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Pathwork in Japan
No.151 自己実現における「激しさ」という障害
Pathwork Guide Lecture No. 151
UNEDITED版
1967年4月7日
自己実現における「激しさ」という障害
INTENSITY: AN OBSTACLE TO SELF-REALIZATION
愛しい皆さんこんにちは。神聖な恵みが大気となって周囲を包み、あなた方の内を流れています。もし皆さんがこの恵みを受け入れ、オープンになりさえすれば、この恵みは使うことのできる強力な力となることでしょう。
自己実現とは、どのような時であっても、宇宙や宇宙の力が皆に分け与えられたものであると人が理解していることを意味します。この力を使えるようになるためには、その存在を知ることもまた必須であり、力から切り離され、その存在に気づかず無知であることは人類にとっての悲劇だといえるでしょう。この力を使える段階にあなたが達したとき、未経験な事は理解しえないと思い知り、窮地に立たされます。つまりこれまでのあなたの経験と今目の前に用意されている力の間の溝に橋を渡すためには、新しい可能性を取り入れる必要があるということです。科学の分野であっても、どのような真実の実現であっても、外へと拡がっていこうとする新たな一歩に際して、新しい可能性に目を向けることは常に賢いことだと言えるでしょう。しかし人は大抵この準備ができていません。なぜなら人は、確かな意見を持たなくてはいけないという間違った信念を抱いているからです。あなたはいつでも確かな「はい」と確かな「いいえ」の間で揺れ動いています。この姿勢では何も発見できません。本当は、このような姿勢でなければならないのです「可能だろうか。そんなことはありえるのだろうか。誠実に、よく見て可能性を探ってみよう。裏表なく、努力を避けることなく、必要と思われるすべての方向に可能性を探ってみよう」
とてもシンプルな課題に聞こえるかもしれませんね。シンプルではあるものの、これを取り入れることをこの上なく難しいと感じるのが、人が持つ風変わりな性質というものです。宇宙の力を使えるようになるのを妨げる障害のひとつに、本気かつオープンに問いかけることが難しいこと、そして新しい真実を受け入れる準備ができていないことが挙げられます。この新たな真実がどれほど革新的であったとしても、これまでの確信や経験とは一見矛盾した見解を示していたとしても、です。
偏見なくオープンに捉える姿勢を欠いているために、あなたの内なる壁が目の前に差し出された可能性を拒否しているわけですが、その理由が「今まで考えたこともなかった」というだけでは決してないはずです。もしもそれが理由だったならば、オープンな姿勢になれる機会が訪れたとき即座にそうしていたことでしょうし、拒絶は何度も繰り返し起こっているのではないでしょうか。物事をオープンに捉え、取り入れることへのこわばった拒絶や意見への執着は、多くの場合実際に起こった個人的な経験に基づくものでさえなく、単に又聞きであることが多いのです。そして詰まるところ自分自身を見ることに対する個人的な恐れからきています。
もうひとつ、自己実現の由々しき障害として挙げられること、それはあなたには無意識の態度、意見、考え、そして感情があり、これらはあなたの意識的な態度、意見、考え、そして感情と完全に矛盾しているということです。この不一致は大きなブロックを作ります。なぜなら無意識に含まれる事柄は、宇宙の力を覆い、籠もらせるからです。思考はこの無意識を塞ぐことが急場しのぎだと信じ込んでいます。その結果思考はリラックスできず、柔軟で恐れのない姿勢がとれなくなります。柔軟な姿勢は宇宙の力に順応するために必要不可欠であり、あなたの内奥の力を実現するために無意識への道のりを歩むことは必須です。すべての間違った概念、間違った結論、間違った意見、破壊的な態度、ネガティブな感情は直接、力の実現の妨げとなります。
皆さんはすでに今私がお話していることをご存知だと思いますし、この道に身を置く者としてたゆまぬ努力でワークに取り組んでいるだろうと思います。しかし、あなた方がどれだけの関心をパスワークに寄せていたとしても、目的の全体像や自己実現の重大さをいとも簡単に見失ってしまうのも事実です。すでにお伝えしましたが、自己実現とはあなた方が持っている力を活用することを指しています。そしてこの力は途方もなく大きいのですよ。
