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No.134 悪の概念

Pathwork Guide Lecture No. 134
UNEDITED版
1965年5月28日


悪の概念
THE CONCEPT OF EVIL


 親愛なる友人のみなさん、こんばんは。このレクチャーが、みなさんの助けになり、祝福となりますように。ここで述べられる言葉によって、手探りで探求されている自由への光と明晰さが、みなさんにもたらされますように。

 今夜、私は、これまで間接的にしか触れてこなかったテーマについて話そうと思います。悪の概念についてです。従来の宗教では、悪そのものが分離した力であると主張、あるいは、ほのめかしています。この概念によれば、人は善悪の判断に対応しなくてはならないことになります。哲学者の中には、悪なるものは存在しない、悪はあくまでも幻想であり、現実には存在しないのだと主張する人もいます。こういったテーマは誤解され易く、この哲学の提唱者さえも誤解しています。悪の存在を否定することは、悪が宇宙の別の側面を顕現しているとする信念と同じくらい、幻影にすぎないのです。

 このレクチャーでは、この概念をより深く掘り下げますので、自己発見のプロセスに深く関わっておられるすべての人に大きな助けとなるでしょう。

 悪とは、麻痺の状態、そしてどのようにコントロールすべきかわからない状態であり、その状態から生じた結果です。なぜ悪を麻痺の状態だと言えるのでしょうか?人間の精神にある防衛のメカニズムを考えると、麻痺と悪の繋がりが鮮明に見えてきます。子どもが傷つけられ、拒絶され、無力にも痛みや剥奪にさらされたと感じるとき、苦しみからの唯一の防衛が感情を麻痺させることだと気づきます。この方法は現実的であり、しばしば有効な保護手段となります。この方法は、子どもが理解できない環境に置かれたときにも、有効です。子どもが、(外側の環境によって)混乱し、矛盾と葛藤を知覚しているとき、その精神にも同様の矛盾した感情が結果として生まれます。子どもはどちらの状況にも対応できません。麻痺はまた、その子自身の相反する態度、衝動、反応に対する防衛でもあります。こういった環境下では、麻痺は救済措置であるとさえいえるでしょう。しかし、この麻痺が習性となり、長い時を経て環境が変わったとしても、そして当人も無力な子どもではなくなってもなお温存されていると、ほんのわずかであってもそれが悪の始まりとなるのです。悪はこのようにして生まれます。

 自分の痛みへの麻痺と無感覚は、逆に他者への麻痺と無感覚を意味します。自分の反応をじっくりと調べてみると、他者に対する最初の自然な反応は、彼らへの思いやりであり、彼らに対する共感であり、その場に魂の存在が感じられます。しかし、二番目にやってくる反応がこの感情の流れを止めるのです。この感情に対して、なにか違うぞ、とでもいうように、内側でかちっと音がして止めてしまうのです。結果、無感覚という保護層が形成されます。その瞬間、分離した状態になり、確かに「安全」だが、孤立/分離します。後に、この分離は偽りによる感傷的で、芝居がかった言動、本物でない、誇張された同情によって過剰に埋め合わされるかもしれません。しかしこれは麻痺を埋めようとする代用品にすぎません。自分を防衛するために始めたこの麻痺という感覚は、他者に対して、行われるようになります。これは自分に向けて行うすべての行為は、必ず他者への行為として拡大していくことと同じです。

 麻痺にも3つの段階があり、それぞれの違いをはっきりさせましょう。第一段階は防衛のメカニズムとして、自分の感覚を麻痺させること。第二段階は他者への感覚を麻痺させること。この段階においては、それは無関心という受け身の態度です。そうすると他者を観るとき、自分が悪いことをしているという心地の悪い痛みを一切感じずに済むのです。世の中の大半の悪は、魂のこのような状態から生まれます。相手からの素早い逆反応がある能動的な残酷さに比べ、やや鈍い印象を受けますが、長い目で見ればより有害なのです。受け身的無関心は、感情の麻痺から起こり、簡単にカモフラージュし易いので、長期間にわたり、気づかれずに見過ごされます。人目にさらされて、見つけ出されることなく、最も自分勝手な衝動に従うことが可能になるのです。無関心は意識して行う残酷な態度ほど、能動的な悪ではないかもしれませんが、長期に渡る害を及ぼすのです。

