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Pathwork in Japan
No.132 真の自己との関係性におけるエゴの機能
Pathwork Guide Lecture No.132
UNEDITED版
1965年3月19日
真の自己との関係性におけるエゴの機能
THE FUNCTION OF THE EGO IN RELATIONSHIP TO THE REAL SELF
親愛なる友人のみなさん、こんにちは。みなさん一人ひとりが、この道をよりやさしく感じ、それほどの苦闘や抵抗なくゴールへと到達するように、祝福とガイダンスが差し伸べられています。
ゴールとは何でしょう?ゴールとは、人類に関する限り、たったひとつです。それは、真の自己になることです。私たちは多くの領域と角度からこの側面にアプローチします。
今日、私は内的自己対外的自己、すなわち真の自己対エゴについてお話ししたいと思います。それらの相互関係はどのようなものでしょうか?エゴの機能についてはたくさんの学説が錯綜しています。エゴは本質的にネガティブで好ましくなく、霊的ゴールはエゴを取り除くことであると言う人たち、もしくは少なくともほのめかす人たちがいます。そして、特に精神分析の観点からは、エゴは重要であるという人たちがいます。科学的な観点では、エゴがなければ精神の健康はありえません。これらは、2つの全く対立する見解です。どちらが正しいのでしょうか?どちらが間違っているのでしょうか?おそらく、この講義は、この重要な質問に光を投げかけ、手掛かりを示すことになるでしょう。この混乱は意識の上で起こっていることではないので、あなたがこれを考えることはないとしても、それらはあなたの視野を曇らせ、自己実現という重要なゴールに到達する邪魔をするでしょう。
真の自己の本質について短く要約してみましょう。内なる自己は自然そのものです。それは自然の法則とつながっています。そして最も内側にある自己に対する不信は、それゆえ不条理です。なぜなら自然は完全に信頼できるからです。もし自然が人類の敵になるとしたら、それは単に人類がその法則を理解していないだけです。内なる自己、もしくは本当の自己は、自然であり、生であり、創造なのです。それは、自然や想像の一部であるというよりは、このように言う方がより正確なのです。真の自己と創造、もしくは自然は、まったく同じものなのです。
人が自らの真の自己から機能するとき、その人は常に真実の中にいます。喜びの中にいます。人生に対する最も創造的で建設的な貢献は、その内なる自己からやってきます。偉大で寛大なものすべては生を広げ、美しく賢明なものすべては内側の、言い換えれば真の自己からもたらされます。私たちはこのことを何度も言ってきましたし、みなさんの瞑想においてさえ伝えてきましたが、何度強調しても強調し足りないほどです。この真実を、マインドでだけでなく感情でも理解しようとすることが、非常に重要です。
さて、友人のみなさん、もしこれが真実だとすると、エゴ、もしくは人格の外側のレベル--みなさんにとってより接触しやすく、より強く意識しているレベル --- の機能とは何なのでしょうか?あなたは、あなたの中にあるそのエゴで考え、行動し、識別し、決断しているのです。エゴが十分に成長しておらず、弱い人は、人生を意のままにしたり、人生に立ち向かうことができません。また、大きくなりすぎ、過度に強調されたエゴを持つ人は、真の自己に至ることができません。言い換えれば、この両極端のいずれも真の自己に至る邪魔をするのです。人の問題や葛藤は常に、大きすぎるエゴまたは小さすぎるエゴの結果なのです。
ある人は大きすぎるエゴを持っていて、また別の人は小さすぎるか弱すぎるエゴを持っていると言うことはできません。時にはそのようなこともありますが、全体像を示すなら、むしろバランスを欠いた不均衡が存在していることがほとんどで、同じ人物の中の、人格のある領域においては未発達で、ほかの領域においては過度に発達しています。このようにして、自然は再度バランスを確立しようとします。過度の発達は、おそらく弱すぎるエゴの結果起こった混乱を正すための自然の側の試みなのです。調和の乱れは、それを再度確立しようとする試みが原因で存在するのではなく、元々あった強調しすぎ、もしくは強調不足が原因となり存在しています。どちらの場合であろうと、それは同じです。