力にはふたつの側面があります。力は宇宙的なエネルギーであり強さです。この力は活力を蘇らせ、無限で不滅、永続的で、躍動感や生き生きとした様が個人に与える影響は想像を超えるものです。この力が使えるようになるとき、人生全体が劇的に変化せざるをえなくなります。これは、気まぐれかつ一時的に力に興味を示すことによる変化ではなく、変容した人格を通して永久に変わるのです。変容した人格はその後、力に反した姿勢であり続けることはないでしょう。このエネルギーは、備え持った法則に従って働きます。皆さんご存知のようにこのエネルギーは完全に非人間的なものです。人がエネルギーと互換性のある条件を勝ち取ったとき、エネルギーの動きは勢いよく流れます。逆に条件とエネルギーに互換性がないとき、流れはブロックされます。ブロックが取り除かれたとき流れは再び起こりますが、人の期待に反する形で起こることが多いでしょう。というのも流れは、エネルギーが元々もっている非人間的な法則に従うからです。
この力のふたつ目の側面として挙げられるのは、この力が自律型の知性を持ち合わせていることです。恐れや怠りといった無意識にまつわる課題をすべて乗り越えたとき、あなたはこの力が自律的であることを理解し、力が持つ知性と力そのものをあなた自身に統合することができます。このとき、あなたは本当の意味で外的な権力や助けから独立したことになります。外的な権力をひどく必要とするとき、あなたは自分自身を不自由にしてしまいます。必要とするものはすべてあなたの内にあるのですから。この力を使うことができれば、人生で恐れることはもう何もありません。
今夜皆さんに主にお伝えしたいのは、この力を使うにあたって出会う具体的な障害についてです。このことについて今まで、粗略な形でしかお話ししたことがありませんでした。説明したいのは、ある具体的な魂の動きであり、別の言い方をすると、感情の上下についてです。宇宙の力と互換性をもつためには、内面的にも外面的にも、人格がくつろいでいる必要があります。このようなくつろぎは、固定されて動きが失われていたり、エネルギーが足りない状態のことではありません。呼吸をしていなかったり、動いていなかったり、または無反応といった偽りのくつろぎのことではありません。実際にはその逆で、くつろぎとは拡大し収縮する呼吸のようであり、リズミカルでゆったりとしていて、無理な努力のない状態でありながらも力と共に振動し、落ち着き穏やかで、平和かつ躍動的な状態です。言葉での説明となるとこのようになるのですが、くつろぎの状態は無関心や受け身、または弛緩した状態と容易に混同されてしまいます。今挙げたどの状態もくつろぎではなく、くつろぎとは、恐れやプライドそして身勝手さから生じる緊張から完全に自由な状態です。
多少の差こそあれ、人はぴんと張り詰めた強度を保つことを習慣としています。この状態は宇宙の力にとって異色であり相容れないもので、最終的には表面に現れる凝り固まりや麻痺、そして過度な受動性を生み出します。こういった極端な表れはいつでも、魂の激しさという解決されなければならない問題から生じています。
激しさは、人生を二元的に捉えているときによく見られる誤解です。人はあまりあえて言葉にはしないものの、激しくあるほど人は真剣で、責任感があり、そして集中していると思っています。その逆に、激しくない人は無責任で軽薄で、不安そうだと思われます。これが真実ではないことを分かっていただきたいのです。まったく逆です。人格が自分は何をしているのか、考えているのか、感じているのか、そして経験しているのかをしっかりと把握するためには、絶え間なく精神が変化し、緊張のない状態でなければなりません。この状態とはつまり包括性、統合性を意味し、動機がひとつであり、専心しているということです。拮抗する力が内なる自分を分断していない状態、つまりは隠された恐れがないときにのみこのような包括性や統合性に達成することができます。精神性が軽さと共に流れれば流れるほど、人生に投じることのできるエネルギーが増え、エネルギーが拡大した後の疲労が少なく済みます。不自然な張り詰め方や激しさは、思考や感情の状態としてあまりにも当たり前になっており、自然なものとして人々の間で受け入れられているばかりか、これまでに私が挙げてきた霊的な在り方のごとく好ましい状態だと考えられています。しかし霊的な在り方とは、精神が激しくないときにはじめて実現可能なのです。
