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No.145  人生の使命(呼びかけ)に応える  

Pathwork Guide Lecture No. 145
1996年版
1966年9月9日


人生の使命(呼びかけ)に応える
RESPONDING TO THE CALL OF LIFE


 親愛なるみなさん、こんにちは。私たちに与えられている祝福は、この肉体の内側そして外側両方にある真摯な願いと、この冒険に関わるすべての人の愛から来る強さと力です。

 新しい学びの年を始めるにあたって、私たちのワークとその目的を再構成した青写真のようなものを提示したいと思います。人は常に、私たちはどこへ向かい、それは何故なのか、という問いに対する動機と概念の明解な説明を必要とします。

 あなたが、もっぱらエゴと自分自身を同一視する限り、そして、自己の他の部分を無視し続ける限り、あなたは引き裂かれ、解決の見えないつらい葛藤に捉われ続けることになります。これは時に、耐え難い緊張と不安を引き起こします。この根本的な精神の不安感は、それから発生するすべての副産物とともに、あらゆる方法で追いかけてきて、あなたにつきまといます。 しかし、その目的自体には価値があるかもしれませんが、それらが根本的な恐れや無意味で無駄であるという感覚を取り除くことはできません。あなた自身の奥深くにあるセンターを見つけ活性化させたときにだけ、運命、つまり存在することの理由を満たすことができるのです。あなたが成しえることはどんなことでも、あなたがそうすることを選ぶなら、真の自己に気づかせ、そして存在の現実に気づかせてくれます。その時、そしてその時にだけ、真の安全と平和が内側からやって来るのです。それを見つけるために、外にあるエゴにしがみつくことをやめる必要があります。つまり、エゴだけを信頼することをやめ、内側で眠っている宇宙的自己を活性化するためのツールとしてエゴを使うということなのです。

 さて、みなさん、多くの人々がこのことを知っており、しばしばそれに表面上は同意をしています。しかし、これを理論的に理解することとそれを生きるということは、まったく違います。この道を進むためのワークは、意識的には今まで経験したことのない新しい自己が目覚めるのを助けるものなのです。この道は、それが実際に実現する方法を教えてくれます。

 人生は、使命への呼びかけを発します。それは、生きとし生けるものすべてに対して要求をします。多くの人は、この使命の呼びかけに気づくことはありません。あなた自身の幻想に気づくようになったときにだけ、それと同時に自己の内にある真実、そして人生の真実により多く気づくようになります。そして結果的に、あらゆる瞬間に人生の使命への呼びかけがあなたに何を伝えようとしているのかを理解できるようになります。あなたは、これに対してどのように応えますか?あなたの全存在をもって、それに応えますか?それとも、中途半端な気持ちでそれに応えますか。もしくは、完全に応えることを拒絶して、それを聞く耳も持たないのでしょうか。みなさん、これはとても重要な質問です。

 私がここで言っていることは、簡単なことのように聞こえますが、あなたが自分自身に対して正直に問いかけるのに役立つ重要なものです。あなたは本当に人生の使命を理解することを望みますか。それは、あなたに何を求めていますか?そして、あなたはそれに対して真摯に応えますか?

 人生の使命は、ダイナミックな動きで、流れのように感じられます。この人生の流れは、各個人により異なって現れます。それは、宇宙的であると同時に、極めて個人的なことでもあります。真の自己、そして絶対的な現実を目覚めさせることを目指すという意味においては、それは普遍的です。これに対しては完全に感傷を許さない方法で行われます。それは、個人的な愛着や社会的な配慮、そして個人的な痛みや喜びを含む重要ではない他のどんなことに対しても注意を払いません。

 もし、真の自己を目覚めさせることが、一時的にでも破壊のように思えることを求めるとすると、その破壊はむしろ、内面の真の生命の基礎となり、内面のセンターを目覚めさせるのに必要な準備となるでしょう。この目覚めが最も素晴らしい喜びをもたらすのであれば、その喜びの経験こそが、あなたが気づいているよりも、あなたが真の自己により順応していることの証しなのです。

