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No.146 人生に対するポジティブな概念 -- 愛することを恐れない -- 能動性と受動性の間のバランス

Pathwork Guide Lecture No. 146
1996年版
1966年10月7日


人生に対するポジティブな概念 -- 愛することを恐れない -- 能動性と受動性の間のバランス
THE POSITIVE CONCEPT OF LIFE -- FEARLESSNESS TO LOVE -- THE BALANCE BETWEEN ACTIVITY AND PASSIVITY


 親愛なる友のみなさんにご挨拶します。あなた方も、この時間も大いなる祝福を受けています。

 今日、私は三つのことについてお話ししたいと思います。一つ目は、人生と宇宙に対するポジティブな概念です。人生そして宇宙は人間の善なる運命を包み込む場です。二つ目は、何も恐れず自由に愛すること。それから三つ目は、能動性と受動性との間にあるバランスについてです。これらは、自分自身と調和し、自らの人生と協調していくための基礎となる包括的な全体性を形成しています。この基礎が形成されて初めて、人は自己実現をすることができます。そして、この三つは、みなさんがどれくらい目覚め、内なる中心、つまり私たちが真の自己と呼ぶ核を活性化できるかにかかっています。

 逆に、エゴだけが唯一、人生を動機づけるものである限り、人生の善なる本質についての自信を持つことは不可能です。恐れずに人を愛することも、能動性と受動性との間に健全なバランスを確立することもできません。まずは、これについてさらに詳しく見て行きましょう。

 人生に対する健全な考え方とは、つまり人生に対する真実に満ちた考え方だという意味です。人生に対する真実に満ちた考え方とは、完全なる善として人生を知り、そして体験することです。真実から離れてしまった人は、人生を敵意に満ちたもののように体験し、それから自分の身を守らねばならないと感じます。歩みの途上、自らの奥深くに存在する領域に到達すると、誰もが自分の中にある人生に対するネガティブな考え方を見つけます。

 自分の欠点と人生に対するネガティブな感じ方との間には、直接的な関係性があります。これらは常に相互に影響し合っています。人生に対するネガティブな考え方よって破壊的な力が発動し、あなたはその破壊的な力に駆り立てられ支配されます。たとえ自分がネガティブな考えを抱いていることに気付いていなくても、それは大きくなります。そして、あなたの持つネガティブな思い込みのために、あなたは人生から身を守ろうとし、破壊的な流れが浸透します。

 前回のレクチャーでは、性格上の欠点を変容させる必要性についてお話ししました。自分の中にある欠点を正すための最初のステップとして、まず自らの欠点に気づくことから始めなければなりませんでした。これは決して簡単なことではありませんが、適切な態度で取り組めば、それほど難しいことでもありません。特定の欠点に気付いたら、次のステップはその欠点がなぜ存在し、自分がなぜそれにしがみついているのかを理解することです。自分自身の奥深くを客観的に見つめれば、そうした欠点のひとつひとつが一種の防御壁のような働きをしていることが分かります。それが壁となって、身に降り掛かりそうな嫌なことから自分を守ることができると考えているわけですが、これを逆に言えば、その人は、きっと何か嫌なことが起きるに違いないと思い込んでいることになります。

 みなさんがいったんこれを見ることができると、三番目のステップに踏み出すことができます。それは、「悪いことが起きるはずだ」という思い込みが本当に正しいのかどうかを、自らに問いただすことです。自分の思い込みは正しいのだろうか?この欠点がなかったら、一体どんなことが起きるのだろう?このような質問を自分自身に投げかけ、自分の思い込みが間違っているかもしれないという可能性について、深く真剣に考えてみなければなりません。同時に、視野を広げて、その欠点の意味は何か、それが他者に対してどのような影響を与えるかについてもよく考えてください。自分の思考や感情の中だけでその欠点が表現されている場合、あるいは実際の行動として表されている場合、どちらの場合についても考えてみて下さい。自分の中の欠点を探し出し、そこに光を当てるためには、それが他者にどんな影響を与えているか、さらにはそれがどれほど自分を保護するという価値を持っているのかを疑問視する必要があります。そして、この欠点が自分を守ってくれることを確信できなくなり、さらにはそれによって得するどころか害を被っていることを見られるようになり、自分の欠点のせいで他者が害を被っていることをも見ることができると、そのとき初めてその欠点を維持するために使っていたエネルギーを新しい建設的な態度に使いたいと思うようになります。そして、その態度によって古い破壊的なエネルギーと建設的なエネルギーを置き換えることができるのです。

