top of page

No.177 喜び(プレジャー)− 生命の大いなる脈動

athwork Guide Lecture No. 177
1996年版
1969年11月7日


喜び(プレジャー)− 生命の大いなる脈動
PLEASURE -- THE FULL PULSATION OF LIFE


 友の皆さん。あなた方は、今この瞬間、それぞれが滋養と真実をそれぞれの方法で求め、それを手に入れるためにここにお集まりになりました。皆さん、ようこそいらっしゃいました。今晩のレクチャーでは、喜び(プレジャー)に関するお話をいたします。個々の人間にとっての“喜び”はもちろん、宇宙の大計画にとって“喜び”がどのような意味と重要性を持っているのかについてもご説明したいと思います。

 皆さんの宗教は人間存在の究極の幸福について触れていますが、大抵の場合、そこに大きな勘違いが見られます。皆さんの宗教では、人間が究極の喜びの状態にあることや、そこに至る可能性を秘めている状態と、幸福とはまったくの別物である、と考えられています。もちろん、その状態に対する自覚の有無もここでは全く問題とはされません。そのため、人々の日々の経験とこの“幸福”との間には大きな隔たりがあるように思え、幸せは具体的な形を一切持たず、まるで何十億年もの後にようやく手に入れることができる、というようにさえ感じられてしまいます。そして、このような“幸福”はあまりにも非現実的で、人々が真に欲しいと願うものからは遠い存在であるため、この説をどれほど真剣に理解しようとしても、曖昧とした理論上のお話という域を出ることはありません。

 実際には、霊が究極的な幸福状態にあることと、人間がそこに到達する潜在力を備えた状態にあることとの間には、事実上何の違いもありません。“幸せ”の程度が違うだけです。と言いますのも、人間には、組織という枠を離れ高度に発達した意識にだけ許される深遠な経験をすることができないからです。ですが、それが経験できないからといって、喜び自体が無くなるわけではありません。霊的な喜びは、決して形の無いものではありません。事実、組織化されていない意識にさえ、形というものがあるのです。組織化されていない意識は、流動エネルギーの最も純粋な形、いわゆる「神秘体」または「オーラ体」を創り出します。そのため、このエネルギー体はどのような障害からも自由な存在です。これは、喜びそのものなのです。これに対して、人間はその物質としての総体で一つの“障害”を体現しています。そしてこの障害は、個々の人間が宇宙の源から噴出する流動エネルギーと完全に調和した時に初めて乗り越えることができるものなのです。

 ブロック(障害)や妨害をほとんど、あるいは全く持たず、歪みやネガティヴィティもない、完全に解放された自由な人間には、高度の喜びを経験することができます。なぜなら、この域に達した人の肉体には神秘体の持つエネルギーが外から内へと浸透するからです。喜びを強く求めながらも同時にそれを激しく恐れること - これが数ある人間の内的葛藤の中でも最も基本的なもので、未だにそれは変わっていない、ということについては以前から何度かお話してきましたが、これについては皆さんも個々の経験からすでに御存知のことと思います。

 そこで今晩は、喜びを求めることの正当性と、この行為の持つ意味についてお話していきます。喜びの希求は霊的な自己実現と矛盾するものではありません。多くの人は矛盾すると勘違いしていますが、実際、そうすることは霊的な自己実現に必要な条件の一つなのです。これについてもご説明するつもりです。別の言い方をしますと、喜びの訪れを自ら遮断(ブロック)している人は皆、それと全く同じ力で、霊的自己と深く繋がることも自分から阻害している、ということになります。これはつまり、何か一つの考え方を自由に受け入れることが出来る人は、別の考え方についても同じことができる、ということでもあります。霊的な自己実現と喜びの享受という、一見まるで違う経験に思えるものも、真実では全く同じものです。この二つの経験は相互に作用し依存し合っているのです。

 また、皆さんの周りを壁のようなもので覆い、崇高なる喜びを深く経験できないようにしている様々な障害物についてもお話しするつもりです。そうした障害物とは一体何なのでしょう?皆さんが到達したいと最も強く願っているゴール、つまり幸福の状態。その状態に近いところにいるにも関わらず、意識的にあるいは無意識的にそれに気づかせないようにしているものとは、一体何なのでしょうか?個々のこころの中で、皆さんは自らの願望の実現の邪魔をしています。そのために、戦争のような激しい葛藤がこころの中で常に起きているのです。

 “喜び”について、その宇宙的な意味ばかりに触れるつもりはありません。「喜びとは目の前の人生から遠く懸け離れたものだ」などと思われてしまっては困るからです。当然ながら、喜びは現実世界から遠い存在などではありません。実際、宇宙の真実はすべて、今この瞬間のいかなる状態にも当てはめることができるからです。ただし、宇宙の喜びの意味は大変に取り違えやすいため、これを間違った形で現実世界に当てはめることも簡単にできる、というのも事実です。内なる流れを開き、あらゆる障害物やブロックを取り去り、高度の幸福を経験して初めて、人は人間としての喜びが宇宙の喜びと本質的には同じだということを、物理的な幸せと霊的な幸せは相反するどころか、両者はまったく同じものなのだということを深く知るのです。

