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Pathwork in Japan
No.162 内的ガイダンスのための3つのレベルの現実について
Pathwork Guide Lecture No. 162
UNEDITED版
1968年4月12日
内的ガイダンスのための3つのレベルの現実について
THREE LEVELS OF REALITY FOR INNER GUIDANCE
ここに集められ、まこと祝福されている最愛の友であるみなさん、ようこそ。あなた方は、ガイダンスと真実を受け取りたいと願うあなたの存在そのものによって祝福されているだけでなく、主として自分の真の存在の実現に向けて行う内的な努力一つひとつによって祝福されているのです。これが実現すればするほど、より多くの祝福が内側から生じることでしょう。
自分自身の内的な現実から切り離されている人間は、全くのところ迷っています。人類の大部分は、多かれ少なかれ完全にそこから切り離されており、従って、自分の内的現実へと戻る道を探さなくてはなりません。このつながりに帰り着いた、数少ない人がいます。彼らは、これまでもこれからも、人類の霊的リーダーであることでしょう。この道における努力は全て、そのような内的現実の実現に向けた内的ガイダンスとのつながりを再構築していくことを目的にしています。
イエス・キリストは、神の国は人間の中にあると明らかにしました。この言葉は多くの場合、軽く捉えられすぎており、あまり熟考されていません。私たちが「神の国」と言うとき、それは何を意味するのでしょう?「神の国」という言葉は、何を象徴しているのでしょう?それは霊的に目覚めた人が現実として見出す、絶対的なパワーと豊かさを象徴しています。私たちはもちろん、霊的なパワー、愛、真実、平和、拡張、創造性、至福、これらの豊かさについて、そして自己が思いつく限りのあらゆるものを創造できるパワーを持っているというその知識について口にします。しかしこれは、人生が成り得るもの全てを含むのです。これは、その人がそうなるよう生まれついた、完全なる自己に到達することを意味します。友よ、もしあなたが、自らの持つ、すでに自分のものとして使うことができるパワー、美しさ、真実、愛、エクスタシー、そして創造的な拡張の可能性の欠片さえまだ手に入れていない、ということに気づいてくれたらいいのですが。今言ったことは、空虚な言葉ではありません。これは、すぐにでも手に入る真実なのです。
内的現実と内的ガイダンスへと向かう道は、骨の折れるものです。しかしそれは主に、あなたが真実をとても遠く離れているものとして、実際に離れている以上にもっともっと遠く離れているものとして想像しているからなのです。あなたは今この瞬間、すでにある人生が何なのか、それを思い描くことができません。そして、もしそれを見ることができ、知ることができ、従ってそれに気づくことができれば、人生があなたにとってどのようなものになり得るのかということも思い付かないのです。あなたはこれを未だ、遠くの漠然とした非現実の理論として理解しており、本質的に冷酷な宇宙、あるいは少なくとも自分と関わりのない冷淡な宇宙の中で、自己を孤立した欠片として経験しています。あなたは、宇宙を静止したままで動かない現実として思い描き、その中に自分が置かれており、その法則は自分自身の内的法則とは何の関係もないと思っているのです。
この概念、そしてあなたが自分の人生を経験しているこの方法が、あなたの真の困難なのです。これこそが、この「道(PATH)」を難しく骨の折れるものにしており、他の何ものでもありません。ゆえに、その困難は実在ではないのです。それはこの概念から成っているのです。そこで問題は、あなたがどのようにしてこの概念を変えることができるのかということです。これが苦心であり努力です。すでにこの存在の現実に到達した人にとっては信じがたいことではありますが、あなたは真の自己として存在することの充実に対し、あたかもそれが世界で最悪の運命であるがごとくに葛藤します。もし真の自己と束の間の意識との間の分断、あるいは宇宙と自分自身との間の分断、これらの分断の幻想が存在しなければ、その瞬間の覚醒が起こるはずなのです。言うなれば「カチッ」と音を立てて、あなたは自分が何者であるのか、そして人生が何であるのかを知ることになるでしょう。
