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No.163 マインドの活動性と受容性

Pathwork Guide Lecture No. 163
UNEDITED版
1968年5月10日


マインドの活動性と受容性
MIND ACTIVITY AND MIND RECEPTIVITY


 愛する友人の皆さん、ようこそ。宇宙の愛は、神聖なる存在のあらゆる顕現と個別性を抱きしめています。特に、分離した外的な自己が、存在の真実、自己の真実、ひいては生命の真実を探し出そうと熱心に努力する時にはなおさらです。

 平均的な人間が一生の内に経験する全ての痛みと欲求不満は、もっぱら自分自身の本当の正体を知らないことに起因します。そして、生きることへの繰り返される葛藤とは、取り戻すべき何かがあり、人生を開くことができる秘密の鍵があることを無意識に知っている所にあります。あなたは心の奥底で、人生が単に日常的に経験するその瞬間の状態だけである筈はないと知っています。それ故、あなたはその瞬間から逃げ出そうとします。それ故、あなたはその瞬間を失います。それ故、人生の意味を失うのです。何故なら、その瞬間の全ての断片には、人生の全てが含まれるからです。

 真の自己を発見するための葛藤と、今の自分を受け入れることは、相反するものではありません。実際に、このふたつは相互に依存します。今夜のレクチャーでは、相反するかのようなこのふたつの方法を見出し、人生の意味と真の自己を体験して見出せるよう、特に、マインドの内側の態度についてお話しします。

 マインドの活動、または活動の欠如が鍵となります。微妙なプロセスでありながら、非常に確かで、明白で、とても重要です。これを言葉にするのは殆ど不可能ですが、それでも私たちは最善を尽くさねばなりません。私に関しては、最善を尽くして説明し、適切な表現を通して皆さんと出会い、手を差し伸ばし、私が意味する所を伝えなければなりません。そして、皆さんに関しては、知性だけではなく直感的にも理解できるよう、マインドのみならずハートから自分自身の内側に開くことで最善を尽くすことができます。ご存知の通り、後者の方がはるかに重要な理解です。

 宇宙にはふたつの重要な力、または態度があります。従って、人間それぞれの人格の中にもこのふたつの力は存在します。ひとつは、努力し、動き、行動し、主導し、活性化し、行います。この側面には、自己責任、独立性、自律性、自由な選択、自我のパワーが含まれます。もうひとつは、これから起こる何かに対して受容的に待つということです。この側面には、全体の一部であることへの自覚、相互依存性、より大きな人生のプロセスに対する信頼、忍耐、謙虚さが含まれます。前者は、直接的な活動を意味し、後者は、成長と間接的な顕現を待つことを意味します。これは、それ自体の方法で、それぞれの法則に則って起こります。

 人間が意識的または無意識的に、このふたつの態度の内の一方を「正しい」または「間違っている」と信じ、それ故に片方のみを育てる場合、歪みと不均衡は避けられません。片方だけを「使う」ことは不可能なので、自分の方法として身につけたものと反対の方法は、あからさまではないながらも存在し続けます。そして、どちらも不適切で効果がなく、破壊的でさえあるように機能するのです。後ほど、より詳細にこの部分についてお話しします。宇宙のふたつの主要な力の適正な均衡から生み出される洗練された相互作用を見つけることは、成長する人類全体にとって重要です。いつ、どのように切り替えるのかという正確なルールが存在しない為、そのタイミングは各人のリズムと内的現実の中で見出されなければなりません。それがいつ、どのように表現されるのか。いつ一方が優勢で、いつ他方が優勢になるのか。異なる成長段階があらゆる瞬間で何を求めるのか。これらを認識できるよう、人は自身の内なる生命と魂の動きに同調する必要があります。自らが展開し、エゴとの統合が進むにつれ、このことは自発的で自動的に行われるようになります。