 変容は、必ずこのようにして起こります。これ以外の形で起こることは、まず考えられません。存在していることさえ知らないものを、どうして変えることができるでしょうか?自分がなぜそのような態度に強く固執するのかを知らず、その態度の持つ意味や影響を無視するならば、それを変容することはできません。それらを見ないで、ごまかし続け、曖昧さが存在し続ける限り、真の変容は起きようもないのです。

 このワークは、真の自己の助けがなければ絶対にうまくいきません。そして真の自己は、エゴの力を使って直接触れ、活性化されなければなりません。真の自己の助けがないと、変容に必要なエネルギーやスタミナを得ることはできません。必要なビジョンや悟りを得るための真の自己とのつながりは、常にエゴの力を用いて確立しなければなりません。

 今度は、恐れないということが愛するための必要条件である、という点について考えてみましょう。この道を歩み続ける人は、その途上のどこかで、人間の数々の受難や葛藤の裏には、愛することへの恐れがあることに気づきます。愛することへの恐れは、人によってそれぞれ違う形を取ります。同じ人であっても、それぞれの状況で違った現れ方をすることがあります。

 世界は、全体として、有史以前からすでに、愛の大切さについて気づいています。あらゆる真実の教えは、愛が自由と平和と生命を意味すると説いています。ですから、愛の欠如は奴隷状態、争い、そして死を意味するわけです。そして、愛の欠如は不安や焦燥や不幸といった感覚が作り出します。重要な霊的教え(これには、心理学や精神医学といった近代科学も含まれます)はどれも、これと同じ考えを唱えているのですが、それでもなお、人間はこの考えがどうしても受け入れ難いと感じ、自らの奥深くから沸き上がって来る流れのようなものに、恐れることなく全身全霊をゆだねることができません。なぜなのでしょう?その理由は、人間が愛を歪めてしまっていることにあります。存在のもっとも自然な形は愛ですから、愛の状態こそが、あらゆる存在のあるべき姿です。ですが、人間はそれを無理やり覆い隠し、わざわざ不自然な形に歪めてしまっているのです。すると、人は自分の中心から離れてしまいます。あらゆる自然現象と同じように、愛が優雅に、無理なく、自然に流れている場所から、わざわざ自分から離れていってしまうわけです。

 この愛の自然な流れをあえて止めようとする理由は、みなさんが愛を恐れているからです。愛の定義はたくさんあります。そして、人はみな、いくつもある定義の中を模索しながら、愛の意味を知ろうとします。そうすれば、愛というものを頭で理解し、外からやって来る愛を自分の魂の中に取り込める、と考えているからです。当然ながら、これは歪んでいるし、間違ったアプローチです。というのも、愛についての知的な概念や定義など必要ないからです。そして、もちろんあなたが外側で愛を作ることはできません。愛は自分自身の内側で完璧な形で存在しているのです。

 唯一役に立つ定義を挙げるならば、統合、融合、拡張、統一を進め、宇宙に備わる善なる資質を顕在させるものこそが愛であり、愛を永続させるものです。宇宙と生命に備わる神聖かつ善なる資質を蔑ろにし、それゆえに除外と分離へと向かおうとするものはすべて、愛とは正反対のものなのです。

 そして、愛と正反対にあるもの、それは生命がない状態です。それは、さまざまな程度の死を意味します。生命にさまざまな状態があるように、死にもいろいろな程度のものがあります。それでも人は生命を恐れ、平和を恐れ、愛することの自由を恐れ、自分を守るために生命のない状態という分離したエネルギーにしがみついているのです。

 この点についての理解が、近年、ますます急を要することになっています。というのも、自己実現への歩みを続けるみなさんの多くが、それまではまったく見てこなかったかもしれない何かに最近遭遇した、もしくは、もうじき遭遇することになるからです。みなさんの多くはこれまで、自分には愛がある、と自らを偽ってきました。また、自分が愛を拒絶していることを心の奥深くでなんとなく感じたとしても、その事実を直視せず、その感覚を真に理解しようとはしませんでした。精神障害を持つ人を除いた一般の人の場合、これでは全人格というには程遠い状態です。ほとんどの人は、愛することができる領域、そして愛することを恐れない領域を持っています。ですが、内的にも外的にも人生において問題が存在するところでは、どこかの点で愛することを拒絶しているがためにそうなり、かならずその問題とつながっているのです。

