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Pathwork in Japan
No.155 自己に対する恐怖「与え、受け取ることについて」
Pathwork Guide Lecture No. 155
UNEDITED版
1967年10月13日
自己に対する恐怖「与え、受け取ることについて」
FEAR OF SELF; GIVING AND RECEIVING
親愛なる友人の皆さま、ご挨拶申し上げます。今晩のレクチャーがあらためて、皆さんの役に立ち、皆さんを強化することとなりますように。そしてその結果、自己実現の道をさらに切り開くための祝福となりますように。大胆不敵さは、あなたの真実の姿を実現するための基本的な前提条件です。最後に行ったレクチャーで申し上げましたが、すべての恐怖は自己に対する恐れに端を発しています。最奥の自己を恐れていないのであれば、人生における他の何も恐れるはずはないからです。したがって、死さえも恐れるはずはないのです。自己に対する恐れが鍵なのです。自己と対峙するという集中的な歩みを始める以前の人間は、まだ知れぬ自分自身の深さを自分が本当に恐れていることに気づいていません。人生の道中にこの恐怖に気づくかもしれませんし、気づかないかもしれません。いずれにせよ自己に対する恐れを数々の外的なことや、もしくは他の恐怖に投影します。投影され置き換えられた恐怖もまた、拒否され、隠蔽されている可能性があります。例えばある人が、人生のある特定のことに対して恐れを抱いているとします。自己に対する恐れという隠された恐れは、ひとつの恐れに集約されているかもしれませんし、複数の恐れに表れているかもしれません。もしくは、人生そのものを恐れ、避け、遠ざけているかもしれません。なぜなら、自己を恐れているその程度によって、自己は遠ざけられるからです。生と死は究極的にはひとつですから、こういった一般的な恐怖はさらに、死の恐怖へと投影される可能性もあります。片方を恐れる者は、その逆もまた恐れるからです。
パスワークでの道のりが密度を増し、意識がじゅうぶんに高まったときにはじめて、自分が最も恐れているのは自分自身なのだということに気づきます。自分自身と出会ったときの窮屈な感覚を感じることによって、あるいは程度の差こそあれ自分の内に明らかに存在している抵抗を感じることによって、防衛を手放すことへの恐れや、自然な感情が表に出ることを許すことへの恐れの感覚によって、自己に対する恐怖を認識します。そもそも、自分がどれだけ防衛をしているのか、自分の自然な状態をどれだけ禁じているのかも定かではないはずです。というのも、防衛があまりにも当たり前になっているため、それが不自然なものであり、手放しさえすれば大分違った人になれることにすら気づいていないのです。無意識の力に身を委ねることができないときは、最奥の自己に不信感を抱いているというサインなのです。
先回のレクチャーの続きとして強調しておきたいのですが、魂の自然な動きを抑制する人は、魂を恐れているのです。魂が自分をどこに導いていくのか、自分に何をさせるのかと恐怖を抱いているのです。この恐怖を意識することができた人は皆、解放への大きな一歩を踏み出したと言えるのではないでしょうか。自己に対する恐れに気づくことなく、それを乗り越えることはできないからです。
手放すことへの恐怖があるとき、本当の自己は表に出ることができません。本当の自己とは、自発的な表現としてのみ現れることができます。外的な学習を通じて獲得する知識ではなく、自分の中から直感的に現れる知識を獲得するときもまた、この自発性が働いています。自己に対する恐れが比較的少ない人だけが、自己の存在を記憶し、内なる存在の直感的で自発的な顕現を認め、それに従うために必要な勇気をひとつにすることができるのです。真の芸術家や偉大な科学者はこのプロセスによって重要な発見に至るわけですから、専門分野においては内なる自己への恐れがないと言えるのでしょう。しかし専門以外の場面で、内なる存在をブロックしている可能性はあるのではないでしょうか。
直観的な知を得ることに適用されるときも、人格のすべてのレベルを鮮やかに生き生きと、そして喜びに満ちた状態へと導く、深く完全なる感情に適用されるときも、真の自己の顕現のプロセスは常に深いものであり、創造的です。
