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Pathwork in Japan
No.154 意識の脈動
Pathwork Guide Lecture No. 154
UNEDITED版
1967年9月15日
意識の脈動
PULSATION OF CONSCIOUSNESS
最愛なる友人のみなさんにご挨拶いたします。これから始まるワークシーズン全体に、この時間だけでなく、あなた方一人一人の道におけるこれからのすべての努力、尽力、歩み – こうした努力が真摯で全体的なものであるならば、必ずや我が家を見つけることができるでしょう – に祝福をお贈りします。わが家とは、あなたの本当の自己、もっとも内奥にある真実の自己です。本当の自分でいるとき、人はわが家にいてくつろいでいます。足の下に不動の大地を踏みしめ、世界の中でくつろぎ、人生においてくつろぎ、安全で安心です。わが家とは、あらゆる問題に答が見つかり、恐れも憎しみもいっさい存在しない内なる場所です。恐れがあるときには必ず憎しみもあり、その逆も真実です。そのふたつは実はひとつであり、同じものです。わが家とは、永遠の幸せと永遠の命が現実のものであり、それが現実として体験される内なる場所です。
まず最初に、永遠の命とは相対的なものです。それはしだいに完全なものとなるのです。永遠の命が相対的だなどという言い方は、矛盾していて馬鹿げたことに聞こえるかもしれません。しかし、永遠の命の完全性というものは一夜にして出現することができるようなものではありません。それは、ひとつの次元から別の次元へと、意識が拡大していき、時間が拡大していくにつれて、少しずつ現れてくるものなのです。三次元の時間そのもののなかで、永遠性の感覚が育っていき、生命そのものが拡大していくのです – それは、ひとがより健全により全体的になってゆくにつれてそのひとの寿命も延びていくという意味だけでなく、そのひとの内なる感覚や内なる体験も拡大していくという意味でもあります。
毎年秋に新たなワークシーズンを始めるにあたって、いちばん最初のレクチャーはいわば歩調を決め土台をなすものです。それは、必要な繰り返しでもありますが、わたしたちの関心の重点がどこにあるかを全体像として示すものでもあります。それは、これからのワークの青写真を示すと同時に、これまでやってきたことに自然に続くものでなければなりません。ですから、このレクチャーは、注意深く検討するならば、これまでやってきたことを一続きに見せてくれると同時に、これからやってくるものの予告ともなるでしょう。今回のレクチャーのテーマは意識の脈動です。
誰もがご存知のように、命あるすべての生命体は脈打ち、呼吸し、動いています。しかしなんとも奇妙なことに、これらの特質は、生命の物理的な側面のみについてのものとみなされ、意識という面に関しては無視されています。けれどもどちらにもまったく同一の法則が適用されていることは間違いないのです。脈動について、基本的なことをいくつか簡単に挙げてみましょう。命あるすべてのものは、呼吸することと動くことを必要としているのと同様、脈動することをも必要としています。このように脈動することと呼吸することの間には相互的な関係があります。生命の動きはその両方に宿っています。生命体が健やかで調和がとれており平穏なとき、その動きは不随意で、リズミカルな間隔で起こります。たとえば健康なひとの鼓動について考えてみてください。それはとても規則正しくリズミカルです。心臓が病んでいたり心が乱れて恐れに満ちているときには、このリズミカルな性質は自動的に失われます。すべての健やかなるものはリズミカルに脈打ち、動いています。物理的なレベルでは、このリズムは、物理的な顕現物すべてに作用している時間の次元にしたがって起こっています。これは三次元の時間です。三次元の感覚で観察すると、リズミカルな動きは規則的な間隔で起こっています。この脈動は三次元の時間によって計ることができます。
不随意の運動は、少し前にお話しした、拡大、収縮、静止という三つの原理によって起こります。すべての命あるものは必ずこれらの原理に従っています。呼吸と脈動はこの真実をきわめて明確に証明しています。これはすべて、物理的なレベルで確認できます。まったく同一の法則が意識のレベルにも作用していますが、意識のレベルではそれらはそれほど明瞭に見てとることはできません。これらの法則を実感として理解し、体験するためには、魂の動きと自己の内なる現実にかなり波長を合わせる必要があります。それを人生の“外界の”事象と同様に疑う余地のない現実として体験できるようになるまでは、それは感覚的で直感的な知識にとどまります。
