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Pathwork in Japan
No.153 不随意のプロセスの持つ自己調整の本質
Pathwork Guide Lecture No. 153
UNEDITED版
1967年6月2日
不随意のプロセスの持つ自己調整の本質
THE SELF-REGULATING NATURE OF INVOLUNTARY PROCESSES
親愛なるみなさんにご挨拶申し上げます。これらのレクチャーが再びあなた方にサポート、強さ、そして光明を与え、それらを通してあなた方が祝福を見出せますように。このシーズンの最後のレクチャーは、ある意味においては今までのまとめとなります。そして同時に、今後あなた方に必要な次のステップを照らす光にもなるでしょう。実際に今、自分の行動やものの見方、自分がどこに向かっているのかということや、なぜ自分はある一定のところで行き詰ってしまっているのかについての理解にまでは至らないとしても、光となってあなたの道を照らしてくれます。このレクチャーは私たちが今までに学んだことを集めてまとめ、同時にともに学ぶ次のシーズンで私たちが踏み出すべきステップについての大まかな予告であるとも言えます。もちろん、この中には、これの真の意味を理解できるようになる前にもう少しステップを必要とする人が何人かいますが、それでもなお、理解しようという試み、マインドだけではなくハートで理解しようとすることは、あなたがこの先自分を発見して行く道のりで示されるたくさんのことを、もっと容易なものにするでしょう。
もう一度異なるアプローチ、すなわち自己実現の意味という点から要約すると、自己実現とは未だ眠っているすべての可能性を現実へと引き上げ明らかにすることを意味します。それは、人が自分のエゴと、この先手にする不随意のプロセスとを統合することを意味します。エゴは外面の論理的思考能力と意志の能力で構成されています。不随意のプロセスとは、感情、直観、そしてさらに言うと、最も重要で、法にかなった、人生の基盤に沿って生じる現実化を含んでいます。自己実現への出発点にまだ達していない人は、創造におけるこの部分の奇跡と美しさを理解することはできません。
人間の戦いは、エゴの能力にしがみつくことの中に存在します。これは、人が不随意のプロセスを心底恐れているからです。そのすべてを恐れているのです。意識的または無意識的に恐れていることもあれば、どちらかではなく両方で恐れていることもあります。人は、自分の感情が自然に湧き上がることを恐れています。もしかしたらこの事実を見過ごしているのかもしれません。なぜならば、人は、自分の周囲に対して何かの感覚が生じたり、反応となって現れるときにだけ、それが感情だと信じるからです。自然に湧き上がるものでなく、不随意のものでもなく、エゴのプロセスによって間接的ではなく直接的に支配されているとしたら、それは正しくは感情と呼ぶことはできません。
なぜ人間は不随意のプロセスを恐れるのでしょうか?人生で最高のことは不随意の創造的プロセスの結果であるというのに、なぜ人は人生で起こるほとんどのことよりも、これほどまでに不随意のプロセスを恐れるのでしょうか?真の素晴らしさを持ち、意義深く、満たされている永遠の価値を持つものは、エゴの機能、つまり直接的なエゴのコントロールが生み出せるものではありません。なぜ人間は創造的な人生、つまり不随意のプロセスを破壊し、支配し、否定し、操作しようとするのでしょうか?そしてまたその代わりとして適切さに欠き、賢明でもなく、機知も持ち合わせず、創造的でもないエゴの能力を使おうとするのでしょうか?それらは、不随意機能を通して働く偉大なる意識から分離したただの断片です。この質問に答える前に、ここに初めて訪れた新しい友人のみなさんのためにも、エゴのコントロールを過度に行使することと不随意のプロセスを否定することは、人格において多大な不均衡を作り出すことを説明させてください。それは病的な状態を生み出します。あるいは、多かれ少なかれ神経症と言った方がよければそう表現することも可能です。その状態は、エゴがどれほど内側の創造的な人生をコントロールしているかによります。人は、自分が健康でいたいと思えば思うほど、不随意のプロセスに圧をかけてコントロールすべきだという前提から始めます。