エゴが十分に発達している場合にのみ、エゴは要らなくなります。そんなわけで、エゴが発達していない限り、エゴは必要なのです。友人のみなさん、これは矛盾するように聞こえるかもしれませんが、そうではありません。なぜなら、もしエゴが未発達である場合、強くて健全なエゴを持たず、このエゴが欠けた状態で徳を成したいと思うことは、弱さや回避であり、それはより多くの弱さや欠如を生み出すだけなのです。生命の本当の性質である豊かさへと導くものは何であれ、豊かさから起こらなければなりません。エゴが十分に強くない限り、あなたは何かを欠いているのです。あなたには、考え、区別し、決断し、適切に行動するために必要な外側の自己の能力が欠けているのです。あなたは、それらの次元を扱うとき、エゴと対応しているその能力を持っていなければならないのです。
真の自己でいること、そしてその霊的成長の段階に到ろうと懸命になる人が、健全なエゴの発達を押しやり避けるのは貧しさからそうしているのです。その人は、自分の外側の自己をまだ所有していません。おそらくその人は、人が最終段階に達すると外側の自己もしくはエゴというものがもはや必要ではないことを知っているのです。ですから、その人は健全なエゴを作る段階を飛ばそうとしているのです。健全なエゴを作るのは難しいことを知り、それゆえにこの不可欠なステップを単に避けたいと思うがために、怠惰からそれを飛ばそうとしているのです。しかしこの間違いは、すべての間違いと同じように高くつきます。実際のところ、その人はゴールに到達するのを遅らせているのです。必要なものを避けなくなるまで、その人は後戻りを余儀なくされます。自分の外側の自己、エゴを十分に持った時にのみ、人はエゴ無しでいられるようになり、真の自己に到達することができます。
これは法則です。論理的法則です。そしてそのとき、人は弱さやニーズ、欠乏からではなく、強さと豊かさから行動するからです。育ちすぎたり過度に強調されたエゴではなく、強くて健全なエゴを持つときにのみ、それを超越するためにこのエゴを使うことができるのです。エゴが健全で強いときにのみ、それが最終的な答えではなく、そして人としての最終の領域ではないということを知り得るのです。そしてそれから、あなたはそれを通り過ぎ、超え、さらに先にある意識の状態へと至るためにエゴを使うのです。実際的な言葉に置き換えるなら、この道におけるワークの中で、あなたは瞑想を通して、例えばエゴを越えたところに到達するために、あなたのエゴのすべての能力を使うことを学びます。あなたが外側から吸収するものは、まずあなたのエゴの能力を使わなければなりません。あなたは、まずあなたのエゴの能力を使ってつかみとろうとするのです。後に意識のより深いレベルで経験する真実を宣言するために、まずエゴの能力を使います。エゴを超えたところに何かがあるということを気づかない人がたくさんいて、そのような人にとっては、最終のゴールは強いエゴになることです。このような意識を持って考えても考えなくても、同じです。これは、過剰なエゴという歪みにつながるかもしれません。これは行き止まりです。なぜなら、ゴールが間違った道に方向づけられ、あまりにも視野や可能性が限られているために、この段階を超越し、通過する代わりに、この方法であれば役に立つはずだったエネルギーが、エゴを過度に肥大させるために使われてしまうからです。
友人のみなさん、みなさんがある状態に到達し、さらに進んだ状態に向けてそれを捨て去る前に十分にその状態に留まっていなければならないという法則を理解することは、本当に重要なのです。人間はそれを見過ごしがちで、もっと言えば全く無視されていることさえよくあります。この法則の重要性は、霊性の、もしくは心理学の、たくさんの真実の教えにおいてでさえ、人類に対して十分に明確にされてはいません。これは人類にとって、知り、深く理解すべき偉大で重要な法則の一つです。
この法則の本質は、さまざまに異なった形をとって、次の一面の中に存在しています。これは今日のために選んだ話題にとてもふさわしいものです。それは、真の自己と関連するエゴの機能です。宇宙には制限がないこと、真実、そして究極の現実の中には、絶対の完璧さが存在し、すべての人はそれを手にすることができるということ、宇宙においてだけでなく個人においても能力やエネルギー(力)の制限のない拡大がこの完璧さを可能にすることを、真の自己は知っています。人が真の自己、自らの神の自己になるとき、自分が自然や創造の一部であると知るとき、人は真に神のごとき、その意味にいて全能となります。なぜならば、人は存在するすべての法のマスターとなるからです。たとえ今までにそのような哲学を聞いたことがなくても、これが、人が深く感じ憧れる究極の現実なのです。人の最も内にある精神、最も内にある自己が、この究極の運命、その人の潜在的な人生や存在、その人の中にある拡大の可能性を引き出すのです。
