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Pathwork in Japan
No.141 完璧さが存在する元のレベルへ戻る
Pathwork Guide Lecture No. 141
UNEDITED版
1966年3月18日
完璧さが存在する元のレベルへ戻る
RETURN TO THE ORIGINAL LEVEL OF PERFECTION
親愛なる友人のみなさんにご挨拶いたします。今夜がみなさん一人ひとりにとって、祝福となりますように。これが、みなさんの探求において、自分自身を知ることに向けた努力において、さらに一歩進むための必要なインスピレーションと助けをもたらすものとなりますように。
時折、このパスワークとは何であるのか、そして何を成し遂げるべきものなのかを、別の言葉で言い直してみるのは大事なことです。そしてこれをまったく新しい光の中で、別の角度から見てみるのは大事なことです。このような道は、自分の人生をできるかぎり完全に全うするための、この人生において自分自身を実現するための助けであって、それ以外のものと考えるべきではありません。これは、治療法とみなすべきではなく、単に「興味深い」から、「害になる」ことはまずあり得ないから、あるいはまた自分の人生にはこのような興味深い探求を行う余裕があるからという理由で楽しむ贅沢品とみなすべきでもありません。これは実際には、はるかに重要で、はるかに必要欠くべからざるものです。そしてもしこれが治療法や癒しであるとすれば、それは二次的にもたらされるものとしてのみ、治療法や癒しとなるでしょう。このようなパスワークの真の意味は、自分の個人的な運命を自分なりに全うすることへと導いてくれるものを自分の中に見つけることです。このパスワークをそのような視点から見るならば、多くの誤解を取り除くことができるでしょう。
このワークにおいてこの上なく熱心で善意に満ちた私の友人たちでさえ、人が本当に必要とし得るあらゆるものは、すべて、このうえない完璧さで人間の中に存在しているということを見過ごしていたり、忘れていたり、いまだ十分には理解していないことがよくあります。けれども、この潜在的な可能性は現実として存在しています。そして、このレベル、これらの可能性が現実のものとなるレベルを見つけることこそが、パスワークの目的なのです。
人間の総合的なシステムにおける肉体のレベルでは、これは明らかです。肉体的なシステムは、人が肉体の法則に従っているときには絶対的な完璧さで働きます。無知や故意の自己破壊性のためにこの法則に従わなくなればなるほど、人は、完璧な状態が現実化しているその肉体レベルから離れていきます。私はあえてこのような言い方をしています。というのは、病を、完璧に機能する状態がないことだとみなす考え方と、私がここでお話する概念、すなわち、完璧な機能状態が存在するレベルはまさにここに存在しているが、あなたがそこから離れてしまっただけだという考え方の間には違いがあるからです。肉体の法則とあなたがそれらをどのように破っているかを理解することによって、健康状態を徐々に再建し、完璧な機能状態が存在する元のレベルへと一歩一歩戻すことができます。もし通常考えられているような、完璧に機能している状態がいわば「立ち去る」、すなわち無くなってしまうという考え方が正しいのであれば、あなたがそれを取り戻すことは到底できないでしょう。その状態から去ったり、そこに戻ってきたりしているのがあなたの方だからこそ、あなたは完璧な機能状態を取り戻すことができるのです。あなたがこの完璧に機能している状態から離れれば離れるほど、さまざまな原因や結果を通って、その連鎖反応のあらゆる地点を通って元来た道を辿りなおすのが難しくなっていきます。元来、肉体的な機能状態に関する法則に不正に手が加えられていないかぎり、肉体のシステムはもともと、絶対的な完璧さで機能し、強さと健康を人間にもたらすように作られていることは、誰にでも簡単に分かることです。
ひどく奇妙なことに、これが精神的なレベルやサイキックなレベルのことになると、上に述べたようなことは人間にとってそれほど自明のことではなくなるようです。そこでも、まったく同じ法則が働いており、それはまったく同じことなのですが。人間は生来、ちょうどその肉体がそうであるのと同様に、完璧に機能するように作られており、人間の精神面や感情面も完璧に機能するように作られています。この元のレベルを現実化するとき、人は「故郷に帰りつき」ます。人は、自分の中にある、人生が自分のために実現するよう定められているもの、自分が人生で実現するよう定められているもの---この二つはひとつなのですが---を自分にもたらすことができるものへと辿り着いたのです。