 道徳的で自己破壊的な態度は、喜びをもたらすというただそれだけの理由で、運命や自己充足に対する抵抗を生み出すことがよくあります。それは自己実現が、つまりは喪失と自己犠牲を意味するに違いないという誤った考えを持っているからです。遅かれ早かれ、人生のこの状況が本当の自己へと向かう助けとならないのなら、それは必然的に破壊されるでしょう。本当の自己の目覚めを促すような状況は、平和や楽しみ、幸福、そして強い喜びをもたらします。それは、生命の流れです。そして、それはしばしばそれを見ることに対する人間のかたくなな抵抗によって妨げられます。

 人生の使命は、普遍的です。内面のセンターを目覚めさせるのに必要な態度は、普遍的な価値観に従います。真実、愛、そして美しさは、本当の人生の流れの普遍的な側面です。分離したエゴの存在もまた、すべての人に影響を与える一般的な状態です。しかし、エゴがどのように真の自己を妨げているのかは個人の問題です。普遍的なのは、生命の流れが自由に流れるのを可能にするために、人格の変容が必要だというその事実です。変容に関するテーマは、また後でお話ししましょう。

 このような普遍的な原則を知的には理解しているでしょうが、必ずしもそれを感じ、経験しているとは限りません。生命の流れを個人的な経験として理解し、それに応えるときにだけ、これは起こります。ですから真の自己実現につながる道は、どのようなものでも、極めて個人的であるべきで、極めて個人的な問題を取り扱うべきなのです。一般的な真実を受け入れ、より多くの真に満ちた信条を集めることでゴールにたどり着けると信じている人は思い違いをしています。そのような人たちは、今この瞬間の自分が何者であるのかという真実を見たくないがためにそうしているのです。つまり、自分自身についての理想化した概念の方を選んでいるのです。まさにこの回避こそが、ゴールそのものから彼らを遠ざけ、自分自身を見たくない、恐れや認めたくない感情を経験することを許さない、何よりも自分の人格的欠点の変容を望んではいないということを正直に認めることを遠ざけているのです。生き生きした人生、無限の豊かさや永遠に続く計り知れない可能性、そして究極の知恵や喜びとともに手にすることができる本当の自己活性化は、恐れずに自己の真実をつかの間でも見てみようという勇気に応じて起こります。これは、あなたが何を感じているのかを感じる、ということを意味します。つまり、承認を得るために注意を引いたり、それを求めたりするのではなく、人生に貢献したいという欲求のためだけに、より良い人間に変容する勇気を持つということです。変容というそれ自体の目的のために周りの障壁が克服された瞬間、すべての豊かさを持つ本当の自己がはっきりと姿を現すでしょう。

 それらの障壁のひとつに、今のあなたでいることに対する恥があります。その恥は、あなたを孤独にさせる秘密主義という壁を作りあげます。この孤独は、否定されたり正当化されるかもしれません。つまり、この孤独を他の状況のせいにするかもしれません。実のところ、自分を、そして他者をあなたから分離させているのは、自分自身からも他者からも隠れていたいというあなたの願望なのです。あなたのマインドの深いところでは、あなたは他者と違うこと、そして自分はもっと悪いのではないかということを恐れており、他者との違いの恥ずかしさを露にすることができないのです。この隠された確信そのものが、分離という幻想にあなたを追い込み、精神にとっての癒しの環境を与えてくれる普遍性を発見するという恩恵をあなたから奪っています。もう一度言いますが、これは理論的に理解することによってではなく、まだあなたが目をそらしているこれらの領域を実際に経験することで成し遂げられるのです。これらが、まさしくあなたと人生の流れを分離している主たる障壁なのです。あなたのまわりの外的な環境がどれだけ望ましいものでも、内面に隠されたこの孤独を取り除くことはできません。このような孤独は、恥によって隠された高慢さを克服するときにはじめて癒されるのです。高慢さを乗り越える極めて個人的なワークが、普遍的な真価への気づきをもたらしてくれます。それは、あなたに人生の流れとともに生きる勇気を与えてくれるのです。

 宇宙的な自己は、しばしば人間のエゴの人格が決めた外的なルールと矛盾することがあります。ですから、人がどれ程服従することや社会的な法に対して抵抗したとしても、彼らは、服従とその服従が要求する降伏、そしてそれに対立する抵抗と反逆との間にある二元的な葛藤に深く沈められたエゴの人格にまだ閉じ込められているのです。エゴの作った外的なルールの束縛からの解放は、従順さも抵抗も必要としません。宇宙的な自己は、内面の価値観-社会が決めたことに一致するかも、一致しないかもしれませんが-によって行動します。どちらの場合でも、内面の価値観に従っている人は傷つくことはありません。たとえ一時的に混乱があったとしても、そのような人はより全体とひとつになっていきます。

