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No.138 親密さを求め、同時に恐れることへの人間の苦境

Pathwork Guide Lecture No. 138
UNEDITED版
1965年11月26日


親密さを求め、同時に恐れることへの人間の苦境
THE HUMAN PREDICAMENT OF DESIRE FOR, AND THE FEAR OF, CLOSENESS


親愛なるみなさんにご挨拶いたします。この集いに祝福がありますように。そして、成長と発展に向けてあなたが試みるすべての歩み、すべての努力に祝福がありますように。このレクチャーが再び、自分自身であること、そして自己実現へと向かうあなたの道において踏み台となりますように。

 人間の最大の苦闘、最大の葛藤とは、孤立と孤独を乗り越えたいという欲求があるのに、同時に、他の存在との関係性を恐れ、身近で親密なコンタクトを恐れるということです。この苦闘は本当に激しくすさまじいものです。なぜならば、欲求と恐れの両方が同等の強さを持っているために、人は引っ張られながら押している状態、いわば同時に真逆の方向に向けて引き裂かれるかのような状態にいることになるからです。これは激しい緊張を引き起こします。孤立したとき、人は、その苦しみのために、孤立状態を抜け出すための試みを自分に強要します。これらの試みが成功するかのように見えるとき、この成功に対する恐れが、その人を引き下がらせ、他者を遠ざけることになります。そしてそれが繰り返され、人は自分自身との間にバリア(障壁)を作っては破壊するようになるのです。

 友人のみなさん、もう少しこの苦闘について理解しましょう。このような道の途上にいるすべての人は遅かれ早かれ、まさにこの点について、自分の中にある人類の苦境を見ることになります。人の持つすべての動揺や乱れ、不調和、苦しみはこのシンプルな共通点へと引き戻されます。そしてそれはついにこの苦闘となって現れます。人の破壊性のすべて、そしてそれに執拗にしがみつこうとする態度は、その人を他者から分離させたままにするバリアとなります。それだけでなく、そのバリアを維持するために働きます。

 親密さについて、何がそれほどにも恐れに満ちているのでしょうか?そして同時にそれほど魅力的なのでしょうか?友人のみなさん、これは非常に大切なテーマです。これに関するたくさんのことについて今まで議論してきました。もっと正確に言うと、親密さというもののいくつかの側面や孤立した断片について述べてきました。今、より包括的で直接的な方法でこの人類の苦闘を理解するのが必要なときが来ました。

 他者と自分との関係性は、最も深いところにある自分によって動機づけられていれば、あるいは動機づけられている場合にのみ、うまくいきます。つまり、関係性が外側の知性や外側の意志だけに左右されない場合にうまくいくのです。外側の知性と外側の意志には、自己表現の持つ壊れやすいバランス(自己表現を自分に許すことと、他者の自己表現を受け取ることのバランス)についての問題を解決することはできません。けれども、他者が自己表現することを許可し、他者の自己表現を受取ることはできます。この相互関係がどのようなリズムを持って、どのようにやり取りされるかについてのルールはありません。そのため、外側にある脳は、この問題について上手く対処することができません。外側の知性も、自分の主張を通すことと、他に屈することの間のバランスを見つけることができません。また、与えることと受け取ること、能動的にかかわることと受動的にかかわることの間のバランスも見つけることができません。これらは、決まったやり方で決めることなど到底できない微妙なバランスなのです。外側の知性は、ただ機械的に規定し、あらかじめ方向づけし、考えるためのツールであるという、ただそれだけです。それは規則や法律を決定します。外側の知性だけでは十分に直感的でも、柔軟性があるわけでもなく、瞬時の対応や、適切なやり方でその瞬間に反応することはできません。そのような柔軟性のある反応をするためには、あなたという存在の核(中心)が活性化されなければならないのです。そうすると、他者との関係性は、自然に相互が満足するものになり得ます。

 人が自分の中の最も奥深いところにいる存在とのコンタクトがない場合、その人は創造的な反応が要求される人生のさまざまな側面に関して正しく機能することはできません。また、他者の最も深いところにある存在とコンタクトすることもできません。そして結局、これが真の関係性(つながっていること)なのです。これが孤立を取り除くことになる親しさなのです。この親密な自己表現と関係性は、人生の流れとともに流れ、力強い平穏をもたらします。その他のことはすべて、大きな自由と親密さの喜びにつながらない、緊張、奮闘、そして困難な試練なのです。