すべての神経症的な態度は不自然な激しさに端を発しており、また結果的に不自然な激しさを生みます。このような激しさは半意識的に、または意図的に磨かれ、育まれたもので、生命の流れからあなたを切り離してしまいます。先程お話した二元性から生じる誤解は、激しさという破壊的な姿勢が磨かれることになった原因のひとつです。一部には、他とは違う自分を見せようとする子供じみたうぬぼれがあり、すべてを重大に見せることによって自分に注意を惹き寄せようとしていることが挙げられます。自身による「ドラマ化」と私がよくお話ししているのがこの姿勢です。ドラマ化は人の内で起こるため、他人には見えない場合もあります。極々洗練された意味において、すべての精神的な病気、感情的なアンバランスさは魂の動きを意図的に激しくするところからきています。
このプロセスはとても微細で、あなたが焦点を合わせようとしないかぎり見えてきません。内側が緊張した状態は人にとってあまりに習慣的なため、繊細に研ぎ澄まされた知覚で繰り返し焦点を合わせないかぎり、見つけることはできないでしょう。そして見つけることができたときには何か異質で、自然ではないという感覚がやってきます。手放すことができるようになるための第一歩です。長年着続けた、締め付けのきつい細いジャケットを脱ぎ捨てるような感覚ではないでしょうか。そこから新たな自由へと、一歩を踏み出すわけですが、はじめはその自由が危険を孕んでいるかのように感じられるかもしれません。脱ぎ捨てたものなしにはあまりに剥き出しに感じるかもしれませんが、そのうちに、力を蘇らせる宇宙の活力の流れに自らを開放しているだけなのだと学ぶことでしょう。そして、張り詰めた状態がどれだけの邪魔だったかに気づくと思います。張り詰めた状態を不自然に作り出してしまうと、内なる人格と宇宙の力との間に矛盾が生まれます。この不自然さは魂という物質に深い屈曲を作りますが、健康的な魂は屈曲のない状態でなければならないのです。この屈曲はそのうちに、強すぎる確信や激しすぎる姿勢、大げさな感情、過度な反応、そして筋肉の硬さとして感じられるようになるかもしれません。今挙げたものはすべて、力の流れを妨げます。宇宙の力がうまく機能するためには、人格のすべてに力が及ぶ必要があります。こわばった視野が原因で精神界が激しくなりすぎているとき、新鮮な生命力の流れが妨げられてしまいます。感情の激しさが本物でないことが原因で感情界が激しくなりすぎているとき、生命力は人に入ることができません。物質界で筋肉が緊張し、張り詰めているとき、生命力は体のシステムを満たすことができません。こうして徐々に病気や衰えそして身体的な死がやってきます。
数年前、拡張と抑制、そして静止の法則についてお話ししたことを覚えているでしょうか。生きとし生けるものすべての内にある宇宙の動き、リズミカルな呼吸についてお話ししました。宇宙の呼吸が起こるのは、人のシステムに偽りまたは不自然な激しさがないときだけです。激しさが原因で生じる魂の屈曲は、人のすべての領域に麻痺を起こします。宇宙の力に開放的であるためには、すべてに弾力性がなければなりません。自分の意見や感情にあまりに激しく固執し、体内外の筋肉を固めることで、流れるような動きに緊張が起こってしまうと、弾力性は失われてしまいます。あなた自身の激しさについて意識的になるために、どこから取り組み始めても良いのです。どこから始めるにせよ、取り組みを続けていくことで、激しさに起因するすべての領域に共通な硬さを解消することができるからです。
激しさを好ましいものであるとする誤解は、歓びにも当てはまります。半意識的あるいは半無意識的に人は、人格が張り詰められ、激しいときには歓びもより大きなものになると信じているのです。別の言い方をすると、激しさは真剣さや集中のみならず、歓びをも含むべきだとされているのです。これはまったくの誤解です。はじめは筋の通らないことだと思うかもしれませんが、人格が軽く、そして楽に流れれば流れるほど、宇宙の力はより大きな流れとなって人の内に入り、歓びも高められるのです。激しさとはエゴであり、激しさはエゴを手放すのを難しくします。エゴに固執し、無意識のプロセスの邪魔をするかぎり、歓びを経験することはできません。自分自身や人生をあまり深刻に捉えすぎると、宇宙の流れと共にあれないのです。言葉を使って自己実現について伝えようとするとき、言葉があてにならないのはこのためで、まったく好ましくなく間違った姿勢と実際の自己実現を取り違えられてしまうことが非常に多いのです。軽さや真剣さを欠いた状態とは、言葉自体が表すものとは別物なのです。
