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No.133 愛、それは戒律ではなく、自然に湧き上がる内なる魂の動き

Pathwork Guide Lecture No. 133
UNEDITED版
1965年4月30日


愛、それは戒律ではなく、自然に湧き上がる内なる魂の動き
LOVE, NOT A COMMANDMENT, BUT SPONTANEOUS SOUL MOVEMENT OF THE INNER SELF


 ようこそ親愛なる友人たち。今ここにいる皆さん、そしてこれらの言葉を読んでいる皆さん全てに祝福を。

 ここ何年かの間、これらレクチャーが与えられ、自己実現のワークを通し、非現実は不調和を繁殖させ、不調和がある所には、愛が存在しないということが容易に見えるようになってきました。円が閉じてしまうのです。愛がないところには、満たされるということもあり得ません。

 全ての宗教、哲学、そして心理学においても、愛は充足、安心、創造的な成長、それら全てに通じる鍵であると述べられています。しかしながら、愛は命令を受けることはないし、戒律でもありません。愛は自由で、自然発動的な魂の動きなのです。それは頑張れば頑張る程、その道義心と服従が故に、実現から遠ざかります。

 愛が存在するところ、そこには充足があるはずなのです。人生の中で充足に欠けているところがあれば、それはその魂には、まだ愛することを学んでいない場所があるという確かなサインです。全般的に言葉として理解されていたとしても、この単純な均衡はしばしば見落とされがちです。

 もう少し核心に近づくため、この話題をもう少し掘り下げてみましょう。再度言います。全ての鍵となるものの内の最上のものに達するよう、あなたの知性からの命令で上塗りされた、強制的で人工的なものを通してではなく、ハートの自然発動的な内的活動を通して。

 愛が存在するとき、そこには人間の人生の中で最も望ましい因子の内のひとつである、肉体的な健康があるはずです。愛は浄化する力です。愛が欠けているとき、問題が気付かれないままに長期間そこにあり続けると、その度合いにより、様々な否定的感情が健康障害を引き起こします。

 愛が存在するところには、うまくいっている人間関係があるはずです。そこには恐れがなく、不信もなく、幻想もないからです。何故ならば、愛は現実と恐れのなさという、確実な土壌においてのみ、花を咲かせることができるのです。真実を認識しているところでは、人は間違ったことを信じたり信じなかったりすることはありません。その人は他者をあるがままに受け入れ、自分自身の感情をその現実に適応させていくのです。恐怖にあふれて、半分信じ、半分信じない状態のまま、暗闇の中を手探りで模索する必要もなく、自身のニーズと恐怖の間に投げ込まれることもありません。

 愛と自信は、避けがたく相互に依存しているのです。愛が欠けているところでは、心理状態も混乱しているはずです。これは両方向に作用します。つまり、混乱が存在するところには、愛が欠けていると言うこともできる訳です。

 愛が存在しているときには、全ての葛藤が解消されているはずです。その人格は、表出している二極の間、あるいは健在な態度のバージョンと歪曲した態度のバージョンの間、そして感情の表現と価値観の表現の間で、洗練された境界線を見つけることができます。例えば、不健全な攻撃性と冷酷さに逸脱しない健全な攻撃性、ないしは従属性と支配的な身勝手さの代用品、これらの間の混乱はありません。冷酷さと偽の攻撃性がない状態で、あなたは自分の権利を主張するべきときを知り、そして関与している者全てにとって、破壊的で不当な要求をする人間に立ち向かうことができます。戦いから身を引くことが、常に従属的で屈辱的な敗北であるように見えることがなくなるので、頑固な反抗に駆り立てられることもなくなります。この精妙なバランスは、愛を通してのみ達することができるのです。これらの精妙なバランスは、ハートの愛する能力を通し、自動的に成り立つのですが、知的な理解でその中庸を見つけようと試みるときには、それがどれほど懸命に探求されていたとしても、とらえどころのないままでいるのです。

 なおかつ、この万能なる鍵は、人類にとって使うことがとても難しいのです。人はそれから後ずさり、ただ愛することを自分に許すというだけのことを恐れます。愛することは、とても危険で、脅威であり、取り返しのつかないリスクのように思えます。真実から、これほど遠いものはないのですが。しかし、その人は入り組んだ防衛を構築し、そして逃げ出します。その人は、関わり合い、他者とのコンタクト、あるいは自身の欠点や破壊的な態度に対面することから逃げるだけでなく、そもそも愛するということを自分自身に許可することから逃げているのです。この禁止はその他全ての病気の原因となります。