それはしばしば完全に意識的、あるいは少なくとも半無意識的ですが、完全に無意識であることは決してありません。この誤認は、内側のバランス、自分の最善の可能性の実現、自分という存在の全レベルにおける豊かな人生の実現、健康で幸せな状態、これらに最も相反する方向へと向かわせます。もしこれら全てを得たいのなら、人は方向を変えなければなりません。内面の不随意のプロセスを過度にコントロールし抑制しようとすればするほど、そして不随意のプロセスを恐れれば恐れるほど、人はより葛藤を深め不幸になり、その人の人生はより空虚にならざるを得ません。実際、その人はあえて手放すことのできない硬いディフェンスによって閉じられた、浅瀬にいる死んだ貝になるのです。そして悪循環に陥ります。誤った方向に押し込めば押し込むほど、人は自分自身と自分の人生を失うのです。人生の問題が多くなればなるほど、ますますそれに対処することができなくなります。そしてそれはエゴのコントロールが不十分な結果だと信じているので、エゴのコントロールを減らすよりも増やそうとし、そのためにこの悪循環により深く入りこむのです。この方向を反転し変えるための唯一の方法は、先に述べたように、内面の創造的な人生を認めない固い警戒心を手放し、別のやり方でエゴの能力を使うことです。これについてはこの後説明します。
生かされるべき不随意のプロセスは常に働いています。なぜ人が不随意のプロセスを恐れるのかという質問に戻り、私たちはこれについて、2つの基本的なレベルで考える必要があります。私が述べた悪循環に陥ると、人は間違った概念に基づいて人生や人生と自分との関係性についての一定の仮説を築き上げます。これらの誤った概念はしばしば無意識で、私たちが話したようなイメージを形成します。これらの誤認は、魂の物質に深く組み込まれ、人にこのような前提に従って行動するように強制します。これらの前提は間違いであるため、後に続く行動や感情は必ず破壊的なものとなり、存在していないものを守ろうとする方に向けられます。従って、結果は自ずとその人が本当に望むものとは反対のものになります。つまり、その人は自分の関心事に反して行動することになるのです。魂の物質は、エネルギーの発電所です。それは人がかすかに感じることができるパワーに比べると、より大きなパワーの発電所です。人間がこれらのイメージに駆られて行動すると、このパワーはネガティブに使われます。人が幻想や誤認から自由で、それゆえに真の自己、宇宙の真実のレベルにつながっていると、作用する力は建設的でポジティブです。このパワーはいつもチャージされ満ちているため、そのエネルギーでどんなものでも作ることが可能です。このエネルギーはそれ自体が創造のエネルギーなのです。しかし、マインドが概念と一緒に合わさって、それが向かう方向に沿ってのみ使われる、あるいは流れるという意味においては、必ずしも創造的とは言えず、あいまないものだと言えます。このように、このパワーは自動的に働きます。まるで自然に起こっているかのように見えます。深く根ざした概念や考えは、もはやそれについて考えなくなったとしても、パワーを作り出すモーターとして機能し、その概念は永続的に働き続けることになります。それらは、概念が作り出す出来事の中で、外的に具現化されます。
自分が本当に信じていることや人生の法則にまだ気が付いていない人は、これらの関連性を否定し、これらの出来事は自分の概念とは何の関係もないと考えます。そのような人は自分自身の中にある創造的なパワーを無視し、そのパワーがすでに作動しており、実際に自分の中でネガティブに働いているということに気づきません。私たちが歩むこの道においては、これらの無意識の概念やイメージを意識上にもたらし明らかにすることを目指します。初めそれらは本当に無意識です。けれども、自分の意識的な理性や知性に完全に反している諸要素や前提が自分の内側の深い場所にあることを一度見つけると、創造的な生命エネルギーに作用するこれらの前提のうえに、自分自身がこの破壊的な不随意のプロセスを設定したことを認識し始めるでしょう。これらのイメージの中に囚われたエネルギーはそのイメージの前提通りに働くために、不随意の、無意識のプロセスは破壊的なのです。