私の全てのレクチャー、そして共に行っている全てのワークは、幻想というこの問題にさまざまな角度から取り組んでいます。これら全ての異なるアプローチには、いつくかの一連の順序があるのです。大抵、あなたは自分の私的で個人的な個々の道において、同じ一連の順序を見つけます。しかしながら、その個々の道においては、これらレクチャーの一連の順序を真似るように強制することはできません。何人かの人はすでに見出したかもしれませんが、それはむしろあなたが導きを得ながら自分の真実を直接、自然発生的に内側から経験するプロセスなのです。従って、この真実は通常、理解に至ったその瞬間に現れます。そのときには、とても新しく新鮮で、それ以前には聞いたこともないようなものに思われるのです。しかし、あなたが学んだレクチャー、あなたの無意識の領域に浸透したそのレクチャーを確認することで、その真実を後から検証することができます。あなたはまずレクチャーを使い、それから初めの頃には見たくなかった真実にもっともっと向き合うことで、徐々に解放された自分自身の直感的な能力を使うのです。誤りを取り除くと、直感と創造的な経験を内側から解放することになります。レクチャーは初めにこのプロセスに推進力を与え、後からまたそれを読むときにそのプロセスを強め確証するのです。
今日、私たちの具体的なアプローチとしては、現実の三つのレベルについて話します。ここで私が話すことをまず理解し、最終的にそれを吸収することができるならば、この道はあなたにとって、随分と簡単なものとなるでしょう。幻影である困難のうちのいくらかが取り除かれることで、あなたの内的ガイダンスは、自然で、努力を要しない現象として現れるでしょう。この現実の三つのレベルとは何でしょうか?もしかしたら、あなたは、すでによく知られた肉体、精神、霊的な現実のレベルについて聞くことになると思っているかもしれません。それについては、さまざまな背景、つながりにおいて話してきました。しかし、これは別物です。ですから準備を整え、新たなアプローチに向けて、自分のマインドにギアを入れてください。
一番目の現実のレベルは、あなたが存在していると思っているものです。二つ目の現実のレベルは、実際に存在しているものです。三つ目の現実のレベルは、存在し得るものです。このことを哲学的、一般的、あるいは理論的な態度で論じない方が良いでしょう。私がここで述べる概要を吸収するのに、あなたがより具体的かつ個人的になれればなれる程、そしてあなたの毎日の葛藤の中で、一見最も重要でない主観的な経験や反応においてこれを適応させられればさせられる程良いのです。あなたの問題となる反応や態度、あなたを平和に、幸せに、生き生きとさせておいてくれないものを検証してみてください。そして今日私が話すことが、あなたにどのように当てはまるのかを見てください。
その動揺があなたにとってどれほど些末に、あるいはどれほど世界を揺るがすかのごとく重要に見えたとしても、自分自身に尋ねてください。「私は、本当は何が存在していると信じているのだろうか?私の中に?私の周囲に?私と他者との間の交流の中に?私が経験しているこの状況の中に?」と。どうということがないように見えるかもしれませが、それほど簡単でも単純でも自明の理でもないのです。全くそうではありません!このレベルにまで行くのは、おそらく最も困難であると申し上げます。一度これが成されれば、次の二つのレベルは簡単に扱うことができます。人間は、自分が実際に何を考えているか、何を感じているかということについて徹底的に混乱し無知であります。大抵の場合、その人はそれから目を逸らし、ただ漠然とあいまいな状態で、いくつかの動揺に気づいているに過ぎません。それらの動揺に対し、その人は急いで合理化するか、最も受け入れやすい、最も「論理的な」、人生そして自分自身にアプローチする最も表面的な方法に一番矛盾することのない説明を探すのです。つまり大抵の場合、多くの矛盾と多くの葛藤する感情が連なっている中、ただ1つの組合せのみを認識します。それが認識できたとしても、せいぜい大雑把で底の浅い形での認識になります。そのようにして、その人の本当のドラマ、信念と見解、印象と反応、概念とアイディア、希望と恐怖のドラマは、ほとんど完全に覆い隠されてしまいます。