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Pathwork in Japan
No.158 真の自己へのエゴの協力と妨害
Pathwork Guide Lecture No.158
UNEDITED版
1967年12月8日
真の自己へのエゴの協力と妨害
THE EGO'S COOPERATION WITH OR OBSTRUCTION TO THE REAL SELF
親愛なるみなさん、こんにちは。みなさんが今日ここに集い、これから話す私の言葉を聞き、それを受け止めるとき、祝福と強さ、真実への理解、欠くことのできない宇宙エネルギーの流れがみなさんを満たし、支えますように。そして、このレクチャーを言葉として知的に理解するというよりも、精神力に内なる影響を与えるものとして受け止めてください。
自己実現というこの厳しい道を行くみなさんの多くは、自分の内側にある古めかしい景色、つまり恐れを眺める場所から、今岐路に差し掛かりました。この恐れというのは、生命に対する恐れ、死への恐れ、歓びへの恐れ、コントロールを手放すことへの恐れ、感情を感じることへの恐れ、そして存在することへの恐れです。ご存じのように、これらの恐れに気づくためには、相当にしっかりと自分と向きあうことが必要になります。恐れは普段覆われているのですが、それでもやはり存在しているのです。友であるみなさんの多くは、とても驚き、同時に落胆もするのですが、先に述べたような生命についてのこれらすべての側面を自分たちがいかに恐れているのかを突然知り始めることになる、この地点にたどり着いたのです。これらの恐れに対する気づきが増すにつれて、人は徐々に、そして自動的に、自分が人生に対して今まで無意識に持っていた恐れがどんな影響を与えるかに気づくようになります。また、恐れが自分にさせていることや、いかに生きることから自分を引き下がらせているのかにも気づくようになります。人は漠然と人生で何かを見逃してしまっている、失っているという感覚を持っており、そして通常はなぜそう感じるのかを知りません。しかし気づくようになると、これらの感情を理解し始め、自分がどれほど見逃してしまっているのかを実感するようになります。
友であるみなさん、あなた方は人生そのものを逃してしまっているのです。この創造のプロセスを恐れることで、生きるという創造のプロセスを逃しているのです。今日のレクチャーでは、これらの恐れのいくつかの側面、恐れの共通点、そして恐れやフラストレーション、痛みの不必要な状況をどのように正していくかについてお話ししたいと思います。今はまだこれらの恐れが存在することを発見していない人でさえ、特にこのように成長と自己実現の道をダイナミックに進み、そして動いていることを知るときには、遅かれ早かれその存在を発見するでしょう。ですから、これらの恐れを持っているがために、いかに自分が人生から隠れていたかに気づくとき、私の言葉は、過去にさかのぼって振り返ると、非常に役に立つものとなるでしょう。あなたのすべてでこの問題を理解し、解決しようという準備が整うとき、それらはあなたの精神力の中に結実の種を生み出すでしょう。このことが人生の真の問題なのです。
これらのすべての恐れの本質は、エゴの機能に対する誤解、そしてエゴと真の自己との間の関係性についての誤解です。これは極めて微妙で捉えがたく、言葉に落とし込むことが困難です。人生についてすべての真実がそうであるように、この真実も同じです。それは明らかな矛盾でいっぱいです。そして二元的な考え方や生き方に自分が囚われてしまっている限り、その矛盾に満ちた状況は変わりません。あなたがこの二元性を超越した瞬間に、正反対にあって互いに排除しあう2つの側面が等しく真実となります。ですから、真の自己との関係性におけるエゴについてのことです。ある人が、エゴの優位性、エゴの肥大した強さが生産的に生きることの大きな妨げになっていると言うとき、それは真実なのです。そして、弱いエゴが健全な生活を確立するのを不可能にしていると言うとき、それもまた真実です。友であるみなさん、これらは相対するものでも互いに排除しあうものでもないのです。