 このことに気づくと、自分の中の愛することへの拒絶と、自分が愛することができる領域とを比較するといいでしょう。両方の態度を、自分の人生でそれらがどのような結果として表れているかを含め分析し、比較すると、愛することへの恐れがいかに間違っているかを明らかにすることができ、愛することがどれほど安全で有益なのかを知ることができます。愛さないと決心している場所により近づいて調べると、愛に対する抵抗と一緒にあるもの、むしろ抵抗の原因になっているのは愛に対する恐れだ、ということも分かるはずです。この気づきはとても大切です。ですから、たとえどのような状況下であったとしても、この気づきを無視したり、適当にごまかしたりしてはいけません。「この点において、あるいはあの点において自分は愛していない。愛を恐れているからこそ、私は愛を望むことを抑え込んでいる」、このようにはっきりと、内なる気づきを言葉にして表現することが必要なのです。

 ただし、この時点ではまだ、どうして愛を恐れるのかという理由は分かりません。みなさんはここで狼狽し、困惑しながら、「私は何を恐れているのだろう?」と自問するかもしれません。このとき、ひょっとしたら、それらしい答えがいくつか思い浮かぶかもしれません。中には部分的に正しい答えもあるかもしれません。ですが、その一方で、お決まりの理論をもっともらしく述べるだけのものも多いことでしょう。もしかしたらその答えそのものが、愛すると自分がもっと傷つきやすくなるということを示しているかもしれません。けれども、もっともらしいことを言ったとしても、どこか納得できない部分が残るはずです。自分自身に正直になり、深く考えてみれば、この発言が正しくないことを認めざるを得ないでしょう。あるいは、自分が執念深く、他者や人生すべてにけんかを売っているという答えに行き当たるかもしれません。こちらの方が、あなたが見つける必要のある点に少し近いかもしれません。あなたはそれを十分に認識し、受け入れ、理解する必要がありますが、それだけで十分なわけではありません。

 この問題の完全なる理解に到達するためには、今日お話する三番目の点の理解が必要となります。ですが、それに向かう前に、みなさんに思い出してもらいたいことがあります。それは、真の自己の助けを借りずにエゴだけを使って、ネガティブな態度や概念や性格をポジティブなものに変えることはできない、ということです。というのも、変容には愛が必要だからです。愛はエゴの中に存在するものではありません。エゴは意志、区別、行動といったさまざまな働きをしますが、愛の機能は備わっていません。愛は内なる存在から沸き上がってくるもので、完全に内的な感情の一つです。だからこそ、愛を頭で考えることはできません。愛を概念に置き換えることや、知的プロセスで理解することは不可能なのです。多くの人々はそうしようと試みますが、うまくいくはずがありません。愛は一種の感情です。愛することへの完全なる許可を自分自身に与えるということは、内なる存在に気付くだけでなく、人生と宇宙をポジティブに捉えることを含みます。なぜなら、もし人生が敵意に満ち、人から何かを奪うものだということが真実だとしたら、愛もまた危険なものです。ですが、人生は善なるもので、人を解放し、人にすべてを与えるものであるならば、つまり、あなた方の敵ではなく味方だとしたら、愛することは安全であるだけでなく、平和の中に存在し、宇宙と調和して生きるためにできる唯一可能な方法なのです。

 ですから友人のみなさん、一方で愛することへの恐れと人生に対するネガティブな概念のつながりを見つけ、もう一方で愛することへの恐れからの解放と人生に対するポジティブで善なる概念と期待とのつながりを見つけることが本当に必要なのです。あなたが完全に現実と調和し、人生のある領域において信頼を確立し、その結果愛することの能力が十分に発達した状態にあるとしても、これらの領域を調べてみたいとは思わないし、それらの領域と人生の不幸な経験とを比較しようとも思いません。あるいはその反対もまた同じです。これらがどのように関わりあい、つながっているかを意識化し、できるかぎり観察しなければなりません。

 このように調べることによってのみ、人生に備わるポジティブな資質を確信することができます。そしてそのとき、あなたは隠匿、分離、憎悪、恐怖などを捨て去ることができるでしょう。さあ、自らを大きく開くのです。恐る恐るでもかまいませんから、思いきって人生の善なる本質を経験する機会を自らに与えてみてください。人生の善なる本質を経験するとはつまり、人間の善なる本質を体験することでもあります。なぜなら、両者は同じものだからです。

 さて、それでは話を戻しましょう。先ほどまでの二つと共に三角形の一角を占めるものは能動性と受動性との間の健全なバランスです。みなさんの多くは、それぞれの自己探究の旅路の途上、なぜだか分からないけれども自分が能動性に対して奇妙な嫌悪感を抱き、同じように行動を起こしたくないと思っていることに対して奇妙な嫌悪感を持っているということに気づいたことがあるでしょう。この傾向が他者よりも強く出る人もいますが、どんな形を取っているにせよ、あるいはどれぐらいそれが表れているにせよ、その傾向を理解することが必要です。受動性を求めているということは、その人が受け身でいることを望ましいと感じている、ということを意味しています。このような人は、受け身でいれば平和な状態が約束される、と勘違いしています。実際、多くの人は、「在るという状態(state of being)」と「受け身の状態」を混同しています。また、能動的であることは面倒くさいし、いろいろと大変そうだから、なるべくなら避けたいと願ってもいます。なぜなのでしょう?