人は、自分の中で本当は何が起こっているのかを表現しようと、集合的な単純化し過ぎたレッテルに逃げ込みます。その人が憂鬱である、不安である、希望がない、怒っている、傷ついている、疲弊しているなどと言うとき、その人はこれらの感情の内のどれであっても、そこから多くの感情、印象、信念を呼び出したことに満足します。まるでそれ以上の探求が必要ないかのように。もしその人が、これらの感情の名前を、それを探求するための足掛かりとして使うのであれば、その名前の目的は果たされるでしょう。しかし、人はこのような感情の名称を最終的な説明としてのみ使うことが多過ぎるのです。従って、その人は現実の最初のレベル、自分の人生、他者、自己についての大抵は混乱し誤っている解釈にさえも到達することができません。私が、このレベルを全てにおける現実であると言うのは、逆説的に聞こえるかもしれません。しかし、曖昧な気付き、靄や霧の無人地帯が一時的な現実でさえなかったとしても、現にその人が、真実であろうと嘘であろうと、感じ、考え、信じているそのことは一時的な現実であります。だからこそこれは非常に痛ましく不安であり、だからこそこのレベル、あるいは新しい言葉を作るならこの「現実以前」からもっともっと遠ざかってしまうのです。
ご存知のように、このような皆で共有するレッテルを「なぜか?」または、「どこから来たものなのか?」という疑問を持ってきめ細やかに検証していくのは、個人的ワークの一部です。よく見られる当初の反応としては、あなたはなぜこのように感じているのか知ることもできず、即席の簡単な答えを自分自身に与えます。このような即席で簡単な答えは、ことのほかもっともらしく聞こえ、新鮮で新しいアプローチから尻込みしている世界においては手におえないものです。しかしながら、そんな問題は未だかつて存在したことがないかのごとく、この社会には簡単に理解できるような答えはまだないかのごとく、全ての問題を吟味する必要があります。
もし人が、自らが本当に信じていることが特定の不幸せな感情の原因となっていることに、いくばくかの注意を払うのであれば、その人は極めて簡単にいくつかの答えを見つけるでしょう。それは大抵の場合、総体的にほんのわずかな注意しか必要とされません。先ほど述べたように、それはほとんど、たった一つのことなのです。しかしそれに反し、その不幸せについての複数の意見と思考が同時に存在するのです。一連の矛盾する思考がまた別の一連の矛盾する反応、逆反応、ディフェンス手段、さらに続く誤った信念、これらの避けられない結果を引き起こし、さらに多くの連鎖反応を作り出し、そのすべてがその存在にもたらされるのです。これら全てが無自覚の曖昧な状態、半覚醒状態、簡単な説明で逃げてしまう状態にあるとき、存在すると信じているものは何なのかを知るという一番目のレベルへ、どうやって到達することができるでしょうか?
たとえば、ある人が密かに、自分を宇宙で一番重要な存在であり、また全く同時に、宇宙で最も価値の低い存在であると思うことは、全然不可能なことではありません。このような思い込みの一つでさえ、さらに続いていく数えきれない結果をもたらし、その人が世間に対処するときに、誤った思い込みをより増殖させることになります。最初にもったそもそもの誤った思い込みは雪だるま式に膨らみ、防ぎようのないほど痛々しい、破壊的な信念、ディフェンス手段となり、それ自体が複雑に絡まった網となり、どんどん大きくなる痛ましい思い込みの原因となります。その二つの矛盾する最初の思い込みは、混乱、もつれ、誤認、そしてその結果として痛みを増殖させます。なぜならば、真実が幸せであるように、誤りは痛みであるからです。
このように互いに相いれない思考、そしてまたたくさんの誤認と混乱も、あなたはすでに知っていることでしょう。このような道でワークをしている人であれば誰でも、これらがどんなに重荷であるか、そしてそれを捨てることがどんなに解放的に感じられるかを経験上知っています。そしてまた、混乱が続く限りは苦痛の中に居続けること、それが浄化された後には解放された幸せな状態になることを知りながらも、それぞれの絡まった網は、混乱の解明に対抗して特別な戦いを始めることも知っています。みなさんは、これら全てを個人的な経験として、そして絶対確実な価値ある理論として、ある程度のレベルまで理解してはいますが、誰一人として、自分がどの程度この現実以前の状態に居残っているのかに完全に気づいている人はいません。日々の生活の中で、ほとんど人は、自己に対する二元的概念、つまり高次であると同時に低次であるというこの二元的概念がある場所こそが、必ずしも真実ではなくとも、何らかのものが存在すると信じている現実レベルの原因となっていることを見ていません。
