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No.135 「くつろぎの中の可動性」 生命力とネガティブな状況が癒着することによる苦悩  

Pathwork Guide Lecture No. 135
UNEDITED版
1965年6月25日


「くつろぎの中の可動性」
生命力とネガティブな状況が癒着することによる苦悩

MOBILITY IN RELAXATION; SUFFERING THROUGH ATTACHMENT OF THE LIFE FORCE TO NEGATIVE SITUATIONS 

 心からの友である皆さん、ご挨拶申し上げます。ここにいらっしゃるおひとりおひとりに祝福を。この祝福に含まれている理解を助ける力が、今夜皆さんにお話しするレクチャーの消化に役立ちますように。そして理解は外的なものに留まらず、内的な理解ともなりますように。今年一年で皆さんは、各々がそれぞれの形で随分と進歩しました。真の進歩を構成している要素は大抵、外からの評価が難しいものです。多くの場合、最も偉大な進歩は他者の目には写りません。ここにいるすべての人は、以前にも増して理解と見識を得ており、新たな形でご自身の人生を見つめることができているのではないかと思います。実際のパスワークの道をまだ歩み始めていない方であっても、内側では成長が見られるはずです。そうでなければここにいらっしゃらないはずですから。
今夜は今年最後のレクチャーです。そこで、これまで扱ってきたレクチャーの素材の総合的な理解と、皆さんにとってのこれからのパスワークへの準備を兼ねたものにしたいと思っています。単に理論的な教義として理解するのではなく、ご自身の個人的なワークに取り入れ、実体験を通して理解できるよう、今夜の私の試みが成功することを願っています。同時に、今夜のレクチャーは皆さんに新たな展望をもたらすことと思います。具体的なものというよりは、これから皆さんが参考にし、歩みを進めていくことになる地図のようなものになると思います。

 宇宙全体は生き生きとした物質で満たされています。この物質は人類がまだ発見し始めて間もなく、また限定的かつ漠然としか捉えることができていない膨大な力で構成されています。この力が電子、または原子力などの物理的な力なのか、はたまた思考の力であるのかは、ここでは問題ではありません。なぜならすべて同じひとつの力、またはひとつの力の複数の側面だからです。この力は感受性が非常に強く、それを支配し、形成することができるのは意識だけです。形成の結果、さまざまな密度の物質が出来上がりますが、実際の物質だけでなく、それよりも微細なものにも成るのです。この力が個人の中で展開し、姿を見せるとき、それは人生そのものとして現れます。経験であり、状態であり、状況や運命、宿命とも呼べるものとなります。どのような経験にせよ、自分自身が置かれた状態は自分の意識と、意識が生命力という物質をどのように捉えているかというその双方が組み合わさった結果の「物質」であり形なのです。この数年間、私がお話ししたレクチャーを至極簡単に要約するとそうなります。 今夜このレクチャーでお話しする内容が理解しやすくなるよう、手短に繰り返させていただきます。

 これまで私が頻繁にお話ししてきたことでもありますし、皆さんご存知のこととは思いますが、この壮大な生きた物質は止まることなく動いています。これが実際どのようなものなのか、宇宙的な動きのリズムとはどのようなものなのか、少し掘り下げてみましょう。これを真に理解することができれば、人生についての新たな鍵を手に入れることになるでしょう。

 この宇宙的な動きは、可動性とくつろぎが織り成すすべてに浸透しています。可動性がくつろぎと合わさることをきっかけに、新たな世界があなたの前に開きます。可動性とくつろぎの組み合わせは、存在にとってのあるべき状態であり、統合の原理です。二元性や葛藤は誤解を通してのみ出現します。くつろぎの中の可動性という統合の原理に現れる二元性または歪みがもたらす誤解には、次のようなものがあります。ひとつは、くつろぎとは動きのない停滞だと捉えること。そしてまた別のものには、可動性を力んだ努力として捉えることです。人類の問題を理解しようとするとき、この理解は特に重要です。