意識的なマインドというのは、無意識の知覚と実際に存在するつながりを知るための道具です。けれどもそれはぼんやりとしかその意味を伝えることができません。つまり、人が内側の、従来の無意識の過程に意識的であればあるほど、自分にもたらされる「メッセージ」を正確に理解するようになります。しかし、人が依然として無意識のイメージに駆り立てられ、それゆえにネガティブに働く不随意のプロセスに突き動かされると、それを恐れざるをえないのです。そこで、あるレベルにおいては、人は、無意識下に間違った概念を持つがために、不随意のプロセスによってネガティブな体験へと追いやられることになり、それがために人は恐れを持つのだと説明することができます。人はただこれらの不断に続く不随意の力(エネルギー)を恐れるのです。その理由を説明することはできません。これらの力が危険でネガティブなのは自分自身の持つ概念に沿って働いているためだということを無視しています。いったんこれらの概念の正当性を疑い、真実ではないことがわかると、同じように自動的に作用するパワーを信頼することができるのですが、その事実を見落としています。その代わりに、人は決して不随意のプロセスを信じず、エゴの能力を利用して厳しく監視することによって不随意のプロセスから自分を守るという解決法を用います。さらにはこの「解決法」がどれほど有害であるかを見落とします。実のところ、世間一般のふつうの人は自分が何をしているのか、なぜそうするのかを分かっていません。
自己の内面と向き合うというこの道を歩む人は、自分の中に深く根ざした、人生の重要な側面についての無意識の前提を発見しなければなりません。そして徐々にそれを認識することを通して、魂の物質に真実の概念を入れることを通して、イメージを解消し始めます。これらのイメージのパワー、それにかかわるエネルギーのパワー、そしてこのエネルギーの自動的で不随意な本質を観察し始めます。この理解と観察を通して少しずつ、あなたは正しい前提を再創造することができるようになります。そのとき、これらの前提はあなたにとって建設的に働き始めます。あなたはより大きな法則にしたがって動く新たなエネルギーの流れを動かし始めます。それらを恐れる必要はないのです。
それにもかかわらず、友人のみなさん、これが起こり始め、イメージが見つかってある程度解消し始め、そして自己受容と観察が内的な人生に新たな理解と調和をもたらすと、あなたはこの時点でもまだ不随意のプロセスを恐れていることに気がつきます。そしてこれがこの問題の第二のレベルへと私たちを導きます。この時点であなたは、理論的にはこれらの教えを理解する地点に到達しているかもしれません。すなわち不随意のプロセスは破壊的である必要はなく、あなたの隠された誤認によって破壊的であるだけだということです。しかし、実際には、あなたはまだ永続する不随意の力を恐れています。あなたはまだそれらを警戒する必要があると信じています。みなさんが今いるこの場所からあなた方を助け出すために、まさに必要なのは次の言葉です。この言葉とともにワークしてみてください。このやり方でアプローチした過去のレクチャーの要約が、次に続くことの準備として必要になります。次のステップはこうです。どのように不随意のプロセスを信頼し始めることができるのでしょうか?あるイメージを形成した誤った前提を解消した後、いったん鋭いエゴのコントロールを手放してしまえば、今使うことのできる自由に流れるエネルギーが自分を危険や破壊に追いやることはない、ということをいかにして確信できるのでしょうか?あなたが不随意のプロセスを信用しない限り、過剰なエゴのコントロールを手放すことは不可能で、そうすると自分の中にあるこれらの創造的な力の素晴らしい本質を確信することは決してできません。生産的、創造的な不随意のプロセスは、あなたがそれらを認め成長させようとしない限り、また自分がそれを望み、自分を差し出さない限り、働き始めることはありません。あなたが手放さず、不随意のプロセスが起こるのを許可せず、自分の全存在でそれを欲しなければ、すべての人間の魂に内包されている不随意の創造的プロセスの信頼性を証明することはできません。ここまでに至るには、なぜ不随意のプロセスを信頼できるのかについて説明するための新しい考察が必要になります。