そしてまた、あなたがたとえば自分自身に関して、何らかの誤った前提を実際に認識したとしても、その前提の先にある結果については探求しないということはよくあることです。たとえば、その前提は他者についての自分の思い込みにどのように影響するのか、彼らは何者で、あなたのことをどのように考えているのか、自分についての前提という観点からこの状況や出来事が何を意味するのか、自分や他者のある種の反応が本当は何を意味するのか、これらを見ることができないのです。もしも、その人、その状況、その出来事が何を意味するのか、自分が信じていることをたくさんの言葉で表現するならば、あなたはなぜ自分がどのような形においても不幸せであるのかを知るでしょう。自分が感じているように感じるのはなぜなのかを明確に知ることは、とてつもない変化をもたらします。しかしそれだけではなく、いくつかの思い込みが不合理であることを認識できる可能性を与えてくれるのです。繰り返しますが、あなたはすでに全般的に理論としてこれを認めたかもしれません。しかし、それを具体的に実行するのは、極めて困難なことです。人間の傲慢な知性が、このことをとても難しくするのです。自分を他者の上に置くのは傲慢なことです。しかしまた、人格の中の子供っぽい無理解を否定し否認している間に、自分の知性を過大評価し、持って生まれた真の智恵を見逃すことは、より多くのダメージをもたらします。その人は実に自分を、その瞬間の自分の真実の状態よりも過剰に評価しているのです。
無意識の中に、どのような子どもじみたナンセンスが横たわっているのか認めることは、とても難しいことです。なぜなら、これは人間が自分の知性について持つ概念と矛盾しているからです。しかしおそらく、あいまいな印象と感情の霞の中に隠された秘密の信念を、正確に認識することなく、そのまま隠しておこうとするより大きな動機は、以下に述べるものでしょう。人間は、これらのことを秘密にしておく「既得権」を持っています。なぜなら人は、漠然とその部分が明らかにされると変わることを強いられると感じるからです。人は自分の誤った考えに関与し過ぎ、違うアプローチの方法が本人には脅威のように見えるからこそ変わることを恐れるのです。しかし、自らが脅威を感じているのは、その問題になっている思考があるからだという点に、その人は気づきません。幻想にすぎない前提は、それぞれに折り合いをつけ合い、一つが他のものに連動しています。人間の中に秩序と真実をもたらすためには、これら全てのもつれをほどかなくてはなりません。もし人が実際の自分よりも自分を高みに置き、未だ無知で誤解した状態にいるとすれば、その人は秩序を築くことはできないでしょう。その無分別な考えや信念を全て含めた、徹底的に子どもじみた側面を認めるのは難しいことです。この子どもじみた側面が白日の下にさらされる瞬間、あなたはそれがナンセンスだと気づき、厄介な思い込みを手放せることに安堵するでしょう。
このようなナンセンスに加えて、誤った思い込みや印象もあり、あなたはそれらがある程度まで真実だと意識的に思っています。これらを扱うことはより困難です。
それから、どうも誤っているのではないかと感じている思い込みもあります。しかし、それらを修正したいとは思いません。ある意味で、痛みをともなう根拠を引き受けることは、あなたの無意識の深いところではもっと酷いことに思えるその他の選択肢よりも好ましく見えるのです。これもまた、幻想にすぎない前提です。なぜなら、重荷、絶望、あるいは何であれ、望ましくない真実などないからです。全ての結び目の相互作用と複雑さ、もつれ、誤った思い込み、半分だけの真実、矛盾には、あなたの中で実際に存在しているものが含まれているのです。そしてこれは、さらなる進歩を可能とするに先立ち直面すべきものです。