 解決の手かがりとなる鍵は、思っている程隠されているわけではありません。世間的な意見とは無関係に、特定のその問題に対して、それが愛と真実からなされているのか、あなたが嘘偽りなく誠実に成り行きにコミットしたかどうかをただ尋ねてください。もう一度言いますが、あなたは、恐れや高慢さ、そしてエゴの身勝手さを手放し、どう見えるかを気にすることなくあなたの内面の神聖な声に向かって努力しますか。この道はいつも開かれており、あなたがそれを選択するときはいつでも、エゴとの葛藤からあなたを解放してくれます。この解決方法で、痛みと不安が軽減されます。答えはいつも、必ず葛藤を解消し、平和をもたらしてくれます。

 人生の使命は、人が固く守り続けたり、敵対したりする表面的な道徳観には無関心です。このような道徳観は、非難に対する恐れに基づいています。人は、マインドの中で、善というのは欠乏と同じだと思っているがためにそれと戦います。人生の使命は、外面上の見掛けや近視的な感傷も無視します。すべての人を生まれ持つ権利へと向かわせます。なぜならそれが完全に普遍的な価値観に基づいているからです。大切なものは、全てその中に含まれているのです。

 運命は良いものしかもたらさないというのに、なぜ人は、その運命を成就することと戦い続けるのでしょうか。人生の使命が、安全やよいこと、豊かさや喜びのすべてをもたらしてくれるのに、あなたはなぜその声を聞くことに抵抗するのでしょうか。ここに人間の悲劇の戦いがあります。一方で、あなたは存在に対する不安感に悩まされています。外的な自己を完全に擁護し、それゆえに外的な価値観に唯一の忠誠を示す限り、人生を無駄にしていると感じます。そして、もう一方では、不幸の状態を維持し続けることに力のすべてを使っています。事実、あなたは、あなたとエゴの同一化、つまり外的なやり方、外的な行動、外的な信念、外的な逃避を強化する方法をさらに探し続けています。時として、あなたは内面深くからの声に耳を貸さないことに成功するかもしれません。しかし、ほとんどの場合、あなたは深いところで不安を感じ、それを理解することを拒んでいるのです。

 意識的に、そして意図的に意思決定をし、真の自己を活性化させるという本来の目的のために人生を生きると明確にコミットする人だけが、たとえ内面にある間違いが完全なる自己実現を妨げている時でさえも内面奥深くにある平和を見つけることができます。

 この言葉を読んでいるみなさん一人ひとりが、あなたはなぜこの道を進んでいるのかを自分自身に問いかけてみてください。人生の目的は何ですか。あなたができる最善の方法で生きていますか。あなたは、不愉快な程に人生を邪魔していると感じている特定の症状を取り除くために、この道においてワークをしているのですか。確かにそうすることはあなたの自由です。しかし、このことについてのもっと深い意味に気づいてください。あなたが真の自己活性化に無関心で、恐れているがために、エゴとの同一化によってもたらされる結果を取り除くことだけを目的としている限り、根源にある病の他の症状が表れるでしょう。たとえ、痛みや喪失の一時的な状態は取り除けたとしても、完全な幸福に到たちすることはできません。このふたつのゴールの間には、大きな違いがあります。真の自己の内面のセンターを活性化させるという方向へと完全に自己を向かわせない限り、真の安全や平和、幸福を知ることはできません。同様にあなたの内にある潜在的な可能性の宝庫を使ったり、あなたの役に立つ宇宙の無制限の資源を使って自由を経験することもできません。このどれもができず、なれるはずの自分になれないでいることは終わりのない苦しみであり、あなたはそのことに対して何か行動を起こす動機を持つために意識的に、あえてそれを経験することが必要なのです。

 それに対し、エゴを追い求めることは、たとえあなたがどんなに素晴らしいことを成し遂げたとしてもあなたに平和と安心、そしてあなたが成りうる最善の存在であるという感覚をもたらすことは決してありません。エゴの欲動は、他者を支配する力を与えてくれるように見えるかもしれませんが、自主性や独立心を与えてくれることは決してありません。ですから、遅かれ早かれ他者を支配するという幻想は、偽物であることが露呈されます。