 すでにご存じのように、人間は自分への恐怖心を持っています。自分自身を直視するのを避けるために、可能な限りあらゆることをします。人は特定の困難や抵抗を乗り越えたときにのみ、自分の恐れは正しくなかったことを理解します。そして人は安堵するのです。そして生き生きした瞬間を経験します。それはまさにその瞬間にその人が自分の最も深いところにいる存在とコンタクトしたからです。これを避けるならば、他者との真のコンタクトは不可能です。あなたが、あらゆる方法を使ってこれを避けて通ることが可能だと知っています。もしあなたが、自分の中にいる真の自己と最初にコンタクトしていなかったら、もしあなたがすべての瞬間において自分が真に望むもの、真に感じていることに気づいていなかったら、あなたは自分が自由でいることを許可できません。また、内側から反応するために必要な、コントロールのない状態を許可することができません。

 自分に対する恐れ、そして他者とコンタクトすることへの恐れ、この恐れはなぜこれほどに大きいのでしょうか?基本的に、恐れというのは、人の持つ破壊的な目的に起因しています。つまり人生を懸命に生きることに自分自身を捧げるのを拒む、という目的です。友人のみなさん、繰り返しますが、人はあらゆる方法を用いて人生を生きることに自分を捧げるのを拒む、というこの目的を果たそうとします。このパスワークの道を歩む中で、私たちは、自分の内側の深いところで、まさにこの種の態度に遭遇してきました。人が真に、ありのままの自分を喜んで差し出したとしたら、潜在的な力を持つ自分、そしてすでにその真の自己を実現している自分の両方を差し出したとしたら、もし人が真に喜びをもって人生に最善を捧げ、意図的にこれをその人のゴールとして掲げたとしたら、人は自分自身との葛藤を抱えること、あるいは人生に対する葛藤を抱えることはなかったでしょう。というのは、みなさん一人ひとりは、自分自身が軽んじている、あるいは漠然としか感じていない素晴らしい長所を持っているのです。そしてあなたがその長所を感じている場合ですら、これらの長所が人生に生かされることはありません。いったんあなたが意図的にそれをすることで、何かが起こり始めます。内側で大きな動きが起こりますが、それを恐れる理由はどこにもありません。なぜなら、それらはすべて美しい秩序と調和の中で起こるからです。

 人は、人生と進化に役立てるためにこれらの長所を差し出すという意図を持たず、自分自身の中で、自分自身のために長所を隠しておく(時にはそれすらせず、長所を使わないままにしておくことも多いのです)孤立した生き物でいる状態から変化を遂げることができるのです。人生に対して、意図的にありのままの自分の最善を捧げるこの新しい状態へと自分が変化する瞬間、自分の内側と外側の人生経験の変化はかなり激しく、それを言葉で表現することは不可能です。難しかったこと、苦心したこと、恐れに満ちて気のめいるような、張りつめた、孤独を感じたことが、易しく、自己永続的で、リラックスした、安全で明るいことになります。そして、人は世界と、他者と、創造のすべてのプロセスとに属しているという深い感覚、ワンネスを感じるに違いありません。

 この変化が起こるまで、あなたは同じものを欲しがり恐れると言う渦巻きの中に永遠に居続けなければなりません。そしてこれは本当に拷問です。時々、あなたはもっと欲しいと思います。そして別の時にはもっと恐れるのです。そしてその結果もたらされるものは、たくさんの問題をはらみ、痛みと葛藤を伴い、平和を奪い取るようなものとなります。なぜならばあなたは真逆の方向に向かって、引っ張ったり押したりしているからです。私が今述べた方法であなたが変化を遂げる瞬間、すべては自動的にあるべき場所に向かい、正しい場所に落ち着きます。これが本当の鍵です。自分の最も深いところにいる自己との親密なコンタクトを欲しがりながら恐れると言うことと同じく、他者との親密さを欲しがって、同時に恐れるというこの苦闘は、この2つのうちどちらかを手放すと「決心する」ことによって解決することはできません。このようにしても決して機能しません。ネガティブで破壊的な目的がなくなるとき、ありのままのあなたの最善が喜びとともに人生に差し出されるときにのみ解決することができるのです。そのときにのみ、あなたは、自分自身の破壊性以外には、人生から恐れるものは何もないということを経験します。あなたがこの破壊性を手放すとき、人生の鍵を見つけるのです。