 皆さんが、それぞれの個人的な取り組みをする際に見つけていくこととなるすべての誤解は、この二元性に端を発しています。二元性とはつまり、動きがなく停滞した受動性にのみくつろぎが存在しているという考えと、力んだ緊張と不安、何かを掴むような態度や懸命な努力にのみ動きが存在しているという考えであり、人類は選択を迫られているように見えるのです。このような選択肢がそこに存在しているかぎり、次には対立が起こります。なぜならこれらの選択肢は葛藤の結果生じたものだからです。二元性を越え、存在の在り方を体現している統合的な原理に至る必要があります。言うまでもなく、これは人格のすべてのレベルに言えることです。私がお届けしているレクチャーは少しも抽象的または哲学的なことではなく、すぐにでも人生に取り入れることができる非常に実用的な鍵であることを、どんなに強調してもしきれません。ですから、今お話ししていることを見過ごさないようにしてください。

 お話ししていることがどれだけ本当か、今ここから、検討を始めることにしましょう。皆さんご自身の個人的な取り組みの中で見えてくる誤解やイメージを検証し、じゅうぶんに深く取り上げてみると、これらがさきほど述べたような二元性が生み出す溝と同じところに分類されることに気づくと思います。取り組みが単に理知的なものから始まっていたとしても、すべての誤解の根底には、動きとくつろぎの歪みが最初の二元性として存在することが容易に理解できると思います。そして結果的に、動きもくつろぎも、どちらも同じくらい満足のいかないものになるのです。この根本的な誤解は調和のリズムを奏でているはずの普遍的で宇宙的な動きを歪めてしまいます。  

 自分自身のエネルギーの動きや、内側での表現、そして自分から放出されているものに耳を傾けてみてください。今お話ししている真実がよりダイナミックかつ個人的に経験されることでしょう。その場所に留まって、自分のエネルギーから何が放射されているのか観察してください。そこには今お話ししているような動きに対する歪みがあることでしょう。不動性が非常に魅力的に思え、自分を停滞させているのです。不動は、魂が求めてやまない、あの楽な状態であるかのように見えるからです。もしくは、動きは停滞を避けるために絶対不可欠に思え、罪悪感という鞭を自分に打ち努力や過度に力んだ動きの状態に自分を追いやっています。そんなに努力してまで手に入れたいと思っているものが何であるのかさえ、はっきりと分かっていないかもしれません。自分のエネルギーから何が発されているのかを観察することで、二分法に準じている場所を自分の中に見定めることができるのです。

 これはとても重要なことです。あなたがこの混乱、つまりはあなたに個人的に注がれている宇宙の力を歪めていることに気づくことができれば、その認識によって、受け入れによって、観察や気づきによって、ゆっくりではありますが確実に、動きに生じているバランスの悪さを正すところに近づくことでしょう。かつては遠い無意識にあったけれど、最近になって意識的になりつつある考え方や価値観、人生や自分自身に対する理解、そして人生や自分自身との関係性の持ち方。こういったものを正すにつれ、そしてその矯正の度合いに応じて、ごく自然に、偉大なる宇宙の流れと自分自身の中にある動きが調和を奏でるようになります。くつろぎの中の可動性が、もっともっとあなたという存在に取り込まれていきます。

 同じことが、身体的なレベルにも当てはまります。あなたから発せられる考えや感情、反応から生じる不均衡を具体的に観察してみると、同じ不均衡があなたの身体にも影響を与えていることが分かると思います。人生の原理そのものが、まさに動きとくつろぎが奏でる調和なのです。そのことから、死という現象はこの原理を誤解することから生じ、二元性が浮上することから生じていると言えるはずです。この誤解がじゅうぶんに広範囲にわたり、人という存在のさまざまなレベルに影響を与え始めると、外的なレベルでの死という現象が引き起こされます。反対にここで均衡が確立されると、生命は継続し、死は不可能なものとなるのです。