私が話していることは、この点に関する新たな理解へと開いていくことを意図しています。単に私の話を聞くだけでは十分でないことを、みなさんが理解してくだされば、と思っています。最も深いところにいる自分という存在で、これらのことに大きな注意を払い、本当に真剣にこの言葉を受取ってもらう必要があります。最善の意図を持って、完全に自分を開いて、あなたを窮屈に縛り、脅かすように見える新しい概念をこれほどまでに拒絶するディフェンスを手放すのです。エゴのコントロールがきつすぎる場合、実際のところこのような言葉は脅しのように思えるかもしれません。救済というものは、元に戻ることのように見えるのです。あなたは、自分の人生をかけてこの方向に反して戦ってきました。それなのに今では、あなたがそうしなければいけないと思ったこととまさに反対のことをするように言われています。あなたにはこれがうまく機能するのか、想像ができません。
パスワークにしばらく従事し、著しい進歩をとげたみなさんでさえ、この敷居をまたいで、あらゆる物事の中で最も恐れていること、つまりあなたの中にある人生の不随意のプロセスを信頼するというマインドの状態に到達することは簡単ではありません。みなさんはまた、きつすぎるエゴのコントロールと戦わなければなりません。つまり、エゴのコントロールがきつすぎると、理性と意志が不随意のプロセスを締め出してしまうのです。
さてみなさん、あなたがこれらの不随意のプロセスを信じることができるとすれば、それは唯一あなたがそれの持つ自己調整機能を理解するときです。それはまるで、みなさんが当然だと思い、その性質について考えることさえない、自分の生物学的機能と同じく完璧で、完全に機能するのです。誰しも、血流、神経系統、心拍、肝臓やその他の内臓の機能を調整したいと思ってできるわけではありません。これらはそれ自体で完全に機能するのです。外側にある論理的プロセスや意志によりコントロールし支配しようとしても機能しないのです。仮にこのようなことを試みれば、それは害を生み出すだけです。というのは、あなたは自分の意志の力、エネルギーを無駄に使って、自分にプレッシャーを課し、いずれはそれがあなたの身体の機能にネガティブな影響を及ぼすようになるからです。無駄に消費したエネルギーはこのような影響を及ぼします。これがすべての肉体的な病気の背景です。どの内臓が影響を受けるかは、病に対する生来の抵抗力、先天的な健康状態によります。人は、内臓のうちいくつかは酷使して耐性のあるものを持って生まれます。一貫して酷使しているにもかかわらず、かなりの間機能し続けるのです。一方で、他の臓器はもっと繊細で、何かほんのささいなことでも上手くいかないとすぐに機能しなくなるのです。
この類似性に話を戻します。エゴのコントロールに影響を受けない何かをコントロールしようという試みは、単に不均衡、プレッシャー、緊張、不安を生み出すだけで、最終的にはネガティブな結果として現れます。これは肉体のみならず、人格のすべての層に当てはまります。それ自体で完璧な生物学的機能を働かせるために、意志の力、外的なエゴの能力でもって圧力をかける必要などないことについて考え始めると、あなたはそれと同じことが他の層にも当てはまることを理解するようになります。自己調整というものが、あらゆる点において本質的に存在します。けれども、不随意の自己調整プロセスを維持するための健康的な習慣をしっかり育てるためには、エゴを使わなければなりません。これがエゴの仕事です。エゴには肉体にとって健康的な習慣を選択する潜在的な力があります。エゴには健康を維持するために肉体をケアすることを選択する潜在的な力があります。直接的な圧力に反応しない機能をエゴでコントロールしようとするのは、まったく愚かなことです。とはいえ、たとえば食べ物、睡眠、運動などに関して、間接的にどんな習慣を選択するかを考えることはできます。
友人のみなさん、エゴと感情面の不随意のプロセスの間に、エゴと私たちに内在する創造機能の不随意のプロセスの間に、そしてエゴと人生を全体として捉えたときの方向性との間に、同じ関係性が存在します。不随意のプロセスというのは、生物学的な機能と同じく、法にかなった形でただ完璧に、意味を持って調整されています。もしエゴが介入しなければ、自己調整は何の努力も要せず自然に起こります。また、エゴには果たすべき重要な役割があります。それは、適切な方向を定めるためのマインドの活動に関して、健康的な習慣を選択するということです。人間のマインドというのは、破壊的な感情を奨励するような陰鬱な思考を育てることもできるのです。あるいは、マインドは自己への正直さを選び、以前からあるすべての自己欺瞞を明らかにするという選択もできます。自己に関して人間が育むすべての幻想を捨て、真に自分自身を見ることができます。自分が今どこに、どんなふうに存在しているのかを受け入れ、自分に強要しようとしている理想形の自己を手放すと決めるのです。これらは健康的な習慣で、不随意のプロセスが間接的に影響を受け、確実に機能するために必要なことなのです。そのとき、不随意のプロセスの持つ自己調整の本質が姿を現すのです。自己の真実から逃れようとする誘惑は、厳しいエゴのコントロールを手放さなければならないのと同じように、厳格に克服されなければなりません。このようにして人格においてバランスを再構築することが可能です。