自己に対する恐れのもうひとつの側面に、社会環境に自分が従えていないのではないかという恐怖があります。自己の真の価値は、社会が掲げる価値とは異なる場合があり、内部の現実が環境と一致しないこともあるのです。そのため、受け継がれた規制の価値観を拒否するのは、自分の内面を恐れていない人だけです。外的な価値観は、正しいか間違っているかにかかわらず、自らが自由に選択したものでなければやはり、足かせなのです。
自己に対する恐れの中でも特に重要なものに、悦び(プレジャー)に対する恐れがあります。なぜなら、すべての存在は至高の歓び、そして強烈な悦びのために生まれたものだからです。ほとんどの人はこういった悦びの経験をまったくしていません。
真に健康で充実した個人、つまり生まれながらの能力に応じるよう機能している人は、悦びの流れと共に内に顕現する生命力に、完全に身を任せることができます。こういった人は無理なく、この強力な力を表現します。恐れることも、拒絶することもなく、システム全体が美しい強さとエネルギー、そして喜びによって活気に満ちている状態です。
守りと防衛に巻き込まれている人は、内なる力が表に出ることがないように、常に見張らなければならず、程度の差こそあれ、自分を麻痺させてしまいます。死んだ状態になってしまうのです。世界では今、かつてないほどに自己疎外や生き生きとした感覚の欠如、繋がりが断たれた状態が蔓延っています。死んだようなこの状態は、空虚な感覚や無意味な感覚を呼び覚まします。警戒心が過ぎる、否定的な態度の外側のエゴが、生命力を故意に禁じているために死んだ状態になってしまうのです。
平均的な人間では、時に生き生きとした感覚を経験することもありますが、この感覚はあまりに規制されているため、完全な形の生きた感覚とは比べ物になりません。この生き生きとした感覚を、たとえじゅうぶんな言葉で記述する方法があったとしても、その言葉を誰も信じようとはしないでしょう。自分にはどんな人生が可能で、どのように機能する可能性があるかすら知らないのです。人生はもっと違ったものになったかもしれないという漠然とした憧れや感覚があるだけです。そして残念なことに、この憧れは幻想であり、現実味に欠くとし、こうあるべきだと仮定している、半分死んだような状態に自分を引き戻してしまうのです。この憧れを自分の中に認める勇気のある人は幸運です。それがどれだけ人生の後半の方にやって来たとしても、この憧れは正当であり、もっとたくさんのことを得ることができるのだという可能性を受け入れるところから始めるべきなのです。そして、あなたが生きることを始めれば、同時により多くを手放すことができるようになるのです。自己に対する恐れをどれだけ乗り越えられるかで、どれだけを生きることができるかが決まります。
それでは皆さん、この恐怖にもう少し近づいて考えてみましょう。意志と思考で常に注意と防衛をしなければ何か危険なことが起こると、人はなぜ恐れるのでしょうか。この危険な何かとは、存在の深くから、自発性のある場所から現れているようですが、これは一体何なのでしょうか。これを最もシンプルに表した場合、ふたつの共通項に落とし込めると思います。ネガティブで破壊的なものが出てくる可能性と、創造的で建設的、拡大し、楽しいものが出てくる可能性のふたつです。前者のみが恐れられていると、ぞんざいに思われがちですが、それは違います。もしも妨害されることなく、操作されることなく、邪魔されることがなければ、すべての人の内には自由に流れる魂の動き、宇宙の流れがあるのです。自由に流れる魂の動きや宇宙の流れは、邪魔をされたり操作されたりすることさえなければ個人の内に顕現しています。ネガティブな破壊性はもちろん、こういった顕現を抑制する実質的な原因には違いありませんが、憎しみ、敵意、憤り、憤怒、怒り、残酷さといった人が恐れる破壊的な力には、想像できる限りの様々な度合いがあるのです。どんな人の内にも存在するのです。どの程度ポジティブな表現が禁じられているかによって、破壊性の程度が決まります。ポジティブな表現は有害であり、危険に繋がる可能性があるという、無知な信念によってまずは両親が禁じ、そして環境がそれに続きます。そして後に、その人自身が自らを禁じるのです。友人たちよ、このことを理解することは非常に重要です。大人になってしまいさえすれば、過去によって強制されることなどないのです。もともと他者が禁じた建設的なこの力を、あなた自身が自制し続けることで、自分自身を禁じているのです。