 心理的な不均衡が正されるにつれて、外的で物理的なレベルも自動的に従属します。とはいえ、不動性と停滞、もしくは可動性と緊張を培う代わりに、外から内へと、くつろぎの中の可動性という状態を外から学び、育むことも助けになります。内から外へ、外から内へと働きかけることによってプロセスは加速し、より早く調和が確立されることでしょう。これを遂行することはとても大切ですよ、皆さん。

 ダイナミックな動きを持った生命力は非常に鮮やかな原理であり、活力に満ちています。大きな動きを伴うこのくつろぎは、男女間の恋愛関係における人の意識では特に顕著です。くつろぎの経験への憧れや努力がネガティブな状態と結びつくとき、必然的に困難やフラストレーションが起こります。このことについてはある意味では、以前にもお話ししているのですが、皆さんじゅうぶんに理解していないようですし、この題材にはより多くの光を注ぐ必要があります。概要はお話ししましたので、ここからは少し深くまで題材を掘り下げていこうと思います。

 破壊性や病気、戦争、そして残酷さはなぜ存在するのかとよく質問をいただきます。大抵こういった質問への答えはじゅうぶんに理解されず、何となく理解されたとしても何かが欠けた形で受け止められていると感じます。ここにいる多くの方は、より深いレベルで理解する準備が整っているのではないかと思います。よく私は、誤解が争いを引き起こすとお話ししていますし、これは完全に真実です。しかし、そこには追加の要素があるのです。それなしには、どれだけはなはだしい誤解であったとしても力を持ちえません。その追加の要素とは以下です。つまり、もしも人が単にネガティブである、または破壊的な姿勢を持っていたとしたら、その破壊性の効力は大したものにはならないのです。この地球上に顕現するネガティブ性は、破壊性がポジティブな生命の原理と組み合わさってはじめて特に深刻なものとなります。別の言い方をしますと、ネガティブ性や破壊的な姿勢と混ざり合うとき、それ自体はポジティブな力であったとしても、いわゆる悪が出来上がるのです。悪、という言葉を使うとするならばそうなります。真の破壊性とはつまり、単に真実が歪んだものでも、普遍的で建設的な力が歪んだものでもなく、歪みがパワフルな生命の原理や純粋な形の建設的な力によって満たされているということなのです。もしもポジティブな生命の原理が関与せず、うかつにも歪みに対して使われるようなことがなければ、悪や破壊性はそう長く続きません。

 今私がここでお話ししている内容をご自身に当てはめ、より多くをそこから引き出すためには、曖昧で抽象的な原理としてこのレクチャーを聞くのではなく、自分自身を以下のような視点から眺めてみることです。このパスワークの道を歩む者は誰しも、子供のころに耐え抜いた傷や痛みを発見してきていると思います。中には少しずつではありますが、子供のころに傷ついたとき、ひとつの特殊なプロセスが起こったということを掴みかけている方もいらっしゃるかもしれません。エロティックまたは悦びの原理が傷や苦しみ、そして痛みに対して始動したというプロセスです。元々の傷から生じるすべての感情は、その人の性格や気質に応じて悦びの原理に付着します。これが個人に起こるすべての困難や求めていない状況を生み出すのです。

 地球上に住む数えきれないほど多くの魂が集積し、人類全体の争いを生み出します。このプロセスにあなたが気づくとき、どれだけ多くの人が外的な行動とはまた別に、空想や残酷さにのみ悦びの原理を経験しているかに気づくことでしょう。そしてこれが戦争の、そして残酷さ全体の真の核なのだということを理解することでしょう。罪悪感を抱く必要はありません。この理解はむしろ、あなたに悟りをもたらし、あなたを解放するべきです。そうすることで内なるプロセスが成長することを自分に許すことができるからです。なぜなら、この状況を作り出したのは、誤用され誤解された痛みだからです。悦びの原理を携えない残酷さは、決して大きな力を持ちえません。悦びの原理とネガティブ性の組み合わせが自分の内にあることに気づかず意識が欠けていると、人類が発している全体的な雰囲気や生命力という物質に、この組み合わせが与えている影響は緩和されません。