このテーマについてさらに詳しくお話しする前に、人間の不幸せな状況は、「真の自己」と私たちが呼んでいるものの存在について知らないことが主たる原因であるという事実を強調したいと思います。人間は本当にそれについて無知です。せいぜい、より成長を遂げた人間が、哲学的な教えとしてその存在を受け入れている程度です。しかし、この教えと、真の自己の存在の生き生きとしたダイナミックな経験というものとは全く違うものです。人間が、自分の中に、エゴ・セルフとは比べものにならないほどに優れている何か深い存在を内包しているというこの考えやその最終的な目的を教育されたとしたら、実験したり探求したりして、自分自身のこの核とコミュニケーションをとる方法を探る機会を与えられるはずなのです。そして、自分自身の中にある真の内なる存在にたどり着くことができるはずなのです。
けれどもその教育がなされていないため、人間はこの点においてその概念や目的の中でより制限された状態になります。そこで人は、自分のエゴ以外に自分の中で存在しているものがあるという事実を無視してしまいます。たとえ真の自己、そしてすべての人間を元気づけ活性化する創造の物質という概念を何年も前に得た人ですら、この創造の存在が自分の中で生き、動いていること、そして自分がその中で生き、動いていることを、日常生活の95%において忘れているのです。あなたはその存在を忘れるのです。そしてその叡智を手にしようと手を伸ばすことはありません。あなたは、外側にあるエゴ・セルフにすべての信頼をささげるのです。さらに深い自分の真実や感情に自分自身を開くことを怠ります。そして自分がすぐにアクセスできる思考プロセスと意志の力を持つ意識的なマインド、エゴ・セルフ以外にはまるで何も存在することはないかのように、無邪気に進んでいくのです。この態度で、あなたは自分自身を巧妙にごまかしているのです。
このことは必然的にさまざまな結果を招きます。最初のものは、自分が何と同一化するかという問題です。人が、エゴ、外側の意識的な自己のみと自分を同一化するとき、またその人が自分だと感じるその感覚が主にエゴの機能のみと結びついているとき、その人は完全にバランスを欠いて不安定になり、その人の人生は実体がなく、意味もなくなってしまいます。エゴは真の自己の持つ豊かな資質と入れ替えることはできず、どんな方法を使ってもそれに近づくことができないため、そのような人は(人間の大部分がこのような人に分類できます)とても大きな恐怖と危険を感じることになります。そして、自分は不十分だと感じることになり、生命観や生きることに対する感覚、そして自己意識がとても平坦で活気がなく、つまらないものになってしまいます。そしてそのとき、その代わりとなる快楽を探すのです。それは中身のないむなしいもので、その人を疲れさ、満足できない状態にとどめることになります。エゴには、深い感情や生きることへの深い味わいを生み出すことはできません。また深い、そして創造性に富む叡智を生み出すこともできません。エゴは単に他者の創造的な知識を記憶し、学び、収集し、それを繰り返し、複製することができるにすぎません。エゴは、思い出し、分類し、選択し、態度を決め、外側または内側へとある方向に向かって動くという力を備えています。これらがエゴの機能です。けれども、感じること、深く経験すること、そして深く知ること、つまり創造的であることはエゴの機能ではないのです。私が創造的というとき、単にアーティストのような創造性のことだけを指しているのではありません。もしあなたが真の自己を働かせていたとしたら、生きるというすべての基本的なシンプルな行為は創造的でありえます。真の自己から切り離されているとき、あなたがどれほど努力をしようとも、すべての行為は創造的ではなくなります。実のこところ、真の自己というのは努力を必要としません。それが現れるとき、努力自体は存在しますが、それは常に努力を要さない(苦悩のない)努力なのです。これもまた、矛盾に思えるかもしれません。
では、私がリストとして前に挙げた人間の基本的な恐れに戻りましょう。そして、このテーマの観点からその恐れを考えてみましょう。すでに言ったように、これらの恐れは、人間が無知と間違った概念の中で真の自己から切り離された状態の結果としてもたらされます。まず、みなさんの人生において、これほどの影を投げかける、死に対するこの特別な恐れから始めます。もし人が、主にその人のエゴと同一化しているとしたら、その人の死に対する恐れはまったく理にかなったものなのです。というのは、エゴは本当に死ぬからです。これは、まだ自分の内なる存在を経験したことがない人たちにとっては、恐ろしい言葉に聞こえるかもしれません。まさにそれは私が述べた理由、つまり生命観や生きることに対する感覚、そして自己意識というものがエゴとだけ同一化することによってのみ存在するからこそ恐ろしいのです。真の自己を働かせ、日常の現実としてそれを経験している人は決して死を恐れないのはこれが理由です。その人は、真の自己が不滅であるという本質を感じ、知っています。そしてその永遠性で満たされます。ずっと続いていくもの、それがこの真の自己の固有の性質なのです。これは、エゴが使い慣れた理論によっては説明できません。このような理論はこれを理解するためにはあまりにも制限されているからです。