エゴが選択するこのような健康的な思考習慣を育てることは、肉体のレベルと平行して進めることができます。肉体が健全に扱われると必ず良い反応を示すように、感情や直感が人生の状況や経験を作り出す層にも同じことが言えます。エゴがもはやこの不随意のプロセスを支配しなくなると、直感が新たな安全感を与え、人生に対処するのを助けるようになります。思考は、知性を過度に重視する際に人が慣れ親しんだ、意志に基づく人為的な思考プロセスではなく、太陽神経叢の深い源からもたらされます。人は自分が何をしていて、何を欠いているのかをしらないままに、この不均衡に慣れてしまっています。
自己調整の本質が経験されると、不随意のプロセスはエゴの機能と統合されます。そのときにのみ人生は真に満たされ豊かなものになりえます。新しい自由は、内側からもたらされるものを受け取るために存在するのです。言うなれば、人は内側から生きるのです。これは自己実現です。そのとき人は、健康な状態の中にどれほどの不随意のプロセスが存在しているかを見ることができます。それは健康状態で肉体が機能するのと同じように信頼することができ、自己調整が機能しているということです。これらの不随意のプロセスの在り方を許さなければ、統合された十全な人生を手にすることは絶対に不可能です。
友人のみなさん、あなた方は「もし私があきらめてエゴのコントロールを手放したとしたら、一体何が起こるのでしょうか?私の感情は破壊的なもの、あるいは自分が認めることのできないものを求めるかもしれません」と、何度言うのでしょうか?そして私はそう言う人に対して、何度も繰り返し、それは全く可能なことなのだと言い続けています。不健全な欲求やネガティブな感情というのは本当に存在します。それらは歪み、イメージ、誤認、幼少期の痛みの伴う経験に起因する誤解の結果なのです。これらの幼少期の経験から一般化された概念を作り上げたからと言って、あなたが自分の人生を破壊する必要などないのです。これらの欲求や感情というものは実際に常に存在します。ただあなたはそれを認めていないだけなのです。自分の中にある願望や感情、これらの好ましくないものの存在を知った後にのみ、同じように変わらず存在している、もっと言えばさらに深くに隠されている建設的な感情、自己の最も深いところにある本質の部分に生まれながらに備わっているポジティブなパワーを経験し始めることができるのです。これらの建設的でポジティブな感情は、まさに自分という存在の中にある自己調整機能を備えた叡智を有しています。それはちょうど、あなたの破壊的な感情と思い込みとが、強制力をもって、自動的にそれを反映することで自己調整し始めるのと同じです。
ひとたびあなたの意識の中でネガティブなもの許可すれば、あなたはそのあとすぐに、自分の中にある建設的なもののパワーを見出すに違いありません。そのときに私が言い続けている、人はすべてのネガティブな感情や欲求が一緒になったものを恐れるよりも、実際には自分の中にあるポジティブなパワーをより恐れているということを発見するでしょう。
もしあなたが自分自身の中の建設的な力を恐れているとしたら、それはあなたがあらゆる建設的な感情である宇宙の流れという自己調整の本質を無視しているから恐れるのです。建設的なパワーに身を任せることはリスクを伴い、さらには危険でさえあるように見えます。特にこの段階においては、恐れがひとたび意識されると、あなたの持つ漠然とした、もしくははっきり分かるほどの恐れというのは、「私はどこに連れて行かれるのだろうか?ここからどこに向かうのだろう?そして私はこの恐れによって何を強いられるのだろうか?私は個性を失い、コントロールできなくなる」という恐れであることが分かります。