豊かな実りにみちた体験や拡大をもたらすこの実現の多様性と無限の可能性は、人間の中に現実のものとして、永久不変に存在しています。人が満たされず不幸なとき、その人の意識はこの可能性から離れてしまっています。友人のみなさん、上に述べたようなことをこのように考えることは、極めて重要です。そうすることで、あなたは、強さや可能性や叡知やパワーが存在する、あなたという存在のこの中心からあなたを遠ざけるこの遍歴の道のりを短いものにすることができるからです。とはいえこのことを完全に理解できる人は今はまだあなた方の中には誰一人いません。
あなた方にとってこれを理解するのがなぜそれほど困難なのか、というこの点に戻ってくる前に、次のことをお話ししたいと思います。あなたがこの可能性から離れるときに何が起こるのかということを、もう一度、別の角度からまとめてみましょう。概念、考え、思考、行動というものは一つひとつが、原因であると同時にエネルギーでもあります。それは、一連の連鎖反応を生み出すエネルギーを起動させます。原因であるという性質上、それは結果を生み出します。続いて起こる連鎖反応を生み出すこのエネルギーは、元々の原因の結果を、元々のエネルギーの核を成すものの結果を生み出します。前回のレクチャーで、私は自己永続的な原理についてお話しました。なんらかの思考、考え、あるいは行動によって引き起こされるこの一連の連鎖反応は、私が言おうとしていたことそのものです。すなわち、この連鎖反応は、元々の思考が生じたとたんに、自己永続的なものとなります。
この元々の思考や概念が真実に沿っている場合には、その結果起こる連鎖反応は必ず建設的で、ポジティブで、葛藤がなく、心地よいものとなり、さらなる拡大、さらなる建設性、さらなる心地よさへとつながってゆきます。それは自己永続的な原理が働いているためです。元々の考え方が誤ったものである場合(私が言っているのは、人間はどんなときにも、どんな状況でも、誤った考え方によってある概念や考えや意図を作り上げることがあるということです)、その結果起こる連鎖反応は、ネガティブで、制限的で、破壊的で、不愉快なものにならざるを得ません。
あなたが作り上げるなんらかの考えを例に取ってみましょう。このような考えは、それが真実に満ちたものであろうとなかろうと、あなたをある思い込みへと導きます。これらの思い込みは、あなたをある行動へと(あるいは、そうした行動をしないことへと)導きます。それらはさらに、他の人たちの、そしてあなたを取り囲む世間からの反響や反応を引き起こします。彼らの反響は再びあなたの中にさらなる反応を引き起こし、その結果あなたは、それが引き起こしたこれらすべてのやりとりを寄せ集めてさらなる考え方を作り上げることになります。そして、それは次から次へと続いていきます。最初の誤認がより深刻な誤りへと、そしてさらにこじれた誤解へとつながり、その点に関してますます真実から離れていきます。それぞれの原因が、ある結果を生み出します。この結果は同時に新たな原因となって、新たな結果を生み出し、それがまた原因となって次の結果を生み出さざるを得ません。これが、自己永続的な連鎖反応の性質です。
このような負の連鎖反応が発動されたときには、一つひとつのつながり---それは同時に原因でも結果でもあるわけですが---を辿り直さなければなりません。そして、どこにも矛盾がなく、豊かな拡大が現実として存在する元のレベルへと戻る道を人が見つけられるように、それぞれのつながりを理解し、その後それらを手放さなければなりません。このレベルには、怖れを知らない心、安らぎ、無限に花開いていく生、刺激といったおよそ人が望み得るあらゆるものが存在します。あなたがここから離れれば離れるほど、戻る道を見つけるのが難しくなります。身体的な健康が損なわれた場合と同様に、精神的なレベルやサイキックなレベルでもそうなのです。法則を冒涜すればするほど、より多くの負の連鎖反応が生じてきます。精神的な法則とサイキックな法則は、肉体の法則と同様に、厳格で明確なものです。それらは肉体の法則と同様のやり方で理解することができ、理解したり解明したりするのが肉体の法則より難しいわけではありません。肉体的なシステムには、機会が与えられさえすれば人間と協力しあう準備が常に整っている生来の治癒力が備わっています。これはすなわち、人がこれらの法則を理解し、損なわれたものを修復する努力をすれば、自らの最善を尽くしつつこの自然治癒力を信頼すれば、この生きた力は働き始めるということです。これは、精神的なレベルやサイキックなレベルでもまったく同じです。そこにもまた、癒しの力が存在しています。これらの力は、完全さ、建設的であること、生産的であること、拡大、実現に向かって懸命に働きます。もし人が、それらの方向性を感じ取ることによって、またその法則を破壊した障害物を取り除くことによって、それらの力が働くことができるようにすれば、これらのサイキックな癒しの力は、さらにパワーを増して、人を強力に前進させるものとなるでしょう。