悪循環は、人が感じる「生きている」という感覚の中で、エゴが必要以上の重要性を与えられたときに発生します。人がエゴの現実しか考えることができず、考えること、感じること、自分の中にいるというそれ以外の現実を思い描くことができない場合、人はもちろん高次の能力や真の自己のより偉大な現実を経験することはできません。それゆえに、それのみが現実だと考えているエゴの能力が消滅してしまうと聞くと、それはとても恐ろしいことに思えるはずなのです。しかし、真の自己のありのままの飾らない現実を経験したことがある人にとっては、この言葉は恐いものではありません。なぜなら、いつ出会ってもその永遠性を経験する、内なる永遠の存在の現実と比べて、エゴがいかに劣っており、いつしか消えてしまう、不十分なものであるかをそのときあなたは完全に知っているからです。ですから、その人の自己意識がエゴ・セルフとだけ結びついているとき、死に対する恐れはかならず存在するのです。
前にも述べたとおり、哲学の教えとして、真の自己を知的に受容するだけでは死に対する恐れを緩和することはないということをここで付け加えたいと思います。知的な受容は、現実の感覚を与えることができず、真の自己の存在を本当に経験することはできないためです。それはもっと多くのことを要求します。真の自己の能力を実現化することが求められます。ご存じのように、これはあなたが通りぬけなければならない成長のまさにある特定の段階(ステージ)を必要とします。これについては後でもう少し説明します。
リストにある次の恐れは、生への恐れです。あなたは今までに私が、人生を恐れる人は死を恐れる、死を恐れる人は生を恐れる、と数えきれないほど何度も言ってきたのを聞いたことがあるでしょう。これらは本当に同じものなのです。この言葉もまた、すべての相対するものを調和させる真の自己を経験するときにのみ、真の理解へと至ることができるのです。そしてそのとき、人は生と死は、あえて言うならば、光と影として現れるある特定の意識の表れ方なのであって、それ以上でもそれ以下でもない、ということを理解します。
生に対する恐れは、その人の同一化の感覚がエゴとだけ結びついているとき、正当化されます。というのは、人生に対処するため、生産的に人生を生きるためのエゴの処理能力は、極端に制限されています。実際に、その能力はまったく不十分で、人を不確かにし、不安にし、不適切な感覚を与えます。一方で真の自己は、問題が何であれ、常に答えと解決策を持っています。どんな経験をも、たとえそれがどれほど不必要で無駄なもののように最初は思えたとしても、深い意味のある、さらなる拡大のための踏み台にします。人生の経験を増やし、その人が本来持っている可能性を実現します。ゆえに、真の自己は人をより生き生きと、より満たされた状態にし、着実により強く成長させる能力を持っているのです。エゴについてはこのように言うことができません。エゴは常に解決不可能な状況、問題そして葛藤に人を陥れ、巻き込みます。エゴは、「これ」対「あれ」、「正しい」対「間違い」、「黒」対「白」、「善」対「悪」のような二元性のレベルにだけ適合します。ご存じのように、これは人生についてのほとんどの問題にアプローチするための、不適切なやり方なのです。片方を黒、もう片方を白として見てしまうと真実を発見することはできないという事実のほかにも、これらの問題はたくさんの考慮すべき事柄を含んでいます。エゴには、このレベルを超越し、両方の側の真実を調和へと至らしめることはできません。ですので、エゴは解決策を見つけることができず、永遠に閉じ込められたままで、不安を感じ続けます。したがって、エゴとの同一化は自動的にそのあとに生への恐れをもたらすことになります。