 ほんの数分でも、毎日これらの思考に注意を向けてください。「今私がどうであれ、私は人生に捧げたい。私は意図を持って、私の持っている最善、そして私が私であることの最善を人生で生かしたい。仮に何らかのアイデアがあるとしても、どうしたらこれを実現できるのか、この瞬間には分からないかもしれない。けれども私は、自分の内側深くに存在する偉大なる知恵と叡智に、自分を導いてもらうことを許可する。私は人生それ自体に、人生と自分の間の実り豊かな交わりがどのように起こるのかを決めさせたい。なぜならば、私が人生に何を差し出そうとも、私は人生から受け取り、そして受け取るものをさらに有益なものにするために大いなる宇宙にそれをお返ししたいから。そして今度はこれが、必然的に私自身の人生を豊かにするに違いない。私が宇宙にそれを差し出したいと望む程度に見合った形で、それが私の人生を豊かにしてくれる。なぜならば、真に人生と私はひとつだから。人生から引き下がってしまうとき、つまりそれは私が自分自身から引き下がっていることだ。他者から引き下がってしまうとき、自分自身から引き下がっているのだ。自分が今何者であれ、私は人生に向かって流れていきたい。私の中にある何が使われようとも、そして何かを達成すべくまだ自分の中で待っているものが何であれ、私はそれが自分の周りの環境を豊かにするために建設的に使われることを求め、そうするのだと決め、願っている。」

 もしこのような思考が意図的に追求され、深いところで本当のものであるならば、問題は必ず変化し、痛みは止み、解決策がもたらされます。つまりそれは、絶対に解決不可能と思われた問題に対する解決策です。友人のみなさん、私はそれを約束できます。私が結んだ他のすべての約束と同じように、この約束も実現への裏付けがあります。それが真実であると証明できます。

 一方で、もしあなたがこのような言葉を発するとき、内側で嫌な気がしたり、「No」の流れや抵抗が存在しているのを感じるならば、そのときあなたは自分の問題、自分の孤立の痛み、そして自分の中にあるコミュニケーションへの痛みの原因を知ることになります。というのも、それらは両方同じものだからです。あなたが孤立に苦しむその程度に応じて、相互関係は問題となり、痛みが伴います。あなたが孤立を克服することに抵抗している程度に応じて、孤立は痛みを伴います。鍵は、あなたがあなたでいること、さらにもっとあなたがなれるあなたを人生に捧げたいという願いの中にあります。この願いに沿って進むとき、あなたは自動的により多くの、あなたの中に眠る隠された潜在能力を解き放ち、実現することになります。その力は、あなたがまだ自分の痛ましい隔離状態の中にいる現時点において視覚化できるものよりも深く隠された状態にあります。

 この調和の中にいるための最良の方法は、最初に、意図的に自分の中のパワーを求めることです。これらのパワーが存在すると知るとき、たとえまだその力を完全に経験していなくても、この「真実を知ること」と、意図的にこの真実を自分の声で発し、その実現に向かって開いていくことは、あなたがどんな建設的な方法を選んでも、これらのパワーを活性化することになります。

 宇宙との、自分自身、そして他者とのこの大いなる調和へと達するための次のアプローチは、内側の深いところにある包括的な態度を育てることです。あなたという存在の核の中にあるこれらの高次のパワーと一致する態度を養います。一致する態度、というのはすべての努力、すべての願い、そしてすべての目的の中にある完全なる建設的な態度を意味します。普段どおりに人生の状況に上っ面で対峙するのではなく、あなたがもし一つひとつの状況に完全なる正直さを持って対面したらなら、無意識の破壊的な目的は剥がれ落ちていくはずです。人生の状況でその通りに表れているように、自己に浅い注意だけを向けることは、自分がしばしばいわゆるポジティブなゴールを二義的なのものとしてだけ捉え、実際には人間としての一義的な目的は破壊的なものであるという事実を見過ごしてしまうことになります。よりパワフルな破壊的な目的を覆い隠してしまうことは、捉えがたい微妙なことかもしれませんが、それにもかかわらずそれは非常に大きな影響を与えます。そのような問題が持ち上がるときに、一つひとつに完全に向き合うこと、その問題のすべての側面、自分の本当の感情や欲求に十全なる注意を払うことを通して、あなたは自分の本当の態度がどんなものか、そしてどうすればその態度がより建設的で、より誠実で、より公正であり得るかについて分かるようになります。もしこのアプローチが育まれれば、そのとき外側の自分が内なる自己の神聖なパワーと一致するのです。

