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Pathwork in Japan
No.140 ポジティブとネガティブに方向づけられたプレジャーから生じる葛藤という痛みの根源
Pathwork Guide Lecture No.140
UNEDITED版
1966年2月4日
ポジティブとネガティブに方向づけられたプレジャーから生じる葛藤という痛みの根源
CONFLICT OF POSITIVE VERSUS NEGATIVE ORIENTED PLEASURE PRINCIPLE AS THE ORIGIN OF PAIN
最愛の皆さん、こんばんは。ここでふたたび皆さんお一人お一人に祝福をお届けいたします。解放に向かうこの道において皆さんが踏みしめる一歩一歩、ひとつひとつの努力に祝福を。
今夜のレクチャーに先立って、痛みの意味について、もしくは痛みの真の原因についてお話ししたいと思います。痛みとは葛藤の結果です。反対の方向をもった二つの極が人格に存在するとき、痛みが生じます。そのうちのひとつの方向、つまり普遍的で創造的な力という方向は、光や生命、成長、展開、肯定、美、愛、包括、統合、至高の歓びの達成へと向かいます。もうひとつの方向によってこれが妨げられるとき混乱が生じます。混乱そのものが痛みを生むのではなく、妨げとなったもうひとつの方向が不均衡やある種の緊張を生み出します。これが苦しみの原因です。皆さん、このことを理解することは非常に大切ですよ。なぜならこれを理解することで後に続く今夜のレクチャーについていくのが容易になるからです。
私がここで説明している原理はすべてのレベルにおける真実です。身体的なレベルではこの原理は解明可能です。身体は他のシステムや次元と同様に全体性や健康な状態へと向かいます。妨げとなる力が反対へと引っ張るとき、二つの方向が存在すること自体が痛みを生みます。実際に痛みを引き起こしているのは二つの方向が存在しているからだという事実が解明可能なのは、人が葛藤を手放し、痛みに身を委ねるとき痛みは止むからです。多くの方がこの原理を承認していますね。葛藤、つまりこれは二つの極が引き合う状態ですが、これを手放し、ネガティブな方向(痛み)を人が受け入れるとき、痛みは止むのです。
この混乱に無効な形で抗うと、自分は健康な状態を求めていると同時に健康でない状態も望んでいるのだという点を無視することになります。健康でない状態が抑圧され無視されるため、健康へと奮闘する力はなお一層激しくなります。これが痛みです。もしも人格が健康と同時に健康でない状態も望んでいると気付けば、葛藤は瞬時に止みます。なぜなら健康でない状態を望むことを継続することはできないからです。健康を望むことのみが継続可能なのです。因果で言えば、この場合は原因がネガティブな望みであり、結果がシステム内の混乱であり、すなわち原因と結果の間の溝を作るのは無意識の側面です。二つはお互いに拮抗し引き合い続け、痛みが生じます。
起こっていることをじゅうぶんに理解し、自分の中にある避けようのない一時的なネガティブな望みを受け入れ、今なお存在する痛みに身を委ねるとき、痛みは止みます。これはマゾヒズムや自傷に関連する要素を受け入れるような破壊的なものと同じであるとはかぎりません。マゾヒズムや自傷はそれ自体がネガティブな望みの温床であり、ネガティブな望みを永続させる要素だからです。ここで私が申し上げているのは、事実の完全なる受け入れであり、これにより痛みが止みます。無痛分娩の原理も同じです。同じことは無為の原理でもあり、「悪人に手向かってはならない」とキリストが説くのも同じ原理です。
すべてのレベルで人があまり激しく奮闘するとき、死が迫ります。もちろんここでは身体の次元のことを指しています。つまり緊張が止むとき、痛みも止むのです。これが死で起こることです。
思考や感情の次元でも似たようなことが起こります。葛藤は一時的な顕現であり、ひとつの結果であるということがじゅうぶんに理解され受け入れられるとき、それが確固とした最終形ではないと理解しながらも結果としての正当性に気付いている状態に人があるとき、思考や感情の痛みは止みます。しかしこれはネガティブを望む場合には起こりません。なぜならネガティブな望みは単に元々のポジティブなものに反する別な方向を生み出すだけだからです。また肯定的な原理を剥奪することでも起こりません。身体的な痛みと同様に、思考や感情の痛みも反対へと引く力が放棄されたときに止みます。これらすべては立証可能であり、世界中でそうされてきました。自己実現の道を行く人は皆、時々かもしれませんが、それでも今お話ししていることを経験しているのではないでしょうか。
