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No.168 2つの基本的な生き方:自己の中心に向かうか、離れるか

Pathwork Guide Lecture No. 168
1996年版
1968年12月6日


2つの基本的な生き方:自己の中心に向かうか、離れるか
TWO BASIC WAYS OF LIFE: TOWARD AND AWAY FROM THE CENTER


 親愛なるみなさん、こんにちは。私はこの講義を、もしみなさんがそれにオープンでいれば感じられる、より深い意味を持った特別な祝福とともに始めたいと思います。さもなければ、言葉はしょせん言葉で終わります。この祝福とは、真実は愛をもたらし、愛は真実をもたらす、というシンプルな言葉です。この言葉は、どちらから始めても、一方からもう一方へとつながり、そして両方がひとつになります。このパスワークにおいては、みなさんは両方の方向の中でまずは手探りしているのです。

 人間の人格の中心には、潜在的な白く輝くエネルギーの塊が存在します。それは、その内側で常に泡立ち、爆発を繰り返しながら絶えず燃える炎です。小さな爆発の一つひとつが、同じ物質やエネルギーを持つ核を放出しながら塊を増殖します。この基本的な創造プロセスが、邪魔されることなく調和しているとき、エネルギーの無限の連続体が、広がり、喜びや幸福と共に溢れ出します。絶え間無い流れは、どんどん広がり続けますが、それでもその流れはそれ自体の内側に保たれます。このプロセスに、混沌はありません。

 この創造的エネルギーの塊が現れる場所にはどこでも、創造的物質の本質と性質を持った有機体がもたらされます。前に申し上げたように、それは純粋な喜びと幸福です。しかし、これが全てではありません。それは聖なる塊なので、最も高次の秩序という意識を含んでいるのです。泡立ちながら広がり続ける一つひとつの種は、叡智や才能、創造性 --- 想像し得るあらゆる可能性の源という、無限の力を持った意識の核です。この意識の中では、自己表現、至福、最高の喜びや刺激的な新しい冒険の無限のあり方が、最も平和で安全な状態で存在しています。それは、およそ言葉では表せません。種の一つひとつが、これまであった全て、これから存在しうる全てを含んでいます。もしこれらの言葉が、それ自体が持つ深淵な意義の中で真に理解され、文字通り受け取られるなら、不幸な人類にとって絶望と思えることは一つとしてあり得ません。

 意識とエネルギーの組み合わせこそが真の意味ですべてを掌握しているのです。それはまさに神のものとも言える全能で、生まれながらに自分に備わる全能についての内なる知識を持つ子どもによって誤って解釈され、悪用されます。この悪用は、全能が身勝手なちっぽけなエゴのために使われる時起こります。後者は、真の全能が君臨する場所、人間自身の聖なる核を見つけるために克服されなければなりません。

 人類は、爆発を繰り返しながら増え続ける意識とパワーのエネルギーの塊の一部を、自らが表現しているという事実を知りません。人類は、これらの真実を前提としたある哲学を知っているかもしれませんが、自分たちが力と叡智の一部であり、それを表現し、それらを生み出す発電所であることに深く気づいていません。生きることの意味とは、エネルギーの塊の有機的なプロセスが邪魔されることなく起こる状態を手に入れるということです。しかしながら、人類の意識の状態は、相当程度この創造的に広がるプロセスを妨げてきました。個人の発達は、その人がどの程度このプロセスが起こっていることに気づいていて、どの程度そのためにより多くのスペースを作っているかによって測ることができます。 

 友人のみなさん、これらはみなさんが原理としてはすでに知っている事実です。しかし、それらは、新しい言葉で、新しい光を当て、違ったアングルから繰り返しみなさんの意識へともたらされなければなりません。そうすることで、やがてこれらの真実が感情的な体験へとつながり根付くことができるのです。まずは生き生きとした新しい体験がマインドの中で起こる必要があります。その体験が、必要な刺激と新しい理解の感覚を与え、そうすることで妨害のメカニズムが弱まり、創造的拡大のプロセスがより強くなります。

