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Pathwork in Japan
No.144 成長のプロセスとその意義
Pathwork Guide Lecture No. 144
UNEDITED版
1966年6月10日
成長のプロセスとその意義
THE PROCESS AND SIGNIFICANCE OF GROWING
心からの友である皆さん、ご挨拶申し上げます。古くからいらっしゃる方も、ここへと繋がる道を見出し今夜はじめて参加される方も、皆を歓迎いたします。新しくいらした皆さんがこのレクチャーから理解と鍵を引き出すことができますように。心のどこかで何かが響きますように。自分の中の正しき方向へと方向づけをする手助けとなりますように。
大抵私は皆さんに祝福をお送りするところから始めますね。さて「祝福」という言葉ですが、その本当の意味は何でしょうか。深い意味を知ることなく安直にこの言葉を扱うことがないように今一度この意味について考えてみましょう。今日とそれ以前では祝福という言葉の意味の理解は180度違ったものとなることでしょう。祝福とは最奥の自己、つまり神聖な内なる存在から湧き上がるもので、善なるものへの力強く完全なる願いであり、対立も葛藤も存在しない統一の原理の善を願う気持ちです。妨げられることなくこの願いが他者の最も深い部分に直接流れ触れるとき、相手の内なる存在に新たな衝撃をもたらす鮮明なエネルギーと力が生じます。「祝福」という言葉が使われるたびにこれからは、それが直接的なものであれ副次的なものであれ、それが効果的であるためには皆さんの反応が必要だということを頭に置いておいてください。大きな助けとなることでしょう。双方の力が出会うためには、あらゆる意味で開かれた心と、やる気、そして内なる協力が必要です。なぜなら一方通行の祝福は祝福ではないからです。祝福は意図されたものだったのでしょうが、抵抗や対立、もしくは一見穏やかであっても実際には動きのない無表情かつ非協力的、そして中立から動こうとしない壁にぶつかり反響しているのです。
今日のテーマは成長のプロセスです。成長のプロセスとは何でしょうか。理解を試みてみましょう。今日のレクチャーはこれ以前に行った複数のレクチャーの続きであり、先だったレクチャーを知らない方々にとっては理解することが非常に難しいのではないかと思います。少なくとも部分的にはそうでしょう。以前のレクチャーをまだ知らない方々におかれましては、今はただベストを尽くしていただき、付いていくのが困難なところに関しては後ほど以前のレクチャーを読み、埋めていただければと思います。
これまでのところを簡単に要約しますと、統一の原理と二元性の原理について話しを進めてきました。人類の意識や知覚、そして経験は一般的に二元性の原理に基づいています。すべては両極の形で知覚されているということです。善と悪、望ましいものと望ましくないもの、生もしくは死といった具合です。人類がこの二元性に生きるかぎり葛藤と不幸は免れません。絶対的で普遍的な宇宙の真理は例外なく対立のない統一にあります。対立を信じることは幻想だったのだと気づくことになるのです。
統一とはしかし、二元性の両極における良い方を実現することを指しているわけではありません。人はよくここで間違った道に陥ります。両極のちの片方を望むわけですが「救済」の道においてこれは不可能です。片方に抵抗し、もう片方に執着しているかぎり自己実現や解放(これはつまり統合の原理なわけですが)は達成できません。統合の原理の善は、二元的な生き方での善とはまったくの別物なのです。前者は両極を取り持ち、後者はこれらを分離します。個人的な問題を人が徹底的に理解するときこのことは、繰り返し確認することになるでしょう。今お話ししていることを理解するのは極めて重要ですよ、皆さん。両極のうちの片方を求めているということは、もう片方に対立しているということなのですから。こうした対立において魂は動揺し何かを恐れており、ここから統一の原理に達することは決してありません。