ここでまた例の悪循環が姿を現わします。人の生に組み込まれた誤った在り方や、その他すべての間違いの結果生じる悪循環です。ポジティブな力が制限されるために、ネガティブな力が大きくなります。より正確に言えば、ポジティブな力が捻じれ、邪魔をされ、変換され、歪められた結果、ネガティブなものになるのです。ご存知のように、何か新たな別の力が生まれるわけではないのです。怒りは、新たな感情でもなければ新たなエネルギーの流れでもないのです。それはもともと愛だったものであり、許されさえすれば愛に戻ることができます。実際、元の形に再変換することは簡単です。元々の形が自然だったわけですから。例えば、あなたが怒りを受け入れ、適切な状況下で、誰にとっても破壊的ではない方法でそれをじゅうぶんに経験し、感情を完全に認識しつつも、バランス感覚を保ち、その感情ゆえに全人格を否定するようなことがなければ、怒りはあたたかさや悦び、そして愛へと変容することができます。こういった変化は直接的に起こることもありますし、その他多数の感情、例えば、悲しみ、自己憐憫、痛み、健康的な攻撃性、そして自己主張などを通して間接的に起こることもあります。すべてのネガティブなエネルギーの流れを経験し、白状しなくてはなりません。そこにネガティブなエネルギーが存在する限り、今ここに、それが存在することを許さなくてはなりません。そうしてはじめて、不自然さや破壊性は再変換されるのです。
さて、概説した健康的な手順をあなたが避けた場合に永らえることになる悪循環に話を戻しましょう。怒りが大きければ大きいほど、怒りに対する恐怖は酷くなります。その結果、防衛が強まるのです。あなたが防衛をすればするほど、自然でいることは難しくなり、破壊的な感情を元の喜びの流れに再変換することも難しくなります。
先程もお伝えしましたが、多くの場合、破壊的な力だけでなく、愛と悦びも同等に恐れているのです。なぜ愛と悦びを恐れているのでしょうか。それは、子供が愛と悦びは間違いで危険であると理解させられているからです。愛と悦びは、内なる自然の性質を信頼する無防備さを必要とし、人はこれを恐れるのです。自己が自分自身をまったく恐れていない場合にのみ、愛の力はその生命を維持することができます。防衛を手放すと、消滅してしまうように感じるのです。なぜなら、防衛を手放すとき、人生には警戒心のないエゴ以外の何かが協力し、入ってくるからです。しかし、この協力なしには人生は貧しいものです。とはいえ、この協力を受け入れれば、恐れているものとの鉢合わせは避けられません。したがって、悪循環にいるとき、愛の力を恐れるのです。愛の力は、すべての自然さや自発性を不可能にする警戒心の強さ、堅苦しさ、自身を庇護する防衛を手放すことを要求するからです。こうなるとフラストレーションと空虚感は怒りと憤怒を増強し、その結果自己に対する恐れは募ります。そしてこの悪循環が続くのです。
自分の中の恐れと対峙するために必要となる抵抗の克服。この克服に向かう決定的な一歩を踏み出すことができない人が、今述べたようなプロセスに陥ってしまうのです。自分の中の恐れと対峙することは、疫病のごとく、人々から避けられています。恐れについての抽象概念を作り上げることは適切ではありません。恐れを真に生き、ダイナミックに経験しなくてはなりません。これは避けられず、必要なことで、私たちが常に話している自己との対峙を構成している要素なのです。一度、恐れと対峙してみると、難しい、危険だ、という考えは取り越し苦労だったことが分かります。実際、安堵と解放、生き返る感覚はあまりにリアルで素晴らしいので、振り返ってみると、ためらっていたことが愚かに思えるほどです。この一歩を踏み出せる人は恵まれた人です。これができてはじめて、人生の道が開き始めるからです。そこに存在している気持ちが何であれ、手放し、存在しているものが姿を現わすのを許さなくてはなりません。
すべての誤解を避けるために、もう一度強調しておきますが、閉じ込められた怒りを行動化するという意味ではありません。これでは自分に返ってくるだけです。ここでお話ししているのは、こういった感情が害とならない、セラピーとしてのスーパービジョンの状況下で表現し、感じる必要があるということです。実際、自分の破壊的な感情を認め、引き受ける責任の度合いが増すほど、自分の意志や意図に反して行動化してしまう機会は減ることでしょう。こういった行動化はいつでも、周りから許容されているよりも遥かに強い感情を自分が感じているのに気づかないまま、片づけられてしまいます。しかし行動化は、当人が認めていてもいなくても、必然的に他者に影響を与えます。すべての人の人生で日々起こるこういった行動化は、暴力的ではないかもしれません。しかしそれは、よこしまで間接的であるため、より破壊的なのです。このことはじゅうぶんに評価されておらず、過小評価されています。