しかし皆さん、霊的な次元では事は違っています。なぜなら因果で言うなれば霊的な次元は原因であり、その他の次元や意識の領域は結果だからです。ポジティブな方向の源が霊的な次元です。霊的な次元はネガティブな方向を持ち合わせておらず、またそれは不可能です。ネガティブな方向はすべての生命の源と相いれない姿勢や在り方によって創られ、またこうした在り方を生み出します。霊的な次元は統一そのものです。つまり葛藤や拮抗する方向「何かと何か」や「結果的に」といった姿勢や痛みはとても考えられないものであり、不合理です。
葛藤や痛みから解放された個人がいるとすれば、その人はきっと統一の状態にあることでしょう。ポジティブな力という人の生命力が持つ壊すことのできない流れに沿っているときにのみ人は完全なる統一の状態にあることができます。もしも人が完全にネガティブを望むことが可能なのであれば、この場合にも痛みは止むでしょう。しかしこれは不可能です。なぜなら真の自己は絶対的に建設的な状態という、本物の世界に整合しているからです。これは決定的な現実であるため、どのようなネガティブな目的であれ、人がネガティブな目的と統一されるなどと想像することさえも実質無意味でしょう。生命の本質的および深淵なる性質は決してネガティブ指向ではありえません。ネガティブ指向は歪み以外の何物でもありません。歪みの下には本物が永らえており、外層がどれほど歪んでいても、ネガティブ指向の力が一時的にどれだけ強くとも、その効力を発します。生命と人間はひとつですから、人が完全にネガティブであることはあり得ません。表に否定的な部分があるときには必ず、緊張や葛藤があります。つまりこの人は痛みを抱えているはずなのです。否定的な方向は生命と反対を行き、非生命は決して全体には成りえず、総合的にも、葛藤のない欲求にも成りえません。人はこうしたことを思い描くことさえできないでしょう。なぜならそんなことは理にかなわないからです。
ネガティブを望むことができるのは人格の一部であり、決して人格の全体ではないということを理解することは非常に大切です。心理の一部では必ず、ネガティブな望みに猛烈に反対する部分が存在しています。つまり痛みが結果として生じるということです。身体的なレベルにおいてもまた感情や思考のレベルにおいても、ネガティブなことを不慮の原因によって一時的に生じた混乱という結果であることを理解し、過行くひとつの段階として一時的に受け入れることは可能です。理解と受け入れをもって人は抵抗を止めます。ネガティブをそれが最終段階であるという思いなしに、客観的に、自堕落な形ではなく受け入れます。しかし霊的な次元は完全なる存在、完全なる生命、すべての源であるため、これは不可能です。痛みと葛藤は常に二つの方向が生み出す結果であり、二つの方向に人格が引っ張られ、つまり生命へと向かう方向と生命に反対する方向に引かれ、愛と憎しみ、分離、恐れという方向、ポジティブとネガティブの方向に引き裂かれます。統一が築かれなければ人格の外層は苦しむことになります。そして統一というのは宇宙的な創造の原理にのみ存在します。ここで私が申し上げていることはことのほか大切ですよ、皆さん。この理解が皆さんの中の新たな扉を開くからです。
ここ数週間、数カ月の間で自分の中にネガティブな欲求があることを発見した方々が数人いらっしゃり、彼らは大きな分岐点を越えていかれました。重要な新たなる段階です。自分の中のネガティブな望みに気付いているかいないかは、すべてを変え得るほどの大きな違いです。もちろんそこには気づきの度合いというものがありますね。カジュアルに束の間だけ気付くことも可能です。ネガティブなものを直接的に望むところが自分の中にあることに気付いていくほど、自分自身や人生の手綱を自ら引くことができるようになり、自分が犠牲となっている感覚や無力感は減り、自分が弱いと感じることは少なくなります。ネガティブさを直接的に望む自分の気持ちに気づいていないとき、自分がそれを望んでいたのだと気づいた場合と比べて苦しみや痛みは遥かに大きくなります。気づきが欠如した状態は、自分は犠牲者として標的になったという心理的な空気を生み出してしまいます。今ある結果は自分自身が創り出したものだという気づきなしには無力感は避けられません。人の心理の内にある原因と結果の分離は混乱や疑念、そして無力感を生みます。このワークで経験する葛藤という骨の折れる作業を通して自分の中にあるネガティブな欲求への気づきを得るとき、外的な困難や嫌な状況を何が創り出しているのかが少なくとも分かるようになります。ネガティブな欲求の存在理由をまだ皆さんは知らないため、手放すことはできないかもしれませんが、望まない顕現を人生に生み出していたのは自分だということを単に知るだけで、より自由な人間になれるのです。