リストの中の次の恐れは、喜びへの恐れです。自己探求がまだ深まっていない人にとっては、このような言葉は、幸せに対する恐れと同じく、まったく信じられないことに聞こえるでしょう。そしてあなたは自分に向かって「これは私には当てはまらない」と言うのです。けれども、人が不幸せで、満たされず、むなしさを感じていると、それと同じだけ幸せ、充足、喜びを恐れていると言えるのです。意識のレベルではどれほどそれを手に入れたいと願っているとしても、そうでしかありえません。それは、プラスマイナスゼロの方程式なのです。あなたの人生はその事実を実証しています。なぜなら、あなたの人生は決して決してあなたのコントロールできない状況が作り出したものではないし、あなたの内側にある何かが必ず原因となっているのです。それは常に、必ずあなた自身の内なる意識が作り出すものなのです。あなたはこれを実際面だけでなく理論上でも知っています。少なくとも、いくらかの自己発見を成し遂げたあなた方は、不適切なものは、必ず自分自身が何らかの方法で作ってきており、そして今も作っているということをもっともっとしっかり見るようになります。このことを決して忘れないでください。
さてそこで、喜びに対する恐れ、幸せに対する恐れ、満たされることへの恐れ、これらの恐れはすべての人間に当てはまる現実です。最初は、それは単にこの恐れとの意識的なつながりの問題です。あなたがつながる瞬間に、あなたの人生はあなたのもうひとつの部分が狂おしいほどに願っているものをなぜ生み出さないのか、その理由をあなたは少なくとも理解することになります。欲しいものを得るにはエゴ単体ではなしえないことを忘れた状態で、あなたが意識的に欲し物を得ようとがんばればがんばるほど、満たされることが少なくなります。けれども、それを妨げるのは必ずしも意識的なエゴではなく、エゴでも真の自己でもない、あなたという存在の中にある他の部分なのです。しかし、意識的なエゴはしばしば、無意識の、恐れに満ちた、人生を拒んでいる部分が指示するやり方で盲目的に突き動かされます。そのときそれは正当化、そして言い逃れになります。人が意識の上でエゴ・セルフだけに忠誠を示しているときでさえ、そのエゴ・セルフは服従的な代理人にすぎないのです。その人がそのことを知っていようがいまいが、変わりはありません。問題は、そのエゴが間違った破壊的な衝動に従っているか、真の自己によって動かされているのか、ということです。
したがって、幸せや喜びから尻込みして縮こまっているあなた自身の内なる反応に対してオープンになることが絶対的に必要です。今日のレクチャーの文脈の中でこのことを理解するために、私があなたにお伝えしたいことは、一人ひとりが自分は誰なのかという認識をエゴの能力のみから引き出そうとしているとしたら、エゴを手放すことは途方もなく恐ろしいことに思えるだろうということです。そしてそこは、あなたがその中にはまり込んで抜け出せないでいる限り、あなたが解決できない葛藤の中に囚われていしまっている、まさにその場所なのです。広がっていくこと、喜び、楽しみと創造的な生き方、満たされることと幸せは、真の自己が活性化されるときにのみ、そしてエゴとだけ同一化することなく、真の自己、あなたという存在の永遠かつ創造的な物質とつながり同一化するときにのみ存在できるのです。これは、エゴが自分を直接コントロールするのを手放すことを必要とします。外側にある思考や意志の力に反応することのない、内なる動きに委ねるための信頼と勇気を要求します。この言葉が真実であることは、あなたの人生の中の最高の瞬間について考える時間を持つと簡単に確信することができます。真に楽しく、素晴らしく、努力の必要も恐れもなく、創造的で、深い喜びに満ちたことは何でも、まさにこの手放すこと、そしてエゴが何かを決めるときに使う通常の能力ではないその他の何かによって生命を吹き込まれることからもたらされるのです。そのとき、幸せは可能であるだけでなく、その副産物として自然なこととなります。幸せでないと真の自己でいることはできません。そして真の自己と統合され、真の自己によって活性化されない限り幸せでいることはできないのです。この種の幸せは、終わってしまうことや失うことを恐れる必要はなく、その結果歓迎すべきではないと恐れることもないのです。私がいつも言っているように、この幸せはダイナミックで、刺激的で、わくわくするような、そして躍動感にあふれて生きているような、けれどもとても平和なものです。もはやそこにこれらの概念を分かち、互いに排除するような、まさに二元的なエゴがもたらす分離などありません。人生をこの分離したやり方で経験すると、穏やかさというのは興奮を排除し、退屈さをもたらすことになります。この興奮は穏やかさを排除し、不安と緊張をもたらします。人は、たくさんの他の状況と同じように、統合された真の自己の領域に入るともはや不要となるその選択に直面させられます。