この現実のレベルは、完全にほどかれなければなりません。もしも自分が真実と信じているものを知ろうという意志がなければ、その人はその瞬間の真実が何であるのかをいつまでたっても知ることはできないでしょう。結果として、三つ目のレベルの現実には到達できません。そのためには、今の現実を自分にとってより好ましいものに変えることです。そしてそれは、希望的観測、幻想的な魔法、事実否認では起こりません。
一般的に起こる例をあげて、人間の拒絶されることへの恐怖を考えてみましょう。拒絶されることへの恐怖は、その人の心理的生活に伝わり、結果として外的物理的な人生の至るところに見られるようになります。もしもそこに特定の前提が繋がっていなければ、拒絶そのものはほとんどの人間にとって脅威にはなりません。これらの特定の前提が何であるのか、それが発掘されなければならないのです。たとえば、ある人が自分を無価値だと信じているとします。その場合、拒絶は、その人には価値がないという「事実」を裏付けるものであるという点においてのみ、非常に大きな脅威となります。不安を感じているという典型的な「説明」を認識しているだけでは充分ではありません。まず、その人が拒絶を恐れているからこそ不安が存在するのだという認識が必要です。それに続き、自分は無価値であると感じており、その感情を認めることを望まないからこそ、拒絶がそのように脅威となるのだということを発掘しなければなりません。しかしこれでも、充分深いとは言えません。ここで、その人の秘められた確信である自己の無価値観が、どの特定の地盤を土台としているのかを探し出す必要が出てきます。違う言い方をすれば、「不安」という皆が共有するレッテルの下に隠れている、これらの非常に具体的な思い込みや前提を、その曖昧さの霧の中から取り出さなければならないのです。
ここで提案されたやり方にアプローチ方法を変え、真剣に自分の中を調べ、すべてを当然と見なさずに、全てに新しい新鮮な方法でアプローチすれば、自分が存在していると信じているものが何なのかを見つけ出すことでしょう。そこからは、より深く見始めることができ、これらの思い込みの根拠を疑問視し始めることができるようになります。目を開き、それが本当は何であるのかを客観的に眺めることができるのです。この一つの現実のレベルから別のレベルへの移行においては、まずは自分が存在していると思っているもの、そしてその次に、本当はそこには何があるのかということ、そしてそれを本当に見出したいのかを自分自身に問わなければなりません。あなたが抱いている全ての誤った前提は、それを秘密のままにしておくよう指図してきます。たとえば、あなたが実際に無価値であり救い難いというのは本当かどうか、このような事実に直面することは、全くもって難しい作業です。しかし、自分の価値を内心疑いながらも信じている振りをして嘘を生きる方が好ましいでしょうか?このように考えることは、本当に存在しているものを探し出すために、自分が存在していると信じているものは何かを見るための不可欠な判断を与えてくれることでしょう。実際の真実は、あなたが思うのとはおそらく異なるでしょうが、あなたには多くの価値があるよいうことです。
反対に、そして同時に、あなたは自分が非常に特別な特権に価する、地球上で最も重要な価値のある人間であると信じているかもしれません。このような思い込みを突き止めるのは困難です。なぜなら、あなたの知的知識は、このような傲慢にたいして意義をとなえるでしょうし、それに対しての恥を創り出しさえするかもしれません。また、このような考えを認めることは、その考えの正当性を疑問視させることになります。心理面に潜在している全く対極にあるもの、自分には価値がないという前提があるからこそ、人はその質問を恐怖するのです。もしもあなたが特別でないのであれば、あなたは何者でもありません。ゆえに、両方の前提を意識から隠しておかねばならず、検証されてはならないのです。従って、それに続く連鎖反応や衝動的な振る舞いのパターンが実際に重要なものとして検証されることはありません。
ですから、あなたが自分の中に何が存在するのか見出したくないのであれば、なぜそうしたくないのかを見出してください。どんな誤った思い込みが、あなたがそうすることを妨げているのでしょうか?あなたがその質問に答えるそのとき、別の小さな門を開くことになるでしょう。それは結果的に、あなたのマインドを変化させることを可能にし、それによって(a)あなたが存在していると考えているもの、そして(b)本当に存在しているもの、これらを見つけ出したいと望むようになるのです。