 これら2つのアプローチの内、どちらか一つだけを育てる人たちがいます。隠されたパワーだけを育てることに集中する人がいます。また、一方で自分の中にある外的な破壊性を消し去るために、自分自身とその外的な破壊性に向き合うことに集中する人もいます。この両方のアプローチともにそれぞれの大いなる価値がありますが、人がどちらか片方だけを追求した場合、結果は制限されたものになります。というのは、人はそこに何が存在するのかをいとも簡単に見過ごしてしまうからです。最初のケースではネガティビティが見過ごされます。2番目のアプローチでは、ポジティブな可能性に対する気づきの欠如が、それを実現するチャンスを制限してしまいます。最も効果的なのは、両方のアプローチを用いることです。もし両方のアプローチが育てば、同時に、自分の中にある善なるすべてのことを可能な限りいかようにでも用いて、人生に貢献したいと真に望めば、自分の中で考えられないような大きなパワーが働いていることが分かるでしょう。そしてあなたは、真に平和、安全、生き生きとした感覚を経験するでしょう。それは、内なる存在が活性化されるからです。

 友人のみなさん、お分かりですか?その人の存在が持つ完全なる強さで人生をより素晴らしいものにしたいという願いに反する別のバリア(障壁)とは、深く根を張った誤認なのです。それは、もし自分が人生に付け加えると、自分自身を奪われるという誤認です。反対に、あなたが握りしめ、自分のちっぽけな利益だけに関心を持っていれば、あなたは自分を豊かにし、自分の喜びや欲求を堪能することができると間違って思い込んでいるのです。この深く根ざした思い込みは、あなたのすべてを、少なくともある程度はあなたを支配し、動機づけます。あなたが困難やフラストレーションに遭遇するのは、まさにあなたの人生の中にこの思い込みが存在する場所なのです。なぜならば、この思い込みが間違っているがために、あなたは人生に対して、他者に対して、そして必然的に自分自身に対してダメージを与えるような方法で振る舞い、考え、そして感じるのです。あなたは間違った思い込みの持つ力に気づいていないので、さらに言うと、それが間違った思い込みだということにさえ気づいていないので、あなたは自分の努力が報われないのはなぜかが理解できないのです。あなたはもっともっと混乱やネガティブな連鎖反応に巻き込まれ、その本質や重要性を理解することはできません。

 自分対他者というこの思い込みほどに真実から離れているものはありません。ゆえに、第一に自分がどの点において、そしてどの程度この間違った思い込みを抱えているのかを明らかにするために、深い瞑想に取り組むことをお勧めします。エゴのレベルでこの思い込みがどれほど自分をコントロールしているかに完全に気づいたら、ここで話されているこれらの言葉について考え、真逆の、そして真実に満ちたものの見方をするレベルでその言葉を深く理解しようと努力してみることをお勧めします。この利己的な概念に、より深い知識を持って向き合ってください。人生をより素晴らしいものにしたいと願うことによってのみ、否定すべきいかなる喜びも存在しないことを経験できると知ってください。そうすると、あなたの全精神が建設的に調整され、より高次の喜びがもたらされます。なぜならば、あなたはより良く改善しようとする態度によって活性化され、動かされるからです。そのときあなたは、自己中心性によってではなく、あるいは他の破壊的な態度でもなく、孤立や「自分対他者」によってでもなく、「自分と他者」という態度によって活性化されます。あなたの精神がこの「自分と他者」に向かって調整されるとき、与えることと受け取ることの間にもはや葛藤は存在しません。そしてそこには人生をより素晴らしいものにするための拒絶も存在せず、結果として深い悲しみや苦しみ、孤立と葛藤、罪の意識とフラストレーションは消えて行きます。そしてそこにはもはや、孤立の中の苦しみ、手を伸ばしたいと願いながらまさに手が届くその瞬間に払いのけるというような、その人が通り抜けてきた過酷な苦闘は存在できなくなります。孤立の苦しみに耐えられなくなるためにその人がバリアを取り払うまさにその瞬間、その人はすでに新しいバリアを作り上げます。なぜならばその恐れに押しつぶされてしまうからです。この恐れは、万が一でも自分が滅ぼされないように自分を保護しなければならないというネガティブで間違った思い込みの結果です。そしてその人は、人生はその本質において悪意に満ちているというこの間違った思い込みを、自分の最も深いところにある目的が、部分的ではあっても破壊的で悪意に満ちている分だけ、それに応じて持ち続けることになります。人生が悪意に満ちているという思い込みと、人生に対して張り合う必要性との間にある悪循環は、人が寛容にも人生に貢献したいと思うときにのみ壊すことができます。そのときにのみ、人は、人生がその人の最奥の自己と同じように、やさしく良きものであることを理解するのです。それ以上でもそれ以下でもありません。