自分の中のネガティブな欲求に気づくという道にすでに参入している方々はさらに気づきを拡げ、人生の中で嫌だと感じている顕現、状況と気づきを繋げるように注意を払ってみてください。これはとても大切なステップですから見落とさないようにしてください。なぜなら自分の中のネガティブな欲求に、その程度は少しかもしれませんが気付いていたとしても、皆さんが必死に反対し、抵抗している人生の顕現や状況の直接的な原因がこのネガティブな欲求だということを無視、または見落とすことは可能だからです。そしてこれ自体が痛みなのです。皆さんは自分自身が仕向け、仕向け続けている何かに抵抗し苦しんでいますが、同時に光や全体性、愛することや受け入れ、建設的な態度や美、そして展開に向かう力もきっとそこにはあり、だからこそ痛むのです。全体性に向かうことを否定することや、否定自体を忘却していること、同時に二つの拮抗する力を自分が求めていることを知らないという事実が皆さんを混乱させ痛みをもたらします。この意識と理解に至るために必要なことが何であるかは容易に分かっていただけるのではないでしょうか。
ネガティブな欲求が自分の中に見え始め、気づきが生き生きとし、ダイナミックであり、この気づきを視野から押しのけることがなければ、人は新たな力強さや希望を獲得することでしょう。気づきが生き生きとしている間は、なぜ自分がしつこくネガティブな欲求を主張しているのか、そもそもなぜ自分はそれを心に抱いているのかがまだ理解できなかったとしても、ネガティブな欲求が自分の中にないときに人生はどうなり得るのかを、原理や可能性としてまずは分かるようになります。自分にネガティブな欲求があることを単に知るということそして、自分が嫌っているさまざまな結果とネガティブな欲求を関連付けることで新たな希望や展望を得ることができるのです。
このような気づきがまだ得られていない方々は、ベストを尽くして自分の中のネガティブな欲求を見出すべきです。表面的には、ほとんどの人は自分が破壊的な欲求を抱いているなどと想像もできないことでしょう。この道を歩み始めてしばらく経っている方々でさえ自分の中の破壊的な方向性を感じることができません。瞑想をし、自分の中に何があるのかを真に求めるようにしてください。自分が何かを求めているという感覚や何かが欠けているという感覚に向き合いたくない、何かが苦しいと感じていながらもそういった側面を否定するのに忙しくしている人にとってこれはことさらに難しいでしょう。自分が本当に感じていること、そして欠けていると感じている部分を否定するこうしたやり方は、人生に真の達成をもたらすことを不可能にします。ここでのワークに相当な時間を費やしている方々の中にも、今この瞬間に存在していることを否定するという態度をいまだに持っている方もいらっしゃいますね。次のように自問してみてください「可能性の最大値で自分は何かを持つことができているだろうか。経験できているだろうか」と。これが第一の質問となるでしょう。達成から逃げる傾向のある方々、達成したい気持ちを否定する方々、言い逃れをし、自分がいる状況を偽る傾向のある方々にとってはまずはこれが妥当でしょう。そしてまた、自分の苦しみや欠けていると感じていることに鋭敏に気づいている方々もいらっしゃいます。しかしこうした方々も、ネガティブな結果を望んでいる自分の中のメカニズムと繋がっていません。
こうして、道を歩むというワークが続きます。自分の中で意図的に望んでいるネガティブな欲求、またはポジティブな結果を避ける態度(これらは同じです)を見出すことがいかに進化の道全体に対する大切な道しるべとなるかがお分かりいただけるのではないでしょうか。実際、これ以上に大切なことはありません。自分が風に吹かれる無力な藁、膨大な宇宙の中のちっぽけな道具だと感じ続けるのか、誰からも忘れ去られ無力だと感じ続けるのか、はたまた自分は自分自身の手綱を取り、自立した人間だと感じるのかの違いをこの気づきは作るからです。自立性はちなみに、ポジティブにもネガティブにも働きます。宇宙全体は自己永続という偉大なる原理の上に存在しています。我々が循環について話すときはいつでも(それが善良なものであっても悪性のものであっても)自己永続性の原理を扱っています。すべては自己永続的です。意識という現実によってすべては自己永続的に動きの中に組み込まれています。