 麻痺の第三段階は、能動的に残酷さを与える、という段階です。この段階は、そのような残酷な行為をするように見える他者への恐れから生じます。あるいは、鬱積する憤怒をどうにもできないこと、麻痺という防衛手段をほんのわずかずつでも強めていくプロセスから生じます。すぐには、理解できないかもしれませんが、よくよく振り返ってみれば、人間はほぼ意識的に、「自分に感じることを許して、共感の中で他者へと手を伸ばすか、あるいはこの温かな感情が力強く流れるのを止めるためにまったく正反対の振る舞いをすべきか」といった判断の瀬戸際に常に立たされていることを見出すでしょう。次の瞬間、そのような理性は消え失せ、意識的な判断は忘れ去られ、最終的に残るのは、残酷な行為に向けた強制する流れのみとなります。

 以上のような一連の出来事に繰り返し見られるように、自然に湧き上がってくる真の自己を否定し、怖れと常に結びつく二次的な反応を用いることによって、全ての害、破壊性、悪が、もたらされることが分かると思います。

 受け身的な麻痺状態と能動的な残酷さの境界線はわかりにくく、判断がつきかね、見かけの外的な状況に依存します。人間がこのプロセスを知的に理解するだけではなく、自身の内なる体験として理解すれば、内側にある絶望、疑念、混乱を引き起こす世の中の残酷さに対応できる力が十分に備わったといえるでしょう。

 能動的な残酷さが、その残酷な行為をする人をもっともっと麻痺させることになります。それは自然に湧き上がるポジティブな感情の流れを抑制するだけでなく、怖れや罪の意識を感じるのを回避することにもなります。他者に痛みを与える能動的な行為は同時にその人の感じる能力を奪います。したがって、それは感覚の麻痺を手に入れるにはより強力な方法といえます。

 その能動的な行いが無関心によるものでも残酷さによるものでも、その能動的な行為と感情的傾向の間には必ず違いがあるはずで、それを区別しなければなりません。無関心さや麻痺の状態も明らかな形で実行されていないかもしれません。他者と関わらず麻痺の状態を体験しつつ、それを行動に移さない事も人間にはできます。他者を助けるためにあらゆることをすることもあるでしょう --- 表層意識では無関心であるように見られたくないので、過剰に他者を助けることさえあるかもしれません。他者を傷つけたい願望は、行動に移す事はないまま、感情レベルにとどまり続けているだけかもしれません。しかしながら、あなたが罪悪感を持つときは、その現れ方に大した違いを見出すことはできませんので、破壊的で害を与えるようなやり方で行動しようが、ただ内側で感じているだけであろうが違いはありません。それゆえに、問題となっている領域全体が否定され、意識の外に押し出されてしまうので、それが修正されることはもはやあり得ません。どんなに望ましくない感情でも、その存在を認め、直面することで自己も他者も害を受けることはなく、いずれこのネガティブな感情は解消されることになります。その内側の衝動とそれを行動化することを混同して両方を否定すると、自己に対する動揺は相当大きくなるでしょうし、そのプロセスが無意識のままに留まる限り、変えることができるという希望もないまま、間接的に他者へも影響を及ぼし続けるでしょう。