 人間の意識は、生命の2つの基本的方向の、どちらかを取ることができる状態にあります。ひとつは開き広がっていき、妨げとなるものを取り除く方向です。もうひとつは、それから離れる方向です。人間の置かれている状態は、最初の方向を諦め、もう一方の方向に行く道を見つけるための戦いである、と適切に説明することができます。今日の人類は、自らがこの選択をしていることに気付かず、自分の中心から離れていきます。そして、反対方向でのみ見出すことができる幸福を見つけようと努力しています。人類は、必要とするものは全て自分自身の中にあるということを知らず、必要なものはなんでも他者から、代用品から、幻想からつかみ取ろうとしています。

 すでに申し上げたように、中心へと向かう動きは無限のプロセスです。止まることもなければ、終わりを迎えることもありません。それは永遠に新しく、その眺望と、祝福に満ちたあり方と自己表現の可能性は広がり続けます。この大量の創造的可能性の中では、退屈すること、そして疲れることは不可能です。なぜなら、疲労は単に中心から遠ざかろうとすることによって作動する力の結果としてもたらされるからです。信じられないほどに美しい状態というのは、言葉に表すことができません。どんなことがあろうと、この状態が恐れを知らないことを想像することはできるでしょう。なぜならば、至福の人生には、決して終わりがないこと --- ただ、より多くの、より良い選択があることを人は知っているからです。友人のみなさん、これは本当に幻想ではありません。それは、創造的な生き物の内なる生のありのままの現実です。人がすべての良いものを持ち得ること、そしてそれには終りが必要ないことを知るとき、それを選びさえすれば、恐れのない状態がやってきます。

 もう一方の方向、中心から離れることは有限です。人がこの方向に向かえば向かうほど、人は絶望します --- それが間違った道で、破壊と不幸につづく道であるという理由からだけでなく、そこにある結末を恐れるのです。人は、間違った道を行くときにのみ、その結末を恐れます。人間は間違った道を行くとき、存在とすべての至福の希望が永遠に終わると信じています。すべての人間は、持って生まれたその本質を成就することを求めています。そしてそれこそが至福なのです。成就がどんどん遠のいているように見えるとき、人は他の希望や解決策が見えないと信じます。その意味では、結末の捉え方は間違っていますが、中心から離れる方向には限度があるという捉え方は正しいのです。人には必ず限界、つまり崩壊してしまうことがあります。なぜならば、この方向というのは出口がないという罠へと向かうからです。これを光の中で見てみると、この限界に至るということ自体が、実は祝福なのです。この限界に至るときにのみ、他の方向を見つけることができるからです。そのときにのみ「私は、出口などないという状態の中にいた。そしてこの私のいた古い道は間違っている」ということに気付き、もう一つの道が見つかるのです。そうでなければ見つからないのです。

 私はここで、充実し、建設的な人生を送る人というのは、霊的な歴史の中の以前の生においてこの限界に達したのだということを指摘したいと思います。また、そのような人は、完全なる絶望が支配し、出口が見つからない「引き返すことができない点」に到達しています。これはその人が違う方向へ動くように動機付けます。従って多くの場合、人が明らかに崩壊へと非常に早く動くとき、それが悲劇であると推測するのは馬鹿げています。これは、人が依然として完全に無知で、間違いと破壊の罠にかかっているときには必要なことなのです。限界は、そのとき癒しの力を持っています。その力があるからこそ、良い方法を探し、見つけ、始めることができ、それが唯一の可能性なのです。宇宙の、創造の驚異は、破壊がもたらされるのが早ければ早いほど、救済もより早くもたらされるということなのです。ゆえに、これ以上出口がなく救済しかないという限界点に到達することは、それぞれの人の発達にとって深い重要性を持っています。そのとき、それは内にある霊的な力の爆発的な力を発見するという至福に、直接的に導かれます。つまりそれは、ポジティブに開き広がり続けるプロセス、喜びに満ちた意義深い存在に与えられる無限の可能性のプロセス、真の自己へと向かうプロセス、宇宙において自分自身の人生を創造する創造主としての、自らの内側に神を表現するものとしての尊厳のプロセスです。