 この愛することの禁止は、2つの基本的な誤解の結果です。その内のひとつは、現実の誤った解釈、あるいは錯覚です。錯覚が存在するところでは、混乱が生じ、従って、恐れ、敵意、分離、自己憐憫、ためらい、執念深さなどのたくさんの否定的な感情が生じます。そのような訳で、愛は不可能になってしまうのです。人が自身の最奥の理解、認知、価値観の中で現実にいるときには、自分が愛することを恐れるなどとは考えることもできません。もうひとつは、自身への過小評価、そして劣等感情です。一見、これは殆ど矛盾しているように聞こえるかもしれません。表面的に見ると、その人の愛する能力の機能障害をないものとして、自分自身のことをそれ程考えないというのは、もちろん可能なように見えます。けれど友よ、これはそうではありません。何故なら、あなたが自分自身を過小評価するとき、その瞬間、あなたは他者を現実とは認識できなくなるのです。無力さ、弱さ、不十分さによるあなたの感情のへこみから、他者は巨人の役回りを担うことになります。あなたは、拒絶、恨み、嫌悪をもって、その巨人から自分自身を防御するのです。その後者が問題であったとしても、他者の傷つきやすさ、その人の人間的なニーズを感じるということは、あなたの頭に浮かびもしません。その人の力、同じくその人の弱さは歪められ、変色するのです。その両方ともが、あなたに個人的に向けられた冷酷さとしてその要素を表すことになります。従って、それはあなたにもまた、冷酷な役回りを押し付けることになります。それがいかに外面的には、それ自身の中で愛情深いものとして見えるかもしれない従属性でカモフラージュしていようとも同じです。あなたが自分のことをほんの少ししか考えないのは、自分自身の行為と反応の重要さを正しく評価していないからです。

 そのふたつの要素、自己の過小評価と現実の誤った解釈が、(もちろん相互に関連していますが)防壁を築き、愛することに対する見掛け上の危険を創造します。人間のハートをこれほど臆病で寡黙にするのは、これらふたつの要素なのです。愛に対する過剰な慎重さは、引きこもりと孤立を創り出します。たくさんの人は、半分やる気なのです。この半分のやる気が、愛を指示するのではなく、むしろ愛を否定することになります。それは様々な条件や規定を作ります。いつもたくさんの「もしも」や「だけど」があるのです。

 錯覚と混乱、歪んだ認識と自己評価の欠如の結果である愛の欠如を通し、妨害された相互交流と不調和がこれに続きます。これらの乱れた感情と歪んだ認識が核を形づくり、あたかも異物のようになるのです。

 創造されたままの原初の存在は、これらの妨害のことは何も知りません。その本性は愛、豊かさ、肯定性、生産と拡張、意義のある成長です。宇宙の中、そして宇宙と共にある、これらの恐れのない状態です。その自然な状態は、現実の中にいて、現実を認識することから来る叡智です。異物であるその中核は、その自然な状態、共に生まれ、そうあるよう定められた状態でいることを魂に禁じているのです。

 人はこの異物に苦しみ、間違った方法で戦います。その人はその存在を感じ、自分自身をそれから取り除きたいと思います。けれどそれを企てようとなされる選択は、悲しいことに大抵、その除去の成功とは正反対の方向に進んでいくのです。そしてみなさんが知っているように、その人は、否定と逃避で苦しみます。無理に遠ざけようとし、上から別なものをかぶせようとして苦しむことになるのです。

 けれど、このことを知り、これまで何度もこれらの言葉を私から聞いたにしても、多くのケースにおいて未だドアは開かれていません。この道を歩く友の何人かは、意欲的であるにもかかわらず、この異物があることを認めることとの闘いであることを見ていません。彼らはしばしば自分をその中間地点で見つけます。それは、この異物を今までのところ隠してきた枷をとることを諦めるか、その重大性を完全に認識するための勇気をかき集めることがまだできないでいるか。これら全てが含まれています。

 この異物が否定され、目が背けられているという事実が、それを認めることよりも多くの悲惨さの原因となります。さて、人間は、その人が適用する際に誤解した真実と愛の教えが故に、この異物を否定しなければならないと感じます。その異物を近くで見て、その本性とそれが存在するようになった原因を理解するために、異物から自分自身を取り出すかわりに、その人はあたかもそれが存在せず、魂の物質にまだ他の異物を重ね合わせようとするのです。

