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No.159 人生の顕現は二元性がもたらす幻想の表れである

Pathwork Guide Lecture No.159
UNEDITED版
1968年1月12日


人生の顕現は二元性がもたらす幻想の表れである
LIFE MANIFESTATION IS EXPRESSION OF DUALISTIC ILLUSION


 お集まりの親愛なる皆さんこんばんは。ここからの一年が祝福に満ち、成功の年となりますように。真の自己を見出すことが唯一本当に意味のあることですから、ここでいう成功とは真の自己を見出すことを意味します。「真の自己を見出す」という表現はあまりに頻繁に使われているため、多くの方々においては、いくらか意味が失われているのではないでしょうか。人がひとつの表現を自動的に考えなく頻繁に使用するときにいつも起こることですね。そこで私達はここで、この言葉の本当の意味について深く考える必要があります。

 みなさんが真の自己を見出すとき、必然的に人生の真の意味を見出すことになります。これまでとは真逆の角度から人生を理解することになるのです。つまり外的な生や死という顕現についても理解し始めることになります。このような形で人生を理解するとき、もう何もあなた方を怖がらせる、または驚かせるものはありません。内なる生命のプロセスや法則を人が情感として感知することができてはじめて、人はこの理解に至ります。抽象的、概念的、または哲学的に成すことはできません。自分自身と直接向かい合い、究極的に個人的かつ主観的な反応と最も直接的に向き合うことでもたらされるのがこの理解です。

 人の成長を曲線に表した場合、人の人生における最大の困難はすべての成長のプロセスで避けることができない曲線の下降です。人生とは成長です。動きの継続が成長であり、成長をしめす曲線は常に変動します。曲線が下がればそのたびに新たな上昇がもたらされます。上昇があるたびに、ふたたびまた上がるために、新たな下降がもたらされるものなのです。まず下降がなければ、上昇もあり得ません。死という形を経験しないことには、生も存在しないのです。このリズムは二元性という幻想による分裂が自己の内で最早存在しないという意識の状態に至るまで続きます。下降の動き(死)が象徴するのは二元性の一面であり、上昇の動き(生)もまた二元性の別の側面を表しています。これらの動きがじゅうぶんに経験され、味わわれ、消化吸収され、自己の一部として人に受け入れられるとき、ふたつの間の対立が止みます。人が下降の曲線を恐れ、葛藤し、抵抗するとき、同時に自分自身の創造性がもたらす産物に反することとなり、結果的に自分自身に対立することになります。自分と戦っているこの状態は、人の意識に秘められた生命の法則と創造性の事実への理解が欠如していることを意味します。下降の曲線を恐れることは変化を恐れることです。曲線は自分が生み出しているものですが、人は安全を選び、一見危険に映る曲線に分け入ることを避けることになります。こうして停滞が生まれます。成長の曲線とは、それを理解し、受け入れてはじめて、つまり超越してはじめて、抵抗という争いから離れることができるのです。

 下降と上昇の曲線の変化には無数の現れ方があります。もっとも粗いものでは身体的な生と死という曲線があります。生と死の曲線は人がもっとも恐れるものですね。盲目な小さな自己は、今の曲線の先にある曲線を見ることができません。そのため包括的な視野が閉ざされてしまいます。つまり死は結末であるかのよう見え、生であるようには見えないのです。実際には、死はひとつの鎖の一部であるにすぎず、今回の人生では次の下降の曲線なくここで終わるというだけのことです。動きという永遠に変化し続けるものに対する葛藤は、人の内の主観的な経験の質を悪化させます。とはいえ生と死のように粗くはない生命の法則の顕現においても、こうした戦うか逃げるか反応は存在します。例えば旅です。住まいや場所の変化です。新しい始まりを心待ちにしているにも関わらず、ひとつの段階が終わりを迎えるときに人は必ず気分の落ち込みを経験するのではないでしょうか。すべての始まりはひとつ前の段階の終焉であると仮定し、まるで何かが終わり、死んでしまうかのように感じるのです。これは人の存在におけるすべてのレベルに当てはまります。物理的なレベルではこれは明らかですね。古い段階が終わることで次に新しい始まりがあることを分かっているにも関わらず人はそれに抵抗します。新たな始まりが見えない状況では、この抵抗はいかほどのものでしょうか。内なる成長や動きにもまったく同じ法則が当てはまります。古きものが終わりを迎えるとき、大抵そこには痛みが伴うわけですが、終わりなしには新たな生、新たな段階の始まりはありません。痛みとはつまり、誤解や破壊性といった人の内の廃棄物や泥に戦いを挑んでいる状態です。この道を歩む上で皆さんも、このような状態を何度も経験しご存知なのではないかと思います。スピリットが持つ下降の動きに従わないかぎり、新たな拡大はやってきません。別の言い方をすればつまり、自分の内なる存在の深みに身を浸すということです。この深みに痛みが存在するのであれば、この痛みは表面化される必要があるということです。そうでなければ痛みが解決されることはないからです。痛みは光を妨ぎます。ですから掘り起こさなければなりません。