 敢えて申し上げますが、みなさんそれぞれ、この方向転換を数え切れないほど経験されています。出口が見つからず、絶望してきました。そのとき、みなさんの中の何かが変わりました。一つの方向に強く固執していることに気づきました。状況が絶望的でない限り、この方向に行くことが好ましい結果につながるに違いないという希望を持っていました。これが好ましい結果につながることなどないと明らかになって初めて、あなたは自分の強い執着をあきらめて手放したのです。あなたの中の何かが緩み、あなたは古い方向を手放したのです。すると、どうしたことでしょう、絶望が消えたのです。まったく予期せぬ解決策が現れたのです。あなたが絶望していたとき、まさにこの古い方向の限界に達したことによってのみ、あなたは自分の頑固な執着、古い思い込み、破壊的なパターンを手放すことができ、自分が今まで望んできたものすべてを可能にする方向を見つけるのです。みなさんは、すでに小さなやり方でこれを何度も経験されているのです。しかし、これがすべての次元で起こるとき、ある特定の意義深い点があるのです。

 あなたの周りにいる人を見て、どれほどたくさんの人が限度へと至る限界点に向かう道にいるのかを見てみてください。彼らが、どれほどこの限度を恐れているか、それなのにどれほど頑なにもう一つ別の道を探すのを拒んでいるかを見てください。そして次に、自らの中心へと向かう道を上りながら自己を開き広がっている数人の人を見てください。彼らは、明らかに背後に主な限界を置いてきています。人間の存在をこの観点から評価するとき、あなたは後者が本当にとても少ない少数派であることが分かるでしょう。ですから、この道にいるみなさんは、とても少数派なのです。そして、内なる問題や困難を解決しようと手探りしている、ここに居るみなさんでさえ、未だに無意識に古い自動的に働く行動にしばしば囚われるのです。多くの場合、みなさんは何世紀もの間、この方向に沿って進んで来ています。もっともっと自分に気づくようになって初めて、もうそこを超えてその方向には進めない地点、つまり限度へと続く破壊的なプロセスを見ることになります。少なくとも今は、みなさんは自分自身についてのこの事実を確かめることに、意義深く関わっているのです。

 人間の人格は、私がお話した大いなる力と創造的物質の切り離すことのできない部分です。私が「人間の人格」というとき、実際意味しているのはそれについての全てです。それは、意識的知性、意志、すでに開花している、もしくは潜在能力として眠っている、すべての能力と感情です。破壊的傾向や邪悪さは、それそのものにおいて真実ではなく、単なる歪みなので、それらも含まれます。意識的エゴも同じで、分離した異なるものではありません --- それは同じ創造的物質であり、存在の核において見つけられるすべての要素を含んでいます。従って、あなたのエゴの人格が根本的に、本質的にあなたが活性化したいと願う内なるパワー―とは違うものであるかのようにとらえ、自己実現にアプローチするのは間違いです。

 従って、ご存知のように、現時点の発達段階におけるエゴは、あなたがパスワークを通して活性化したいと願っている非常に大きな部分に比べれば、力や知性においてとても制限されています。ですから、意識的な人格、それは比較的制限されてはいますが、それが活性化する必要のあるすべてを含んでおり、爆発するかのような、広がり続ける愛のパワーと真実、意識と強さ、そして神の意識である創造的な生とひとつになるのだということを理解する必要があります。エゴの意識は、それ自体で人生に対処するには十分ではありませんが、それでも、いかなる状況においてもより偉大なる力との合一をもたらす態度を選ぶためにあなたが必要とするすべてを、完璧に備えているのです。これは、あなたが持っているべき、とてつもなく重要な知識です。この知識なしでは、あなたは絶望し、自分は無力だと考えます。しかしこれを理解していれば、希望を持って、意義深い方法で手探りできます。困難な局面で、先を見通すことのできない道の曲がり角で、あなたはこう言う事ができます。「そう、私は今、より偉大なる力と調和する態度を見出すために、自分の意のままに使うことのできる、必要なものすべてを持っている」と。そのとき、この力があなたに示されます。

