死に恐れを抱いている者だけでしょうか。

 回答:地球というこの意識の領域に多くの魂を引き付けるのはそれもひとつの要因です。しかし転生には他にも多くが関係しています。人が死を恐れるとき、死という根源的な恐れは恐れ以外にもさまざまな魂の状態を創り出し、おびただしい数の誤った考えへと繋がります。これらすべてには相互関係があります。以前にもお話ししましたが、死を恐れるということは生を恐れることでもあるのです。その両方に含まれる未知の要素を恐れているのです。こうした恐れが存在するとき、魂には必ず誤解や誤った刷り込みがあるのです。

 恐れが魂を抑圧するとき、人は自分を結実へと優しく導き完全に包み込もうとする宇宙の生命力の一部となることができず、そこに分け入ることができなくなってしまいます。あたかも宇宙の生命力が自分の敵であるかのように抵抗してしまいます。実際の敵は、誤った恐れ、誤解、不必要な限界の産物として人のうちに存在しているのです。こうした誤りのために人は自分自身から背き、人が生まれながらにして持つ権利である達成や充足感を、一部では獲得しようと努力を続けているにも関わらず、他方では不履行や痛み、欠乏の状態に向けて努力をしてしまいます。避けようがないと誤って信じている壮大な危険のように見える何かは、自分自身でそれを引き寄せる方が脅威の度合いが減るように人は思うのです。少なくとも、そうすれば未知ではなくなります。しかし避けることのできるネガティブな経験はより苦いものです。恐れと誤りにそそのかされたネガティブな経験は、自分の中にいまだ存在する限界の結果生じるネガティブな経験よりも耐え難いものです。後者に人が自ら飛び込むことはそうありません。自分の限界を見出すためには自分の内にある生命の力学への深い洞察が必要となるからです。しかしこの洞察があってはじめて破壊的なプロセスを止めることが可能になるのです。

 自らの生命のリズムを人が学ぶとき、生命のリズムに抵抗することをやめ、急かすことをやめ、先取りすることをやめるとき、つまり自然のリズムを妨げるのをやめるとき、人は偉大なる宇宙の力の一部となり、この力と共に遊び、築くことができるようになるのです。そして真に宇宙を制覇する者となるのです。

 質問:領域とおっしゃるとき、何を意味していらっしゃるのでしょうか。

 回答:意識の領域、存在の領域という意味です。程度の差こそあれ似通った意識の状態を持った存在が群れを成すとき(群れは不変の法則によってできるわけですが)集まった意識の全体を領域と呼ぶことができます。空間という視点から言えば、地理的な地域もそのように呼ぶことができます。霊的な視点では、時間、空間、そして動きはすべて特定の意識の状態の表現です。三次元的な思考と固く結びついている者がこのことを理解するのが難しいのはこのためです。完全なる意識はより多次元で構成されているだけでなく、複数の次元を状態、質、度合いにおいて、ひとつの平易な意識に統合しているため理解することが難しいのです。

 これ故に、私が霊的な領域でのお話しをするのを聞き人は、地理的な地域のように外的な空間で示された場所を思い描くような、極端に単純化した形で捉えようとする危険性があります。物理的な宇宙の全域に生命が存在することが真実ではないということではありませんが、すべての空間、時間、惑星、恒星系、無数の領域を内包する本物の宇宙は人の内にあるのです。宇宙が現実のものであるのと同時に、さらに多くの領域を持つ多くの霊的な世界もまた抽象的な概念ではなく現実です。惑星が現実であり、人の内と外の両方で存在するのと同じに数多くある霊的な世界もまた現実なのです。

 全体的な成長の度合いが似通った存在が集まったものを群れという言葉で一括りにしてお話しをしていますが、文字通りに捉えてはいけません。人間も成長の度合いにはある程度の違いがあるのと同じように、他の意識の領域に住む生命たちの間にも違いはあるのです。老齢でより発達したスピリットと、より若く新参者であるスピリットの間には知覚の度合いや理解度に大きな差があると同時に、いくつかの共通点もあります。とはいえ違いも共通点もその差は知れています。少しずつ互いに違いがあるとしても、似た者同士が一緒になることでより多くを達成することができるのです。これが理由でお互いに引き寄せ合い、一般的に領域と呼ばれるものを創っています。

  質問:領域というものを思い描くことができません。領域の、もうひとつ別の例を挙げていただけませんか。

 回答:別のレクチャーでお話ししたことですが、この地球という領域の状態はここに生息する人類すべての意識の総体の現れです。ここにはもちろん、現時点では体に住んではいないけれど、全体的な成長の度合いから見て地球という領域に先天的に属すため、ふたたびここに転生する個人も含まれます。この地球上にあるすべての美しさ、大自然のそれもそうですし、人が創造する物すべてが持つ美しさは、宇宙との調和という内的な質の直接的な表現であるとお話ししましたね。また反対に、戦争や貧困、論争、すべての困難、病気や死といった不和は人の混乱や、破壊的な感情に執着する意識の状態の現れです。言い換えれば、この地球のすべての状態、望ましいものも望ましくないものも、偉大も卑小も、すべてはそこに住む者たちの意識の結果です。今述べたものすべてを「意識の領域」と呼ぶことができると思います。別の領域もまた意識の表現であり、そこにあるすべての意識の総体の現れです。全体的な意識がより高ければ、その意識に従って状態は調和が取れた、困難の少ないものになります。真実を知覚するレベルが全体的に高いとき、その領域ではより制限の少ない状況が現実化するのは必然です。