 これらのふたつの普遍的な傾向、力、あるいは態度は、能動的な力と受動的な力と呼ばれることもあるでしょう。何年も前に、このテーマについてはお話ししましたが、より表面的で一般的なレベルでのお話でした。もちろん、今夜お話しできる内容は、全く違います。より深いレベルで、より具体的で、一人ひとりが自身の道をたどる為に使えるようにお話しできます。皆さんも良くお分かりのように、生命(人生)の真実は、哲学や脳内の何かを理解することで見出せるものではありません。真実を体験し、感じる唯一の方法は、それをあなた自身、そしてあなたの個々の問題に当てはめることで問題を乗り越えていく方法です。そして、そのようにすることでのみ、宇宙のあらゆる力を自分自身の内側で体験できるのです。

 さらに別の言い方をするならば、創造的な男性性原理と創造的な女性性原理についてのお話しになります。これについても、過去、別の文脈から、より一般的な形でご説明しました。男性性と女性性の原理は、全生命の精神生活の中に存在しています。これらは、生命がある場所であれば何処でも働いています。その調和した相互作用である創造力は、神聖なる存在の永遠に新しい顕現と個性化を生み出します。これは単に肉体の創造を意味するだけでなく、全ての創造に当てはまります。人格における成長もまた「創造」です。これもまた、男性性と女性性の原理が調和した相互作用であり、生命を与える力によって見出される必要があります。一方の自発性、意志、決断、そして他方の受動性、受容性、サレンダー、待つこと、展開すること、このふたつの正しい相互作用がなければ成長には至りません。このふたつの原理、または力が一緒になることで、再生、新しい形態、拡張が創り出されます。それはより多くの偉大な生命をぶくぶくと吹き出し、強烈な至福と至高の喜びを生み出します。不調和な相互作用、片方の力のみの過剰な強調または強調不足は、生命を妨害し、不快感、欲求不満、および制限をもたらします。男性も女性も、自分自身の魂の生活とマインドの活動において、男性性原理と女性性原理の両方が確立されていなければ、十全に男性、または女性たることはできません。

 原理や力には、特定の共通点があります。その共通点のひとつは、緊張とリラックス、硬さと柔らかさが交互にあることです。生命、成長、平和、喜び、これらの肥沃な土壌となるのは、緊張とリラックスの脈動とリズミカルな動きから生まれる回復力です。ただ、ここで言う緊張は、人の内的生活でふたつの力が不調和である時に体験される痛みある緊張と同じだとは考えないように。むしろ、動きを前方に自然で有機的に進ませるきっかけとなる心地良い緊張として思い描かれる必要があります。リラックスについても同じく、無気力な不活性やエネルギーの欠如と混同すべきではありません。その健全な状態は、生命と内的な動きに溢れています。自然な活動がそれ自身のタイミングで流れ出せるよう、確信ある状態に支えられていると言えます。他により良い言葉がないので、このように言っています。

 緊張とリラックスの適切な相互作用は、宇宙の脈動、その呼吸です。私が「宇宙の」と言う場合、それは全てのあらゆる側面、あるいはその全ての粒子を意味します。何故なら、生きているものは全て宇宙であり、宇宙の一側面であり、従って、同じ原理と法則の一部である筈なのです。緊張とリラックスの脈動する鼓動は、男性と女性、能動と受動、起動力と受容力、ふたつの力が適切に同化した表現です。全ての生命現象はこの鼓動の表現であり、この原理を現しています。生命現象が調和的であればある程、起動性と受容性、そして開くことと閉じることの絶え間ない変動がより適切に同化されます。