意識が調和がとれており宇宙の法則にしたがっているとき、それが刻んでいるリズムは規則的なものとなります。物理的な生命体は三次元のものですが、意識の次元は三次元ではありません。感情的な生命体や、精神的な生命体、あるいは霊的な生命体は別の次元に属しているのです。ですから意識のリズムの性質は、物理的な脈動の間隔と同じような規則性をもっているようには感じられません。三次元に適応した知覚にとって、意識の脈動やサイクルはリズミカルなものとは感じられません。それらは不規則ででたらめなものに感じられます。たとえば意識の拡大のサイクルは収縮のサイクルよりも長かったり短かかったりするように感じられるかもしれません。あるいは、ある拡大のサイクルが次の拡大のサイクルよりも長く続くように感じられるかもしれません。けれども、この別の次元に従ってみてみれば、これは法にかなっており規則的で調和のとれた動きなのです。それは、それ自体の内なる法則の範囲内で意味があり、個々の意識という観点や、そのそれぞれの運動が表現し意味するような意識の側面という観点からみた場合のみ理解することができるものなのです。
言いかえるならば、意識の脈動は、ある瞬間の意識の状態や、自己実現や成長の度合いを、あるいはそうしたものが欠如していることを示します。それは、成長がもっとも必要な場所や、他の場所を無視するという代償を払って重視されすぎている場所、といったことを示すのです。すでにみなさんもご存じのように、個々人の体験はそのひとの心の奥深くにある信念、概念、態度、感情、そして行動といったものの結果です。それぞれの体験とどのように向き合うかもまた、脈動のリズムを決定します。ひとは自分の人生における段階やサイクルによく気づきます。自分が「良い時期」や「悪い時期」を過ごしていることも感じ取ります。ときには、ある時期にはある方向にばかり行きがちで、人生のある特定の側面にばかり集中しているのに、別の時期には明らかにまったく違うことに重点が置かれているようだ、といったことさえ感じることがあります。こうした現れ方は当然、意識の脈動のいくつかの側面です。しかしそれらは、生命体の物理的な脈動のように規則正しい間隔であらわれるわけではありません。とはいえ相当の自己認識や発達の結果、きわめて鋭い知覚をそなえ、きわめて直観力にすぐれ、内なる現実ときわめて繊細に同調している人であれば、こうした変則的な様相が無秩序なものでも偶然のものでもないことをはっきりと感じとることでしょう。その性質はいまだはっきりとしないものであっても、それらもまた、ある秩序にしたがっているのです。
ここで、意識の脈動という観点からみた場合に拡大、収縮、静止という原理がどのようなことを意味しているのかを理解するよう努めてみましょう。拡大の動きとは外へと広がることであり、収縮の動きとは生命体の内部へと入り込み、あるいは集約することであり、静止の動きとはその両方を融合して一方から他方へと移ることです。これについては数年前にもっと詳しくお話ししたことがありますね。生きて、呼吸し、脈打っているこの宇宙においては、この3つの原理の意味のすべての側面が非常に重要です。
前にお話ししたように、健全な生命体では、こうした3つの動きのあるものから別のものへの変化は規則的に、意味あるものとして生じます。この霊的な面で重要なのは常に、成長であり、完成であり、完璧さであり、更なる創造であり、至上の喜びです。成長と喜びはひとつのものだからです。一方は他方なしには存在できません。生命体の成長において、拡大は発達を直接的表すものですが、収縮や静止という動きは取り入れたものを同化、消化、活用し、休息することによって間接的にそれを促進します。
誤認により歪められ、不安に苛まれている生命体にとって、拡大することは危険を伴う緊迫感にみちたものに感じられます。誤認は常に成長への抵抗をもたらさずにはおきません。不安に苛まれている人は怖れのなかにいます。そして怖れは拡大を、痛みを引き起こし脅かすようなものと感じさせます。怖れは不快感のなかで縮こまります。そのため、不安に苛まれている生命体は、喜びにあふれて拡大すべきときに不快感で縮こまります。そして、そうした生命体は引き攣り、固まり、あまりにも縮こまってしまって、生命が脈動することができなくなっているために、リズミカルな変化のなかで自然な収縮の動きが始まるべきときにそれが始まることができなくなります。