自分の精神的な混乱や破壊的な感情の中であなたが元のレベルから離れれば離れるほど、元のレベルに戻るのが難しくなります。連鎖反応のそれぞれの環を是正しようとすると、人は恐怖でいっぱいになります。不合理なことではありますが、それは自分からは与えたくない何かを無理やり取り立てられるように感じられるので、人はこれを恐れるのです。
さて、みなさん、この道の取り組みを簡単に言い表すと、このようになります。もしみなさんがそれをこのように少し違ったやり方で考えることができれば、それにより、みなさんの中には、新たなエネルギー、新たな動機、新たな洞察が働き出すでしょう。また、みなさんにとって、また成功した人生を送りたいと願うすべての人にとって、これらの前提に従って人生を送らなければならないことを理解することは、すなわち、この元々の潜在的可能性に戻る道を見つけ、肉体的なシステム、精神的なシステム、感情的なシステムを支配している法則を理解し、またこれらの法則の完璧さを理解し、それに従うことが大切です。
さて、違反、誤り、混乱、破壊性というさらなる連鎖反応へとつながる、根本的に最も重大な違反とは何でしょうか?私なら、最も重大なことは、このプロセスを無視することだと言うでしょう。人が、自分がまさに必要としているものやあらゆる偶発的な出来事に対して、自分が生まれながらに持っている潜在的な可能性や、自分がもつ無限のパワー(みなさん、本当にそうなのです!)を無視するのは、さらなる疎外感や破壊性を避けようもなく引き起こすことになる根本的な違反です。人が、自分の人生には、未解決であったり、不幸であったり、ぞっとするような状態のままでいなければならない状況などまったくないのだということ、自分の中には、どのような問題であろうとも自分が陥ってしまった問題を解決できるあらゆる可能性があるということをはっきり理解するとき、その時点で、人は大前提を満たしたことになり、これにより人は自分が何世紀にもわたる遍歴の間に遠く離れてしまっていた、実現が存在するこのレベルへと戻る可能性を手にします。とはいえ、その人がこの完璧さや、躍動的な生や、その生の広がりが存在する元のレベルから遠く離れてしまっているのは特定の領域だけであって、人格の他の領域ではこの元のレベルととても緊密につながっていることもあります。それでも、その人が今生へと持ち込んできた、それらの損なわれた領域、その人自身、それらを解決する可能性を自分が手にしていることをまったく知らないままに持ち込んできた領域は、確かに存在します。そして、これを知らないことこそが最大の障害なのです。友人のみなさん、こう言うと奇妙に思われるかもしれませんが、人は基本的には、たった今ここでお話ししたようなことを理論や哲学としては完璧に知っているにもかかわらず、あまりにも度々、このことを無視し、これを自分自身の損なわれた領域に適用することができずに、当惑し、絶望感を抱き、麻痺状態に陥っています。それは彼らが、自分が陥っている、自分にとって不満があるいかなる状況でも是正できる可能性が自分の中に存在していることにまったく気づいていないからです。
人は、まず自分自身をマスターする、つまり自分が自分の主人となることができるようになってからでなければ、自分の外側にある目的のためにこの無限のパワーを使うことや、それが働くようにすることはできません。すなわち、人は自分という存在における損なわれた領域を修復せざるを得ないということです。人はこのパワーを、元の完璧さのレベルから外れてしまった地点に戻るのに使わなければなりません。人はこのパワーを、破壊性から建設性へ、分離から統合へと転換するのに使わなければなりません。人はこのパワーを、自分がどこで自分の完全性を損なっているのか、すなわち自分がどこでサイキックな法則を破っているのかを知るために使わなければなりません。人は、このパワーを使って、憎悪や残酷さという偽の安全さを手放し、自分の人格を他者への愛に満ちたものへと変容させなければなりません。人がこのパワーを使って、まず自分自身についての幻想の中のどの部分が本当の自分かを見極め、自分の中の、自分が思っていたほど全うでもなければ、愛すべき人間でもない部分を暴きだし、そうした後でこのパワーを使ってこの状態を変えようとするとき、その人はこのパワーを正しく意のままに使いこなしていることになります。いったん人がこのようなやり方で自分自身をマスターできるようになれば、このパワーは独りでに拡大し、拡張していきます。このようにマスターすることで、自己と他者とはひとつであるという理解が単に言葉の上だけのものではなくなり、自分自身の中の生きた理解となっていきます。けれども、人が自分自身をマスターできていないうちは、これらは最善の場合でも言葉だけのものであり、最悪の場合には何の意味もないものとなります。自己と他者が分離しているように思われる限り、自己と他者との間には利害の対立があるように見えるはずであり、これは人を、自己に対するものであれ他者に対するものであれ、破壊性へと走らせることになります。けれども、自己と他者とは本当はひとつであるため、どちらの道も最終的には必ず相手にもそして自分にも影響を及ぼすことになります。そのため、このパワーを使うことはできません。なぜなら、このパワーを使うためには、対立からは生じ得ない、自由な幸せな束縛のない感情がなければならないからです。