 実際的な意味において、喜びとは激しく肉体的であると同時に激しく霊的なものです。喜びの状態に関して、肉体と霊との区別はありません。だからこそ、神の創造計画において、喜びの哲学的な面ばかりに固執する必要はないわけです。ただ、この点に関する宇宙の真実について一つだけ申し上げることがあるとすれば、それは、“究極の解放状態、宇宙的存在の究極状態は完全なる喜びである”、ということです。つまり、喜びこそが究極の真実なのです。幸福は“善なる子”であり続けたことに対する報酬ではありません。皆さんの宗教はそのように解釈し推論しているようですが、これは完全なる誤解です。幸福とは、自分自身および宇宙と調和して完全なる統合を果たす、という人間にとって極めて自然な状態にあることを指しているのです。

 喜びについて触れるからには、その意味を明確にする必要があります。私は、喜びという言葉を“精神的な快楽”という意味で使ってはいません。それは、何かから表面的に逃避するためのものでも、上辺だけの薄っぺらの代用品なのでもありません。私が申し上げているのは、こころと身体を構成する全細胞、つまり内外の両存在が肉体と霊の幸福を同時に経験し、さらには、あらゆる感覚と能力が目覚め、活動し、感じている、という状態のことです。これを真の喜びと言うのです。このような幸福の状態は、まさに今、この場にも存在しています。そして同時に、この状態は個々の究極の霊的真実でもあるわけです。私の大切な友の皆さん、この状態はあなた方が生まれながらにして持っている権利です。ですから、皆さんの内面がこれを強く欲するのは当然のことで、その思いは極めて健全なものなのです。誤解や恐怖や恥といった不要物を創造しているのは、皆さん自身の内面の混乱や二元的な分離以外の何ものでもありません。

 次に、人間という全レベルにとって、この喜びがどのような意味を持つか、についてお話ししたいと思います。先ほども申し上げましたように、真の喜びを感じるとは、分断された経験ではなく、あくまでも全体的経験のことを指しています。霊的な側面を蔑ろにした物理的な経験だけを言っているのでありませんし、その逆に、肉体的側面を含まない霊的状態だけを言っているのでもありません。人間としての全存在が分裂することなく、自己および宇宙と、さらには他の人間とも調和しながら振動と脈動を続けるのです。このとき、その人の中には一切の分離や傾向といったものは存在しません。ご自身の幸福の正当性に対する疑念が湧くこともありません。「私の幸せは周りの世界に何らかの支障を及ぼす」と思い込み、「もしも私が幸せになったら」または「私は幸せかもしれないけれど」などと考えることもありません。幸せに対して躊躇することも、罪悪感を抱くこともありません。その反対に、恍惚と喜びの経験が大きくなるにつれて、それだけ多くこの世界に対して貢献ができる、と深く感じるようになるのです。

 この内なる覚醒に至った人、理屈ではなく、経験としてこれに目覚めた人は、次のような状態を自らの内に創造することになります。
「喜びを自分という全存在において経験することを霊および現実のゴールとする。このゴールに向かって常に邁進する。内なる障害物を全て取り除き、自らの無意識を辛抱強く掘り下げ、そこに潜む障害物の存在を明らかにする。この取り組みに十分な時間を割き、努力を常に怠らない。自らが充実し、喜びを感じることによって霊的な成長が促され、自己実現にまた一歩近づくことに気づく。また、その逆も同じであることも日々強く感じる」
こころと身体、さらには霊の部分も含めて − まさに全身全霊を込めて − 親密に、そして完全に他者を愛する能力を獲得することは人間が目指すべきゴールであり、それは同時に、その人の自己浄化のプロセスを前進させることでもあります。なぜなら、人は皆、自分一人では存在できないからです。これについては、後でもう少し触れることにします。

 まずは、“完全なる喜び”が人間を構成する全レベルにおいてどのような意味を持つか、についてお話ししましょう。物理的レベルにおいて、肉体の健康と安らぎは身体がどこまで喜びの状態を受け入れることができるかによって決まります。“喜びの流れ”は同時に、生命や健康、自己再生と復活の力でもあります。つまり、ある人の健康と長寿は、身体の喜びを受け入れるその人の能力によって決まるのです。逆に言いますと、恥、恐れ、誤解、ネガティヴィティ、不純などのために“喜び”を自ら否定すると、その分だけ、宇宙の流れの源から自らの身体を切り離してしまう、ということになるわけです。

 人間個々の存在は小宇宙として大宇宙に内包されると同時に、その大宇宙を象徴する存在である、という話を私は何度も申し上げてきました。つまり、大宇宙にも、それを象徴する小宇宙であるあなた方にも、同じ法則と状況が当てはまるのです。自らの内宇宙と調和していれば、全創造物に浸透する霊的ヒーリング力、生命、健康、喜びといったものを運ぶ大宇宙からの流れがあなた方自身の中に浸透してきます。つまり、そうすることで個々の内的小宇宙と調和すると同時に、皆さんを取り囲むこの大宇宙の一部にもなるわけです。このとき、皆さんはご自身の身体の中に居ながらにして、その物理的構造によって生じる様々な限界を超越しています。宇宙内に溢れ、無限の豊かさを保ち、常に自己再生を繰り返す“生命の力”が皆さんの一部になるのです。もちろん、皆さんはご自分の身体の中にいるわけですから、この同化作業は相対的なものとなるのですが、いずれにしても、外的エネルギーが身体を超越するようになって初めて、これが可能となるわけです。