同じ内容を成長のプロセスという観点からお話ししましょう。人類の意識が二元的な知覚に囚われ超越できなければ、成長のプロセスとは非常にいかがわしく問題をはらんだものであることでしょう。今からの説明を聞けば理由が分かるでしょう。成長とは、時間と空間における動きです。つまり二元性という次元での成長のプロセスは自動的に、反対の方向へと動きが始まることを意味します。個人は生まれ落ちたその瞬間から死へと向かいます。人の中のひとつの側面が展開を始め、その最大の達成に向けて成長するとき、下向きの曲線が破壊性へ向かい、内在するその消滅へとより近づくのです。赤ん坊が生まれ徐々に大人に向かうその日から、死へと近づいていくのです。人がどのようなものであれ幸せに向かって努力を始めるその瞬間から、人は幸せの反対を恐れることになります。絶えず変化するリズムの中で、成長という周期的で永遠な動きは、必然的に常に反対の方向に近づくことになるのです。生から死へ、そして死から生へと、動きは繰り返されます。構築から破壊へ、そしてまた構築へと繰り返すのです。片側は、その反対を生み出します。
人が成長に抵抗する主な理由が今申し上げていることですから、これを理解することは非常に重要です。心理的な奇癖や神経症を乗り越え、解消してもなお、成長に対抗するこういった根本的なものはまだそこに存在するのです。二元性の意識で物事を知覚するかぎり人が成長を恐れる理由の説明となっているのではないでしょうか。目標に近づくことで自身の破壊に近づくと恐れているからです。そこで人は時間に抵抗し立ち止まることで自分をどうにかごまかそうとします。望んでいる実現を延期することで、恐れているその反対の結果も先延ばしにできるからです。歪んだ形で停滞や不動の状態を維持することは動揺もしくはひずんだ動きを生み出します。
二元性という次元で成長が起こるかぎり、そこには頂点が存在し、頂点を過ぎれば動きは下降します。するとつまり、生きとし生けるものすべて、およびすべての側面は二元性という次元では生と死という永続的なサイクルにあり、上方から下降するカーブを描き、構築から破壊、そして存在しているという状態から何かに成ろうとする動きを繰り返します。自然界では、夏の結実に向けて春に植物が芽吹きます。そして秋になればゆっくりと枯れていきます。冬にはもう植物の姿はありません。生命の眠れる可能性が土の中でまどろむだけであり、春になり種がふたたび芽吹くのを待つのです。これが成長のプロセスです。つまりこのプロセスでは上向きのカーブを上がっているときでさえ悦びはその最大には達さず、不安なしの気ままなものであることはありません。なぜなら頂点に達する以前にすでに下降が予測されるからです。
統合された意識の次元では、拮抗する極の存在に恐れを抱く二元法はもはや存在しません。自己実現の道は常に統合の状態の経験と知覚に繋がっていなければなりません。逆に言えば、自己実現を置いて他には統一の状態をもたらすことができません。自己実現とは誤りの層を脱ぎ去り、真の自己または神聖で永遠の内なる存在が姿を現わすことを意味します。人が自分から逃げるのをやめてはじめて、痛みや誤り、混乱や限界という層を脱ぎ去ることができるようになります。自分自身に求める自分の姿ではなく、そのままの自分を見たいと望み、意図するときに起こるのです。一時的な今の自分の状態に葛藤するのを止め、今この瞬間の自分自身を受け入れつつも、その誤った性質を理解するときにはじめて起こるのです。これが、皆さんがパスワークというこの道で行っている作業です。
地上の存在でありながら統一を知覚することは不可能だとするのは完全な間違いです。これはまったく可能であり、自分の意識を拡大したいと望む人皆に可能なことです。自分が持っている限定的な考え方の真実性を疑ってみること、置き換えは不可能であり結果も決まっているとする仮説が正確なものかどうか疑問を投げかけてみるという非常にシンプルなプロセスなのです。これはまた先程と同様に、人が自分自身の中の最も微細な気分や反応を正直に直視し、それらを簡潔な言葉に置き換えてはじめて可能です。こうすることで、自分の中の反応や反射、感情や気分は、これまで疑いもしなかった特定の仮説に基づいていることに気づきます。この仮説を疑わなかった理由は、それが曖昧さや安直な合理化という闇に隠されていたからです。