 以前もお話ししましたが、同じ動きは呼吸にも存在します。呼吸とはスピリットの、宇宙の息なのです。人々の人生が形となって顕現するときも同じようにこの動きが当てはまります。自分自身の人生や気分の上下について考えてみてください。下降の曲線を表す気分の落ち込みは、次の上昇の曲線を予感させています。潜在意識の知性は、求めさえすれば常に感知することができるものですが、この潜在意識にある知性にチューニングし、上昇も下降もその両方の最善を経験してください。そうすることで下降の曲線に抵抗することがなくなり、結果的に霊的な呼吸であり成長である上へと上昇する動きに遅れをとることがなくなるでしょう。下降の曲線を完全に受け入れ、その動きに身を浸し、共にあることで下への動きを容認することができるようになります。建設的で効果的な形で下降の曲線を受け入れる方法は、下降の曲線が皆さんにとって個人的にどのような意味を持つのかを理解しようと努力することです。これ以上の方法はないでしょう。つまり下降の曲線を自分自身の創造物として捉え、自分自身の深みに届くほど遠くまで手を伸ばそうと心掛け、こう問うのです「自分は何を創り出したのだろう。そしてこの下降が持つ意味は何だろう」と。

 内なる法則や内なる生命の観点からすると、あなたの人生とは一体どのようなものでしょうか。達成されていない欲求はどのような意味を持ち合わせているでしょうか。苛々とした気持ちはどうでしょうか。申し上げる必要もないかとは思いますが、自分自身の内に存在する未達成の欲求や不満、傷や恐れ、表面ではない真の欲求を受け入れてはじめて、じゅうぶんな形で先ほどの問いに取り組むことができます。本心をまずは正面から、そして正直に受け入れることができると、どうしてこういったものが存在しているのか、そしてなぜ欲求が満たされていないのかを理解しようと、探求を始めることができます。創造的な行為だと自分が認めるものを達成するのと同じくらい、自分が傑作と呼んでいるものと同じくらい、未達成な欲求や不満、傷や恐れも、自分自身が創り出したものです。唯一の違いを挙げるとすれば、片方は意識的かつ意図的に創り出したもので、もう一方は無意識かつ軽率に創り出したものだということです。つまりネガティブな創造物も自分自身の生産物であるという理解に向かわなければなりません。そうでなければネガティブな創造物を修正することはできず、あなたが常に好きにできる生命の栄光やその豊かさを見出すことは決してないでしょう。

 ネガティブな創造物は自分が創り出しているのだということが理解できないということは、それらに抵抗せざるをえないということです。つまり自分自身と口論をするという奇妙な立場に立たされることになります。片方の手が創り出しているものに対して、もう片方の手がそれを拒否し抵抗していますが、反対の手が創り出しているものだと気付いていないのです。もしも目隠しを取り外す心の準備ができているのであれば、皆さんはそこに運命と人生と、自分にとってうまくいくすべての良きことと口喧嘩をしている自分を見ることになります。