 助けを求めるすべての人、そして彼らを助ける人たちに、あなた方の目的をとても明確に定義することをお勧めします。目的は何ですか?どれくらい先まで行きたいですか?自己を完全に捧げると誓いますか?それから、取り除きたい特定の症状を視覚化してください。どのような障害も、排他的なエゴとの同一化からもたらされる基本的な苦しみの症状にすぎません。ノイローゼ、病気、ゆがみ、不幸、たとえどんな名前がついていたとしても、です。あなたは、自由にその症状をただ取り除くことができます。症状を取り除くこと自体があなたの将来にとってどのような意味を持つのか考えてみてください。その後に何が見えますか?もっと多くのことが可能だということを心に描くことができますか?そのもっと多くのこととは、どのようなものですか?これらのこととどのような人生を送りたいですか?もしくは、本当の自己を見つけることに完全にコミットしますか?それは可能ですか?

 これについて真剣に考える人やこの重要な質問の全体の意味を適切に理解し自己を欺くこともなく明確に質問ができる人は、全存在をもって人生に応えていくと私は信じています。それでは、真の自己に対するコミットメントについてお話ししましょう。

 あなたは特定の瞑想を通じて、宇宙には無限の善があり、あなたが宇宙に対してオープンになれば、あなたはそれを手にすることができることをある程度経験しています。この真実を疑いの影もなく鮮明に経験することも何度かありますね。あなたはそれが、偶然の一致でも幻想でもないことを知っています。それは事実であることをあなたは知っているのです。この時、あなたの全ての言動は、明快で自由でリラックスしています。あなたはあなたの真実を深く確信しており、それを信用しています。あなたは自分がそれに値すると感じるので、充足から逃げることもありません。だからこそ、充足は訪れるのです。全存在が、ポジティブに共鳴しあい、何の葛藤もなく建設的に振動しあうのです。あなたは、美しさを経験したいと望むことに対して身勝手さを感じることもなく、最善の自己を抑えることもありません。

 しかし、ときどき物事がこのように働かない場合もあります。人生の特定の領域では、すでにこのようなポジティブな表現を経験していたとしても、他の領域ではいまだ問題を打開できていません。このような画一的な善をエゴの人格で手に入れようとしてもうまくいきません。真の自己が活性化していない領域では、豊かな宇宙への扉は閉ざされたままなのです。これは、どこかの恐ろしい権威が、あれこれ特定のことを実現することに対してあなたにその値打ちがないなどと決めているのではなく、単純に、あなたの内にある何かが道を遮っており、その何かを見つけ出せば、それを取り除くことができるということなのです。

 障害が何であれ、それはあなたにエゴを手放させることを怖がらせ、あなたを外的なエゴに集中させ、それに合わせたままの状態でいることになります。この外的なエゴは、二元性の中ですべての善が統一された世界から分離しているので、その世界とは相いれません。エゴは、常に二元性の中で、もうひとつの好ましくない側面としてそこに存在し、部分的にだけ善として開かれることがあります。この好ましくない側面は、完全に無意識に善に対する願望を弱めます。エゴを手放すことを邪魔するものはどんなものでも、それが完全に明かされ、理解されたとき、常に人の誠実さを害し人格構造を歪めるものだということがわかります。つまり、内面の深い意識は、善に対して値しないと感じており、そこから逃げようとしています。この人格的欠点そのものが、善は存在するのにそれに協調できなくしているのです。

 完全な自己だけが、完全なる善とつながり、ひとつになることができます。これは、今すぐにでも試すことができます。あなたが取り組んでいる問題、例えばあなたが変えたいと望む外的な問題や乗り越えたいと願う内面の状況などを取り上げてください。そして、瞑想し、自己を拡張し、完全なゴールに達するのです。この完全なゴールを求めるのです。そんなことは不可能だと感じてしまうことがいかに多いか!今これを試すのです。