的な感情の強さそのものを、直接表現し、経験するとき、お話ししているような問題をすべて避けることができます。表現と経験の実行が完全であるほど、悦びの感情への変換は速くなります。この後に何が起こるかについては、その人が悦びの感情をどの程度経験できるかに依存します。そしてどの程度経験できるかはまた、複数の事柄に依存します。そのうちのいくつかについてはご説明したいと思います。
先程お話ししたことの中には、自己に対する恐れというプロセスにもう少し光を当ててくれるものもあるでしょう。恐れは間接的な形でその姿を現わします。だからこそあなたは引き続き恐れを合理化するのです。自己に対する恐れが存在する限り、自分の人生の自由と成就を手に入れることは不可能です。我が友よ、これは絶対に不可能なのです。自己に対する恐れを認め、白状し、「私が今この瞬間にいる場所はここだ。理由はどうであれ、自分の中にある何かをうまく外に出せていない」と言ってしまった方が、恐怖を押しのけ、それがあたかもそこにないかのように信じようとするより、よっぽどいいのではないでしょうか。
さて皆さん、ここから一歩先へ進めて、主題と直接繋がりのある話題を取り上げたいと思います。これからお話しすることは、人の内なる生について新たな観点を与えてくれるものだと思いますので、理解することはとても重要です。ここのところ心理学は、満たされない人間のニーズは人の心理に有害な状態を作り出すと仮定しており、これは正しいと思います。人々はこのことに大きな重点を置いています。適切な物質が与えられないとき、体の機能は妨害されてしまいます。愛、愛情、あたたかさ、自分という個人を受け入れてもらうというニーズ。魂が生き延びるのに必要なこれらの要素が与えられなければ、魂もまた同様に、妨害されてしまうのです。魂も体も、悦びを必要とします。悦びがなければ、人は不自由になり、成長は妨げられてしまいます。
無力な子供は他者や外の世界から、すべてのニーズを受け取らなければいけないというのも事実です。しかし、与える、ということの大切さは、ほとんど取り沙汰されていません。何十年もの間、じゅうぶんに与えられてこなかったことに端を発するフラストレーションが過度に注目されてきましたが、じゅうぶんに与えることができないことから生じるフラストレーションは無視されてきたのです。子供の頃にじゅうぶんに受け取れなかった人は、与えるのが難しいという仮定も正しいわけですが、大抵の場合、話にこの先がありません。受け取りが不十分であることから生じる損傷の治癒は、自分は過去に対して無力ではないと気づき、新たなバランスを確立する力が自分にはあること気づいたときに、遥かに良い結果を出すことができます。しかしこの気づきは、自分の内にあるものを与えることができないときのフラストレーションの痛みの方がより酷いものであると理解してはじめて、やってくるものなのです。
心理学の中のひとつの側面を過剰に強調してきたことで、何世代もの自己憐憫に浸る人々、子供の頃にじゅうぶんに受け取ることができなくて損をした、もうずっとこのまま不自由の身だと嘆く人々を生み出したのです。切り開き、与える能力は、その可能性を熟視し、考慮さえすればいつでも自分の中に存在しています。与えたい気持ちを自制することによる痛みは大きく、過去にじゅうぶん受け取れなかったことに対する痛みを上回ります。冷静に考えれば、容易に理解できると思います。何らかの物質や力、その他それが何であっても、蓄積を繰り返せば、余りがでてしまい、余りは緊張を生み出します。皆さん、あなた方が恐れの後ろに隠していたとしても、自分で気づいているかどうかに関わらず、そこには余った何かが存在しているのです。したがって、あなた方の多くは、他者から受け取れなかったと嘆いているものが何であれ、それを人に与えることを自分に許していないことによる痛みを、少なからず感じているのです。
こういった魂の動きが持つエネルギーの流れは連続的です。終わりのないプロセスなのです。健康的で満たされるためには、このプロセスに協力し、プロセスを機能的に継続しなければなりません。他者にポジティブな力を手渡し、他者から流れ込むものを受け取るという、人生に規定された法則に従うことをすなわち、機能的というのです。