 現在の困難に対して、あなたの態度はどんなものでしょうか?これが重要なのです。これが、建設的あるいは破壊的な態度を取るか、誠実な態度あるいは自己欺瞞的な態度を取るか、を選択する場所なのです。あなたには、自分が本当には何を感じ、なぜそう感じるかを見つける力があるのです。あなたには、考え得る限りの最も偉大な叡智、それは自分の内側にあるのですが、そのガイダンスを求める力があります。困難な局面において、人はよくあきらめてしまいますが、そうではなく、あなたには、創造し、広がっていくことにつながる建設的な道を求めるという可能性があります。また、まだその本質が探究されていない無意識のうちに取る態度、頑固な執着と頑なな信念を手放すパワーがあります。あなたには、服従や自己憐憫にふける誘惑を克服する力があります。それゆえ、私はみなさんに言います。あなたは、宇宙にある最も偉大なる力を活性化することができる態度を取るために必要なすべてを持っていることに気づいてください。もしあなたが、「今このとき」をその最も深いレベルにまで浸透させるならば、人生の一つひとつの瞬間が --- それが美しいか醜いか、簡単で軽やかか、難しくて重いかはどうでもいいのです --- 祝福の中にいる可能性を含んでいます。もしあなたが、正しい方向へとただ向かいたいなら、一つひとつの瞬間が究極の真実を含むのです。

 これらの言葉を受け入れるのは難しいかもしれません。おそらく、それを感じるのはもっと難しいでしょう。しかし、光、真実、愛、そして充足へと向かうあなたの道の、いついかなる瞬間であっても、この言葉をとても真剣に取り、その意味を熟考するなら、暗闇のある場所に光がもたらされるでしょう。あなたの人生の毎秒毎秒が、全てと究極を含みます。これは単なるフレーズ(文言)ではありません。それは、永遠に実現可能な絶対的現実なのです。たとえあなたが間違った方向にいて、引き返さすことになる限界へと向かっているとしても、もし正直に手探りし、理解のために祈るならば、それは良いのです。これらの言葉は突然新しい意味を持つことになります。絶望が人生の事実に思える場所で、あなたは増していく新しい拡張の持つ可能性を今まで経験した中で最もはっきりとした現実として理解することになるでしょう。

 これをもう少し理解しやすくするために、とても重要な妨害物を見てみましょう。私たちは、あなたの持つ誤認や破壊的な態度といったたくさんの妨害物について、数々の方法で、数々のアプローチから話をしてきました。今回は、それを簡略化してお話したいと思います。私は、その妨害物を、魂の動きという観点から述べたいと思います。この魂の動きは、人格の態度を反映しています。もしあなたが、自分の魂の動きにより調和しているならば、あなたの取る態度がある特定の動きをもたらすことに、容易に気がつくでしょう。あなたが愛という態度にいたら、魂の動きは恐れや憎しみの態度を反映するものとはとても違っています。

 最も大きな妨害物は、恐れです。特に無意識の、認識されていない恐れです。内側に抑圧された問題が意識化されると、これらの言葉があてはまることをはっきりと理解できるに違いありません。というのは、自己の中で何が起こっているかを知らないことは、そこにある最も大きな妨害物であることは明らかだからです。無知は、他のどんな要因よりも大きな恐れの原因です。すべての破壊性は恐れとつながっています --- つまり、恐れから来る破壊性もあれば恐れへとつながる破壊性もあり、そして恐れを永続させるのです。恐れは、とてつもなく重要な要素です。恐れの魂の動きは、緊張しけいれんを起こし、そしてあなたを元気づける内なるエネルギーの中心からの流れを止めることです。恐れは、自ら再生する生命の流れが外側の有機体(生命体)に向かって流れ出てオープンになることを妨げます。前回の講義で説明したように、恐れは、動きを凍らせ、麻痺させ、止めてしまいます。従って、恐れの魂の動きは、「動きがない」という状態であるというのが正確です。このように、恐れを魂の動きの力学という観点で理解することは、非常に重要なのです。