 なぜそれほど、この異物を認識するのは難しいのでしょうか?それはただ単に、他者がその人の欠点を見つけて拒絶するからというだけではなく、そこにある基本的な恐怖とは、本当は、その異物が究極的な自分自身であるかもしれないと、人間が混乱し恐れているということです。この段階におけるその人の意識は、その異物の上を覆うためにかぶせている張りぼて(べニア板)の上でだけは、かろうじて自身で望む程度には愛があり、寛大で、非利己的で親切だと感じることができるのです。そこでなら自分は自分がそうありたいと思う程度に良い人でいられるのです。その人が自信を得られるのはこの外的なレベルにおいてのみで、誠実な人であるということに対するこの自信はもちろん不安定です。自分は善良だというこの自覚から、本人が現実味を得ることはありません。何故ならば、その人は本来の善で愛情深いものを真には見つけていないからです。しかし、その人は見せかけの善良さの反対にあるものを敢えて認めようとはしないのです。従って、その人は自分が本来持っている性質とは無関係なものへの許可と戦うことになります。けれど、その人はこれを知りません。その人は、その異物が究極的に自分自身であると考え、恐れ、そして疑うのです。従って、葛藤が後に続きます。

 人は、「~すべき」という部分からではなく、自然で疑うことのできない「~したい」というところから応答する自身の生命の場所、内なる存在に到達することはできません。後者が応答するとき、その答えは自由で完全な正当性の中にあり、いかなる葛藤もありません。この活気にあふれる内なる生命の中心が経験される前には、想像するのも難しいものです。その異物は、この自然発生的な愛する知性、矛盾のない状態、そして矛盾のない充実と共にある活気にあふれる生命の中心、真の自己との経験を覆い隠します。しかし、その人は、自身の本性とは比べらくもない、その物質から、自分自身を解放するのに必要なステップを踏み出すことを恐れます。何故ならば、自身が何者であるのかという最終的な答えが、その異物であると、自分自身で確信しているからなのです。

 さて、我が友人達よ。皆さんの内の幾人かは、すでに少なくとも特定の領域において進み、上塗りされたもの、偽の善性、偽の愛から、自分を剥き出しています。けれど、あなた方はまだこれらの虚偽の下にあるものが、愛の正反対のものでしかない、それ以上深い真実はないのだと恐れているからこそ、それが虚偽となるということ、そのことを見て取ることに成功していません。ですから、あなたが、それだけの惨状の原因となっているその異物が究極的なあなた自身であるか、あるいはその下に、約束の地を見つけるのかという探求、リスクに思われるものに着手しない限りは、自身の本来の愛情深さ、本来の自然な寛大さを経験することはできません。勤勉に、自身の愛のなさを棚卸することによってのみ、自然発生的なあなたの愛を感じることができるのです。労を惜しまず、自身の利己主義を棚卸することによってのみ、あなたは自分の中にある潜在的な非利己主義、つまり自分は利己的ではないという可能性を真に確信することができるのです。

 あなたがそれに向けて手を伸ばし、何よりも真実を、つまりあるがままの自分に出会うという真実を愛するとき、日常的な不調和の反応を取り出し、それについて次のような趣旨で瞑想するそのとき、その存在に入ってくる勇気が必要とされます。「もし私が不調和の中にいるならば、私の中のどこかに誤った解釈があるに違いない。私は真実を見ることを望む。もし私が抵抗するのであれば、私は自分自身の真実の中にいるという意志が、その抵抗よりも強いということを宣言する。」わが友よ、このような瞑想は、あなたに望んでいる結果をもたらします。そうするとあなたは、その異物をそのままに明確に感じるところに到達するでしょう。あなたの恐怖に満ちた抵抗へのたくさんの勝利は、この生き生きとした生命の中心から動くこと、それは未だかつてなく遮るもののない状態が多くなっていますが、それがどのような感じなのかという反復的な経験をもたらします。あなたの太陽神経叢の領域から、力、静謐さ、ダイナミックな活力、全ての創造物に向かう恐れのない愛、安全さ、自己そして他者への理解、全ての創造物とのワンネス、宇宙の美しいリズムで自己の魂の動きを流れるままに手放すことへの恐れのなさなどの新たな叡智が流れ出します。あなたがこれを経験したとき、最初は時々弱々しく経験できるだけで、すぐにその経験は失われ、わずかな瞬間だけ経験した至福という現実を疑うのです。もっと後になると、より頻繁に長い間経験できるようになり抵抗に対して勝利したことに見合うようになります。そしてあなたは、そのかき乱されて不安定な部分こそが異物なのだと感じるに至ります。このような道のりの初めには、それはそこにある全て、言ってみれば、あなたの自然な状態であるように見えます。あなたはそれに深く関わっていることから、他の何をも思いつくことができなくなっています。しかし、真の自己をより頻繁により強く感じる経験を持つようになると、いまだ存在する不安定さの核が、あなた自身深く染み込んでいる全体的な傾向というよりはむしろ、悪性腫瘍のようなものであると明確に定義されるときが来ます。この段階は重要で、良い進歩を示しています。