生まれる瞬間の小さな子供は、まだエゴを持っていません。エゴがなければ、このメッセージをとてもはっきりと真の自己から知覚することが可能です。しかし、エゴがなければ、このメッセージの意味は歪められてしまいます。あなた方はみな、心理学の教えから聞くだけでなく、完璧になろうと試み、全能であろうと努力し、最高の喜びを得ようと努め、欠けたところや満たされなさ、フラストレーションのない究極の至福を得ようと子どもじみた努力を続けて、それを自分自身の内側で発見し経験してきました。
エゴがない場合、これらの苦闘は非現実的で、破壊的でさえあります。みなさんは、自分のこのパスワークの道において、これらの欲求や苦闘が現実のものとなり、何度も繰り返しその状態に陥る前に、まずこれらを捨て去らなければならないということを経験してきました。言い換えれば、この道を行く友人のみなさん一人ひとりが、自分の意のままになる無制限の力の泉を持っていることを理解できるようになる前に、この事実を受け入れ、人間としてのその限界を受け入れなければなりません。みなさんは、自分自身の不完全性、そしてこの人生の不完全性をも受け入れなければなりません。絶対的な完全性が自分の運命であること、あなたは究極的にはその運命を実現するのだということを経験する前に、その不完全性を受け入れなければならないのです。しかし、この知識についての子どもじみた歪み、エゴの欠如による子どもじみた歪みを捨て去ったあとにのみ、それを理解し、そこに行き着くことができるのです。みなさんは、完全なる喜びが自分の究極の運命であると理解できるようになる前に、最高の喜びに対する欲求を手放し、限られた喜びで間に合わせることを学ばなければなりません。より少ないもので間に合わせることは、この現実、この次元を受け入れるということです。そのために、エゴの能力が必要なのです。あなたのエゴが、自分の人格や肉体が今生きている領域を適切に扱う時にのみ、あなたの本当の能力や潜在する力、可能性を深く理解することができるのです。
私が究極の目的である完璧さや、制限のないパワー、最高の喜びについて話すとき、みなさんがもはや肉体を持たなくなる遠い未来においてこれを実現すると言っているのではありません。私はこの状態を時間という尺度において話しているのではなく、みなさんが真実に目覚めた瞬間にいつでも可能な本質という尺度で話しています。真実への覚醒は、まずは絶対的な完全性、完全なるパワー、完全なる喜びというメッセージについての子どもじみた歪みを見つけ、そして手放すときにのみ可能です。エゴが未発達な段階では、これらの欲求は実態のない幻想であるだけでなく、自己中心的で破壊的でもあります。それらは手に入れることができる前に、捨て去らなければなりません。
これは、豊かさを拠り所にして取り組めば豊かさを生み出し、貧しさやニーズを拠り所にして取り組めばより多くの貧しさとニーズを生み出すという法則とまさに同じです。弱いエゴは、全能でありたいという願いが成就されないでいると消滅してしまうと考えます。それゆえに、その願いはネガティブです。健全で強いエゴは、真の自己に対する障害物があるからこの状態がまだ実現可能になっていないということを恐れません。健全で強いエゴは、真の現実を知っているのです。弱いエゴは、ちっぽけなエゴの法則や条件にしがみつき、それにより、より偉大な法則を歪めます。ちっぽけなエゴはニーズや弱さから、エゴの能力が適切に今この瞬間を扱い、それにより今この瞬間を超えるときにもたらされる強さや十全さを断念してしまうのです。
親愛なる友人のみなさん、この講義はみなさんすべてにとって大変重要です。それは、生に対する哲学的概念の中の明らかな矛盾に関する混乱を取り払うための重要な鍵となるだけでなく、もっと重要なことは、あなたが自分自身の成長のための必要不可欠な鍵を見つけるかもしれないということです。その鍵は「手放すこと」を助け、容易にします。そして「手放すこと」というのは、自分が信頼に値する自然や創造物のなくてはならない一部として、そして最奥の自己を信頼することができるときにのみ起こり得ることなのです。あなたがこれを感じ経験するとき、エゴの能力を恐れることはありません。それゆえにエゴを過度に強調することはなくなります。もしくは、未発達なエゴの能力を眠らせておいたり、放っておいたりしないでしょう。
まずはこのテーマに関して何か質問はありますか?