 私たちは、このワークにおいて、たくさんある恐れの要素について議論してきました。みなさんは、自分の恐れが何であるか、なぜ自分は恐れるのか、恐れを作りだすどのような誤認が存在しているのか、などを見つけてきました。私はもう一度これらの文脈の中で恐れを考察するつもりはありません。むしろ、私は、不幸せであるのに恐れに気づいていない人に対して、もしあなたの中にどんなことでも重荷に感じたりフラストレーションを感じることがあるならば、あなたには恐れがあるに違いないと言います。もしあなたが自分の自己表現が妨げられていると感じているなら、もし自分が経験する以上の人生があると感じているなら、あなたには自分では知らない恐れがあるに違いありません。あなたはやがて、最終的にはその恐れを克服するために、それを経験することになります。

 申し上げたように、恐れの力学は、緊張、ひきつるような感覚、麻痺です。このようにひきつった状態は、創造的流れを妨げます。もしあなたが充分深く探求し、恐れと冷静に偽りなく向き合うなら、恐れというのは非常に強く、ひきつったような頑固さで何かを求めていることからもたらされるのだ、ということを理解するに違いありません。この事実を認識しているがゆえに、哲学によっては無欲をよしとするものさえあります。ですが、無欲の概念は、簡単に誤解され得ます。無欲は、無関心でいること、諦めること、あるいはその人の未発達な欲求がもたらす葛藤から逃避することと混同してはなりません。健康的な欲求はゆったり、のんびりしています。それは、開かれ広がっていく、内に向かって放出される生命エネルギーと調和したリズムの中にあります。ひきつった状態の欲求は、こう言うものです。「私はそうしなければならない。それ以外ありえない。ノーという答えを絶対に受け付けない。」この種の欲求は、恐れを生み出します。というのは、それは不信から来ており、ゆえに実は恐れから来ているからです。「私はそれを手に入れなければならない。決して諦めない」は、開き広がり続ける生命の可能性を否定します。それは、ある特定のものを、ある特定の瞬間に、ある特定の方法で手に入れることを要求します。従って、それは不信と宇宙に対する無知、自分自身のものを手に入れられないかもしれないという恐れを明らかにします。そして、それは自分が要求している以外の他の方法や可能性が見えない暗闇からやってきます。ゆえに恐れは、恐れそのものの中でけいれんのようにひきつった状態になります。

 このような性質を持つ強い欲求は、常に恐れの背後に存在します。そして、あなたがこのような欲求を経験し、認識し、考察するとき、あなたは常にその背後に不信に満ちた要素を見るでしょう。ですから友人のみなさん、この観点から自分の恐れを見てください。なぜなら最も大きな内なる痛みは、そのひきつった魂の動きだからです。恐れの後ろに隠された特定の欲求をあなたが手放すときにのみ、恐れは消え、魂の動きは緩むでしょう。このようにして、あなたは新しく自分を開き広げて行こうと、自らの内なる宇宙にある無限の可能性のためのスペースを作るでしょう。

 ときにこれは完全に欲求を捨て去ることを意味することもあるかもしれません。なぜならば、その欲求、それ自体が破壊的であるとあなたが理解するからです。また別の場合は、欲求自体は完璧に正当なのに、その欲求を満たすためにあなたが強要する方法が非現実的で、痛みや失望につながることもあります。また別の場合は、欲求そのものは正当かもしれませんが、その後ろにある動機が依存や自己嫌悪的傾向から来ていることもあるでしょう。恐れの後ろにある一つひとつの欲求を確かめてみてください。これが今晩私がみなさんにお伝えしたいメッセージです。もしあなたが内なる理解と内なる行動のために真に祈るなら、あなたの中で何かが劇的に変わるでしょう。

 さて、この講義に関連して何か質問はありますか?