あなたの生きているという感覚がエゴの能力からのみもたらされている場合、どうしたらエゴの能力を必要としない状態を恐れることなく受け入れることができるのでしょうか?これこそ、あなたが囚われてしまっているところです。この光の中で幸せに対する恐れを見ない限り、あなたはこの罠からの出口を見つけることができません。常に迷い、揺れ動くことになります。一方であなたはエゴを手放すことに恐れを抱き、他方で大なり小なり、多かれ少なかれ、意識的な絶望感、人生を逃しているという感情、何か大切なものを見落としているという感情を持ってしまう状況に居続けることになるのです。なぜならばこの状況を緩和するために必要なことは、あなたがエゴの支配を手放さない限り、もたらされることはないからです。
これはリストに書かれている次の恐れとおおいに関係しています。それは、手放すことへの恐れです。繰り返しになりますが、もしその人の自分であるという感覚がエゴからのみ導き出されている場合、その人格は手放すことができません。そのとき手放すということは、滅亡を意味します。最初はあちらこちらで少しずつ、真実と真の自己の現実を見始めている人にとっては、手放すことは単に危険なことではないというだけでなく、それは人生そのものとなるのです。
次第に人は新しい状況に慣れ、新しい空気そして波動に慣れ、真の自己が機能する新しい方法に慣れていくのです。しかしもちろんこれは、地球という星で肉体の中で生きることと相いれないことではありません。まったくそうではないのです。ただ、エゴと真の自己との間の調和した交わりにすぎません。エゴの機能、そしてその限界、またそのパワーを知るという意味です。私はこの問題についていつかまたお話しすることになるでしょう。
まず、人が真の自己を恐れるときはいつも、生と死、喜びと充足、幸せと開いていくこと、感情と創造的なプロセスそのものを恐れていることになる、と言わなければなりません。次に、感情はエゴによってコントロールされないことは言うまでもなく明らかです。それを試みようとする人は、単に自分を欺いているだけなのです。その人は真の自己を押し潰し、自発性と自由を殺しているのです。これが、感情というものが、他者からまたは自分から発せられるいかなる「ねばならない」にも決して応えない理由です。それらは間接的に発生し、自分自身そして独立した人生、独自の法則、論理と叡智を持っているかのように思えます。人はそれらを否定し、つまらないエゴの論理、エゴの法則、そして偽の叡智をそれらに重ね合わせるよりも、この法則、叡智を探求した方がいいのです。なぜならば、感情とは創造のプロセスそのものの表現だからです。この創造のプロセスもまた、強要されることはありえないと誰もが知っています。そのプロセスが奨励されるか挫かれるかと言うだけであって、感情もまた同じです。感情と創造的なプロセスとは、内なる動きなのです。それはまた魂の動きと言うこともできます。それらは、それ自身のメッセージやサインを持っていますが、個々人にとって自己実現を達成するために、そして真の自己とのコンタクトを確立するために十分に注意を払われてはいません。
真の自己はあふれ出て、そして細部に分かれている特定の種のエネルギーから構成される、生き生きしたエネルギーの流れを発信しています。これが通常私が生命の力と呼んでいるものです。この生命の力は非常に大きなパワーであるだけでなく、意識でもあるのです。それは深い叡智を内包し、避けることのできない、永遠不変の法を内包しています。これらの法則を探求し、理解することが必要です。それはあなたが想像できる範囲を超えた驚くほどすばらしいやり方で人生を豊かにします。