 あなたが、現に歩んでいるような道の途上であろうとも、この心をかき乱す核、その歪曲、否定的な感情、痛み、傷、そして冷酷さと直面することから逃げようともがく方法は、様々な形をとります。継続する回避の危険、そしてそれによる継続的な惨状を弱めるために、次の宣言を表明することは大変助けになるでしょう。「私は、自分が見つけるものが究極的な私であるかもしれないことを恐れています。そうでしょうか?あるいはそうではないでしょうか?私はその答えを見つけ出す機会を手に入れます。なぜなら、それをはっきりさせることのみが、私に平和をもたらすからです。私が持つ疑いは、自身の中に、直視するのが辛く、様々な方法で自身から注意をそらしている偽り以上のものがあるかもしれないという、可能性を与えてくれるのです。」

 これは、あなたが現在の状態から逃げ出すのではなく、認識していることを意味しています。この自分自身へのアプローチを通して、あなたは次の局面、そして解放へと近づいていきます。それは否定や上塗りからではありません。強制することのできない感情を強制することによって、現状を強制的に向こうへ押しやるのでもありません。

 以前に言ったように、たとえあなたがまだ時々この異物に気を取られて巻き込まれるとしても、その異物の周辺を感じるようになると、次の段階は徐々にあなたをこの異物の境界性を感じられる状態へと導きます。そのときには、あなたはその異物が自分ではない、自分の究極的な現実ではないということを知っています。これは何故かというと、あなたが折にふれ、十分に自身の内なる真実の存在の現実を経験したからです。従って、それを再び捉えるのもより簡単になり、あなたは、自分をややこしくして視界を不明瞭にする自分の歪みに瞬間的に巻き込まれるのを乗り越えるための、より多くの力とスタミナを持つことができるようになります。その異物から逃げ出すという誘惑、それを移して置き換えるという誘惑、自身の勝利にとって、それ自体が真実であっても偽りであっても、活力とならないものに集中する誘惑への勝利の繰り返しを通してのみ、この力は手に入れることができ、かつより強まるのです。

 私の友人たちの大部分がまだ充分に理解せず、かつ未だ見落としているのは、たった今というこの認識です。あなたがそれを知れば、わが友よ、いかなるときでも平和の中にいるでしょう。あなたの中にまだどれほどの神経症的な不安定さ、非現実感があろうとも、最終的にはそれは解消されるという条件が前提となるからです。完全にこの条件を認識することが、あなたに平和を与えてくれるでしょう。ですから、あなたの魂の中で混乱を創造するのは、その問題自体、あるいは葛藤、あるいは誤認でもないことを理解し、忘れないでください。あなた自身から逃げ出すこと、あなたがたった今にいないこと、あなたが非建設的な方法でそれと戦い苦しんでいること、あなたがたった今を認識していないというそのことが、このような魂の苦難の原因となるのです。

 あなたがこれらの言葉を覚えているならば、あなたは、常に拡張し続ける建設的かつ上出来な、そして効果的な方法でその苦しみに対処することができるようになるでしょう。故に、あなたはより愛することに近くなります。何故ならば、現実と愛することは、自分だけが正しいと思っている努力と愛することよりも、より相互に繋がっているからです。

 さて、何か質問はありますか?この話題に関することから始めましょう。

 質問:このところ、明らかにパスワークの結果というべき新しいことを経験しています。私はもはや、それほど恐れてもいないし脅えてもいません。けれどまだ何かに悩まされているのです。深い内側で、私は恐がっていないことを知っています。けれど、もっと表層のレベルでは、自分で恐がっていると思っているようなのです。あなたが話していらっしゃるのは、このことなのでしょうか?

 答え:そう、全くその通りです。それは一部分です。分かりますか、あなたは言うなれば、同時にふたつのレベルで機能しているかのようです。これは、人が異物を乗り越えて自身の真の自己から来る別な反応を感じて経験し始めるときの典型的な経験です。

 あなたが、それ程頻繁に一貫して自分の恐れを認識しているという事実、それは結果的にあなたがその恐れを失くすということです。あなたがその恐れを感じたとき、初めはなぜかも分からないままですが、後になってあるレベルから別のレベルに移ると、この恐れの真の本質に気づきます。そして恐れは少なくなります。これが、今あなたが経験していることです。

 質問:どうしたら、その恐れを完全に取り除くことができるでしょうか?時々、その恐れを他の何かに転嫁しすり替えているように思えるのです。

 答え:あなたがその恐れを他の何かに転嫁する瞬間、あなたは、たった今の現実からまた逃げているのです。従ってあなたの感情の現実に戻るためには、新たな試みをしなければならなくなります。

 また、あなたの場合によく見られるのは、恐れを他の感情の代わりに使うということです。そうすれば、恐れの中にいるとき、あなたは自分の本当の感情に直面しないでいられます。それとは反対の場合の人たちもいるでしょう。

 質問:私の敵意…?