 こうした反抗の状態では人は誰か、もしくは何かのせいにしているのが一般的です。このようなとき人は自己の内にあるプロセスや根拠と繋がっていません。そしてこれこそがすべての苦しみに存在する問題なのです。何度さまざまな形で同じことを申し上げてきたことか分かりません。それでもこの道に取り組んでいる親愛なる皆さん全員が、このことをじゅうぶんには観察できていないのです。ほとんどすべての人が、どんなに不幸せな気持ちに陥っても、この不幸せさを漠然と見るだけに留まり見過ごしています。つまりこうしたネガティブな創造物と自分を繋げることができていないのです。自分が不幸せさを感じていることに気づいていて、さらになぜそうなのかはっきり理由が分かっていても、自分ではない他の何かによって不幸せが創り出されているかのように抵抗します。これでは自分自身の感情と向かい合っているにも関わらず、自分自身の創造の力からは切り離されたままです。皆さんの中で絶えず働いている偉大なる創造のプロセスは、大抵の場合まずはネガティブな顕現として姿を現します。

 究極の可能性を持った創造のパワーを人が自分の内に信じたとしても、それは自分の盲目さや分離、困難を乗り越えた後に授かる特別なご褒美か何かと人は想像します。宇宙の創造のパワーの一部となる前に「完成した商品」にならなければならないかのようです。あなた方を含むほとんどの人が抱いている大体のコンセプトですね。これは現実の歪んだ形です。皆さんが夢見るような創造性の良き部分と同じように、皆さんが苦しむ不幸せさも創造の産物です。このことをじゅうぶんに理解しないかぎり、創造の一部を担い、自分自身の運命を形作り、世界を安全と感じ、そこに平和を感じることはできません。

 皆さんの中で働いている創造のパワーは莫大であり、常に作動しており、だからこそ皆さんはそのことにまったく気づいていないのです。創造の力は皆さんの意識の状態に応じて作動します。もちろんこの意識には意識的なマインドも無意識的なマインドも含まれますから、創造の力は皆さんの存在全体に応じるということです。皆さんの考えや感じること、そして求めることすべてから直接生み出されたものが今皆さんが持っているもの、もしくは持っていないものなのです。欲しいものに賢く手を伸ばしていないのかもしれませんし、意識的にそれを欲しているわけでは決してないでしょう。それでも無意識では今の状態を欲しているのです。このことをじゅうぶんに知覚できたときには、皆さんの内で作動している生命の法則や創造の法則を理解することができるでしょう。そして皆さんが自由にすることができる膨大なパワーを、漠然とではありますが、感じ始めることができるようになるでしょう。

 これは偉大なパワーです。皆さんの浅はかで、破壊的でだらしのない思考のプロセスや恐れ、誤解、無知(つまりあまりに多くを無意識に留めている状態のことを指しているのであり、あなたという存在から分離している状態のことを話しています)によってこの力がうっかり軽率に、恣意的に、やみくもに働くことのないようにしてください。なぜならこのようなとき、あなたやあなたの人生は内なる破壊的なプロセスの度合いに完全に比例し創造されるからです。これまで何度も皆さんはご自身の無意識が存在しないかのように反応してきました。自分が何かを求めていることは意識できているのです。求めているにも関わらずそれが達成できていないのであれば、今とは反対の方向へ無意識を向かわせなければならないことに気付きません。達成できない理由を、自分の内に探求しようとしません。自分の状態が自分自身の産物であり創造物であることに気付いていません。

 今自分が持っているすべて、そして持っていないすべてをもたらしている何かを、自分のパワフルな魂の物質の中に見出してください。意識と無意識の隔たりこそが皆さんの最大の敵です。この隔たりが取り除かれる瞬間、未知だからこそ恐れている内なる力に制覇されることは最早なくなります。それにも関わらず、人類の最大の恐れや抵抗は隔たりであるこの壁を取り除くことに向けられます。この分離を排除することに強烈に抵抗します。これはあまりに馬鹿げています。なぜならこの分離のために人は無力なのですから。そしてこの分離が故に、あたかも自分とは無関係に映る闇の力のせいで自分が不幸せであると思わされているようなものなのです。こうして人は世界を恐れ、同時に自分の内なる存在を恐れます。自分自身の内なる存在を恐れるために、そこに分け入ることを嫌います。そして分け入りたくないがために、内なる存在から自分を分離し、その結果それはあたかも恐れられる必要があるかのように映るのです。論理的に内なる存在に分け入ることを求めないために、意識が欠け、起こっていることを把握する力が欠如します。これは不注意から生じる破壊性のみならず、人のためになる創造のパワーにも当てはまります。今お話ししている悪循環は、良き循環へと変えることを皆さんが頑固に抵抗しているものであり、重要なもののひとつです。