だれもが知っているように、人間に降りかかってくる、外的なあるいは外的なものであるように思われるすべての体験は実際には自分で作り出しているものです。それはすでに私たちの内部に存在するものの反映です。そもそもそれが自分自身の意識の内部に最初から存在していなかったなら、それが降りかかってくることはありえなかったでしょう。この考え方は、自分の無意識から切り離されてしまっている人にとっては、よくてせいぜい理論上のこと、そしてなにもかもあまりにも抽象的すぎることに感じられるかもしれません。けれども自分自身の無意識のさまざまなメカニズムとその現実を探求して見つけだし、それを特定し、それとつながることができるようになった人にとっては、私がここでお話ししていることは、疑う余地のない事実として体験されるでしょう。
ネガティブな外界の体験が降りかかってくるとき、それを作り出した、自分自身の内奥の部分と繋がっていない人は、その体験を拒絶し、その体験から引き下がり、それから逃れようとします。生命体は、異質に感じられる、どうしたらいいかわからないものを恐がってそこから離れようとし、引き攣りを起こします。しかし、望ましくない外界の体験は実際には自分の内側に存在している状態のひとつの側面であるわけですから、それと闘うことは自分自身と闘うことに他なりません。そのため、頑なになってその体験を拒絶することで意識の脈動を収縮させることになり、成長の法則に完全に背くことになります。この重要な意味をもつ適切な反応について、簡単に説明してみることにしましょう。
友人のみなさん、この一見理論上のもののように見える説明は、表面上そう見えている半分も理論上のものではありません。もしあなた方が自分の魂の動きに注意を払うのであれば、自分の注意や気づきを自分の感情と魂の動きに集中するのであれば、あなた方が自分の道の途上で今まさにこの瞬間にいる場所ですぐさま、そしてきわめて実践的にこれを応用するための方法を、お教えしましょう。ここ数年来のワークで、みなさんは少なくともある程度は、いかなる瞬間にも自分が何を感じているかに気づけるようになっているはずです。たとえばみなさんは自分が怖れのあまり引き攣ってしまっているときにもこれに気づくでしょう。私は魂の動きということについて繰り返し語ってきました。残念ながら大半の人びとはこのようなものが存在することにさえ気づいていません。しかし少しばかりの観察力をそなえ、自らの内側に目を向けて、自分の心のはっきりと感じられる動きを観察すれば、そうした動きが存在することに、その意味に痛いほど気づくようになるでしょう。あなたはたとえば、自分が自分自身と調和しているとき、自分自身と人生の間で全てがうまくいっていると感じられるときには、魂の動きが驚くほど違うということに気づくでしょう。こうした魂の動きにより、あなたの中には、繊細でありながらはっきりとした素晴らしい動き、生き生きとして喜びと調和に満ちた動きが広がります。外的な体験が疑わしく必ずしも望ましいものではないときでさえ、あなたは、自分の内なる生命全体が恐れることなく喜びにあふれて広がり、自分自身が外の世界にむかって拡大するのを感じることができるでしょう。このように恐れることなくこうした体験に向き合うことで、あなたはその体験を乗り越え、真に消化することができます。それにより、その脅威はすぐに消え失せます。収縮する動きが、引き攣りや詰まりを生じることはありません。それは有機的な状態でありつづけます。この内へと向かう動きの間に、意識はそのもっとも深いレベルで、その外界の望ましからざる体験をもたらした誤認を正します。外へと向かう動きが脈打つときに逃れようとすることなく、最初は痛みと感じられるものと向き合うとき、この取り込む動きによって、この痛みは最初は増大するかもしれません。が、それとの向き合いが真になされるならば、すぐに、その痛みは自然に減じてゆき、そして外へと向かう脈動が次に脈打つとき、その老廃物(誤認、怖れ)は放出されます – ちょうど物理的な生命体が血脈や心臓の鼓動により老廃物を放出するのと同じように。そしてすぐに次の動きが、最初は痛みに満ちていた場所を喜びで満たします。この安心感や喜びは、頑なになることや、体験の拒絶や、不自然な収縮によってこの霊的な脈動を止めてしまっているときには得ることができません。