この完璧さ、無限の可能性、意味深い拡大や体験、究極の喜びが存在する元のレベルへと戻るための第一の前提条件は、このレベルの内部が損なわれていない完全なままであり、このレベルを活性化するためには意識によって活性化するしかないことを知っていることです。けれどもみなさん、そのことを聞いてそれについて漠然と考えたからといって、これを知っていることとは違います。そしてこの知識は、培わなければならないものです。自分の差し迫った問題は解決することができることと、そうするために必要なあらゆるものが自分の中に備わっていることに気づいていること、それこそがいかなる局面においても最初のステップとなります。
人はこの可能性を認めることすら望まないことがよくあります。というのは、ひとたびこの可能性と真に向き合ってしまえば、自分がどこでどのようにそうした法則を破っており、どこでどのようにその状況を正さなければならないかが明らかになってしまうからです。これは実際には、少しも不快なことではありません。実際には、それは、考え得るいかなる視点からみても、極めて望ましいことであると常に判明します。これにより、何かが奪われることは決してありませんが、勇気と正直さは求められます。この修復のプロセスは多大な犠牲を求めてくるかのように思われます。けれども実際には、多大な犠牲を払わせられるのは、この状況全体に全面的な正直さをもって向き合うのを避けようとするときです。実際、前にお話ししたように、これが長期にわたって行われれば行われるほど、人はすべての穏やかで善きものから離れてゆき、支払う代価もそれだけ高くつくことになるのは避けられません。人は、犠牲のようにしか思われない修復を避けたいと望むために、愚かにも絶望的な状況に陥るよう自分を説き伏せることになってしまうのです。
さて、友人のみなさん、自分の人生を見るとき、次のようなことを自分自身に問いかけてみてください。あなたはどこでさらに拡大することができるでしょうか?あなたはどうしたらもっと深くもっと豊かに人生を体験することができるでしょうか?あなたはどうしたら、自分の内部や自分の周囲のなんらかの不調和からもっと自由になれるでしょうか?あなたはどこで、あるいはどうしたらもっともっと与えたり受け取ったりすることができるでしょうか?そしてその後で、あなたがこれらの空虚な領域や破壊的な領域をはっきりと認め、そして自分の中にこの状況を正すための手段が存在している可能性を認めるとき、あなたは目的にかなった建設的なこと、本当に必要なことをするつもりがありますか。あなたがそうすれば、他のことはすべて後からついてきます。そうすることで、あなたは、さまざまな負の連鎖反応を辿りなおし、問題となっている法則を見つけ、その法則に関する自分の態度や振る舞いを変えることができるようになるでしょう。あなたはそれらの法則に背く代わりに、それらとともに働くようになるでしょう。けれども、自分の問題や自分の空虚さをごまかしたり、それらの原因をごまかして、その原因は自分とは何の関係もない、あるいはほとんど関係ない---少なくとも、今の自分とは関係ない---というふりをしている限り、あなたは自分の中の自分がいるべき場所に戻ることはできません。
精神的な法則に対する次の冒涜は、間違った考えに関するものです。これについては、私たちは多くのさまざまな形でしばしば話し合ってきました。人が抱く間違った考え方は常になんらかの形で、自分自身に関する真実を受け入れたくないことと直接関係しています。ここで私たちは、人生のおおざっぱな領域の区別---科学の領域か、哲学の領域か---すなわち、人の個人的な生活には直接関係しないか、人が現在理解できる可能性を依然としてはるかに超えたものであるか---をつける必要があります。言うまでもないことですが、人間は現在の進化状態では全てを知ることは到底できません。が、人間が本質的に理解可能な領域にこれを当てはめて言うならば、その人がブロックされておらず、自分自身に対して正直であるならば、その人がその信念において従っている「真実ではないこと」は、その人の内面生活にも外面生活にも必ず影響を与えます。なぜなら、この間違った信念はその人の内面の態度によって生み出されたものだからです。