 答え:そうです。それは敵意であり、傷であり、時に執念です。あなたが自分の不幸せなを使って他者を罰してやるためにその執念を使います。もしあなたがこれら全てを認識できれば、あなたの恐れは消え去るでしょう。そして最終的には、その瞬間の今において直面したことから、これらの感情的な態度それ自体が消えるのです。あなたが今の中核にたどり着くとき、そこにはもはや問題はありません。

 人間は、この中核からたびたび遠ざかります。向きを変えて、自身の最奥の自己の中核に向かって進み始めるとき、その時から、その人は徐々に平和と解放を見出すのです。けれどこの方向は、その人が最も追求したくないと望む方向です。その人は全ての真実の教えや霊的な哲学を使い、あるいは(無意識に)濫用までして、向かうべき場所、自分自身の内側から逃げるのです。その人は、救済と慰めを見出そうと、規則、理論、教え、知識を身につけます。それを頭の中に詰め込んでいますが、それだけでいいわけではありません。あるレベルから次のレベルへと、自己の内側に向かう中で得た知的な成熟を使わない限り、それでは何の役にも立ちません。

 我が友人たちよ、宇宙の充足は、あなた方から遠く離れた所に存在している訳ではありません。遠い未来や、あなた方の物理的な人生の先の状態にあるのでもなく、達成困難な方法を通して達成する何かでもありません。それはただあなたが、この瞬間に何を本当に感じているのか、何を考えているのか、という気付きの中にのみあるのです。理解するのが難しく思えるのは、この大いなる単純さであります。人間は、間違った方向を向いて、今その瞬間の自分自身と出会わないまま救済を見つけるという、いわば希望に対立する形の希望を持ち、痛ましくも不必要な葛藤を通過するのです。

 以前に何度も言ったように、「自分自身であること」を手に入れことを目指すこのような道においてでさえ、そこには自分を自分自身から引き離すようなたくさんの罠があります。その人は、内なる存在に向かう試みに成功し、恐怖と不安で自分を満たしている何かがあると疑いを持ちます。そしてそれから背く準備が瞬時に整います。また始めから古い手段を使うために、今回は、新しい見せかけを用いるのです。その人は、自身の感情的な居心地の悪さを外界の要因のせいにします。それは原理的には、このような道を歩む以前に使っていたのと同じ逃避なのです。けれどその人が諦めない限りは、いつでも方向を変えられるように助けを得ることができます。自身の中で自然に流れている領域、それはその人の魂の愛と真実の動きであり、すなわち全ての充実に繋がっていくところです。その領域を繰り返し見つけ出せるよう助けてもらえるのです。

 質問:私の姉妹は、物理的に逃げ出したいという非常に大きな衝動があります。その地点にくると、彼女はくるりと向きを変えて走って戻りたがるのです。そこには何か、大きな恐れがあります。それを見つけて指摘してくださいますか?

 答え:はい。それは、まさにこのレクチャーで述べた、内側に恐れがあることを示す外的な象徴です。愛するための準備が整い、愛したいという大いなる意欲があり、その潜在力は素晴らしい。しかしその基本的な潜在能力にもかかわらず、自然に彼女にもたらされるものに魂が敢えて直面しようとしない、苦しんでいる領域があります。存在している誤認と混乱が、いつも通り、愛の流れを止めるのです。この人物にとって、愛がそれだけ先天的なニーズとしてあるというだけで、苦しんでいる領域はより巨大な自己に対する拒絶を引き起こし、従ってこれらの領域を見つけ出す恐れ、そして自分自身からの逃避が起こるのです。そしてこれは、外的には、物理的なレベルにおいては走って逃げるという象徴が現れます。

 質問:他の言い方をすれば、彼女は内側に向き直らないといけないということでしょうか?

 答え:もちろんです。そうすることは常に、全ての場合において絶対的に必要です。

 質問:私が逃げるのは、私が愛さないからでしょうか?あるいは、私が拒絶されることを恐れているからでしょうか?