 内なる創造のパワーはつまり建設的で良性、賢いだけでなく、同時に破壊的であり、悪、そして愚かでもあるのです。しかしだからといって創造性から神聖さが奪われることはありません。少なくとも創造性の原初の姿、本質という意味ではそうではないでしょう。創造性は真実や現実、そして愛であるのと同じくらいに間違いでもあり、誤解であり、また悪い欲求でもあるのです。今申し上げているのはもちろん、一時的な思考の状態による顕現のことを指しています。創造性がもともと間違いであり、誤解であり、悪い欲求であると言っているのではありません。創造のパワーは永遠に、中性的に、無批判に、存在が持つ意識や方向に応じ、従います。今現在あなたがどういう状態にあるのか、その様を通して創造のパワーは表現されます。あなたという存在のすべてを創造のパワーは貫き、あなたという存在すべてによって形づくられ、あなたがどう息を吸って吐くのか、どう考えるのか、どう感じるのか、どう意図し望むのか。そのすべてによって形づくられるのです。もっとも粗く、あからさまなものから、もっとも微細で隠されたものまで、あなたの姿勢すべての表現なのです。こうしたものすべては、ダイナマイトや原子力など比べ物にならないほどの力を持った創造です。ダイナマイトや原子力に代表される物理的なエネルギーは、一度限りではありますが衝撃を生み、物理的には膨大な影響を与えるものです。しかし生命のエネルギーは常に働いており、それが与える影響力、形成力、先導力、ダイナミックさはとても強いものです。同時に人が知らず知らずに使うのが生命のエネルギーです。すべての思考、すべての欲求、隠された恐れ、経験から消極的に身を引く際にも、人はこの力を使っています。

 皆さんが歩んでいるこの道は、今お話ししている真実や人生の事実に気付くことを目的としており、意識と無意識を分離する壁を除去することに向かっています。意識や無意識がふたつの別々な思考だとイメージしてはなりません。意識と無意識はひとつであり同じです。人が無意識の部分を発見したばかりのころは、ふたつの別個なものに見えるというだけのことです。発見したばかりのときにはこの無意識は、人が意識的に抱いている目的や欲求とは完全に無関係のもののように映ります。しかしすこしずつ時間をかけて、個人から生まれるこのふたつが統合されるとき、以前からずっとふたつはひとつだったのだということが明確になるでしょう。これまでは単に表面上はばらばらに分裂し、その一部が「忘れられ」、存在が否定されていただけだったのだと分かってきます。

 宇宙的な意識も同様です。人の意識は宇宙の意識と別個のものではありません。実際にこのふたつの間には境界線はありません。人格の上での意識と無意識と同様に、個人の意識と宇宙の意識もそうなのです。このことは人が自分の中で気づけている部分と気づいていない部分の両方に当てはまります。個人の意識がどこでまでで、宇宙の意識がどこから始まるのかを見極めることはできません。皆さんが今この時点で自由に持つ瞬間的な意識の思考は、二次的ではありますが、広大な宇宙的思考なのです。宇宙の思考と繋がっている、という表現はしかし、その真実を的確に伝えてはいません。なぜならこの表現では、ふたつの別のものが繋がっている様を示唆するからです。ふたつは元来本質的にも根源的にも、別個のものではありませんから、これでは誤解を生んでしまいます。ふたつは同じなのです。意識と無意識への言及と再度同じことになりますが、単に気づきを欠いているためにこれらは分離しているのです。

 普段皆さんが表に出している意識的な思考は宇宙の思考という広大な全体から分離していますが、これは皆さんが分離という名の幻想を信じているからです。皆さんは宇宙の思考の一部を持ち合わせているのではありませんし、そこから分離した一部ではないのです。皆さんは宇宙の思考そのものなのです。