それでは要点を繰り返してみましょう。自分自身の本当の姿を見ようとするとき、リラックスしていて、陽気で、自然で、ドラマチックに演出されておらず、激しさのない人格は欠くことができません。人格のこういった性質は、自分が行っていることに専心するためにも、エネルギーを用いて自分自身を更新し、より多くを投じることができるようになるためにも、動機や経験と一体となるためにも必要不可欠ですが、無感覚の状態と混同してはいけません。無感覚は恐れや諦めといった隠された深層が原因で起こるからです。後者は死んだものであり、前者はみずみずしく生命を放つものです。激しさや魂にできた深い屈曲、そのどちらも生きている実感と混同されやすいのです。また、自然な状態に開放することにまだ慣れないうちは、何か充分でないと感じるものです。
今お話ししていることは、とても微細なレベルで起こることなのですよ。もしかすると、私が何を話しているのか、理解するのは容易でなく、とんでもなく聞こえるかもしれません。ここであなた方に必要なことは、理知的な自分または耳にのみ注意を向けるのではなく、感情や思考、そして身体的な激しさに気づき、その不自然さがいかに内奥の性質に相反するものであるかを感じられるようになるまで、注意深く自分自身を観察できるようになることです。
完全な自己実現にはつまり、笑いとユーモアはつきもので、外からは真剣さや重さを欠いているように見えるかもしれません。しかしこういった人が統合性を欠いているわけではまったくなく、人生に中途半端であったり、分離や矛盾があるわけでもありません。実際にはその逆で、今回私がお話ししている激しさが統合性を傷つけ、ある意味では不誠実であり、動機や注意が散漫な状態であり、また自分のすべてを一途にかけることはしまいとする姿勢と繋がっているのです。こういった状態すべてが、激しさをあたかも必要であるかのように作り出していくのです。これを理解するのはとても大切ですよ。
高潔さや誠実さ、まやかしのなさといった形で、行なうことすべてに自分が持つ最大限を投じことができれば、そして先程お話しした陽気さが加われば、宇宙の力と互換性のある条件が揃います。すると宇宙の力の主要なふたつの側面で、力が形をとることになります。宇宙の力はあなたという存在をくまなく流れ、内外の器官、そして人としてのあなたをすべての面で蘇らせます。あなたの奥深くから、宇宙の自律的な知性が姿を現わし、あなたを導き、刺激し、分離されたエゴが宇宙の力と統合され全体となるまで指導します。こうなると神聖さはあなたの内に生き、あなたは神聖さの中に生きることになります。
二元性のもうひとつの側面で人間は、真剣過ぎて重たく、激しいと同時に動機や目的が曖昧で、自己欺瞞に満ちています。二元性のどちらの極においても、不均衡は均衡にとって代わらなければなりません。方向の分裂には統合がもたらされなければなりませんし、欲望が矛盾し複数に分かれた流れを成しているときは、ひとつにならなければなりません。奥深くに隠されているであろう、高潔を欠いて不誠実な部分には正直さをしっかりと築き上げなければなりません。また人生に自分のすべてを投じることに消極的な場合には、積極性が確立されなければなりません。人の特徴と人格がこのように逐次的に再設定されるとき、重さがはびこっていた場所は軽くなり、激しさを手放す可能性がでてきます。そんなに真剣に、ネガティブで重々しく絶望的に、人生やあなた自身のことを捉える必要はないのです。他者に与えるのと同じくらい自分も受け取りたいと願う気持ちに正直になり、誠実になることでも、同じくらい真剣にあなた自身や人生を捉えていることになるのです。すべてがことごとく決定的なわけではなく、すべてに戦いを挑み反抗する必要はありません。激しさが、いい意味で欠如した状態では、宇宙の力を使うことができます。また逆に、お話ししているような激しさは宇宙の力を跳ねのけるブロックの締め付けを、より強固なものにしてしまいます。この激しさは、よく真剣さや集中そして目的や存在の統合性、または情熱的な歓びと取り違えられてしまいますが、実際には、自分自身や人生に対する本物の正直さの代替となり、生きているということに専心する代わりとなっているのです。正直さや専心は激しさのない状態を与えてくれ、そしてこの状態は常に新しく生まれ変わり続けるものであり、深い満足を与えてくれます。