そのため、人のスピリチュアルな信念がその人の感情的な態度と無関係だと言うことはできません。その人が信じているかどうか、何をどのように信じているか、どのような態度で超越した力を信じるか信じないかを決めているか、といったことは全て、その人の最奥にある誠実さ、自分自身に対する正直さ、あらゆる事柄について自分自身に対して真実でありたいと願う心からの願いと直接関係しています。そのため、人の心の中にある、負の連鎖反応を生み出すどのような誤認も、その人の持つ真実に従いたくないという思いの結果生じたものだと言えば、正確な言い方になるでしょう。人はどういうわけか、真実に従うよりも真実に従わない方が自分にとって好都合だと考えます。そしてその結果、それらの自己永続的な負の連鎖反応のひとつが生み出されるのです。
あらゆる可能性、あらゆる完璧さ、あらゆる実現が自分の中心の内奥にすでに現実として存在しているのを知らないことは、自分の個人的な人生に関する意図的な誤認に直接結びつきます。さてここで、今日のレクチャーのはじめにお話しした、人は自分の中の可能性やパワーに気づかないふりをしたがることがよくある、という話に戻りましょう。人がそのような振る舞いをするのは、文句を言うことや不幸であることから喜びを得ているためでもあります。また、このようなパワーを心底恐れているためでもあります。人は幸せになる可能性を恐れます。人は自分が幸せにうまく対応できないかもしれないことを恐れます。人は、死そして我を忘れるようなあらゆる素晴らしい体験を恐れるように、人生で完全燃焼することにより我を忘れるような喜びを恐れます。この漠然とした、うまく言葉にできない恐れが、わざわざ人にネガティビティを選ばせ、ここでお話しするような生の広がりを自分にもたらしてくれる法則を(無意識にではあっても)故意に破らせるのです。そして、人はこのような負の連鎖反応とそれがもたらすあらゆる痛みや欲求不満に首まで浸かってしまった後で初めて、元のレベルから外れてしまった地点に戻りたい、自分が作り出した連鎖反応の環のつながりを一つひとつ辿って、あらゆる可能性とパワーが存在する元のレベルに辿り着きたい、と心から思うようになります。最終的には、人は、人生を存分に生きること、そして自分の存在全体が豊かさ、真実、愛、無限の可能性で満たされること、その我を忘れるような喜びを避けていることができなくなります。それでもなお、人は新鮮な空気を吸うことに自分を慣らす必要はありますが、人がこれに慣れるのは、心の底から進んでネガティビティや破壊性を手放すことができるようになってからのことです。
最近の何回かのレクチャーで、私たちは、みなさんの多くが、自分の故意の破壊性や、自分がどのように破壊的であることを望んでいるか、自分がこの破壊的でありたいという願いにどのように浸かっているか、ということに今少しずつ気づき始めているという話をしてきました。友人のみなさん、これは大きな進歩です。というのも、もしこれに気づいていないとしたら、みなさんは、自分の存在の中のすべての善きものが存在するレベルからさらに遠く離れていることになり、この絶対不可欠なつながりを見つけ出す必要があるからです。自分が感じていること、自分が求めているもの、そして自分が目指しているものが分からなければ、どの方向にも進むことができなくなります。すると、あなたは麻痺して、何も感じられない、死んだような状態になるというよくある罠に落ちることになります。ですから、まずは、自分の目指すものすべて、自分の願うもの、望むものすべてを認めなければなりません。それが建設的であろうとなかろうと、今までどれほど無意識であったとしても認める必要があるのです。これは、私たちが一緒にやっているこのワークの絶対不可欠な部分のひとつです。これができれば、あなたは、何人かの人たちがすでに始めているように、自分が幸せでない領域で自分が故意に破壊的であることを確かめることができるでしょう。そして、これに気づけば、あなたはもうあらゆる善きものが存在するレベルからそれほど遠く離れてはいません。みなさんの大半は今この故意の破壊性に気づいたところですが(そして、まだこの認識に至っていない人たちはこの認識に至る必要がありますが)、みなさんにはぜひともこの光の中で自分自身を見ていただきたいのです。そうすれば、自分がまだこの破壊性を手放したいと心から願うところまでは来ていないこと、自分がこの破壊性から転じて人生や他者に対する友好的な態度を含めた建設性へと転換したいと心から望んでいるわけではないことが分かるはずです。あなた方は今もなお、自己中心性や孤立を放棄し、新しい生き方を受け入れることを望んではいません。人のことを考えに含め、破壊する代わりに創造し、たとえ小さなエゴを重視することを手放すことになるとしても人に貢献したいと願うような新しい生き方を受け入れたいとは思っていないのです。人と対立するのではなく人と共にいることを願うこの願いは、表現しなければなりません。この全く新しい態度と生き方は、積極的に求め、受け入れ、育まなければなりません。それは、それ以外の方法でもたらされることはなく、自分がそれを望まないかぎり、独りでにやってくることはありません。