 まずは、このような考え方が二元性によって生まれた歪みである、と理解することが大切です。バラバラに混在している統合状態の断片的な側面と、それらを補完する断片とを切り離していることの中に間違いがあります。人生を二元的にしか経験できないと、能動性と受動性が互いに相反するもののように見えます。ですが、最も高次の意識状態、つまり真の存在の状態において、能動性と受動性は不可分です。ですから、健全な能動性は受動的でもあり、健全な受動性は能動的でもあるというのは同じように真実です。二元的なレベルにおいてのみ、これが矛盾しているように見えるのです。

 これはたとえば、人々の日々の生活の中で実証されています。みなさんの日々の健全な能動的行動のなかで、リラックスし、楽に、無理強いすることなくできる活動、これは受動的な性質を持っているように見えますが、これらを思い出してみてください。真の意味でリラックスしていると、みなさんが行う外的活動は何かに邪魔されることなくスムーズに進みます。つまり、平和の心地よいリズムに満ちています。この平和の心地よいリズムというもの、もしバラバラになっていて部分的にしか体験せず、全体像を見ないと、それは受動性であるかのように思えます。

 反対の視点からこの概念を考えることもできます。あなたが健全な受動状態の中で自分自身を感じるときは、自分が動きのない、完全に止まっている状態にいるとは感じません。健全な受動性、つまりその在り方の中では、あらゆる動きは宇宙のリズムと同調しています。そして、宇宙のリズムと合う動きとは、先ほどの平和の心地よいリズムに乗ったスムーズな動きとまったく同じことなのです。

 能動と受動のバランスの原則は、あらゆる創造的プロセスの中で働いています。能動と受動の力が調和し、補完し合い、お互いの存在を助け合っているのです。これらの存在しない創造のプロセスなど考えられません。この原則は、「実在」の次元、みなさんが実際に機能しているこの次元で、みなさんの人生におけるすべての健全かつ目的を持った活動にも当てはまります。たとえば、仕事と余暇のとの間にあるバランスのような場合でさえ、この原則が働いています。つまり、一見対極にあるように見えるものも、それぞれに両方が能動的そして受動的な要素を含んでいるのだということです。健全な生命体から生まれる仕事は、労せず流れます。一方、余暇というものは、もしそれに動きがなく停滞しているとすれば、そこに人を元気づけるような活気は絶対に生まれません。もし余暇が何の動きもなく完全に停滞しているならば、それは死と同じです。そして死には活力などありません。生命だけが活力を持っています。何度も言ってきた通り、生命とは「動き」に外なりません。

 歪みと二元性の中にいると、能動性が動きのあるもののように思え、受動性が動きのないものであるかのように思えます。能動性は精神的緊張を強い、受動性はその緊張を解いてくれるもののように見えます。言い換えると、私たちは今、善と悪という二元性の話にまた戻ってきたわけです。ある側面は良きものそして好ましいもので、他方は悪であり、好ましくないものだということです。

 能動性は、往々にして望ましくないものとして経験されます。と言うのも、能動性には目標へと向かうこと、つまり責任感が必要とされるからです。それには成熟した人格を持つ「自己」(自分という個性)が求められます。それがあるからこそ自分の限界や人生で起こる困難に対処できるのです。自らの限界や困難を徐々になくしていく方法で、これに対処するわけです。もしあなたが自分のエゴと完全に同一化しているとしたら、行動することは何か恐ろしいことであるかのように感じられます。なぜなら、エゴは真の自己によって動機づけられ、支えられ、導かれることなしには目的を持って有意義な行動をする能力が備わっていないからです。エゴはそれ自体が自由に何かを要求することはできないのです。ですから、真の自己とコンタクトできていない人は、たとえ口ではどれだけうまいことを言っていても必ず、自分に要求されている行動に対して恐れを抱いているはずです。そうなると受動、つまり動きのない静の状態が望ましいものに思えます。なぜなら、それは何も要求してこないからです。おぞましく感じる期待も、義務感もそれにはありません。