 結びつくこと、出会うこと、届くこと、親密なコンタクトを持つことへの恐れは、個人の精神がネガティブな方向に向けられている限り、ネガティブに方向づけられた状態で存在します。そのような場合においては、他者と結びつくことは恐ろしいことに違いなく、「自分対他者」の問題に見えるのです。あなた自身の精神の深いところで脅威を感じている限り、そしてあなたがネガティブで破壊的な目的を追求するとき、それを恐ろしいと感じるのは当然です。つまり、自由に自己表現するのは危険で、他者とのコンタクトは危険で、結びつきの至福に自分を完全に委ねるのは、コントロールを失くす危険があるために絶対に避けるべきことだと感じるのです。このコントロールなくしては、破壊的な目的が優勢になり、破滅しそうに思えるのです。コントロールを手放すことは、死であるかのように見えます。破壊的な目的に固執し、精神がその目的に奪われている限り、それはまるで自分自身であることと安全でいることをあきらめることのように思えます。したがって、自分が自分であることを守るために、唯一の有効な方法は自分の周りにバリアを築くことに思えるのです。この方法は、自分自身を傷つかない完全な状態に置くことができるように見えます。そこにある悲劇は、破壊的な目的が精神の中に存在する限り、孤立状態が人にアイデンティティ(自分とは誰かという認識)の感覚を与え、その人の個性を守るように見えるという、その事実です。ネガティビティの中においてのみ、コントロールを失くすことが死に至るように思え、あるいはまた、自分自身に対するパワーを失くしてしまうように思えるのです。別の言い方をすると、精神的に不安定になるのは、この葛藤の結果なのです。

 けれども、あなたの精神の内側で、もはや「自分対他者」ではなく、「自分と他者」という状態になると、あなたは自分が持っているものだけを与えるのではなく、あなた自身、人生に対してありのままのあなたを与えるようになります。そうすると、もうそこにはコントロールを失くすかもしれないという恐れは存在しません。なぜなら、エゴによるコントロールを失うことは、より良い意味、もっと豊かで健全な意味合いでのコントロールにつながるからです。別の表現で言いかえると、完全に健全な精神においては、人はその自発的で抑制されていない自由な表現を信頼できることを意味しています。その表現は内なるパワーに委ねられ、それによって自己と生命の力(ライフ・フォース)との間に自由な流れや振動している結合が存在することになります。これは、直接のコントロールを断念する行為のように見えます。けれども、この行為を通して、自己の中核の深いところにあるより建設的なパワーが活性化されるのです。そしてそのパワーが自己をより適切にし、自分が人生をよりコントロールすることになります。そうすると、自分自身の運命を可能なかぎり最善の方法で決定することができるのです。

 精神の中にネガティビティがあると、自己に対してきつく握りしめ、しがみついている必要があります。というのも、そうでなければ破壊的な目的が自分に、そして他者に露呈されるだけでなく、自分が乗っ取られて、破壊的な行為になって現れるのではないかと恐れるのです。ですので、コントロールが必要に思えます。そしてこのコントロールこそが、結びつきを妨げ、自由な自己表現、リラックスした喜び溢れる生を妨げているのです。コントロールがきつければきついほど、危険は大きくなります。精神が疲れ果て、ずっと続くように思われる自己疎外のプロセスの中でその精神自体を失うまで、この間違った内なる動きはそのきつさの中で耐えがたいものになります。これは、コントロールを手放すことがより良いコントロールにつながり、一方でコントロールにきつくしがみついていると最終的にはコントロールを失うという明らかな逆説を説明しています。すべての偉大なる霊的真実は、表面上矛盾があるように見えます。このような矛盾の背後にある統合されたものを知覚するためには、自分の内なる存在に耳を傾け、知性だけで理解しようとしないことです。ここで述べていることを実証するための最善の方法は、その真実を生きることです。そしてこれは、あなたがこの道で一歩ずつ段階を踏んで進むことによってのみ成し得るのです。