 今は無意識かもしれませんが、以前はどこかで意識的だったのですよ。意識だとか無意識だとかお話ししていますが、意識や無意識が出来事としてあなたの身に「起こった」わけではありません。あなたがそうしたのです。あなたが無意識を創り出したのです。そして日々、事を無意識にし続けいます。前世で知っていたことにもこれは当てはまります。今回の人生でのみ忘れているのです。都合がいいと思ったからそうしたのです。自分の内で起こっていることに対して人がどんなに無意識であっても、どこかの時点であなたはこの無意識を発見することでしょう。そしてこれは再発見にことなりません。再発見の際にはこれまでずっと知っていたような感覚を覚えることでしょう。この人生で抑圧してきた心理的な事実にも当てはまりますが、同時に理知では気づいていなかった、一般的に偉大な形而上的な真実に対しても言えることです。この宇宙に存在するすべての知は本質的にはあなたの中にあります。あなたの意識自体がそこから分離し、その結果「忘れている」だけなのです。今お話ししていることは宇宙的な思考だけでなく、誤った、破壊的な部分にも言えることです。そしてあなたは前者の顕現です。

 分離が消えるとき、自分は分離された存在だという幻想もなくなります。この幻想を手放すことへの恐れはあまりに悲劇的です。なぜなら皆さんは本物であるという実感や自分のアイデンティティーをこの幻想や分離の状態にのみ信じているからです。分離がなくなればアイデンティティーも失ってしまうと思っています。つまり人生そのものが無くなってしまうと思っているのです。これはあまりに間違っています。分離は消失する必要があります。無数の誤りによって分離は存在します。そして皆さんが歩んでいるような道においては、こうした誤りを発見し、暴いていくことになるのです。

 分離の状態の主なる誤りは二元性です。つまり、どちらか、という考え方ということですね。人々が自分に鞭を打ち、苦しんでいる二元性についてはこれまでにも多くをお話ししてきました。根本的に間違った前提に基づく誤った選択肢、つまりは二元性の中からどちらかを選ばなくてはならないと考えるために人は、どんどんその罠にはまってしまいます。こうした誤りの選択肢については以前にもたくさんの例をご説明してきたと思いますし、この場でお話しできないことに関しては、パスワークの個人セッションでさらに多くのものを共に発見してきましたね。

 今夜はいつも通りではありますが、誤ったコンセプトの上に成り立っている非常に基本的な二元性について、極めて具体的かつ重要な点をお話ししたいと思います。お話しする二元性は普遍的なものであり、ある意味ですべての人に当てはまります。その二元性とは、歓びと善良さ、というふたつの対立するように映る事柄です。歓びと私が申し上げるとき、ここには人の幸せや達成感、すべてのレベルでの満足感、私利、自己主張が含まれます。二元性においてはこれらすべてが善や無私に反すると捉えられるため、犠牲にしなくてはならなくなるのです。たとえば同じ二元性の反対には、適切さ、正直さ、そして道徳のために損失を出すことが当てはまります。「善良でなければならない、さもなければ覚悟しろ!」こうなると自己中心的でなく無私であり善良であることは至福を断念することを意味することになります。

 二元性から生じる誤解の害については、派生するさまざまな結果を非常に注意深く熟考しないかぎり完全には掴むことは難しいでしょう。歓びを犠牲にするということはすべてを犠牲にすることです。生命とは歓びであるため、歓びを犠牲にすれば人生を放棄することになります。生命力が流れていなければ健康であることは不可能です。人のシステムを力強く流れる生命力、そしてそこから生じるすべての歓びの現象がなければ、二元性は病んだ健康状態をもたらします。強烈な身体的歓びは道理にかなった欲求であり憧憬です。なぜならそれは宇宙の法則の一部だからです。利己心、自主性、自己主張は人の成熟や責任感を表すひとつの側面ですが、人が歓びを間違いと捉え否定している際にはこうしたものは見捨てられることになります。弱く、無力で何かに依存し、自己のアイデンティティーを欠いた状態に留まることになるのです。その方が「適切」で「無私」だと何となくどこかで感じているからです。もし自分が逆の状態になればそれは攻撃的すぎ、強健すぎ、禁じられた状態であると感じます。パワーは自分の内にあり、自分の運命は自分で創り出すことができるということを知るという霊的な歓びは、この二元性において見捨てられます。この状態もまた歓びが強すぎ「いくじのなさ」が足りないのではないかと思ってしまいます。歓びは間違いであるという歪んだ信念によってこれらは見捨てられます。自分を主張する、またはそもそも自分のものであるパワーではありますが、自分はパワーそのものだと称することでもあれば、自分は「自分勝手」で「罪深い」と信じています。しかし逆に自分勝手で罪深いからこそ、この虚偽を信じ、真の身勝手さや欲深さ、そして冷酷さを脱ぎ去ることができないのです(ただし利己心やエクスタシーを求めることは自分勝手または罪深いとは言いません)