この生命の力の強烈な恍惚状態を否定することは、さまざまな程度の死を自ら招くことを意味しています。この恍惚というのは、存在のすべてのレベルで、生きるということのすべての側面で現実化し、ある領域では他の領域よりも激しく現れます。この生命の力を受け入れることは、死のない生を生きることを意味します。人生の至福の喜びを否定することは、死を意味します。エゴが生まれるという事実は、死が生まれることを意味するのです。このことについて今はまだ深める必要がないので、これ以上詳細についてはお話ししません。エゴは巨大な意識から分離した粒子で、まだすべての人間の中に残っているものだと言うだけで十分でしょう。この分離した部分がその起源であるものと統合しなければ、それは消えてしまいます。それゆに、分離することと消えてしまうことは、再統一と生が関連して相互に依存しているのと同じく、関係しています。エゴの存在、喜びのないこと、そして死は直接的につながっているのです。それは真の自己、最高の喜び、そして生が直接的につながっていることと同じです。ですので、エゴを手放すことを恐れる人、喜びを恐れ、その恐れゆえに喜びを否定する人は、死を自ら招いていることにります。これこそが、死というものの真の意味です。真の起源である人生の核の否定なのです。
友人のみなさん、このことは、エゴが無くてもいいという誤解を招きかねません。残念ながら、多くのスピリチュアルな教えがこの間違いを犯し、それゆえにその信者を混乱させています。エゴを無視したり顧みないことほど真実を遠ざけてしまうことはありません。こうすると、ただまったく正反対へと至るだけです。そして常に、相対する両側は同じように間違いで、有害で、危険なのです。
人生を通して、またしばしばいくつかの人生の間に、エゴというのは安全なだけでなく人生そのものだという間違った考えの中でエゴを過度に重視してきた人は疲れてしまいます。誤認に基づくあらゆる間違った魂の動きは疲労をもたらすために、その人は疲れることになります。必死になってしがみつくために、そのことで引きつった状態をもたらします。
引きつっているエゴを取り除くためのさまざまな間違った方法がどんなものであれ、それらは常にエゴを弱めることを意味します。片方でエゴが強すぎる場合、必然的にもう一方では弱すぎることになります。この道でワークするみなさんのために、実践的な言葉でこれを説明します。(エゴのコントロールを手放してしまうと自分は強さをなくしてしまうという間違った考えの中で)エゴのコントロールを手放すことを恐れている程度に応じて、あなたはそれと同じだけ自分を主張することができません。なぜならばあなたは恐れているからです。自分の感情に、創造的なプロセスに、人生そのものという未知なるものに、そしてパートナーに、自分を委ねることができるようになればなるほど、あなたはもっと強くなるのです。そして決断すること、間違うこと、困難に出会うことを恐れなくなります。自分自身の持つ力や資質を信頼し、自分自身の統合された視野を持ち、自己本位であることへの代償を支払い、権威や承認されないことを恐れるがためではなく、自由にそして喜んで自分の義務を果たしながらも自分の権利を主張するようになるでしょう。このような健全な自己主張の持つエゴの強さが、自分を委ねることを可能にするのです。反対に、自己責任を恐れるエゴの弱さが、自分を委ねること、つまり喜びを不可能にします。エゴの能力を過度に使い果たしてしまう人は、その後間違った救済を求めることになります。このような間違った救済は多くの形を取ります。より分かりやすいのは、エゴが完全にその能力を奪われて、精神障害となって現れるケースです。もっと分かりにくいケースは、エゴがその強さ、個性、自己責任などの能力を使えないがために、神経症的に現れるという形をとります。または、アルコール依存症、薬物中毒、そして過度に緊張しているエゴからの救済を手入れるためのあらゆる人為的な方法で現れることもあります。それは創造的なプロセスに委ねることをあまりにも恐れるがために、喜びが奪われてしまっているエゴからの救済を手に入れようとしているのです。
だからこそ、エゴの能力とは何か、それらをどのように使えばいいのか、そしてエゴの限界はどこにあるのかを理解することは最も重要なことなのです。将来的に、もっと詳しいことへと進んでいきたいと思います。今ここで私が言いたいことは、エゴというのは私たちの内側にいるより大きく偉大な存在の従者に過ぎないということを、エゴ自身が知らなければならないということです。その主たる機能は、慎重に丁寧に内側にある偉大な自己とのコンタクトを求めるということです。エゴはその立場というものを知らなければなりません。その強さ、可能性そして機能は、コンタクトを求めるためのもの、その決定を下すためのもの、そして偉大なる自己との永遠のコンタクトを確立するためにそれに助けを求めるためのものだということを知らなければなりません。