 友人のみなさん、あなた方の多くは、利己的で貪欲な孤立した人生から抜け出して、この極めて重要な変容の入り口にかなり近いこところにいます。あなたは他者に最善を求め、同時に、他者があなたの要求に応じるだけでなく、与えるのは危険だと自分が信じていることを他者が要求してくるのではないかと恐れます。人が依然としてこの状態にいると、その人は間違いなく大変な問題を抱えます。しかし、このレクチャーの中で述べている、この疎外された状態から新しい調和した状態へと通り抜けて行くためのこの入り口は、本当に近いところにあり、もしあなたがここで述べられていること全部を感じ始め、自分をそれに開いていくならば簡単に超えていくことができるのです。あなたがこれらの言葉を、知性を満たすためだけでなく、あなたの内なる存在を満たすために受け入れれば、そしてそのときもしあなたが「自分と他者」という真実を見つけたいと願い自分の善意の内に真摯な態度でいるならば、あなたはこれらの言葉の真実を体験することになるでしょう。ネガティブな目的を追い求めるという偽の必要性が無くて済めば、人生がどれほど安全で、易しく、喜びに満ちたものであり得るかをあなたは経験するでしょう。悪意から、人生を、他者をそして自分自身を打ち負かしたいと思うことは、いわゆる「安全性」のために、そしてあなたのネガティブな目的を「満足」させるために、人生から自分の最善を押しとどめておくことになります。これらのネガティブな目的は、意識に上らせる必要があります。そうすることであなたにとってそれらが文字通り明らかになるのです。そのときにのみネガティブな目的がいかに無益かを理解することができ、それが無くてもいい状態に至ります。そしてあなたはもはや戦う必要がなくなり、自分が最も欲しいもの、つまり完全に自分自身であることへの深い満足感をさえぎる必要がなくなります。その満足感とは、マスクも偽りもなく、今なお使わなくてはならないと思い込んでいるバリアや分離のメカニズムもなしに、ありのままの自分でいながら、他の人に受け入れてもらうことをも意味します。自分の人生をかけて、狂ったように作り上げたマスクやバリケードが無くて済むようになれば、あなたは自由になり、そのままの自分が良いのだと知るでしょう。けれどもこの知識は、すでにあなたの中にある良きものが人生に差し出されているときにのみもたらされます。

 「自分対他者」は人類全体の苦闘です。これはとてもシンプルなことなのですが、個人としてのあなたは、自分の深いところへと導いていくこの道でいくらかの進歩を遂げていない限り、これらの言葉を理解することはできません。進歩を遂げると、あなたはこれらの言葉の意味を知ることになるでしょう。あなたがこれらの言葉を内側に取り込んで学ぶにつれて、あなたはこの入り口を超えるのにより近づいていることになります。ここにおられるすべての、あるいはほとんどの人は、非常にシンプルな瞑想で今、最初の一歩を踏み出すことができます。その瞑想で、「私は『自分対他者』という間違いを手放すと決める。そこには葛藤はないので、私は自分のすべてを差し出すことができる。私は、恐れることなく、人生に私の最善を差し出すことを決める。内側の深いところから望むだけでなく、決めるのだ。内側に潜み隠れているどんな恐れも間違いだ。だから私は、この間違いを自分から取り除き、私が完全にオープンでいられる聖なるパワーに自分を明け渡すことを決め、そして願う。『私と他者はひとつ』だからそこに葛藤はなく、自分を捧げ、自分の最善を捧げることができるという真実を深く理解することを願っている。これが、重荷や努力なしに、調和と高潔の内に起こることを、高次の力に委ねる」と言ってください。

 このような方法で瞑想すれば、どんな人でも内側のパワー、生きる力、平和、そして内に宿る光が増します。そうするとすべての苦闘と痛みは、遅かれ早かれ、その態度を真に感じて生きる度合いにきっちり比例して剥がれ落ちていきます。友人のみなさん、この鍵を使ってください。そしてその他必要なものすべてはあなたに与えられます。もしみなさんが、何の中身もない表面的な言葉を使うのを避けるなら、これはあなた方がすでに使うことのできる偉大なる鍵なのです。みなさんは今、本当にこれらの言葉を実践し、この新しい態度を取り入れることができる地点にいます。そしてそのときあなたにとって人生が始まります。真に始まるのです。

 最初のステップは、このシンプルで美しい方法を、人生に対する普段の態度として、また人生と出会うための方法として使うことです。人生に対する基本的なアプローチとして、まずこれを味わい、試していくと、あなたはそれを特定の問題にも使うことができるようになります。すべての問題は、近づいてよく見てみると、結局は自分を与えることを恐れる、人生に対するネガティブで破壊的、あるいは否定的な態度を養うというシンプルな共通項に立ち戻ります。それこそ、あなたが問題を抱える理由で、この態度がある限り、その問題は残ります。あなたは、自分自身を抑え込み、「自分対他者」を信じているがゆえに、人生で起こるある種の状況に対処することができません。結果として、一連のネガティブな連鎖反応を経て、実際にダメージを受けることになります。そしてそうなると、あたかも「自分対他者」が正しい前提であるかのように思えるのです。あなたがこの前提に固執すればするほど、特定の問題領域においてだまされて奪われるようになります。