 自分の自由やパワーを真に理解した瞬間、最早人は自分勝手でも冷酷でも欲深くある必要もなくなります。なぜなら善良さと歓びの間で決断に迫られる代替案や分離、選択は最早存在しないからです。善良になるためには歓びを放棄しなければならないと考えるかぎり、善良さと歓びの間を行き来しなくてはならないでしょう。どちらにも心底コミットすることはできません。このような選択を迫られているとき人は平和を見出すことができません。つまり人は自分勝手かつ歓びを否定する人となるのです。歓びの否定を強いられていると感じるほど人はやみくもに虚しさを埋めようとするため、さらに自分勝手になってしまいます。そしてより自分勝手になっている自分を罰し、自分は歓びに値しないと自らに言い聞かせる必要が出てくるのです。

 今お話ししている二元性が存在しているかぎり、生命の本質である歓び、生きる歓びは封じ込まれたままです。品位や善良さのために達成したいと願う望みを諦めるか、人生とは本来歓びそのものであるはずなのに、そのほんの一部分を味わうために悪の重荷に耐えなければならないか、この二択だと人が思っているかぎり(こうした自己評価は表立つことなく密かなものかもしれませんが)、選ぶことなど不可能である選択肢の間で苦しみ苛立つことになります。 

 これは非常に深い二元性で、自分をじゅうぶんに深く観察してみれば、誰もがこうした二元性に影響を受けていることに気付くでしょう。思っている以上にそうであることに気付くはずです。この二元性は、単に幼い頃の環境が個人に与えた影響からくるものではありません。もちろん多少はありますが、今お話ししている二元性はより一般的かつ普遍的な歪みです。宇宙的な意識の破壊的な部分にはこの二元性が深く刻み込まれており、この誤りの分離が吹き込まれています。

 生命の元来の統一性を人が深く経験するところまで到達すると、もうこうした選択をしなくていいのだという凄まじい真実に気づきます。想像しうるかぎりのすべての歓びの可能性や達成、満足、エクスタシーに手を伸ばしていいのだと気づき、同時に自分は完全に寛大で、周囲に与え、自己を委ねる人となれるのだと気づきます。委ねることや与える者となることは、二元性にまだ生きている間に恐れているような自分から何かが奪われるようなことではなく、実際には自分をより豊かにしてくれるものです。理論的には皆さん、このことを受け入れているかもしれません。しかし感情的な目覚めがいざ起こってみると、世界が足元から揺らぎます。不必要な足かせという重荷を外し、世界の自由や成長、自分自身として存在すること、そして人生に向かって手を伸ばし経験するかのような感覚が起こるでしょう。こうなれば、もう何も道を阻むことはなく、成長に次ぐ成長が続くでしょう。より強く、より統合され、愛と叡智と共にあり、創造のパワーに生き、現実がそもそもそうであるように気づきそのものの中に生き、至高の歓びを経験する能力と共に成長し続けることになるのです。

 さて皆さん、私が「宇宙的意識の破壊的な一面」と申し上げるとき、少し驚かれるかもしれませんね。宇宙的意識は常に建設的だと思われているでしょうから。ここでもふたたび同じことですが、存在しない恣意的な分離が人によって創られています。建設的な意識と破壊的な意識が個人的に存在しているのと同様に、地球という領域の意識にも存在していますし、国、町、そして各グループにも存在しています。個人にとってそうであるように、意識の一部は建設的であり、また他は破壊的であり、部分的には気づきに至り、また別の部分ではそうではないことでしょう。人は皆、神聖さの表れであり、自分の深い部分に手を伸ばし、意識的な思考も破壊的な思考も、そこで呼び覚まされている思考に手を伸ばしそれを超越するとき、統合されたパワーと善良さを顕現することができます。これはグループ意識でも同じことです。各々の創造的な生命の物質がひとつのまとまりという、より大きなものを作るときグループ意識もまた変化を達成することができるのです。