 そのゴールを本当に望んだとしても、それは不可能だとあなたはまだ感じています。ここにあなたが通り抜けることができない壁があります。この壁は、どのような状況においても、無視されたり、取り繕ったりされるべきではありません。この壁の「ノー(いいえ)」を乗り越えるために意志の圧力を使ってはいけません。このような強制的な意志は、内面の本当の自己からあなたをさらに遠ざけ、すべての善を手に入れることができる人生の現実からも遠ざけます。それをする代わりに、その壁の意味を理解しようとしてください。明確な言葉に置き換えてください。ゴールを手に入れられるということを疑っているのか、それを手に入れることに対して罪悪感を持っているのか、それに値しないと思っているのか、もしくはそれを手に入れたとき、人生が要求してくるものを恐れているのか、いずれにしてもまだ最終的な答えには至っていません。あなたの内面で明らかにされないままに留保されていることは、あなたがまだ本当に向き合っていないか、もしくは、向き合いたくない人格的欠点とつながっています。なぜなら、あなたは、それを手放したくないからです。

 人格の変容は、エゴとの同一化を軽減するためにも絶対的に必要です。私が「軽減」という言葉を使うとき、それはエゴを完全に手放すという意味で言っているのではありません。内面の存在を見つけるために、それを道具として使い、内面の存在とエゴが統合するのを許すということを意味しています。このような統合は、特定の人格的欠点が変容したとき、もしくは、人がその変容を偽りも言い訳もなく心から望むときにだけ可能だということを明解に理解すべきです。ここに見せかけや口実のない完全なコミットメントがあります。このことが人生に対する完全な応えとなるとき、人生の流れは認識できるものとなり、その賢明なガイダンスや深い意味は、あなたの人生の中で力強い存在となるでしょう。

 とても長い間、互いに依存し合っている間違い、誤解、欠点を見つけだすことに力を注いできました。実際に、私たちは自己を裁いたり、自己に道徳を説くことのないように常に注意をしてきました。なぜなら、自己に道徳を課すことは、障害にはなっても助けにはならないからです。道徳に沿って生きることと自己を変容したいという欲求との違いを明らかに理解しておくべきときが来ました。多くの方が今、この違いをハートで理解できるところにいると思います。これを理解することは、とても重要なことです。

 裁いたり、道徳的になったり、完璧さを求めることは、外的な基準に価値を置くときに起こります。このような行動の目的は、外的な基準に従って行動し、他者を喜ばせたり関心を引くことです。道徳は常に、他者に対して自分がどれ程正しく、良い存在で優れているかを示そうとしています。道徳的になるとき、あなたは、常に何かを証明する必要があるのです。どれだけの道徳が存在していても、それは単に見せ掛けだけのために存在しており、個人はそのような道徳に本当に関心があるからではないのです。他者の感情や正しさ、もしくは、本当の自己や他者の持つ自己の解放に表面上は同意をしているかもしれませんが、内面奥深くでは、これが動機ではありません。動機は、正しく良く見えることで、何かを証明することなのです。

 本当に人格的欠点の変容を望んでいる人は、外側の見せ掛けや、他者がそれを見てどう思うかにはまったく関心がありません。他者が見て称賛するかしないかではなく、ただ変容自体にだけ関心があるのです。偽り、傷つけ、苦痛を伴う道徳的な考え方、そして自己非難は、常に変わりたくないという深い内面の要求を隠してしまいます。ですから、道徳的であることは、苦痛を伴う内面の動きなのです。人はその欠点を手放すことを拒むので、問題となっている欠点を認識することは耐え難い程の苦痛なのです。道徳家は、彼らのネガティブな傾向を手放すことを拒絶します。彼らは欠点に対してとても不満があるので、どんなに欠点を見ようとする誠実な意図を持ち、道徳の高い基準を守っているように見えても、道徳的に生きることがさらなるネガティビティをもたらすことになるのです。

 欠点の変容の本当の欲求は、誤りを認める不快さ-それがどんなものであるかにかかわらず-に苦しめられることはありません。なぜなら、変わりたいという願望はまさに本物だからです。この欲求の中で、あなたは、あなたの存在そのものを人生に捧げることを願うので、宇宙に対する愛を表現していることになります。このような確固たる決意は、理解されるべき欠けた部分がまだあるために今すぐに変容することができないとしても、あなたのハートに喜びをもたらします。みなさん、これを、パスワークを続けていく上での尺度にしてください。あなたが発見したこの歪みが、深く魂を傷つけ、絶望的にさせ、欠点を変容する自分の能力に失望させるとき、あなたの存在の深いレベルでは、この傾向そのものを手放したいとは願っていないことを理解してください。それでは、先に進み、それがなぜなのか見つけだしてみましょう。