皆さんが行っているパスワークが計り知れ合いほど重要なのはこのためです。日々の些細な不正直さや自己欺瞞、誤った仮定などは、パスワークの作業なしには疑問視されることさえありません。疑問視されなければこれらが緩み、新たな現実が創り出されるための余地が生まれることもありません。漠然とした引っかかりを正直に吟味し、その意味を正確に言葉にするとき、この引っかかりの基礎となっているひとつの概念の存在を確認することができるのです。こうなれば、疑問を投げかけることができるようになります。これをきっかけに知覚を拡げる一歩を踏み出すことができるのです。知覚を拡げることは、二元性の状態を越え統一の状態を知覚するのを可能にします。この作業は意識のすべての領域、すべての分野、人という存在におけるすべての側面に対して行わなければなりません。というのも自己の中の特定の領域ではこの統一の原理を実現しているにもかかわらず、その他の領域では二元性の幻想や痛みに深く埋没しているということもありえるからです。このことについては少し後にまた戻ってくることにしましょう。
知識を集め、理論的な理解を得、何かを学び、外的な目的に向かうことでは二元性から統一の状態への移行や自己解放は成し遂げられないのだといくら強調してもしきれません。今の自分と違った人でありたいと望むことで得られるものでもなければ、自分の内に存在しない何か別の状態を獲得しようと努力することで得られることでもありません。今という時に在ること、そしてすべてはすでに自分の内にあるのだ、混乱と痛みという層の後ろに隠れているだけなのだと見出すことによってのみもたらされます。強くそして瞬間的に経験されるこの隠された状態は、混乱や痛みの層を完全に理解することによってのみ解き放たれ、表面に浮上します。
生きとし生けるものすべての精神の内に存在するこの自然な宇宙の流れ、自分自身の中にも外にも存在しているすべてのものの内に存在するこの流れは、力強く湧き立つ生命の流れであり、自動的かつ自然と、対立も痛みを伴う葛藤も最早存在しない自己実現の状態へとすべてを運びます。そもそもこれが、自然な状態です。つまり皆さんの横には自然が付き添っているのです。この生命の流れに身を委ね、この自然な流れを知覚することを自分に許し、流れに身を置くことであなたの内に備わっている運命を促進することになります。しかし人は不幸にもこの素晴らしい自然な運命に抵抗し葛藤します。持ちえるすべての信仰心を対立の原理に注いでしまうのです。実際には存在さえしない「もし」や「でも」に力を注いでしまうのです。そして故に痛みを呼び込むことになります。すべての痛みは、つまるところ完全に不要です。今お伝えしていることは単なる言葉ではありませんよ、皆さん。この自己実現の作業の道を歩む者であれば皆、自分自身の誤りから少しでも進化に向けて歩を進めている人なら誰しも、今お話ししていることが真実だと分かることでしょう。この作業に熱心に取り組まれているここにお集まりの皆さんはひとり残らず、いかに自分が痛みのない自然な流れに不必要に抵抗していたかを、たとえ一瞬であっても、完全に理解した経験があるに違いありません。これを経験する瞬間、真実は決して痛いものではなく、自分を破壊し危険を及ぼすものではないと理解したのではないでしょうか。それなのに人は、痛みは避けようがないものだと信じている、もしくは自然と引き寄せられる統一の状態よりも痛みの方が安全だと信じているのでしょうか。痛みを大切にし続けます。
統一の状態に身を委ねれば、今お伝えしている言葉が完全なる真実であることが分かるでしょう。もちろん原理の説明をするとき、今ここでお話ししているような抽象的な説明ではじゅうぶんではないことは分かっています。皆さんがどれだけオープンであっても、言葉だけでは変容の助けにはなりません。ただし今お伝えしている言葉は、皆さんが行っている進化のための内なる作業では特に、人生における現在の立ち位置を知り、人生の内と外の状態を深く理解し、幻想や誤った考えを壊すための手段となりえます。幻想や誤った考えを壊す作業は、一見新しく、より進化した概念や哲学をまずは大切にし、次に自分がこれまで抱いてきた真実から遠くに位置する一般的な概念を捨てるという順序で始めることはできないのです。