あなたが自分の内なる道に同調すればするほど、あなたは自分の人生のそれぞれの段階が自分の進化においてどのような意味をもっているかをはっきりと理解するようになります。それぞれのどの段階も、あなたの本質の特定の側面に焦点が合わされています。そしてそれぞれの困難や苦しみはあなたに何かを要求します。そこにははっきりとしたメッセージ –- あなた自身の本当の自己からのメッセージ – が含まれています。あなたはどれだけ早くこのメッセージを理解し、学ぶべきことを学ぼうと思えるでしょうか? あなたはどれだけ早く、それを迂回しようとするのではなく、あなたの心の脈動を開放してこれを通り抜けようと心に決めるでしょうか? 前者は完全な幻想です、なぜなら困難との向き合いは実際には避けることができないものだからです。それは、あなたが自らの霊的な生命体をその苦難から癒すまで、さまざまな形で繰り返し現れることになるはずです。痛みにみちていたり、望ましくなかったり、危険であるように思われる体験から逃げることは、ちょうどそれと闘うことが自分自身と闘うことであるように、自分自身から逃げることです。その体験への恐れに屈すると、あなたはその体験を拒絶することになります。体験は自分自身の作り出したものですから、それを拒むことは自分自身を拒むことになります。心理学的にいうならば、これを拒絶することで、幸福と喜びの否定が生み出されます。これは、痛みに耐えうる者のみが喜びに耐えうるということがなぜそれほどまでに真実であるのかという理由を物語っています。
外界の生活はあなたの意識の内なる状態を反映したものにほかならないという原理と真実についてあなたがどれだけ理論を理解していたとしても、その体験を通り抜けることをいまだに避けているのであれば、それはほとんど意味がありません。キリストも同じことをこんな言葉で表現しています、「悪に抵抗してはならない」と。この言葉も、他のあらゆることと同様に誤解されやすく、ゆがめられやすい言葉です。悪とは、心の奥深くに埋め込まれたさまざまな誤認と、それが人生にもたらすことになるさまざまな避けがたい結果、すなわち恐れ、罪悪感、怒り、憎しみ、貪欲、残酷さ、身勝手さ、自他への破壊性に他なりません。この世界に存在するすべてのネガティビティは、現実に即していないにもかかわらず真実だと信じ込んでいることから生じます。人の私生活で生じているネガティブな出来事がどのようなものであるにせよ、それがその人の内側から、すなわち、その人が務めを果たし、行動し、生き、応答し、反応するときに従っている内なる間違った考えから引き起こされていることは間違いありません。私は、人の外側の人生と内側の人生はまったくつながりがないものだという幻想は、「目の錯覚」とほとんど同じようなものだと考えています。それ故、自分に訪れる一見自分自身とはつながりがないように見える体験から逃げること以上に愚かなことや自分自身に闘いを挑む行為は他にありません。
これと取り組む唯一の方法はその体験へと分け入ることです。意識の脈動という視点から見てもっとも実りある方法はこれから述べるようなやり方です。軽い苛立ちであれ、恐怖体験そのものであれ、あるいはその中間くらいの出来事であれ、何かあなたが萎縮してしまうようなことが起こったときには、内側がリラックスしたままの状態でいるようにしてください。自分の魂の動きのなかの自動的な反射による反応を、それがどのように自動的に張り詰めるかを観察します。いかに痛みにみち、あるいは恐怖にみちたものに感じられる体験であっても、それに対して開いた、リラックスしたままの状態でいることで、あなたはその体験が自分に起こることを許します。そのようにして、とにかくそれが自分のものであることを認め、そしてその体験の原因を自分自身のなかに探し始めます。その原因を探って理解するぞ、と心の中で宣言します。心の健全な脈動がその自然なプロセスを続けるのを許すことにより、自分の感情的な自己がこの“宣言”に沿うようにします。あなたはこうして心を開いたままの状態でありつづけ、それにより、戦いと防御による緊張状態にある場合よりも限りなくより適切な状態で理解したり応答したりすることができるようになります。