質問:現実という状態の中にいることは、結局は神性の状態にいることと同じ意味であると考えて良いのでしょうか?
答え:はい、もちろんです。しかし、エゴを成長させるという使命があまりにも大きいことのように思えるために、人為的にこの状態を求めるとき、それは間違った方法になります。エゴはしっかりと理解されなければなりません。私がエゴというとき、それはエゴが取り扱うべきもの全てを意味します。例をあげましょう。歪んだ見方をすると、人間の人生は困難なものであることがよくあります。人は、生き延び、生計を立てるために懸命に働き、奮闘しなければなりません。そのことが不必要なときでさえ、歪みと誤認が人間をこの状態に至らせることになります。同時に、人はいつか、葛藤などもはや存在せず至福のみが存在する場所を見つけることを夢見ます。この状態へ至る間違った方法が、苦闘から逃避しようという試みです。その苦闘はエゴと一致しています。苦闘が肯定的に受け入れられた後にのみ、エゴが不必要であると証明され、仕事と喜びがひとつになるでしょう。しかし、苦闘を理由に仕事を避けることは、精神とエゴの中にある重要な潜在的な力を、そのまま構わず、探求しないままの状態留めることになります。このように受け入れた後、人が日々生きている中で感じる退屈さというものが終わりを告げることになる、というこの真実を見つけるのは比較的早くなされるでしょう。今、例として選んだこのテーマに関して、神のような状態についてのある程度の理解がなされるはずです。
質問:過度に発達したエゴと、未発達なエゴの部分に関してですが、過度に発達したエゴの結果、間違ったやり方で過活動になるということでしょうか?一方で、未発達のエゴの結果、不健全な方法で受け身になってしまうということでしょうか?
答え:はい、その通りです。エゴの機能は、「(ある状態に)なる(state of becoming)」というプロセスを促進し、真の自己は「(すでにそうで)ある(state of being)」という状態です。もちろん、「ある」という状態が、何も活動しない状態を意味するのは、人間の視座からの誤解です。そうではなくて、能動性は、「ある」という状態の中にあります。能動性と受動性はひとつの調和された宇宙の動きとして混ざりあっています。
質問:自分の身勝手さを手放せず、それゆえ自分を神に委ねられず神を信頼できない場所、それが私のエゴが過度に発達している場所。自己責任を恐れている場所が、私のエゴが未発達な場所。それは正しいですか?