 「一切のブロックを持たないこころと身体の中で経験する様々な素晴らしい感情も、一旦自分が死んでしまえば全てどこかに消えてしまう」などとは考えないでください。身体感覚の源はすべて神秘体にあるのですから、身体からブロックが取り除かれれば、その感覚が姿を現すこともそれだけ容易になります。ですから、肉体という物理的存在が外的エネルギーを通過させることが楽にできるようになれば、様々な“流れ”が物理的生命という存在によって邪魔を受けることもなくなり、同じ感覚がそれまでよりも遥かに鮮やかなものとなって現れるのです。ここで大切なのは、物理的身体に記録した喜びと幸福の感覚は地球上における生命の形を越えてもなお存在する、と理解することです。それどころか、肉体が滅びるとその感覚はさらに鮮やかさを増します。つまり、至上の喜び、恍惚、幸福、愛、さらにはこの地球上でセクシャリティと呼ばれるもの − 他者と完全なる融合を果たすこと − を維持する能力がさらに高まるわけです。ところが、地球上には、喜びや愛といった素晴らしいものの背後に不必要な恐れや障害物を隠し持つ人々がいます。そういう人々に私はこう言います。「あなた方も、恐れや障害物があるという事実さえ除けば、その霊的存在と物理的存在に違いはありません。両者はまったく同じものなのです」と。

 あらゆる病や歪み、さらには肉体の死も、全ては分離や衝突、喜びの否定が顕在化したものです。霊的に開くことで、喜びを否定したり犠牲にしたりすることなく、喜びそれ自体が増えていきます。多くの権威主義的宗教は信者に喜びの否定や犠牲を望むようですが、このような“苦難”または“受難”の概念は霊的真実を完全に誤解したものです。実際には、喜びは他者の犠牲の上に成り立つものでも、破壊的エネルギーを有するものでもありません。喜びを感じることにネガティヴな感情を抱くことがなくなって初めて、霊的真実を理解することができるのです。個々のエネルギーと健康はその人の喜びの経験の深さによって決まります。これは誰にでも確認できることです。もちろん、表面的に理解するのではなく、ご自身で経験して初めてそう理解するのです。

 次に、喜びの重要性について、さらに深いレベルまで進んでみましょう。精神的レベルにおいて、喜びは肉体レベルと同等あるいはそれ以上の重要性を持っています。さて、大人として持つべき自己責任をどのようにしたら自分のものとして背負うことができるのでしょうか?自分の周りを取り囲む困難な現実、その時々の自分の内面の状態を反映している一時的な現実を、どのようにしたら受け入れることができるのでしょう?そして、自らの行く手を阻む様々なフラストレーションにどうやって対処したらいいのでしょうか?

 皆さんもよく御存知のことと思いますが、端的に言いますと、フラストレーションの原因は個々の内面に作られた様々な制限にあります。人は皆、この様々な制限を受け入れる必要があるのですが、これはもちろん簡単なことではありません。人はいろいろなやり方で自らの統合性を損ない、妨害しようとします。様々な方法で人生を偽り、自分の過ちの責任を他人に押し付けようとします。そんな人が自分のやり方をすべて手放したい、などと急に思えるはずもありません。統合や真実、最も深い正直、そして自分自身および人生とポジティヴに向き合うことに真にコミットすることなど、簡単にはできるはずもありません。ネガティヴプレジャー(ネガティヴな喜び)を手放し、偽りの自分や演じている役、ディフェンスに隠れた姿に対するまやかしの満足感を捨て去りたいと真に望むことは、決して簡単なことではありません。人生の真実に対して、その表面的な部分のためではなく、真の姿のために、完全にそして意識的にコミットし始めることが容易いはずはありません。まやかしの満足感や偽りの喜びといった粗末な代用品を捨て去ればその結果として最も深い幸福が自分を待っている、ということに気づいていない人に、そのようなコミットを始めることができるわけがないのです。

 このような粗末な代用品が自分の持っている喜びの全てである、または、きちんとした生活を送るということは何かを犠牲にすることを意味する、などと思い込んでいる人には、喜びを信用することさえできません。偽りの人生の姿に必死になってしがみつくほど、それだけ喜びの状態を維持することもできなくなるわけですから、当然ながら、喜びを信じることもより一層困難になります。逆に言いますと、ネガティヴプレジャーという偽の喜びを手放した分だけ、真の喜びを取り込むことができる、というわけです。

 ですから、まずは今皆さんがはまり込んでいる悪循環から抜け出す方法を見つけねばなりません。「巧妙な偽りや破壊的なディフェンスを手放そうとしないと、喜びを受け入れることもそれだけ難しくなる。すると、喜びを信用することができなくなり、喜びの経験を邪魔するものを手放したいとも思わなくなる。その結果、喜びを経験したいという意志も、そこに向かおうとするコミットメントも、さらには破壊的で人生の流れを滞らせる数々のパターンを手放したいという思いもすべて存在できなくなる」 − これが私の申し上げる“悪循環”です。