 あなたが残酷さを経験したとしましょう。実際に存在する残酷さなのか、あなたが単にそう信じたものなのかは別として、あなたの悦びの原理はこの残酷さと癒着し、残酷さをもってしてのみ悦びが機能することになります。さて、多くの場合この悦びに対する罪悪感や恥があまりにも強いので、こういった空想は一切自認されることはありません。その存在を知ってはいるものの、認めていないという場合もあります。こういった気づきを確立する必要があり、今述べているような全体像を把握する必要があります。なぜなら、このことを真に理解すれば、罪悪感と恥は取り除かれるからです。ゆっくりと、一歩一歩、理解が深まると、喜びの原理はポジティブな出来事に反応するようになります。

 悦びの原理と残酷さの組み合わせは、能動的にも受動的にもなりえます。残酷さを相手に負わせるか、または残酷さを耐えることで悦びが経験されるかということです。もしくはその両方の場合もあります。多くの場合、悦びの原理がネガティブな状況に付着し、残酷さと連動し、最も強く機能するとき、人は実際の経験から尻込みし、制限をし、実際にそこにある愛を経験することを不可能にしてしまいます。もしくは愛は、維持し成就できるものではなく、漠然とした憧れの存在となってしまいます。なぜなら人格のまた別のレベルで愛は魅力的で心地の良い経験であるにも関わらず、表面的にはそう感じられなくなるからです。愛に焦がれる気持ちと、なぜ自分は実際の愛を拒んでいるのかが分からない(この拒否は喜びの原理とネガティブ性が付着していることに対する恐れからきています)という双方から生じる葛藤は、深い絶望を生み出すことが多くあります。今お話ししている点を深く理解することでこの絶望をよく理解することができ、瞬時に緩和することが可能となるのです。

 もう少し露骨でないケースでは、子供があまりあからさまではない残酷さ、たとえば漠然とした拒絶や自分を受け入れてくれないといった残酷さを経験したとしましょう。ここでは悦びの原理やエネルギーの原理は、これまでに述べてきたのと似たような状態に付着することになります。意識の上では受け入れてもらいたいと望んでいるにも関わらず、拒絶と連動した形でのみ悦びが機能します。これにはさまざまなレベルや形が存在します。そのひとつには例えば、子供が部分的な受け入れと部分的な拒絶を経験することが挙げられます。すると悦びの原理はこれとまったく同じ、ためらいの状態と付着することになり、実際の人間関係に葛藤を生むことになります。

 始めに述べたようなあからさまな残酷さが悦びの原理や生命の原理に付着している場合(悦びの原理と生命の原理は両方同じものです)、人間関係はあまりに危険なものとなってしまい、多くの場合人はすべての人間関係を避けるようになります。もしくは訳の分からない恐れとして人間関係を経験することになります。人間関係を成就できないと感じてしまうのです。あるいは、残酷さを人に負わせる、もしくは残酷さを耐えたいという自分の欲望を恥じて非常に内気になり、すべての自発性を止めてしまう可能性もあるでしょう。こうして人は内に閉じこもり、自分の感覚を麻痺させることになります。

 皆さん、この原理を理解することは非常に重要です。この原理はひとりひとりの個人だけではなく、人類全体に当てはまります。心理学とスピリチュアル科学がじゅうぶんに融合していないために、一般的にはこの原理はあまりしっかりと理解されていません。この原理を掴もうと、心理学は漠然とした試みをし、ある程度は理解されていますが、文明やその運命、そして進化という文脈においてこのことが持つ重要性の大部分は理解されていません。世界は今、人生のこのような側面を理解する準備ができているといえるでしょう。