 生命体が源から引き離されれば離される程に、意識はその真の神聖なる正体への自覚を失い、交互に起きる生命の脈動とリズムは痛みあるものになるでしょう。何故なら、生命のある所には、このリズミカルな動きがなくてはならないからです。逆に、高度に発達すればする程、各個人は自身の真の正体により気づいているが為、真の自己とより繋がっており、この両方の動きはより喜ばしく、より満ち足りたものとなります。開くことと閉じること、緊張と弛緩、これらは避けがたく存在するのです。このふたつの極の間にある特定の段階では、開いているリラックスの状態を望ましく喜ばしく感じ、引きこもり閉じた緊張の状態を痛みがあり望ましくないと感じることでしょう。このことによって、その存在は脈動の動きの一方から逃れ、もう片方に近づこうと頑張ります。しかし、頑張れば頑張る程、自然なリズムを妨げてしまいます。何故ならば、開いてリラックスした状態になりたいと努力していても、必死に頑張ることでより緊張が生じるからです。従って、痛みをともなう窮屈な拘束から人格全体が解放されるまでは、自然なリズムが流れるがままにできるよう、一時的な痛みの状態に耐える他に方法はありません。これは緊張と閉じる動きの停止を言っているのではありません。それでは、無生命になります。ここで言っているのは単に、痛みが超越されるにつれ、徐々に痛みが痛みであることをやめるということです。多くの人間は、いわゆる「中間状態」にいる自分に気づいているかもしれません。その状態では、普遍的な脈動の一方を苦痛と感じ、他方を喜びと感じます。

 特にパスワークに関してマインドの活動という観点から、ふたつの原理、または普遍的な力の正しい相互作用を見た場合、次のように説明するのが良いでしょう。意志力を備えた外的で意図的で意識的なエゴは、安定してリラックスした方法で支えられる必要があります。抵抗や破壊的な無意識に対しては、屈服したり、必死で圧力をかけたり、せっかちに強要したり、抑圧したりしてはなりません。直接利用しやすい意志力と即時効果を備えたエゴの機能は、無意識からのサインに気づけるよう注意深くいなければなりません。そのサインが何処にあるのか、間接的に何を表現しているのか、最終的には、何故それが幸せと展開を妨げようと隠れているのか。このことを認識するためには、マインドは落ち着いて客観的に今起こっていることを受け入れ、無意識がそれ自身を表現できるよう勇気づける必要があります。このことが起こり、全ての不合理性が表面化すれば、無意識の方向性は本当に自然に変わり障害物は消滅します。

 これには、無意識の障害物に対して安易に楽な方法を取らないという確固とした目的を持ったマインドの活動的で自主的な男性性原理と、無意識の破壊的表現をも受け入れ、待つことの内にある受容的で受動的な女性性原理との間に、洗練された均衡が求められることがお分かり頂けるでしょう。勿論、宇宙的知性の展開についても同じような進行があります。しかし、皆さんも良くご存知のように、意識下に埋められた障害物が化膿すればする程、この展開の可能性は減少します。理想的なアプローチは、両方を交互に使用することです。隠れた自己の破壊的な部分が自己表現できるよう、毅然と、穏やかに、断固として、指導します。興味と注意をもって観察し、何が出てこようと干渉しない。それができるように、あなた自身である奥深くの神聖なる存在に、このプロセスの導きと助けを求めましょう。繰り返しになりますが、決定と指示は能動的なマインドで、顕現を待つことは、受動的な受容の原理です。

 これら全ての極めて重要な態度の正しい均衡を見つける為に、人間のマインドは意識的にも無意識的にも常に模索します。均衡と調和ある相互作用を見出すことは、人が個人的な道で出会う大きな困難のひとつです。先ほど述べたように、この相互作用をルールから学ぶことはできません。補い合うふたつの力の内の片方をいつ使用し、いつ止まってもう一方を使うのか。自分自身の魂の動きにとても繊細に耳を傾ける必要があります。徐々に正しい力を選べるようになるまでは、間違った方を選ぶ自分を見なければなりません。人間は、誤解された受動的原理の最奥の表現について、どれだけだらしなく、怠け者で、不注意なことでしょう。そういう人はもっともらしく、物事は機が熟さないとならないと主張します。また、健全な成長は強制ではなく自発的なプロセスなのだと。それは正しくはありますが、その人はそれを間違って使います。向き合わねばならないことに向き合い、認識し、変化を起こし、自身の外的マインドと内的マインドと共に行動を起こす為に、自分自身の内側に入ることをなおざりにするのです。同じように、誤解された能動的原理において、人はどれだけ自身の高圧的な緊張とせっかちな流れの中で、自分に対しても他者に対しても過活動になっていることでしょう。