日々の不調和や引っかかりが生じる個人的で小さな誤りを壊すことから始めるしかありません。一見最も重要ではない問題が、恐れや無知が理由で誤りや対立、流れのない状態に自分がいかに乗じているかを見せてくれるものです。つまりあなたは自然な流れを止めているのであり、自然な宇宙の動きという、あなたがその一部を担い、同時にあなたの一部であるものを止めているのです。日々起こる自分の反応を極めて個人的に見つめることでのみ、ここでの言葉を個人的に経験する真実とすることができるのです。私が今お伝えしていることをたとえ理知で理解することができ、原理だけを口先で労ったとしても変容は起こりません。二元的で痛みの伴う対立の状態から統一の自由な原理へと変容を遂げるにはじゅうぶんではないのです。
繰り返します。二元性の次元での成長は常に、望ましくない反対側への恐れをはらんでいます。よって、望ましくない悪の反対としての望ましい善を成長の目標に掲げるかぎり、成長のプロセスには対立がつきものです。今自分の中で問題になっている人生の上での具体的な部分、成長させたいと望んでいるその部分においてあなたの意識が統一の状態を知覚し、理解し、経験することができなければ成長というものは内なる葛藤を生み出します。というのも、何に向かって成長をするのかということなのです。あなたが思うその成長の動きは、終わりを引き起こしはしないでしょうか。
統一の次元ではしかし、成長は対立によって脅かされることがありません。ですから恐れる、または反抗する必要がないのです。しかしこれは、反対側にあるものに抵抗することからは生じず、必要であればそれを心に思い描き、そして受け入れることではじめて起こります。人が片方の極を恐れ、恐れているのと反対のものに執着することがなくなるときはじめて統一の状態に達することができます。心に恐れがあるときには決して叶わないのです。統一の状態における成長のプロセスは、展開と拡大を絶えず増強し続くことを意味します。生存における美や生命、善が持つ無限の可能性という経験を拡げることを意味するのです。ただし覚えておいてください。ここで言う美は醜さの反対の美ではありません。生は死の反対の生ではなく、善は悪の反対の善ではありません。決して対立する何かに脅かされることのないものを指しているのです。
二元性の次元と統一の次元のふたつの成長の形は、それぞれにまったく異なる動きです。ひとつは上昇のカーブと頂点、そして下降のカーブを描く周期的な動きであり、ひとつ終わればまた次が始まります。有限または二元的な状態の成長のプロセスであり、常にふたつの極を表現します。原因と結果が機能している状態です。
統一の状態における成長はその程度のものではありません。それは無限であり、終わりがなく、繰り返すこともなく、決して反対の動きを必要としません。原因と結果の原理を超越し、その向こうにあるものです。ひょんなことからこの状態を一度垣間見ると、最初それがどれほど漠然とした内なる感覚として始まったものであっても(そしてこの掴みは人が自分の内なる誤りや自己欺瞞に個人的に向き合ったときに起こります)そこからはこれまでとはまったく異なる成長への取り組みが始まるのです。
二元性から統一の状態へと変容を遂げる道のりにおいては追加でいくつかの大切な事柄を理解する必要があります。今皆さんが人生に対して抱いている理解に新たなものをもたらしてくれるかもしれません。人が濃密な自己探求に従事しているとき、精力的に自分と向き合い、ひとつまたひとつと真実と対峙するとき、人は自分の内に新たな状態を築きはじめることになり、人の心理は意義深い激動を経験します。皆さんが今理解している過去や痛みは誤った考えの結果です。こうした誤った考えがその不正確さを認識する過程で崩れ始めるとき、この崩壊は多かれ少なかれ劇的な外的変化をもたらすことになります。人が移行期にあるとき、ある特定の層においてこの人は、統一の経験に到達し始めている可能性があります。望んでいた善がどうなったかにかかわらず、すべての瞬間に深い安らぎと悦びを感じるということです。生きているすべての瞬間は、悦びと平和の可能性を包含していることを知覚し、自分自身の真実と共にあることで恐れることは何もなくなり、何かに執着することも、またそれを頑なに主張することもなくなります。恐れる物は何もなく、すべての善は存在しているという生命の現実を伝え満たしてくれる神聖な源に心を開くことになるのです。強要することなくこの善を手に入れることができ、善は自分自身のものであることを知っているというまさにその理由から、それを手にします。善がなくなることを恐れてもいません。二元性のどちらの極からも悦びを引き出すことができるからです。もしも統一の状態を言葉で伝えうるとすれば、これがその概要です。