さらに言うと、エゴの仕事は、エゴと偉大なる自己との間にある妨害物を発見することです。そしてここでもまた、エゴの仕事には限界があります。理解というのは常に内側、つまり真の自己からもたらされます。しかし、それは虚偽、破壊性、間違いを理解し、変えたいのだとエゴが願うことに対応してもたらされるものなのです。言い換えると、エゴの仕事は、思考、意図、願望そして決断を明確に表すことです。けれども、その限界は、思考、意図、そして願望を実行に移すということの中にあります。真実、高潔、正直、努力、善意の代価を払うことを決めるというエゴの仕事が達成された後、エゴはその道を譲り、直感とインスピレーションとともにペースを決め、個人の道を導いていく真の自己が現れることを許さなければなりません。エゴは、何度も何度も、成長へのこの道に沿って進むために、選択し、決定を下し、意図を定めなければなりません。そして喜んで内なる存在から学び、無意識のより深い言語を理解したいと望まなければなりません。無意識の言語は、最初のうちは不明瞭で分かりにくいですが、時間が経てば次第により明確になっていきます。エゴは、破壊的な無意識からのメッセージの解釈も学ばなければなりません。同様に、素晴らしい創造性と建設的なものを有するさらに深い無意識の中にある真の自己からのメッセージの解釈も学ばなければなりません。エゴは、心からの全面的なサポート、一点に注がれる努力、最も建設的な態度と内なる道へと向けられる分離のない注意を差し出さなければなりません。エゴは、深い叡智、それぞれの道を行くリズム、タイミング、そして困難な時期に耐える強さに関しては限界があることを知り、真の自己の限りのない力を招き入れなければなりません。ますます目覚めていくエゴとますます明らかになる真の自己との間の微妙でかすかな相互関係を感じ取る鋭さを発達させ、そうするといつ強くあるべきか、積極的に抵抗を乗り越えようとすべきか、言い訳と正当化を暴くべきか、そしていつもっと能動的になり、耳を傾け、学ぶ姿勢のもとでその道を譲るのかを学ぶことができます。エゴはいわば「腕」のようなものです。生命の源に向かって進み、そこに至ると動くのを止め受け取る、そのような腕です。
みなさんすべてにとってこの講義が真に役立ちますように。みなさんが深くこれを学び、そしてこれについて瞑想をしますように。これを一文一文学び、そして自分にどのように当てはめるかを考えてください。理論的に理解するだけでなく、永遠なる、そして真にふさわしく、常に素晴らしい恍惚の光の中にいる自分自身の一部を真に探すことによって、この講義を活用できるように祈りを込めて瞑想してください。なぜならば、これはあなたの生まれながらの権利だからです。その代償は、怠惰と抵抗、偽の安全装置に打ち勝つためのいくらかの努力です。
またそれは、真の自己とのつながりを作ることを可能にする状況を探求することを意味します。エゴ・セルフは真の自己と共生すべきものなのです。真の自己は、外的な道徳規範の法則を超越します。それゆえに、公衆の意見や権威、社会一般に忠義を尽くすよりもむしろ、自分自身の真実の中にいるための勇気を持たなければなりません。自分自身の真実以外に忠義を尽くすような、このような服従は、恐れ、貪欲さ、臆病さ、日和見主義からのみ起こります。したがって、外的な道徳規範は必ずしも真の内なる道徳規範の表れたものではないのです。しかし、真の自己は、真の道徳規範や外的な道徳規範よりもさらに深くて正確な基準を持っています。人は身勝手さ、残酷さ、自己中心性、貪欲さ、不正直さが、魂の中にほんの少しでも存在するならばそこを見なければなりません。そのようなすべての粒子が、特にそれが認識されていないとき、否定されたり、正当化されたりしているときには、どれだけ善良さでそれが薄められていたとしても、妨げとなるのです。人生をごまかそうとすることによって自分自身をごまかそうとするなら、あなたは自分自身と法則、そして自分自身の最奥にある創造的な存在のパワーとを相いれないものにしてしまうのです。ですので、自分がごまかしている領域がどこなのかを発見してください。それらが不幸せや不満足つまり真の自己との分離と言う形で存在している限り、それらは隠れてしまっているかもしれません。平和のうちにいてください。祝福、そして神のうちにいてください。
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