 そのように歪んだ優位性が片方にある場合は常に、もう一方の優位性もより目立たない形で存在しているに違いありません。自分自身に対する外的な焦りには、内的な抵抗が暗示されます。外的な怠惰を間違った形でそのままにさせておくことは、内的には自分自身への受容のなさ、自己に対する猛烈な葛藤とその結果をもたらします。猛烈な葛藤は表に出さねばなりません。何故なら、それは常に未解決の問題がある場所にあり、不均衡、歪み、不満足がある場所に存在するからです。自分自身との葛藤は、非常に長期間にわたり外に向かって投影される為、その葛藤が自分と人生、または自分と他者の間にあると当然のように思うのです。しかし、あなたと人生(つまりは他者)との間に違いはないので、葛藤は基本的にあなたとあなた自身との問題です。これが十分に意識されると、ここで話されている不均衡が理解できるようになり、結果として方向転換が始められます。

 真の変化とは常に、自発的に起きる自然発生的なプロセスです。あるいは、そのように見えると言えるでしょう。実際には、それは個人が行う外的な努力の結果、くつろぎ、自然で均衡の取れた努力の結果なのです。しかし、その努力の成果が直接的に目に見える形ですぐさま期待される時には、このプロセスは誤解されます。その人は落胆し、気落ちして努力を怠り、マインド、考え方、感情、行動の破壊的なパターンに逆戻りし、同時にますます緊張し、自分自身のプロセスへの圧力を強めるようになるでしょう。他方では、ある人が、成長はそれ自体で努力なしに顕現するという知識のもと、人生や自分自身、その成長プロセスに自分の最善を注ぎ込む手間を省いて結果のみを待つならば、その人もまた落胆し、自分自身(人生)に対する内的な葛藤は強くなるでしょう。

 痛みや葛藤に無意識であればある程、人は解決策を得ようと緊張し、マインドは過度に引き伸ばされます。そのことを意識的には自覚せず、他のあらゆる「理由」でその心地悪さを説明するかもしれません。自身の心地悪さへの満足できる説明を得る為に、問題ある人生の状況を求めて破壊的な行動に駆り立てられることさえあるかもしれません。何故なら、意識的な痛みがどのようなものであれ、痛みの理由を知らないことの痛みの方が酷く感じられるからです。ある人格タイプにおいては、その結果は無気力さとして表れます。

 誤用された善意と断固とした行動は、過度の緊張という形をとります。外側からやって来るものに対してだけではなく、それと同じく、あるいはそれ以上に、内側から出て行くものに対してマインドが受容的であらねばならない時に、多くの場合、自分に圧力をかける固い結び目のように閉じてしまいます。表へ出て来たがっている何かを意識に再び迎え入れる為の内側のプロセスへの意図的な受容性は、道(path)の重要な部分です。この内側の態度が育てられない限り、自分の内にあるものを知ることはできません。熱心になり過ぎたり、急いだり、せっかち過ぎたりすると、パスワークは停められてしまいます。これは常に、プロセスへの誤解を表します。エゴの意志を直接的に使うことで、内側のブロックを取り除けるという誤った考えが存在していることを意味します。エゴの意志は必要な機能を備えていますが、底意や無意識の意志に対して間接的な責任も負っているのです。従って、外的な意識は、現れた無意識が破壊的で幼稚で歪んだ部分であったとしても、敬意を持って扱わねばなりません。それは、強制によらず自身で進む方向を見出すべき存在に対して、あなたが与える敬意です。つまり、あなた自身の無意識は、それ自体で進む方向を見つける必要があるのです。強制された場合、自ら展開していくことができません。応じることも、隠されていた自分自身を明らかにすることもできません。外的なマインドがそこで緊張して不安なまま、無意識を圧迫したり強制したりしている場合、無意識の発覚、そして続く無意識と意識との統合、その両方が行われるのに必要な意識と無意識の関係性を確立することは不可能です。