 現実を受け入れて大人としての自己責任を背負うことは、もしもそこに副産物としての喜びが伴わなければ、とても克服できそうもない過酷な試練のように思えます。ですが、自分の行動または非行動を他人のせいにして、秘密裏かつ神経症的に自らの人生を偽りたいと思いながら、同時に、自分は無責任な子供だといつまでも言い張り続けていると、自らの統合性をそれだけ破壊することになりますし、喜びの経験もその分だけ困難になってしまいます。すると、皆さんの内面奥深くにある存在が喜びを受け取れなくなります。エネルギーもネガティヴな内的活動に従事してしまうのです。逆に言いますと、自己責任をしっかりと認め、絶対に自分を偽らず、それゆえに自分自身を尊び愛する人は、その敬意と愛の大きさの分だけ喜びを経験することができる、ということになるわけです。

 完全な存在、幸福な存在を目指す思いが高まるほど、先ほど述べましたような破壊的パターンを想像し得る限り最も深いレベルで手放すことや、自分自身の二本の足で立つこと、さらには、自分にとって必要なフラストレーションを受け入れることもそれほど難しいとは感じなくなります。完全自立性を受け入れることと喜びを受け取る能力とが釣り合っている、という事実を理解することは非常に大切です。一方がなければ他方も成り立たないわけです。ですから、もしも自己責任を深く受け止めることのできる、真の意味で“立派な”人間が、「自分は喜びの享受を諦めなければならない」というようなことを言うのであれば、その人は喜びを本当には望んでいないか、あるいは、たとえ望んでいたとしても、喜びは“善い子”であることのご褒美として、自らが全権を委ねる権威者から与えられるものである、というように、非健全な形でこれを欲しているかのいずれかのはずです。

 自己浄化が進むに従い、喜びに対する恐れが消えて行く、という事実を知れば、たとえ最初はどれほど大変なことのように思えたとしても、自我や自立性といった言葉が真に意味するものを皆さんは手に入れたいと思うことでしょう。「大人になることには様々な厄介な物事が伴うし、それは本当に大変なことだ」と感じていたものから逃げすに、それをしっかりと受け止めることができれば、その人の中にある強固な塊も次第に柔らかくなり、恐怖を感じることもそれだけ少なくなります。そして、最も深く完全な意味において、喜びに対して自分自身を開いていくようになるのです。

 感情面の成熟およびその意味と、喜びに対する気づきとの関係性について、瞑想してみてください。この両者の関係は実に理にかなったものです。誰かにしがみついたり頼ったりする代りに、自分自身に対して責任を持つことで、人は初めて本当の意味で愛を与えることができます。他者に必死で依存することも表面的な愛の姿の一つだ、と言う人もいるかもしれませんが、どこまで行っても結局は真実から離れられない、ということは、個々のパスワークを通じて皆さんも既に経験ずみのはずです。恐怖から生まれた依存心はさらに大きな恐怖を創造し、最後には必ず怒りと憎悪に結びつきます。この怒りや憎悪の感情を人は必死で隠そうとします。と申しますのも、こうした感情は“頼りにしている相手を憎むように”、とその人を脅かすからです。

 人が真に自由になるとき − 他人に依存するのではなく、自分と向き合いながら自己でいるとき − その時に初めて、本当の愛が手に入ります。そして、誰かを本当の意味で愛して初めて、真の喜びを手に入れることもできるのです。以前にも申し上げましたように、愛のない性的快楽は極めて不完全なものですから、必ずやどこかで行き止まりに突き当たってしまいます。そこには常に何かが欠けているのです。愛のない性的快楽は、霊とこころと身体とが分離していることの現れです。人を愛し、同時にセクシャリティを兼ね備えた存在となって初めて、喜びを真に統合することができます。このとき、その人は霊的な存在でもあるからです。これはどういうことかと申しますと、その人の中で感情と精神の統合が起きている、ということを指し示しているわけです。ですから、喜びと霊性、喜びと礼節、喜びと成熟した感情、喜びと肉体の健康といったものは、全て精妙かつ親密に結びつき合っているのです。

 では次に、喜びに対する障害物についても考えてみましょう。ここに初めていらっしゃった方、私たちの行なうワークの深みに馴染みのない方は、「喜びに対する恐れ」と申し上げても、それが何なのかまだよくお分かりにならないかもしれません。“喜び”と聞けば誰もがすぐにそれを欲しいと思い、手に入れることを切望し、そのために必死になる、そうお考えではありませんか? そういう人は、自分は喜びを欲している、と信じています。実はそれと同時に、喜びを欲しくない、恐くて仕方がないと感じているのですが、その事実を無視しているのです。一方、この歩み(パス)を既にある程度続け、自らの内なる無意識の存在について十分に深く掘り下げている方々、私の友である方の場合は、自分がしばしば喜びを恐れていることに気づいていますね。もしかしたら、皆さんは、自分または他者の中にあるネガティヴな感情に対するよりももっと激しい恐怖を喜びに対して抱いているのかもしれません。

 また、私は以前に、自分および他者についてのネガティヴな感情に対する恐れと、喜びに対する恐れとの関係性についても指摘したことがあります。人は喜びを恐れるからこそ、その反対、つまり”不快”を無意識ではあるけれども当然の成り行きとして求めるのです。このようにして、人はネガティヴな欲求の結果、つまり不快の訪れを恐れているわけです。内面奥深くで、人は自分が望んでいるのが実は不快であるということを知っています。そして、自分が実は何を望んでいるのかについての自覚が無い人ほど、その結果、つまり不快になることを恐れてしまうのです。ですから、死への恐怖は、死に対する無意識の願望の存在を示唆している、ということになるわけです。