この状態ははじめ、個人の人生のある特定の部分に現れ始めます。しかしこれは、恐れ、畏縮し、葛藤する必要のない生命の真実はいつでも自分の中に存在しているのだという気づきへの完全なる移行を遂げたということではありません。統一の生とはこの先も変わらずこうなのだという部分的な経験をしたということです。この経験は最終的には人の外的な状況を調和のとれたものとして、問題のない有機的な形でどんどん大きく展開し豊かにしますが、こういったことは偶然のように映るかもしれません。
外的な状況の改善は、二元性の次元でこの人が考え、理想としていたものと一致することもあればそうでないこともあります。たとえ一致していたとしても、経験のされ方がまったく異なります。別の言い方をすると、二元性の次元で掲げていた目標と似たものを手にするかもしれませんが、統一の次元でのこの目標の経験は、はじめのそれとは違ったものになるのです。加えて、望んでいた目標が手に入らないときにも限界や誤りのある二元性の原理に従った現実を知覚していたときのようにこの人を苦しめる効力はありません。統一の状態へのこの成長は、自己や人生に対する安心感を増すという形で顕現することは確実です。すべての瞬間を生き生きと興味深いものにし、不安や退屈から完全に解放された穏やかな悦びとしても顕現することでしょう。統一の状態は可能性を豊かに携えています。すべての今という瞬間はこれまでに経験したことのない知覚への広がりゆく展望を含んでいるのです。
同時に、同じ人の中のまた別の部分では恐れや不信、不安や絶望、頑なな身勝手さなどの古い形の反応が残っています。こういった部分は大抵、深くに刻まれたイメージや神経症的な行動のパターン、誤解によって心理が苦しめられており、内なる像に変化をもたらすためには忍耐強い作業を続ける必要があります。しかしこういった残された部分も、とてもゆっくりではありますが、決して闇に脅かされることのない光の地という新たな場所に部分的にでも着地しているか、もしくはもうあと一歩で着こうというその他の部分に、いわば追いつくのです。
古い状態は誤りに基づいています。真実に基づく造りが構築される前にこうした誤りによるものは崩れなければなりません。誤った考えの上に成り立つ構造を崩壊する必要があり、これは避けることができません。片方の極はにべもなく不変的に望ましいものであり、その反対は望ましくないものであるとするのは、二元性の状態の虚偽性のひとつの良い例です。こうして人は構築とは常に良いものであり破壊は悪いものだという考えに執着することになります。両極の統合は(統一の状態)双方が調停してはじめて起こります。今挙げている例にならって言うなれば、誤りが破壊されることは望ましいことであり、誤りを構築することは望ましくないとも言えますね。
さてしかし破壊とは、それが望ましいものであったとしても例外なく痛みを伴います。誤りの体系が破壊される期間において人生は動転したものとなり得るでしょう。内的には脅威にさらされ途方に暮れ、外的には一見望ましい側面であったものさえも姿を消し、適切な代替もまだないように感じることでしょう。誤りに基づいて構築されたものが大きいほど、激動の期間の激しさも増します。痛い経験だと感じるのも無理はありませんが、自分は不十分であるとか、堕落だと誤解し推測するから痛いのですよ、皆さん。この誤解は落胆や絶望へと繋がり、新たな思考の状態へと人を運ぶ流れに逆らうことになってしまいます。そしてこの新たな思考の状態は古い状態の破壊を通してのみ起きるのです。この望ましく有機的な動きに逆らえば、痛みを伴う移行期はより長いものになってしまいます。そしてこの移行期が痛い主な理由は、移行期が何であるのか理解をしていないからです。人は次のように感じることでしょう「私はこんなにも多大な努力をしているではないか。それなのに見てくれ。こんなことが起こるなんて!すべては私の手からこぼれ落ちていくかのようだ。これやあれが達成できないばかりか、これまでに持っていたものでさえ私を去ってしまった」と。