その瞬間、あなたはすでに二つの重要なレベルを超えて、内なるガイダンス、内なる現実、あり得るものは何かということの可能性により近づいて行きます。これは、あなたの中にある神の国です。実際には存在しているものではなく、存在していると信じているもの、そして間違った意見、それらのもつれが完全に明確にならない限り、現に存在しているものが必ずしもあなたの究極的な存在の状態ではないということさえわからないのです。これを実感することは、非常に重要な変容への導きとなります。
実際に存在するもののレベルは、常にあなたが存在すると信じているもののレベルに比べて大きな安心感をもたらします。真実は、それがどのようなものであれ、霧がかかった半分だけの真実や回避ほどには決して恐ろしいものではありません。その霧に比べれば、あなたが存在すると信じているものは安堵となり、さらに本当に存在するものは、存在すると信じているものに比べてもっと大きな安堵となります。存在し得るものを創造すること、その中にある多種多様な可能性の発見は、このうえない解放です。それは世界へ、共同創造(co-creation)の大いなる自由へ、無制限の拡張への門を開きます。ここで言えるのは、ありふれた心理療法で得られる最高のゴールというものは通常、実際には何が存在するのかの現実のレベルです。人がこの現実を受け入れ、自分の顕現している価値と負債、自分の限界と外的世界の限界を受け入れるとき、そしてまたその人が自分の最善の行いと感情を生み出すためにこの世界にかかわり対処するとき、それはまさに最善の状況下で期待し得る最高の結果となることでしょう。それは、患者が治癒に成功したと見なされ、解放される地点です。もっともここは、私たちの霊的な道のスタート地点に過ぎないのですが。もちろん、これらのレベルは重なり合っており、次のレベルに到達する前に、一つ目のレベルを完了させなければならないというわけではありません。そのように進むものではないのです。現時点で三つ目のレベルに気づき、可能な限りそれとワークすることは、初めの二つの段階への到達を助けてくれます。少し早めに、もっと痛みを伴わない形で、そしておそらくもっと安全で意義深い形で到達できるように。
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存在し得るものは何かという三つ目のレベルにおいては、通常現実と呼ばれている実際に存在するものが固定された状態になっているわけではありません。それは、存在していると信じるものよりも、リアルでも真実でも変えられないものでもありません。そう信じ込んでいる人には、それは本当に真実で現実に思え、だからこそ私たちは、その人のその瞬間の現実について話すことができます。しかし、それはその人の前提の上での現実に過ぎず、それがさらなる考えへとつながります。そこには実在のエネルギーと力学があり、経験と事実によって起こる結果を伴います。ですから、その人が信じているものと、実際にあるものは、大きく広がる可能性を考えるとき、それ程異なるものではありません。
人が現実を固定化され動かしがたいものだと思い込んでいるときには、その人は自分の幻想が最終的な真実であると思い込んでいる人間と同じように、実際の究極的な現実からは遠く引き離されています。究極的な現実は本質的に柔軟で動きがあるものです。人間は、既定の在り方を持つ、固定された宇宙の中に入れられている訳ではありません。物体でさえ流動的であり、凝縮されたエネルギーで、常に動いているのです。エネルギーは意識により、そしてそれが活動する様により発生します。従って、不動の外的世界は、あなたとあなたの意識により直接生産されたものです。自分で見つけた現実が必ずしもそうでなければならないのか、を自らに問い始められれば、あなたは自分の概念、理解を広げ、固定されたように見える現実を変えていく創造力が増します。あなたが自分の概念を広げたいと望む分だけ、あなたにとっての現実を拡張することができます。概念とは、もちろん、表面的な思い込みや理論以上の意味で言っています。幸せと自己表現の経験の無限なる景色をあなたのマインドが本当に深く抱きしめることができれば、あなたの現実はまさしくそうなるはずです。なぜなら意識は、激しくパワフルなものだからです。ご存知のように、全ての考えは、あなたの人生、つまりまさにあなた自身の現実環境を創造し本当に構築していくのです。