 こうなってくると皆さん、進化とは自己分析と自己実現のプロセスを通してそれぞれの個人が、ゆっくりと、自分の中の悦びの原理の方向性を変えることを意味するのではないでしょうか。そして自然と、より多くの個人がポジティブな出来事、状況、そして状態に反応するようになります。

 意志の力だけでは、内なる変化を直接引き起こせないことも皆さんご存知ですね。皆さんの外側の意志の直接的な表現は、今我々が行っているような道の歩み、パスワークの歩みを維持する方向に向けるべきです。道とはつまり自己を見つめるための意志と勇気を培い、理解力を深め、自分の中にある抵抗を見つけ克服する取り組みを指しています。このように意志と自我の側面を建設的に使っている間に、真の変化が生じます。幾人かの方はこの変化を経験し始めていると思いますが、この変化は努力とは無関係であるかのように、副産物であるかのように、繋がりのない別の展開であるかのように生じるのです。これが本物なのです!進歩や成長はこうして起こるべきなのです。こうした成長のプロセスを経て、ゆっくりと、少しずつ、一歩一歩、ひとり、そしてまたひとりと個人が自身のエネルギーの動きや力の方向を変え始めます。こうして心理の中に秘められた宇宙の動きは、純粋にポジティブな状態や状況に付随し始めます。最早、ポジティブまたは悦びの感情がネガティブな状況から引き出されることはなくなります。今この段階で人類は、後者に慣れ親しんでいます。つまり人は悦びの感情とネガティブな出来事が混ざり合っているという事実を抑圧しているのです。この事実を抑圧し、否定し、そっぽを向くのではなく、向かい合わなくてはなりません。罪悪感や恥なしにこの事実と向かい合い理解するとき、成長の過程で人は、すべての不完全さが変化をするためには、それを受け入れ、理解する必要があると学ぶはずです。つまり、自分の中にある葛藤と対峙し理解することに成功しさえすれば、悦びの原理はこれまでとは違った道筋を流れ始めるということなのです。こうなれば、緊張や不安なしに動きが存在することになり、くつろぎは停滞なしに存在が可能となるのです。

 ここにいる皆さんにお願いします。悦びの流れとネガティブな状態が結合している部分を、自分の内で具体的に探るようにしてください。あなた自身のエネルギーにこの「結合」を具体的に見つけることによって、あなたが抱えている問題の外的な表れを完全に理解することができるようになります。この徹底的な理解によってもたらされる安堵は、自分の中にあるこの「結合」と対峙する勇気があってはじめて生まれます。ポジティブとネガティブな事実が「結合」したところの力を明確かつ簡潔に取り上げることによって、あなたが抱えている不満が持つイメージを新しい光の内にはっきりと見る事ができるようになるのです。なぜ自分自身や人生から身を隠しているのか、なぜ自分自身の感情から退いてしまうのか、なぜ自分を抑圧するのか、そしてなぜ自分自身の中に沸き起こる最も自発的で創造的な力を警戒しているのかが分かってくることでしょう。時に深い痛みを伴ってまで遮断するのはなぜなのか、そして遮断する行為を合理化し、言い逃れようとするのか、分かることでしょう。

 今流行している心理的な真理でさえ、このシンプルな事実をごまかすのに一役買っているのですよ、皆さん。
積極的なパスワークの取り組みを一時的に中断することとなる夏休みの数ヵ月で、今夜お話ししたことをふたつ、自分の中に見つけてみてください。1)微細ではあってもはっきりとそこにある歪み、可動性とくつろぎという統合の原理に存在している歪みを見つけてください。あなたの中のどこに動きと緊張がありますか。あなたの中のどこにくつろぎと停滞、または不動性があるでしょうか。あなたの思考の性質や感情、そして体を観察してください。2)どこで生命と悦びの原理がネガティブな状態に癒着しているか探ってください。どれくらいの度合いでこの癒着は姿を現わしているでしょうか(空想の中に現れているかもしれません)。そしてこの癒着によってどのようにあなたは気の合う者同士とでさえ、恐れのない自己実現が可能な状態から他者に自分を表現し、相手と繋がりを持ち、経験することから尻込みしているでしょうか。