宗教は与えるということを強調してきました。長い間宗教は、愛を与えることは受け取ることよりも尊いと説いてきました。愛、慈悲、理解、気持ちを贈ることの重要性を、形を変えて、常に強調しています。過去でも、そして今でもよく見受けるここでの歪みは、愛とは犠牲を通してのみ果たすことができる敬虔な言いつけだというものです。ここでイメージが形成されます。愛することは、自分自身を不毛にすることだと。愛することは、自己犠牲的な剥奪を含意することになります。人を愛し、他者から愛されるとき、何らかの形で自分が損をし、痛みを伴わないのであればそれは愛とはみなされないのです。
愛の言いつけはより抽象的になり、自分の利益に反する行動を強制する脅威を含むようになります。今日のこの日まで、人々の無意識の中での愛の概念はまさにこのようなものなのです。これでは人々が愛することを恐れるのも無理はありません。愛は良い人になるため、はたまた神や権威を喜ばせるための、悦びに欠けた、犠牲的な、何かを剥奪される行為として表現されているのですから。体内で引き起こされる楽しい感情が否定され、この感情は罪深いものだと非難されるなら、愛が拒絶されるのも不思議ではありません。こうなると、人は二重に愛を恐れることになります。というもの、自然な形で愛が顕現するのを許せばそれは「邪悪」だとされ、愛の力の源である感覚を切り離してしまえば、今度は不快な義務となってしまうからです。
人類は両極の間で揺れ動くことになります。貪欲で利己的な子供であり続け、独占的に受け取ることを要求し、人に与える傾向などまったく持たないでいるか、もしくは先程例に挙げたような間違った愛の概念に陥るかのどちらかです。このふたつの選択肢はどちらも望ましくないものなので、どちらかの傾向が強く出るにせよ、人はこのふたつの間を行き来することになるのです。
あなたが偉大な正直さと、細かな洞察力で自分自身を見るときにはじめて、どちらの歪みも自分の中にあるということが分かるでしょう。さて、このような概念や誤った見方が道を妨げているとき、どのようにしたら与え、受け取るという健全な流れを作り出すことができるのでしょうか。このどちらの両極にも、自己に対する恐れが存在しているはずなのです。自然に、思わず湧き上がるような衝動とは、大自然の姿がそうであるように、惜しみなく、豊かに、寛大に他に与えたいという衝動だからです!これは、最も外的で物質的なレベルにも、そして最も微妙なレベルにも当てはまります。自然で寛大に他者に与えることができているほど、人格が自虐的であったり、苦しんでいたり、自分自身から何かを奪ってしまうようなことはなくなります。自分を貧しくし、自己主張ができなくなることによって、他に与えることを偽るほど、本物の寛大さや自発的な外への流れは減ってしまうのです。
日常生活の中には、自己を保持するか、あるいは与えるかの決断に迫られる場面が数多く存在します。問題そのものは重要ではないかもしれませんが、その下にある態度の方は重要です。自己を検閲し、他者をうらやみ不平を言い、他者を恨み排除する古い分離の状態に執着するのか、または自然な態度が自己の深くから表へと姿を現わすのを許すのか。これを自問しなくてはなりません。後者は自然に起こることであり、無理に起こすものではありません。相手の新たな現実を見ることになり、うらやむ気持ちを持ち続けることが無意味に思えるようになります。傲慢なプライドを捨てることを恥じることもなければ、屈辱も感じません。理解することや他者を許すことは、個性を失うこととは別だと分かっている状態です。
このような日常の些細な出来事の多くは、受け取ることの欠如よりも多くの痛みを引き起こす自制というブロックを緩めます。これができるようになれば、すべてはより簡単になり、あたたかな感情が自然と外へ流れるようになるでしょう。しかしそのためには、他を排除し制限のある古いやり方に留まるのか、はたまた内から生じる新たな力が顕現するにまかせ、それに従うのかを、どこかの時点で選択しなければなりません。言うまでもないことですが、決定を迫られるこの瞬間自体に気づく必要があります。この瞬間は、他の真に無意識なものと比べると、そこまで無意識なわけでなはく、どちらかというと表面に浮上しているものなのですが、ほとんどの人はこの瞬間をごまかしたがり、日常生活で出会う数々の問題に存在する小さな「決定する瞬間」に気づかないようにしています。小さな「決定する瞬間」に気づき直面すると、あたかも自分が絶壁に立っているかのように感じるかもしれません。新しいやり方は危険に思えるかもしれません。