 人格がポジティブな魂の動きに合っているとき、人格的欠点の変容に対して何の障害もありません。結果として、あらゆる人に向けて開かれている宇宙の善の無限の豊かさに対して何の障害もないのです。古くからの否定の代わりに、完全な肯定の中で自分を前に向かって流れさせることによって、この内なる動きにまかせてください。この内面の動きが生じるとき、そしてあなたが与えたり受け取ったりする準備が整い、リラックスした態度で世界を進むとき、変容は危険に満ちたものではなくなります。それは、素晴らしい冒険のように思えるでしょう。

 ですから、無限の善や、あなた自身の内にある創造の力に到達したいというあなたの欲求の中で身動きが取れないのであれば、自分が欲求を表現することにおいてどこでネガティブになっているのかというだけでなく、執拗なネガティビティとあなたがどこで繋がっているのかをも見つけ出してください。そこには必ず手放すのと同じくらい難しい人格の欠点に対応するものがあるはずです。それが見つけられない限り、そのネガティビティは残ります。このネガティビティが、内面の創造の力と同様に、自己を開放すること、表現すること、そして幸せを感じることをあなたに許さないのです。この考え方があなた方にとって鍵となるでしょう。

 長い間、私たちは主にあなたが否定し、打ち消してきた欠点や幻想、つまりネガティビティや破壊性を明らかにすることに関心を寄せてきました。これは、とても重要なことでした。さて、今、このワークにおけるふたつめの重要な段階が予定されています。それは、自己を宇宙へと解放する練習をするための段階です。

 成功するときはどんなときでも、あなたは内面では自由で、経験したことのないような新しいことがあなたの人生に実現するのを見ることができます。しかし、あなたが遮られると感じ、信じることができず、進むことができない場合、あなたは自己の中にまだ明らかにできていない、あなた自身の深い部分を見つけだし、有害な道徳によってドアを閉じるという過去の危険を招くことなく、それが人格構造の歪みであることを認識するでしょう。この点においてあなたの自由は、瞑想によって得られる内なる誠実さを再度試されることとなる変容への決意に向け準備を整えることです。

 あなたは、どれくらい深くこの変容を望みますか?あなたは、なぜまだそれらの欠点の変容を拒んでいるのですか?本当にそれらを変容する準備ができたとき、もはやドアは閉じてはいないことをあなたは発見するでしょう。無限の宇宙へと向かって開かれるのを感じるでしょう。あなたは自己を宇宙に拡張することができ、その結果、自分には価値があり宇宙から受け取ることができることを感じるでしょう。そして、あなたが望むよきことは、影の部分を持つ必要がなくなるのです。

 その時には、あなたは本当に価値を理解し、偽の道徳を捨て去るのです。あなたが真に欠点の変容を望めば望む程、付け加えられた外的な価値は必要なくなります。完全な反応とコミットメントを要求する人生の使命という視点からみると特に、それらは大抵無意味なものなのです。

 それではあなたはなぜ人生への完全なコミットメントをそんなにも恐れるのでしょうか?エゴとの同一化を手放すことをなぜそれ程怖がるのでしょうか?あなたを豊かにしうるポジティブな顕現をなぜそれ程恐れるのでしょうか?なぜ善に抵抗し、痛みを伴う苦悩や解決のできない葛藤を維持するために戦うのでしょうか?あなたを自由にする善をなぜ恐れるのでしょうか?なぜ、小さく外的な自己や、小さな外部の価値観に拘束されているエゴを信じるのですか?この質問に対しては、見方によっていくつかの答えがあります。最初に、次のアプローチを見てみましょう。