古い形はあなたに何かを約束し、あたかも満足を与えるかのようでした。しかしこの約束が実現することは決してなかったはずです。古い造りが崩れることは望ましいことなのだとあなたが理解するとき、損失でも何でもないもののために涙することもなくなるでしょう。そして自分は進歩していないのだと欺かれることもなくなるでしょう。こうした状態はあなたが自覚している以上に、新たなる現実への進化の最たる証拠である可能性を秘めているのです。それなのに、この状態の重要性を知らないが故にそれを阻止しています。宇宙的な流れが自分をどこに連れていこうとしているのか、直観の知らせを猛烈に拒否し、限定的な二元性の考えに基づいて自分の人生を評価し続けることを望んでいるのです。故に流れを阻止するのです。
こういったことすべてに気づくと、今自分に起こっているのは堕落ではなく古いものが崩れているのだと、破壊は実際には新たな建設の始まりなのだと深く感じることができることでしょう。誤りの崩壊という出来事には建設と破壊を仲介する真の構築が含まれており、この仲介によりふたつは両極ではなくひとつとなります。つまりあなたはもう挫けることはなく、自分自身や自分の人生が何か違ったものでなければならないと苦しむこともなくなるのです。すべてはあるべき姿なのだと理解するどころか、すべては今あるようでなければならないと理解することになるのです!「私が在るべきところに在ったなら、こんなことにはならなかったのに」と損失や欠如をネガティブな兆しと捉えているときと比べ、実際の痛みはよっぽど小さなものだからです。ネガティブに捉えているときの方が痛みは大きいのです。代わりにこの過渡期を全体へと至る有機的な一歩として捉えるようになります。とはいえこれは、特定の問題に対する知的な解決を求めるべきではないという意味ではないので誤解しないようにしてください。そうではなく、すべての扉が自分の前で閉まり、現時点では解決策が見当たらない何かに自分が携わっているという感覚を人生がはっきりと示すとき、外的だけでなく自分の内からもそう感じるとき、こういったときには二元的な知覚という誤りに基づいた古い構造が崩れ始めているのだと確信してよいでしょう。この理解が進めば流れに逆らう代わりに流れと共に進むことができるようになるでしょう。
このトピックの延長の話ではありますが、もうひとつ皆さんにご説明しておきたいことがあります。説明が難しい内容ですので皆さんが持つ最善の直感と皆さんの中の最奥の存在の協力が必要です。加えて、皆さんがご自身の理知を信頼し、よくある二元性の混乱という誤解に陥らないようにしていただきたいと思います。
統一の状態には主にふたつの道から到達することができます。二元性の状態での両極から到達することができるのです。「善き」道を歩み経験することでも「悪い」側からでも到達することができます。もしもあなたの中に比較的内なる健康や真実と共にある状態があるならば、つまり比較的恐れから解放されており、自信があり、宇宙の温厚な性質を真に感じることができる部分があるならば、その部分においては完全なる健康や真実の感覚を獲得するないしは自分自身の内にそれを感じ、恐れや不信からは完全に解き放たれることも可能でしょう。これは生命の真実を静かに知っている状態であり、すべての善は自分のものであり、宇宙はすべての善を包含し葛藤とは無関係の豊かさが存在することを知っている状態です。葛藤とは無関係の豊かさとは別の言い方をすれば、あなたの善は他の誰の善を邪魔することはなく、あなたにとっての善は他の誰にも悪をもたらさらないということです。このように人生や世界を経験する状態にあなたが達すると、自分の深い部分で統一の原理を感じることができるのです。これは恐れや対立、罪悪感なく起こります。自分はこれに値すると深く感じることで起こるのです。あなたが統一の状態に達成することで何かを奪われる人は誰一人としていません。また同時に、達成が成されないことにも恐れを抱くことはありません。あなたと他者の間には葛藤はなく無限の善が存在すること、そしてそれが統一だと分かるということです。