頭の中では、そんなことあるはずがない、おかしいじゃないかと分かってはいるのですが、それでも古く、冷たく、分離した在り方が安全だと、どこかで思っているのです。他に与えるという、一見新しい内なる力に身を任せることは、大きな未知の波に乗るかのように感じることでしょう。もしかすると、そこに喜びや解放感を感じるかもしれませんが、だからこそ、この新たな在り方が示唆するものを恐れるのです。あなたの中の破壊的な態度がたとえどんなものであったとしても、外面的にどんなに隠されたものでも、もしもあなたがそれを手放すことができれば、まったく新しい内なる生き方を確立することができるのです。これはあなたが求め、望んでいた癒しです。これが癒しの在り方なのです。これ以外の癒しはないのです。
自己観察がこの時点に達すると、この一歩は、すぐに踏み出せるものではないことに気づくと思います。しばらくの間、このシーソーのような状態に佇み、どのようにして自分は自らを遮断しているのかを明確に観察することになるでしょう。執着することによって自分を外に締め出してしまっているのです。あなたの魂の内にある宇宙的な力を制限し、外への流れを抑制することで自分を保とうとしているのです。この絶壁の先端で自分自身を観察すると、両方の選択肢が示唆しているものに気づきます。抑制された古いやり方が持つ硬い構造と達者なやり口、そして新たに眼前に開けた展望を。この決定の瞬間、先端でしばらくの間自分を観察するとき、自分にプレッシャーをかけないようにしてください。シンプルに、豊かさに身を預け観察をし、それぞれの方法が何を意味しているのか感じるようにしてください。そうすることで、生命、愛、感情、幸せ、展開、そしてあなたが与えんとしているものを与えることを拒否している自分の古いやり方を、ようやく手放すことができるようになるのです。この時点では、まだ強い感情を抱かないかもしれませんが、他者ありきの、新しい理解がもたらされるのです。
もしも流れを止めることがなければ、この新たな在り方は着実に強まっていきます。流れる動きは美しく、言葉でじゅうぶんに表すことは難しいのですが、そこには素晴らしい自己制御のメカニズムが含まれており、完全な信頼に値するものです。自己中心性や、利己性、自己憐憫、または自滅的な態度を手放すことで、自己に対する恐れは自動的にある程度、軽減します。新しい何かが内側から始まるのです。創造的な力は、機能的な形で作動し始めます。
あなたはもう、自分自身に邪魔されることはないのです。この自然な動きに従うことで生じる壮大な悦びがあなたの存在を満たします。もはやフラストレーション、つまりは痛みを、自分自身に課すことはなくなるでしょう。与え、受け取る悦びが可能になるのです。 この新しい方向へ向かわない限り、どちらを受け取ることもできません。拒絶と孤立の古い場所にとどまるとき、自分自身を開き、受け取ることはできないからです。制限を手放さない限り、与えることが不可能になるだけでなく、受け取ることも同様にできなくなってしまうのです。閉じられた容器では、空の分のみ満たすことができるのです。自分を固め防衛するとき、危険から身を守るのに失敗するだけでなく、あなたから流れ、そしてあなたへと流れる健全で普遍的な力も締め出してしまいます。
この防衛は自分自身を貧しくし、力を奪うため必然的に人は、激怒することになります。平均的な人では、自分を硬くし、制限し、防衛し、警戒しすぎ、自発的になれず、常に頭と意志で決定し、絶対に創造的なプロセスが形になることを許さないという不合理な窮地に置かれた自分に気づくことでしょう。つまり、創造的なプロセスに加担したいという、あまりにも大きなニーズが満たされず、フラストレーションを感じることになるのです。与え、受け取るという流れの中にいることで生じる強烈な悦びと楽しみを自制することによって、フラストレーションを募らせます。今お話ししている悦びは、体から切り離された難解で、異世界の悦びなどではありません。肉体的な悦びある必要もあるのです。人は世界が自分に与えてくれないと憤慨しているのですが、皮肉なことに世界は与えようとしているのです。しかし、この人は自分に与えられているものが何であるのかが一向に分からないのです。実際、具体的に何が与えられていないのかも分かっていないのです。あなたに与えたいと本当に思っている人を最も恨み、与えられるものを拒絶し、自分自身に流れ入ろうとしているものからさらに自分を遠ざけるのです。このプロセスに身を委ねれば、与え、ふたたび創造的なプロセスの一部となるための一助となることでしょう。言い換えれば、人生の過程で起こる絶え間ない動き、絶え間ない再生、与えそして受け取るという宇宙的で創造的な流れから自分自身を切り離しているのです。