 意識的なマインドと無意識の破壊的な部分との関係性は、互いに正反対であることが多い知覚、態度、感情の存在を一時的に受け入れることで確立できます。破壊的で、妨害的で、有害な無意識の側面が自らの姿を明らかにすることを許されると、意識的なマインドのより真実で建設的な態度と確信が、魂の内にある躓きの石に影響を与え、徐々に取り除いていくことができます。同様に、エゴの側に受け入れる準備が整えば、エゴの能力と、より最高次の叡智、または神聖なる自己の真実と深い愛の感情との関係性も確立されます。これは、待ち、受容的で、静かな態度を意味します。新たなアイデア、新たな感情、経験の新たな深みを通し、ひとたび神聖なるものが展開されれば、エゴは神聖なるものの顕現に教えられ、影響を受けて満たされます。従って、成長と統合のふたつの側面は、同一の原動力である能動性と受動性、実行と待機、起動と受入を前提とします。例えば、意識的なエゴは、埋まっている無意識よりも賢く建設的な部分です。しかし他の例では、埋まっている無意識は意識的なマインドよりはるかに賢く建設的なのです。

 その無意識がどちらの側面かに関わらず、敬意を持って扱い、敬意を表することは極めて重要です。この敬意は破壊性そのものに払われるのではなく、成長と展開のプロセス、内的現実の驚くべき法則に対して払われます。このマインドの持ちようで、意志の正当性はマインドにも到達し得るものとなります。それによって、宇宙における同じ創造の法則も理解されるでしょう。「生命、創造、万物、宇宙の理解は、人が自身の無意識のプロセスの正当性と力動を受け入れる程度に依存する」と私が言い続ける理由はここにあります。

 最も破壊的な態度でさえ、純粋な誤解の結果であり悪ではありません。これを完全に理解すれば、最も破壊的であるプロセスでさえ、その原理と仕組が、創造の最高潮の働きと同じ正当性に根ざしているという驚くべき素晴らしさが明らかになります。悪は誤解の結果であり、プロセスそのものは同様に素晴らしいものである為、あなたが自分自身の無意識に敬意を払うことを学んだ時にのみ、本当に悪を取り除くことができるのです。それ自体の方法で、それ自体のリズムで開いてゆくがままにしましょう。あなたにさらけ出されるものに対して、受容的で開放的でいてください。この態度は、懲罰的で慌てた不安で圧迫的なマインド、無意識への強制的な力によって繰り返し崩されます。時には交互に、大抵は同時に、過度の緊張と不安、惰性や怠惰や企図的な成長の放置を招きます。

 自分の無意識を扱うのと全く同じように外側の世界を扱うので、あなたは自分が関わる人々にも同じ態度を表します。他の人々は、「ねばならない」と言っているような強制の猛攻から、あなた自身の無意識と同じように後ずさりします。自分自身の無意識に細かい注意を払いたくないが為に無意識から後ずさりし、形式的にうわべだけの注意しか払わない時、他の人々の無意識とも同じような出会い方しかできません。言うまでもなく、殆どの人は自身の無意識の相互作用には気づいていない為、あなたの態度は他の人の無意識の内に不快に受け取られます。