 光に照らしてみれば、麻痺という状態は究極的には、そして最終的には能動的な残酷さであることが明らかになります。この両者の違いはほんのわずかです。友人のみなさん、このことをよくよく理解していただくことが大事になります。世の中に存在する残酷さに最も衝撃を受け、それを怖れ、対処できない人、単に知識として、そういった残酷さが存在することを知っただけで苦しんでいる人こそ、自身を麻痺させ、その結果、罪悪感に苦しめられることになります。つまり、その人の麻痺と、その人の生における悪の側面への対応の仕方や態度の間には相関関係があるはずなのです。ある者は過剰に背負いすぎており、ある者は過度に感傷的であり、また中にはあまりに頑健で悪の存在に対して無関心な人もいるかも知れません。 このような過剰な反応はどんなものでも、麻痺と関連づけなくてはいけません、というのも麻痺は精神/心に取り込まれているからです。ある時期、それが唯一使える防衛方法でしたが、後々までその防衛が意志とは無関係に温存されてしまったのです。

 悪についての、二番目の側面は、コントロールすることに関連しています。別のレクチャーでは、このテーマについて何度も話してきました。過剰なコントロールを手放すことの大切さと、豊かで充実した人生を得るために自由に使えるコントロールとパワーを使えないでいることについても話してきました。コントロールとパワーを使えないでいる状態が生み出すこのアンバランスは、柔軟性を発揮すべきところで硬直を引き起こし、快活で毅然とした態度が必要なところで自己を見失い、無力になってしまう状態を誘発します。アンバランスは、無知で外的内的自己を見分けることができなかったことが原因です。このことは何度も繰り返し話してきましたが、悪という観点からは、全くしてこなかったと思います。

 全ての苦しみは無力感から起こります。無力感が大きければ大きいほど、人格は痛みを回避することが出来なくなります。子どもは、本質的に無力であり、か弱き存在であり、他者に依存すべき存在だからです。ゆえにその子どもはその状況に対してどうすることもできず、その小さな人格への衝撃を少しでも和らげるには、感じることを麻痺させて行く方法をとるわけですが、同時にその子どもにとって苦しい体験になるのです。

 無力感は大人の精神の中で、子どものまま、未熟なまま、存在し続けます。その人の内的な人生で、困難な状況として立ち現われてくるものは、過去における完全な無力感による爪痕であり、健全な領域では無力感を感じる事は在りません。無力感とコントロール不能の状態の関連性は明らかです。無力感によって痛みが引き起こされ、痛みが麻痺を引き起こし、麻痺によって悪が生じます。つまり、アンバランスとコントロール不能もまた悪とつながっていることが明らかになります。

 より大きな視点では、無力感は人類における最も解決の難しい側面のひとつです。このことは重要であるにもかかわらず、よく見過ごされます。例えば、人は自分の身体に対してさえ、無力だと感じます。人間がコントロールできる領域はかなりあります。内なる自己、真実の自己を見出していくに従い、その領域は広がってきます。歪んでいて、真実の自己が顕在意識から隠れてしまっている領域ではコントロールできません。そして人は無力に感じ、自分を弱いと感じ、怖れるのです。

 人間の身体、人間の感情と、個人の人生における外的環境との関係性は、コントロールという視点では同じなのです。身体機能のなかには直接コントロールできる部分があり、意志を使って表層にある筋肉を動かせます。外的自己、エゴによって部分的に筋肉のコントロールをいつ、どのように使い、動かせばいいかを決める事が出来ます。事実、外的意志が直接管轄する身体機能がいくつかあり、その意志を使うことなく働かせることができません。つまり、全ての自発的な身体機能は外的エゴが直接コントロール/操作しているのです。

 しかし、外的意志の力が直接には届かない領域が、人間の身体にはかなりあるのです。これらの機能は外的意志の管轄にはないのです。人間の意志による決意や意図的な行動が無くても完璧な秩序で働きます。また、人間が外的意志で決断をくださなくても、正常に機能するのを止めます。内なる身体の機能は外的コントロールによって支配されていません。人間には理解不能なので、恐るべきことです。自分の身体の大半をコントロール出来るパワーがないと感じるので、まるで自分の身体に翻弄されているように感じます。