今申し上げていることもふたたび、皆さんが道を歩む上で判明してきたことだと思います。心理の内で洞察がある程度の段階まで達すると、ポジティブな姿勢もネガティブなものも共に自己永続的であることが分かってくるはずです。たとえば健康的でポジティブな姿勢を何でもひとつ挙げるとしましょう。社交的で建設的、オープンで、他を仲間にする姿勢があり、すべてが楽に回っているとします。こんなときあなたは大きな努力をする必要もありません。こうした状態はただそれ自体が勝手に長続きするものです。意図的な形で瞑想にエネルギーを費やす必要さえありません。ポジティブな思考や姿勢、そして感情はより多くのポジティブな思考、姿勢そして感情を勝手に創り出します。つまり達成や生産性、平和、ダイナミズムが心理の内に存在するということです。ネガティブな状況でもまったく同じことが言えます。自己永続的な力は新たな動きをもたらすような、今夜説明しているような意図的なプロセスが介入してはじめて変化します。パスワークのプロセスはこれを成し遂げるものです。
加えて、意識という領域はここまででお話ししてきた方向に則り機能するのだということを理解し、また視覚化することが大切です。話をシンプルにするために別の言い方をしますと、意識の領域にはポジティブな原理と方向性が存在しているということです。この領域こそが現実であり、全体性や無尽蔵な豊かさがそこにあることをすべてにおいて意識が認識し、無限の自己永続性を持つのがこの領域です。ちなみにひとつここで話題を入れ込みたいのですが、今私がここで説明をしている霊的なレベルの自己永続性の原理は、まったく同じ形で科学的な次元にも存在します。化学や物理、実質的にはその他すべての科学の分野でこの原理を見出すことができます。つまり人間の物質的な領域で未だ見つかっていない現象であったとしても、科学の分野ではより容易に受け入れられるのではないかと思います。
人格のレベルがネガティブなものを望み、その方向を追うとき、もともとの心理を覆う形で新たな世界や心理の領域が創られます。人の姿勢や思考、感情の産物であるイメージや形がこのネガティブな世界を創り出します。こうしたイメージや形には、ネガティブな欲求やポジティブとネガティブ両方の欲求に対する気付きの度合い、ふたつのバランスの度合いに従ってさまざまなバリエーション、度合い、可能性が存在します。ポジティブな経験に対する無意識な否定、さらには直接的にネガティブな経験を望むなど、以前自分が抱いていた姿勢から気づきの視点へと、自分の中の変化を見ることでこの兆候に気付くかもしれません。以前の姿勢を今の気づきの状態と比べてみてください。するとそこにはある特有の意識の領域、何か違った世界が形作られていることに気付くでしょう。それぞれの状態は特有の味や雰囲気を持っているのではないでしょうか。
皆さんが生きている物質的な世界はポジティブとネガティブ、そしてこのふたつが掛け合わさったものの表現です。これらすべては皆さんの内と外に存在し、時を超えた無限に存在します。こうした世界を自分の心理の中に見出し、鋭敏に気付かなければなりません。こうした世界は皆さんの表現の産物であり、皆さんの中にあるさまざまな意識の領域の産物です。こうしたものを一枚、そしてまた一枚と自分の内で経験しなければなりません。ネガティブな欲求から比較的解放された部分においては、すべての善が存在し自己永続的であるという真実の世界をより容易にシンプルに掴み、感じ、そして経験することができるでしょう。つまり葛藤や疑念、恐れや喪失感を抱く必要はこの部分にはありません。こうした箇所ではポジティブでダイナミックな経験に恐れなく自分のハートを開いている自分に気付くでしょうし、ポジティブでダイナミックな経験はさらなる展開、つまりより偉大な幸せ、より包括的な在り方という方向へと永遠に皆さんを運び続けることでしょう。皆さんはこうした動きを、恐れの思考で止める、またはそれを阻止し停止状態にしたりはしませんね。こうした領域はそこに存在しています。こうした領域は皆さんが永遠の生命やすべての存在を感じ取ることのできる心理の深い部分に存在しているだけでなく、皆さんの人生に外的にも顕現しています。こうしたポジティブとネガティブなものに意識的になることができれば、二つを的確に比較できるようになり、有益です。
そしてもちろん、主要な問題を抱える部分も皆さんの中にはありますね。皆さんの心理の中でポジティブを恐れることでポジティブを否定している場所も存在しています。結果的に喪失や苦しみが外的な人生に形作られます。こうした領域こそが、皆さんがじゅうぶんに経験する必要のある部分です。そうすることでこれを超越することができるからです。こうした部分を否定する、または逃げようともがくのではなく、見て、受け入れ、そしてその本質を理解するよう学ぶことで完全に経験するのです。経験する、とはそういうことです。このような部分が一時的な現実であることが自分の中で確認され判明してはじめて、その下にある自己永続的な善に手が届くようになり、最早何かを掴もうと求め、手を伸ばすこともなくなります。自分の物として手に入れる以前にすでにそれが自分のものであることを知るのです。