 統合された神聖なる深みに手を伸ばすことでより多くの個人が自分の中の破壊性(意識的なものも無意識的なものも)を解消することで、世界全体の意識も変化します。つまり個人の成長や伸展は本人がその真価を認める以上に、世界の形成に貢献しているのです。人の土台はあまりに生き生きとし、パワフルで、可能性に満ちています。永遠の善良さや豊かさです。自分自身のこのような土台を見出す以上の救済は存在しません。エゴが持つ理知がこのことを可能性として受け入れ、意図的にこのパワーを活性することができれば、中間の層にある誤りや破壊性、苦しみはより素早く脇へのくことでしょう。時間はかかるかもしれませんが、すべての物質は同じだということに気付くでしょう。本質的にはすべてが生命そのものであり、そっくり同じなのです。一見まだ分離し、破壊的で、自分の意識で動かしている部分を自分の内に発見することと、隠された無限の神聖なパワーを発見することは(ふたつは本質的にはひとつの意識という思考ではあるのですが)交わることなく平行線を辿っています。歓びと、個人的な善良さや品性もまた、今はまだ距離を保ったままです。

 今夜お話ししたことに関連した質問はございますか?

 質問:個人的な質問があるのですが、今夜の題材と関係している可能性の高いと思っています。コメントをいただきたいことがふたつあります。ひとつ目は、最近私は非常にエネルギーに溢れた状態にあり、この状態は仕事と関係があるのではないかと思っています。高くエネルギッシュなのですが、これは睡眠を妨げ、精神安定剤にふたたび頼ることを余儀なくしています。ふたつ目は、過去に親しかった人と近く会うことになっているのですが、自分はこの人を酷く恐れ、入り混じった気持ちを抱いています。この人がいるとコントロールが効かなくなる感覚があります。自分が抱えているセクシュアリティにまつわる恐怖がとても強くなるのではないかと思っています。

 回答:そうですね、今夜のレクチャーととても関係のあることだと思います。今お話ししてくださったことと、今夜のレクチャーの題材はお互いに繋がり合っています。相互に依存し合う関係ですね。あなたが経験している高いエネルギーの状態は、本来のセクシュアリティが何か別なものに置き換わることによる直接的な結果です。この力は本来の歓びの表現を見出すことがまったくできずにいる状態です。歓びの剥奪はあなたをある程度、病気の状態に陥らせています。誤った恐れと考えによって自分を禁じることで、あなたが本来経験するはずの強烈な歓びはすべてのレベルで、消化しきれないほどのエネルギーを創り出しています。健康的に機能している人では、永続的なエネルギーのターンオーバーが起こります。しかし歓びの方向が勝手に、そして人工的にせき止められている場合にはこのターンオーバーがうまく起こりません。ターンオーバーに続いてエネルギーが流れるとき、歓びが生じます。この流れは愛し、与え、そして受け取り、ひとつとなることへと繋がり、生命の力へと人の心を開き、すべてのパワーが存在している最奥の自己へと人をオープンにしていきます。同時にこうした歓びを共有する他者に自分を開くことに繋がります。これを最後までやり遂げることができれば、人はよく機能するようになるのです。エネルギーのまとまり、単位はすべて独自の代謝やリズム、そしてターンオーバーの方法を持ち合わせています。相手に会うことを恐れているのは、あなたの中の歓びの法則のエネルギーが強く活性化していることに由来します。つまり異性とひとつになることや、融合から生じる歓びは悪いものであり、危険であるという誤解がよりはっきりと表面化するのです。これはいいことです。なぜならこのお陰であなたは自分の中のその部分を見ることになるからです。こうした動力が機能していること、あなたの意識の中でどれだけそれが力を持っているのかを知ることになり、これがいかに不合理であるかを納得するからです。つまりこうして自分の中で起こっていることを理解することができれば、さらなる成長のための踏み石として、そこに時間を費やすことができます。