 精神のプロセスについても同じことがいえます。人間が自分の行動、発する言葉、思考の選択に対してコントロールしていることは疑いの余地がありません。しかし、自発的で感情的な反応はコントロールできないのです。これも人間にとってかなり恐るべきことなのかもしれません。何か感じたいと思うことがあるのに、それを自分に強制的に感じさせることはできません。別の感情を絶対感じたくないのに、それを回避できないのです。抑制し、抑圧することで、お分かりのように、奇妙な不安をかきたてるような強迫観念が湧き上がってきて、その人格を捉えてさらに無力にさせるのです。そういった思考が簡潔な言葉に為されていなくても、以下のように感じていることはしばしばあるでしょう。「自分の身体や反応、感情をも支配できないなら、内なる自分に未知でコントロール不能の恐るべきパワーが働いていているとしたら、いったい人生に対してどれだけ無力感を感じなければならないのだろう?!」

 実際、自己と人生の相互関係はとても直接的です。これは、自分の隠された領域を知るにしたがって何度でも目の当たりにするでしょうし、私もこれまで説明してきました。人間の内なる身体機能と精神のプロセスをコントロールするパワーは、自分の人生をコントロールするパワー同様、それ以下でも以上でもないのです。自分の内なるプロセスへの鍵を見つけた分だけ、自分の人生を支配する一見したところ、運命として定まっているように見える出来事への鍵を見出したことになるのです。

 深遠な運命によって、人間の内なる身体や、自然発生的な反応、たくさんの外的な出来事がコントロールされているように見えます。人間が自分の内的機能から分離されるなんて、それは真実と言えるでしょうか?自分の内的機能のコントロールは全くないのでしょうか?もしくは自分の意識と内なる身体、自発的な感情と人生の間に繋がりを構築することはできるのでしょうか?

 身体と感情の間にある関係性と同じ関係性が人生の中に存在しています。ある出来事に関しては直接コントロールできます。外的で、直接的意志が、ある結果を導けるとわかった上で、ある行動を起こすことを決断することはできます。あなたが行動を起こせば、その結果は必ずや得られるわけです。しかし、身体と感情の世界と同じように、この直接的なコントロールが及ばない領域があるのです。ゆえに人間の肉体と感情という内なる世界、そして外的な世界の関係性はみな同じなのです。そこには境界線があって、出来事や結果を形作るのに明らかに直接的な影響を及ぼせる領域と、そうはできないように見える領域、そして領域外で働くパワーが顕われ、理解不能であるがゆえに怖れてしまう、間接的な影響を受ける領域がその境界線によって分けられているのです。自分とは全く関係のない奇妙なパワーが働いているというこの考えのお陰で、外的な神の存在という概念が生まれたのです --- 懇願したり、なだめたりする対象としての神のことです。このパワーの本質を見出す事が人間の霊的発達の究極の目標です。

 スピリットは、このパワーの本質を見つけ、運命を超えて使っていくことが人間の宿命であることを知っています。しかし、霊的存在の深い部分から上がってくるこのメッセージは、現存する誤認や混乱があるために、人格の外側に歪んだ形で表現されてしまうことがあります。人は目的に向かって必死で頑張りますが、間違ったやり方になってしまうのです。自分の外的エゴの意志を緊張させ、まったくの管轄外である領域でもそれを強く主張して、歪んだ形でやろうとします。外的エゴの意志機能を間違った方向に使うのです。

 パスワークで長年努力を積み重ねてきたみなさんは、以前は無力だと感じた領域で、もはや無力だと感じなくなった経験をするようになり、成長の各段階を実感されてきたと思います。自分がもっていると夢にも思わなかった資質、人生と上手く渡り合って行けるパワー、力、資源、適応力を発見するのみならず、遠隔操作によって、自分の宿命に、外的人生の環境に影響を与えることができることに気づき始めるでしょう。自分の操作範囲が拡大したことに気づくのです。操作不能領域が次第に縮小していく体験をします。新しく発見された操作可能領域は、直接操作できる管轄ではないのです、間接操作によって上手くいくのです。