 また、エゴとだけつながり、自分の中のより普遍的な部分を避けたり無視したりしていると、それは大抵あなたが受動性をも同じように恐れていることを表しています。というのも、そのような場合、受動的な状態は無力感を意味するからです。能動性が否定され、恐れられ、避けられると、必ずや受動的な状態というのは無力感を伴います。なぜならばそのとき、当然の、そして直接の結果として無力感に襲われることになるからです。自分の中にある宇宙の目的に合った形で目的を持って行動していないと、無力感を抱くことになります。自分のコントロールを越えた状況の餌食になってしまうわけです。結果的として、あるレベルでは、行動を起こすために求められていることを満たす力がないのではないかという恐れから能動性を避けている自分に気付くことになります。その一方、別のレベルでは、あなたは受動性を、それも健全な受動性さえをも恐れている自分がいることに気づくのです。なぜなら、あなたは健全な受動性と停滞した受動性とを識別することができないからです。そして過活動になり、真の自己から分離してしまいます。

 さて、友人のみなさん、今私が話したこれらの内容から、みなさんは、人生、つまり内なる自己(二つは基本的に同じものなのです)に対するネガティブな考え方との間にある非常に重要なつながりを見ることができるのではないかと思います。もしあなたが最も深くにある内なる自己を疑い、恐れているなら、真の自己にコンタクトしてつながりたいと思いますか?そうなると唯一の解決策は、外側のエゴ・セルフ(エゴと同一化した自己)にすべてのエネルギーと力を集中させ注ぎ込むことだけのように思えるのです。そうすると、あなたは最も深くにある内なる自己からも、それが与えてくれる生命力からもますます離れてしまいます。そのときあなたは、愛の状態に入ることを自らに強制し続けるようになります。世間があなたにそうすることを期待していると学んだから、というだけではなく、その人の奥深くにある良心の要求に応えようとするのです。その奥深くにある良心というものは、決して押しつぶされ抑圧されることはあり得ません。とても大事なことですが、あなたがそれをするのは、好意を得るため、愛を手に入れるため、他者から認められ、尊敬を受け、受け入れてもらうためなのです。それなしでは、生きられないのです。

 このように、人はエゴを使って他者を愛することを自らに強いるのですが、もちろんこの試みは必ず失敗します。以前にも言った通り、エゴにはこれらの力をあなたに与えることはできないからです。持っていないものを与えられるはずがありません。みなさんの中には、真の愛の流れが存在している部分があるはずです。それはすべて、あなた方一人ひとりの奥深くに存在する内なる自己から生じます。その愛の流れが存在することを、みなさんが意識のレベルで認めているかいないかは問題ではありません。したがって、これらの流れはあなた方の気づかぬうちに、つまり裏口からこっそり入ってくるかのように、みなさんの人格の中に入り込みます。ところが、あまりに固くこのドアにカギをかけていると愛は入ってこられません。あなたは愛に満ちた生命の流れが与えてくれる活力から自らを切り離し、その結果空虚感、無力感、失望、孤独といった感覚が増していきます。そこで、こうした感覚に何とか対抗しようとして、エゴを使って愛そうと大変な努力をすることになるわけです。このような努力はあなたを激しく疲弊させます。そして、疲れれば疲れるほど、能動性から後退り、疲れ果てたエゴにさらなる緊張を強いてしまいます。そしてあなたは受動性の中に逃げ込みます。そうすれば、緊張や疲弊から解放され、好ましい状態になれるように思うのです。ところが、受動性は決してあなたを満たすことはありません。それはあなたを空虚で不満足で、恐怖心ばかりが大きく膨れ上がる状態に追いやります。間違った解決法を取った場合、必ずこのような結果が生じるのです。受動性の中に逃げれば逃げるほど、無感動になります。と言うのも、この時点ですでに、元々は健全だった受動性が無感動という歪んだ形に変えられてしまっているからです。こうなる頃には、あなたにはもはや、生命を活性化してくれる動きも活動もほとんど残っていません。この状態を味わったことのある人はみな、無感動という停滞して生命力のない状態にいることの方が、生きることで生じる傷や痛みや不幸を経験するよりも遥かに恐ろしい、ということをよく知っているはずです。

 友人のみなさん、だからこそみなさんは真の自己にコンタクトする必要があるのです。そして、真の自己に本来の活動をさせるのです。たとえみなさんがどれほどの疑いや抵抗、そして恐れを抱いているとしても。あらゆる困難をすべてシンプルな一つの内的動きにまとめ上げていく、というワークに取り組むこと、それが主たる課題となります。真の自己とつながらない限り、人生の豊かさも、本来はあなたが手にすることができる大きく開かれた人生も見つけることはできません。そこでは、何も恐れることなく動き、成長することができ、自分の内なる真の存在を見つけるでしょう。真の自己を呼び覚まさない限り、みなさんに愛が訪れることはありません。ですので、あなたは常に孤独を感じ、不信感を抱くだけでなく、あなたの良心があなたに休息を与えることもできません。たとえあなたの人格のほとんどの領域に愛が満ちていて、愛さないという場所がほんの一部分だけだったとしても、あなたの良心があなたに休息を与えることはありません。そして、これはさまざまな形をもって現れ、その人が享受すべき利益を次々と壊していくのです。