 職場の状況でさえも、本質的には問題は同じです。これはあなたにとって新しい経験なのではないでしょうか。これはよい経験です。というのもこの経験はあなたがひとつの障害を乗り越えたことを示しているのですから。これまでとは比べ物にならないほど、現実としっかりと向き合えていることを示しています。これまで一度も取り組もうとも受け入れようともしなかった人生のひとつの側面を受け入れることができているということです。あなたはこうした良きワークを行っているばかりでなく、ご自身の中のブロックや困難を克服したのです。少し前なら乗り越えられなかったことでしょう。あなた個人の強さや善良な意志がこの成長にあなたを導いたのです。このすべてを歓びとして経験されているのではないでしょうか。自分自身の強さ、才能、能力、回復力、その他どのような強みも、それらを見出すことは歓びです。不必要に自分を閉じ込める拘束衣のようなものを払い去り、善へと向かう無限の可能性を知るという形でこの歓びを経験されるかもしれません。この歓びはあなた自身が達成したものであるにも関わらず、あなたはこうした歓びを否定します。あなたと経験の間に膜があるかのようです。分厚くて、どんよりとしたプラスチックの壁のような膜です。この壁は経験があなたに触れることを可能にする力からあなたを引き離します。もちろん、あなただけでなく他の方々にも当てはまることです。成長にはさまざまな側面がありますが、時間をかけてこの膜を薄くし、最終的には溶かし去り、人が直接の経験をすることも、成長のひとつの側面です。直接の経験、これには深遠な意味が含まれています。なぜなら人が直接の経験、裸の経験から身をすくめてしまえば、人は自分自身との間に問題を抱えることになるからです。そんなとき人は弱く、依存的で、恐れに生きており、何より欠乏状態にあるはずです。人が誤解を脱ぎ去り、生命に目覚めるほどこの膜は薄くなり、人は人生をより直接的に経験するようになります。膜が厚いほど、自分自身が次のように感じていることに気付いてください「私はここにいる。そして透明でどんよりとしたあの壁の向こうに経験というものが見える。しかし経験は私を触りはしない」と。経験が触れると感情が流れますから、あなたは恐怖に身をすくめます。しかしこの恐怖は間違った結論なのです。歓び、または不快な経験は、それらが自分を傷つけるとあなたが信じていないかぎり、あなたに危害を加えることは決してできません。あなたが経験から自分を防御しようとすることで危害は生じるのです。経験から自分を閉じることから生まれるのです。害とはこのことなのです。あなたが経験する不安な状態とはもっぱら、歓びを恐れ、不快を恐れる結果生じます。別の言い方をすれば、経験に触れられるのが怖いがために、それに反するように防御の壁を築くということです。

 この状態から抜け出すには、自分の無意識は意識的な部分に比べると、ここから抜け出すことに積極的ではないと気付く必要があります。今はこの事実を受け入れましょう。なぜなら今ある状態に影響を与えるには、この気づきが必要だからです。自分の中で抵抗している無意識と、知的な形で向かいあってください。リラックスして無意識と対話するようにしてください。こんな風に語りかけてみましょう「経験を恐れることは間違っているよ。歓びを感じようとも、反対に傷つき落胆しようとも、自分には悪いことは起こったりはしない。自分が抱いている恐れは幻想だ。本質的に自分に備わっているレジリエンス、回復力を私は求めている。誤りの恐れや考えに頼るのではなく、自分の深くにあるこのパワーに私は助けを乞おう。もう私は経験を拒否しない。良い出来事、悪い出来事と一般に呼ばれることに対して自分が抱いている恐れは幻想である」と。つまりあなたは少しずつ、目の前に現れる経験を自分に許すようになります。門前払いするのではなく、経験があなたのところに来ることを許しなさい。

 皆さん全員が人生の栄光を真に理解することができますように。この理解により皆さんは、恐れることは何もないのだと、本当にそこには恐れるものなど何ひとつないのだと、恐れとは幻想であることにどんどん気づくようになるでしょう。人生と歓びが同じであるように、恐れと幻想は同義語です。皆さんに祝福を。神の内にあってください。


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