 生命、あなた自身、創造的なプロセスとひとつであると感じられる、優れて美しい創造的な全ての経験は能動性と受動性の原理の適切な関係性の結果です。そのような機会を振り返ってみると、能動的な干渉と関与、そして同時に、受動的で待機的でリラックスしながら脈動する受動性、これらの注意深い均衡あるコンビネーションが見てとれるでしょう。これを自分から流れ出るがままにすれば、人生(生命)はあなたの中に流れ込むことができます。外側にあるように見える人生(生命)からは、何であろうと、あなたが可能にしていないものが流れ込める訳はないのです。

 この二重の原理、能動性と受動性の原理について、簡単に要約してみましょう。機動力、活動、男性性の原理は、焦り、不安、エゴのプライドの硬い緊張となり、純粋な外的意志によって、男性性原理のみで全て出来るはずだと考えるようになります。これは、普遍的な力だけでなく、高次の法則に則って成長し役割を果たすという人間の無意識の能力への否定を意味します。内なる普遍的、そして個人的な動きに対しても、それ自体が存在しないかのように、その正当性、独自のリズムへの不信があり、またその根拠についても不信があることを示します。更に、この態度は、深い繋がりのない孤立したエゴであるという強い信念があることも示します。この非常に痛ましい幻想の中で、実際に存在している繋がりは失われるか、むしろ使われないままになります。まさにこうして、エゴはその最善の可能性とその「運命」に従って機能できなくなるのです。これらの内なる力と動きが、生きるという業に参加できなくなればなるだけ、エゴは適切に生きることができず、もっと疲れ切ってしまいます。この孤立したエゴの存在は無知の結果であり、自らが人生に影響を与える最高で唯一の現実であるとするエゴのプライドの結果です。それは、より多くの分離、葛藤、不幸をもたらし、効果のない方法で頑張り過ぎる無意識の努力からの緊張をもたらします。恐怖に苦しむ孤独な存在です。

 逆に、自己責任の放棄と同じようなやり方で神を信頼する人、自身の不活動を正当化する為に全てを神に委ねる人もまた、自分自身を満たすことはできません。そのような人は、謙虚に信頼して神が「やる」に任せているように見えます。永遠に待っているように。しかし、この場合も、能動的な起動力と自然発生的で間接的な成長現象との交流や相互関係から見ると、逆の場合と同じように分離しているのです。その人に受動性が現れるとしたら、それは恐らく、過去に何らかの主導力を表わし、良く理解しないままにそれを自分自身の外側にある力のせいにし、自身の行動や態度から切り離したことに起因します。

 これらの極端さと歪みの両方は非常に似ており、最終的には同じ袋小路に陥ることが分かるでしょう。自己責任を引き受け、前に進む方法を見つけるという自身の課題、おそらくその時に最も痛みのある事柄に向かい合う代わりに受動的になり、その事柄を手放してしまう時、人は偽りの神、自分自身の外側にいる神を信じます。何故なら、その人自身の全存在が神であり、自身の能力を使うことによってのみ、そのことに気づくことができるのです。また、やることと待つこと、行動と耳を澄ませることのリズミカルな相互作用を生きるのではなく、分離したエゴだけで能動的である時には、人は分離した小さな自己だけが自身に残されたものだと信じ、そしてやはり失望することになるでしょう。人は自身の人生(生命)の鍵に対してコミットすべきなのです。それがどんなに痛みがあり、手厳しいものであろうと、自分自身の真実を見つけることを決意しなければならりません。同時に、内なるプロセスを尊重し、敬意を払い、それ自体の成り行きに任せる必要があります。

 この均衡を見つけなければなりません。これは、一人一人の道(パス)の途上で絶えず変化し続けるリズム、あるいは周期です。その一歩ずつに、これらの基本的な動きや態度の両方が含まれます。これらの適切な相互作用は、新しい何かを人生にもたらす創造力です。起動の原理と受容の原理の両方は、自らの完全性を求めながら、全体の一部であることも知っています。後者は、マインドの命令にすぐに従うことができない動きに対する尊重を意味します。絶えず自身の創造力を発動させながら、いつ、どのように、その存在を明らかにする準備ができているかを見つけ出す必要があります。