コントロールや個性の喪失と言う点において言えば、ネガティブな感情と比較すると、良い感情の方がずっと驚異的であるように感じます。良い感情はそれに値しない人、互いの恩に報いることのない人、拒絶し、傷つけ利用する人に向けられるものかもしれない、という恐れが存在する可能性もあります。これらは、恐れを持つにはまったくもっともな理由かも知れません。けれども、それは愛情の対象との関連においてのみ言えることです。良い感情それ自体の否定を決して正当化するわけではありません。というのは、愛の対象の選択が適切であるなら、まさにその恐れは未成熟さ、幻想、自己への気づきの欠如とそれゆえの他者への気づきの欠如の結果なのです。それは、成長における一時的な段階です。感じることが止められてしまうと、成長も止められます。自己信頼、自己調整の本質に向かって成長しなければならないことに気づき、感情が機能するのを許可できれば、必ず充足を生み出すようになります。愛の対象として、満たされず、フラストレーションを抱える人、さらには痛みさえも作り出すような人を選ぶということは、その人の内側の方向性が引き裂かれた状態にあることを示しています。その人は感じたいと思いながらも感じたくないのです。満たされたいと願いながら、満たされることを恐れるのです。まさにこの葛藤のために、エゴのコントロールを手放すことへの恐れ、不随意のプロセスや自然な感情の流れを信頼することへの恐れ、そのようなおそれを持って当然にみえるような経験が生じることになります。困難な経験は必ずしも、感情が信頼に値しないことの証明だと受け取るべきではありません。それはただ、相反する願望の存在を証明しているだけです。そしてそれは、人体の他の部分と同じように、感情や直感、自然な思考、インスピレーション、創造的なプロセスが成長の法則の影響下にあるという事実を無視することの結果です。人間が本質的に持っているこの部分が十全に成長すると、自己調整の資質がもっともっと顕現するようになります。そのとき人は自己実現を果たしているのです。そのときその人は、人生が良きもので満ちている場所、つまり真の自己のレベルで生きることになります。
けれども人は、不随意のプロセスに全面的に委ねることを恐れます。ですので、自己調整の法則の完全性に気づくことができません。ほとんどの人が今その状態にあるように、手放すことへの恐れを持っています。手放したいと切に望んでいるにもかかわらず、手放すことを恐れるのです。理論的には真実を理解してはいるけれど、手放すことを恐れ、信頼していないのです。あなたは手放したくないということの窮屈さをはっきりと認識しているかもしれません。この流れ、つまり内側にある創造的な人生のプロセスを未だに抑え込んで、信頼できない、感情的で不合理な動機を見てみると、これらのプロセスが混沌としているという感覚、自分のエゴだけが秩序を持っており安全だという感覚を持っているのを見つけるかもしれません。もう一度言いますが、この感覚は創造的な人生のプロセスの持つ自己調整の本質を無視しているために起こります。これを認識することは、自分自身の内側から導かれる真の人生へとまた一歩近づくための助けとなるに違いありません。
さらなる助けとして、はっきりと理解すべきことは、有害な手放し方があるということです。規律にも歪みがあり有害なものがあるのと同じで、歪んだやり方があるのです。自己実現とはつまり、最善を尽くすことから豊かにもたらされるもの、まだ眠っていて、不随意な、高度に創造的な潜在能力とエゴの機能を統合することです。自己実現は常に、適切に手放すことと、ゆったりとした規律を持つこととが交互に起こり、それらを比較評価し、テストすることを通してのみもたらされます。どちらも完全に真実に満ちたやり方、つまり隠されていた自己を明らかにし、自己と向き合うことによって実践されれば、有害ではありえません。もし自分についてのすべての幻想を厳正なる態度で手放せば、危険なことなど起こるはずがありません。これが完璧なやり方です。規律を持つことと手放すこと、これらの一見対極にある態度が合わさって調和がもたらされるのです。