 奇妙な事実ですが、人は人生のある領域においては、完全に真実に気づいており、ポジティブで建設的な態度を持っています。したがって、その人はこれらの領域においてはとても満たされ、幸せなのです。そこに苦闘も葛藤もなく、すべては易しく進み、ポジティブな連鎖反応が自己永続します(ネガティブな連鎖反応と同じです)。同時に、その人の問題のある領域においては、人はまったく正反対の方法で人生に反応します。そして絶対にその反応の違いに気づくことはありません。それが、その人の「幸運(グッド・ラック)」あるいは「不運(バッド・ラック)」、満足あるいはフラストレーションの理由です。これが、自己に向き合うこと、そして実際に考え、感じ、行動することがそれほどに重要な理由です。

 あなたが、人生の多様な側面に対する自分の態度の違いを発見し、それに応じて現実化し経験することの違いを理解するとき、問題領域において「自分対他者」から「自分と他者」へと変化を遂げることはより簡単になります。そしてそうなれば、人生に対して自分の最善を差し出したいと願うための鍵を使うことへの抵抗をより簡単に手放すことができます。

 それではこのテーマに関して何か質問はありますか?

 質問:コントロールにしがみつくことがコントロールを失うことにつながる、ということについてより詳しく説明していただけますか?

 答え:「自分対他者」という葛藤が存在すると、強くコントロールすることが必要になります。そしてあなたは「私は自分自身にしがみついていなければならない。というのは、もしそうしなければダメージを受けることになるから」と言うのです。このコントロールは、間違った結論に基づいており、人生の二元的概念からきています。そしてそれゆえに、それは有害で、制限のあるコントロールであらざるを得ないのです。それは、あなたの最良の能力に枷を掛け、他者の最良の能力が自分にもたらされ、影響を与えることを妨げているのです。あなたがこのようなコントロールを行使している間は、あなたの中の最善が引き出されることはなく、他者に届くこともあり得ません。そしてまた、他者の中の最善もあなたに届きません。(私はこれをみなさんに話しています。)

 このコントロールは、恐れと二元性への思い込みからできている固い壁です。そこでは、今の自分の最善と自分がなり得る最善を押し込めることによって、人生から自分を守らなければならないという思い込みがあります。これは、何も入り込む余地のないような、間違いと防御の壁を作り上げます。したがって、コントロールが強ければ強いほど壁は大きくなり、人が自分と他者、あるいは真実や現実、建設的で生き生きとして祝福に満ちたすべてのものの中にある最善から自分を遠ざけることになります。この壁の背後で、その人は人生の最善、自分自身の最善からの分離で苦しみます。

 たとえば人生の最善を禁ずる壁を築くことのように、常にエネルギーが無益で何の役にも立たない方法で使われていると、その存在がコントロールを失い、それゆえに人生が展開し明かされる過程で人生に対処できなくなるときが必ず訪れます。その人は自分の長所を使うことができません。それは、その人が自分の長所を見つけることをほとんど恐怖に感じているからです。長所を見つけること、それに気づくことは、結びつくことの自然な流れにつながっています。それを他者と分かち合うことにつながります。これこそが、良きもの/善とされるものの本質です。良きもの/善はそれだけでは存在できません。他のものと交わり、伝え合わなければなりません。そしてそれは常にそれ以外の他のものを含みます。したがって、あなたが他者を自分に招き入れること、そして他者によって招き入れられることを恐れるとき、あなたは自分の中にある最善を否定せよと自分に強要していることになります。あなたが、自分の中の最善を他者に開いて行くのを許すという、まさにこの発想を持つときに、あなたがほんの少しでも感じる不安や不快感を調べてみると、ここで私が言っていることが証明されるはずです。自分の中の最善を抑え込み、非生産的で、自然に他者を招き入れて人生とつながろうとする方向性を欠いた状態にいることがより安全なのだと見せかけるメカニズムが存在しています。もちろん、皮肉なことに、これらの長所なしでは人間は十分に生き、自分の出会ういかなることにも適切に対処することができません。それゆえに、人生を生きることを禁じ、人生から自分を守ろうとするこのコントロールは、コントロールを失う方向へと向かわざるを得ないのです(個人によってそれがどんな形を取って現れるとしても、対処不可能です)。