 瞑想という素朴な行為でさえ、このふたつのアプローチの組合せでなければなりません。一方では、あなたは自分の考え、意図、態度、目標を能動的に練っていきます。あなたの態度は、自身の最善を尽くしたいという望みです。目標は、自身の内側の障害を取り除き、成長し、自身の最善が展開することです。意図は、真実が何であれ、それに向かい合う準備ができているということです。他方では、静止して待ち、穏やかで受容的になります。答えがすぐに現れてこない場合の適切な方法は、答えが現れるまでそれをそのままにしておくことです。あなたが全く期待していない時にこそ、マインドはリラックスし、そこから受け取ることが可能になるでしょう。自分の中の最善と最悪の両方を受け入れる準備ができて、その両方に対してリラックスして、過度に勇み足だったり怯えたりしていない時に、顕現は出現できるのです。自身の最善と最悪の両方を同等に受け入れ、双方を理解するつもりがあるならば、調和のあるリズミカルで有機的な成長のプロセスが益々自ら確立されます。

 起動と受容、あるいは成ってゆくことと、そうで在ることの交互のリズムは、皆さん自身の道(パス)の脈動です。あなた自身の魂の力の不均衡な脈動の本質を理解できるよう観察し、一時的な状態として受け入れた後にのみ、均衡の取れた脈動は顕現できます。前にも申し上げたように、これは緊張がもはや痛みではない状態にあなたを導き、あなたは痛みと喜びの間を行ったり来たりしなくなります。そうすると、これらの相反するものは調和され、緊張とリラックスの脈動は至福の異なるふたつの側面となります。

 不快な何かに向き合うことへの恐れを乗り越えようと最善を尽くし、そして自分の真の正体を見つける為に自身の最善を与え、自らの成長プロセスへの真剣で全面的な関与をもって進化のプロセスに貢献したいと望むことが能動的な脈動であると考えることで、個人的な内なるリズムは最も見つけやすくなるでしょう。一方、このような内的行為や活動の全ては、それに至るまでの準備が整う時を待つ期間の後に続きます。

 このように、自分自身の均衡の取れたリズムを見つけた分だけ新しい見方は育ちます。この見方と認識とは、あなたがありのままの現実に対して自発的、直接的、自立的には応答せずに、意識的な人生の95%において条件反射で生きてきたという認識です。初めは、かなり衝撃的に感じるでしょうが、これは同時に解放的でもあります。何故なら、この瞬間的な認識の中で、人生と世界がただ開き始めたのだと知るからです。これは単に、自身の意見や視点に対して真実でいることの責任を恐れ、自身の承認より他者の承認を求めるが為に、無意識におうむ返しをする意見や視点について述べているのではありません。今から更に、過去十分に議論してきた表面的なレベルを超えたお話をしましょう。私は今、より深く、より微妙なものについて言及しています。私が申し上げたいことは、全ての人生経験が、新鮮にアプローチされている訳ではないということです。あなたは、このように感じるべきだと思うよう条件付けられています。赤い色を見ていると仮定しましょう。殆どの場合、自身の知覚と体験から見れば、あなたは全くそれを見ていません。あなたが見ているのは、どのように赤を見るべきかを刷り込まれているからです。あなたは先入観を持っているのです。例えば、チューリップを見た時、チューリップという言葉や概念は既に反射像である為、初めて出会った時のようにチューリップを体験することはありません。このパターンを増やし、この増大を無限に組み合わせることができます。大袈裟に言っている訳ではありません。人生の全ての側面、毎秒、概念的な経験だけでなくあなたの肉体感覚的な体験の内95%は、自由で自発的な本当の反応ではなく、先入観からの反射です。これらは、今生において得た結果だけではなく、実に多くの前生の存在が得たものでもあります。あなたの精神は、既に消化された体験の収集でいっぱいなのです。