これには人生、宇宙、他者、そして自分自身の奥深くに存在する自己に対する多大な信頼が必要であるように思われます。あなたの魂の物質がリラックスした防御なき状態のままでいつづけることによって、自然な脈動のしなやかな動きが続くことをゆるすことによって、あなたは危険にさらされているように感じるでしょう。しかし、自己防御というこの自然に反した逃げ腰のやり方の方が、私がここで提案している方法よりも信頼に足る防護であると考えるのは、まったくの幻想ではないでしょうか? この点について長々と論じることもできますが、最善の道はいちかばちかやってみて、見つけ出すことです。あなたは必ず、いまお話ししたことについて真実を発見するはずです。あなたは、最初はいかなる代価を払っても避けるべき、恐ろしい脅威、あるいはとても耐えられない痛みだと思われたものが、実はいかに深い啓発であり、安全であり、幸福であったかをすぐに理解するようになるでしょう。あなたは自分の内側と外側の全ての生命体がいきいきと活動し成長するのを感じることでしょう。
本来力強く脈動しつづけるべきであるはずの収縮する動きが、無意識に張りつめ詰まった状態になってしまうとき、それが意味することを言葉にするとこうなります。それは「私はこの体験はしたくない」と言っているのです。この言葉は、この体験は自分自身のなかにある原因とはなんの関わりもないということを前提としています。そのため、自分の魂の流れに萎縮するような動きを感じとったときにはいつでも、自分がそのレベルで外界の現実と自分の内なる現実とのつながりを無視しているのだということがわかります。また、あなたはこの瞬間に、自分が幻想のなかで生きていること、そしてすべての幻想は痛みを引き起こすということも理解するでしょう。自分の自然な霊的な脈動を止めることによりあなたが避けたいと願う痛みにみちた体験は、このような幻想のうえに存在するものなのです。あなたが(良いことであれ、悪いことであれ)自分自身のものであるものを拒むとき、あなたの精神はその歓迎できない体験にたいする自己責任を否定することになり、あなたの感情はあなたの生命体全体の脈動の自然なリズムをかき乱すことになります。これは、人工的で無機的な手段で呼吸や脈動を故意に止めていることになります。
再度指摘しておきたいのは、これらの法則が人間の霊的なレベルと物理的なレベルでいかに一致しているかということです。私がお話しした、人間の動揺した心を癒すためのおすすめの方法は、物理的な身体にたいしてもまったく同じやり方で使うことができます。このような障害を現実的なやり方で取り除くためには、魂の動きは障害にかかわりなく、緊張がなく、開いたリラックスした状態のままでなければならないのですが、身体を治療するときにもそうである必要があります。仮に心臓に損傷を受けている人がいるとしましょう。もしその人がこのことにたじろぐあまり、緊張し、恐れおののき、萎縮しているとしたら、この人は病気を治すことができるでしょうか? -- まずまちがいなく、できないでしょう。彼は、病状を悪化させるだけでなく、このような魂の動きや反応によって、自分が心臓に損傷があるという事実への拒絶を表現していることになります。心臓の損傷を治す唯一の方法は、極度に張り詰めてしまったものを緩ませることです。この目的のためには、自分自身の状態を全面的に受け入れることを避けて通ることはできません。純粋に化学的な薬物療法ですら、この引き攣った心臓を人工的に緩め、ゆったりとして円滑で力強い柔軟な脈動をよみがえらせようとします。身体的なレベルと精神的なレベルをこのように比較して考えてみると大いに役立つことでしょう。それにより、創造の統一化という考え方を理解すれば、私がここでお話ししたことがさらに実践しやすくなるでしょう。
私がここで助言したことを実行に移そうとするときには、何かに脅かされているときに自分の内側を防御のないリラックスした状態にしておくのは、最初はとても危険なことのように思われるかもしれません。言うまでもなく、ここで言っているのは、心理学的な反応、すなわちあなたの中にネガティブで破壊的な感情や反応を引き起こす外的な体験のことです。時折生じる外界の身体的な危険のことではありません。そうした場合には、防御のために身体がぎゅっとこわばるのは自然でもあり、健全なことです。しかし、これはごく短い時間しか続かないため、例外といえるでしょう。ただし、あなたの人生においてある状況が定期的に繰り返される場合には、まったく話が別です。このような場合には、あなたが怖れを感じ、収縮する動きに萎縮が生じたことに気づいたときに、開いたままの状態でいるよう努めてください。内なる動きが、あなたの意識のなかの恐れがあるレベルの影響を受けることなく、それ自体の自然なやり方で起こるのに任せましょう。拡大、収縮、静止という動きによる脈動をさまたげることなく、この生命体が自然な状態で続いてゆくのを許しましょう。自然な状態にあるとき、収縮する動きはひとりでに始まっていきます。