そのときにのみ、あなたのすべての恐れ、無価値感が消えるのです。それでもなお、破壊性というものは破壊的であることによって少しでも価値のあるものになることを求めます。それこそが、ここにいるみなさんの大部分がいまだに陥っている間違いなのです。あなた方は、そのレベルでワークをする必要があります。そして、破壊性を手放すというこのきわめて重要な決断を下すことができるとき、あなたは自分の中の戦いに気づくでしょう。あなたは、制限や痛みに対してよりも、建設性が花開いてゆくことや、幸せや満たされることに対して自分がより大きな怖れを抱いていることに気づくでしょう。これは不合理であるように思われるかもしれませんが、自分の感情を調べてみれば、それが本当にそのとおりであることが分かるでしょう。次のような考えを自分の精神に対して宣言してください。「私の故意の破壊性はこれと、これと、これ(何であれあなたが個人的なワークでそうであると分かったものをここに入れてください)です。私はこれを手放したいと心の底から願います。私が望むのは、建設的であることです。私は、義務や強制によってではなく、自分がそうありたいと願うからこそ、これを選択します」と。その瞬間、あなたは怖れに気づくでしょう。今なお曖昧でぼんやりとした、うまく言葉にできない、このとても小さな怖れの核に。この怖れの核こそが、私たちが引き出して焦点を当てる必要があるものです。これこそが、連鎖反応の中の、あなた方の大半が今立っている地点です---あるいは現在あなたが手にしている可能性次第で、ワークが進めばもうすぐ到達するはずの地点です。あなたはもうすでにそこにいるのかもしれませんし、あるいはその破壊性を見つけてそれに焦点を当てようとしているのかもしれません。
そして次のポイントは、あなたはなぜ破壊性にしがみつきたいのか、ということです。あなたは実際なぜ、破壊性、否認、拒絶、ネガティビティを手放すときに開ける善きものの無限の拡大よりも、破壊性の方が安全だと思うのでしょうか?この怖れは何なのでしょうか?これこそがポイントです。けれども、今夜これについて詳しく説明することはできません。この問題だけでひとつのレクチャーになるからです。とはいえ、もう少しこの問題に踏み込んでみましょう。おそらく、あなた方の中には、このテーマについてなにかヒントになることや、質問したいことがある人たちがいるのではないでしょうか。それは、みなさん全員をこの次の段階に、この連鎖反応の次の環に、私がここで示した次のポイントへと導いたり、導く助けになるでしょう。あなたが善きものに対して抱いている恐れ---そのためにあなたはネガティブなものにしがみついているのですから---を理解すれば、あなたはもう自分が必要とするものすべてが存在する、その本来のコアから遠く離れているわけではなくなります。そしてその本来のコアにおいて、あなたは、自分の人生をマスターするための、そしてそれを最高の可能性へと花開かせるためのすべてのパワーを与えてくれる自分自身のこの中心に触れることができます。けれどもこの地点に到達できるようになる前に、極めて多くのぼんやりとかすんで明確でない領域の霧を晴らして明確にしなければなりません。この破壊性、この破壊性が故意であることを見たくないときに、あなたは立ち往生した状態になります。これが基本的に、このワークの最も重要なポイントです。他のすべては、枝葉末節の問題であり、この故意の破壊性と、生産的にポジティブに生が花開いていくのを忌避していることに実際に気づくために経験せざるを得ない細部の問題です。
ここにいるみなさんの中でどなたか、破壊性を手放すことへのこの怖れについて、なにか兆候や気づきがある人はいますか?破壊性の方が安全に感じられるというような、善きものに対する怖れはありますか?どなたか、これについて質問がある人はいますか?
質問:私はこうしたことについて、自分の破壊性や残酷さを手放そうと決心して、自分の聖なる自己に協力を求めたことがあります。試練がやってくるまではとてもうまくいっていたのですが、試練に行き当たったとたん、私は逆方向に引き返してしまいました。私はそれに向き合うことができず、以前のネガティブで破壊的な感情が全部戻ってきてしまいました。私は苦しんで、苦しみ抜きました。が、それを止めることはできませんでした。私はたった今まで、あなたがこの話をするまで、これが怖れだということにまったく気づいていませんでした。
答え:それでは、あなたはまさに今、私がお話した地点にいるわけです。誰かほかに、何か質問や役に立ちそうなことがある人はいませんか?