精神が懐疑心や恐れ、罪悪感や葛藤、誤りにまだ深く悩まされているところでは、今ご説明した方の道を選ぶことはできません。それにも関わらず間違った解釈のままこの道を進もうとすれば、それは人工的で操作的な行動にほかならず、自己欺瞞へと繋がるだけです。こういった試みは統一の知からくるものではなく、望みや目標を達成しないことは危険であるという二元性の恐れからきているのです。この根本的な誤りが、広く開かれた統一の状態の世界への移行という扉を閉ざします。あなたが不真実や歪みの状態にあるならば、つまり自分自身や世界に対して恐れや不信を抱いているならば、今の自分から逃げることを止め、自分が何を恐れているのかを受け入れることです。そうして初めて今の状態を超越することができます。統一の状態は対立とは完全に無関係ですから、自分が恐れているものに反対することを止めなければなりません。しかしこれはマゾヒズム的な自己否定の精神で行ってはいけません。代わりに、自分が恐れているものはもしかしたら恐れには値しないのではないかと問うという開かれた状態でなければならないのです。別の言い方をすれば、恐れているそのものに反対するのではなく、それを恐れさせている概念を疑う必要があるということです。
これは、望ましい方の何かが起こらないのではないかという恐れを放棄することと、ある程度直接的に関連しています。放棄についてはこれまでもさまざまな角度から幾度となくお伝えしており、魂が硬く窮屈である場合、内なる平和や調和に達することはできないと説明してきましたね。放棄や手放すといったことはくつろぎを誘発しますが、このくつろぎなしには神聖な内なる自己との接触は不可能であり、究極の現実の表現を思考が経験することもできません。ここでもふたたび強調したいのですが、放棄とは自己を打ち負かすことでも自己犠牲的な剥奪を意味するわけでもありません。単に恐怖と絶望をしている場所に気づき、その恐怖の根底にある概念を放棄しなければならないということです。ある特定の信念を頑なに握りしめているその姿勢を放棄しなければならないのです。明らかに破壊的であるにも関わらず、危険から自分の身を守っているのだと内的に設定しているその姿勢を放棄しなければなりません。あなたが最も望んでいなかったものに自分を暴くように感じるかもしれません。しかしこれは、自分が抱いている概念はその全体が幻想だったのだと分かるために手にしなくてはならない絶好の機会なのです。そうでないと恐れと葛藤という永続的な状態から抜け出すことはできず、それは終わることなく続くことになります。
人がとあることを達成したいと強く望んでいるとしましょう。これを達成するために考えうるすべてを行ってもまだ扉は閉じたままです。人生の他の部分では統一の原理という真実を経験している可能性もあるのですが、このひとつ事に関しては、望ましいものの反対に位置する恐れの中にいます。自分の内のこの部分に宇宙に限界はないという真実を被せようとしても(というよりはむしろそうすることによって、つまり恐れを覆い隠そうとすることによって)あなたの望みは達成されないままです。この状態を超越する唯一の方法は、この恐れの状態は最終的な形ではないのだと知り、一時的にこれを受け入れることです。外的な状況に表れている限界を受け入れるだけでなく、今この時点の制限ある自分の状態を受け入れるということです。現在の自分の状態への抵抗を諦め手放すとき、この状態が意味する真実を知り、対立し合う極を仲介することが可能となるのです。