ここに辿り着いたということ、これはあなたの成長にとって決定的なことなのですよ。注意を向け、意識し始めてください。うっすらとではあるかもしれませんが、不健康なこの激しさを完全に手放すことができるずっと前に、このことがいかに重要なことであるかに気づき、そして理解できるようになります。この理解は、あなたがどれだけ大きく進歩したかを示しています。このような意識が確立された瞬間、制限はある程度緩められ、あなたは新しい生命のエネルギーに身を浸すでしょう。
人工的に作られた動きがどれだけ熱を帯びたものであったとしても、度を越した激しさから生まれる圧迫はあなたを内気にし、緊張させ、そして固めてしまいます。動きは外側の葛藤であり、外側の緊張として現れている激しさです。動きがぎくしゃくとしたものなのか、麻痺なのか。どちらにしても、内なる活力はあなたを動かすことができず、妨げられてしまいます。
宇宙の流れという電流とひとつになり、自己実現をすることは、人生に向かい、そして他者に向かうということです。人は外に向かうこの動きを非常に恐れています。ためらい、小さく内に縮こまることが安全だと思っているのです。ほとんどの場合、あなたはこのことに気づいていません。あなたを動かし、あなたとあなた自身の人生、そして他者とをひとつにするこの力に身を任せることを恐れていないという思い込みがマンネリ化し、当然だと思っているからです。あなたの表面的な態度が、マスクや何かしらの覆いなしに本当の自分を見せたいとは思っていないという本心を、明らかにしてくれるかもしれません。これでは他者と正直に関わっているとはいえません。こういった分離はみじめさを生み出します。なぜなら、こういった分離は、外側と内側の自己の間にある分離、自己と他者の分離、自己と人生に対する誠実かつ本物の姿勢や人生の自然なプロセスとの間にある分離と同じだからです。
宇宙の力は完全に信頼に値するものです。この力を信頼しないなんてまったく愚かなことなのですよ。この力を信頼しない唯一の理由となりえるのは、あなたの恐れです。ひとつふたつ、自分をごまかしておきたいと願っている部分が残っているからこそ、この恐れは存在しているのです。もう自分をごまかしたりなどしないと決心したとき、恐れを乗り越えることができるでしょう。自分自身の内にある宇宙の力を実現することで、救済を見出すことができるでしょう。
もうひとつの障害は偽りの善良さで、これは感傷とも呼ばれるものです。これもまた見逃しやすいもので、ふたつの傾向が合わさったときに起こります。ひとつは、社交的でありたい、人を愛したい、自分自身の存在の深い部分に心から誠実でありたい、宇宙の力を信じたいという人が生まれながらに持った偽りのない望みです。そしてもうひとつは、あなたの恐れであり、恐れに続いて引き起こされる不正直さと対になっています。これはエゴにしがみつき、自分を抑えることに繋がります。外側の自分を手放し、宇宙的な内なるプロセスに身を任せたいという生得的な衝動はいつでもそこに存在していなければなりません。これは本当の意味で愛するということです。恐れ、プライド、そして身勝手さがこの動きを遮るとき、愛することは不可能となり社交性は内向します。信頼と愛をもって外へ向かおうとする、人の傾向を押し潰すことはできません。なぜなら、この傾向は万物を成す性質の不可欠な一部だからです。それは生命そのものです。あなたは生命の一部であり、生命と方向を共にしなければならないのです。生命に従おうとする傾向と、それを恐れる気持ちの間に起こる葛藤が、偽りの善良さまたは感傷を生みます。本物の感情が遮られたとき、偽りの善良さが生じるのです。そうならざるをえないのです。人格は、自然な感情を妨げ麻痺させることに罪悪感を抱きます。本物の感情の鮮やかさは過度な激しさを必要とせず、偽りの善良さや感傷といった義務的な感情とは無関係です。なぜなら愛は、義務とは無関係だからです。だからこそ、本物の感情は自由で、のびのびとしています。またその逆に、漠然とした感情がかさねがさね邪魔をされたとき、こう言葉にするのではないでしょうか「今私はこう感じているはずなのですが、残念なことに感情を純粋に感じることができません」