 何よりも重要で、ここでのテーマに関わってくるのは、痛みと欲求不満の体験です。あなたは何世紀にも渡り、それどころか何千年にも渡り、いかなる欲求不満も痛みだという信念を刷り込まれてきました。だからこそ、喜び/痛み(緊張/リラックス)の脈動から、緊張とリラックスの両方が喜びの異なる側面や見解となる、解放された状態への移行が非常に難しいのです。欲求不満からそのもの自体の脅威を取り除き、人格が引き攣って自らの中に縮こまらないようにしない限り、宇宙を自由に流れる鼓動に気づくことはできません。

 欲求不満は痛みであり脅威であり危険でさえあるという信念は、実際に痛みのある危険な状態を招く特定の反応をもたらします。ここで私の提案としては、あなたが自分自身を観察し始め、自分から表れるものを受け入れることを学びつつ、次々に来る欲求不満を全て実験してみるということです。自分自身に尋ねてみてください。「さて、ここに痛みがある。この痛みを自分に感じさせよう。それは本当に私が痛む振りをしている程に痛いものだろうか?」振りをするというのは深い意味においてです。それがとても痛いかのような反応そのものによって、あなたは痛みの波を生み出し、自分自身に痛みを納得させます。緊張は、痛みそのものよりも痛いものになります。この視点から自身の反応を見始めると、非常に奇妙な経験が訪れます。あなたは、痛みや欲求不満をそのままにしておくことを学ぶでしょう。あなたはその動き自体に委ね、少しずつ、痛みがどのように心地良い脈動に変わっていくのかを体験することでしょう。自分自身を静かにさせて観察し、自分の内側にあるものに対して受容的になり、それを受け入れることでのみこの体験は可能となります。マインドはこのような体験に到達できない程、痛みや欲求不満に対して必死でもがいているのです。通常、あなたは、自分自身が縛られている習慣や条件反射をたどることに忙し過ぎて、一方では良いと信じ、他方では悪いと信じることに延々と反応し続け、人生(生命)を自立して体験することをせず、神の個性化である真の自己を決して体験しません。先入観や条件付けされた感覚反射があるならば、物事をありのままに体験することは決してありません。それは幻想です。あなたが自身の最奥の存在に対して能動的で、自発的で、受容的になる時にのみ、その幻想は正しく理解されるのです。そうすれば、あなた自身と世界についての新たな情報を知ることと、新しい方法で感じることが交互に繰り返されます。そして、あなた自身の真の神聖な正体を益々知ることになるでしょう。それは最初、あなたの内側の何処からか現れた、見たところ別の自己として現れます。それによって益々活気づけられ、あなたはそれが自分自身であること、そしてあなたはそれであることを知るのです。

 このレクチャーが、ご自身の隠された無意識への道を見つけ、その現れを受け入れることを学ぶ為の次なる指針となりますように。そして、自分自身へのアプローチの仕方全体に、緊張とリラックスの正しい関係性がもたらされますように。これは、自分自身に対する態度に大きな違いをもたらし、ありのままの自分を受け入れることを教えてくれます。この基本的な受容によって、更に高まり前進する為の新たな勢いと力が集まるでしょう。あなたの内なる魂の動きはこれを生きなければなりません。これらの原理を知っているだけでは十分ではありませんが、それでも知っていることは必要であり、その中で生きることが可能になる状態にあなたを導いてくれる助けとなります。穏やかに、あなた自身をあるがままに、自らを展開するがままにしましょう。親愛なる友人の皆さん、更なる成長の業に祝福を。前進する一歩ずつが、あなたが本当は何者であるのか、生命(人生)が本当は何であるのかという真実に近づけてくれます。それは、決して死の恐れを知る必要がない連続性、生きて祝うことの連続性です。平和の内に、神であれ!



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