 これを逆に申しますと、精神と感情が穏やかで、自信に満ち、静かに何かを望み、すべてを受け入れ、焦ることなく、不安も感じず、我慢強く、何の心配もない、というような状態にあれば、その人は喜びを手に入れることができる、ということになるわけです。さもないと、喜びに対する恐怖との内なる戦いは、次のような形で意識上に現れることとなります。その形とは、喜びを過度に求める気持、“手に入らなかったらどうしよう”という不安感、“どうせ駄目だろう”という悲観的思考、さらには、“やっぱり無理”という絶望感などです。そして、このような悲観的な思いを抱くと、人は全てを放棄するか、あるいは、極めて不適当な過活性に陥るか −つまり、強迫感に駆られて闇雲に動くことを自らに強いる − という、いずれにしてもその人を破壊する両極の間を常に揺れ動くこととになります。

 喜びに対する恐れと戦うためには、まず、その存在を自覚せねばなりません。この恐怖を見つけるまでにはいくつかの障害物を越える必要があるのですが、その中でもまず克服すべき障害の一つが、不安を抱えながら必死で喜びを欲する気持と、喜びは手に入らないという完全な絶望または諦念との対立です。この対立の原因は、自分が望んでいる結果 − それが喜びであっても、そうでなくとも構わないのですが − を自ら否定することにあります。まずは、喜びをどこかで怖がっている、と自覚できれば、その自覚を基にして、心の奥底に実は激しい恐怖が隠れている、ということにも直接気づくことができます。もちろん、これは決して簡単なことではありませんが、歩み(パス)を続けていれば、必ずできます。真に望みさえすれば、無意識下にあるものを意識の中へと移すのは、誰にだって可能なことなのです。

 自らが生み出したネガティヴな創造物や喜び(ネガティヴプレジャー)を克服するには、まずはその存在をしっかりと意識せねばならない、ということは前回のレクチャーで申し上げましたが、それと同時に、自分の中で喜びを否定している部分にもきちんと触れる必要があります。ただし、実際にはそのような否定から完全に自由になっている人間はいない、とお伝えした方がいいかもしれません。もちろん、その自由さの程度は人によって異なりますが、それはあくまで「程度」でしかなのです。ですから、喜びに対する恐れから比較的自由になっている人も、自分の中に恐れの部分が残っていることを、つまり、喜びを感じることが何か危険なことのようだと感じ、身を屈めてそこから逃げ隠れしている部分がある、ということを見過ごしてはなりません。そうした部分の存在にしっかりと気づきたい、と思うことについて瞑想をし、その気づきに向かう思いにコミットしてください。その後でようやく、皆さんは次のステップへと、つまり、その恐怖が正当であるか不当であるかの探究へと向かうことができます。このステップを通過して初めて、喜びに対する恐怖や障害物を本当の意味で手放したいと思えるようになるのです。

 自分が喜びをどのように恐れ否定しているのか − その様子を明確に自覚して初めて、人は自らの喪失について他人を非難するのを止めることができます。他人に責任転嫁することで、人は自らをより一層苦しめているのです。自分が深く切望している何かを手に入れることに関して混乱と絶望を抱いていると、その思いは非常に大きな重荷となってその人の内面奥深くにのしかかっています。この重荷はとても微妙な存在で、普段はほとんど自らを主張することはありません。ですが、自分の責任を他人に転嫁することさえしなくなれば、この重荷も消えていくのです。そして、「私は喜びを恐れている」と、心の中ではっきりと認めた瞬間、それまで抱いていた絶望感も消えてしまいます。このとき、人は自分の中に二つの力があることを感じます。自分を喜びへと引っ張る力と、喜びから引き離そうとする力です。この二つの力の存在を、こころや感情を含む全レベルで感じることになるのです。

 この二つの相反する力のぶつかり合いが無意識下で続いていると、人は極めて激しい痛みを感じます。このいがみ合いの存在を知れば、その鎮静化を始めることもできます。内面奥深くで起きているこの葛藤を意識できれば、それと向き合うこともできるのですが、これに気づかない限り、いつまでたってもその部分と相対することはできません。私が、「人間にとって、自分の内面の状態に気づくことはとても大切です」と言う理由はここにあります。欲しいものを自ら否定しているという事実、何かの到来を願いながら、他方ではそれを怖がっているという事実を知らないでいると、漠然とした不安感、絶望感、不満足感が生じます。そして、この事実に自分で気づかない限り、そこから自由になることも永遠に不可能なのです。ネガティヴになることを自ら望んでいるという自覚がない以上、自分の中の破壊性や否定性(ネガティヴィティ)を絶対に克服できないように、二つの相反する力の衝突を内面で経験し、それをしっかりと感じない限り、この葛藤を鎮めることもできないのです。

 また、前回のレクチャーで取り上げましたネガティヴィティと同じように、喜びの否定につきましても、これを克服するためには、そこから派生する、またはそれに関連する全ての物事に気づかねばなりません。喜びを恐れるのは、ネガティヴィティにいつまでもしがみつき、ネガティヴ(否定的)で破壊的な行動や感情のパターンを手放そうとしないために、“真の喜びはこんな自分には相応しくない”と無意識の内に決めつけ、それによって喜びを本当に恐ろしいものに変えてしまっているからです。自身の抱くネガティヴィティによって、その人のこころと身体を事実上真の喜びに相応しくないものに変わってしまいます。だからこそ、喜びに対して自らを開くことが本当に恐ろしいこととなってしまうわけです。ネガティヴィティは緊張、分離、収縮を作り出します。これらは過度に自己中心的な姿勢から生じます。ですから、こうしたものはすべて、喜びの状態とは似ても似つかない、全く異質のものなのです。