感じたいと人が望んではいるものの、感じることができないと認めている場合や、愛したいと望んではいるものの、今の自分には愛がないと認めている場合よりも遥かに、偽りの善良さは宇宙の力の実現の大きな妨げとなります。なぜなら、一度このような自認が成立してしまえば、人を愛し、感情を感じたいという望みをまっとうすることができるのですが、感傷は、望んでいる状態に自分はすでにあるという幻想を抱かせてしまうからです。自認しているときには「でも、私は感じたくないのだ。愛したくないのだ」と言っているあなたの一部に達することができます。あなたの一部であるこの場所に繋がっていなければ、生命のプロセスや現実、そして宇宙の力と繋がることはできません。なぜなら、感じることや愛することに抵抗しているということが、今のあなたの現実だからです。今ある現実を否定することで、より偉大な現実を経験することを不可能にしてしまいます。
パスワークのこの段階に達したときは、次のように自問してみると良いでしょう「本物の感情を拒否している自分を避けるために、いまだに義務的な善良さと関わりを持っているのは一体どこだろう」そして最奥の自己になぜそのように拒否しているのか尋ねるという、次の段階へと進んでいくことができます。そこにはどのような恐れや消極性があるのでしょうか。くつろぎや自然な形で注がれる注意、集中、そして充実した経験をしのぐほどの緊張や激しさを、あなたの内に観察し始めることができるでしょう。こういった緊張や激しさは到底心地よいものではなく、むしろ負担が大きく、あなた自身やあなたの周りの環境にさらなる問題を引き起こします。深く充実した感情は、このようにネガティブな形で激しい必要はないのです。この違いに気づけるようになりましょう。思考や感情、そして体にかかる負担、その微妙な形の違いに焦点を絞ってみてください。そこにはある反応が存在しているのですが、今あなたが感じるよう自ら仕向けているほどには元々強くはないのかもしれません。あなたの感情は本当にそれほどまでに激しいのでしょうか。もし反応を自然な形で放っておいたとしたなら、あれやこれに、そこまで強い不快感を抱いていないかもしれません。そんな可能性を、もってみてはいかがでしょうか。同じように、あなたが抱いている様々な確信は、それほどまでに強いものなのでしょうか。それほどまでに確信する理由が何かあるのでしょうか。確信が持つ激しさを手放し、その逆の可能性を考慮に入れてみてください。次に、体の中で緊張している場所があるか、筋組織の密度が高くなっている場所、身体としての存在全体に意識を向けるようにしてください。このような場所に注意を向けると、どこか手放すことに消極的なことに気づくかもしれません。その消極性は一体何でしょうか。このような緊張を手放すためには、あなた自身や人生に起こっていることにある程度信頼を置く必要があります。そしてこの信頼こそ、あなたが欠いているものです。このような信頼は、自分自身を信頼することは正しいと完全に分かってはじめて、生じるものです。しかし、この完全な正当化が起こる前であっても、自分を緩めることに消極的な自分を、ただ観察することは価値あることであり、緊張や激しさは自己実現を一瞬にして妨げてしまうのだと理解することに繋がるでしょう。この消極性は、あなた自身を直視するのを避ける姿勢と直結しています。結果的にこれは自信の欠如の直接的な原因となり、創造的な力を信頼できなくなってしまうのです。
このような観察ができたということ、それはあなたが自己実現への扉に真に近づいたことを意味します。自己実現はゆっくりとしたプロセスです。このプロセスであなたは宇宙と共に流れている自分を感じ、宇宙と調和していることを感じるでしょう。そしてあなたは、内に存在する深い知恵と接触します。この深い知恵なしには何事も成し遂げられません。深い知恵が伴っていないとき、あなたが決意し行うことはそれが何であっても、満足な答えや結果をもたらさないでしょう。
あなたがはじめてこの知恵と接触し、知恵が姿を現わすとき、その完全なる英知と完全なる正しさ、分割できない性質、二元的な善と悪という矛盾のない統合された法則を次々と理解し始めることでしょう。そんなとき、自分の中の異質な力に触れたかのように感じるかもしれません。より頻繁にあなたがこの知恵と接触するに従い、完全に信頼しきっていない何かに身を投じることへの和らぐことのない不安に打ち勝つたびに、あなたの意識の中の意志的な自己と、反対に意志的ではないこの膨大な力がもたらすプロセスとの間に統合がもたらされ、以前に増してしっかりと定着していきます。この道での歩みはすべて、新たな克服はすべて、力に対するあなたの信頼がいかに正しいものであるかを表しています。一歩先に進むごとに、この力の現実に気づき、そしてこの力があなたのものだということに気づくでしょう。