それにより、あなたは、これに続いて起こる有機的な拡大の動きへとごく自然に流れ込んでゆくでしょう。 あなたは、拡大する動きが最初に脈打ったときには痛みが感じられたものが、脈を打つたびにどのように痛みが減じてゆくかをはっきりと体験するでしょう。 拡大、収縮、静止という一組の動きが生じるたびに、あなたの自己認識、あなた自身の内的な真実への理解は拡大していきます。それはその動きが生じることと関わっているからです。 一組の動きが生じるたびに、あなたはやすらぎ、幸福、安全、そして喜びで満たされていくでしょう。外へと向かう動きが生じるたびに、この良き状態は増大していきます。その状態が内側から起こっていくままにさせてください、ちょうど身体の脈動が恐れや疑いにみちた態度によって妨げられることなく起こるままにさせなければならないのと同じように。自分の内なる真実を知りたいとただ望むことによって、このあなたの内にある法則性と協力してください。
簡単に言うならば、あなたの魂の動きを観察してください。その意味を理解してください。それらが自然に働くのを許してください。恐れによって自然な脈動に引き攣りを生じさせないようにしてください。恐れや抵抗を妨げずに、不随意の自己調整機能の法則性によって内なる調和が築かれるようにしてください。同時に、自分の内なる真実を知りたいという意欲をもって、また自分自身、受け入れたくない感情、そしてこうした感情を引き起こす外的な状況の間のつながりを理解したいという強い意欲をもって、真摯に誠実に自らの存在全体と協力してください。この自己との協力を、断固たる、しかしリラックスしたやり方でおこなってください。リラックスは全面的なコミットメントと結びついていなければなりません。この内なる真実に対する全面的なコミットメントが欠けていると、リラックスが緊張に取って代わられることがよくあります。
たとえ危険に感じられようとも、自分の魂の物質を防御せず自分自身を振動するままにさせてください。そうすることで、自分があまりにも無防備でむきだしであるかのように思われるかもしれません。しかしこれは真実ではありません。それは、あなたの心の健やかな脈動を回復するだけのことです。あなたはそうすることで、他者や自分自身から、損傷や破壊をもたらす行動を招き寄せるわけではありません。真実は全くその逆です。あなたの内側が平穏な状態で、あなたの脈動がそれ自体の有機的な法則にしたがって自然に脈打っているときにのみ、健全な自己主張が起こり得るのです。
友人のみなさん、以前にも言ったように、この話は、自分自身の内奥の自己をすでにある程度探求している人たちやこの話の内容を全身全霊の注意をもって汲み取る人たちにとっては難解でも抽象的な内容でもありません。この内容について考えてみて、それを自分自身に当てはめてみるならば、これがいかにすぐさま実践可能な内容か、みなさんにはわかるはずです。あなたが本当に感じていることに目を向けてください。恐れや痛みや罪悪感や怒りが自分の内側で自分に何をさせているか、あなたがどのように縮こまっているかを見てください。こうした魂の動きを観察してください。そうすればいずれは、全てがここで私がお話ししている通りであることがきわめてはっきりと分かってくるはずです。
望ましくない状況や体験にひるんでいるとき、人はそれを避けたい、拒絶したいと願い、そうすることでいわば自分自身を避け、拒むことになってしまいます。望ましくない状況や体験へのこのような対し方は無機的でまったく無益なやり方であるため、これは辛く激しいねじれた痛みを作り出します。お話ししたようなやり方で心を開いてこうした状況や体験と向き合った場合にも、最初は痛みがもたらされますが、この痛みはまったく違った性質の痛みです。それはすぐにやわらかい痛みへと変わり、はるかにたやすく解消することができます。それは意味と感覚へと変容していくのです。それは成長の痛みであって、死の痛みではありません。それはより以上のより良い人生を生み出す痛みであるため、最終的には喜びへと変わっていきます。その感情に封じ込められていたエネルギーが元々の本質的な状態へと戻っていくのがわかるはずです。
その痛みや恐れやその他の破壊的な感情に対して真に開いたままでい続けるとき、あなたはそれを自虐的に誇大化し、誇張することも、またそれを否定する – それは存在しないなどと妄想したり、それから離れることによってそれと向き合うのを拒んだりすることで – こともしません。あなたはただそれを通り抜け、そうすることでそれを至福という元々の性質へと戻すだけです。