規律が手放すことに反して用いられるとき、それは創造的プロセスを閉じ込める監獄のようになります。というのは、エゴの警戒を手放すということは、自己に向き合いたくないという事実、大切にしてきた自分についての幻想を否定することになるという事実を認識することを意味するからです。人格は固く、自然ではなく、真の感情がなく、外部の規律や規則に縛られ、窮屈で怖れに満ちたものになります。規律は真実に反して使われ、真実のために用いられることはありません。これが規律と手放すことを対極のものにしているのです。同様に、手放すことが真実を回避するために使われるとき、手放すことが自己を甘やかし、破壊的で最も楽なものに浸り不健全な態度を維持し続けることの結果であるとき、手放すことは破壊的になります。そのとき、手放すことは自己から離れ、間違った種類の規律と同じぐらい本当に危険なものになります。どちらの歪みも魂の物質の中に防衛的な重い壁を作り出します。というのは、両方とも自分についての真実を避けたいと願うからです。生き生きしたエネルギー、創造性、そしてたくさんの健全な感情、あらゆるものに対処する十分な弾力性を持つ真の自己から人を分離させる内側の緊張と硬直が存在しています。代わりに、もろさ、そして引きこもる必要性、恐ろしいほどに分離し、過度にコントロールされ硬直している必要性がそこにはあるのです。
間違った規律の重みがあまりにきつい制限を課すとき、人格が壊れることがあります。その負荷はあまりに重くなるのです。他の人格タイプは、自分を甘やかし、「出口」として回避することを選択します。特に今日においてはこれがよく起こっています。真に手放すと見せかけ、手放すふりをするという形で起こることが多いのです。自分を見つめることがあまりに痛みが多く、不快で、好ましいことだと思えないとき、硬直した過度の規律がもはや機能せず拒絶されるとき、最終的に回避は、ある人においては薬物中毒につながっていきます。他には、世捨て人のような人生の落伍者になる人もいるかもしれません。最初は単なる弱さに過ぎなくても、その人の人格が損なわれるまでそれ自体で存続しつづけ、永遠に大きな割合を占めることになります。そうなると人はもはやそのプロセスを止めることはできません。そしてさまざまなラベルを貼り、もっともらしい理屈を並べてそれを美化することさえするかもしれません。ちょうど過度に規律に縛られた人が自分のやり方を賛美するのと同じです。
恐ろしいほど過度にコントロールされ硬直した人は、あからさまにはなはだしく相対する人を例として持ち出します。つまり、自分の過度のコントロールを正当化するための戒めとして、完全に弱い、自分を甘やかす人、人生の落伍者、すべての規律や責任を否定する人を利用します。彼らは「ほら、人が自分をコントロールできないと、こうなってしまうのだ。手放すなんてとてもできない。私も同じようになってしまうだろう」と言うでしょう。一方で、過度にコントロールされる人と同じく自分の誠実さから逃げている自分を甘やかす人は、自分自身の内にある生とのコンタクトを失った、硬くコントロールされた人を例として使って、自分のやり方の正しさを主張するでしょう。自分を甘やかす人の「解決策」は、真の自己とコンタクトしないということであり、それはその対極ある過度にコントロールされる人がそうであるのと同じです。
友人のみなさん、自分の中に存在するこのシーソーにはっきり気づくことは、あなた方一人ひとりにとって非常に重要です。すべての規律を破ることによって自己から逃げている人、それに対して、厳重に守られた過度に支配された人、硬直し自発性がなく、無感覚で過度に用心深い人の両極端を理解してください。すべての危険を不可能にし、すべての脅威を取り除き、規律と手放すという一見対極にあるものを結びつける粘着剤としての役割を持つ要素は、あらん限り正直で、誠実で、建設的であろうとし、偽りなく全神経を集中して自分に対して真実でいる、自分がどうであろうとも直視する、人生に対して自分の最善を尽くす、という常に新しい意志を持つことです。これが深く染み込めば染み込むほど、手放すことへの恐れはなくなり、何かに対して警戒する必要がなくなります。ゆえに、リラックスし自然でいる、その在り方が、宇宙的な生命の流れと一致しているのです。