 真の自己を見出し、つながりを確立すると、能動性は平穏に満ちたものになり、受動性は新しく生まれ変わります。真の自己にエネルギーが満ちていると、能動性と受動性は混ざり合って一つになります。そうするとあなたのあらゆる反応が意義深く、リラックスしたものになり、あらゆる活動がそれ自体で何かとても望ましいものとなるわけです。同じように、受動性も無力感からくる脅威を持つことはありません。それはあなたが自分自身、そして人生を完全に信頼しているからです。すべては、意図的で正確、かつ直接的に真の自己を活性化することにかかっているのです。

 私は、よく友人のみなさんが「真の自己とつながるなんて、本当にできたらいいと思う。でも、私にはまだその力がない」と言うのを耳にします。そして彼らは自分の内側かあるいは外側で奇跡が起こるのを待ち続けます。奇跡が起こってある日突然建設的に行動できるようになる、つまりこの場合は内的宇宙を活性化するということですが、そうなりたいと思うのです。今まさにここにある意識的自己以外の何かが、彼らを前へと推し進めるために仲立ちをしてくれるかの如く、彼らは待っているのです。当然ながら、そのようなことは絶対に起こりません。抵抗や疑念、あるいは恐れがあるとしても、「よし、やろう。やりたい。だから、やってみるんだ」と言える日が来るのを永遠に待ちわびることもできます。真の自己にあらゆる機会を与えることで、パワー、知性、感情、そして調和のまさに中心を見つけるというその可能性を探求してください。真の自己を見つけることにコミットしてください。たとえ今はそれが単なる可能性の一つにしか見えないとしても。この可能性が現実の経験になるための方法が他にありますか?理論ではそうならないし、外側あるいは内側で何かが起こってそうなることもありません。あなたがそれを自分で起こさなければならないのです。そう信じて進んでいけば、必ず真の自己とコンタクトすることができます。まずは一時的にしかコンタクトできなくても、真の自己は少しずつその姿を現すでしょう。これはあなたの側でしなければならないコミットメントです。

 このテーマについて何か質問はありますか?

 質問:私たちがコミットすべき生命の中心はオーラ体の中にあるのですか?それとも器官や組織といった肉体のどこかにあるのですか?

 回答:それはすべての中にあります。そしてそれは生命そのものです。生命は、開口部があるところにはどこにでも浸透しています。その生命の中心とは、どこか一か所に固定されているわけではありません。ですから、ある部分にたくさんあって、他の部分には少ない、などということもありません。時間と空間、そして動きに対する人間の幻想の中では、生命の中心は太陽神経叢の内側深いところにあるように見えます。確かに、生命の中心は太陽神経叢の辺りに最も分かりやすい形で現れますから、その意味では、みなさんの考え方が完全なる幻想だというわけではありません。そう見えるのは太陽神経叢の辺りが最も受容的で、感じやすく、最も開いている場所だからです。生命の中心は生体を形成するすべての層の間を流れ、あなたという存在のすべてを形成するあらゆるものを通って流れているのです。もちろんこれは、生命の中心が活性化されており、一切の邪魔を受けていないという前提でのことです。生命の中心が十分に活性化されていないと、それはあなたの人格の外側の層まで到達できません。肉体が病に侵されると、病気の直接的な影響下にある部分はしばらくの間不活動の状態に置かれますが、これはすべて、心理面と感情面のブロック、つまりさまざまな歪みや誤認に関係しています。

 肉体が病気になると、その人の行動や態度も病み、最後には生命までもが病魔に侵されてしまいます。すると真の自己がブロックされ、その光の放射がそれらのサイキックな領域にまで浸透することができなくなります。この点だけを見れば、真の自己が放つ光は外的な人格レベルまで届かず、そのとき真の自己は霊的なオーラ体の深いところでだけ見つけることができる、と言うこともできます。だからこそ、数年前にみなさんがこの道を歩み始めた頃、私は「まずはあなたの破壊的な態度を隠しているマスク・セルフを見抜かなければなりません」と言ったのです。みなさんはそれをとても怖がります。それは、その破壊的な自己が自分の本当の姿、究極の真実だと思い、良いところは表面的な見せかけだと考えるのです。まずこの戦いに打ち勝てば、破壊的なエネルギーの流れを外に出してしまうことができ、そしてその流れは本来の形、つまり真の自己へと戻すことができます。