 このようなコントロール/操作は——— 意志、マインド、理性、思考過程といった、硬直し、緊張したエゴの力を通しては起こり得ません。それは間接的なプロセスによる遠隔操作であり、いずれ直接操作に変化します。具体的に申し上げますと、あなたはエゴの力を使わなければならないのですが、従来とは違う方法で使わなければなりません。エゴの力はその外的意志の力を弱めるために、使う事が可能ですし、使われなければなりません。外的意志が万能であるという考えは手放されなければなりません。また、その外的な能力を内なる存在に委ねなければなりません。

 一見、矛盾しているようにさえみえますが、深い理解により、みなさんも間違いなく、何がここで行われているかがわかるときが必ず来ます。自分の内側に、即座にアクセスできるより広大な知性があることを理解すると --- そしてその知性は自分とはまったくかけ離れた神聖なるものではなく、自分自身の統合された部分なのです --- それに気が付くと私がここで話していることは真実だとわかるでしょう。まず、遠隔操作が、何の介入、つながり、コントロールもなく、働いていることに気づくでしょう。次第に遠隔操作が徐々に、より直接的に変化して行きます。最初は理論でしかあり得ないと思うでしょうから、善意と意欲と寛容さをもって試してみて下さい。いずれ、理論に過ぎないと思っていたものが事実であり、体験の伴う現実となるでしょう。

 外的意志によってアクセス不能な領域 --- たとえば、身体の内側で起こるプロセス --- を操作しようとすれば、自分自身の意志力を過剰に行使していることになり、エネルギーの弱体化、失望とフラストレーションを招くことになります。全ての内なるプロセス --- 宿命として表れて外からもたらされる内なる身体、内側で沸き起こる感情、内なる生命といったもの --- が内なる存在によって統治され得るのだと理解すれば、あなたの貴重なエゴのエネルギーを間違った方向に浪費しないでしょう。その代わり外的なマインドを使って、内なる自己がする必要のある事をするよう、コンタクトをとるでしょう。このことを実感できると、実行可能なことと調和している状態になります。

 では、いかにして内なる自己を活性化できるでしょうか?内なる自己はそれ自体で独自に活性化することはできません。内なる自己は、意識に対してのみ反応するのです。あなたの意識の全体性(外的も内的も)は、素晴らしい資源と知性、パワーを兼ね備えたこの内なる存在の方向付けをするパワーを持っています。同様に、この内なる存在は、内なるプロセスを管轄する役割を担っているのです。人間は、自分の信じている「自然の法則」を遥かに凌駕する無限の可能性について考えてみたこともないでしょう。

 このことが理解されると、人生や瞑想における真の意義は、血肉となってその人のなかで生き、体験されるでしょう。機能の使う上での問題や混乱はもはやなくなるでしょう。外的エゴの機能は自己と直接コンタクトを取るために使われなければならないということをあなたが理解できない限り、外的なエゴにはその限界が存在するのだということが見過ごされています。そしてそのあと外的エゴはすべての内なる機能 --- 身体、感情、見かけ上は宿命に見えるものも含めてすべてをコントロールするのです。外的な意識は内なる意識を活性化するために使われなくてはなりません。内なる意識は驚異的なパワーを持つにも関わらず、それは外的なマインドの直接的で、意図的な努力にしか反応しません。内なるパワーへの間接的なアプローチこそが、私が遠隔操作と呼ぶものを確立するのです。