しかしながら、子どもが魔法のような万能性を得ようと奮闘するかのごとくに、(なぜなら、人格は現在の制限に対処することが好きではないし恐れているので、)その制限なき拡張を得ようと無意識で奮闘しているのであれば、それがうまくいくことはありません。はじめに、現在の制限を受け入れ、それに対処する必要があるのです。なぜならば、その制限は、意識が信じているものの生産物であるからです。まずは、否定的な現実と否定的な思い込みとの間のつながりを認識しないと、その人自身の創造力を肯定性の中で発見することは不可能です。あなたが今あるそのままに制限を現実的に受け入れるときにのみ、この制限は存在する必要がないという理解に至り、それを変容させることができます。こうしてあなたは三つ目の現実のレベルへと移行します。そこでは、知性があなたの助けにはなりません。そしてそのとき、内なるガイダンスが前に出て来られるのです。あなたが自分の中で何が起こっているのか分かっていない靄や霧がかかった外的レベルから出て、自ら信じているものが存在するレベルへ、そしてそれに対して本当に存在しているものは何かというレベルへ、そしてより遠くの、存在し得るものは何かという三つ目のレベルへと道を開いていけば、この内なるガイダンスを遮るものはなくなります。
何が存在し得るのかに気づくこと、つまり内なる存在、そして真の自己の究極の真実に至ることは、人生そのものの目的であります。従って、それにより人は、その人自身となります。これらのレベルを超えれば超えるほど内なるガイダンスがより開放され、あなたはもっとこれらの三つの現実レベルを理解できるようになります。それは「外の世界に放り出される」ことを避けようしていた状態から自己の内的現実である故郷に戻る方法です。
友であるみなさん、悪とは、激しく非難されている全ての悪というものは一体何でしょうか?悪は全ての誤り、ぼんやりとした外的な現実以前のレベル、そして人が存在すると信じているもののレベルにおける混乱です。それはあまり意識されていないがために、人は本当に破壊的な、悪と呼ばれる行為や感情に突っ込んでいきます。これらはワンネスの霊的な光を不鮮明にさせます。悪の存在は、知らないという盲目状態、誤信やゆがみ、間違いの持つ曖昧さへと人を向かわせるために働きます。あなたがこれらの言葉を真に理解できるなら、友よ、もはや誰かを憎むことも、特定の人間の邪悪な本質を信じることも不可能となります。そうして、あなたはいかなる人間をも憎むことは不可能であることを知り、そのような憎しみは意味のないものであると知るでしょう。あなたは誤りの悪、また悪の誤りを憎むことはできます。そして、その誤りの結果を憎み、自分が何を信じているのか、あるいは他者が何を信じているのか、それを知らずにいることの間違いと曖昧さを憎むことはできます。あなたはそれを憎むことができますが、自分が何を信じているのかを知らないという誤りの中にからまってしまっている人を憎むことは決してできません。自分が何を信じ、思い込み、結論づけているのかを知らないこと、それは本当に最も疎外された状態なのです。
私が前に申しあげたように、自分自身あるいは他者が、概してこれらのレベルに達しているかどうかを評価することについては警戒せねばなりません。それは常に、波のように揺れ動き、重なりあっているからです。ある個人は、自分の発展の中で、二つ目と三つ目のレベルの間で揺れ動いている状態にあるかもしれません。その人は三つ目のレベルから十分なパワーを起動させ、人生の全表現を通しての導きとしているかもしれません。しかし、その人が未だ靄の中で囚われている場所においては、このガイダンスは簡単に届くことはなく、それが受け取られることはありません。
それでは、親愛なるみなさん、質問をお受けする準備が整いました。
質問:人が、自分のニーズが正当であることを疑っていたらどうでしょうか?それもやはり、どうあるべきかという問題ではないでしょうか?