統一の状態は恐れのない状態ではありますが、恐れているものに離れているよう強要することで放棄することはできません。たとえ一時的に成功したとしても、人は状況が永続的に固定された在り方であることに執着します。つまり恐怖は決して本当の意味でなくなりはしないのです。真に恐怖から解放されるためには、それを味わい、それは恐れるものではないと知ること、自分はそれに対処できると分かること、そしてそれでも人は本質的に無傷のままであると発見することです。この安全な状態をもたらしてくれる理論など存在しません。内なる行動のみがこれを可能にします。内なる行動とは恐れを調べ、試し、恐れに踏み入ってみることです。そして恐れる必要があり、遠ざけなければならないという主張を放棄することです。「あれを自分に寄せ付けないために、こちらを手にいれなければならない」と片方の極のみを大切にしようとする態度そのものが、恐れのない状態つまりは統一の状態への移行を妨げ、あなたを共に運びたいとする普遍的な流れへの抵抗へと繋がるのです。そしてこの普遍的な流れは、あなたの思考の動きがくつろいでいるときのみ、あなたを運ぶことができるのです。
自分が内的および外的に望ましくない状態にいるとき、自分の中のどこかに不真実があるということを覚えておいてください。これができれば不真実を見つけ出し、放棄するのに役立ちます。すると必然的に自分の中の深い場所では意識の上では大切にしていると思っているものに抵抗し、反対に意識では抵抗していると思っているものに固執していることに気づくことでしょう。自分が平和や喜びにあることを片方の極に対する恐れが阻止するときには必ず、その反対の像が存在します。たとえば意識的に死を恐れているとしましょう(これが直接的な意味で意識的であれ間接的であれ、どちらでも違いはありません)。強烈に生にしがみつき死を追いやり、死に抵抗しているとしましょう。この死という点においてあなたの中にはひとつの不真実が存在していると発見しないかぎり、統一の原理に到達することはありません。この不真実と関連して、生の反対を隠し持つことになり、密かに死を望むことになるのです(望む気持ちは直接的にも間接的にもなりえます)。密かに死を望んでいることに気づくとき、死にたいと望むべきだという意味ではありませんが、あなたは死に対する恐れを放棄することができます。
放棄を無理のない自然なものとするこうした深い層への気づきや、自己への洞察を繰り返し得ることで統一の真実を知覚することは、もちろん助けなしに成せることではありません。パスワークの枠組みのさまざまな側面が皆さんの手助けをしてくれますから、作業を比較的容易に行うことができます。そしてこの作業は皆さんが本当にそれを求めるときに可能になります。しかし皆さんは依然として一人残らず、何らかの形で今お話ししているような拮抗する両極に満ちています。こうした対立を見つけ、その存在に気づき、言葉に表すことが第一のステップです。ふたたびここで私の言葉を皆さんが誤解または間違って解釈しないことを願っています。皆さんの周りで起こっている不正や破壊を責任ある形で取り除こうと努力せず受け入れるべきだと言っているのではないのです。こうした外的な層のことに言及しているのではありません。破壊性をとってみてもそうですが、望ましいものの反対にある破壊も全体の一部となることができ、統一への架け橋となることができるということなのです。どのような概念であっても短絡的に受け入れる、または論駁するものではありません。ここでお話ししている反対側のものとは、思考や感情の状態に関係しており、今この時点では変えることのできない人生の側面や自己と関わりのあるものです。自分が何かに頑なに固執することでその反対に抵抗しているその様を知り、自分の中のどこで起こっているかを見つけるとき、それは統一の原理への成長の実体ある一歩をあなたが踏み出したということです。
ここにいらっしゃる皆さんおひとりおひとりに、普遍的な意識または現実の最奥の場所から湧く深く力強い願いを、このレクチャーの始めと同じく、ふたたびお届けします。この力に心を開きひとつになっていただければ、そして真実がどのような形で現れようとも抵抗はしたくない、自分の内の真実を追求したいという皆さんの内から湧く力によってこの力とひとつになっていただければ、私の願いは皆さんに触れるでしょう。この力の効果を、あなたは後になってはじめて感じ始めます。それでも、この力は内にある深い核の部分に絶えず流れ真に実在しています。
平和の内にあってください。あなたの内の深い場所、すべてがひとつであるその場所にあってください。
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