 この操作方法は、精神に埋め込まれた歪みや誤認が取り除かれていけばいくほど、機能し始めます。このような歪みこそが、外的と内的な意識の障壁を作るのです。洞察が深まり、理解が得られるにつれ、破壊的な態度は少しずつ変化し、外的内的自己が協力し、操作が及ぶ領域が広がっていきます。初期の段階ではほとんど偶発的にしか感じられないでしょう。時折、確証を得られても、避け切れずに起こった良くない出来事によって、疑いが生じます。みなさんもご存じのとおり、成長のプロセスにおいては、1回掃くだけで問題が消えてなくなるわけではありません。成長は少しずつ、少しずつ起こるものなのです。残骸が残っていれば、すべての歪みが失するまで、それは表面化してきます。次第に、自分とは何の繋がりもなく感じられ、管轄外であった運命の前で、無力にも自らをさらけ出していた状態から、外的意志による直接的操作と対極にある遠隔操作によって、原因と結果が徐々に分かり易くなってきます。発達段階が進むにつれ、遠隔操作は更に直接的になっていきます。内的外的機能が一つに統合されます。このプロセスが進むにつれ、操作 --- つまり、外的エゴの機能をいつ手放せばいいか、手放さなければならないのに堅く握りしめていた手綱をいつ手放せばいいのか、またいつ外的意志を適切な方法で使えばいいのか --- 自体は、もはや何の問題にもならなくなります。

 さらに、自分をこれ以上麻痺させる必要も、痛みに対する無力感に上手く対処する必要もないのです。というのも、あなたはもはや無力ではなくなったのですから。

 パスワークに邁進されているみなさん、一人ひとりにとって、ここで、私が申し上げたことを吸収し理解し、知識として体験することは、とても大事なことです。

 質問はありませんか?

 質問:お話しされた内容を自分の問題と関連づけたいのですが、私にはどうも世界に存在する残酷さに圧倒される傾向があるようなのです。子ども時代を振り返ると偽の解決策のひとつとして引きこもる傾向があることを発見しました。実際、引きこもるとき、私は愛をも自動的に引っ込めてしまうのです。そこには罪悪感はあるのでしょうか?

 回答:あります。他にもそれから派生するものもあります。愛を引っ込めると、自分を麻痺させることになる、とこのレクチャーで話しました。子ども時代に身につけたこの無感覚は、外部からの残酷さから身を守る盾でしたが、ネガティブな感情、たとえば憤り、恐れ、怒りが内側で湧き上がるのを防ぐことはできません。こういった感情は、隠すことはできても、麻痺させることはできないのです。そして隠すことにより罪悪感が増すことになります。その人の中で起きていることを言葉で説明するとしたら、次のようになるでしょう。「こうして私は外部からの残酷さ、世の中の憤りや無関心を怖れている。他者による不正は私に対する思いやりの無さに起因する。私はこの不正、思いやりの無さ、無関心さ、残酷さ、憤りに対する怖れるがゆえに、彼らが自分を麻痺させているように、私も自分自身を麻痺させる。」罪悪感が伝えていることは、人は、似たような偽の方法で防衛できると勘違いしているので、自分の内部で永続的に感じ続けざるを得ないものを、他者に感じて怒っているということです。精神は、「自分を守るため、温かな、愛情を感じることを辞める。しかし、特定の感情を感じないように麻痺させているにもかかわらず、自分の中の憤りや怒りから影響を受けないようにすることができない」と言うでしょう。こういったことから罪悪感が増幅されるのです。

 質問:私たちのコントロールを超えた身体機能についてですが、罪悪感と同じように、憤りや怒りも病気をつくりだすのでしょうか?

 回答:もちろんです。水面下に隠れされているすべての破壊的な感情は、問題や危害、困難を生み出します。そしてそれらは、肉体的、感情的、精神的なシステムの中に表れます。場合によっては、その人の外的な人生の環境の中で表れることもあります。歪んだ価値観や誤った概念からもたらされるネガティブな感情が病気を作り出しているのは本当です。けれども、外的自己が内的自己へとアクセスし、なすすべもなく耐えている状態を作り出していることもまた事実です。未来に起こるであろうネガティブな出来事を正したり、癒したり、成長させたり、あるいは未然に防いだりするのではなく、どうすることもできないまま耐えているのです。自分が運命の犠牲者であり、自分のコントロールを超えたパワーの犠牲者であると感じていると、あまりにも明らかですぐにでも手に入れられる自らのパワーの源を見過ごすことがあります。