周りの仲間など、他者から分離しているときはいつでも、人はネガティブな世界に居るのであり、自分自身の破壊的な望みを通して自己永続的なネガティブ性の種を撒いている状態に身を置いています。つまりこの人は苦しみにいるのです。結果としてより大きくなっていく苦しみの重大さを否定し無視しているからです。人はこうした苦しみや葛藤を自分が常に抱えていることに気付くでしょう。苦しみは各個人でその種類はさまざまであり、同じ人でも人生の段階によって違いますし、時には時間ごとで違う場合もあります。その時々で別の方向が人の内に生じるからです。何が優勢かはそれぞれの瞬間で変化します。あるときはひとつの方向はより表面に浮上し、また別の方向は沈下しており、また別のときでは違っています。つまり、そこにはいつでも周りの仲間に対する止むことのない葛藤があるということです。二つの拮抗する方向の片方は、仲間とひとつの全体であるという統一へと向かおうとし、これはさまざまな形で現れます。愛や理解に向く形や、他者を考慮する姿勢、与えそして受け取ることへ向かうのもまたひとつです。しかしそこには常にもうひとつの側面があり、この側面は今申し上げたような方向を恐れ、抵抗するため、それを否定し反対します。結果的にある特有の痛みが生じます。否定が大きいほど痛みも大きくなります。なぜなら忘れてはならないのは、孤立や引きこもること、そして分離を完全に求めることは不可能だということです。もしもこうした状態を完全に求めたとしたならば、そしてその結果と完全に共存し得るのなら、痛みはないはずです。しかしこれを完全に求めることは不可能です。完全にではなく、高い割合で求めることはできます。求める率が高いほど、健康や統一といった反対の方向からの引きも強くなり、痛みも激しくなります。
さて、この痛みは他者と関わることで生じる葛藤によって激化します。忘れてはならないのは、一方では他者と関わり、愛したいと願ったり願わなかったりを交互に求め、また他方では他者を憎み、拒絶し、他者から身を引いているということです。これだけでもすでにじゅうぶん痛みます。加えて、似たような葛藤を内に抱いた他者が入るという状況に皆さんが遭遇し事が乗じれば、それはあまりに複雑で相いれないものとなるでしょう。
ひとつ前のレクチャーで概説したように、ポジティブな方向もネガティブなものも共に喜び(プレジャー)の原理に沿っています。喜びの原理との付着が、手放し、そして変化させることを難しくします。ポジティブに方向づけられた喜びの原理とネガティブに方向づけられた喜びの原理は人をふたつに引き裂きます。このこと自体が皆さんに痛みを課すわけですが、これは皆さんだけに起こることではありません。苦しみに関わっている人々、つまり愛するか拒絶するかを皆さんが決めかねている人々の中にも起こるのです。もしも彼らが完璧な均衡に達し、内なる分離から解き放たれた人々なのであれば、皆さんの葛藤によって影響を受けることもありません。なぜならこうした人々にある宇宙の力との調和や高い度合いの気づきがネガティブ性や、ポジティブとネガティブの引き合いから生じる緊張から彼らを守ってくれるからです。話を進める上で便宜上付け加えておくと、こうした進化した存在が戦いに苦しんでいる普通の人と関わりを持った場合、普通の人はそれでもやはりまだ自分自身の分離から生じる痛みを抱えることには変わりありません。しかし、相手も自分と似たような立ち位置にある場合、事はどれだけ複雑になりえることでしょう。こういった場合の葛藤は二倍どころか、四倍にもなるのですから。人が抱える心理的な状態、誤解や誤った判断、痛みなど、さらなるネガティブ性へと繋がるものを抱えた人々が関わるこのような状況から、数学的にどれだけの可能性の数字が導き出されるかを想像してみてください。ここに二人の人がいるとしましょう。AさんとBさんです。Aさんは一時的に統合へ向かうポジティブな方向性を表現しています。BさんはAさんが示すこの方向性を恐れているため、Aさんから身を引き、否定します。結果的にAさんは統合へと向かう健康的な魂の動きにはリスクが伴い痛みが伴うとふたたび一から自分に言い聞かせることとなり、ネガティブで否定的な姿勢に戻ってしまいます。この状態はあまりに痛いため、痛みを耐え得るものとするためにネガティブな喜び、つまりネガティブプレジャーの原理が付着することになります。Aさんはネガティブな状態を享楽します。Aさんに平行する形でBさんの分離の痛みは耐え難いほどになり、Bさんはこの状態から外へと乗り出すことにします。この間Aさんは暗い穴の中です。さて、この状態が続き、時に状況は完全に反対になり、また別の時には二つは束の間だけ出会うこともあります。時にはAのポジティブな方向性がBのネガティブな方向性と出会い、また別の時にはその反対も起こります。