答え:これは、混乱の一部です。もしも自分が求めるべきもの、あなたにとっての正当なニーズが何かを知らなければ、あなたは理由なく非現実的に愛と注目を欲する子どもっぽい側面と、人間の暖かさと愛を求める正当な大人のニーズとの狭間で混乱します。この混乱の中で、あなたは大人のニーズを自分に却下し、同時に子どものニーズが獲得できないことに対して反発するかもしれません。これらの混乱全てに秩序をもたらすことができるよう、その混乱を明らかにし、検証せねばなりません。
この混乱に加えて、他の人が本当は何を感じているのかという点においても混乱があるかもしれません。あなた自身の混乱は、必然的に他の人の中に何があるのかについての混乱を引き起こします。非現実的な要求が満たされないことから、子どもっぽいレベルは、自分が拒絶されていると結論付けるかもしれません。そしてあなたは実際の愛に気づくことができないかもしれません。なぜならその愛は、あなたの現在の状態で想像しているものとは異なる形で現れているかもしれず、その状態では、その表れ方の違いのためのスペースを作ることができないかもしれません。あなたはまた、実際の拒絶をあなたに向けた個人的なものと誤解し、それが相手の未成熟さと愛への恐れの顕現であることに気が付かないかもしれません。これら全ての相互作用と相互交流をよく調べてみるべきです。
あなたがその瞬間の自分自身について知るべきことに到達したかどうかを判断できる方法だけが、信頼し得る唯一の判断です。エネルギーに満たされ明るくなり軽くなり、完全な安心感と解放感があるでしょうか?そうであれば、あなたはその瞬間に、自分が得るべき自己認識のレベルに到達したと絶対的確信を持つことができます。この感情が欠けているときには、まだ多くの未解決の答えがあり、それを見つけ出す必要があることを確信できるでしょう。自分自身に適切な質問をする必要があるのです。
質問:私は、自分が現実を歪曲している事実に気づいています。これがどのように私の職場の状況に当てはまるのか考えています。その職場で、私は上司と敵対的な循環に囚われています。少なくとも私の方は、彼に対してとても敵意を感じています。これは私にとってとてもリアルなのですが、一方、自分が過剰に反応していることも知っています。このことについてコメントを頂けますでしょうか?
答え:すでにご存知のように、これは実際、あなたの上司がどうこういう問題ではありません。これは全て、あなたとあなたの父親との間の問題です。自分自身に、適切な問いを発していかなければなりません。彼について、あなたは何を本当は感じているのか?あなたは、彼があなたについて何を感じていると信じているのか?そしてそれはなぜか?これら三つの質問だけでも取り組んでいけば、何があなたを悩ませているか知らないまま霧の中にいるのではなく、自分が信じるものが存在するレベルにおいてより明晰に理解するでしょう。そしてもちろん、これらの質問から、より多くの質問が上がってきます。しかし、あまり急がないようにしましょう。これら三つの質問に集中し、それらを当然のごとく軽んじることのないように。あなたがこれらの質問を自分自身に尋ね、そして答えることが、最も重要なことなのです。それから、何が存在するのか考える、という次のレベルに取り掛かることができるでしょう。
このレクチャーを聴かれたみなさん、たとえずっと私の言葉に集中していなかったとしても、何かがみなさんのハートに入って行きました。ハートは、一つの種が素晴らしい果実へと成長できる場所です。友よ、このことがなるがままにしておいてください。なぜなら、人生は素晴らしいのです。真実は幸せであり、不幸せは常に間違いと誤認です。このことを決して忘れないでください。この事実は、あなたがより率先して苦しみという誤認を発見することができるようにあなたを導いてくれるでしょう。
この領域を導く主要な信念を記念する、今日というこの日(南北戦争開戦)、おそらくあなた方のご先祖の思い出から、特別な力を見つけ出すことができるでしょう。特別な日、それ自体に重要な価値があるという訳ではありませんが、人間は内側にある何かを起動させるのに、外的な衝撃あるいは一押しを必要とするときがあるのです。ある人にとって、宗教上の思い出や記念日は、そのような一押しを表すかもしれません。他の人にとっては、それは必要ではないかもしれません。しかしその人たちも同様に、他の一押しや動因、自分の大きな不安と苦しみの原因となっている、最外部の霧に縛られた存在の絡まってしまっている状態から抜け出る原動力を与えてくれる他の誘因が必要かもしれません。
私の最愛のみなさんに祝福を。宇宙の愛、宇宙の真実と美は、どんなときもあなた方の内に、そして周りにあります。友よ、いつもそこにあるのです。内的ガイダンスに呼びかけることで、自分自身に真実を見せるようにしてください。そうすることで、結果として内的ガイダンスとあなたが一つとなるように。あなたがそれを十分頻繁に真実として経験するようになったとき、それは起こるでしょう。みなさんに祝福を、平和のうちにいてください。神のうちにいてください!
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