 質問: 私たちは同じ領域にまた転生するのでしょうか。

 回答:現時点で人の意識の状態が示している不調和や誤りを克服するまではそうですね。過去にお話ししたこともそうですが、今夜このレクチャーでお伝えしたことを顧みても、真実を感知する意識の度合いが高められなければ、この人にとって新たな領域が創り出されることはありません。この点は明白だと思います。というのも人が身を置く環境も人の内なる意識の状態もひとつであり、同じだからです。

 人がひとつの領域に転生するのは何も、神がそこに人を「送る」からでも「命令する」からでもなく、引力と反発力という法則にしたがったプロセスなのです。化学方程式のようなものです。まず領域が存在し、そこに人が置かれるまたは転生するとイメージしてはいけません。その反対です。領域とは人の思考、感情、態度、そして全体的な状態、つまり人の人格の総体の結果なのです。領域はその人を表します。今いる領域と違う質を人が表現すれば、同じ領域に引き寄せられることはなくなります。代わりにこの人を含むその他多くの人が同じ表現をしている領域に引き寄せられるのです。

 質問:私たちと同じように物理的な領域はここ以外にもありますか。

 回答:人は物理的なものと非物理的なものを恣意的に区別しすぎるところがあります。人というものはたくさんの層から成っています。各々が特異な密度の質を持っています。人の意識が高くなるほど、質の密度はより細かなものになりますが、だからといって形がなくなるわけでも、この人の存在が現実味の薄いものとなるわけでもありません。

 その人の信念に従って、人はより物質的な領域に引かれる(より物質的に密度が高い)またはより細かな振動に引かれます。もしも人の考えがまだ概ね表面的で物質的な次元に密接である場合、自分のスピリットが乗る乗り物に対して当人が創り出していく質もまたそうなります。質に密度があるほど、より無知で、誤りや誤解、偏見、制限、闇も多くなります。つまりより多くの苦しみがあるわけです。

 自分というものは体だけではないと人が気づくとき、知覚は広がり、魂全体の物質は遥かに洗練されたものとなり、真実を感じ取る感覚が増します。現実というものをよりよく感知できるという結果がもたらされます。

 この道を歩んでいる皆さんにとってとても大切なのは、特に今夜のお話しが当てはまる方々に言えることですが、自分の中のどこがネガティブな事柄を恐れているのか、そしてまたその恐れ故にポジティブな事柄に執着しているのはどこなのかを探ることです。ネガティブな動機によってポジティブを求めるこうした恐れの場所を見出すことができれば、ずいぶんと容易に今の状態を取り去ることができることでしょう。そうすれば生命の持つ豊富な富に、ひとりの自由な人間として胸を張って分け入ることができるようになります。魂が持つこの流れ、この動きがすべてに大きな違いをもたらします。

 ネガティブへの恐れのない大胆不敵な魂の状態こそが、人の運命とは至福であり、展開であり、動きを伴った精力的な生であり、ネガティブなものは決して必要ではないという確信を生み出します。そして確信のあるところには、外的な事実もそれに従うのです。恐れているネガティブから後ずさりするが故にポジティブを求め、望ましい方は手の届かない幻となってしまいます。皆さんの前でなぜいまだに多くの扉が閉じたままなのか、進歩や洞察を多く獲得してもなおなぜそのままなのかの説明がこれでつくのではないでしょうか。とはいえ、こうした恐れが自分の中にあることにまずは気づき、幸せを幸せのために求めることと、不幸を避けるために幸せを求めることの小さな違いが分かるためには、これまでに獲得した洞察を通してさらにそこから意識を引き延ばしていく必要があります。

 今夜は人間が抱く主要な目的についてお話ししました。反対を恐れることによって生じる具体的な欲求にはまだ他にも多くのものがありますが、こうしたものは個々人の作業で確認していかなくてはなりません。人間の心理という意味においてそこには大きいも小さいも、重要なものも重要でないものもありません。一見取るに足りないように映るものでも、最終的には人生の偉大なる可能性に繋がっているからです。友よ、今夜お話ししたような要素を見出すことができれば新たな扉が皆さんの前に開くことでしょう。実際の恐れを脱ぎ捨てることができる以前にも、恐れを自分の中に確認し、その意味を知るだけで自分自身や人生、そして動機の軸に生じる変化を見落としているが故にいまだに未達成な欲求、それに対する自分の姿勢にも大きな違いが生まれることでしょう。こうしたことが最も重要な鍵なのです。

 もうひとつ見落としてはならないのは、ネガティブに対する恐れの存在は、ポジティブのためにポジティブを願う健全な想いを消し去るものでは必ずしもないということです。健康的な願いと、望ましくないものを恐れる歪んだ動機が同居することはよくあることです。このふたつが同時に存在することは完全に可能です。

 恐れを的確に捕らえることができたら、瞑想で直接この恐れを扱うことができます。この作業は道での歩みに大きな違いをもたらすでしょう。多くの方々にとって、これまでに抱えてきたたくさんの問題、これまで頑なに閉ざされてきた問題に対する解決となることでしょう。「私は捕らわれることを恐れるが故に自由を求めている。だから自由というものに分け入ることができないのだ」と単に気づくだけで解放へと大きく一歩近づきます。自由でないことを恐れるがために自由になれていないのだと気づくことができれば、この気づきによって今よりも大きな自由があなたのものとなることでしょう。複雑で逆説的に聞こえるかもしれません。しかし深く考えてくだされば、どれだけこれが真実であるか理解できることでしょう。そしてこの真実を知ることでしょう!
友である皆さんおひとりおひとりに祝福を。今夜の言葉が皆さんの意気を高め、真実の光、愛という現実、霊的な存在としての終わりのない至福へと皆さんを近づけてくれますように。平和の内にあってください。神の内にあってください!
   



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