さて我が友よ、今お伝えしているのは、美しくも日常生活で実現可能ではなく、非実用的な哲学などではありません。そうではないのです。今お伝えしているのは、何よりも実用的な現実であり、あなたが選択さえすればいつでも適用可能であり、先程述べたような「決定の瞬間」にあって自分自身を観察できると感じるすべての瞬間に適用することができます。この真理は、肉体、精神、感情、スピリットというすべてのレベルに当てはまります。すなわち、あなたという全体に当てはまるのです。これらはすべてひとつであり、同じものなのです。
与えられるものと流れ出るものの両方を拒否するとき、人は「決定の瞬間」に直面することができません。つまり、貧しい状態とは自らが招いたものなのです。新しい外への流れは、抑制、恨み、破壊性、激怒、堅苦しさなど、あなたが変えたくないと思っていることをきっぱりと、なしにしようと働いているのです。
絶壁の先端に身を置いているようなこの状態を自分の中で見つけることができる人には今、最高のチャンスが訪れていると言えます。癒えたい、自由になりたいという善なる意志が、内なる力と源に手を伸ばすことを可能にしてくれるでしょう。そして新しい在り方という自らの選択を遂行することを可能にしてくれるでしょう。自己に対するすべての恐怖は、最終的には消えてしまいます。適切な環境の元で、自分自身のネガティビティに対する恐れを表現すれば、その恐怖は消えてしまいます。この恐怖が消えれば、また新たな恐れ、つまり、悦びに対する恐れ、幸せに対する恐れ、成就に対する恐れ、制限のない流れに身を置くことへの恐れ、そんな恐れに取り組むことができるようになるのです。そして、自分の中にあるものを与えたいと望み始めたころと比べて、幸せや悦びに順応することはそれほど難しいことではないと分かるでしょう。受け取ることだけを求め、与えないときにのみ、恐れは耐え難いものになるのです。意識的であっても無意識であっても、受け取る状態にはまってしまっている人は、成就や悦びを恐れていることになります。自分が置かれている苦境の全体的な意義と影響に人は気づかず、自分が満たされていないことに対する不平を世界に向けるのです。これらの苦情や恨みは、人間の人格の数だけ存在します。こういった人の多くは、人生に対してこのような不平を言っていることに気づいていません。これもまた、合理化されている可能性があるのです。あなたの中にどれだけの不平があるのか、自分から何かが奪われていると感じ、ネガティブな場所から出ることをどれだけ拒んでいるのかを自分の内に見出すことは、パスワークであなたが行わなければならない個人的な作業のひとつです。自分の内にある富を他に与えることを止め、つまり受け取ることを恐れているために、何かが自分から奪われていると感じるのです。二重にフラストレーションを感じているのです。ネガティビティを手放すこと、そして自分自身を他に与えることを拒否することは、悦びや楽しみ、幸せを受け取ることを不可能にしてしまいます。これには、感情さえも伴わない、物質的な成功も含まれています。あなたはそこに大いなる喜びが存在していることを感じ取ることはできるのですが、手に入れることができないままでしょう。その喜びに耐えられないのです。なぜなら、他者から得るものにただ身を浸していたいと望む場所に、はまり込んでしまっているからです。そうはいかないのです。開放と幸福を達成するための努力をする際には、受け取ることができないというフラストレーションと同等に、与えることができないことに対するフラストレーションにも注意を払わなければなりません。
最愛の友人たちよ。今お伝えしている言葉が、あなた方が一方では熱心に求めてやまず、また他方では否定している変化を可能にしてくれるよう、道を開いてくれるよう願っています。おそらく、今日の言葉は、あなた方の内に煌めきを扇動し、目的地への道を妨げているものを見せてくれることでしょう。そして少しずつでもそれを手放そうと決断できるようにしてくれることでしょう。目的地は、完全なる充実と至高の悦びそのものでありましょう。
祝福がありますように。平和の内にあってください。神の内にあってください。
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