 あなたがより大きな現実に疑いを持ち、それに賭けてみようとしてないとき、あなたは二元性の世界にとどまっています。ご存じのように、この二元性の世界は、次のような対立に特徴づけられます。「もし私が非利己的であれば、私は苦しまなければいけないことになる。私は苦しみたくない。しかし、もし私が利己的であれば、私は拒絶され、軽蔑され、愛されずひとりぼっちだろう。そしてこれも苦しみである。」この葛藤の中で、あなたは解決法を探して行ったり来たりします。あなたがこのふたつの選択肢の中で、避けることのできない「真実」を信じれば信じる程、その真実に基づく人生をさらに経験することになります。あなたは、あえて非利己的でいようとしないのです。そしてまた、完全に非利己的でいることを望むこともできません。なぜなら、あなたは個人的な充足感と幸せだと思っているものを手放さなければならないと信じているからです。かといって、自己中心的な人生を完全にコミットすることもできません。一部は、絶えず存在する真の自己によるものであり、他の部分では、世間の目を恐れているからです。これが、この意味のない葛藤の悲劇なのです。エゴの理屈の価値観やルール、概念とあなたを同一化させ、それに自己を委ねている限り、その罠から自分を解放することはできません。

 変容を望むとき、あなたは利己的であることや、どんな形であれ人生や自分自身や他者をごまかそうとする欲求を手放したいと望まなければなりません。その変容が、あなたの望むものすべてを犠牲にすることを意味するとき、あなたはこの危険を冒すことはできないでしょう。しかし、最も苦痛な状況は、どっちつかずで決断できないことです。これは、すべてのレベルに対して言えることです。現実のエゴのレベルを乗り越えていない以上、それはあなたの運命なのです。満足感や非利己的であることと調和させることができず、だからこそあなたはどっちつかずのままなのです。あなたは、ふたつの見解の間で揺れ動いているのです。もし多くの人々が自己本位の人生に完全に自分自身をコミットすることができたら、それがどこにもたどり着かず、ふたつの見解の間でいい加減に探している救済にも行き着かないことが理解できるので、すぐにそこから抜け出すでしょう。

 あなた方一人ひとりが、まさにこの葛藤の中にいます。すべての問題は、この二元性が表出したものであり、二元性の直接の結果なのです。あなたの問題を観察してください。十分に深く調べれば、それが事実であることが分かると思います。あなたは、より大きくより賢明な自己からの衝動を恐れています。しかし、不利な状況が自分の決断によってもたらされると信じる限り、その自己に対して心からコミットしたいと思うことができません。

 あなたの欠点が克服されている場合にだけ、あなたが宇宙の善に到達し、受け取ることができることは、一見、褒美と罰という概念のように見えるかもしれません。この概念は、先に私が説明したプロセスの歪みと言えるかもしれません。褒美と罰は、個人の行動や態度への当然の報いを与える外部の権威を含意します。褒美と罰は、大抵あの世で与えられるとされています。
しかしながら、私が説明していることは、個人の人格の中で起こっているメカニズムなのです。最も奥深くにある自己は、最善のものを与えることを拒んでいる一方で、最善のものを手に入れようとしているという不一致に気づいています。さらに言えば、人が最善のものを与えることを望まないとき、最善を手に入れることは人が恐れている重荷なのです。逆に言えば、最善を与えることを犠牲や不利益に結び付けて考えるとき、人が最善を与えることは不可能なことなのです。この褒美と罰の中にある信念の存在こそが、非利己的であることは奪われることであるという深い失望を覆い隠し、そのため人は、愛すこと与えることへの完全な欲求を押しとどめるように強いられているのです。褒美と罰は、それがどのような形で存在していても、二元性の中で知覚される耐え難い現実の代償なのです。

 本当の自己が活性化したとき、この葛藤は、もはや存在しなくなります。あなたの中にこの特定の葛藤が隠されていることが明らかになるとき、真の自己を活性化させることが可能になるのです。内なるセンターの現実の内側で、もはや分離は存在しなくなります。自己を心から与えること、愛すること、無私になること、謙虚になること、怖がっている子供の自己中心性を手放すこと、それがあなたにとって何を意味するとしても、他者が自由になるのを受け入れること、そしてそれでもなお敗者ではないということが等しく可能であることを発見するでしょう。そしてすぐに、敗者でいる必要はないという感覚は、勝者になることが可能であるという確信に変わるでしょう。まず、勝者でいることは可能だということを理解し、そのあとに、これが品位と密接に関係があるということも理解するでしょう。これはそうなるようになっているのです。なぜなら、あなたは両方を望むことができる程に十分に自由だからです。