 今夜の題材にまつわる質問は、何かありますか。

 質問:愛の力と他の状況、例えば残酷さなどとの間に生まれる結合についてもう少し明確に理解したいと思っています。母親に拒絶されたと感じている子供を例に挙げた場合、この人は復讐という経験なしには悦びを感じ得ないということでしょうか。つまり、母親に対する何かしらのサディスティックな欲求があるということなのでしょうか。実際に何かを起こすことは絶対にないとしても、空想の中でこのような欲求があるというようなことなのでしょうか。そして大抵の場合こういったときに人は、自分のパートナーが母親を象徴しているということに無意識であるということでしょうか。

 回答:はい、まったくあなたがおっしゃる通りである可能性はあります。もしくは、再度拒絶されることでしか悦びを感じられないといったことも考えられます。そんなに強い拒絶ではなく拒絶をほのめかされる、または拒絶されるのではないかと恐れるといった可能性もあります。

 質問:しかし、子供のころに拒絶されたときには悦びは経験していませんよね。

 回答:もちろんです。しかし、子供は悦びの原理を使い、ネガティブな出来事や苦しみをより耐えられるものにしようとしたのです。これは無意識のうちに起こることであり、意志とは無関係に、ほとんど自動的に生じます。あたかも不注意によるものであるかのように、悦びの原理がネガティブな状態と混ざり合い、結びついてしまうのです。このことを判定する唯一の方法は、自分の中の空想の世界を探ることです。空想の中で「結合」は確立されるわけですから。こうなると自動的な反射の仕組みは、生来の悦びの流れと辛い出来事が結びついた状況に向けられることになるのです。

 質問:そしてこの人は、この拒絶を再現することを望むということなのでしょうか。

 回答:もちろん、意識的に望むわけではありません。拒絶されたいなどと本当に望んでいる人はいませんから。しかし困ったことに、意識では受け入れられ、愛されたいと望んでいるにも関わらず、完全に自分を受け入れてくれる好意的な状況に無意識では反応することができないのです。この人の悦びが流れる道筋はすでにネガティブな方向へと導かれてしまっており、気づきと理解をもって初めて正しい流れへと直すことができます。ここでの最大の葛藤は、意識の上でもっとも望んでいない方向に悦びの原理が働いてしまっていることです。無意識のうちに拒絶を求めているとは言えないとは思いますが、子供のころすでに、人生に耐えるためにこうした反射の機能が確立されていたということです。理解していただけますか。

 質問:人が拒絶を経験するときにどうして悦びなどを感じえるのか、うまく理解することができません。復讐という形での悦びであれば理解できるのですが。

 回答:では、このように考えていただくのはどうでしょうか。頻繁に目にすることなのですが、人に受け入れられ愛され、安定し過ぎていると感じると興味の煌めきを失うということがあると思います。これは避けられない法則によるものだとか、習慣的に起こってしまうのだなどと言って合理化されますが、今回のレクチャーでお話ししている要素がこの人の中になければ、このようなことが起こることは必然ではありません。この人にとっては、不確かさや不幸な状況なしには煌めきや興味、ダイナミックな流れが生じないのです。よく目にしますね。こうしたネガティブな顕現は空想の中でしか生じないこともあります。空想というものをよく検証してみると、何らかの形で苦しみや屈辱、敵意などと癒着しています。こうなると、マゾキズムやサディズムと呼ばれます。これでお分かりいただけましたか。

 質問:飽くことを知らない要求から、すべての子供は他者からの拒絶を経験すると思います。そうなると、この状況には一体いつ終わりがくるのでしょうか。新たな転生、そしてそれぞれの状況で常にまた次の拒絶が起こるわけですよね。