 こうして、真の自己がその姿を現すのです。真の自己を現実のものにするには、これ以外に方法はありません。そうして、真の自己が外側の人格レベルを通して波のように沸き上がり歪みを癒してくれるのです。完全に自己実現している人は、肉体面、感情面、そして精神面を含む全てのレベルで真の自己に活気づけられています。

 質問:私は、愛が私に届いてくれるように、真の自己を活性化するための瞑想に取り組むところまで到達しました。それは、自分が霊性と肉体について間違った概念を抱いていたことに気づいたからです。ですが、私の中の真の自己は死んだままで、まだ活性化できていません。

 回答:それはきわめて自然なことです。あなたの中にあるこの恐れが、どれほど深くあなたに刷り込まれているのか、忘れてはいけません。過去生などその他の生は入れずに、この生の間だけでも、あなたがどれほど長い間、ある種の反応のパターン、つまり何らかの影響を及ぼす姿勢ややり方を自分に条件づけてきたか。そしてそれらをそんなに急に、簡単には壊せません。これは、あなたが気付いているよりも、もっと根深いものです。つまり、あなたは今、そのほんの始まりの部分にいるに過ぎないのです。もちろん、そこに到達できただけでも素晴らしいことです。少しずつ、あなたはこの恐れが自分の中でどれほど根深くしみ込んでいるのかを理解し始めるでしょう。そして、その恐れがどこから来ているのか、そのより具体的な理由を知ることになるでしょう。すでに知っている理由に加えて、より具体的な理由をより深いレベルで体験するでしょう。これに取り組むにつれ、少しずつ重い壁、深い霧、混乱という巨大な迷路が溶けるようになくなります。これらは、本来の強さ、そして素晴らしい感覚を持った真の自己を覆い隠していたのです。あなたはすでに、自分の中の恐れがどのようなものであるかについて、基本的な洞察をある程度は手に入れています。自分という存在のすべてで愛を感じたい、そして全身で愛を感じたいという自分の願いを声に出して言うときのあなたの反応を観察してください。そうすると、その洞察は徐々に大きくなっていきます。

 質問:あなたは死を愛の欠如と結び付けていました。では、肉体の死はどのように説明されますか?

 回答:人間の存在するこの領域における肉体的な死というものは、まさに二元性の結果だと言えます。二元性はさまざまな間違った概念の結果として生じます。この間違った概念とは、つまり生命と宇宙に対する誤解を意味します。それゆえに、人生とは危険で敵意と攻撃的な力に満ちているから、自分の身は自分で守らなければならない、と思い込みます。そして、このように防御することで、自らを開くこと、一つになること、他者に向かっていく動き、つまり愛すること、といった態度をすべて排除してしまいます。この動きを欠くと、停滞、静止状態、そして生命のない状態がそのあとに続き、それが死なのです。

 このように、間違いとは愛のない状態と同じです。愛のない状態は、本来の生命と直接的に対立します。生命には、それが許されればいつでも開花し広がっていくその潜在的な力があり、いつでもそれを待っているのです。それは適切で真実に満ちた概念を持ち、それが行く手を妨害しなければ成し得ることなのです。人生は、永遠に終わることのない一つのプロセスです。みなさんの心が、その生命の動きに沿って流れることができるときにだけ、みなさんはそれを感じ取ることができます。これは、数学の方程式と同じようなものなのです。

 質問:おっしゃっていることは分かります。ですが、たとえ愛することができたとしても、いつかは死ぬ運命にあるわけです。

 回答:いえ、これは、単なる程度の問題なのです。人類は今、進化の途中段階にいます。存在(ここでは実在の人間)というものは、完全に愛のない状態、つまりほんの少しの生命しかないところからは来ません。愛のない生命という状態は、無機的生命というと最も近い意味になると思います。一方、完全なる愛、もはやいかなる分離や分裂、間違った概念のない場所は、宇宙の意識がすべて顕現する場所です。二元性のないところでは、生命と死という対立もないのです。そこに至るまで、人間は進化という道のりを、長い時間をかけてその進化のステージを通り抜けていかなければなりません。

 質問:この道におけるワークの中で、私は自分が誰も、何も愛していないことに気づきました。つまり、私の愛し方は神経症的です。今日のレクチャーを聞いているうちに、この点において私の真の自己を見つけられないだろうか、と思ったのですが、何か助けをいただけますか?

 回答:自分がどれほど人生とは自分に敵対するものだと思い込み、それがゆえに思い切って愛することができない、ということを具体的に、自らに問いかけてみてください。あなたの中にある本当に具体的な考え方を書き出してください。あなたは、具体的にどういった点において人生は敵であると思っているのですか?