双方共にネガティブな流れが表に出る時もあり、そんな時には二人ともが引きこもる、またはお互いに対抗します。お互いがポジティブな方向性へと一時的に冒険することもありますが、ネガティブな原理がまだ二人の中に存在しているためにこのポジティブな方向性はあやふやで、あまりに不確かであり、多くの恐れを含み、分離し、防衛的で不安げなため、ポジティブな方向性に対するこうしたネガティブな感情が遅かれ早かれネガティブな結果を生み出します。そして自分がポジティブな反応をしたせいでネガティブな結果が生じたのだとし、ポジティブな方向性に関連した問題を孕む感情のせいだとはされません。つまり、ポジティブな性質が続いた後にネガティブな方向性が再び勝ることは必然です。これはネガティブで破壊的、否定的な側面がじゅうぶんに理解され取り除かれるまで続きます。
容易に想像していただけると思いますが、今お話ししていることは最近お届けしているいくつかのレクチャーをひとつの包括的なものとしてまとめてくれますね。最近行ったレクチャーで概説したように、ネガティブで否定的、破壊的な方向は、喜びの原理が関与していなければそれほど激しいものにはならず、克服するのもそう難しくはならないのです。こうした場合に人は、破壊的な感情や姿勢に耽ることで得る当てにもならない喜びから離れたいと思わなくなります。こうしたことは人が健康的で建設的な方向に向かい始める時に微妙な形で知らぬ間に、迂闊に発生し得るのです。
ひとつ例を挙げてみましょう。役に立つかもしれません。自己実現への道で強さと自信を獲得するとしましょう。他者との間に摩擦を経験するとき、以前では不確かさや罪悪感を抱いていたところには今では内なる落ち着きがあり、自分の中に新たな確かさを感じるようになっています。以前は決してなかった強さやレジリエンスがそこにはあります。昔は罪悪感を服従の態度で鎮めようと反応し、または攻撃的な態度や敵意でもって自分が抱いている不確かさに対する自己卑下をなだめようとしていました。皆さんが取っていた方法がどのようなものであったとしても、自分を疑う気持ちやネガティブな想いにどのように反応していたとしても、ネガティブに方向付けられている原理に関与していたことになります。自分の中の病を楽しんでいたのです。しかし皆さんは進歩しました。新しい形で自分を経験することができるようになっています。つきまとう自己疑惑の代わりに、相手に対する洞察を獲得したのです。過去になぜ相手はあのような態度をとったのか、相手はどのようなことに文句を言う傾向があるのかをこの洞察によって理解できるようになります。今の段階では、この客観的な理解は皆さんを自由にし、強くし、より多くの客観的な洞察を自分自身に対しても、そして相手に対してももたらすことになるでしょう。別の言い方をすると、洞察と理解という自己永続的な原理が作動したことになります。
しかし、皆さんがまだじゅうぶんな気づきに達していないためにいまだに存在しているネガティブな喜びの原理は、相手のネガティブな側面に対する理解に癒着します。すると相手の欠点や盲目さを、自分自身に重ね重ね言い聞かせるようになります。そして不注意にもこれを楽しむようになるのです。はじめ人は二つの別個の喜びを瞬時に識別はしません。とらわれのない状態で相手の中に何があるのかを見ることができ、それが自分を自由にする喜びの感覚と、相手の間違った部分や盲目な部分を楽しみ耽るという二つの喜びです。はじめは単に観察によって気づいた事象も、古い喜びの原理が装いのみ新たにふたたび姿を現すまでどんどんと積み上がります。ここでは人はネガティブな喜びの原理に耽っていますから、調和や自由を失います。古くからの根っこがまだ存在し、気づかないままになっているときに知らぬ間に事が起こるといういい例ではないかと思います。
さあ皆さん、ここから先へと続く道がより明確に、そして簡潔に示されたのではないでしょうか。説明されたことをすぐにでも試し、着手できるツールが手に入りましたね。さて、何か質問はございますか。
質問:今夜のレクチャーは自分のためだったのではないかと思うほどです。相手の中に痛みや傷を見るたびに私は瞬時に自分の中のネガティブな側面や敵意、憤りを持ち出してしまい、ネガティブな感情で盲目になってしまいます。相手の中にポジティブなものは何も見えなくなり、相手が抱えている葛藤を理解することができません。これを手放したいと思っており、祈ってはいるのですが、それでもまだ自分はまさに今夜お話しにあったように「穴の中に座っている」状態です。
回答:ネガティブなところに耽っているとき、自分がそれを楽しんでいることに気付いていますか。
質問:はい、気づいています。