答え:まさにそうです。あえて自分自身の決断をしない場所、既成の規則に寄りかかっている場所、そこには十分な発達を遂げていないあなたのエゴがあります。そしてここで、この講義の中で私が話したことについての大変良い実例を挙げて説明します。つまり、歪みがひとつあると、その歪みと正反対の歪みが作り出されるのです。すでに述べた領域において、あなたのエゴが未発達であるがゆえに、あなたの中にある何かが、自己選択や自己責任を拒絶するときに、同時に否定することになる「自分自身であること」を手に入れようと懸命に努力しているのです。そうしているのは、ただ間違った方法を選択しているからなのです。プロセス全体が、無知と気づきの欠如の中で起こるので、独立することを選ばないで、間違ったやり方で自我を構築することを(身勝手さを使って)、選択ししまうのです。それに付随して、あなたは精神の深い部分でどこか緩めるべきところがあることを感じ、握りしめていることが負担になります。あなたの精神が緩めるという作業をするときに、再び間違った方法を選んでしまい、決断を下す際にエゴは責任を負おうとしないのです。規則に従うという点において、あなたはむしろ、他者からの指示に従う方が心地よいのです。
質問:私は、自分の父や母を象徴する可能性のある人に対して感じる依存を手放すことが大変難しいと感じています。このことにはずっと気づいています。しかし、今日あなたが言われた、全能に対する子どもじみた欲求を手放すことの不本意さと最高の喜びに対する夢--は、私にとってとても重要な要因に思えます。私は今日に至るまで、このことについて十分に認識していなかったと思います。これら2つがどのように一緒に行動を起こしていて、私が手放すのを難しくしているかを説明していただけますか?
答え:それではお話ししましょう。もちろん、自分のワークの中で、自分はどの領域において全能であること、最高の喜び、スピリットが切望する責任を負うという苦しみが存在しない安らぎをあきらめたくないと思っているのかを見つけることがとても重要です。あなたは自分が思う以上に、この状態に憧れています。あなたは、責任を負いたくないのです。なぜならば、あなたにとっては責任がまだ重荷に見えるからです。両親が自分の面倒を見続けることを要求し続けることで、大人の責任が存在しない子どもじみた状態が維持されると、あなたは自分という存在のどこか隅の方で信じているのです。自己観察の中で、このことが、どんな特定の現れ方であなたの感情的反応として出ているかを見つけなければなりません。
そして次に、前にお話ししたように、これと結びついているのは、あなたの深い部分にある子どもじみた願望のすべてを満たしたいとわめくように要求する何か、なのです。あなたは、これらの願望をひとつとしてあきらめたくないのです。これらの願望は、このレベルにおいて、そのままの形で満たされることなどないと理解していません。同時に、同じように深い内側のレベルで、あなたはこの弱さと依存の結果を恐れているのです。それでは、(内面的に)弱く、依存性のある人として、あなたはどうしたら手放す力を手に入れることができるのでしょうか?自分自身という概念の中で自分が強くいられる唯一の方法は、主張すること、あきらめず手放すことなのです。弱さは恐怖を作り出し、恐怖は不信を生み出します。それゆえ、あなたは手放すことができず、ハイアーセルフが異なるレベルでこれらの願いを実現しようとしている状態へとあなたを連れて行く、宇宙の流れに自分自身を明け渡すことができないのです。それゆえ、あなたはまず、強くて自己責任を負うことのできるエゴ、すべてのレベルにおいて十分に成熟したエゴになる決心をし、元来実現可能な願望のお子さま版(子どもじみた実現不可能な願望)を手放す決心をしなければなりません(もちろん、私は内面のレベルについて話していることを理解してください。あなたの全体像、外面について言っているのではありません。なぜならば、あなたの中には成熟して、自己責任を取っているたくさんのレベルがあるからです)。そのどれも持つことなどできない、という屈服するような感情に気づいてください。それが存在することを知ってください。あなたがその完璧な夢をあきらめるとき、今あなたが持っているものでさえ、はるかに良く、はるかに多くの歓びをもたらすであろうことを理解するでしょう。瞑想して、あなたが真に手放したいと願うことを言葉にして表してください。屈服ではなく、たとえ硬直した、子どもじみた願望を捨て去ったとしても、すばらしい可能性がそこで待っているのだということ受け入れるポジティブな精神で言葉に表してください。
この成熟した部分は、あなたが特定の辛さや困難、空虚感をどんなふうに引き起こしてきたかを明確に、具体的にすると見ることができます。このような瞑想が用いられるとき、あなたは自分が強くなることが分かるでしょう。そのとき、あなたは自分自身を信頼するでしょう。そのように取り組んでいると、この最も内なる自己が現実になります。生命や創造の一部の中にあって、そのときあなたはそれらすべてを信頼するでしょう。あなたの不信は、自分自身を明け渡し、あるがままの自分でいることを妨げます。もしあなたが、自分の周りに今ある問題を適切に対処するに足る十分に強いエゴを持つのを拒むならば、あなたは自分自身を信頼していないに違いないのです。もうそのつながりが分かりましたか?