 質問:あらゆる点で、そう思っています。

 回答:たとえそうだとしても、それほどおおざっぱにそれを認めるのは早すぎます。まずはあなたの考え方を具体化しなければなりません。そのあと、自分が書き出したことを見て、それらを疑ってみることです。「もしかしたら、私が間違っているのかもしれない。本当は違うのかもしれない」と言ってみてください。このようにして、自分が誤解しているかもしれない、という可能性を受け入れるだけの余裕を持つことが、まずは必要です。人が、歩みの途上に狭いところにとどまり続けてしまうのはよくあることです。なぜなら、彼らは間違った結論から離れることができないからです。彼らはその間違った結論を見つけ、それが間違っていることを知っているのに、そこにとどまるのです。そして、「これが私の感じ方だ」と自分に言い、自分では何の努力もせずに感じ方が変わるのを待っています。けれども、自分の中にある間違った結論と真剣に向き合い、ひょっとしたら事態は変わるかもしれない、と本気で認めることができたときにだけ、真の解決がもたらされます。いったん自分の思い込みが明確な言葉になれば、たとえば「少なくとも私としては、人生とはこういうもの、あるいはああいう在り方であってほしい」というように表現されたら、あなたはその自分の思い込みを疑わなければなりません。そうすると、あなたは真実がもたらされる余地を作り出すことになります。その真実は、人生についてあなたが持っている暗くて陰鬱な誤認のある閉ざされた部屋には今まで決して入ってくることができなかったものです。そして、あなたの最も深くにある本質にも届くことはありませんでした。

 質問:私たちは最近、このワークと非常に近いところにいた友人を一人亡くしました。何らかの形でその彼と接触することはできないだろうか、と思っているのですが。

 回答:大切なことは、非物質の世界にいる特定の個人と接触を持つことではなく、すべての存在たちが、たとえどこにいても、普遍の最奥の自己のまさに中心に触れている、つながっているということです。そのほかはすべてあるべきところに落ち着いて、愛の中で手を差し伸べる人々を一つにします。このようなコンタクトはあえて確立する必要がないばかりか、だれにとっても本当の助けにもなりません。そうすると力点が本当に重要なことから、まったく重要ではないことにすり替わります。私の答えを聞いてがっかりした人もいるでしょう。冷たく拒絶されたとか、関心を持ってもらえない、などと勘違いする人もいるかもしれません。私の答えは否定的に聞こえるかもしれませんが、それは彼らが人生や自己に対してまだ持っている概念が、普遍的な理解に適合していないからです。いずれは彼らも気づきます。すべてのものとのつながりに力点を置くことが最も大切な唯一無二のものとのつながりを促進する、ということの中により多くの真実と愛が存在するということを。つまり自己実現に焦点を合わせるということです。それができれば、個と個の間の愛もまた、健全かつ自然に、考えられる最良の形で発展していきます。肉体を離れた人々とコンタクトすることは、真の充足を与える試みでは決してありません。そのような試みは、どこかで必ず、本当に大切な部分に目を向けることからの逃避につながりかねません。人はよく、疑念や痛みをいくらかでも和らげようとして、物質世界にいない人物との接触を求めますが、そうすることで真に癒されたり、それが長続きするはありません。

 質問:ですが、コンタクトをすることで、故人に力を与えることができるのではありませんか?

 回答:いえいえ、それは違います。真に努力し、成長を目指す人は、必要とされるコンタクトをすべて自らが存在する世界の中に持っています。この世でもあの世でも、この原則は変わりません。あなたが自分の限界や間違った概念の向こう側に手を伸ばしたくないなら、この世界で誰もあなたを助けられません。これは、あなたもよく知っているはずです。けれどもあなたが真にそうすることを望んだ瞬間、あらゆるところから救いがやってきます。別の意識の次元にいるからと言って何が違うのでしょうか?愛が強さを与えます。たとえどこにいるとしても、愛はどこまでも拡張し、広がります。だからこそ、特定の故人との明らかな接触は必要ないのです。

 愛と力と真実がみなさんの中に、個々の内なる存在の中に広がりますように。みなさんがそれを許す分だけ、他者からあなたにもたらされる愛と力と真実を敏感に感じ取れるようになるはずです。それは、みなさんの周りに、みなさんが吸い込む空気の中に満ちています。そうすれば、物事の見え方も変わるはずです。認識も感覚も、すべてが変化するのです。みなさんの内なる自己から発せられる愛と力と真実と、他者の愛と力と真実とを一つにすると、その分だけみなさんの中で大きな変化が生じます。平和のうちにいてください。真実の中にいてください。そして、自分自身の中にいてください。


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