こんなに素晴らしい宝を持っているのです。一体どのようにしたら恐れに生きることなどできるでしょうか。解決できない問題などもう何もないのです。この力は宇宙全体に存在しています。つまり、あなたの中に、そしてすべての人の中に存在しているということです。この気づきが深くあなたの存在に浸透し、貫き、完全に理解されるとき、本当の意味での兄弟愛は必然でしょう。何かを嫌うことは表面的な事でしかなく、この力によって皆がひとつなのだと分かるのです。自己と他者の間の葛藤は鎮まるでしょう。あなたは突出して独特な存在となると同時に、最高の意味で、他のすべての人と同じ存在ともなるのです。
正しい方向を皆さんに示しました。お話しをさせていただき、新たな角度や考えという光で道を照らすという手助けができることを光栄に思います。これによって、多くの選択肢の中から、あなた方が望むだけを利用することができるようになります。
このレクチャーに関連した質問はありますか。
質問:私にとって初めてのことなのですが、なぜか今回のレクチャーはひどく気に障っています。今お話しくださっている扉に自分が近づいているからなのか、そしてそれに抵抗しているからなのか自問をしているところです。
回答:レクチャーの中で具体的にどこが気に障るのか教えてくださいますか。
質問:人類が抱く希望についてです。
回答:あなたが希望を信頼する準備ができていないのが理由で、気に触っているのだと言えます。こういった可能性が存在しているのは分かっているのに、その方向へ進んでいけると自分自身を信じることができないこと自体が気に障るのでしょう。同じ理由で、人類の多くは絶望やネガティブ性、世界は混沌としていて良識を欠いているという物の見方に、乱暴な形で同意してしまうのです。この視点は、救済をもたらすのは神だという子供じみた期待や、他者のアドバイスや権威に従うことで自分は助けられ、天国のような祝福が来世にも及び降臨するという考えと同じくらいに希望的観測に基づいたものです。外的な運命への支持は、それがどのくらい正統であっても異端であっても、絶望に勝るとも劣らない希望的観測です。後者は次のように述べるでしょう「私には何をする必要もないし、不快なことに向き合う必要も、人格を変える必要も、拭いたいと思ってもいない破壊的な態度を手放す必要もない。どんなことをしようと何も変わらないのだから」もしも人生がまったく辻褄の合わないものだとしたら、訳も理由もなかったならば、生きとし生けるものに進化や連続性がなかったとしたら、人格の欠陥を乗り越えることなど不必要だともいえるでしょう。すべてに意味などないというニヒルな哲学に同意することで、人は自己と向かい合う不快さから難なく逃れてしまいます。これはつまり、自分以外の、外側の知性に面倒をみてもらおうと期待するのと同じくらい希望的観測であり現実逃避なのです。どちらの場合を取っても、自分自身に抱いている理想像を破壊する不快な側面から目を背けるのを可能にします。外的な運命や外からの法則やルールに従うことでもたらされるバラ色の未来は、ニヒルな哲学に基づく絶望と根本的には同じで、表裏一体なのです。そのどちらも人がとても難しいと感じるあるひとつのことを回避しています。それはつまり、正直に自分と向かい合うことです。
質問:人類の大部分が宇宙の力を知覚できない理由は何なのでしょうか。そして誰がその責任を負っているのでしょうか。成長が足りていないのが理由で、ほとんどの人が宇宙の力に気づけないのでしょうか
回答:はい、その通りです。成長が足りていないのであり、意識が足りていないのです。さて、誰がこの責任を負っているのか。それぞれの各個人が責任を負っているのです。誰も他の人の責任を負っていないという事実は、多くの人にとって受け入れがたいことのようです。歴史的な出来事を振り返るとき、これは理解し難いことかもしれませんし、外観や断片的な真実を基に判断し、表面的に物事を捉えているときにはなかなか理解しづらいかもしれません。しかし最終的に最も洗練された意味において、個人の魂はその人自身の責任を負っているのです。人生の道で何が起ころうとも、すべての出来事は意識をより明らかにし、拡大する機会を与えてくれます。もちろん、大人が理解することを小学校の一年生がわからなくて当然ですから、宇宙の力を感知できないことは罪とは何の関係もありません。しかし、感知する能力があるにもかかわらず出し惜しみをしている場合には話は違ってきます。つまり、人が開き、拡大できるにもかかわらず意図的に必要のない破壊性や強情によって妨げている場合です。