 ネガティヴプレジャーは、個々が至上の喜びという光のシャワーを浴びるのに真に必要なニーズを満たすことよりも、エゴが望む目的を達成することばかりにその目を向けています。ネガティヴプレジャーは、あらゆる破壊と逸脱の根源にある三つの態度 − プライド、自己意志、恐怖 − を大事に匿っています。何年も前になりますが、プライドがあるところには、自己意志の存在するところには、恐怖を抱くところには、必ずや縮小の状態が発生している、とお伝えしたことがあります。

 プライドと自己意志と恐怖を無くさない限り、どのようなセラピーを用いても、そしてそれがどれほど優れたものであったとしても、縮小を完全に終わりにすることはできません。プライドと自己意志と恐怖の中で、エゴの構造はますます堅固で柔軟性を欠いた(リジッド)なものになっていきます。「私が、私が、私が!!」という自己意志が発する言葉は、実は、“ちっぽけな私、ちっぽけな自己”ということを意味しています。この“ちっぽけな自己”は外的なエゴや人間性にしか目を向けようとせず、自らもその一部であるはずの普遍意識(Universal Consciousness)の存在を全く認めず、無視し、否定するのです。

 エゴを超えて存在するこの大いなる意識と統合できない以上、エゴに対する固執は当然の結果です。もしもこの間違った信念を捨て去ることができれば、“エゴが人間の生命を司る唯一の存在でなくなった瞬間、自己もまた滅びてしまう”などというようにエゴを過大評価することもなくなるはずです。逆に言いますと、エゴとしか自己同一化できないと、普遍意識という大いなる存在と一つになることも、自らの内にある様々な感情と同一化することもできません。なぜなら、この二つは同時に起きることだからです。個々の内に自発的に沸き上がる様々な感情を直に経験することは、生命存在に関する普遍の真実の一つの現れです。そして、これと同じように、エゴ意識を越えて拡張する“あなた”という全存在と一つになれたときに内側に自動的に流れ込んで来るガイダンス、インスピレーション、知識を経験することもまた、この普遍の真実の表現形態の一つなのです。

 あなた方の内にある、固く自らを閉ざしたエゴ構造は次のように言います。「大事なのは自分のエゴの世界だけ。それが私にとっての全て。だから手放すなんて絶対にできない。そうするくらいなら、ここにいないほうがまし」と。そして、このような姿勢を貫いている限り、喜びを手に入れることは絶対にできません。なぜなら、本当の完全な喜びを経験できるかどうかは、エゴが自らを手放し、こころと身体の内に存在している大きな力に、“あなた”という存在を遥かに越えた偉大な力に完全に身を委ね、その流れに沿って生きることを認められるかどうかにかかっているからです。

 「私はお前より優れている」− あなた方のプライドがそう言うとき、それは実は、常に人を出し抜こうとする態度や孤立といった、“愛”とは正反対の位置に皆さんが置かれていることを意味しています。また、プライドは次のような形でその姿を現すこともあります。「私は駄目な人間。何の価値もない。存在する意味すらない。だけど、それは隠して置かないと。そうじゃない振りをしなくては」などと言うわけです。もちろん、こうした考えが表面に明確に現れることはありませんが、すべてが無意識下に留まっている、というわけでもありません。歪んだプライドは健全な威厳の正反対に位置するものです。このようなプライドは、自己と他者を常に比較して値踏みばかりをするため、永遠に幻想の世界から抜け出すことができません。と申しますのも、このようなことをしていても、一人の人間の価値を真の意味で評価することは絶対にできないからです。プライドは、決して到達することのない幻のゴールを永久に追い求めます。そのために、人はただただ疲弊し、すり減り、フラストレーションだけが溜まって行きます。そして、他者との距離はさらに広がり、愛することがますます難しくなります。その結果、さらに多くの喜びがその人から奪われてしまうのです。

 自分が他者よりも優れていると考えていても、“自分には価値が無い”という感情を隠すために演技を続けていても、どちらでも結果は同じです。このような姿勢を保っている限り、愛を作り出すことは絶対にできません。そして、このような愛の無い状態の中では、真の喜びに気づけるはずもないのです。愛とは、皆さんから何かを奪うための指令ではありません。愛は、人間の態度の中でも最も自己を中心に置いたものと言えます。なぜなら、愛はあらゆる喜びの中でも最大のもの、つまり、精神面や感情面はもちろん、肉体面にも素晴らしい喜びをもたらしてくれるからです。愛があるだけで、人は素晴らしいと感じることができます。愛は人を大きく開かせます。そして、愛によって自らを大きく開いた人は、平和、安心、活気、興奮、刺激、圧倒的な自信といった状態の中で、流れにゆったりと身を任せ、脈動を続けます。愛の状態にある人は、内的存在と外的部分 − つまりこころと身体のいずれもが優しく満たされている、と感じます。ところが、プライドというエゴの状態に置かれている人は間違いなく、緊張、不安、収縮の状態にいます。真にリラックスした状態にあるとき、人は自らを偽ることができませんが、これに対して、プライドは常に演技することを自らに要求し、何かの素振りへと人を導くのです。そして、この完全にリラックスし、一切の葛藤から解放され、何の演技もしていない状態こそが、真の喜びに至るために絶対に欠かせない条件なのです。