 質問:はい。これらの欲求を手放すことは、意志の行為ですか?

 答え:そうです、内なる意志の行為です。以前申し上げたように、多くの場合、欲求そのものは正当で、健全であるかもしれません。しかし、「今これを手に入れなければならない」、あるいは「今あれを手に入れなければならない」という強い要求が非常に有害なのです。私のアドバイスは、必ずしも欲求それ自体を手放すことではありません。欲求を持つことに関連するひきつった魂の動きを手放すことなのです。それは、内側にいる「感情を持つ自己」へと向かう意識的な決定です。「感情を持つ自己」の内側では、あなたは自分が何かを手放すこと、ある態度を手放すことを感じているのです。

 簡単で普遍的な例をあげてみます。死の恐れは、生きることへの欲求を含みます。この欲求には、全く間違いはありません。なぜなら、生命に終わりはないということは創造の事実だからです。しかし、死の恐れは、私がこの講義で述べたあらゆる間違った態度が含まれます。肉体的死は、あるレベルにおいては、私たちが歩む道の途上で経験する、中心から離れるという最後の限界点です。人間は誰でも、多かれ少なかれ中心から離れて動いているので、あらゆる人は死を経験しなければなりません。それゆえ、あなたは恐れ、この限度に対してひきつったようなけいれん状態にいるのです。しかし、自分自身の行為の結果を否定することは、不合理な内なる行為です。それは、自分の行動や選択に対する責任や結果を引き受けることに対する拒絶を意味します。もしあなたが東に行って、西から出てくることを望むとしたら、あなたは自分自身と人生との重大な争いの中にいるでしょう。正しい方法で死を受け入れることは、自分が過去にいた方向性の結果を引き受けることを意味するにすぎません。それは必ずしも、生きることに対する自分の欲求を捨てることを意味しません。事実、死への欲求は決して健全とは言えません。それは、病的な恐れと、逃げたいという欲求から生じます。このように、死や死の恐れを克服するために、みなさんが生きることに対する欲求を捨てるべきだと言っているのではありません。

 私が言っているのは、生に向かう健全な態度は、だいたい次のような態度だということです。「死が近づいてきている。私が生き続けられるかどうか分からない。私は生き続けたい。私の外側の知性は、生命が連続体であるという哲学だけを知っている。しかし私は、まだこの連続体という真実を知らないし感じてもいない。もし永遠の生があるなら、私はそれを欲する。しかし私は、人生の真実が連続体であると感じるふりをして、自分を欺くつもりはない。私は、自分が生きないであろうという恐れを手放し、次に何が来るのかを受け入れる。宇宙は善きものであるという信頼のもとに、たとえ今この時点でそうであってほしいと願う連続体を知らず、見ることもなく、経験しないとしても。」これが、生が永遠であるという真実の内なる体験を、やがてはその人にもたらすであろう態度です。これがどれくらい早くもたらされるかは、あなたの態度がどれくらい本物で、どれくらい深くそれを経験するかによります。どれほど信頼して手放し、自分自身にそれが起こるのを許すか、そして同時に正直であること、そのことが恐れるものは何もないのだということの証明を、あなたがどれほど早くに経験するかを決定づけるのです。というのは、人生は本当に永遠のプロセスだからです。

 質問:どのようにして、自分のシステムから恐れを取り出すことができるのですか?