 人が存在の統合の状態にいるとき、そこに「これかあれか(either/or)」がなく「自分と他者」があるとき、与えることと受け取ることの間に葛藤は存在しません。コントロールの葛藤も存在しません。もしあなたが与えることを恐れなければ、あなたは十全に受け取ることができます。与えているのに受け取っていない、などとだまし取られているような状態になることはありません。あなたが与えるのを恐れるとき、あなたは受け取ることに対してオープンになることができません。それは不可能です。それゆえに、あなたは常にだまし取られているような状態にいることになります。こうして間違った結論が強められます。それにより、あなたはさらにもっと自分自身を閉じることになります。けれども、あなたが結びつきの真実の中にいて、自分の自由を使ってありのままのあなたを人生に差し出していると、受け取るということがまったく心地いいことになります。あなたにはこの事実を簡単に明らかにできます。あなたが自分を与えるのを恐れている、まさにその程度に応じて、本当は受け取りたいのに、受け取るときに居心地の悪さを感じることになるのです。そこであなたは自分に与えられるものを微妙に脇に押しやります。あなたの子どもじみた利己的な目的が、できるだけ多く受け取り、できるだけ与えないようにすることであったとしても、そんなことは起こりません。それは他者がそのような不公平な取引を拒むだけでなく、それに対して自分自身も自分を閉じてしまうからです。あなたの精神は真実や霊的法則に反応することができません。したがって、その精神が与えるのを拒むときに、受け取ることに対して開くことはできないのです。それは罪悪感を超えています。あなたが与えるのを拒むとき、自分には受け取る価値がないと深いところで思っていること、受け取ることを拒否させる罪悪感に対する償いを超えています。それは単純に数学の方程式、あるいは物理の法則のようなものです。これらの法則は破られることはあり得ず、それ自体の秩序を持っています。つまりそれはサイキックな互換性の問題です。真実の中にある精神、そのためにその最善を心地良く苦痛もなく与えられる精神だけが --- ただし、自分の持っているものを与えるということと自分そのものを与えることの間には違いがあります --- この行為の大きな安全性と喜びを経験します。そのような人は、与えることと受け取ることのこの両側面が真に一つになるまで、結果として与えた分だけ心地良く苦痛なく喜びをもって受け取ることができます。自分自身を与えることに何の努力も存在しなくなると、受け取ることにおいても努力が要らなくなります。その結果、フラストレーションもなくなります。その人はもはやだまし取られていると感じなくなります。なぜならばその人自身が人生から引き下がることで人生をごまかさなくなるからです。したがって、窮屈で不安でいっぱいのコントロールは完全に不要となるわけです。

 自己の最善を与えることを禁ずるコントロールは、必然的に、最善や高次のパワーを自分自身のために使うことをも妨げることにならざるを得ません。これらのパワーは使われないままで残り、まさにその存在が無視されている分だけ覆われて隠されてしまいます。人が不安に満ちたコントロールにしがみついた状態に留まる限り、すべての人間が持つこの側面、それ自体で人間を導きインスピレーションを与える側面が、これらのパワーを活性化することはできません。

 それではこれで私はここを離れます。ここにおられるみなさん、そしてこの言葉を読んでおられるみなさんが、私がここで与えた手法をお使いになることを願っています。あなたができる限りでこれを使ってください。使いたいと望んでください!そしてそれは大きな癒しのパワーとなるでしょう。どんよりと曇り、死んでいるような物事を力強い生命の流れへと変えることでしょう。絶望を輝く希望に、恐れに満ちたものを深い安全と自信へと変えるでしょう。あなたの人生を縮こまったものから無限の可能性を含むものへと変えるでしょう。暗闇と孤立を、光と結合、そして友情と親密さへと変え、あなたがあなたでいることで、そのままであなたは愛されるということ、それはなぜならあなたがあなたのそのままを愛するからだということを知るでしょう。孤独と虚無感を脱し、すべての点における豊かさへと変化するでしょう。友人のみなさん、これは、はるか未来に向けて漠然と信じるべき単なる言葉や理論ではありません。この言葉の真実を試すことを選択すればいつでも、それは一人ひとりが実証できることなのです。

 平和のうちに歩み、神とともにいる自分自身のうちにいてください!


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Pathworkのガイドの著作物は、The Pathwork Foundationの所有資産です。このレクチャーは、The Pathwork Foundationの商標、サービスマークおよび著作権ポリシーに準拠して複製され、いかなる方法においても変更または省略することはできません。また、著作権、商標、サービスマークおよびその他あらゆる公示の削除は許可されません。
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日本語版の取り扱いについて
Pathwork in Japan (パスワーク・イン・ジャパン) の許可なしに、無断でコピー(複製)、貸与、頒布、販売することを固く禁じます。また、文書およびインターネット上(ウェブ、メール)での引用・転載を含む公開も禁止します。

また、本レクチャーの受領者は、英語版から日本語版を作成する際に発生する複製・配布・翻訳などにかかる費用をご負担いただきます。

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