回答:そうでしたら、次のステップは非常にシンプルですよ、親愛なる者よ。考えを表現し、発することです。「ネガティブなところを手放したい。ポジティブな状況に喜びが伴うようにしたい。建設的になりたい。私はポジティブな状況に注意を払いたいと思っており、最も建設的な力によって治められたいと思っている」と。これをリラックスした軽い形で行い、自分の中の潜在意識を動員し、あなたを助けてくれる様に行います。外的な力のみで行わないようにしてください。外的な力ではうまくいかないからです。このことについては最近お話ししましたね。外的な思考ができることは建設的な意図を発することのみであり、ここで発されたものを基にポジティブな動きが設定され、ポジティブで自己永続的な循環が生じます。もしもこうしたことをまだ望まないようであれば、シンプルに、そして楽にワークを進める必要があります。あなたの中のどこで、そしてどうしてネガティブを求める方がポジティブを求めるよりも安全だと思っているのでしょうか。ネガティブを求めるプロセスを止められないのであれば、まだあなたが理解できていない原因がそこにはあり、それを掘り出さなければなりませんね。
質問:非合理的ではありますが、自分が何か利用されているような、高潔さを失ってしまうような恐れが自分の中にはあるのです。これが真実でないという微かな感覚はあるのですが、それでもやはりどうしてなのかがはっきりとは分かりません。
回答:そもそも、今おっしゃっていることが誤った結論である可能性を、真に分かりたいと望まなくてはなりません。無力感や力不足な感覚は、ネガティブな力が自分を支配することを自らに許すときに起こること、つまりは自分自身を治めることを諦めてしまうことであり、これもふたたび自己永続的な原理です。つまり自分で自分のことを治めることができると考えつきもしない状態です。「私はネガティブなところに居たくないと決め、誤解に執着しないと決めた。そしてネガティブなところや誤解とは次のようなものだ」と発言した瞬間に、あなたは自分自身の舵取りをすることになります。そしてさらに「自分から生まれたものではない決定の奴隷になる必要などない。なぜなら私は建設的だからだ。求めるものが何であれ、それは私が決めることだ」と言い、そしてそれを意味するのです。そうすると求めるものが建設的であるほど自由になることを経験し、自立した形で自分がすること、そしてしないことを決定することが楽になるのが分かるでしょう。他者は意志をあなたに課すことはできなくなり、発動している自分の欲求が建設的で、ネガティブな状況から離れているその度合いに比例してあなたの高潔さは保たれ、増加します。自分の中にあるネガティブな欲求への気づきを失ったが故にあなたは弱くなったのです。ネガティブな欲求をあなたは抑圧し、否定し、隠しました。そしてその上に偽りのポジティブな欲求を被せたのです。つまりあなたは自分自身との接触を失ったのです。もしもネガティブな欲求を忘れていなかったとしたら、今ほど強くはなっていなかったのです。そしてもしもネガティブな欲求が強くなったとしても、無力で力のない人にはなっていなかったはずです。他者の意志が自分の意志より強いからといってあなたの中に弱さや無力さが存在することはありません。そうしたものがあなたの中に存在するのは、あなたが自分の中のネガティブな欲求を無視し続け、そこから生まれる自己永続的なネガティブな力にすっかり負かされてしまったからです。コントロールが欠如したこの状態は、自分自身の指揮を執ったとき一体どのような感じになるのかを想像することを不可能にしてしまいます。さて良心と気力を携えたあなたも、ネガティブな欲求の指揮を意識的に執ることはできません。指揮を執ることは、ポジティブな欲求のみが可能にするからです。ポジティブな欲求をあなたが発するとき、あなたはより強くなり、より自分自身を治めることができ、無力さの度合いが減るのです。つまり、他者から利用されることは不可能になります。なぜならあなたの自由意志と機能した意志決定は、自分が今何をしており、なぜそれをしているのかを完全に意識した状態で決定を下すからです。そしてもうひとつ、ずきずきと痛む罪悪感があるというだけで(人がそれに気づいていようとなかろうと、ネガティブな欲求が存在するということは罪悪感がそこにあるということです)人に利用されることを許してしまいます。罪悪感があなたを転落させます。まさにあなたの中にあるネガティブな方向性が人に利用されることを自分に許してしまいます。つまり自分は自分が持っている権利に不確かさを抱いており、不安で、自分には権利があると強く思えないのです。ネガティブな方向性のみがその理由です!もしも破壊的な欲求からあなたが解放されているのなら、そこには罪悪感はないはずです。罪滅ぼしの必要はないのです。