内的な人生の意志とは無関係に起こるプロセスへの恐れがなお存在する場合、またそのプロセスを信頼できないために自己調整されている現実を見落としている場合、その程度に応じて自己欺瞞が未だに存在していることになります。破壊的でネガティブであろうという意志がなおも存在しています。人生を欺いてやりたいという欲求がまだ存在しています。それとは逆に、「私は正面から真実を見たい。それがどんなものであろうとも、どんな環境下にあっても、一時的にどんな困難があってもいつも真実を見たい」というような態度を育てれば、その程度に応じて良き人生に対する恐れは消えて行きます。この真実、この勇気、そして謙遜さが実践され、次第に第二の性質になると、恐れることは何もなくなり、すべての満たされなさは消えるでしょう。謙虚さと言うとき、私が意味することは、あなたがすべての答えを知っているわけではないことをあなたが知っている、ということです。常に推測し、すぐに「それはこうだ、あるいはああだ」と言わないでください。そうではないのです。たとえそうだとしても、今あなたが知っている以上のことがあるのです。もしあなたが全てを知っているならば、あなたは人生と調和し、苦悩や痛み、恐れや虚無感などないはずです。そこで今、この真実が育まれるとき;一度だけではなく毎日、内面の深いところにあなた自身のたくさんの側面があり、自分自身、そして他者、人生との関係性のたくさんの側面があり見過ごされていることを考慮に入れるとき;自分の内側からもたらされる答えをリラックスして探求しようと自分を拡張するとき;あなたが自分のエゴの能力、意志の能力、この自己探求の中であなたが何をしようともあなたの全存在にかかわるあなたの規律を使うとき -- 例えば問題になっていることへの答えを見つける場合など – あなたが自分の最善を尽くして注意と正直さを持って建設的にかかわるとき;そしてそこからこの規律が育まれるとき;そのとき手放すことへの恐れはなくなります。自分のすることすべてに自分の最善の完全なる自己を捧げたいと真に願うとき、あなたが不随意のプロセスを恐れることはなくなります。なぜならば、そのとき、放っておいてもそれ自体で機能する自己調整の本質の意義深い正当性を確信するのです。あなたは偉大なる宇宙の流れの中で流れることができます。生命の不思議、最奥に存在する自己の不思議を見つけることでしょう。
あなたが一度それに目を向けると、自分がどの程度までこの誠実さ、高潔さ、そしてまた自分の最善を尽くしたいという欲求、ある状況や人生のある側面に対するポジティブな自己を今なお拒んでいるかを理解するでしょう。実際、まさに不幸という領域においては、ネガティブでいよう、破壊的でいようとする意志、だまし、拒み、偽り、与えることなく手に入れて、敵意と自己憐憫を隠し持とうという意志が存在します。あなたがこのことを発見すると、さらなる進歩を非常に容易にします。ここでは、あなたを無垢な犠牲者に仕立て上げることなく、自分の人生を上手く築くために無力にさせないという法則がかかわっていることを理解するでしょう。友人のみなさん、あなたの人生を創造する力はすべてここにあります。エゴのコントロールを使ってこの力を押しやるのを一度やめてしまえば、それは巨大な力なのです。
友人のみなさん、あなた方一人ひとりの中に閉じ込められた豊かさ、そして宝物を感じ始めるとき、みなさんがこの豊かさを引き出すとき、みなさんは生き始めるのです。そのときにのみ、生き始めるのです。これは、このステップをさらに進んで行きたいと願うすべての人、一人ひとりにとって可能なことなのです。自分の最善を尽くすことを拒んでいる場所だけでなく、ひそかに最悪のものを与えたいとさえ願っている場所を自分の中に見つけてください。そうするとあなたは鍵を手にすることになります。今までは決して持ったことのない選択の自由を手に入れるでしょう。
今日話したことは、もしあなたが真に、深く感じてそれに取り組むならば、あなたがそこを通って進む、門、出発点だということが分かるでしょう。すべてが違っていて、喜びで生き生きしていて、意味のある新しい人生に向かって動き出し、そこには恐れや虚無の存在する余地などありません。あなたは、自分が理解したことを通してこの出発点に近づきます。というのは、この理解が、より多くの意志のパワーを正しい方向に解放します。より多くのエネルギー、ものの見方、人生とはこういうものだというより深い感覚を解放します。これは理論であるだけではなく、一度あなたが不随意のプロセスとエゴの機能の間のバランスを再構築すれば、あなたの内側深くで直接手に入れ、アクセスできる経験なのです。
みなさんに祝福を!平和のうちに、そして神のうちにいてください!
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