 答え:それは混ざり合っています。その瞬間の感情は、拒絶に対する恐れです。これはあなたの人生のとても早い時点で始まっています。私の友人たちは気付いていたかもしれません。私はとても長い間、あなた方に、非難の矛先を向けているかのように見える可能性のあることを避けていました。ここでは、「あなたは愛さない」という言外の含みは避けるべきです。それは大いに誤解を招くことであり、洞察を妨げます。しかし、どのような姿、やり方、形であろうと、拒絶への恐れを分析すると、そこにはいつでも愛は妨げられるという子どもじみた恐れがあります。あなたの中にどれだけの愛が存在していようとも、関係なく、その恐れが存在するのです。しかしどうか、このことを自分に諭すような方法で受け止めないでください。そうすることは、もっとことを難しくします。ただ、この瞬間このレベルにおいて、あなたが恐れの中にいる場所を認識してください。愛さないというレベルに入って行く前に、他の因子に気付いておかなければなりません。最終的には、そのレベルに入っていくことになるのですが、それが条件ではありません。このことはただ、あなたの心にある問題地点に適応しているに過ぎないのです。もちろんそれは、どれだけその問題地点の領域が大きいかということにより異なります。誤認、自己を過小評価すること、幻想、恐怖、そしてその他の破壊的な条件から、完全に自由である魂の領域と調和した人生を送り、健全に、喜ばしく、建設的に機能する領域を多く持っている人々がいます。したがって、これらの領域では、愛と真実が存在します。分離した領域でのみ、異物が内なる真の存在をぼやけさせるのです。他には、愛の能力のほとんどが重大な障害や歪みによって妨害され、全体としての人生が乱れて不調和になり、満たされず、不幸せになっている人々もいます。

 そうであればある程、逃げ出したいという誘惑はより強大になります。そして人が自分自身から逃げれば逃げる程、異物は育っていきます。

 質問:私の見るところでは、あなたが話しているこの愛は、常に何らかの形あるいは別の形での表現であり、連れ合いや恋人たちの間の関係のみではないようです。仕事への愛やその他のものでもある。純粋な流れにおける愛の具現化に向けて、最も高次の願望は何でしょうか?それは、通常創造力、創造的な現実化なのでしょうか?これは、普通は人が自身の環境、自身の経験を知っていた地点から、以前には未知であった地点へと拡張していくのでしょうか?これは本当に起こるのですか?

 答え:そうです。もちろん、断言できます。何故ならば、愛の力の自由な流れ、その能力、その多様性、その範囲、その拡張と創造性の多様さを理解するのは、人間としての想像を超えているからです。完全に自由な人間が存在すると仮定しましょう。従って、その内なる存在は常に顕現し、機能し、表現しています。この驚異的な生命力のパワーが全ての方向に向かって流れ出しています。その人は自由であるので、未知への恐怖もなく、従って自由に流れるエネルギーの流れと創造と拡張の広大な可能性を妨害するものはありません。

 人間は、自身の力の拡張を恐れて、それを引っ込めたままにするのに慣れてしまっています。人はそれが自身を引き裂くのではないかと恐れるのです。それは、その人を引き裂くことなどなく、その人を統合します。大いなる霊的法則は、いつも矛盾しているように見えます。調和的な流れの中に自身を手放すことで統合され、一方、精力的に恐怖に満ちた自分を保つことで分離して心が分解されます。宇宙の力がたくさんの方向、そして可能性に流れ込めば流れ込む程、最後には、ひとつとなっていくのです。

 この大いなる可能性は恐ろしいものです。何故ならば、その魂は常にそれ自身を保つのに慣れているからです。この保っていることは、意志の力とマインドの力と上からかぶせられた善によって行われます。その自然な解放は、自分を甘やかすことや自律心の欠如ではありません。それはむしろ自分の中の何物をも恐れない状態、すなわち全ての防御をなしで済ますということです。従って、魂の力の宇宙的な動きへの対立は生まれません。愛は、恐れのないこの自然な状態、自然なリズムに沿って起こるすべての内なる動きを許す状態でのみ花開きます。成長して苦悩から抜け出させるようになる最初の段階では、たとえこれらの動きが自分の望ましくない側面を指示しているとしても、その状態になれば花開くのです。自然な流れに任せることは、魂を大いなる統合に持っていきます。

 質問:私は正しく理解しているでしょうか。攻撃性は時により良いものであるのでしょうか?

 答え:そうです。健全な攻撃性というものがあります。健全な怒りというものも存在します。これは暫定的な人間性の段階での副産物です。健全な怒りは、よく統合された人生において、折に触れて存在します。健全な怒りは、人格を消散したり弱めたりすることはありません。健全な怒りは、内なる不調和を創ることはありません。この事実を無視したり否定したりするのは、大きな誤解です。その誤解は、人の内側にある力を人為的にまとめてしまい、強制的に偽の善良さを上から覆いかぶせることにより起こります。恐れと服従は、真に霊的に進化した人の中には、時折の怒りも決して存在しないのだという印象へと導きます。

 人間の領域においては、私が言ったように、それは必要です。それなしでは、正義も進歩もありません。破壊的な力が占拠することになります。その占拠が実現することを許すということは、愛ではなく弱さ、善ではなく恐怖、建設的な生き方ではなく妥協と虐待の促進を意味します。それは調和を促進するのではなく、破壊するのです。それは健全な成長をも破壊します。