質問:これは私がずっと苦労してきた問題で、この怖れを私はよく知っています。ここで私が役に立ちそうなことについてお話しできることは、今私がこのことについてワークできる方法、つまり常にそれに気づいているようにすることと、それについて瞑想すること、それから自分が喜びやくつろいだ幸せに対してものすごい怖れを感じているということくらいです。私は、いろいろなことがうまくいっていて、幸せなとき、緊張し切ってしまいます。全身、リラックスすることがほとんどできなくなり、活動過多の状態になってしまいます。それは外から見ると建設的な活動のようですが、幸せに対して破壊的な状態なのです。そして私が知りたいのは、この状態から脱け出すために今この瞬間に私ができることが他に何かあるのかどうか、ということです。
答え:はい、今この瞬間のことに的を絞ることにしましょう---今この瞬間、あなたは、建設的であること、幸せ、充足することへの望みを、自分の中で問題視しています---それと同時に、自分の中にこの可能性が存在することを知っていることも表現しています。と同時に、あなたは、この故意の破壊性をさらに強く意識するようになる必要があります。というのは、今日のレクチャーでお話ししたように、この2つの間には、当然のことですが、直接的なつながりがあるからです。故意の破壊性に対して無意識で、そのためにこれを手放すことができないと、無意識であればあるだけ、幸せを受け入れることができなくなります。あなたが、故意の破壊性と、それがどのような形で存在しているか(それは、必ずしも行動の中にではなく、おそらく大部分は、それに間接的に呼応した行動や漠然とした思考、半分無意識の願望のみをもたらす隠れた感情の中に存在しているでしょう)を理解し、これがあなたの意識の中で簡潔に明確化されれば、あなたはすぐに何が自分をブロックしているのかを理解することができるでしょう。そうなれば、あなたは、私たちが進もうとしている次のステップに手が届くでしょう。前にも言いましたが、このテーマをもっと深く掘り下げるのは次のレクチャーのときにします。このセッションは質疑応答に充てて、さらに準備を整えることにしましょう。この怖れについて扱うために、まるまる一回分のレクチャーを充てるべきでしょうが、故意の破壊性が意識化されていなければ、この怖れを理解することはできません。ですから、私がみなさんに取り組むようお勧めするのは、このこと、すなわち故意の破壊性を意識化することです。
質問:私がこの破壊性に気づくようになったのはごく最近のことです。私にとってとてもはっきりしていることは、この破壊性は母に向けられたものであるということです。私は、母を困らせてやりたい、自分が母の私に対するどんな期待も満たすつもりはないことをなんらかの方法で母に見せつけてやりたいという理由で、人生のポジティブな側面を故意に破壊しています。今は、このことがとてもはっきり分かります。と同時に、これを変えることに対して抵抗があります。私が、自分はこれを変えることができるし、もうこの不合理で無意味なパターンにしがみつきたいとは思わないというような状況になると、何かが私を止めるのです。私は、それが何なのかはっきり言うことはできないけれども自分がそれに執拗にしがみついていることだけは分かっている何かを手放すのが怖いのだと思います。それは、私の人生に魔法のような変化をもたらす、希望のようなものです。この怖れについて、小さな明かりを灯してもらえますか?
答え:この怖れについては、今は、それはとても根源的な、消滅することへの怖れだということだけ言っておきましょう。これを死への怖れと呼ぶ人もいるでしょうが、これはそれをはるかに超えたものです。この恐れは、いつであれ人が流転の中にあるときに、人が宇宙のさまざまな力の調和の中で真に揺れ動いているときに---これが死と呼ばれる状態なのかもしれませんが---生じます。それは他の場合にも生じますが、いわゆる死のときに常に起こるとはかぎりません。これは進化の状態によって変わってきます。怯えやすい人には、これは自己が溶解するような恐ろしさと感じられるでしょう。この怖れは、男女間の結びつきにも当てはまります。それは、エゴが内なる自己と非常に強く結びついた創造的な状態の中に存在します。人が恐れるのは、これが溶解してしまって、宇宙的な存在の流れと統合されることです。このような、溶解し小さな自己を手放すという状況は、病気や薬物などによる不健康な状態の中にももちろん存在します。エゴが弱すぎるためにそれが失われる場合には、それは健康的なものではありません。けれども、健全なエゴを獲得している人は、いずれそれを手放すことができる地点に到達します。このようにエゴを手放すことは一見恐ろしいものに感じられます。これは信頼の問題です。自分自身に対して深い信頼を抱いていないとき、人は宇宙的な力を信頼することはできません。小さなエゴを手放すことにより、人は個人を超える存在になり、自分自身を再発見することになります。この自分に対する信頼は、破壊性を手放す度合いに比例して増していきます。まず人は、自分自身を手放すことができるようになる前に、破壊性を手放さなければなりません。次に、この怖れを理解すると、これを手放すのがより容易になります。これは、大ざっぱに言えば、生まれながらに備わっている深い怖れなのです。
質問:情緒過剰であることは破壊的なことでしょうか?
答え:もちろん、「過度に誇張された」ものは全て、バランスを欠いていることを示しているため、障害を暗示します。
質問:それとどう戦うことができますか?