 あなたが、自分の欠点の変容を引き受けるとき、あなたは十分に自分を好きになるので、あなたのところに来たいと願うすべてのよきものに対してオープンになれるのです。あなたがこの変容に成功し始めるとき、あなたは幸福に耐えられるくらい十分強くなるでしょう。あなたが自分を嫌悪するように仕向けるあらゆることを変容させるためのプロセスにいるとき、この自己嫌悪に気づいていてもいなくても、今でも他者に自己への憎悪を投影していてもいなくても、あなたは最善を要求することができるのです。そして、あなたは絶対不変の現実と真の自己の真実に気づくのです。そして、この拡張に制限はありません。このように開かれていくことで、あなたの直感は強くなり、信頼に足るものとなるでしょう。そしてその後、あなたは個人的な人生の流れの要求に耳を貸すようになるのです。それが外的な期待、規則そして価値と一致していてもしていなくても、あなたはその人生の流れの要求とともに進むための勇気を持つのです。あなたが内なる価値に沿って生きることを強く決意すれば、外的な価値はマインドの中で、そしてまた、あなたの人生に外的に現れることにおいて、その重要性を失っていきます。それゆえに、自分の人生が慣習やしきたりに一致していないときも、あなたにはもはや恐れることはありません。まもなく、外的な人生がその変化に続き、何の不和も生じなくなります。世界があなたと歩調を合わせるようになるのです。

 このレクチャーの中には、あなたにとってふたつの重要な鍵があります。これこそがまさに、一時的な障害から抜け出るためにあなたが探している核心となるものかもしれません。簡単に要点をまとめてみます。

(1)人生におけるあなたの目的は何ですか?この道におけるあなたの目的は何ですか?あなたはどれぐらい先に進みたいですか?あなたは、ただいくつかの症状だけを取り除きたいのですか?それとも、完全な自己実現、つまりすべての善があり、心配、不安、そして混乱からの救済が存在する内面のセンターの活性化を望みますか?もしそうなら、忍耐や完全なコミットメントといった代償を喜んで払いますか?完全なるコミットメントは、あなたの完全なる可能性を引き出します。あなたの奥深くにある存在の無限の潜在的な可能性が、無限の善をあなたに気づかせてくれます。

(2)あなたのポジティブな願いを妨害している正確な場所を見つけだしてください。そして、あなたの持つどんな人格的欠点が自己破壊的で自己否定的な態度を捨てることを許さないのかと問うてください。それを見つけだしたいということを明確に述べてください。いったんそれを見つければ、それをあなたが手放したいかどうかを決める時間がまだあります。もし、あなたが手放したくないのなら、なぜそうなのか見つけだしてください。あなたの誠実さや品位に反する何かにしがみつくことは、あなたが与えなければならない最善のもの、そしてあなたがなりうる最善の自己を妨げます。これは、自己尊重を阻害します。それは外的に現れる単純なものではないかもしれません。もしかしたら、あなたが気づいていようがいまいが、実際には常に誰かに害を与えているのにそのようには見えない隠されたかすかな狂いかもしれません。

 あなた方の多くによって鮮明に経験される進化は、あなた方の意欲とオープンさに正確に比例しています。進化がもたらすものについては、不思議なことは何もありません。なぜならば、意欲とオープンさとが存在するとき、この道はうまく機能するようになっているのです。あなた方の中で自分の進化に満足をしていない人は、自分自身に深く誠実に質問をしてください。「私は、どこでしり込みをしているのか。私は、どのあたりで進むことを望まなかったのか。どこで目的の明確さを失ってしまったのか。自分をさらけ出したくないために、今この瞬間に私がいるところと目的とのつながりをどこで失ってしまったのか」と。あなたは、恐れと恥ずかしさからしり込みしている自分を見ることを避けています。それは、あなたが自由への扉にバリケードをするために使っている必要のない障害なのです。

 進化し、来るべき新しい人生への興奮を感じているあなた方は、さらにもっと期待をしなければなりません。あなた方は今、あなた自身の力をより強めているのです。残存する幻想を取り除くため、そして、内面にある永遠のものや争うこともなく苦しむことも決してないものへと自分を向かわせるために、その力をもっともっと活性化していくことができます。あなたは、それを生きた現実として経験することを学んでいくのです。

 祝福を。前へと流れる強さと愛を受け取ってください。平和でいてください。神の内にいてください!



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