これを行うにはとてつもない勇気が必要とされるように思われるものです。しかし、友人のみなさん、これもまた幻想にすぎません。なぜなら、回避と逃走によるすべての不必要な痛みを通り抜けるためには、間違った無益さという意味で、さらにとんでもなく大きな「勇気」が実際に必要とされるからです。自分自身から、そして自分が自分自身の内側や外側の状況において作り出したものから後ずさるための努力は、私がここで示した道を行くための努力よりはるかにずっと骨が折れます。
この道を辿るとき、あなたは自分自身の個人的な成長という観点からこの深い意義を理解していますし、こうした体験から逃れるのではなくこれを乗り越えてきていますので、痛みは必ず至福に変わるでしょう。そのようにして、あなたは、誤りや幻想、不健全さにより引き起こされた体験の場合ですら、それがそれ自体の自然で健やかなリズムを保つことを許してきました。これこそが、健やかさや安全、幸福を回復できる唯一の方法なのです。
私たちはいままで、真の自己を探求すること、自分の中にある誤認を見つけ出すこと、そして自分の精神的、感情的なプロセスを観察することに関わる精神的な作業にかなり集中してきました。感情の観察もどちらかといえば精神的なやり方で行ってきました。これからは、みなさんの中にはもうやり始めている人もいますが、この道におけるさまざまな新しいやり方(簡単に言うならば、身体的なやり方と形而上学的なやり方を組み合わせたものとでも言いましょうか)によって、みなさんは今後、これまで以上に魂の動きを感じることと観察することを学ぶことになります。こうした魂の動きは、それらに生まれながらに備わっている固有のリズムと法則性とともに、あなたの全人生を決定づけます。あなたの存在の在り方も、意識の状態も、あなたのイメージや誤認からの自由度や隷属度も、それらによって決まります。あなたの人生における体験の深さや範囲や性質、生命感や喜びの度合い、あなたの身体構造、そして存在のあらゆるレベルにおけるあなたの充足度や豊かさも、それらによって決まるのです。魂の動きとは、スピリットの鼓動です。
それでは、この話についてなにか質問はありますか?
質問:ここで言っている体験とはどのような体験のことですか? たとえば誰かが私にLSDでトリップしようと誘ったらどうしますか? 体験のためにやってみるようにと、アドバイスされますか?
回答:いいえ、もちろんしません、そういうことではまったくありません。私は、人はありとあらゆることをすべきだと言っているのではありません。そんなことをしたらまったく破壊的なことになるでしょう。それは私がお話ししていることに対するとんでもない誤解です。人間は判断力と選択の力を働かせなければなりません。人間はある体験を選ぶ自由も、拒む自由もあります。参考になるかどうかはわかりませんが、私が今お話ししているのはこの問題の原則についてであって、LSDについての話ではありません。LSDの問題については以前にお話ししていますので、今ここでその話を繰り返す必要はないと考えます。
このレクチャーでお話ししているのは、人が選ぶことができない出来事や状況や感情を体験することについてです。そうしたことはやってくるものです。再発する状況によって、困難や危機や不調和、破壊的な感情がくりかえし引き起こされます。そうした体験は自分が見落としている自分自身のなかの何かが表現されたものに他ならないのですが、人はあまりにもしばしばそれらを拒み、否定し、そこから逃げようとします。人がそれを見て見ぬふりをしたがる限り、そうした体験は、みなさんもお分かりでしょうが、信頼すべき規則性で繰り返し起こりつづけるのです。
質問:私には頭に思い浮かぶ体験が二つあります。一つはオーガズムで、もう一つは死です。脈動と振動には、あるところまで来るとそれらすべてが止むポイントというのがあるのではないでしょうか。オーガズムも死も、脈動も振動ももはや存在しない状態であるように思われるのですが。
回答:それらが止む、というのは錯覚です。ですが、皆さんの三次元的な適応と知覚は、これが錯覚だということを捉えられるようにはできていませんので、死について、この錯覚を確認するのはさらに難しいでしょう。三次元的な知覚は物理的なレベルをとらえているだけであり、(死の場合)物理的なレベルでは生存、振動、脈動はたしかに停止しています。三次元的な知覚には物理的なシステムの背後にある意識を観察する能力は備わっていませんが、物理的なシステムの背後で、意識は生存し、呼吸し、脈動し、振動し、そしてそれゆえ思考し、感じ続けているのです。