 恐怖とは完全なる収縮です。恐怖は、他者や自己はもちろん、この宇宙も含めて、一切のものを信じることができません。だからこそ、恐怖の状態にある自己は自らを手放せないのです。自己意志、プライド、恐怖にしばられたエゴにしがみついている間は、喜びに気づくことはできません。ネガティヴな創造物から離れられない限りは、そして、自分の中にあるネガティヴィティを否定し続け、その存在に無知なまま葛藤を続けている間は、喜びに気づくことはできないのです。このような人は、自分自身がなぜ苦しめられているのか、その困難の本質さえさえ知りません。この人の自己は、何かを望むと同時にそれを恐れるという葛藤の中から抜け出すことができません。この葛藤に無自覚でいると、そこからフラストレーションや不満足感が生じ、自らの欠乏感を他者のせいにしてこれを非難するようになります。すると、ここから憎悪、怒り、反抗、敵意などがさらに発生し、その結果として訪れる混乱は、その人のこころを激しく苦しめることになるのです。

 先ほども申し上げました通り、皆さんが深く切望する“喜びに対する気づき”は、このような破壊的態度をすべて手放すことによって生まれます。言い換えますと、「喜びを経験するには内面が完全にリラックスした状態でなければならない」ということになります。ただし、この“リラックスした状態”が意味するのは、常に受け身でやる気がない状態、感覚を麻痺させた状態、だらだらとした惰性の状態、といったことではありません。真にリラックスした状態とは、調和が常に保たれた一定の動きを指します。つまり、宇宙の動きのことです。ですから、真に自由になり、喜びと一つになれた人は皆、宇宙を満たす脈動のリズムを感じ、それと調和することができるのです。

 この大宇宙を満たす喜びのリズムと全く同じものが、個々の人間の内なる小宇宙の中にもあります。喜びのリズムは、個々の内なる宇宙のリズムとしっかりと調和することを求めます。大宇宙の喜びのリズムは個々のこころの動きに従います。様々な歪みではなく、大宇宙の動きを反映しているのです。このリズムと調和するためには、こころの中全体を穏やかにする必要があります。激しい思いや感情を全て鎮めねばなりません。内面の中を吹き荒れる嵐を静かにするわけです。すると、それまでの激しさとは違う種類の動きがこころの内に現れ、その存在を外に知らしめます。それは、外的な意味では能動的でも受動的でもありません。それは、最大の喜びをもたらすリズムの内なる活動 − そこには静けさを受け入れる能力が伴います − と、外的には動きのない状態とを結びつけるものです。この受容力は“動き”と相反するのではなく、動きの一部としてその中に本質的に備わっています。エゴレベルではぶつかり合っているように見えるものも、別の波長においては一つになるのです。この状態に至れば、自己と他者とを分けることも、自己に対する葛藤も起こり得ません。自らに無理強いをしたり、緊張して何かを必死に求めたりすることもなくなります。この状態では、時間が人に危害を加えることもありません。なぜなら、そこには時間という概念そのものが無いからです。そして、今、ご自分の身体の中に居るあなた方にもこの状態を経験することができるのです。

 もちろん、この状態の中に常に居ることはできません。ですが、何度でも繰り返しこの状態を手に入れることはできます。そして、これを経験する度に人はますます強くなり、統合した完全な人間に近づきます。この時、その人のエゴは決して損なわれることなく、完全な状態のまま、より大きな自己と一つになって行くのです。進化、成長、自己開発を続けるに従い、この状態に気づく機会も増えます。この状態は、誰かと愛によって結ばれているときに最もはっきりと、そして大変に意義深いものとして経験することができますが、そうでない時でも、普遍意識(Universal Consciousness)を持ちながら生き、動き、その大いなる意識の中に自らの存在を感じていれば、自分の全行動の中に、自分という存在自体の中にこの状態が存在していることに気づくことができるはずです。

 ある時、どのような状態に置かれたとしても、たとえそれがどれほど不快なものであっても、人は一瞬にしてそれを超越することができます。その瞬間、自らの置かれた不快な状態から逃げず、自身の内面に奥深く入り込み、自分自身をしっかりと見つめ、奥深くへと掘り下げて行けば、この不快な瞬間自体が究極の状態そのもの、つまり至上の喜びへと姿を変えるに違いありません。