 答え:恐れの後ろに何があり、どこであなたがひきつった状態でしがみついているかを認識し、そのけいれん状態の場所を手放すことによって、あなたは自分のシステムから恐れを取り出します。恐れを避けるのではなく、正面から向き合ってください。恐れは、直面しなければ持ち続けることになります。恐れに直面するとき、あなたは恐れを現実、そしてより建設的な人生のパターンに沿って認識し、経験し、変えることになります。そのとき、きつくひきつった状態は緩みます。あなたはそれを感じるでしょう。この行動には、常により大きな宇宙への信頼を伴います。私はこの講義の中で、人生のあらゆる瞬間にあなたの内側にある永遠の生とのコンタクトを可能にする態度を選択するという可能性がある、と言いました。実際、コンタクトという言葉は正しくありません。永遠の生は、あなたの現実に完全に浸透しています。もしあなたが恐れの中にいて、それゆえにけいれんしたようなひきつった状態で、それゆえにあなたの内にある生命力から切り離されているなら、あなたは最も深いレベルでその恐れに向き合わなければなりません --- 恐れの後ろにある締め付けられた欲求を見つけ、その締め付けられた欲求の意味を見るのです。それは、こう言っています。「私は宇宙を信頼しない。私のやり方でそれが欲しい。私は、自分自身を宇宙に与えたりはしない。」これは、狭量で、信頼に欠けています。この態度は、聖なる中心の本質と両立しないので、その経験はブロックされます。この態度が、大きな信頼にとって代わると、あなたは、恐れる必要は何もない善き宇宙の真実を経験するでしょう。

 質問:どのようにしたら感情と動きを同調できますか?

 答え:これができないということは、やはり恐れから来るとてつもない大きな凍り付いた場所があるということを示しています。あなたは、もし自分が感情を表したら、外の世界に向かって出ていかなければならないと恐れています。そうすることで、ある好ましくない結果が起こるのを恐れています。ここでも、あなたは自分自身に、もし自分が感情とともに動くと、何が怖いのかを正確に問わなければなりません。あなたはおそらく、拒絶、嘲り、傷つくことを恐れていますが、あなたの恐れが何であろうと、簡潔にそれらを述べなければなりません。そのときにのみ、あなたにリスクを取ることを可能にさせる勇気と寛容さがもたらされます。危険はあります。私が恐れについて言った他のすべてのことは別にして、恐れというのはあらゆる危険を冒すことに対する拒絶なのです。恐れを失くしたいという気持ちがなくては、それを手放すのは不可能です。これは危険を冒していることを意味します。危険を冒したくないというのは、狭量です。そして狭量なものは、あなたが活性化したいと望む力の本質と両立しません。存在の内なる現実によって元気づけられ、それと一つになり、それを表現するためには、その外側の人格がその態度やその法則、そのあり方と両立されなければなりません。これは、自然と論理の法則です。もしあなたの性格や態度が、あなたの中心の内深くにある、より大きな力の法則と両立しないなら、あなたがこれより大きな力を表現することは不可能です。宇宙を信頼せず、決して危険を冒したくないということは、スピリットの中の狭量さです。人間の困難や問題が魂の中に巣食う場所にはどこでも、この狭量さも存在します。

 このように、唯一の方法は、あなたが恐れるもの、あなたが欲するもの、そしてあなたが狭量に信頼することや危険を犯すことから抑制している場所と、厳密に向き合うことなのです。それが、恐れからの唯一の出口です。他にはありません。恐れは、完全に二元性の結果です。お分かりでしょう。もしあなたがそれほどまでに欲しがっているとしたら、同じぐらい強く、自分が欲しがっているものが得られないことを恐れるようになるのです。反対に、あなたが強く恐れていると、経験したくないことをもまた、無意識に望んでいることになるのです。この過剰に欲しがることと欲しがらないことは、ひきつったような緊張を生むだけでなく、二元性 --- つまりイエス対ノー、良い対悪い --- も含みます。二元性は葛藤へと行き着き、葛藤から出てきます。それゆえ戻ることができない限界点へとつながっていきます。その限度を超えると、最後には戻ってくる以外の選択をなくします。そのとき、一元性の原理、その恐れのない、争いのない状態が自ら明かされます。そして、調和に満ちた魂の動きがもたらされます。そこでは、イエスもノーも強すぎることはありません。そして、至福の中で拡大する欲求がないからではなく、これが自然な望みだから、そして宇宙とその法則を信頼しているからこそもたらされるのです。

 みなさんに祝福を。平和のうちにいてください。


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