オーガズムについては、脈動や振動が停止するというのは確かに錯覚です。これは私がこのレクチャーのはじめにお話ししたことです。三次元的な知覚では脈動がリズミカルに顕現するのを観察することはできず、意識のさまざまなレベルの脈動はそれぞれ異なる法則にしたがっています。人は自分のもっとも奥深くにある自己と深く同調するようになった時にのみ、こうした顕現を認識することができるようになります。三次元のレベルにあるもので、意識やさまざまな側面がさらに拡大してもあなたが体験できない、あるいは体験することがないものなど、何もありません –こうした体験が起こるのが肉体の死を迎えてからであろうと、肉体に宿ったままの状態であろうと。実際、人はその存在が拡大し、さらなる次元へと成長するにつれて、少なからぬ、多くのことを体験することができるようになる、どころか体験しなくてはならなくなります。あなたが怖れを感じる体験にたいして引き攣りを起こさず、自分の内奥にある魂の動きが脈動しつづけるのを許し、自分が否定したい体験へと分け入ることができるならば、あなたは今生のうちに、この話の真相に触れることが可能になるでしょう。
私たちがこれまで一緒にやってきたワークによって皆さんもご存知のように、この体験に対する恐れは、痛みにみちたネガティブな体験に対してだけ存在するのではなく、世界中でもっともポジティブで望ましい、期待通りの体験に対しても同じくらい、あるいはそれ以上に存在することがよくあります。ひとは、痛みを否定する分だけ、祝福そのものである最高の喜びも恐れます。痛みを受け入れることができる人は、喜びにも耐えることができます。あなたが先程おっしゃった二つの体験、すなわち死とオーガズムは、創造された存在が通り抜けることができる最も深い体験です。それらは、自我がその支配力を手放し、人が宇宙の宇宙的な力へと委ねる -- 愛と信頼をもって – からこそ起こる体験だからです。真のオーガズムはこの姿勢がなければ起こり得ません。そして健やかな死もまた、こうした内なる姿勢にあるときのみ起こります。そうであってこそ、それは喜びに満ちた成長の体験となります。人間は健やかになればなるほど、この全体的な信頼に満ちた委ねを恐れなくなります。このような人は最も多くの至福を体験します。そしてまた、こうした人は死を恐れません。
繰り返しになりますが、喜び、歓喜、恍惚に耐える能力は、痛みやフラストレーションは自分が生み出したものだということを理解したうえで、適切かつ真実に満ちた方法でそれらを消化する能力によって決まってきます。これを別の言葉で言い換えるならば、あなたが冷静に、誇張することなく、自分のネガティビティ、自分の恐れ、自分の怒り、自分の激怒、自分が好まない特質を見つめ、それらと本当に真正面から向き合い、それらを理解することができるとき、あなたは私がお話しした状況を生み出します。そうした度合いだけ、あなたは歓喜や喜び、幸せを体験することができるようになります。それら二つの間には直接的な関係があります。痛みを健全で建設的で現実的なやり方で受け入れることができない人は喜びを受け入れることもできない、ということをあなたは必ず理解するはずです。
この話について、また皆さんが抱えている問題についてさらにご質問がある場合には、喜んで次回の集まりのときにお答えします。あなた方すべてに祝福を。皆さん一人一人が自分の道に対して、そして皆さんを人生から妨げ、切り離している自分のブロックに対して、新しいやり方でこのワークシーズンをスタートされますように。あなたを人生から、すべての良きものからブロックしている領域を成長させ、展開させ、拡大させ、統合し、正すという決意をもって、あなた自身を強めるため、あなたの内にある神なるものの現実へと深く浸ってください。この成長に抵抗することの無益さ、不要な浪費に気づく助けとなる導きが自分の中からやってくるのを許してください。そして皆さんが、こうした内なる魂の動きにさらにさらに同調することができ、それにより、素晴らしい宇宙的なバランスを再び回復する助けとなることができますように。これはまた、あなたの内にある神なるものが得られる可能性にも影響を及ぼし、それによりあなたは自分の独立した自我全体を統合し、確立することができるようになるでしょう。皆さん一人一人に祝福を。平和のうちにいてください、神のうちにいてください。
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