質問:分かりました。とても明確です。私がただひとつ、感じていることは、人があることを経験したり、喜びやパワーを求めるという意味において、人が進むべき道のりは長いのだろうか、ということです。そして次に思うことは、私は現在の環境に自分を適応させなければならないのだろうか、それとも、私が望んでいるものに向けて手を伸ばすことができるのだろうか、ということです。
答え:はい、あなたは望んでいるもののために手を伸ばすことができますし、そうすべきです。しかし、あなたはそれが起こり得ると信じる場合にのみ、適切に手を伸ばすことができ、そしてそれを起こすことができます。しかし、あなたはエゴが内側で十分な強さを欠いた状態で、その外側でそれを起こそうとしているのです。そこは、エゴが適切にあなたの役に立つことができない場所です。それはエゴの機能についてのまったくの誤解なのです。あなたは、自分のエゴを自分に役立たない場所で使い、役立つ場所で使うことを拒絶します。あなたは、その喜びを、自然や生命、そしてその創造物のそれぞれのやり方で自分に与えるのを許さず、限られた範囲で、そしてエゴの視野で、制限された可能性の中でその喜びを手に入れようとするのです。しかし、あなたは手放していないので、それを信頼して任せることをしません。あなたがこれらのことを理解し、エゴの能力を適切な形で使うとき --- たとえ脇道に逸れて、別のより高次な機能(ハイアーセルフ)がエゴの役割を果たすことを求めたとしても --- あなたはようやくエゴのこの部分を手放すことができるのです。この相互関係を学び、それと共に生きるようになると、自己信頼が育ち、それゆえ、エゴ、真の自己、そして宇宙の力との間のポジティブな連鎖反応が働き始めます。エゴの持つ能力とともにエゴの世界に手を伸ばすとき、あなたは自分を制限することになります。エゴの決断によってなされるべきことは、宇宙に手を伸ばすことです。それはエゴの制限でなされることではありません。あなたは別の領域に向けて手を伸ばさなければならないのです。そしてここでエゴを捨て去るのです。これがこの講義の本質です。このエゴを手放すということは、あなたが十分にエゴを持ったときにのみ起こりうるのです。
質問:エゴは身勝手さ(我欲)とつながっていないのですか?
答え:もちろんつながっています。身勝手さと間違った考えというのは、本来エゴの世界から来るものであり、真の自己から来るものではありません。しかし、その両方を手放すこともまた、エゴの能力なのです。エゴだけがそうできるのです。エゴは、自分の考えや意図を変えるために必要です。エゴは、その考えが間違っていることを理解するために必要です。同時に、身勝手ではないということを理解するためにも必要です。これら2つの破壊的側面のどちらを維持するか捨てるかは、エゴが決めることです。エゴのみが、間違った考えを真実の考えと差し替えることができるのです。これは、緊張、不安、身勝手さを手放し、それらをリラックスした状態、自由に流れ柔軟な意志が機能している状態へと置き換えるのです。それは、思考力を使い、自己の直感的なレベルでの呼びかけと、真の自己からのより高次で内なるガイダンスを選択する状態です。
質問:私には、カルマの法則や遺伝がどのように働いているのか、出生のプロセスがどのように起こるのか思い浮かべることができません。赤ちゃん、生まれること、そして魂 -- 魂は赤ちゃんが生まれる前に存在しているのですか?それはどのように働くのですか?