 回答:人によって違うということが分かってくると思います。悦びの原理がよりはっきりとポジティブな状況に反応しているような、他の人と比べると大分健康的に機能している人もいます。進化が起きているということですね。人の心理が全面的にポジティブであるとき、転生は最早必要ではなくなります。この場合、進化はまた違うレベルで進展することになります。ある意味すべての人はネガティブ性を持っています。そしてこのネガティブ性は生命力によって何かしらの形で活性化され、強制され、養われています。しかしそこには程度の差があり、それは進化のプロセスがどこまで進んでいるかの明確な指標となります。ひとつの極端な例として、人と直接の関係を持つことがまったくできない人もいます。ネガティブな経験と完全に癒着しているような空想の世界にだけ生きている人です。また逆に成長の過程で、そして成熟の過程で、空想と実際の人生を最もポジティブかつ好ましい形で統合してきた人たちもいます。過去のレクチャーでお話ししましたね。空想と現実を統合する、この繋げる作業は、空想の世界を抑圧するという意味ではなく、ポジティブな状況がこの人にとって好ましく心地よいのと同様に、現実の方が空想よりもより良いという理由から本当の意味で空想の世界を克服したということなのです。このふたつの両極の間にはさまざまな度合いが存在しています。そしてその度合いを見ることで、進化のプロセスの進み具合を見ることができます。

 質問:悦びの原理をネガティブ性から取り除くことで、動きと緊張またはくつろぎと停滞の結合を弱めることができるのでしょうか。

 回答:もちろんです。相互作用ですから。それぞれの側面がどのように作用し合っているかが見て取れると思います。ポジティブな生命力もしくは悦びの原理がネガティブな状況と「結合」または融合するとき、そこには緊張や不安が存在していると言って間違いはないと思います。不安や緊張があれば、不動性は負担を軽減する好ましいものとして受け止められるのです。負担とはつまり自分の内で起こっていることに背こうとすること、自己に抵抗しようともがく努力や疲労です。こうした短絡化が行われるとき、悦びの原理の経験は妨げられ、それ自体が停滞となるのです。これは動きのなさを示しているのですが、反対に宇宙全体は永遠の美しい動きそのものです。人類がそれぞれの心理の中でこれと同じ宇宙的な動きを確立することができれば、宇宙の力と調和ができるのです。

 質問:自分の中のネガティブ性と悦びの原理の間に何が起こったのか、なぜ拒絶の態度を作り出さなければならなかったのか、その理由についてこれほどまでに明確な理解を得たことはありませんでした。 こんなにもはっきりと問題を意識し、どのように「結合」が機能しているか気づくことができたわけですが、この気づきを次にどうしていったらいいのでしょうか。

 回答:あなたの中の悦びの原理が具体的にどのようなネガティブな状態に反応しているかに気づくことが非常に大切です。この気づきはしかし、理知的なものだけに留まらず、あなた自身の中でこのメカニズムを感じ、経験しなくてはなりません。この気づきがあなたの中で展開することを自分に許さなければならないのです。あなたの中の最奥の自己まで深く辿り、この気づきがあなたの意識に入ってくるに任せるために、そこにある制限を取り除いてください。この気づきがあなたの意識に入ってくることは、何も辛辣な判定があなたに下されたわけではないことに気づいてください。一貫の終わりではないのです。あなたは無意識にそう信じているようですが、敗者の刻印が押されたわけでもないのです。むしろ、逆です。ここからが新たな始まりであり、これまでの間違った推測や自分に当てはまると思っていた辛辣な判定から抜け出す出口にあなたは立ったのです。あなたがこれから取り上げることになる具体的な結合の融点に生じる感情に明晰で簡潔な見識をもたらすこと、そしていかに悦びの原理が自動的な反射でネガティブ性と結びついているかを知ること、そして勇気をもってこれを経験し、静かに落ち着きをもって成長を望み、この結合の状態がこのまま続く必要もなければそうもならないと知ることで、あなたは前へ進まずにはいられなくなります。