 怒りは愛と同じく、必要な、時折おこる反応になり得ます。それは愛の一部を形作ります。それもまた、自然発生的にもたらされます。そして強制されることはあありません。いかなる感情も、それを強制したり否定することは、自己欺瞞に繋がり、この場合においては、不健全な怒りが健全な怒りであるという見せかけの形で現れるかもしれません。

 誘発された感情が健全か不健全かということは、原因によって定義することはできません。真の、正直な、健全な怒り、その場合、それは言うまでもなく建設的なものによって、確かに原因は完全に正当化されることができるのです。しかし、その人格の未解決の問題、自身の不安、罪悪感と疑い、不確実さ、矛盾によって、経験された怒りが不健全なものとなることもあり得ます。その問題自体は、正当化された怒りを保証するかもしれませんが、その個人は、それを表現することができないかもしれません。

 個人が真実の愛をどれだけ経験し、表現することができるかの程度によって、まさにその度合いによって、その人は建設的で健全な怒りを顕現することがでます。両方とも、内なる自己からやって来るのです。どのようなものであっても、真実の感情、愛あるいは怒りあるいはその他多くの存在している感情は、健全で建設的で、自己そして他者の成長を促進するものであります。それは強制されることも、命令されることも、押し付けられることもありません。それらは自然発生的な表現であり、有機的に起こり、自己と向き合うことの自然な結果として起こります。

 質問:その場合においては、あなたは肉体的な暴力も認めますか?

 答え:いいえ。健全な怒りは肉体的な暴力の中に顕現する必要はありません。肉体的であろうとそうでなかろうと、否定的な感情の表現は、破壊的な行為に結び付く必要はまったくないのです。

 これは、この道においてよくある、妨げとなる誤認の内のひとつであり、反復の必要性の高いものです。私はことの初めからこれを繰り返し言及していました。何故ならば、何度それを言っても、それは忘れられていたからです。内なる心理は、否定的な感情の認識は、それを振る舞いに表すことに繋がると恐れています。これは違います。反対に、あなたは自分の振る舞いを選ぶ自由を持つのです。するかしないか、どのように、そしていつするか。どのような感情でも、あなたが完全に気付いている時にのみ表現できます。自分が本当は何を感じ、それは何故なのかということに無自覚なとき、あなたは絶えず駆り立てられ、自身で理解できない様々な衝動に悩まされることになります。衝動とは、無視されている無意識の感情や状態の直接的な結果です。自身をより深く知れば、自分をより掌握することができ、「私は自分自身を率直に見ることはできない。そんなことをすると、これらの好ましくない衝動を放出して、他の人に害を与え、しいては究極的に自分自身に害を与えるかもしれないから」というように恐れることとは違います。この不明瞭な反応を消散させ影響を受けないようにするためには、それを表面に持ち上げてこなくてはなりません。

 皆さん、どうぞこれをあなた方の毎日の瞑想の中で繰り返してください。「私が感じていることへの気付きは、それがどのように好ましくないものであろうと、私を自由にしてくれる。私は自分の気付きの程度に応じて、自分の行動を選択することができる。もしそこに良き目的がある時、例えば私のヘルパーと共に、これらの感情を言葉で表現することを選択するならば、私はそのようにします。もしこのような表現が関係を損なうと感じたならば、私はそうしません。それは自己欺瞞なしで自覚的に自制します。」このような瞑想は知識を強化し、最後にはもっと隠された抵抗の強い層までしみこんでいきます。

 怒りの気付き、それが健全であろうと不健全であろうと、そしてその言語的な表現でさえもが肉体的な暴力、あるいは他の破壊的な形に結び付くと見なすのは、完全な間違いです。

 健全な怒りは、それが真の自己から来るものだからこそ、何をいつするか、その瞬間に必要なものは何かを知ることができます。

 質問:暴力的に迫害を受けている人々についてはどうでしょうか?彼らのとるべき態度はどのようなものですか?

 答え:自己保護の本能は、そのような出来事に対して、対抗あるいは避難するという形で、間違いなく彼らに戦うか守るかをさせます。全体としての人格が健全であればある程確実に、この本能は機能し、正しい防御を正しい時に選択できます。これは繰り返しますが、知的な熟考ではなく、いつものように、真の自己の自然発生的な顕現なのです。もし必要であれば、このような対抗そして防御は、肉体的であるでしょう。