 秩序、真実、充足感をもたらすために、外的、内的自己が協力し合わねばならない、という知識があれば、エネルギーを正しい方向へと使うことができます。健康な状態を作り、維持し、取り戻すのは、内なる存在の働きによるものです。その存在とパワーを無視すれば、人は間違いなく無力な犠牲者となってしまうでしょう。内なる存在こそが、建設的な人生を創り上げられるのです。というのも、そこには壁が存在しないため、必要なものはなんでも外側から与えられるからです。外的自己(エゴ)の意志とマインドを使ってコンタクトを取るべきは、この内なる自己なのです。それは非常にシンプルに、そして直接的な方法でなされるべきです。けれども、妨げとなっているものを取り除く必要があります。内なる存在の協力が得られれば、取り除く作業もより迅速に、より適切な形で行われます。

 瞑想のための次のような言葉で、このレクチャーを締めくくりたいと思います。今晩話したことを組み合わせました。無意識だが意図的に無感覚でいる状態を手放し内なる存在を通してコントロールすること。意志とマインドの外的自己の機能と、無感覚の状態を取り除く目的を持つ内なる存在の間の関係性にアプローチする方法は、次に述べるとおりです。「外へと向いている私の意志は、私の知覚を麻痺させ、経験、感情、そして繊細さを麻痺させた領域に達することはできない。ゆえに、私はそのような外的なマインドではなく、高次の知性と偉大なるパワーを持つ内なる存在とコンタクトすることを望む。それは、私が凍ってしまっているこれらの機能を溶かし、再び息を吹き返すためで、そうすることで私は十全に機能する人間となることができる。恐れと誤認がある場所、私はその場所を理解したい。そして理解すれば妨げとなるものを取り除くことができる。私が中途半端にしか生きられない原因は、まだ自分でも気づかずにいる役に立たない呪縛があるからだ。私は十全に生きたい。これを可能にするために、私は、障害を取り除くのを助けてもらえるよう、自分の知るべきことが表層意識にもたらされるよう、内なる存在にコンタクトする。そうすることで私は再び目覚め、充足し、自分自身でいる状態の中で、美しさの中で生きていけるだろう。」

 上記の言葉通りに繰り返す必要はありません。ご自身の言葉を用いて、この考えのエッセンスを汲み取って、ご自身なりの言葉や表現に置き換えてください。みなさん、これがさきほど申し上げたアプローチの方法です。

 この道のりを継続して進まれるみなさんお一人おひとりに、祝福がありますように。もし選択するならば、人生はあなたが望むような人生になり得るという真実と愛の光をあなたも、そしてみなさん一人ひとりが感じられますように。外側と内なる存在が、互いに活発なやり取りを経て繋がり、正しく建設的な段階を踏むと、人生はあなたが望んでいる以上のものに限りなく近くなり得るのです。人生とは、あなたがそうあって欲しいと思う以上のものでも、以下のものでもありませんし、最上のものでも最悪のものでも、その間のどのレベルにもなるのです。実現のために設けた限界はご自身がコントロールする上で存在すると信じていた限界であり、いかようにもなり得るのです。それらは、あなたの信念に基づいているのです。ご自身に内在する能力のパワーを知っている分だけ、あなたは、世界を有することでしょう。ただこの内在するパワーは内なる自己に存在するのであって、外側の自我にはありません。

 内在する能力を発揮できる領域は、自分が保有する意識、信念、概念、表現力がどれほどあるか、そのすべてに依存しています。そしてこれらすべての力は、内なる存在がどれだけ自由に表現できるか、もしくは表現を妨げられているかによって決まるのです。感情を麻痺させると、内なる自己は抑え込まれます。もっとも的確に表現すると、この自己のみが、あなたと人生を統合させてくれるのです。

 平和うちにいてください。神のうちにいてください!


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