 このことに関連して、もうひとつ付け加えたいと思います。質問してくださったあなただけに当てはまることではなく、皆さんに言えることです。今お話ししている葛藤に関して言えば、そこにはよくあるふたつの反応があり、これらを区別することは有用です。両方ともそのほとんどは意識されることがないか、もしくは半分意識に上る程度でしょう。そのふたつの反応のうちのひとつは、質問してくださったあなたの今の状況にも当てはまりますし、ここにいるその他の多くの人にも同様だと思います。この反応とは、今お話ししている結合を完全に否定するというもので、空想の中の結合にさえ一切気づくことができません。恐れや罪悪感、恥、結合が理由で自分は「最低」だと信じていることによって起こります。もうひとつの反応は、自分が空想を抱いていることはじゅうぶんに把握してはいるものの、悦びの原理を空想の中でしか経験することができない人たちに当てはまります。これは他者と関係を実際に持っていたとしてもそうでなかったとしても言えることです。セックスと愛が分離している場合や、エロスと愛、またはエロスとセックスが分離しているときに当てはまります。こういった場合には、空想の世界を手放すことですべての悦びが失われてしまうのではないかと、半意識的な抵抗が存在しているのです。ポジティブな要素同士が融合したときの純粋で健康的な悦びの原理の方がよっぽど美しく、満足感を与えてくれると想像もできないのです。鋭さに欠け、退屈だと思ってしまいます。このような状況では現実の人間関係は決して空想以上に満足のいくものにはなり得ないため、そう思ってしまうのです。こうして人は空想を手放すことは悦びを手放すことだと推測することになり、今ある悦びに執着します。

 このようにふたつの抵抗があるということです。自分にはどちらが当てはまるのか、区別して理解することが重要です。悦びが自動的な反射でネガティブな状況に結びついていると認めることさえできない方でしょうか。それとも、この複雑なすべてを手放してしまうことで少しの悦びもなく生きていかなければならないという恐れが理由で、手放すことに抵抗している方でしょうか。どちらも誤解の結果です。こういった抵抗は、ひとつ例えを挙げるならば、動きに混乱をもたらします。今の状況から立ち去ろうともがく努力や緊張、恐れといった可動性と、変化というプロセスで大損するのではないかという恐れから生じる停滞とに板挟みになっている混乱です。

 このレクチャーの始めでお伝えしたことですが、すべての二元性は、たったひとつのシンプルな共通項、つまりは分裂した動きという、基本的な共通項に落とし込むことができます。このことが理解できれば、随分参考になると思います。

 これから迎える数ヵ月の夏の期間、皆さんが取り組み、瞑想の題材とし、ご自身のワークに適用するには、じゅうぶんな材料を受け取ったのではないでしょうか。今年最後である今日、皆さんを祝福いたします。この夏の束の間のお休みは、ここにいる多くの人にとって新たな成長に向けての準備、敷居を象徴するものであり、これまでの達成を強固にする時間となることでしょう。多くの人にとって、そしてグループ全体にとってこの一年は特に実り多き年だったのではないでしょうか。そしてこの先も、これは継続することでしょう。皆さんが育み始めている自己実現の過程には、より多くの美しさ、平和、ダイナミックな人生、そして内なる穏やかさが存在しており、心から望む者には残らずこういった要素を見つけることができるであろうことは疑いの余地もありません。あなたの中の永遠の今という場所から遠ざかろうともがくのではなく、その今という場所に、人生の毎瞬間を経験することになるでしょう。すべての今という瞬間を超越することで、あらゆる答えがあなたの元へとやって来ます。このシンプルな事実を瞑想や自分との取り組みで思い出すことで、瞑想はより多くをあなたにもたらすようになります。今皆さんが経験し始めている解放や自由よりさらに大きなものを、これから先楽しみにしていてください。

 祝福を。平和と神の内にあってください。




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