 質問:怒りの表現については、耐えがたく感じます…。

 答え:時にそれは得策でなく、時に的を得たものとなります。どういう意味かと言うと、あなたが選択するのです。あなたが気付いていなければ、あなたには選択はありません。あなたがこの選択の行使の可能性について自覚していればいる程、より多くの自由を得、そして自らの自制が外的な要求、外的な権威に起因すると感じ考えることが少なくなります。従って、自制に対する反抗は無関係となるのです。外界からの外的な要求から自制が遂行されるのか、あるいはあなたが自らの自由意志によって決意して自制が遂行されるのか、それにはとても大きな違いがあります。これはまた逆説的に聞こえるかもしれませんが、あなたが進んで自制することを選べば選ぶ程、注意深い根拠と建設的な動機によって、あなたはより自由になるのです。当然と思われるかもしれませんが、自制が少ない程、自由な人間であるということはありません。

 自分が何を本当に感じているのかという気付きに率直で、表現しようと思えばそうできる能力が大きい程、回り道や回避を避けることができます。自身の感情あるいは反応の中心核に向かっていくこの率直さ、すなわちこれらの真の重要性を理解することが、このパスワークの技であり目的でもあると言えるかもしれません。もしあなたの目的が出来上がった完全性であるとすれば、いまだ自分自身を完全主義の中に見出し、あなたの進歩は妨害されているでしょう。しかしもし、「今この瞬間、私が本当に感じているのは何だろうか?」これが目的となったならば、その瞬間の解放、真実、調和、そして力強い進歩に繋がる現実的な目的を手にしているでしょう。

 繰り返しになりますが、見かけ上は矛盾しながらも人が今その時、何が真実であるのかという地点に立つことが増えれば増える程、その人は真の完全性へとより成長していきます。その人が、その瞬間の自分以上であろうとして、今感じていること、考えていること、今どのようであるのかということから必死で遠ざかろうとすればする程、この望ましいゴールに向かっての成長は減少します。

 私が今表現したこれらの言葉も、日常の瞑想の中で使われるべきものです。何故なら、これらは皆さんのための鍵となるからです。

 質問:あなたが今言っていたことの逆はどうでしょうか?当然な怒りを見せることを恐れていたり、臆病過ぎる人についてはどうですか?そして、この状況下においては、愛には何が起こっているのでしょうか?(次の言葉は聞き取れず)

 答え:とても良い質問です。正当な怒りを表現することに対する恐れがある場合には、それと同程度で、愛することに対する恐れがあります。その両方の後ろにあるのは、混乱、誤認、幻想です。私が話していた核の原因となるのは、これらの誤解された傷と痛みです。この核は、ねじれ苦しんでいる怒りの対極にある健全な怒りを表現する能力である愛、上にかぶせられた愛ではなく、本当の愛が流れ出る真の自己を邪魔し妨害します。正当な怒りを表現することに対して不安が過ぎるときには、その人はいまだ健全な怒りを感じる能力がないのです。正当化された問題は、矛盾した感情を誘発します。健全な怒りは強め、ねじれた怒りは弱めます。人が自身の中から与えれば与える程、健全な愛は全て、その人を包み込み豊かにします。病んで歪んだ偽の愛は、貧窮させ、自己の利益と他者の利益の間の葛藤を繁殖させます。それは二元性から来て、常に善対悪の二元性を増幅させます。真実ではない愛は、いつも自己憐憫、恨み、冷酷さ、葛藤と繋がっています。そこには常にこのような感情があります。「私は愛さねばならない。だから、愛していると思う。だけど、やっぱり愛したくない。だってそうしたら、つけこまれてしまう。愛するべきなのに、そうしたくない。だから、私は罪深いし悪いのだ。」故に、健全な怒りは存在することができません。その怒りは、源で消散させられます。何故なら、その人は、思い切って愛することをしないので、自分の怒りを感じる権利を疑っているのです。

 私が言ったことの多くは、繰り返しのように聞こえるかもしれないし、部分的にはそうかもしれませんが、実際にはそうではありません。何故なら、もしこれを使うことを選択するならば、これらは皆さん全員にとっての直接の鍵となります。あなたがもしその奮闘を継続し、そして正しく葛藤することを求めるならば、葛藤のない、愛を含有する宇宙の美しさ、そして存在の真実を経験し、愛し、自己の幸せのシェア全てを受け取らなければなりません。愛が、外的な良き意志によって試みられている場合は避けがたく思えますが、このふたつの因子を相互に除くことではありません。しかしもし、自分が愛そうと試みる行為の下に愛のなさが隠れていて、その愛のなさは恐怖と痛みと幻想の結果であるということを認識し、その幻想が何なのかを探し出すために、その外的な良き意志を使うのであれば、あなたは最終的には真実の愛、真の自己、あなたが感じている全てと自分が何者であるかの本物の表現にたどり着くでしょう。それは良きことであり、正しいことです。

 親愛なる友人のみなさん、あなた方すべてに祝福を贈ります。これらの言葉を実現すべく、方法を見つけ、一歩ずつ進んでください。平和のうちにいてください。神のうちにいてください!



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