他者からあなたにもたらされた要求に対して、時には、とても容易に、やさしく、防衛なしに、断ることができるはずなのです。もしもそれが正しく、自分がそれを求めているのなら、相手の欲求に屈さないことはできるはずなのです。つまりあなたが考えていることとはまったく反対です。ポジティブさはあなたを自由にし、高潔さを与えてくれます。自分自身の権利を守り、主張することを可能にします。反対に否定や破壊性はあなたを弱くし、防御ができない状態にします。建設的でポジティブな欲求を発することが未だ難しい場合には、自分がそういった段階にあるのだということを断言するようにしてください。その事実を断言しなさい。自分が否定や破壊性に身を置いていることを認識し、この抵抗に隠れて自分をまどろませている未だに発見できていない原因を探りなさい。その後ろに並んでいるものはより深い性質を持った多くの恐れです。この恐れについては一緒に見ていくことになりますし、今後お話ししていこうと思っています。
質問:私はよく、自分の中の父親のイメージを軸にネガティブな側面を探ることに集中し過ぎるところがあります。そうすることで何か自分のより深い部分にある見たくない部分を自分から隠しているのではないかと自問してみました。私が集中しやすいのは父親というイメージと男性性という概念が混ざったものです。このことを分析し過ぎることで何か大切な要点を逃している気がします。
回答:あなたの中のどこかに男性としての役割を引き受けるのを嫌がっている、そんな欲求があるはずです。自分の中のこうした欲求について気づいたことがありますか。
質問:いいえ。
回答:そうですか、それが答えですね。自分の中にあるこうした欲求に気づくときが来ます。もしかすると副次的にやって来るかもしれませんね。特定の顕現を推測し、続いて感情を取り上げるといった形で。意識の上ではあなたの中には強い男性になりたいという強い欲求がありますね。時にあなたは過剰補償として、この男性性のイメージをやり過ぎて、誇張しすぎるほどです。男性としての役割を拒否せず、引き受ける準備があなたの深くでできている場合にはこの過剰補償は存在しません。男性としての役割を達成するには自分は不十分であるという恐れがあるのではないでしょうか。男性としての役割を引き受ければ何かを要求されるのではないかという恐れがあるのです。そしてもちろんそこにはあなたが否定している人生や社会に対する何か憎しみのようなものがあります。女性に対する嫉妬があり、その視点のレベルにおいては女性の方が楽に見えるのでしょう。あなたが意識の上で抱いている男性のイメージを満たすために必要とされる努力に憤りを感じています。このイメージ通りでなければならない、そうあることを他者から求められていると信じており、それに憤りを感じているのです。もしかするとあなたはこのような男性のイメージを自分に求めているのかもしれません。そうしなければならない、そうならなければならないと考え、憤りを感じているのかもしれません。つまりここで大切なのは、あなたが意識の上で努力しているのとは完全に反対のものを自分の中に見出すことです。男性の役割というものに対して消極的で、それに抵抗し、恐れ、否定し、欲しておらず、意地悪くそれを拒否している部分を自分の中に探すことです。これに気づくことができれば、今夜お話しした要点を理解することができるでしょう。自分の中の主要なネガティブな欲求に気づくことができるでしょう。そしてもちろんこれは、あなたの男性としてのアイデンティティーにも関与します。
質問:はい、本当にそうですね。この点については去年自分の中で見ていたのですが、最近すっかり見過ごしていました。
回答:はい、これは非常によく起こることですね。ひとつの発見が成され、あたかもそれでじゅうぶんであるかのように棚上げされてしまいます。まったく変化も除去もされていないというのに。むき出しの上面を引っ搔いたにすぎません。根本的な問題に取り掛かる前に別の側面をしばらくワークする必要がある場合が多くあります。
皆さんに祝福を。皆さんを包み貫くあたたかな愛の流れを受け取ってください。心を開いてください。この愛は真実であり、この真実が生命なのですから。そしてこの生命こそ、皆さんが求めているものです。ここにいらっしゃる皆さんが請け負っている勇気ある歩みには意味があります。この歩みは無意味ではなく、無益でもないのですよ、愛しい皆さん。このことをいつも、分かっていてください。どのようなものであっても、自分の中のネガティブなものを自認することは、想像しうるすべてを超えて、全体性に向けた宇宙のプロセスへの貢献となります。ですからこの方向で続けなさい。祝福を。平和の内にありなさい。神の内にありなさい!
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