答え:恐らく、あなたにとってこれらの原理を理解する最も良い方法は、人間の肉体は人格の直接の結果だと考えることです。もちろんこれは、赤ちゃんが生まれる前に存在します。人格からくる思考、態度、感情、行動、これらすべてが影響して結果があるのです。身体とその環境、人生と人生の状況、個人の「運命」 --- これら全ては、心理的傾向や人格、そして個性の結果です。あなたの身体だけでなくあなたの人生の状況も、あなたが何者であるかの結果なのです。もしこの視点から質問を見たなら、かなりの混乱を避けられるでしょう。カルマの法則、遺伝、そして出生時の特定の状況は、そうなるともはや問題ではありません。今のあなたの理解の仕方は、身体は人格の外側の力によって作られている、というものです。これが混乱を作り出すのです。なぜならこのような考え方は、統合の精神ではなく二元性の精神の中で起こるからです。統合された精神においては、あなたは、あなたの身体、そしてあなたの国、あなたの人生の中にある他のすべての要因の結果なのだと認識します。
質問:それを感じるのは難しいです。
答え:もちろんです。そう感じることを強要しようとするべきではありません。感情に関する限り、あなたがこの問題を一時そのままに置いておけば、それは自然にやってくるでしょう。今はまだあなたの人生においては無知が勝っていますが、あなたが現在の人生の中にある原因と結果を理解すればするほど、その人生の主要な原因となっている自分自身についての内なる経験の幅がより広がります。友人のみなさんは、原因と結果の直接のつなぎ目をまだ見過ごしています --- あなたがどのようにあなたの望む結果を放棄しているか、どんなパターンや態度が、あなたの目下の人生において特定の好ましくない状態を作り出しているか。原因と結果の間にあるこれらのつなぎ目をベールで覆っている限り、より長い時間、それと似た法則を感じることは不可能です。
質問:私は、器質的原因のない心臓の動悸に時折苦しんでいます。自分のワークの中で、これが抑圧された罪悪感のせいであると分かりました。自己懲罰が関係していますか?
答え:そうです。それは自己懲罰です。と同時に、罰に対する恐れです。そしてまた同時に、そもそも罪悪感の原因になっているものを手放すことに対する恐れと抵抗でもあります。あなたは、自分のワークの中で大きな進歩を遂げてきました。今、もしあなたが、罪悪感を作り出すいかなる側面をも手放したくないと思っているレベル(層)を明らかにすれば、あなたは自分の根本的な問題の深い理解と経験を得ることでしょう。自己懲罰は、罪悪感を作り出す態度を手放す代わりに用いられる代用品です。そうすることで、あなたは無意識に、これらの態度を維持しながら罪悪感から自分を解放できると信じているのです。それゆえ、あなたが破壊的なパターンを手放していないという事実を埋め合わせることになると信じながら、あなたは自分を罰し続けるのです。自分がいかに悪いかをしょっちゅう言い、自分の罪悪感に十分に苦しんでいるならば、実際のところ、自分にも他人にも何ひとつ考え得る利益がないことを続けているにもかかわらず、自分はまだ良い人であると感じるのです。このレベルの特定の理解は、あなたが本当にそれを見つけたいと願っている程度に応じてもたらされるでしょう。あなたのエゴの能力が、罪悪感を作り出すパターンを捨て去る助けをするでしょう。あなたの中の何かが疑ったとしても、もし自分がそうしたいなら、いつでも自分にはそのパターンをもう一度取り戻す権利があるという理解において、そのパターンを捨て去るでしょう。これはあなたのエゴを強化します。そして、あなたは成功するでしょう。あなたはもはや無力な犠牲者ではなくなるでしょう。そのとき、あなたは自分のエゴを適切な方法で使うことによって、自分の責任を負うのです。
友人のみなさん、個人的な問題を持ってきてください。私たちは質疑応答のセッションの中で、より深く問題に入っていくことができます。このように参加することで、これはみなさんの役に立つでしょう。
すべての祝福は、みなさん一人ひとりに差し伸べられます。これらの祝福は、あなたを超越し包み込む現実です。それらは、あなたの自己拡張へと向かう勇敢な努力に応える普遍的な愛です。平和のうちに、神のうちにいてください。
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