 自分というものを“分離”という視点で見ている人には、これは簡単なことではありません。私が本日申し上げた様々な状態や真実の幾つかを経験したことがある人でも、それは同じです。分離している状態に置かれた人の場合、自分自身の奥深くに入り込むには、自己を鍛練するための、そして自己と向き合うための正しい方法を模索し、真実を見つめ、内なる破壊性を変えるために自分の中にある“善い意志”(goodwill)を呼び起こすことが求められます。また、悪しきものを辛抱強く手放し続け、善いものの訪れを信じ、それを我慢強く待ち続けることも必要となります。葛藤すること、そして葛藤しないことについての正しい答えと態度を探し、それを適切な方法、適切な形で見出すことがどうしても必要なのです。このとき、「この前はこのような心の状態だった」などというように、それまでに経験した類似の状態を思い出してみても、ほとんど役には立ちません。と申しますのも、真実とはその都度新たに捉え直すべきものだからです。そのような記憶が役に立つのは、“この前、自分は確かに真実を手に入れることができた。あれは幻ではなかった”、というように、自分自身に対して確認をするときだけです。もちろん、ご自分の置かれている“今”を超越し、内なる小宇宙のリズムと一つになることは決して容易いことではありません。ですが、この試みを繰り返せば繰り返すほど、上手く行く回数もそれだけ増え、最終的には、宇宙のリズムと一体化しているのが普段のこころの状態で、分離している方が例外的、という地点にまで到達することができます。そうすれば、たとえ困難な時が訪れても、それは内なる中心、つまり至上の喜びの存在する領域へと皆さんを導いてくれるもの、として役立ってくれるようになる機会がますます増えて行くはずです。

 すると、それぞれが直面する“困難な時”は、個々の奥深くで一切の邪魔を受けず静かに存在している真の喜びの状態を人間としての全レベルで受け入れる準備を整えさせてくれる、いわば触媒的な働きをするようになります。自分自身の誤解や破壊性を通じて自らが作ってしまった痛みを受け入れるのです。身を縮めて隠れたり、そこから逃げ出したりするのではなく、その痛みを深く掘り下げてください。様々な言いわけを口実にし、色々なネガティヴィティに頼り、種々のゲームに興じ、役割を演じ、偽りの姿を身にまといながらその痛みに抵抗するのではなく、痛みをそっと抱き締めてあげてください。自分自身を真に見つめるのです。そうしていれば、喜びを手に入れることも、喜びの状態にいることもやがては可能となり、その可能性はどこまでも永遠に膨らんでいくことでしょう。そして最後には、皆さん自身が喜びの状態に欠かすことのできない大切な存在となります。それこそが最終的に目指すところでなければならないのです。

 喜びとは、人間と霊がそれぞれ、そして同時に目指すべき究極のゴールです。そしてまた、喜びは全てのものを治癒する唯一の媒介でもあります。喜びが無ければ何も癒すことはできないのです。

 これで、大変で面倒な歩み(パス)を、ただ単に嫌だからという理由で避けてはいけないということが、さらにはっきりとお分かりになってきたことと思います。皆さんが踏み出す一歩一歩は、それ自体で最も喜ばしいものなのです。その理由は、小さな一歩が究極的には大いなる解放をもたらすことになるから、というだけではありません。葛藤を続けている間でも、小さな勝利を重ねる度に困難な歩みは皆さんの元に様々な祝福をもたらしてもくれるからです。その祝福の大きさや深さは、皆さんがご自身の中にある抵抗をどれだけ乗り越えることができるか、その能力の大きさをそのまま反映するのです。

 皆さんが生まれ持った権利である祝福の中に包まれてください。それこそが、全人類が従うべき究極の運命の姿なのです。恐れるものは何もありません。この真実に気づいてください。全てのものに神の恵みがありますように。


###


以下の注記は、Pathwork®の名称およびこのレクチャー資料の使用法を示したものです。Pathwork®の商標/サービスマークは、The Pathwork Foundation(パスワーク・ファウンデーション)によって所有され登録されており、The Pathwork Foundationの書面による許諾なく使用することはできません。The Pathwork Foundationは、その単独裁量権において、Pathwork®の商標を、協力団体やその支部のような他の組織および個人による使用を許可します。

著作権にかかる規定
Pathworkのガイドの著作物は、The Pathwork Foundationの所有資産です。このレクチャーは、The Pathwork Foundationの商標、サービスマークおよび著作権ポリシーに準拠して複製され、いかなる方法においても変更または省略することはできません。また、著作権、商標、サービスマークおよびその他あらゆる公示の削除は許可されません。
レクチャーを提供される側は、複製と配布のための費用のみを支払うこととします。The Pathwork Foundationのサービスマークまたは著作権で保護された資料を使用する任意の個人や組織は、The Pathwork Foundationの商標、サービスマークおよび著作権ポリシーを遵守することに同意したものとみなされます。これに関する情報またはこのポリシーを入手するには、The Pathwork Foundationにご連絡ください。Pathworkという名称の使用は、The Pathwork Foundationによって承認される変容のプログラムを修了したファシリテーターとヘルパーにのみ許可されています。

日本語版の取り扱いについて
Pathwork in Japan (パスワーク・イン・ジャパン) の許可なしに、無断でコピー(複製)、貸与、頒布、販売することを固く禁じます。また、文書およびインターネット上(ウェブ、メール)での引用・転載を含む公開も禁止します。

また、本レクチャーの受領者は、英語版から日本語版を作成する際に発生する複製・配布・翻訳などにかかる費用をご負担いただきます。

さらなる情報やPathworkへの参加については、Pathwork in Japanにお問合せください。
ウェブサイト:www.pathworkinjapan.com
お問合せ先 :pathworkinjapan@gmail.com

※ガイドレクチャーに関するお問合せはメールで承っております。下記メールアドレスまでお願いいたします。
pathworkinjapan@gmail.com

© Pathwork in Japan All Rights Reserved.

bottom of page