人類全体は今、立つべきところに立っています。この地球に棲息している過去と現在を含むすべての個人の集積として、在らざるをえないところにいます。誰しもが、人生のすべての瞬間を拡大と成長のきっかけにする機会を与えられています。真剣にこの道に従事する者にとってこれは揺るぎない事実でしょう。何が起ころうとも、すべては成功への偉大なる一歩であり、さらなる成長のための素晴らしい機会とすることができますし、またその逆の影響を受けることを許してしまうこともできます。このことは不幸せな出来事のみではなく、好ましい出来事にも当てはまります。好ましい出来事はトラウマと同じくらいに成長を退行させ、怠惰な態度や停滞、そして幻想を助長します。何が起ころうとも、それをどのように捉えるのか、それが感知の拡大の助けとなるか妨げとなるかは完全に個人にかかっているということです。人は、自分の姿勢より、人生の外的な状況の方が重大だと考える傾向があります。何が最も大切なのかを決めるのはいつでも、人の姿勢の方なのです。
宇宙の力とは、人の内にある障害の直接的な反映である外側の困難さを乗り越えてはじめて手に入るものです。人がこれを理解し、自分の責任は自分が負っているのだと分かったとき、真実の自己を実現する道を歩き出したといえるでしょう。言い方を変えれば、宇宙の力の実現とも言えます。
質問:医者の身として質問をさせていただきます。宇宙の力を直接人間に物理的に、物理的な装置によって、取り入れることはできるのでしょうか。すべての問題を解決するという意味ではなく、苦しみを緩和し、方向を示す手助けをする目的においてです。例えばウィルヘルム・ライヒのオルゴン蓄積装置(the Orgone Accumulator)やケイシーが紹介しているその他の装置、またはこういった装置を使っている人々が挙げられますが、こういったことは先程申し上げた方向に向かおうという試みと捉えて間違いないでしょうか。
回答:そうですね、間違いないと思います。今おっしゃってくださった例の他にも、まだまだたくさんの一般には知られていない方々が、この地球上のさまざまな場所で、人としてのシステムにアンバランスさが生じていなければ流れることができたであろう生命の力が流れるよう、チャンネルとなっています。外的な装置を使って身体的なシステムに生命の力をより多く取り入れるようにすることは可能であり、精神的および感情的な領域に力が分け入り、人の内側に浸透する可能性を広げることは可能です。しかしここで理解しなければならないのは、どれだけの力が物理的な装置によって利用可能になったとしても、その本質は精神的または霊的なものであり、力を使えるようになるかどうかは精神的または霊的な姿勢次第だということです。もしも精神性がこの宇宙の力の性質と互換性のある形に成長しなかった場合、物理的な装置による効果はしばらく後に衰退せざるをえないでしょう。ある段階までは、身体的にそして一時的に、このような装置を使うことはできますが、こういった方向からの働きかけには限界があります。宇宙の力を使うために最適な物理的な方法は、人が本来の自分に再適応するために人格を手助けすることです。このような手助けがなかった場合に多くの人に不足していたであろうスタミナを与えてくれるでしょう。人格の変容とは、独自性を人から奪うものではなく、捻じれやアンバランスさ、そして破壊性を排していくことによって、よりその人らしさをもたらすものです。外の世界の装置に頼らなくなるためには、人格はこの力と互換性がなくてはならず、むしろ自分の存在の内深くにある無尽蔵なこの力の源に絶え間なく通じている必要があるのです。外側からの働きかけを試みている人達がこのことを理解しているのであれば特に問題はありません。効果が持続しなかったときにがっかりしないで済みますからね。
今夜私がお話ししたことを、充分に活用していただけますように。そうすることで、この宇宙の奇跡が、今ここにこの瞬間に存在する生命の不思議が、あなたの眼前に姿を現してくれることでしょう。これは近道や幻想、希望的観測や万能薬といったものによるものではなく、自分自身や自分の人生に正直であること、そして良識によるものです。皆さんに祝福がありますように。平和と神の内にあってください。
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