答え:戦うということは、抑圧により無理やり遠ざけることを示しているため、これは本当の進化とは言えません。本当の進化は、防御を固める必要がなく、自分の内なるプロセスの中でくつろぎ、自信に満ちた状態でいることができるような人格を生み出すものでなければなりません。この状態は、この情緒過剰がどのように存在しているかを調べることにより達成できます。他の感情は他の部分に溢れた分だけ衰えるのに対し、情緒過剰はおそらく特定の方面にのみ現れます。人格が、恐れや疎外感、意図的な偽の防衛メカニズムのために、自然で自発的な感情を特定の領域に注ぎこむ勇気がない場合、これは人間の人格において常に起こることですが、他の領域に情緒過剰な状態が生じます。自然は、自然の秩序が乱されるとバランスを回復しようとします。人格が調和した、安らいだ状態に保たれるためには、このバランスが回復されなければならないのです。情緒不足の状態が是正されて、人がこの空虚さを埋めることができるようになると、情緒過多も消えてゆきます。空虚さも「過剰さ」もどちらも痛みの表れです。調和した状態になるとき、こうした痛みはどちらも喜びへと変わっていきます。
質問:私は罪悪感からネガティブで破壊的な喜びを得ているため、罪悪感に執着してしまいます。もしこれを手放したら、(これはまったく不合理なことですが)私は幸せだと感じるようになるでしょうし、そうすると死を恐れるようになるでしょう。自分が幸せでないときには死はたいしたことではないと思えるため、私は幸せになることを自分に許すことができません。
答え:そのようなことを認識することができるということは、あなたはこれを手放す力を持っているのです。繰り返しますが、これは要するに、死への怖れ、個性をもたないこと、意識をもたないことへの怖れを意味します。この怖れに向き合うことができるのは、信頼が存在するとき、まず第一に自分自身への信頼が存在するときだけです。そしてこの信頼は、人格がこうした魔法のような、子供っぽい、駆け引きに満ちた、そして結局のところ不正直なゲームを演じているかぎり、打ち立てることはできません。
友人のみなさん、あなたがこの内なる中心、この内なる運動へと戻る道を見つけたいと願うとき、その願いは常に最終的には、あなたが「私は手放します」と宣言する地点へと行き着きます。この手放すことが、破壊性、残酷さ、逃避、あるいは他のなんらかの非生産的な生き方を手放すことを意味していようと、あるいは自分自身を人生の流れへと委ねることであろうと、それは最後には必ずこの手放す能力へと行き着きます。けれども、あなたがこれに抵抗しているときには、あなたは自分の人生の流れと、あなたが離れてしまっている宇宙の流れとの間に不調和を生み出します。それはまるで、静かな流れが障害物と激しい逆流によってかき乱されている川のようなものです。宇宙に生じたこの乱れは、この流れを見つけて、自分自身をそれに委ねることによってのみ取り除くことができます。あなたは自分自身をそれに委ねて、やってくるものを待ち受ける必要があります。それは断じて、人格を手放すことでも、個性を手放すことでも、また意識を手放すことでもありません。
けれども、この宣言を試みるときにだけ、あなたはこの宣言の真実を見い出すことができます。そして、あなたの意識の中心があまりにもきつく締まりすぎているときには、この調和を築き上げることはできません。そうしたときには、外側のエゴが強くなりすぎ、歪んだ形でこれを信頼しすぎてしまっている一方で、人格の他のレベルには不十分な信頼しか与えられていません。この人格の他のレベルは、機会が与えられれば自律的に機能するのですが、外側のエゴがこれらのレベルと最終的に融合しなければ、調和的に機能する状態にはなりません。外側のエゴを重視しすぎると、宇宙の流れと常に一致している自律的に機能する中心から分離するという結果を招きます。これこそが、私たちがこのレクチャーで検討してきた分離です。あなたが自分自身を手放し、この生命の流れ、この宇宙的な存在の本質に自分自身を委ねても、あなたが自分自身をそれに対して明け渡しても、あなたのエゴが消滅することはありません。それはただ、あなたの中のその大いなる意識のくつろいだ一部となるだけです。これは、自分自身の中に、これまで全く知らなかったような安心感が生まれることを意味します。
これは最終的には自分自身を委ねる行為となります。この最終的な行為は必ず起こります。それは時に、人によっては、この道の途上の比較的早い時期に起こります(もちろん、ある程度のみですが)。人によっては、もっと後になって起こりますが、それは必ず起こるのです。そして、私が、この道の途上で、と言うとき、それは単にこのワークで、このグループで、という以上の意味をもっています。私が言っているのは、ある生き方、このようなあなたの人生でということです。人生を正しく生きれば、ここに行き着きます。こうしたすべての気づき、こうしたすべての内なる行為と変容へと行き着きます。それは、私たちがここで非常に多くのさまざまな角度から検討しているすべてのネガティビティを手放すことへと行き着くのです。
それでは、友人のみなさん、みなさん全員に祝福を送ります。このレクチャー、ここでお話ししたことが、歩むべき道の中でみなさんが進む助けとなりますように。これが、自分が望み得るあらゆるものが自分自身の中にあるということにみなさんが気づく助けとなりますように。これが、手放すことでも、また生命の流れに、善きものに自分自身を委ねることでも、怖れることは何もない、そしてあなたがしり込みして遠ざけている生の広がりにも、怖れることはなにもない、ということに、あなたが気づく助けとなりますように。
みなさん一人ひとりに祝福がありますように。あなたがそれを許しさえすれば、あなたを超越することができる強さと愛と真実の中にいてください。平和のうちにいてください。神のうちにいてください!
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